積極的治療を行い、回復等が見込まれたら退院させられる急性期病院と違い、慢性期病院に漂うのは常に絶望だ。日本では、医師の立会いなく人が死亡した場合、必ず警察が介入することになる。「めんどうくさくなく」死んでもらうには、必ず医師に看取ってもらう……有り体にいえば、病院で死んでいただく必要がある。「看取り」といって、はっきり言ってそのためだけに入院してくる患者も少なくない。治る見込みがない、在宅復帰が難しい、施設等でも面倒が見切れない。そういった人たちが寝泊まりする場所になっている。
みな、他人の生き死についての、責任をとれないのだと痛感する。
自分自身が、身体中にチューブを繋がれ、自分が誰かもわからない状況で延命されたいと、果たして誰が思うであろうか。みな、アイデンティティを失う前に死にたいと思っているに違いない。ただそれは、今老いていないからというにすぎない。老いてしまえばすべてがわからなくなる。本人がわからない以上、無難な対策を取るしかない。……誰もがそれらをわかっているうちに死ねるわけではない。誰もが望んで生まれてきたわけではないのと同じで、誰しも自分の死でさえコントロールすることはできないのだ。そこから生まれる妥協案が延命であり、日本の医療なのだろう。
しかしそれを誰が責めることができるというだろうか。例えば自分の肉親が、自己がなくなる前に緩やかに殺してくれと言って、果たして文化的バッシングを受けずにすることが可能なのか。本当はそんなこと望んでなかったのではと、茶々を入れてくる親切な隣人は本当に存在しないのか。……あるいは生死に関わるような重大な意思決定でなくとも、人に自分の決断に水を差される経験が本当にないか、あるいはした覚えがないか。
人々の人生がすべてもっとドラマティックならば、もう少し気が楽だったのかもしれない。しかしほとんどはそうはいかないのだ。ぼんやりと上手くいかない。喉を詰まらせて肺炎を起こす。運が悪いとしぬ。責任を問われたくないので可能な限り不運を取り除く。そうしていくと、やがて人としての生活が薄れていく。仕方がないことだ。誰の手にも溢れるのだから、人の生死に関わる責任は。それがたかだか、一月暮らしていけるだけの給与しかもらえない人間になにができるというのだろう。
後見人を設けず単身で死ぬときなどは、より悲惨だ。本当の意味で、その人の死についての責任者がいなくなるからだ。役所と病院が、まるで裏の花壇が枯れてしまったかのように淡々と処理する。そうするしかないのだ。それ以上の何を望む?しかし人間というのは、自分には関係のないときほど、それらを求めてしまいたくなるものだ。……きっと、自分がそうされたくないという気持ちの裏返しなのだろう。
私は何も、尊厳死を推奨したい訳でも、延命治療を擁護したい訳でもなんでもない。
ただ、自分の人生はすべて自分の手で選択できるという考え方は、あまりに幸福な幻想であると痛感するだけだ。
今日も慢性期病院に漂うのは絶望だ。その中でも希望の光を見出そうとする看護師たちの姿がまぶしく、心に刺さる針が増える。他人事に思えるのは、他人の死が書類上の出来事でしか感じられない今だけだ。