「話が通じる」「話が通じない」とよく言うが、そもそも話が通じるとは何なのか。その2つの間の違いは一体なんなのだろうか。
話が通じるというのは、お互いの間に概念が共有され、価値観が理解しあえるということだろう。これは、相手の意見に納得するという意味では必ずしもない。相手の認識を理解し、尊重することを意味している。
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ところで、まず人に話をする際に意識することは、相手に伝えようとすることだ。まずはこの点なしにはただの啀み合いにしかならない。ネットの上の言論は、まずこの点をクリアできないことが多い。そのため、話は通じない。相手に伝えようとする努力というのは例えば、相手と自分の共通する観念をもとにして、相手の理解を深めるという努力だ。
この共通する観念が少ない、あるいはないと、話は極端に通じづらくなる。あまり適切な例が思い浮かばないが、例えば盲目の人に色を説明するようなものだ。色をあらゆる言葉を使って説明しても、色それ自体を認識できるわけではない。
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あるとき、国会でX議員が理屈の通らない、全くもって意味不明な答弁をしたとしよう。それも、明らかにその者は無能と認定できるような答弁としよう。Z新聞はこう報じるだろう。
はてなブックマークでもよくわかるように、本文を読まないでタイトルだけで記事を読んだ気になって、その感想を他人に共有する者は多い。(データはないが、少なからずあるだろう)
しかも、新聞ではわざわざ意味不明な発言を全て書き起こすということをしないし、あくまでも文章であるので、読んでいたとしても、その答弁の様相の全てが伝わることはない。
前述したように、明らかにコミュニケーションの能力がなく、コミュニケーション能力上「無能」と認定できるような発言をしたのであるから、無能と認定されて然るべきなのだが、残念ながら新聞を読んだ人間にはその無能さが伝わらない。
無能を無能と理解できるのは、この議員の答弁を動画で見た者である。動画には発言の全てがあり、例えば表情の変化や抑揚、顔色、声色などがわかる。
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話が通じないのは共通する観念がないからだ。例えば、動画を見た人の間で生まれる共通認識としては、「意味がわからない」だろう。例えばX議員の例のように、「意味不明な答弁」と糾弾する非支持者と、動画を見ないかねてからの支持者との間では、X議員の無能さについての議論は通じづらいはずだが、動画を見た人々の間では「意味不明である」という共通認識が共有できる。
https://twitter.com/knife9000/status/1222876809483546626
例えば意味不明な答弁が行われたときに、これを問題にするか、問題にしないかはまた別の問題だ。無能であることを認めずに問題にしない、というのは無能であることを見抜けなかった受け手の問題はあろうが、だが無能であることを認めて問題にしない、というのはおかしい。後者の場合は、「無能が国民を代表している」ことを認めているから、衆愚政治の信奉者か、国家の崩壊を心待ちにするアナーキストくらいしか適切な人物像が思いつかない。
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結局この文章も人に伝える能力の点で無能には違いないのだろうし、論理的な無能さを露見するものにはなるし、またその無能を認識しながらこうして文章を書き殴るのもまた無能だが、結局言いたかったのはお前ら国会見てる?
ニート以外国会中継なんか見られないだろ