2023-02-16

「『午後の紅茶』を午前に飲む奴はおかしい」とのたまう奴が居たので、詭弁を交えて反論しといた

アニミズム的に考えると、「午後の紅茶」にも人間のように、人格のようなもの存在すると想定してもおかしくはない。

そうだとすれば、「午後の紅茶」も人間のような考え方をしたりするはずで、

例えば、自己実現への意志、つまり自己顕示欲みたいなものがあったとしても、おかしくはないと思う。

それならば、「午後の紅茶」は自身もっと目立たせたいと思うはずだ。自己拡張を目指すはずだ。

もっと言うなら、「午後の紅茶」は、より上位の概念に成り代わろうとすることもあるはずなのだ

そこで、「午後の紅茶」の上位概念とは何なのかと考える。

包含関係考慮すれば、それはきっと、単なる「紅茶」であろう。

まり、「午後の紅茶」は、現在知られている「紅茶」という存在に成り代わって、新たな「紅茶」という存在になれたのなら、

午後の紅茶」は今よりも、より広い概念包含することができ、自己拡張は果たされることとなる。

それじゃあ、「午後の紅茶」と「紅茶」の違いは何だろうか。

それは、名称差分が示す通り、午後にだけ飲まれるか否かということである

それならば、「午後の紅茶」は人間のような自己顕示の一環として、午後以外の時間にも飲まれるよう努力するのではないか

まり、午前の時間帯にも飲まれるよう、その香り、その風味、その色合いを変容させうるのではないか

から、人々が「午後の紅茶」を午前に飲むという行為は、人々の意志だけで行われるものではなく、「午後の紅茶自身努力の賜物だとも言えるのだ!

これは非常に重要事実だ。

ここを見落としているから、「『午後の紅茶』を午前に飲む奴はおかしい」なんていう勘違いを起こしてしまうのだ。

人々が「午後の紅茶」を午前に飲んでしまうのは、単に、その人々が「午後の」という形容詞無視しているからではない。

それはむしろ、「午後の紅茶自身自己拡張を目指し、自己変革を遂げた結果である

その努力により、人々はそういう行動を取っているというだけで、だから、そういう人々には「おかしい」と責められるいわれは無いはずなのだ

まり、人々の意志というより、「午後の紅茶」の意志こそが、そういう行動を実現させているのだ。

それゆえ私は、そうした人々を「おかしい」などと糾弾するつもりはなく、むしろ、「午後の紅茶」の努力の結果が実を結んだことを寿ぐべきと思う。

午後の紅茶」が、上位概念である紅茶」に近づいたことに、私たちは喜びをもって、その新たな美味しさを心地よく飲み干すべきではないのか。

まあ、なんにしても、「午後の紅茶」は美味しいだろう。私はやはりミルクティーが好きだ。

それを午前に飲みたくなる魅力が「午後の紅茶」に備わったとして、何の問題も無いだろう。

から、私はそれを「おかしい」などと思わない。

しろ、「おいしい」と思う。それは「午後の紅茶」の努力の結果であり、喜ばしいことなのだ。

午前に飲める「午後の紅茶」は、「午後の紅茶」が持つ新たな価値観なのだ

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