はてなキーワード: 茶々とは
ここ一週間くらい、間違いなくそんな空気がネットを支配している気がする。
主語がデカいと茶々を入れてくる人もいるだろうから、はてブに限定した話でも構わん。
ここまで現実と密接にリンクしたゲームが大流行したのは初めてなんだから、不快に思う人もいるだろうし、気味悪く思う人ももちろんいるのは想像できる。
想定していない人がワラワラくるから、平和公園や寺にポケストップを置くな、という批判はまあわからんでもないし、勤務中や休憩時間でポケモンGOを使うな、ということについては、会社で私物のスマホを使うなという規約がある会社だってあるんだから、そんな規約が設けられてもまあそういうのもあるよねって感じでしかない。実際のところ、1から10まで全部間違っている批判なんてのはそうそうなく、まあそういう考えもあるよねくらいで、同意できる批判も多い。やくみつるによる批判も例外ではない。
何より流行り物は基本的に叩かれる運命にあるんだし、叩かれることで一般的に知られるし、前述の不快に思う人や気味悪く思う人との折り合いがついて、社会に馴染んでいくステップにもなるんだから、叩かれること自体は自分はそんなに悪いとは思わない。「まーた、叩きが始まった」くらいでどっしり構えていればいい。
だから、ポケモンGO叩きのニュースがあると、そんなニュースの存在は許さないと言わんばかりに色々と屁理屈をこねて必死に叩いているコメを見るのは、もう気味が悪くて。
理解の乏しい大人による叩きということで、流しておけばいいじゃん。必死に叩き返そうとするから、叩くほうも面白がってるんじゃないの?という気すら最近はする。
ここまで極端では無いけどファッションがコミュニケーション障壁になるというこの感覚はすごくある。
ファッションって達成する目的があるようなものでは無いから、興味が無かったりそもそもファッションに投資出来る環境で無ければ全く関わらずに過ごしていくことも出来る。
元記事で「女性には先天的なもの」と言っていたけど多分これは語弊があって、女性はこの感覚を養う環境が比較的整っているというほうが近く感じる。
先入観もあるけど女の子はやっぱり子供の頃から気を配る印象があるし、女親もそれなりに手をかけてあげるだろうしむしろ自分の楽しみとして
お洒落させてあげることすらあるだろう。そもそも金のかけ方が全く違う。
男についてはこの辺りが全く無い。自分は偶然元記事と同じ 27 歳だけど、少なくとも小学生の頃に男でお洒落に意識のある同級生はいなかった記憶があるし
服を買って貰うくらいならむしろそれよりもミニ四駆やゲームソフトなど欲しいものがあり過ぎた。
小学校の女の子同士でファッションのコミュニケーションは成り経つかもしれないが、男では成り立たない。
そしてこれがなんらかの要因で、自分はスクールカースト底辺だったからだけど、周囲がファッションに関心を持つ頃に
それに関わること無く過ごしていくことで必要性を見出せなくなる。
周囲の環境も同じような人で構成されていくようになるから困ることも無い。
ファッション人にせよそうでないにせよこれで住み分けが出来てしまってる人は問題無いというか関係無いんだけど、稀にそうでない場合が出てくることがある。
例えば、あくまで例だけど、採用面接に向けてスーツを着るとする。スーツなんて誰でも着れるだろ、なんでもいいだろという話だろうけど
この誰でも、何でもはファッション人かそうで無いかで恐らく価値観が全く違う。自分の例で言うと多分ワゴンの 2 万しないようなスーツを
着ていたし、ネクタイも色とか適当で締めれればいいと思っていてタイピンは上着着てれば見えないから不要だと思っていた(いる)。
共感する人もいるだろうし常識が無いという人もいるだろう、多分後者のほうが圧倒的に多いはずだ。
もっと言うと住み分け的にはこういう人種はスーツを要求されないような職種に着くのが正しい。が、そうでない事情が発生するとこういうケースが起きる。
例えば、恋人が出来た場合。ファッションが趣味らしいがそれを自分に要求してくることは無い。無いんだけど、それと自分が意識しないかは別だ。
自分は学生の頃から衣替えも不要な程度の衣類を着回している。一緒にいて恥ずかしい思いをさせないんだろうか。
出来ることは改善したいがそういう環境で生きてきておらず知識が無い。価値観が無い。常識が無いと思われるのでは。
妄想乙など余計な茶々が入ると面倒なので書くと、これはほぼ実体験でこれを含めた様々な劣等感に苛まれているうちにふられた。
ファッションについての義務教育をやれとは思わないが、本人が決定出来ない環境でこういった障壁が出来るのは厳しいものがある。
だいぶ元記事から曲解している自覚はあるが、こういう障壁に直面した時に攻撃的な解釈をすると元記事のようになるんだろう。
先にも言った通り住み分け出来ている人間からはこういった価値観は理解されず、どちらかに倒した言及しかされないので分かり手が少ない。
トラックバックもブコメも(気持ちは分かるが)全体的に人格攻撃ばかりで本質的な言及が無かったので気になり、慣れないながら投稿した。
上記内の記事でもそうだし、
散々いろんな優秀な方々が言ってることだから
「技術が単純に好きなこと」
なのだろう。。。多分。
そこでふと思ったんだけど
この技術が「好き」という想いには
【Level1】:
ネットや本屋で新しい技術を目にすると、ざっと確認してしまう習慣がある。
【Level2】:
Level1に加え、自宅でWebサーバを公開したり、アプリを作成している。
またこのレベルからはデザイン、UI/UX、DB、セキュリティ、インフラ技術など、興味関心が多分野へ渡り、コミットし始める。
【Level3】:
Level2に加え、休日はしっかりと時間を確保し、技術の習得や、OSSへのコミットを楽しんでいる。
【Level4】:
Level3に加え、技術が面白すぎて、いろんなアイデアが一日中頭の中に浮かび、
【Level5】:
Level4に加え、FWやライブラリのソースを読破し、茶々を入れることに喜びを覚える。
【Level6】:
現在第2のMatzになるため、世間から隠れたところで日々ハッピーエンジニアリングに勤しむ。
↑これあってる?
自覚したのは高校生の時で、思い返してみると小学生の頃からそうだった。
コミュ力が高いわけではい。人見知りだし、コミュ障だし、友達も少ないし、人気者というわけでもない。
学生時代は目立たないグループにいた。仲いい人達とだけ喋れる、っていう典型的な内弁慶。
しかし、複数人で話していると、いつの間にか私がその中心になってしまう。
例えるなら、バラエティ番組の司会とひな壇芸人。「踊るさんま御殿」のさんまとそれを取り囲むタレント、ってのが一番近いと思う。
飲み会の席などで、なぜか皆、私に向かって話をする。私以外の間で会話がないわけではない。相槌や茶々を入れたり、質問を挟んだりはする。
しかし、基本的に自分が話の聞き手になってしまうのだ。A→私、B→私、A→私、C→私・・・という風な会話の流れになってしまう。
バラエティ番組の司会とひな壇芸人という例えを出したが、もちろん私から話し手を指名しているわけではない。
「この間こんなことがあってさ、」「聞いてよ、アイツがー」「そういやあの話聞いた?」を言われるのが毎回私なのだ。なぜなんだ。
前述した通り、私はコミュ力がなく口下手だ。司会でもタレントでもなく、出来ることなら観覧席で笑っていたいタイプなのだ。
話を聞きながら笑い、たまにツッコんだりするポジションでいたいのだ。
しかし、彼らは私を見ながら話す。私は、相槌を打ち、リアクションをし、話の続きを促す。
私は、どうすればいいんだろう。
私がいない時、友人達はどういう風に会話をしているんだろう。
積極的治療を行い、回復等が見込まれたら退院させられる急性期病院と違い、慢性期病院に漂うのは常に絶望だ。日本では、医師の立会いなく人が死亡した場合、必ず警察が介入することになる。「めんどうくさくなく」死んでもらうには、必ず医師に看取ってもらう……有り体にいえば、病院で死んでいただく必要がある。「看取り」といって、はっきり言ってそのためだけに入院してくる患者も少なくない。治る見込みがない、在宅復帰が難しい、施設等でも面倒が見切れない。そういった人たちが寝泊まりする場所になっている。
みな、他人の生き死についての、責任をとれないのだと痛感する。
自分自身が、身体中にチューブを繋がれ、自分が誰かもわからない状況で延命されたいと、果たして誰が思うであろうか。みな、アイデンティティを失う前に死にたいと思っているに違いない。ただそれは、今老いていないからというにすぎない。老いてしまえばすべてがわからなくなる。本人がわからない以上、無難な対策を取るしかない。……誰もがそれらをわかっているうちに死ねるわけではない。誰もが望んで生まれてきたわけではないのと同じで、誰しも自分の死でさえコントロールすることはできないのだ。そこから生まれる妥協案が延命であり、日本の医療なのだろう。
しかしそれを誰が責めることができるというだろうか。例えば自分の肉親が、自己がなくなる前に緩やかに殺してくれと言って、果たして文化的バッシングを受けずにすることが可能なのか。本当はそんなこと望んでなかったのではと、茶々を入れてくる親切な隣人は本当に存在しないのか。……あるいは生死に関わるような重大な意思決定でなくとも、人に自分の決断に水を差される経験が本当にないか、あるいはした覚えがないか。
人々の人生がすべてもっとドラマティックならば、もう少し気が楽だったのかもしれない。しかしほとんどはそうはいかないのだ。ぼんやりと上手くいかない。喉を詰まらせて肺炎を起こす。運が悪いとしぬ。責任を問われたくないので可能な限り不運を取り除く。そうしていくと、やがて人としての生活が薄れていく。仕方がないことだ。誰の手にも溢れるのだから、人の生死に関わる責任は。それがたかだか、一月暮らしていけるだけの給与しかもらえない人間になにができるというのだろう。
後見人を設けず単身で死ぬときなどは、より悲惨だ。本当の意味で、その人の死についての責任者がいなくなるからだ。役所と病院が、まるで裏の花壇が枯れてしまったかのように淡々と処理する。そうするしかないのだ。それ以上の何を望む?しかし人間というのは、自分には関係のないときほど、それらを求めてしまいたくなるものだ。……きっと、自分がそうされたくないという気持ちの裏返しなのだろう。
私は何も、尊厳死を推奨したい訳でも、延命治療を擁護したい訳でもなんでもない。
ただ、自分の人生はすべて自分の手で選択できるという考え方は、あまりに幸福な幻想であると痛感するだけだ。
今日も慢性期病院に漂うのは絶望だ。その中でも希望の光を見出そうとする看護師たちの姿がまぶしく、心に刺さる針が増える。他人事に思えるのは、他人の死が書類上の出来事でしか感じられない今だけだ。
なんからのランキングで上位になったとかっつーニュース見たから読んでみたけど、確かにおもろい
練習してますって光景一瞬だけ描写してあとはそれ以外の描写(練習はもちろんしてるけど代わり映えしないからあえて描写してないだけ)ってのもありっちゃありだけど、たまにはこういうのもいいと思う
ひたすらどんなときでもコツコツ練習を続けてるのがものすごく伝わってくる
それなのに退屈やマンネリがない
だいぶ前に音楽系の漫画は、BECKしかりほかのもんしかり肝心の音を描けない以上すべて手抜きだっつってバッサリ言ったけど、それに対するひとつの回答をうまく見せてくれてる気がした
何かっつーと聞く人の表情の変化ね
他の漫画だと一コマうつって終わりみたいなのが多かったけど、この漫画だとバカにしたような表情からポカーンとした顔にかわって、次第に興奮さめやらぬ顔になって・・・みたいなふうに、音楽自体がどれだけオーディエンスに影響を及ぼすすばらしいものだったか、ということに、他の音楽漫画より印象的なアプローチをしていたから
ドシロートが影響受けてサックスはじめて・・・っていう一本調子じゃなくて、そこで関わった人が何年か後になって主人公が世界的に成功した後に取材を受けてる体でインタビュー描写がちょくちょく挟まれるんだよなー
まあそれによってオチを最初からネタバレされてるようなもんなんだけど
この漫画自体が主人公の伝記じみてる設定になってるのがこそばゆいんだよ
作中だとリアルで進んでるように見えるのに、その実もう成功は約束されてるっていう
それでも面白いんだよなー
逆に、岳とくらべて終わりをはっきりさせてくれてる分、読者にとっては安心して読めるとも言えるかもしんない
ただ才能にあぐらをかいてるわけじゃなく、ちゃんと努力をした上でそれを認める人がでてきて・・・みたいな、まあもちろん才能もあるにはあるんだろうけど、地に足の着いた毎日を過ごしてる、キャラに血が通ってるように思える漫画は、やっぱりおもしろいなあと思った
バイトで身体壊して吹けなくなるとかも、上述のインタビュー描写によって、ないことが保証されてるみたいなもんだから、そこんところで変な茶々、というか展開をつくるための無理な負傷(スポーツマンガの故障展開大嫌いなのよ)もなさそうだしね
ヒカルの碁しかりアイシールドしかり、それを知らなくてもおもしろい漫画って、ほんとに漫画自体がおもしろいってことだなあとしみじみ思う
何ってキンプリです。KING OF PRISM by PrettyRhythm。公式サイトはこちら→http://kinpri.com/
最近ちょこちょこ話題になってネットの記事とかアップされているのでググればすぐでてきます。
というまあ映画館でペンライト振ってキャーキャー騒げるやつでこれがやたら楽しいのです。何回も行きたくなります。中毒患者を量産するのでシャブ映画と言われたりしています。
この応援上映が評判となってじわじわと人気が広がり上映館も増え今に至るわけです。
あれっとなったのは2月半ばだったと思います。ストーリーが追えなくなりました。誰かが喋る度に合いの手というか茶々が入る。しかも大勢で長々と。台詞にもかぶせてきて内容が聞き取れないことも多かったです。ストーリーが無いから問題ないと言っている人はちゃんと映画を観ましょう。しっかりストーリーありますよ。
そしてつい先日。あるキャラクターに対する野次への問題提起がありました(念のためそのツイートをされた方は私と無関係ですよ)。内容は「仕事しろ」とか「一般人」とかです。実際どうなのかというと彼は仕事もしているし主宰なので一般人ではありません。もともとあったアニメの方で敵の謀略によって失脚したときにそう呼ばれたことがあるのです。
この野次に関してここでどうこう言う気はありません(不快なのは確かですが)。
私が気になってしまうのはそれって「応援」なの?ってところです。上記にあるように応援上映は「プリズムスタァ」に対する「声援」を送るイベントです。
キャラに対する野次(a.k.a罵声)や台詞にかぶせてまで言おうとする大喜利大会って誰のために言ってるんですか?
「それな」っていちいち言わないと同意もできないんですか?
ニコニコ動画のノリを現実に持ち込むと心底シラけるってまだ気付いてないんですか?
もちろん大多数の方はマナーを守っています。ですがそういう人がいるんです。たまにではなく毎回のように(主に関東にて観測)。
さすがに同じ人が毎回鑑賞しているとは思えないのでそれぞれ違う人でしょう。
「メッセージが見え見え、薄っぺらい」そのようにしか感じられないのなら、その作品はきっと童話のようなもので、成熟したあなたに合った作品ではないのだろう。
……本当にそうであるなら、批判などしなくてもただ距離を置いて忘れ去るはずだ。そうしないということは、その作品にあなたは期待を寄せており、その作品を高く評価する同年代の人間も多いということだろう。彼らは「薄っぺらい」とは感じていない。
ではなぜあなたは自分の「薄っぺらい」評を見つめ直せないのか?それは、自分が読み取った受け止め方が正しい、作者の言わんとしていることはこれに違いない、だからこの作品はこの程度のもの、これを有難がっている奴は幼稚だ、そう信じこんでいるからではないか。もしそうなら、“正解”があるかのように誤解させる国語教育を恨んでもいい。言うまでもなく、作品が伝えるものに“正解”はない。ある程度の枠組みの中にテーマ性はあっても、何をどう受け止めどう感動するかというのは、人により千差万別で、それでいい。でもどうせその作品から目が離せないなら、楽しめる受け止め方をしたいもの。娯楽だもの。つまらなく受け止めた自分とは異なる受け止め方をした人の考えを理解しようとするのは非常にエネルギーのいる事だが、非常に知的好奇心が刺激されることでもある。自分が見えていなかったポイントを裏側から見るような経験ができるからだ。
まがりなりにも作品を批評――というか貶すような物言いをするのなら、“自分は見るべきポイントを全て網羅しており、かつそれらのポイントを良い視点から眺めている”ことを確認する作業が必要になる(それを意識的にしている人がどれほどいるだろうか)。その作業は、下を見ることではなく、上を見ることによってはじめて達成される。具体的には、たとえば熱い考察記事に片っ端からあたること。決して、2ちゃんやtwitterに溢れるネガコメに同調して自分の見方を補強することではない。より頭を働かせ貪欲に楽しもうとしている人からこそ学べるのだ。その作業をしていると、きっと自分の小ささを実感するはずだ。一個の人間の持てる視野はあまりにも小さいことに気づくはずだ。そういう経験を繰り返すうち、どのような作品に対しても謙虚にその見えざる良さを斟酌するような姿勢がとれるようになる。そして、楽しむ人を侮ることもなくなる。楽しめるということはすなわち、人生の読むべきタイミングで読むべき作品を読んでいること。それは幸福なことで、茶々を入れて壊すべきでないと思えるからだ。それは他人を、他人の人生を尊重するということでもある。しかし、ネガティブな感情に囚われていると、決して、そのような心境には至れないだろう。それは本当にもったいないことだ。
残念ながら昨今のインターネットの短文文化は、このもったいない状況を加速している節がある。ぜひそれに抗って、深く長く思いを巡らす時間をとってほしい。私のようなニートの仲間なら特に。ニートが生存するために一番必要なのは、きっと心の豊かさだ(経済的には依代があるからニートできているのだろう)。まあ、ネガティブなことに思いを巡らすのは逆効果だが、ネガティブをポジティブに転化できるものの考え方というのは、何にも代えがたく、得難い資質であると思う。脱線してきたのでこのへんで。
それはブログやTogeter、まとめサイト、果てはニュースサイトでもよく見られる表現である「文章内で唐突にある一文のフォントサイズを大きくして表現を強調する時」である。
だが、これが真面目な内容だとその限りではない。むしろ読みやすいと感謝されるくらいだ。
センスが問われるのは一文を強調することでウケを狙っている時なのである。
フォントサイズを大きくして特定の一文を強調するのは諸刃の剣だ。
あからさますぎると読者は引いて白けてしまう上に、むしろ思い通りに読者が笑ってくれることの方が少ない、ということが分かっていない人が多い。
まとめサイトはさすが群雄割拠なだけあってこの事がよく分かっているようで、大手になるとむやみやたらにはウケを狙った場面では文字を強調することはない。色はバカみたいに変えているが。
(ちなみにニュースサイトの場合、フォントサイズを強調してるようなところは十中八九つまらない。)
しかしブログやTogetterはまだまだ洗練されておらず、この手法を多用している人が多い。
多分、自分が面白いなと思ったところを素直にフォントサイズなりカラーなりを変えて強調しているのだろう。
そういう場合は得てして、文章の流れをぶった切ってしまってメリハリがなくなっていたり、唐突過ぎて読者が置いてきぼりになっているためフォントサイズを変えることに何のメリットも発生していない。
唐突にフォントサイズがでかくて赤で強調された一文なんかを見た時には、どんなに元が面白い文章だろうと読者はやっぱりちょっと引いてしまうのだ。
テレビ番組がよく用いる「さあ、ここが笑いどころですよ」というエフェクトもネットではよく批判されているが、これも同様に相当エフェクトを使うセンスがないと逆効果となりやはり視聴者の心は離れてしまう。
つまり「この一文が笑いどころです!」なんてのはよっぽどそれまでの文章の流れを上手くしたり、タイミングを見計らって自然に見せないと効果はないし、多くの場合は逆効果になってしまう。
これは何もネットに限ったことではなく、現実社会の「面白い奴」「面白くない奴」と同じで人としての重要なセンスが問われる瞬間だ。
「普通に話せば面白い話なのに余計なリアクションや茶々を挟む人」や「あいつがこんな面白いこと言ってたんだけど、と話し始める人」になるくらいなら、普通に淡々と話したほうが何倍もマシなのである。
何もないor不細工男とセックスでも、後者を選ぶ女性は0人だと思う。
と言う茶々は置いといて。
別に強者女性でも強者男性と同じ思考回路を持ち、弱者女性を感情的に嫌って軽蔑している層はいて(所謂名誉男性ってやつだ)
何だかんだで強者男性に取り入って権力握っている強者女性ってのは、フェミニストではなくそういう層なんだよね。
だから弱者男性がいくら強者女性は弱者男性を救えったって彼女らがそんな事やる訳がない。
同じ女性ですら弱者は努力不足の自業自得のゴミクズと思ってる彼女らが弱者男性の事をどう思ってるかなんて推して知るべしだ。
訴えられたら大変な損失が出るってことを指摘してるだけだから…。
誰かが決めた不完全な法律に少し触れた(可能性がある)からって何だというのか。人やものが傷ついているわけでもないのに。楽しんでる人達とあなたの心、どちらがきれいなのか。
俺もどうしても気になって茶々入れる側の人間(それが正しいと思ってたし)だったけど最近心が大きくでもなったのか以上のように考えるようになった。
作る人達が食えなくなる(かもしれない)という理屈はもちろん今でもわかる。だけど音楽を作って儲けようという発想自体が何か邪なものではないだろうか。音楽はみんなのものだし外からのインプットと好奇心と偶然の産物だ。音楽理論だって先人達が考えたものだ。
音楽は音楽家が作ったものではなく与えられた遊びにすぎない。鬼ごっこをしよう俺鬼やるから逃げるだけのお前らは金払え。音楽家はそう言っているのだ。
以前アニメ化したけれど、アニメ版はどうしても受け入れられなかった。
脳内で思い浮かべていたキャラクター像とアニメのキャラクター像が違う。
どこが違うのかわからないでいるのも嫌なので原作とアニメの描写を見比べたりした。やっぱり気に食わない。
最近続編が出たので喜び勇んで買って読んだら、脳内で思い浮かべていたキャラクター像がアニメ版の嫌いなキャラクター像に引っ張られてしまって全然集中できない。
脳内のイメージがアニメのキャラクター像で邪魔されるたびに、「違う!」「気に食わん!」という茶々が入ってしまって身が入らない。
見比べたりしたせいでイメージが頭にこびりついてしまったみたいだ。
変に真面目にならずにさっさと見るのやめればよかった…、と今更後悔している。