はてなキーワード: 道標とは
自分の根源的な快楽を禁じて、信仰の強さを我慢することで実感するのが喜びって言うマゾ性と、
その教義や倫理の名のもとに他者を容赦なく裁くっていうサド性が両方強い。
このサド嗜好とマゾ嗜好は、結局正義への偏愛ってことにまとめられるのかもしれない。
あいつら正義っていう旗印が大好きすぎて、潰れそうになりながら旗印を支えることも、その旗印で他人を完膚なきまでに叩きのめすことも異常に好んでる。
なんでそんなに正義を求め、その元に集い、その名のもとに行動したがるのかはわからんけど……。
ありがちな考察だと、過剰に正義たらんとするのは、劣等感や不安が強いことの裏返しである、つまり劣等感が強いから正義の一員になることでマトモな自分というのを得たくなるし、不安が強いから正義という確固とした道標に従いたくなる、なんてのは言えるかなあ。
http://anond.hatelabo.jp/20151120141725 の後日のこと
俺「こんばんは」
妻元彼「あそこにハヤブサがいる」
彼は5階建てのビルの屋上を指差した。見上げると、なるほど屋上の角に大型の鳥のようなシルエットが見えた。
俺「例のハヤブサか」
妻元彼「道標をくれた」
彼は手の中にあった綿毛のようなものを俺に見せた。
俺「ハヤブサの羽毛か?」
妻元彼「水鳥のフェザーだ。獲物の残骸だ。そこの駐車場で見つけて、見上げたら、いた。」
妻元彼「昼にはハヤブサの近くに若いカラスがいた。互いに攻撃する素振りもない。他のカラスもあいつを恐れなくなった」
妻元彼「合理性ばかりでもない。あいつはセキレイを襲わないし、セキレイもあいつを恐れない。他の小鳥は容赦なく狩るのに」
俺「奇妙な選別だ」
妻元彼「君主のエゴだ。奇妙といえば、ムクドリが1羽きりでハヤブサを必死で攻撃するのを見た。群れるのが大好きなあのムクドリが。あいつの周りでは皆おかしくなる。」
妻元彼「飛んだ」
見ると屋上にいた影は消えていた。
妻元彼「ここらのコウモリは狩り尽くされた」
いつから彼は見ていたのだろう。
俺「俺はもう帰る。妻に会っていかないか?」
妻元彼「ここに残る。狩りの結果を見届ける」
20歳の頃、黒い服ばかり着ていた。
モノトーンのファッションが流行していたこともあって、黒い服は無難な選択だった。
黒を中心にグレー、白などをあわせて少しおしゃれな大学生を気取っていた。
そんなある日、確か雑誌の表紙だったと思うが、全身黒い服をまとった緒方拳さんの姿を目にした。
黒で統一しながらも、質感の違う黒を見事に組み合わせて着こなす、その姿に私は釘付けになった。
当時、緒方さんは60歳くらいだっただろうか。髪は全体的に白くなっていたが、経験と自信とほんの少しの茶目っ気を感じさせる彼の魅力を最大限に引き出しているのは間違いなくこの黒い服だった。
これだ、と思った。
これこそが自分の目指すべきスタイルだと、私は天啓に打たれたような気持ちになった。
と、同時に思った。
これからずっと死ぬまで黒い服を着続けるのだろうか。それはそれで何かつまらない。
そうだ、黒い服は自分の中の北極星にしておこう。昔の船乗りが道標としたように、自分も道に迷ったときはこの黒い服を思い出したらいい。そして年齢を重ねた頃に戻ってくればいいのだ。
こう考えると、今、黒い服を着ていることがなにやらもったいないようなことをしている気持ちになってきた。どうせいつかは黒い服を着るのだから、今は様々な色合いの服を着たほうがいい。
こうして、私のクローゼットにはベージュやカーキや紺の服が徐々に増えていった。一方、黒い服はどんどん減っていき、やがて一枚もなくなった。
今、私のクローゼットは赤や緑や黄色の服で溢れ返っている。先日は赤地に白のストライプのスキニーパンツを古着屋で買ってしまった。
夜空を見上げても星の姿はどこにもない。
目に入るのは色とりどりのネオンと
HTML5がやっと勧告とか良く分からない言葉になったが、ちゃんと現状を認識しておこう。
そもそも、HTML5の目的は、新しいHTMLなんかじゃない。
正確には、新しいHTMLなるための道標だったのだ。(過去形)
君たちは、window.alertという関数を知っているだろうか。
え?と思うかもしれない。でも、これこそがHTML5の役割だった。
ドキュメントにalertなんて在るはるがないのだ。
そうやってHTMLは分断されていた。
HTMLというドキュメントを操作するAPIとしてDOM。そして、それ以外のAPIは黙殺。
XHTML1.xでも、それは繰り返された。
XHTML2.0が失敗したのは当然ともいえる。分断されたままアプリケーションに拡張しようとしたのだ。
現状を省みずに、ただ夢を追った。
既にHTMLはドキュメントではなくアプリケーションであると。
アプリケーションとして見たHTMLには、windowというオブジェクトが存在している。
次に進むのに必要なのは新しい夢などではなく、現状の再認識だ。
そう、それがW3Cに採用され、君たちの知っているHTML5になった。
「HTMLからバージョンを消すことです。バージョニングなんて考えは古い。HTMLは常に更新されるものです。」
彼らはそう語っていた。
window.alertがクロスブラウザで使える。それがHTML5だった。
君たちは、気付いてるだろうか。
以前よりもクロスブラウザで悩まされることが減ったことに。
だが、それでも道を踏み外した。
また夢を盛り込もうとした。アプリケーションならアプリケーションなら。
新しいアプリケーションプラットフォームという肥料でまるまると太った豚になった。
豚は、そのままでは動かなかった。
「HTML5.1です。」
HTML5は、終わった。
お前の意見はあくまでもお前の立場や視点から出た一方的なものでしかないから、自分に対しては甘く見て、相手に対しては厳しく見る。
だからそんなことで優越感を覚えるのは間違いだよ。
まあ、お前の言葉を借りるなら。向こうもこんな風に思ってるよ。
俺の高校の野球部は別に強くない。しかし数ある部活の中でも本気で活動していたほうだと思う。
俺はこの夏で野球部を引退し、大学受験のために塾に通い始める。
入塾にあたって面談の為に塾を訪れることとなった。
簡単なあいさつがあって、そこからは塾長と俺による面談が続く。
得意科目や苦手科目、普段の勉強についてや部活のことなど、なんてことない普通の面談だ。
それに対して俺は「はい!」「はい!」と元気よく返事していたが、具体的な事は何も答えられなかった。
「じゃあなりたい職業は?」「うーん、無いですねえ」
もちろん、高校の3年間を部活に捧げることはすばらしいことだ。
何かに懸命に取り組むのは良いことだし、青春に飢えた大人たちも多くその行いを賞賛する。
しかし、だからといってそこから引退してしまったら何も残らない、というのは間違いである。
夢も目標もそこから前に進むための道標となるものは何も無いが、少なくともオレには、三年間を部活に捧げた実績、そしてそれをやり抜いた成功体験がある。
体育会系で育った人は「彼らには日々のキツい練習で鍛えた精神力がある」なんて事を口にするけど、
後に残るものはそれだけだ。そして、それだけで十分なのである。
オレは体育会系だった。活動の中で将来やりたいことも見つからなかったし、今何をすべきかもわかっていない。
文化部の連中のことはよくわからないが、少なくともオレには進路や将来のことを知ったかぶりしているだけのようにしか見えなかった。
部活から得られるものは様々だと思うが、一つのことに熱中しすぎること、それだけで得られるものもあるのだ。
どれだけ野球を頑張っていたとしても、大学受験では大した利点にはならない。
彼らを賞賛する人は多いが、その後は誰も彼らを救ってはくれない。なんだかかわいそうだ……という、意見もあるだろう。
しかしオレには物事をやり抜くだけの精神力があるから、何でもやり通す事が出来る。
文化系の連中はいつも目標や進路を明確に定めて努力している風の顔をして、しばしば体育会系の俺らの努力を見下すが、はたして奴らに奴ら自身の定めた目標への道筋を完走するだけの精神力が本当にあるのだろうか。
俺にはある。
そして後は、志望校という目標を、数ある大学の中から選ぶだけである。
それがどんな険しい道であれ、完走する自信は既にある。
どんなに暑い日も、どんなに寒い日も、グラウンドでしごかれ汗を流していたあの日々に比べれば、正直どのような困難も恐れるには足らない。
ってな。
わたしの高校の野球部は別に強くない。しかし数ある部活の中でも本気で活動していたほうだと思う。
しばらくすると、一組の親子が来て面談が始まった。その声を聞いてすぐに、自分の同級生だとわかった。
彼はこの夏で野球部を引退し、大学受験のために通い始めるそうだ。
簡単なあいさつがあって、そこからは塾長とその生徒による面談が続く。
得意科目や苦手科目、普段の勉強についてや部活のことなど、なんてことない普通の面談だ。
それに対して生徒は「はい!」「はい!」と元気よく返事するが、具体的なことは何一つはっきりしない。
「じゃあなりたい職業は?」「うーん、無いですねえ」
何かに懸命に取り組むのは良いことだし、青春に飢えた大人たちもさぞ彼を賞賛することだろう。
体育会系で育った人は「彼らには日々のキツい練習で鍛えた精神力がある」などと言うかもしれないが、
たとえそうだとしても、果たして後に残るものはそれだけなのだろうか。
わたしは文化部だった。活動の中で将来やりたいことも見つけたし、今何をすべきかもわかっていた。
だから運動部のことはよくわからないが、少なくともわたしには部活を引退した彼らが抜け殻に見えてならなかった。
部活から得られるものは様々だと思うが、一つのことに熱中しすぎることは案外危ういことなのかもしれない。
どれだけ野球を頑張っていたとしても、大学受験では大した利点にはならない。
彼らを賞賛する人は多いが、その後は誰も彼らを救ってはくれない。なんだかかわいそうだ。
繰り返しの説明になるが、
“己の心と正面から向き合う”というのは何も、自身の精神性や魂の存在に対して定義しようという試みの事ではない。
「現実に際して直面した問題に対し、折れそうになったり投げ出しそうになったりする己の心と戦う」という意味だ。
さすがに説明するまでもないが、現実において自らに降りかかる問題にきちんと対応するという意味である。
心理学の話ではなく精神の方向性の話であり、そして机上の学問ではなく実生活の話だ。
また、余力があるすなわち精神的余裕があるという事であれば、わざわざ信仰を求める必要もない。
辛い時悲しい時に自らを救ってくれた信仰を、困難を乗り越えた後も持ち続けておきたいという気持ちは自然なものだが、
持っていれば繰り返し頼ってしまう。その過去の成功体験が、依存心を生んでしまう。そして信仰は万能ではない。
そしてここは最も大事なところだが、信じるものがどれだけ尽くしても、信仰は万能たり得ない。
重い信仰はやがてスロットマシンのジャックポットのようなものとなり、いずれは「こんなに信じたのにこんなに尽くしたのにこんなに祈ったのに、どうして何もしてくれない」となる。
信仰が深まれば御利益はいずれ釣り合わなくなる。信仰を次第に深めてゆけば究極的には必ず裏切られるという事でもある。
運命を左右すると思われがちな恒常的な存在、それに祈りを捧げ続けるという事は、見返りを求めているという事である。
いい事が起きるように祈る人間ばかりではなくても、悪い事が起きないようにと祈る人間は非常に多い。
神が人の造りしものかどうかはわからないが宗教は人が作ったものであるように、
仮に神が万能だったとしても人の信仰は万能ではない。
信仰は疲れた時に背を預けるべき大樹であり、立ち直ったら背を向けて歩き去るべき道標でもある。
お守りはお守りである。
信仰心のない人にはただの布切れと板切れであり、信仰心のある人には自らを守る護符だろう。
心が弱ってる人にあげれば有難い贈り物であり、加護を必要としない人にあげればいらない貰い物だろう。
ハサミで切るのはお守りなんてもう必要ない人であり、ハサミで切らないのはまだ必要な人だろう。
人それぞれだ。
善行には必ずしも良い結果が伴うものではない。世の中はもっと理不尽だ。
因果などというものは存在しないし、応報なんてものも被害妄想の一種に過ぎない。
強く生きられる人間はそのまま強く在るべきだ。
ただ弱い人間や、少し弱ってしまった人にとっては、宗教の説く優しい嘘がとても暖かい光となる。
その嘘を一時信じて、安らぎの中でやがて強さを取り戻して、そして、いずれはその嘘から目を覚まして、再び現実に立ち向かうべきである。
また弱ったらまた信じればいい。また立ち直ったらまた目を覚ませばいい。
宗教はそうやって利用するべきサービスであり、心のセーフティーネットだ。人は詐欺師にさえ癒される。
いっとき癒される事はあっても、長々と依存するべきものではない。
このツリーの頂点はこちらが書いたものではなく、またエントリは聖職者への質問コーナーでもないため、
できればまだ続きがあるのならばブログの方で聞いてもらいたい。
なぜならば、戒律や教義が明確かつ厳密には存在せず、その代わりに、“広義における社会正義”を標榜する宗教法人群というものも存在するのであって、またそれらは、滅多にお目にかかれない珍しい存在という訳でもない。(定義が広いためにかなり曖昧な表現だが)
そういった団体が何を追求するのかというと、ある種の“健全さ”、“清浄さ”を追求する。
あえて言うが、そこに所属する聖職者達はつねに不健全さというものを決して容認する事なく、そして健全さをこそ理想形・到達形として求める。例を挙げれば、それぞれの家庭における子への教育も厳しい。時代錯誤ささえ覚える程だ。
だから、「自分の足で立たねばならない」「自ら歩き出さねばならない」という、何よりも自然さを追求する姿勢は、ごく個人的かつ私的な信仰であると定義できるものではない。そもそもこちらに信仰心などない。一番最初に書いた事だ。
ときに、弱っている人にとって、宗教という存在は特に優しく見えるものだ。神という存在に縋り救いを求める気持ちもわかる。しかし神に癒され、信仰に癒されて、元気を取り戻した後もなお宗教にべったりと寄り添ったままでいるのは、不自然なことでしかない。
それは、信仰の有無に関わらず理解できる論理的帰結であって、そしてここで今一度前述の夫婦の話に立ち返るならば、数年もの長きに渡り定期的にお参りに来る彼らに対しては、職場の聖職者達全員が「いつか神恩感謝の祈願に来るといいね(※願い事が叶った御礼を申し上げる祈願のこと)」と共通した感想を抱いている。
しかし、その聖職者達はあくまでも、意思決定の結果として提示された「祈願依頼」を忠実に誠実に遂行するのみであり、意思決定に至るまでの相談を受ける事はない。そもそも相談される事もない。
それはなぜかと言えば。宗教が迷える人の道標になる事はあっても、聖職者が迷える人の手を取り導いて都合のいい未来へと連れていく事はできないからだ。
そこに自らの意思が介在しない決定は、ただの他人任せの結末にしか辿り着かない。
だからこそ、一番最後は自分の判断で方角を決めて、自分の足で歩いていって貰う為にこそ、良く考えてから職場へ来てもらい、祈願を受けるか否かを自分の手で決めてもらうのだ。
一見、どうでもいい手順に思えるかも知れないが、これはとても重要な事だ。
一番最初の選択を自らの手で行ったかどうかは、後々尾を引いてのしかかってくる。
弱っている人は迷いやすい。頼りやすい。自らの意志を投げ出しやすい。
祈願依頼者の意志を左右する事は分を超えた行為であるために、カウンセラーの真似事は誰もやらない。
物語の最後に舞台の上からゴンドラに乗って降りてきて、登場人物達の結末を一人で決めてくれる、デウス・エクス・マキナの様な存在が実在したら楽だろう。心が弱ってる時、苦難に直面した時、そんなものを夢想するのもやむを得ない事だ。
だが現実にそんな都合のいい存在はなく、仮に自分の選ぶべき道を他者が全部決めてくれた事があったとしても、それはもはや自分の人生とは言えないのではないだろうか。
自らの事は自らで決める事に意味があり、それが自然である。そういった社会正義全般を尊ぶような信仰を持つ人々が、世の中には大勢いる。
虚数時間は我々の予測臨界を超え、絶対明度を保ちながら半翡翠系の償却を反芻している。自己と飼猫の因果が杞憂より出づる撲滅世界の混沌と瞑想神経の齎す瑕疵とを綯交ぜに茫漠とした紗紗と蚕を行き来する。熱烈なる過保護によって朴念仁を生産する孤高なる過程は、明滅する光束の結び目から漏れ出す蒸散による化天を誘い、露光による庶子の影を永遠に棒状の壁画に内在せしめる。既知の文書が未知の閲覧者と邂逅した時、戦前の見開かれた鉱山での惨劇を三度繰り返しながら、双頭の獏が絶命の折に嘶くのと同期して、別離による救済を市井の同胞に振りまく真似事をする。叙勲されし数多の草魚が道標を尽く薙ぎ倒し、その後釜に座る極小なる淫らな猩々が紅の印鑑を倒れゆく少女像に拭い絡ませる様は、恰も冷静なる貴族が病状をひた隠し越冬の危機を乗り越えるのに似る。時々刻々と謀殺されし護摩壇の姫君の肢体が腐敗と熟成の報奨に狂おしく同調している折に、微細なる裂傷を結合しながら徒歩にて断崖を捻る未練がましい使徒が手にした免状を衣と引き換えに八つ裂きにする。傍若の限りを尽くした赤児と液状化した母親が手を繋ぎ目真苦しく螺旋を描きながらもう一人の裏切り者の足跡を舌で滑らかに擦り、その呪縛に素っ頓狂な声を上げた隣人が悪鬼と冒険した凡人と化して急襲しながら霊山の内部構造に激突した。唖然とする七匹の蛙は幕間に喇叭を回転させながら右側だけでタンゴを祭り、渦を巻いた板状の貝殻の上で割譲される順番を望んでいる。早朝に深淵より点在せし顔面が、虹色に曇った延髄を海面に落とし、塗り固められた臍帯を蛇腹にしながら浄化槽で探索する二連の秘部を必死に灯台に繋ぎ止めようとするが、監獄より返納された御影石の売人達による秘密組織が泣き声を追跡しながら別居中の蓮根畑の先端に波及してくれと請願したため、橋の開閉により眼球が飛び出して乳白色の絵画に侵蝕し、慈愛と連想ゲームから成る仏の荒野に自ら至った。
http://anond.hatelabo.jp/20131022021346
ほんとそう思う。
そうやってどんどん作品の5W1Hを転がしていっても、変わらないのがそのキャラ、その世界観の本質だ。
監督とか声優だとかそういう次元をどんどん取り払って、そういった作り手の元からすらはなれて、作品は完全に自由な存在として自分の中に存在する。
血肉になってる作品の5W1Hをいじるのは、創作関連のHow toにもよく見かける
ちなみに、ちょっと好きな流行モノでやると安易なパクリに見られやすい
借りた猫を動かすには手間がかかる
で、そこまで行ってるなら、もうオリジナルでいいじゃない
まあでも、二次創作でないと無名のオリ作品なんて見向きもされないので
作ったからには見てもらいたいので二次創作になってしまうよなあ
オリジナルでも比較的見てもらいやすいので創作者が集まったのかなとも思う
あと、監督とか声優とかチェックするのはまだ見ぬ名作になるべく早めにアクセスする道標だから
自分にとっての名作に出会った時、それがレンタルとかで遅れて見たやつだと
感動の後に、なんでコレをもっと早く見ておかなかったんだ!って後悔がどどっと来る
これからの日本と世界とまどマギのラストはどうなってしまうんだろう
って経験できたのは、自分に放映前「新房×虚淵=血だまりスケッチ」で
アマとはいえ弦楽器奏者の自分にとって、合奏は割と日常的な話だったりする。
それで、基本的なノウハウはどんな楽器だろうが大して変わらないと思ったら、管楽器は正直かなりトンデモに見えることをやっていたという。
まず驚いたのが、何でもかんでもチューナー頼みという話。
まあ個人練習やオケのオーボエのAのときくらいはいいけど、合奏の最中までいちいちチューナーと睨めっこして「私の音は合ってます」とかどうなのよ。
合奏において、チューナーとピッタリという程度で「音が合っている」とか「ちげーよ!」としか言いようがない。
発音体や共鳴体の組み合わせで音が大きく異なる楽器同士を、綺麗な響きで合わせるという非常に難しいことをやっているのに、チューナーを持ち出したところで全然解決策にならないと思うけど。
というか、チューナーばっかり見ていたら合うものだって合わねーよって、そんなことも分からないのだろうか。
次に驚いたのが、指揮者がいるときに棒だけを命綱にする合奏態度。
別に指揮者を当てにするなとは言わないが(まあ弦は基本あんまり当てにしてないんだけど)、お互いが自発的に聞き合って連携しているところに棒が介入し、グランドデザイン的な道標になるのが順序じゃねーの?
というか指揮者からしてみたら万が一の振り間違い→アンサンブル大崩壊とか、恐怖以外の何者でもないだろう。
というわけで、ここまで「そう見える」だけで書いてみた。
目白駅のあたりまで来ると、景色は下町とはずいぶんと様相が変わってくる。
どちらも古い家が点在していることに変わりはないが、このあたりの家々は門構えがしっかりとしていて、古いというよりは貫禄があるといったほうがしっくりとくるだろう。空間的な余裕を持って家は建てられ、太くたくましい植木がうっそりと枝を広げて街灯の光を遮っている。
駅の向こう側にぽっかりと黒い空間があるが、あれは大学だろうか、それとも病院だろうか。目白駅のそばになにがあるのか、私は思い出せなかった。
日暮里から延々と、私は山手線沿いを歩いてきたのだった。ほとんど気まぐれに歩き始めた道は意外に入り組み、ともすれば線路を見失いそうになる。夜中であるために電車も走っておらず、道標となるあの特有の音が聞こえないのが余計に道を困難にしているようだ。それでも、目白あたりまで歩いて来れば、線路伝いに歩く要領は覚えてしまう。
私は早足に暗闇を歩いた。夜の街はひっそりとしていて、大きな通りですらもほとんど車が走っていない。首都高にはトラックが走っている影が時折見えるが、静寂から鑑みれば、とてもここが東京だとは思えなかった。
月はもうとっくに沈んでしまっていたが、街灯の明かりが届かないところまで来ると、かわりに星明りが私の足元を照らす。星明りを明るいと思うことなど、山奥の空気の澄んだところまでいかねばないのだと思っていた。でも、私の足元にできているのはまさしく影だった。
私は外を歩いているのだった。ここは光の入らない函の中ではなかった。空の色は黒というには少し薄く、まだ夜が明けていないというのに、カラスがもうどこかで鳴いている。その体が闇とほとんど同じ色のせいで、私からはどこにいるか認識することはできないが、いつもは恐ろしく思える風切り音を、今は無性に聞きたかった。たしかにそこに呼吸するものがいて、かすかな光を享受しているのだと、その生き物とわかちあいたかった。
混乱を混乱として頭の中にとどめたまま、時折私は空の色を確かめるために足を止めて背をそらした。仰ぐたびに空の色が変わり、目に入る明るい星の位置が少しずつ動いている。空気は晩秋のように冷え込み、私は両腕を抱いて白い息を吐いた。息を吐くたびに、体の中の淀んだ空気が掃き清められていくような錯覚をした。
うっすらと白み始めた東側の空は徐々に濃い色に変わり、まだ西側に残る夜に溶けている。深い藍色の空は弧を描き、靄のようにうっすらと筋雲が線を引いているのが見えていた。夜と昼の継ぎ目はどこにもなく、朝に追いつかれつつある星ぼしが姿を消そうとしている。夜明けが近づいているのだ。その光景はいかにも静かで、そして整然としたさまを保っていた。ただひたすらに、美しかった。
そろそろRails4が出るらしいが悲しいほどに話題にならない。webフレームワークの代名詞的存在のメジャーバージョンアップにしては寂しい限りだが、そんな現実に正直納得してしまう俺がいる。
8年前に生まれたRailsはバージョン0.*で世界中に衝撃を与え、1.*で数多の模倣フレームワークを生み出し、2.*でその名声を確固たるものにし、3.0で完成した。
2から3.0にかけては大規模な変更を伴ったがいずれも素晴らしい変更だった。今見ても3.0は素晴らしい出来だった。
しかし3.1以降のRailsはどうだろう。改善と呼ぶにはあまりにも実験的な変更が多いのではないか。バージョンが上がる度に失われて行く互換性とノウハウ。変更をキャッチアップするだけでも一苦労だが、キャッチアップするメリットを見いだせないのがさらに苦痛に拍車をかける。もはや10分でブログが作れるとセンセーショナルな印象を与えたあのシンプルで実用的で敷居の低いRailsは無くなった。
現在のRailsの動向についての開発者DHHの発言をボクなりに解釈するとこうだ。「Railsは実験的なプロダクトで、より良いwebテクノロジーを生み出す道標」。今のRailsは確かにそういう道を歩んでいる。先進的ではあるが実用性に疑問符が付くような技術でも積極的に取り入れる姿勢を貫いている。
確固たる位置を築いた後は保守的な道を歩まざるを得ないプロダクトが多い中でRailsは真逆の路線を進み出したが、しかしその結果Railsの学習コストは新人でも中堅でも等しく高いままだ。なぜRailsに精通したエンジニアが首を傾げながら新しいバージョンの勉強をしなければならないのか。その新機能は誰のための変更だろう。より良いwebのため?そういう実験が適さないほどRailsは大きくなりすぎたように思う。
次の4がDHHが直接関わる最後のバージョンになるのではないかとすら思っている。もう彼自身webフレームワークというものにあまり熱意を抱いていないのは明白だ。
すごくよくわかる。
否定ばかりされてると、消耗してしまう。自分では悪いことをしてるつもりがないのに否定されるなら、なおさら。それに加えて、自分でも自分を否定していくようになると、地獄だよね。自分が生きていることに価値を感じないのに、それでも毎日生きないといけないなんて辛い。それでも精神のバランスを取るために、「どうでもいいんだ」と感受性を麻痺させざるをえない面もあると思う。
でも、世の中みんなが芸能人や恋愛やテレビ番組にもともと興味があるから、それらについて話しているとは限らないと思う。個人差はあるけど(そもそも、「自分が関心ない話題を振られる、だから何? 楽しんでるフリしてテキトーに合わせちゃう」というのが苦にならない人もいる)。
「普通」っていう枠におさまることを重要視する人々にとって、テレビなどのメディアが提示する「恋愛は楽しいからどんどんするべきだよー」とか、「こういうアイドルが流行りだから知っておくべきだよー」というメッセージは、普通に生きるための道標なんじゃないかな。だから、そういう話題になりがちだし、無意識のうちに相手にも、そのメッセージを押し付けてしまう。本当は、そういうメッセージを他人にぶつけて傷付けていいなんて正当性はないと思う。まあ、単純に、当たり障りのない話題だからついつい振っちゃうこともあると思うけど。
特に大学では、同じ学年でも年齢が違う、出身地が違う、と共同体的な個人間の紐帯が弱まるぶん、普通であることで人とのつながりを維持しようとする働きが強くなるような気がする。そうでなくても、「普通」に属して安心していたいという感情は、程度の差こそあれ多くの人が持つと思う。
で、みんな集団から浮かないように、心から納得してアイドルの話とかしていられたらいいんだけど、そうじゃないから元増田に対する風当たりが強くなるのではないかな。
高橋源一郎さんが書いてましたけど、「誰にも言えない私の秘密」というお題で作文を書いてもらったところ、学生さんたちの40%が「友だちのふりをしているけれど、ほんとは好きじゃない」が「絶対に口にできない秘密」だったそうです。あら~。
このツイートを読んで、思ったんだけど、テレビ番組とかお笑い芸人とか、そういう話題にノリノリになって話してるように傍目には見えても、「実はあんまり興味ない。でも周囲から浮かないためにはこういう内容を話すべき」と勝手に義務感を感じて自分でも知らないうちにフラストレーションを抱える人も結構いるのでは。そういう人にとって、元増田のように「その話題、どうでもいい」と意思表示する人の存在は、「みんな実はこういう話題に興味がないけど、義務感から話をあわせている」と気づかせる危険人物となりうる。その結果、無意識下で「俺だって浮かないように周囲の話題に乗ってんのに何KYなことぬかしてんだ」という苛立ちが生まれ、アドバイスをかましてきたり、批判をしてきたりする人々が現れることもあると思う。アドバイスする本人は親切心からのアドバイスだと信じていてもね。
つまり、「人間は普通であるべきだ」と強く思いこんでいる、そういう人たちにとって、「普通じゃなくてもいいんじゃない?」って提案してくる人は己の根本を揺るがす脅威になりうる。
何を言いたいのかというと、「こういう話題に乗らない君っておかしいよ」って指摘してくる人たちも、積極的な興味があって芸能人とか好きなタイプについて話してるとは必ずしも言えない、場合によっては嫌悪感を感じてるんじゃないかなーということ。だから、そういう話題に興味が持てないからといって、負い目とかコンプレックスを感じる必要はないと思う。そう思うと、ほんのちょっと気が楽にならないかな。自分に対して否定的になると、よけいな感情によって円滑なコミュニケーションを取りづらくなるし、相手と自分を比較してしまって人といるのが辛くなる。だから、自己卑下につながるような種は除いたほうがいいと思う。その点、対人関係を絶っていない元増田はすごいよ。
「本当に心を許せる人と出会い、関係をつくるにはどうしたらいいか?」という点については、ブコメまとめの方が親身になってくださっているので、興味という面から書いてみた。全体的に推測の域を出ないので、あくまでも「いくつかある見方のうちのひとつ」ということで。直接話聞いてくれる人ほしいなー、という時は大学の学生相談室という手もあるよ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17428910
『攻撃戦だ 공격전이다 (オーケストラ編曲版)』
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<前奏>
赤旗掲げて進撃だ
その姿は先軍の旗幟だ
「攻撃 攻撃 攻撃 前へ」
正日峰の雷のように攻撃
攻撃 攻撃 攻撃戦だ
山岳が立ちはだかっても足踏みではない
大軍が押し寄せても防御ではない
一瞬のためらいもなく立ち向かう
その戦法は必勝不敗だ
「攻撃 攻撃 攻撃 前へ」
正日峰の雷のように攻撃
攻撃 攻撃 攻撃戦だ
(間奏)
目標は強盛
大国の希望の峰だ
偉業の勝利の峰だ
先軍の直線走路を
暴風を吹かせて進む
その足取りは強行軍だ
「攻撃 攻撃 攻撃 前へ」
正日峰の雷のように攻撃
攻撃 攻撃 攻撃戦だ
(間奏)
あゝ あゝ あゝ あゝ
正日峰の雷のように攻撃
攻撃 攻撃 攻撃戦だ
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人権というものを語るとき、必ずといっていいほどまで言われることがいくつかある。
たとえば、「人権というものは近代国家を満たす要件のひとつだ」というぐあいだ。
ホッブズは社会契約説として自然権を考えたが、彼の見据えた先は絶対君主制であり、巷で言われるような近代国家とはまた異なる。
ロックは間接民主制を見据えていたので、これはさらに民主主義を推し進めたという意味でより近代的である。すなわち、近代国家というのは民主的であるというのも大事なのだ。
他に言われることとしては、「障害者に人権がなかったら、虐殺される」というものや「お前みたいなクズが生きていられるのも人権のおかげだ」というたぐいのものだ。
常識的に考えてみて欲しいのだが、人権の有無と虐殺の有無は異なる。人権がなかろうと人を殺せば刑法に触れるのであり、ふつう虐殺など起こらない。人権がない、すなわち無法地帯というわけではないのだ。後者に至っては発言者のゲス具合が遺憾なく発揮されており、恫喝以外の何物でもないと考える。
さて、憲法改正議論にあたって基本的人権の尊重などというのが槍玉に上がっている。これを廃することは、近代国家の否定だという人が思ったよりいる。
少しシミュレートして欲しいのだが、この国から人権を廃して、何か変わるだろうか?
警察の対応が杜撰になる?そんなことはない、もとから人権など顧みない杜撰な組織だ。
国家が国民や他国の人間を守らなくなる?そんなことはない、人権等より実質的な国家的相互監視によって、そんなことは許されないし、軽微なものならこれまでも無視されている。
自由が奪われて息苦しい時代になる?そんなことはない、それはある程度は景気の問題であって、人権があるかどうかと自由があるかどうかは関係ない。人権があろうとなかろうとわれわれはこれまでも「公益及び福祉のため」にこれを実践してきたし、人権の有無にかかわらず公共の福祉のために衝突があれば調停してきた。
ここまできてわかっただろう。この国に人権などいらないのだ。人権などいらないと言いのけても矛盾ないほどまでに杜撰な国家に杜撰な国民、杜撰な社会だと言うのもいいし、人権などいらないと言うまでに自律的かつ他律的な国家国民社会なのだ、と言うのもいい。
いずれにしても、民主的手続きで人権を放擲するならそれは最大限尊重されてしかるべきだし、今回の改憲が実現したとして人権がきれいさっぱり憲法からなくなるというわけでもないのだから、反対派にしても良かったじゃあないか。
http://www.egogram-f.jp/seikaku/kekka/ccacc.htm
性格 貴方は宇宙人の様な方です。世俗にまみれたあらゆる物事に興味も無いし、何もする気が無いのです。全ての物事の表裏が見えすぎて、精神的に超越してしまったのです。哲学者と神様を一緒にしたような存在になったのです。以上は好意的な見方をした場合であって、普通の見方をすると、ルーズで冷淡で気儘放題の能面人間と云う事になります。 恋愛・結婚 人間失格的な面を、余りにも数多く持ちすぎている為に、恋愛や結婚を真剣に考える様な事は、殆ど無いタイプでしょう。又、仮りに結婚したとしても、永続きするとは、とても思えません。 職業適性 百に一つ位は、貴方に適した職業が有るのではないかと考えてみた場合、星の研究家か、虚無的な内容の空想小説家です。 対人関係 生まれた時も一人なら、死んで行く時も一人。所詮人間は孤独な生きものであるから、他人に頼ったり頼られたりすることは、宇宙の真理を弁えない愚者のする事と悟った様な、悟らない様な人生感を道標にしているタイプです。
お、おう…。
いくえにも重なるこの重層的な建造物の中で
あなたは何を考えているの?
自らの使命を果すために、ただひたすら均衡を作り出す歯車。
私と違い、その意志すら石と化した存在には既に思考などあるはずもなく、
ただ己の運命を全うせんがため、鎮座するその四つの戒名。幼子の道標。
たとえ似たような運命を背負ったと云えども、
この幾千のときをただひたすら末のみだけで過ごすのはやはり退屈だろう。
私も話し合い手くらいは欲しかった。いつになく、こうして塔の蕊にまで到達するころには。
あのひとでなしが口やかましい古女房とこれまで道を同じくしてきたのも、
こうして任務になんども当たっていれば何処かしら理解のできるような気がした。
配管の蠢く脈動が、人の声であればどれほどよかったのだろうと…
残された感情が弱音を吐くためにあるのだとすれば、
そんなものやはり捨ててしまえばいいのだろう。
などと逡巡する暇もなく、再生機関は再び目を覚ましつつあった。
「あとどれくらい…どれくらいこの迷いを味わうことができるかしら…」
これは大いにあり。と言うよりこれまで出さなかったのが不思議。顔出しを叩く人がいるのはもっと不思議。
何故ならこのようなビジネス書や実用思想書という類の書籍は、著者自身の経歴を「ハッピーへの道標」として余すところ無く提示しなければ始まらないからだ。
日本人はナルシシズムが嫌いなのか著名人の経歴自慢を過剰に恥ずべき事とする傾向があるが、自慢こそが成功思想書の本質であって極端な話それ以外の情報はほんの数%程度で良い。
更に言えばその自慢は経歴に限定しないほうがより上手である。
わが子が可愛いとか合コンでモテたとかセレブ生活うめえとか何でも良い。万人が共感できそうな私生活での幸せ体験なら隅々までどんどん書くべき。
何しろ書いた以上は著者の生活は「目標」でなくてはならない。謙虚さや羞恥心で些細な自慢を出し惜しみするのはプレイヤー(金を出して買ってくれた読者)が目指すべき目標を曖昧にする無益な嫌がらせ行為である。
そういう訳で著者の顔出し写真も自己満足的なナルシシズムでは決して無く、プロとしての責任感からそうしているだけだと思う。
ここで顔出しを叩くのはビジネス本そのものが嫌いなのか、自分の容姿コンプレックスの裏返しで他人の容姿を必要以上に貶めてしまうかどちらなのだろう。
3ヶ月も給料なしでどうやって暮らしていこう。家賃は?光熱費は?貯金はあるけど、そのあと復帰できるの?長引いたら?
と、非常に不安でしたが、実際休んでみるといろんな補助制度があって全然困らないことがわかりました。
会社による部分も多いと思いますが、同じ不安におちいった人の道標に、経験を書いておきます。
これはあくまでうちの会社の場合ですが。
傷病による休職ならば、なんと3ヶ月から1年の間(勤続年数によります)はそれまでどおりの給料がでるそうです。
さらにその後数ヶ月は、給料の1部(半額くらい?)が出ます。
残業代とか手当てとかはなくなるので働いているときよりやや少なくなりますが、今までどおりの生活ができます。ビバ大企業。
会社によって手厚さは違うと思いますが、意外と傷病の補償制度があったりするので一度調べておくことをオススメします。
調べるまでは自分の会社にこんな制度があるなんて知りませんでした。
これも会社によりますが、健保には大体の人が入っていると思います。そのほかに会社で共済に入っていたりしたら要チェックです。
労働組合に入っている場合はそれも要調査です。
会社の健康保険と会社で入っている共済から「傷病見舞金」などの名目でお金が出ました。
これは上記の会社から出る給料の減額分を補完する形で支給され、会社からの支給がなくなってあとはこちらから支給されるようになります。
つまり、会社+健保+共済の見舞金を足しあわせると元の給料(-α)程度になり、これらの支給が2年間くらいは続きます。
労組も一時金ですが、見舞金をくれました。
他にも、入院見舞金とか手術見舞金とか色々お金をくれるようです。
よくCMでやっている「入院1日5000円」とかの民間保険と同じような補償が知らない間についてました。
自分の加入している団体の規定を見直してみると良いと思います。
会社は何にもしてくれないし、共済なんて入ってない。そんな人にも国から傷病手当が出ます。
4日以上仕事を休んだとき、最大1年6ヶ月までの間は標準月収の3分の2相当が支給されます。
これは健保の制度のようです。つまり健保に入っている人は誰でも持っている権利です。
申請の仕方はググれば出てくるので探してください。
(もしかしたら、うちの会社はこのお金に補完する形で元の給与との差額を出してくれているのかもしれません)
病気が長引いて、会社を辞めるということもあるかもしれません。
そうなった場合、残念ながら上記の傷病手当の支給はストップします。その代わりに失業手当がもらえます。
世の中には思った以上に補助制度が色々あります。
これら全部を組み合わせると、民間保険に入っていなくてしかもほとんど貯金がないような人でも、
病気になっても、2、3年くらいは余裕で生きていけます。
企業とか社会にはいろんなセーフティネットが張り巡らされていて、そう簡単には路頭に迷わないようです。
日本はすばらしい国ですね。
でも、これらは申請しないともらえません。知らないともらえません。
大きな病気にかかる人もそうそういないので、誰かが教えてくれません。
ここにはあまり詳しく書きませんでしたので病気になったときに調べてください。
そういえば何かお金がもらえる制度があったな、と覚えているだけでも良いと思います。
今、俺は実質NEETだ。
大学院生ではあるが、授業はほとんどないし、バイトはしていないし、自分の研究に大きな興味を持てない。
そんな大学院生は決して少なくないと思うが(仮面就職浪人とか?)、自分の場合、研究テーマに興味が本当にないわけじゃない。
大学には研究するために来た。"キャンパスライフ!"なんてものは大して考えたこともなかった。
卒論では人間関係や失敗、自分の能力を超えた努力なんかで結構心が傷ついた。欝だったと言っても良い。それはトラウマになった。
でも研究対象は今でも好き。それはもはや理屈じゃない。物心付いたときから自分に根付いていたものだから。
だから研究に本当に興味がないわけじゃない。
でも出来ない。上手くいかない。それは俺に恐怖を呼び起こす。あの欝の、あの闇が怖い。
この恐怖は研究だけの問題じゃない。
自分に深く根差した研究対象への興味、というのは俺の人生そのもので、自分が進むべき目標でもあった。道標だった。
それに対するトラウマ。
初めての経験。
どうしたら良いのか。全く新しい目標を見つければ良いのか?過去の目標にしがみついて見るか?抜け出したい。
でも抜け出す努力ができない。努力が欝を招いたことを忘れられない。
努力が怖い。
傍から見たら自分は何もしてない。
でも何もしてない自分を保つのが精一杯なんだ。
信じられないかもしれないが、研究対象は自分にとってそんな信じれないくらい大切な自分で、
それを無くすというのは誰にも想像できないほど自分を無くすことだったんだ。
それは説明しても伝わらないと思う。だって君が君じゃなくなったところを見たことがないもの。
逢いたい気持ちがため息に溶けてゆく
愛しい人は思い出のままで
消せない慕情に若さの過ちだけ
燻り焼ける苦味を残し 夢いずこ
時は僕だけを置き去りに流れてゆく
あれからいくつかの恋もしました
優しい夜も別れの朝も あなた以上にシビレられない
何もかもから解き放たれて 胸を合わせて踊る星の下
白く煙るあの情熱 愛した分だけ弱さになる
求められてた男らしさと ふとのぞかせる女らしさが
胸に迫る一瞬の恋 あなただけがいつの日もいつまでも
僕の道標
忘れたはずなのに街角よく似てる
あなたの香りに思いが揺れる
罪深き月に照らされた今宵など
どうか女々しさを許してほしい Sorry my love
まして二度は帰らない時よ 今夜ばかりは
愚かさに夜風が身に染みました
夢追い人に寝床は無くとも 何を求めて彷徨うのだろう
天女の様なその物言い 分かってるフリで焦らさないで
振り返る日はまだ来なくとも あなたの事は忘れはしない
かけがえない愛をくれたあなただけは いつの日もいつまでも
荒野に咲く華の様に
何もかもから解き放たれて 胸を合わせて踊る星の下
白く煙るあの情熱 愛した分だけ弱さになる
天女の様なその物言い 分かってるフリで焦らさないで
振り返る日はまだ来なくとも あなたの事は忘れはしない
かけがえない愛をくれたあなただけは いつの日もいつまでも
荒野に咲く華の様に