はてなキーワード: 衆愚政治とは
選挙で争点化されているイシューを通じて政治のあり方、この国の統治の方向性を考える、その機会が選挙だというならば、選挙に際して「大局を観ずべき」との点には大いに頷ける。
しかしながら、多くの選挙民にとって「大局を観ずる」ことは、相当に難しいのではないか。その原因は、各人によって異なるだろう(知識水準、情報の偏り、そもそも興味関心なし等々)が、結果として、民主政治が「衆愚政治」と紙一重となる一因はここにあろうし、また、そのような多数は容易にマスコミが作り出す「世論」とやらに引っ張られてしまう。
かといって、国民の大半が政治的に覚醒した社会というのが、いったいどんな社会になるのか、それも想像するとぞっとする。
右に左にと行きつ戻りつしながら、螺旋階段を少しづつ登っていくようにしか、我々の社会は前進しないのではないだろうか。それで十分だと割り切ることも必要なのではないだろうか。人間は、結局は全知全能ではないのだから。
そんな中で投じる私の1票にも十分な意味があると信じよう。
子供の幼稚園のクリスマス会の冒頭で司祭さまのお話があった。子供の幼稚園はキリスト教系の幼稚園。
キリスト教の概念ってのは神の下の平等。つまりは神とキリストは格上の存在で、その下の人間どもは平等。つまりは神の独裁政権。他の宗教もそうよね。結局は独裁。概念的な崇高さを考えると、全ての人が平等な共産主義の方が崇高な気がする。
しかし、その共産主義も実際のところは指導部の独裁になるわけで、世の中の仕組みは独裁か民主主義しかないわけだ。
神の下の平等なんて言っても神の思し召しってのを決めるのは宗教指導部なわけで、結局一部の人間の独裁なわけです。
皆が平等で満足する社会なんてあり得ないわけで、そういった意味ではやはり物事が決まらん衆愚政治になるとしても民主主義が一番マシなのか。
民主主義の権化でありながらもキリスト教的な価値観が共存するアメリカってのはどうなってんだ?
政教分離と言いながらも根っこにキリスト教入ってるよね?まぁ文化的な部分はしゃあないんかね。
より良い世の中ってのはどうすりゃいいのか。安倍政権見りゃ権力が腐敗するのは明らかにだから独裁はやっぱダメよね。独裁がダメってことは宗教は政治に出てきちゃダメってことだ。だから公明党はダメだな。結局独裁になる共産党もだめだ。んじゃあ立民か?でも経済右翼っぽいよね。社民党とか結構いいんじゃないの?あれ?もしかしてもうない?
なんかよくわかんねーけど中道左派で落ち着かないもんかね。あれ?結局もしかして自民しかない?
地獄やね。
未来のミライのレビューがネットに次々と挙がっていくので読んでいたのですが、皆さんこの大前提がポロっと抜け落ちているように思います。
それゆえに大抵のレビュアーは「細田守が描きたかったものは何なのか」を想定しようとする時に大きなミスを犯します。
このことは「おおかみこども」「バケモノの子」を見れば明らかでしょう。
中でも「時をかける少女」においては「ケモノ」や「ショタ」への執着心が完全に押し殺されています。
「時かけ」において、細田守監督は自身の執着を完全に押し殺し、最大公約数的な作品作りにつとめその結果として商業的・文化的成功を収めることになります。
その影響により彼は「大衆のための作品作りが出来るアニメ監督」という評価を背負わされることになります。
彼が「時かけ」のあとに制作した「サマーウォーズ」という作品に対して、あまりに大衆向けであることを目指しすぎていて衆愚政治のような匂いが漂っていると感じたことは無いでしょうか?
同時に「サマーウォーズ」の中では、「時かけ」では押し殺されていたはずの「ショタコン」「ケモナー」という氏の2大性癖がスクリーンから見え隠れするシーンが幾度もあります。
この頃から、細田守作品においては「大衆向けの成功」と「個人的な性癖への執着」が熾烈なぶつかりあいを始めます。
「未来のミライ」を評価するのであれば、この事からは絶対に目をそらしてはいけないでしょう。
むしろ、そういった2つの相反するようでありながら混ぜ合わせることが完全には不可能でない願望をどうにかして同時に満たし自分も他人も幸せになれる場所を目指したいという彼の中にある葛藤・願望が強烈に爆発したのが「未来のミライ」であるという見方をすることがベストな可能性すらもあるわけです。
「未来のミライ」について語っておきながら「ショタコン」「ケモノ」といった要素に触れていない文章は、物事のごく狭い面だけしか見ておらず片手落ちもいい所です。
言ってることは間違ってないんだけど、たぶん語っている場所が違うんだと思う。
セイバーの政治は今で言う民主主義だし、焚書坑儒やキリシタンの迫害などに見られるように、専制君主的な中世の政治体系から見ればむしろ邪魔な思想。
だから民草のための政治を唱えたセイバーのあり方はたしかに正しい。
だけど、イスカンダルもギルガメシュも衆愚政治の弱点についてしっかり語っていたように、現代の民主主義もその脆弱さを見せているじゃない。
当時は武力行使こそが征服の象徴であったけど、現代的な資本主義の闘争によって行われるものに置き換えて考えるとすれば
いわばそれは現代におけるスティーブ・ジョブスやビル・ゲイツ、あるいは孫正義、松下幸之助のようなものであったとも言えないか。
たぶんイスカンダルもギルガメシュも、当時であるからこその武力闘争を行っただけで、現代の資本主義のルールの中での闘争であればきちんとそのルールに則って征服すると思うよ。
そういう意味で、思想や思考の根本的な欠陥に対する明確な指摘をセイバーに示してみせたイスカンダルに、たしかに覇道たる王の生き様(というより帝王学だよね)を見たと思うよ。
もちろん、孫正義もジョブスもゲイツも、現代の一般人にとっちゃ雲の上の人で、興味のない人にとっては「なんのこっちゃ」だけどね。
先日の内閣総辞職云々のときは「アベが辞めれば日本は始まる!!」みたいな論調を見掛けたのだけれど、
そういう方々は今回の緊急事態条項についてどうお考えなのだろう?
詳しくは知らないけど、この件は安倍総理は慎重だったのに次期総理有望株の石破さんらが明記を要求したんでしょ?
安倍総理が辞めて石破政権が始まったら、緊急事態条項に関してはむしろもっと日本終わらん?
安倍政権のモリカケよりは石破さんの要求した緊急事態条項の方がマシって考えなの?
民主党政権時の日本は始まってたのに、愚かな国民のせいでそれを潰されたという衆愚政治的なお考え?
もしくは、安倍総理の茶を濁した折衷案のような憲法草案より、次期石破総理(?)の尖った憲法草案の方が国民の理解が得られ難いだろうという願望?
昭和20年の大東亜戦争終結以来、我が国は急速な復興を遂げ、GDP換算で世界第2位の経済国家となった。他方で、アメリカ合衆国(米国)を中心とするGHQによって拙速に作られ、我が国民の総意を反映しているとはおよそ言い難い憲法を保持することにより、国民精神の十全な発揚を伴った発展は掣肘を受けた。その結果、近年では共産党政権の一党独裁国家である中華人民共和国(中国)の経済成長に比して我が国経済の成長速度は鈍化し、世界第3位の経済大国という地位に甘んじている。拡大する経済力を基盤とした中国の軍事的拡張と、各地での侵略行為は留まるところを知らず、国際秩序の安定上、予断を許さない状況が続いている。
今こそ、軍事的圧力を背景に押し付けられた借り物の秩序から脱却し、我が国独自の政治・経済・社会的秩序を打ち建てる時が来ている。帝国主義的な拡張路線にひた走る中国、ロシアを凌駕し、我が国民がその潜在力を十全に発揮し、我が国が未来永劫にわたって繁栄を続けるための基本的条件は、古来より連綿と受け継がれたわが国独自の精神文化に立ち戻り、それ基づく政治・経済・社会へと変革を成し遂げることにある。以下ではこうした方針に基づいた変革のあらましを記述し、現在に至るまでの進捗状況について述べる。
現行憲法に起因する政治・社会制度上の根本的な問題は、国民主権あるいは民主主義の名の下に、収拾のつかぬ意見の多数性がいたずらに尊重され、急を要するあらゆる変革への掣肘となり、かえって衆愚政治に堕していることである。したがって、憲法を改正して大日本帝国憲法の天皇主権に立ち戻り、国民の強固な統合を図ることが最も枢要である。この目的に照らしてみれば、基本的人権、結社の自由、信教の自由が制限を受けることは当然である。引き続き憲法改正の議論を提起し、我が国の伝統的家父長制に基づいた国民の統合を進めねばならない。
大東亜戦争終結時、GHQにより天皇制廃止の議論が起こり、その方向で新憲法が起案された。先代天皇は連合国最高司令官マッカーサー元帥と面会し、象徴としての天皇制存続を取り付けることに成功した。天皇主権の国家が次に戦争をひきおこし、他国に国土が占領される事態に至った場合、万世一系の天皇家は確実に廃絶されるという教訓を、この経験は天皇家に与えた。
今上天皇はこの教訓を遵守し、天皇主権の憲法へと改正を進める論議が起こるにあたって、自らの退位によってこの流れを断ち切ろうと試みた。しかし象徴天皇制下において、このような越権行為は断じて許されるものではない。天皇が象徴となった現在、新憲法下で天皇主権の意味するところは、天皇に助言を行う内閣主権であり、ひいては、内閣の長たる内閣総理大臣の主権でなくてはならない。こうした主権の移譲が円滑に行われるよう、憲法改正の議論は続けていかなくてはならない。
現行憲法下での平等は機会の均等を国民に保障する根拠となったが、これはかえって我が国の発展を妨げることとなった。国家が永続的な発展を続けるには、強いものがさらなる発展を続けることが、より合理的である。したがって、豊かなものがさらに豊かに、強いものがさらに強くなるよう、あらゆる方面において既存の有力家への支援を一層拡大することが枢要である。
進捗度: 順調に推移している。
イノベーションとは畢竟、知的、金銭的、社会的な多様な資本の集約を要する。資源の限られたわが国において、すでに成長を遂げた企業への支援を継続することが最も合理的である。税制や労働法制の改革はこの路線に沿って行われなければならない。
強いものがさらなる発展を続けることが合理的である以上、国民の間に所得によって階層の分化が生じることは必然である。低所得者の納税額は高所得者に比して低いため、利用可能な福祉サービスを減らすことが合理的である。福祉サービスの削減について合意を得るためには、強いものは努力によって強くなったのであり、弱いものはみずからの怠惰からそうなったのであり、自己責任であるという当然の理路について、国民により一層の教育を図る必要がある。
進捗度: 順調に推移している。
科学技術は国家の経済的、軍事的発展を支え、国家の威信を高めるものでなければ、その存在意義を持たず、財政的援助を受ける必然性がないことは論を俟たない。したがって、産業への応用可能性が最も高い分野に集中的な投資を行い、投資の正味現在価値に対する監視を強め、投資判断と組織の改編は迅速に行うべきである。
我が国が独立独歩で中国およびロシアと軍事的に対抗するためには、軍事産業の育成が急務である。したがって、大学等の高等研究機関において軍事研究への投資を拡大し、軍事産業の発展に必要な技術および人材の育成をさらに進めるべきである。
大学における学問の自由は、天皇主権国家の発展を妨げないかぎりにおいて認められる。国立大学については財政上、人事上での国家の関与を一層強化し、国家の経済的、軍事的発展へ大学が確実に資するよう政府は導かねばならない。
進捗度: 順調に推移している。
権威や知名度がある人が大手媒体で無知ゆえの放言をかましたらネットで一家言ある人からボコボコに叩かれるなんてのは分野やジャンルを問わず日常茶飯事なわけで。今回もそんな感じじゃねえのと思ってる。
逆に言えばネットには政治に関して一家言持ってる人が大勢いるということ。少数だったら大して話題にもならない。
野球と宗教と政治の話はするななんてのは昭和の時代から言われてることだけどネットで匿名で発信できる現代はかなり政治について語られてる時代じゃないかなと思う。だから「普通の人達」の手から離れてきてるって感覚が全然分からない。むしろ「普通の人達」の声がこれだけ可視化された時代は初だろうと思うし、各政党が「普通の人達」の声にこれだけ敏感になってるのも初じゃないかなと思う。
それは衆愚政治と紙一重なのではって話は面倒なので横に置いとくとして。
「世のため」とは人間社会のため、「人のため」とは他人のためなのですから、人間至上主義のエゴイズムがほとばしっていることにはかわりありません。さらにいえば、自分のためでは無いということによってあたかも「エゴイズムではありません」っていう大義名分を得るわけですから、むしろ危険です。
「世のため人のため」は人間中心の利己なのですから、どうやっても、地球のためとか宇宙のためとか動植物や国土風土のためだとかいう価値観には直結しえません。
道徳と称するものは、(儒教の)信仰ですから、「道徳はエゴイズムだ」というのはタブーであり、嫌悪されます。中国文化圏は儒教信仰で、日本というものも儒教国家です。そして、国家社会を維持するための方策として、儒教が教化されてきました。信仰を「間違っていますよ」と指摘されると怒るわけです、己の誇りの無さを埋めるために依拠するところですから。信仰とは、無批判に善悪が決まっていて、自然法則は抜け落ちます。日本は儒教国家ですから、儒教や道徳を批判することは国家社会の既成構造、既成状態を批判することと同じ、すなわち社会の既成状態によって助かっている人々にとって、儒教批判はタブーで、絶対にダメであるわけですね。
さて、例えば「一番じゃなきゃダメ」だというスパコンにせよ、その神戸のスパコンのケイってやつは確かに例えば気象シミュレーションに用いることで災害予測技術の向上にも活用されています。災害予測をすることで、「かけがえのない人命」が助かると、ほぼ皆思うでしょう?
人類は人間至上主義で、他の動植物や地球や宇宙のことが抜け落ちています。例えば、人命のためだとか、国家のためだとか、人類のためだとか、子孫繁栄のためだとか、そういう目的で資源も浪費するし、地球を破壊して、それでもなお増殖しようとしてきました。その異常性を省みることすら、ほぼ全ての人は、しません。
人命のためとか、産業のためとか、経済成長のためとか、国家のためだとか言っていれば、いくらでも資源を浪費してかまわないという理屈になるでしょう。そのためには、化石燃料を浪費するし、核燃料を遣ってでも電力をジャブジャブ消費可能にしなければならないということになる。防犯のためならば電灯点けっぱなしにもするし、宣伝のためならば看板の電灯も点けっぱなしにするし、自家用車は売りつけるし、誰もがモノを所有し放題で浪費していいという社会状態にした方が都合がいいわけです。
そもそもは例えば神道にせよ、原初の神道、つまり神祇信仰、いわゆる自然崇拝という時点では、地球や宇宙や自然現象に対する畏敬がありました。天皇は祭祀を行いますが、その祭祀の目的は天神地祇、つまり自然や自然現象の御機嫌を読むことです。それは、天皇以前の卑弥呼などであっても同じです。そういう超能力(ESP)であり、そういう職業です。
それに対して、神社神道へと変遷し信仰の対象が人へと換わり、そして人間の我欲を満たすことが主目的の祈願ばかりが行われるようになり、さらには国家主義のいわゆる右翼にせよ国家神道と称する儒教を信仰しているわけですけれども、そうなるともう人間社会至上のエゴイズムです。
人間ってそんなに大したタマなんか? 「かけがえのない命」っていうけど、どうせそのうち死ぬんだろ? それが当然の自然法則であるわけですから、その現実を直視してイヤイヤしないのが、本来の神道(原初神道)もそうですし、本来の仏教(人間釈尊が説いた仏教)もそうです。
儒教や国家主義だけではなく、民主主義とか共産主義とかでも凡そ、人間中心主義から脱け出られません。人間至上のエゴイズムから脱出するには、そもそもの自分自身の思想が、脳が、その域に達する必要があります。デモクラシーであろうがコミュニズムであろうが、当の人々ひとりひとりがその域に達した生物にならなければ、人間至上から抜け出した自己客観視の可能なスーパーエゴのある社会にはなりえないのです。むしろ、民主主義とかいってその域に達しない人が政治参加をして自己批判もしないでいると、エゴイズムによる政治になります。つまり衆愚政治になります。けれど言うまでもなく、独裁体制や階級政治、身分による社会であっても、社会を差配する者がエゴイストであれば、話になりません。
そうすると、今の、安倍日本にせよ、プーチンロシアにせよ、トランプアメリカにせよ、どうなのかって、いちいちここで言うまでもないと思います。