「アニミズム」を含む日記 RSS

はてなキーワード: アニミズムとは

2024-02-15

ワイは何故生きているのか?

増田で死と神の話題が出て風呂入りながら考えたんだけどね

https://anond.hatelabo.jp/20240214185555

↑ この増田信仰があれば死ぬの怖く無いは同意できないが。中世でも現代でも、割と宗教関係者は生き汚かったり死ぬの怖いって言ってるので、信仰というよりも洗脳の類いであろう

 

まず、大前提としてワイは神を信じている

と言っても、3大宗教信徒でも、教典のある宗教信仰しているわけでもなく、八百万日本的アニミズム文脈のおれおれ宗教観を持っている

おれおれ宗教観なので軽く説明すると、

 

で、神を持つワイくんが何故死ぬのが嫌なのか、生きていたいのかというとこんな感じ

  • いちばん理由は、痛い・苦しいのは嫌だから死にたくない、なお、痛い・苦しいのが嫌ってだけなら、痛い・苦しくなきゃ死んでもいいの?というと下記に書いている通り、全然そんなことはない
  • 世界関係が完全に絶たれるのが嫌。遊び足りない。交友し足りない。
    幽霊になって、映画ライブ無料で見放題とか、パソコン自由にし放題とか、人とコンタクト可能とかなら、痛い・苦しくなければ死が怖くなくなるかもしれない
  • たまたま生きているのだからたまたま死んでもいいよね〜?・・・みたいな感情には微塵もならないので生きていたい。
    あらゆるものを出し切って勝ち得た生存権ではないが絶対に返却しない。最低でも100年は生きたい。なんなら1000年でも生きたい。しぶとく生き汚くいきたい

anond:20240215004154

2024-01-02

anond:20240102125426

自分以外に感謝する、なにかを願うことは、大事尊いものだけど、

善行信心も"たまたま生きている" 我々のラッキーを補強してくれるものでは無いぞ

どんなに勤勉でめちゃくちゃいい奴でも死ぬ時は理不尽死ぬ

 

あと西洋宗教と違って日本の神は(海外由来の神様であろうが)基本的に運も司っている

日本に限ったことじゃないがアニミズム(自然崇拝)の神はどこも理不尽だぞ

 

出来るのは無事を祈ることくらいですな。あと募金

2023-12-26

anond:20231224205347

自分は「宗教は『まだ必要である」という立場をとる。

非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。

日本人宗教観について

日本人宗教批判は主にオウム神理教創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教やばい」となり、それが「宗教的なものやばい」となっているのではないか。たしか新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会問題がある。

日本人全体で、なんとなく「宗教やばい」というゆるやかな共通認識があると思う。

そこから宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間けが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。

ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力権威金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブ意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教ネガティブな部分についてのものが多いと思われる。

また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか

アイドル文化について

宗教的なものやばいの1つの例でいえば、ガチドルオタキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りから理解不能なのであるアイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。

アイドル推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドル状態を維持可能状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドル存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。

宗教のはじまりについて

宗教のはじまりアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないもの発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。

日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分主観による)。「科学的な権威ありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。

そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。

自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。

宗教果たしてきた役割について

宗教必要かどうかは置いておいて、その発生過程宗教果たしてきた役割は、歴史学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たか宗教とき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である現在の今の自分にとって宗教全然必要でないと感じていたとしても、その自分存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなもの人類の中で大きな役目を持つようになったのか。

真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しか宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。

科学であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか

宗教は実際に無くせるか

また「宗教必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。

実際にとりあえず「宗教必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。

ありとあらゆる宗教的なもの不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。

宗教宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである

科学万能論についての批判

宗教科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。

まり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。

いったいなぜ、科学であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか

そして、自分にとって宗教必要いからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。

科学万能論者の傾向とその批判

それから自分は、ロジカルシンキング科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分ロジカルシンキングのもの科学思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。

彼らは科学論理というアカデミック権威おこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的人間宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。

Vimについて

Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である

もちろんあなたVimを導入しないという選択をとることもできる。

おわりに

こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である生臭坊主と言われる。

自分は、そうした既製品宗教や、新興宗教教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。

宗教おもしろい。とりわけ理系哲学文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。

2023-12-16

救いの前に彼らを迷わせなければならない

バイオ大学での福音学での恩師、カーティスミッチェル博士はよく言っていた。「救いの前に彼らを迷わせなければならない」と。もし人々が自分たち生活に何か深刻に満たされていないものを感じていなければ、新たな信仰を受け入れるとは考えにくいし、まして神や救いを求めようとするはずもない。

ダニエル・L・エヴェレット(著), 屋代通子(翻訳)(2012年)『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化世界観』(みすず書房pp.369

 キリスト教宣教師によって世界各地に伝播していく仕組みはこれだったのか。ローマエルサレムとははるか遠くに離れたアジア南米にまでキリスト教が広まっているのが不思議だったけれども。キリスト教には原罪というすべての人類に押しつけがましく罪悪感を植え付ける思想があって、個人的には気に食わなかったけど、宣教にはうってつけの手法だったのか。

 著者のエヴェレット博士は、SILという米国キリスト教宣教師組織の一員として聖書ピダハン語に翻訳して宣教するために、ブラジルアマゾン少数民族ピダハン集落へと妻子と共に赴いた。著書によると、聖書翻訳してピダハン理解させることはできたが、キリスト教信仰を受け入れさせることはできなかった。

 ピダハン特別宗教信仰しておらず、実際に見聞きした物事しか信用しない。あえて何らかの信仰があるとすればアニミズム信仰であり、あらゆる物に精霊が宿っていると考えている。さらには自らが精霊になったりもする。故人に変装して土葬されたとき気持ちトランス状態で語ったり、精霊の名のもとに自らの雄弁さや教訓を語ったりといった具合にだ。日本で言うところのイタコ芸かと私は思った。ピダハンにとって精霊は、実際に見聞きできるものなのだ

 ピダハンにとってイエス・キリストは実際に見聞きをすることのできない存在なので信仰対象たり得なかったのだ。翻訳された聖書の音声レコードを聞いて文化の違いに笑ったりもするが、聖書エンタメしか理解されなかったようだ。洗礼者ヨハネが首をはねられる場面を楽しみながら何度も聞いたという具合にだ。エヴェレット博士宣教師だが、同時に言語学者として大学での研究も並行していた。実証されたこしか信じないピダハンの態度を目の当たりにして、エヴェレット博士科学者としての自らの論理的思考の結果から信仰に疑問を持って無神論者になったという。

 聖書アニミズム信仰者に理解させることができなかったことは、キリスト教宣教師が自らの信仰喪失させるほどのことだったのだろうか。だとしたら、過去世界中にキリスト教宣教できたのはなぜだろうか。やはり、金や暴力といった強制力を働かせなければ宣教は難しいのだろうか。日本に対するキリスト教宣教師がそうだったように。冒頭で引用したように、強制力をもってして迷わせることが、キリスト教宣教による救いを与えるのに必要な前提なのだろう。ジャングルという恵まれ自然に満足して常に笑顔を絶やさなピダハンには、迷う必要そもそもなかったから、キリスト不要だったのだ。

 科学技術の発展にともなう人々の論理力の向上と、金や暴力による強制力忌避する社会的な風潮によって、宗教の力は今後ますます縮小していくことだろう。日本において神道仏教などの宗教の力が人々から薄れていくのと同様の運命を、キリスト教など他の世界的な宗教でも同様にたどっていくことだろう。

2023-12-09

anond:20231208140056

宗教統治者が都合良く民を支配するための仕組みといいたいところだけど、自然信仰とか原始宗教やらアニミズムの類は本物だと思う。

2023-12-05

アニミズム的な見地から見たヴィーガンに興味深い事例が一つ。

X(Twitter)でスーパー精肉売り場の画像に、透明度を上げた動物画像を合わせて、動物の魂が漂っていて云々で食肉を批判しているんだけども。

魂が漂うのであればそれは屠殺された工場なりであって、すでに部位ごとにバラバラになってパック詰めされた精肉に魂が宿っているというのであれば、

それは魂と心の根源が身体の部位そのもの、それぞれが完全な形として宿るっていう発想になるので、一体どういった考えからそういう風に至ったのか知りたかった。

聞いたらブロックされたから未だにどういうなりたちなのかは分からないけど。

2023-07-25

オタクの「幼児趣味+性欲」感がすごく気持ち悪い

ふとオタクのやっていることは幼児の頃から変わらないと思う。例えばアニメ漫画ゲームもみんな子供が好きなことだし、絵や漫画を描くのもクレヨン自由帳に落書きしてる子供の延長線上だ。コスプレプリキュアなりきりセットやライダー変身ベルトみたいなものだし、ネットいくらでも作品を上げられる時代即売会をやってるのだって店屋さんごっこ楽しいからだろう。鉄オタや車オタもトミカ好きの子供だし、ぬい活とかしてるオタクぬいぐるみはまさに子供が好きだ。

人によってはこの時点で無理と思う人もいると思う。

自分場合はただの幼児趣味というだけならあまり引かない。例えば世間結構叩かれてる鉄オタは個人的にそこまで嫌いじゃない。あと特撮好きの男オタクとか純粋可愛い女の子を愛でてる女オタクとか。苦手なのは幼児趣味に性欲がプラスされた場合だ。

例えばプリキュアを見てる男オタクとか、美少女フィギュアやらドール収集したり写真撮影してる男オタクとか、ぬい活で推し(男)を着飾らせたり男キャラぬいぐるみ同士でイチャつかせて写真撮ってる女オタクとか、レジンビーズキャラやカプのイメージアクセ作ってる女オタクとか、イケメンキャラ男装コスプレしてる女オタクとか、逆に美少女キャラ女装コスプレバ美肉してる男オタクとか、うわーってなる。あとウマ娘とかけものフレンズとか刀剣乱舞とか艦これとかアズレンとか萌え擬人化コンテンツは全部無理だ。子供自己中心的であり、物体現象自分のように命のある生き物として扱うことで理解やすくなるらしく、こういうのをアニミズム思考というそうだ。萌え擬人化コンテンツもそれに近いもの美少女イケメンを眺めたいという性欲を感じる。あと女性声優VTuberの高くてハキハキしたいわゆるアニメ声も、うたのおねいさんを彷彿させる。うたのおねいさんをエロ可愛くした感じ。引かない方で上げた特撮オタクとかもこれが特撮二次創作してる腐女子とかだと引くし、女の子を愛でる女オタクもそれをイケメンキャラとくっつけてカプとして楽しんでたら引く。

2023-07-14

雨になることを「下り坂」って呼ぶ天気予報嫌いすぎる 下ってるのはお前の心だろ

別にぽまえら共感しろとは言わんわ センシティブ話題でもあると思うのでどんどん反論くれ

天気予報ってずっと見てると人カス傲慢さに腹立ってくるとこない?

地球様がわざわざ貴重な淡水を人カスのところに降らせて下さっているのに、「下り坂」「どんより」「ななめ」「ぐずついた」あとはシンプル

「「「悪い天気」」」

みたいな言葉で応えているの、不敬罪だろ

アニミズムの国の姿か?これが…………

そらドカ晴れと違ってドカ雨は災害になるよ 洪水人生めちゃくちゃになった友達もいる でもそういう目に遭っていない人間が天候を憎んで何が楽しいの?屋外で出来なきことが増えるから罪のないもの八つ当たり、ガキのやることとしか言いようがない

今日はゆるかな雨です、もうすぐ旬になる野菜たちにとっては嬉しいですね」「今日はしっかりと雨です、大きい傘があるといいですね」「台風がとても近いので、近所の川からは離れましょうね」みたいに喋れ、自然にある程度の敬意やデリカシーを感じて天候を捉えろ

本当そんな言葉遣いでよくSDGsとか口走れるな

もう水不足香川県民がうどんこねられなくなるまで同じことしてろや

風を感じろ どんなに分厚い雲でもうっとりと流れるのが見える

雨粒の大きさを見つめろ 窓の外で震える景色を通して

プラスチックストローを使わないことだけが地球に優しくなることではない 心に雨雲を持て 俺と違って大いなる知恵を持つ者たちよ

雲より

2023-05-24

六尺卑弥呼様【ろくしゃくひみこさま】

六尺卑弥呼様【ろくしゃくひみこさま】

古代九州勢力を誇った邪馬台という豪族の長で、六尺褌をしめたシャーマン女性

アニミズムとは名ばかりの剛腕で敵対部族を征伐した。鍛え上げた手首が醜男の腹より太く、片手で熊の首を引き抜いてみせたという。

さだまさし楽曲松本零士漫画作品など、伝説的な肉体をもつ彼女を題材にした創作は多い。

2023-03-31

ワイ無神論者自分の死後の死体の処理にこだわってる人みたいになりたくない

気分としては絶対宗教になんて負けたりしない!!って感じでもうツッコミ待ちみたいな状態なんだ。

なんかもう死んだ後のアレコレにこだわった時点で宗教感でちゃうからこだわったら負けの世界

検体に出すのは確定してるけどその後どうやるかなんだよ。

焼いて骨にするとこまではまあ法的にもそうだし腐って衛生上問題になるのもアレだからそこはまあそうなるでしょうねという感じ(当然にそうなる。こだわってない。こだわってないぞ?)

無宗教の人はその後海に撒くみたいのをよく聞くけど海に撒くって……ねえw。アンタもうそアニミズムから宗教宗教!!

やっぱ可燃ごみとかで捨ててもらうのが一番しっくりくる(だってケンタッキー・フライド・チキンもそうだろ?)んだけどそれをわざわざ頼むのもなんか宗教……って感じするし。

あと人骨をゴミで捨てたらなんかの法律にひっかかりそうな気もするし面倒だよなあ。いやもう死後のことについての心配をしてる時点で若干負けてる気がするんだよなあ。

あとよう考えたら検体で医療に役立ててもらうってのもなんか宗教献身的臭いちょっとしてきたし……

2023-02-20

anond:20230220171616

イスラム神話世界観みたいなのは旧約・新約をそのまま継承したようなもんだからなあ

アニミズム的な土着信仰は一部取り込んだけど

2023-02-16

「『午後の紅茶』を午前に飲む奴はおかしい」とのたまう奴が居たので、詭弁を交えて反論しといた

アニミズム的に考えると、「午後の紅茶」にも人間のように、人格のようなもの存在すると想定してもおかしくはない。

そうだとすれば、「午後の紅茶」も人間のような考え方をしたりするはずで、

例えば、自己実現への意志、つまり自己顕示欲みたいなものがあったとしても、おかしくはないと思う。

それならば、「午後の紅茶」は自身もっと目立たせたいと思うはずだ。自己拡張を目指すはずだ。

もっと言うなら、「午後の紅茶」は、より上位の概念に成り代わろうとすることもあるはずなのだ

そこで、「午後の紅茶」の上位概念とは何なのかと考える。

包含関係考慮すれば、それはきっと、単なる「紅茶」であろう。

まり、「午後の紅茶」は、現在知られている「紅茶」という存在に成り代わって、新たな「紅茶」という存在になれたのなら、

午後の紅茶」は今よりも、より広い概念包含することができ、自己拡張は果たされることとなる。

それじゃあ、「午後の紅茶」と「紅茶」の違いは何だろうか。

それは、名称差分が示す通り、午後にだけ飲まれるか否かということである

それならば、「午後の紅茶」は人間のような自己顕示の一環として、午後以外の時間にも飲まれるよう努力するのではないか

まり、午前の時間帯にも飲まれるよう、その香り、その風味、その色合いを変容させうるのではないか

から、人々が「午後の紅茶」を午前に飲むという行為は、人々の意志だけで行われるものではなく、「午後の紅茶自身努力の賜物だとも言えるのだ!

これは非常に重要事実だ。

ここを見落としているから、「『午後の紅茶』を午前に飲む奴はおかしい」なんていう勘違いを起こしてしまうのだ。

人々が「午後の紅茶」を午前に飲んでしまうのは、単に、その人々が「午後の」という形容詞無視しているからではない。

それはむしろ、「午後の紅茶自身自己拡張を目指し、自己変革を遂げた結果である

その努力により、人々はそういう行動を取っているというだけで、だから、そういう人々には「おかしい」と責められるいわれは無いはずなのだ

まり、人々の意志というより、「午後の紅茶」の意志こそが、そういう行動を実現させているのだ。

それゆえ私は、そうした人々を「おかしい」などと糾弾するつもりはなく、むしろ、「午後の紅茶」の努力の結果が実を結んだことを寿ぐべきと思う。

午後の紅茶」が、上位概念である紅茶」に近づいたことに、私たちは喜びをもって、その新たな美味しさを心地よく飲み干すべきではないのか。

まあ、なんにしても、「午後の紅茶」は美味しいだろう。私はやはりミルクティーが好きだ。

それを午前に飲みたくなる魅力が「午後の紅茶」に備わったとして、何の問題も無いだろう。

から、私はそれを「おかしい」などと思わない。

しろ、「おいしい」と思う。それは「午後の紅茶」の努力の結果であり、喜ばしいことなのだ。

午前に飲める「午後の紅茶」は、「午後の紅茶」が持つ新たな価値観なのだ

2023-02-15

それは、物体に籠もる霊体がそうさせているのだろう

アミニズムなのか、アニミズムなのか、たまにわからなくなる。

2022-11-24

anond:20221124175941

増田20221124103115は政治面経済面保守革新を書いたが、宗教面の保守革新ももちろんあるわけだ

人間世界の話なので、軸は直交してなくて、なんだかんだ関連してるのだけど)

日本人日常的には特定宗教施設に通ったりしないけど行動原理宗教的だし各種宗教イベント大事にする、みたいな自覚のない信仰みたいな感じがあって

日本人宗教観はアニミズム的という説もあったりするし(おおもとの神道結構そんな感じ)

日本文化宗教心が混然一体になってる人には、「日本という宗教」をかたく信じてるみたいな人もいて、

なにかと反日反日って言っちゃう人はそういう意味宗教右派なんだろうなと思ったり。

2022-11-02

anond:20221102063402

悪気はないみたいだからもう少し書いておくと、

人間に害をなすオバケでも、

 

A:物理的に干渉できそうなやつ

例:いわゆるクリーチャーゾンビ、聖なる力とやらで物理ダメージが入りそうな悪霊

 

B: 物理的に干渉できなさそうなやつ

例:心霊スポット事故物件呪い祟り怨霊神罰

 

 

Aは怖いけどBは怖くないって人がいる。理屈に合わないからだ

(あらゆるところで人間は死んでいるのであらゆる場所心霊スポットになる→実害を被った事がないので安心という判断)

 

ワイはAは怖くない(物理的に対処出来るから)が、Bはめちゃくちゃ怖い(物理的に対処出来ないから)

これも危機回避能力想像力一種みたいだけど(とりあえず何でも警戒する)、

たぶんアニミズム的なやつじゃないかな、未知のものうんたらかんたらみたいな

2022-08-13

anond:20220813092229

なるほどな

仏教やら神道やら、そんなものは後の時代に成立した、人間恣意的宗教に過ぎない

日本人ならアニミズム回帰して、その辺の大木とかでけー岩を崇めるのが筋ってもんか

2022-07-23

もうアニミズムしかいね

一神教という考え方がトップダウンという枠組みを作り出し金を巻き上げる構図を作る

アニミズム以外憲法で禁じろ

2021-12-24

anond:20211223171928

自分はたぶんどっちかというと死刑廃止派で、だけど自分の大切な人がむごい殺され方したら「犯人を殺したい」と思うはず、という人間です。


日本における死刑議論において、当然のように前提となっているのが「司法復讐の代行機関(たるべし)」という考え方です。


しかにそうであれば胸がスカッとするかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?


結論から言うと、歴史的経緯からは「NO」です。このあたりの話はこちらのエントリがよくまとまっているので、一度読んでみてはどうでしょうか。

https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20071206/p1

https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080707/p2

https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080816/p1


もう一つは、西洋における死刑歴史を紐解かなければいけません。


西洋に限らず、アニミズムに端を発する文化圏ではしばしば生贄という慣習がありました。

これは自然や不運という「命を奪いに来る制御しがたいもの」に対し、あらかじめ命をささげておくことでそれを鎮めるという狙いがありました。

なので、何らかの理由を持って定期的に人を殺害するというのは文化的には自然なことであり、その標的となるのは罪人や余所者であることが多いのも納得しやすいでしょう。


また西洋における近代法人権の考え方として、国家権力というもの暴走し、それを個人市民)がけん制しなければならないというものが基礎としてあります

フランス人権宣言以降、西洋の法というのは個人を縛るものであると同時に国家を縛るものでもあります


よって、西洋諸国家には国家あくまで法に則して虐殺恣意的死刑執行した歴史があり、その反省として死刑廃止トレンドになっているという経緯があります

日本でもたまに、政府高官不審死することがあるでしょう。あれも広義の国家権力暴走による死刑です。

冤罪だったらどうする」論もこの辺に含まれものと考えていいでしょう。つまり裁く側の権力が間違ってたらどうする?って話なわけです。


ここで困るのは、そうした西洋近代法の成立に通底する思想と、天下り的にそれを”輸入”した日本人の仇討ち感覚との間で、死刑けが異質なものとして浮き上がってしまっているのです。

刑法論には「応報刑論」と「目的刑論」というものがあり、簡単に言えば「刑罰犯人に同じだけの苦痛や損害を与える」というのが応報刑論で「刑罰でその犯罪を思いとどまらせる」というのが目的刑論です。


例えば次のような命題がそろっているなら、論理的に考えて死刑廃止に賛成する人がいてもおかしくないはずです。

・「司法歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない」

・「法律Hackして悪さをする権力者が出るかもしれない」

・「死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない」(目的刑論)


しかしこれは日本では受け入れられないでしょう。

司法歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない

 ⇒知らねーよ輸入したんだからこちとら150年前まで仇討ちやってたんだよ。

法律Hackして悪さをする権力者が出るかもしれない

 ⇒法律って市民が悪いことしないようにするもんじゃないの?

死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない

 ⇒でも犯人殺してすっきりしたいじゃん?(応報刑絶対正しいマン


これは日本人が法律に疎いと言っているのではないですよ。

日本には死刑廃止に至る十分なロジックがないということなのです。


私も親や配偶者子供を殺されたりレイプされたら、それ以上の苦痛を与えてやりたいと思う程度には俗な人間ですが、でもそれって俺の感情であって司法のあるべき姿とは限んないよな~とも思います

光市母子殺害事件なんかで遺族の男性が会見している風景テレビでよく見ていました。

非常に痛ましい事件ですが、あのあたりから「遺族の感情司法に反映すべき」みたいな意見が増えて、なんかモヤっとしていました。

そして裁判員制度までもを輸入した日本ですが、上のような議論を経ずに来ているので変なことになっているなと思います


「うるせぇ、俺は加害者殺して気持ちよくなるんじゃ!」とクールジャパン法整備をしてもそれはそれで結構なんですが、外国から「お前の国って法学無くなったん?w」って笑われるのがオチだと思います

2021-10-26

anond:20211026020039

でも向こうが勝つための戦略としてはそれが正しいよな

しろアニミズム社会性善説的で悪意を想像する能力が足りんところが資本主義社会と相性悪過ぎるのがあかん

2021-07-21

城門仁「うほ、アニミズム

城門仁「竪穴とかダッサ、高床に引越せよ」

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん