はてなキーワード: 自己承認とは
そう思う。靴だけに限っても強制されるべきではないと思うが、主導者が自己承認を軸にし始めて支持するつもりが無くなってしまった。意義のある活動だったと思う。
吊るしのスーツを着ることが身体的に困難な人、首を締められることに抵抗がある人、結構見てきた。でも「それが普通だから」でやり過ごされてきた。
ちょっと前だと「コーヒーが飲めない」という人が「大変そうだね…」って言われていた。訪問先で配慮せずコーヒーを出されるのが普通だし、飲まないのが失礼という文化だった。前って言ったって 10 年程度ですよ。
どんな服装も文化も誰にも矯正されるべきではない。それなのに「普通」を維持したい人に言い訳を与えてしまった、変な人によるムーブメントの存在が辛い。
2ヶ月ほど前、3年くらい付き合ってた彼女と別れました。
ごたごたが収束して僕にも新しい気になる女の人ができたので今これを書いています。
・発達障害らしいが、それを言い訳に使って僕に家事をさせたり金を出させたりする。
・ちょっと休んだだけですぐ「私のこと放置した!どうでもいいの?」と鬼電(夜寝かせてくれない日も何日もありました。そのせいで今は僕が精神科にかかる羽目に......)
「メンヘラってかわいいイメージあるよなw」とか抜かしてきた僕の友達、見てるか?
メンヘラが可愛いんじゃなく、可愛い子がメンヘラだと許せるだけ
これに尽きます。見た目の伴わないわがままは殺意を向けざるを得なくなる。
では、なぜ僕がそんな彼女とお付き合いしていたのか。思い返すと、あの頃の自分はいわゆる「オタ仲間」に飢えていたように思います。同じジャンル、キャラクターを愛するフォロワーさんにはそこそこ恵まれていたのですが、いまいち話のピントが合わない。そんな時にツイッター上で出会ったのが彼女だったのですね。ツイッターはアイコンを本人にする義務がないので、顔が基本的にわかりせん。まあ、ツイート内容のキモさと言うか、オタクとしての"濃さ"みたいなものがにじみ出ていて、よく考えられたらその時にこじらせたブスが背景にいるアカウントであることは察してしかるべきだったのです。僕のミスです。
愚かだった僕は、その子(元カノ)にコンタクトを取りました。「〇〇さんのツイートほんと共感性高い!」みたいなことを言って褒めちぎりました。彼女は頭が悪い上、一度もモテたこともない汚い女だったので、すぐ僕になつきました。深い話を通話でするようになりました。
ここが騙されたポイントで、彼女は気持ち悪いツイートばかりする「限界オタク」のようでしたが、初めて一対一で通話した時には「意外と声が可愛いな」と思わされる声質だったのですね。通話では顔は見えません。僕は彼女がもっと自分に好意を持つように、「かわいい声」「お話がおもしろい」などと褒めちぎりました。これが大きな過ちの一つだった。
男でも女でも陰気なブサイクはモテない。分かりやすい言い方をするならちやほやされたことがない。彼女もまたそうで、「かわいい」の一言を両親以外から言われたことがなかったようでした。(もちろん交際経験もゼロ)そうなると、毎日馬鹿みたいにそいつを褒めてやっていた僕は、ブスの片恋の的にされてしまうわけです。
複雑な事情があり、大きく端折りますが、結果的に僕とそのメンヘラブスは付き合うこととなってしまいました。
僕は幼い頃のさまざまな経験や育ちから自己承認力が弱く、汚いメンヘラの女からでも優しい言葉をたまにかけられるだけで依存してしまうほど弱い存在でした。
いつしか思考は「この子を手放したら自分には誰もいなくなってしまう」という強迫観念に囚われていました。
働かない彼女にご飯を食べさせる。誕生日に花束を贈る。汚いメイクのようなものを頑張ったね、上手になったね、と褒める。自分に優しくしてくれる存在であればどんなことでもしてあげよう、と思っていました。今考えると完全に病んでいますね。
余談ですが、僕の好みはボーイッシュ系が映えるショートの美少女、体型はスレンダーが好きです。しかしこのメンヘラ彼女は真逆で、手入れされていないボサボサの黒髪をだらりと流し、大会はババアかよって何度も言いそうになるくらいブヨブヨでした。そんな彼女を必要に応じて何度も抱きました。頑張って自分を奮い立たせ、彼女に失望されないようにそれだけを考えていました。そうしていたら、別れる間際から別れた直後あたりはセックスという単語を見るだけで彼女を思い出して具合悪くなるまでになってしまいました。
そうまでしてなぜ繋ぎ止めたのか?やはりこれは僕の自己肯定感の決定的な不足だったと思います。あとは周囲に本音で語れる人がいなかった。いかに関係作りが大切かその頃の僕は気づいていなかった。本当に、恋人以外に本音を話せる友人を作ることは大事ですよ。
そんな彼女との縁の切れ目が見えたのが交際して2年半ほどのころ。
毎日僕が先に眠ると、明日は仕事だから寝かせてくれと何度伝えても暴れて起こされます。まるで赤んぼうのようですが、彼女は20代の太ったブス。僕の精神は完全に疲弊していました。
その日も、僕が明日に備えて早めに床に着くと、「あたしがブスだから逃げるんでしょ!」「あたしのこと嫌いだから寝るんだ」等の支離滅裂な言葉を叫ばれました。彼女はこのように「自分のせいなんでしょ」というスタンスでこちらを攻撃してくるタイプの人格障害者でした。
その次の日は本当に大事な仕事があったので、つい「そうだよ。だから寝かせて」と曖昧な返答をしてしまいました。
当然メンヘラの彼女はショックを受けて、黙ったのち彼女の鍵アカウント(僕も当時は相互でしたが)に勢いよく愚痴を書き込んでいるようでした。その日はその光景を横目に寝ることができました。
次の日の朝、いつものように彼女が「ごめんね、昨日暴れちゃって......」と誤ってきます。そうです、迷惑をかけるだけかけておいて、そのあとついでのように謝ることで自分は悪くないと思いたいクズ人間なのです。
僕は寝ぼけながらいつものように「〇〇さんは悪くないよ」と優しく言いました。重ね重ねですが、当時の僕は初めてできた"恋人"を何が何でも失いたくなかったようです。
そんな言葉を交わして僕が会社へ行き、帰ってきて通知を確認すると彼女から「ごめんね」「ブスで」
とだけメッセージが。これは「ブスじゃないよ待ち」です。しかし、夜中に大騒ぎされ、就業の後で疲弊している僕は優しく対応する気力はなく、つい「そうだね」と返してしまいました。常日頃から醜い姿(顔だけではありません、体型や体毛の処理の甘さなども辛かったです。)を見せつけられ続けているストレスも溜まっていたのでしょう。
そうすると、彼女から「え、やっぱりブスってことでいいんだよね」
という返信。そうだっつってんだろ
これを送った瞬間、「終わった」という気持ちと「言ってやった」という気持ちが混在した不思議な気持ちになりました。
そしてしばらく連絡が途絶えた彼女。しかし1週間後に「ごめん、かわいくなるから。捨てないで」というメッセージが届きました。
しかし、こちらとしては一週間距離を置いたことで彼女に対して実に冷静な対応ができました。
「それは聞き飽きた。誰のお金で可愛くなろうとしてるの?たぶん〇〇さんじゃ無理だよ」
突き放すことができたのです。自分で自分を褒めてあげたかった。
「見た目も問題かもしれないけど、〇〇さんの性格の荒さにはもう付き合えないよ」
ときっぱりと追い討ちをかけることができました。
その後彼女からの鬼のようなメッセージや着信が来たので、すぐに全ての連絡先とツイッターアカウントをブロック。だいぶ端折っていますが、そういう感じで彼女とは切れました。
「意外とあっさり別れたんじゃん」
と思われるかもしれませんが、生々しいので省略している箇所が多々あります。彼女から受けた暴言、軽い暴力、メンタル的なハラスメント、金銭の搾取......etc.
それでも、しばらくは喪失感にぼんやりする日々が続いていました。
僕が今現在素敵だなと思っている人は、またツイッター上にて知り合うことのできた同じジャンルのオタクの方です。彼女とも話が合い、なんども通話を重ねていっているのですが、やはりあいつ(元カノ)はおかしい。今の方は人の話を聴くのが上手だし、僕の話を遮ってどうでもいい自分の自慢をしない。すごく大人な方に感じます。
依存体質のままで、まともに恋愛はできません。狂った恋愛をするか、別のものに依存するかです。僕の場合、「新しい爽やかな出会い」が腐らせないでいさせてくれましたが、「メンヘラモラハラ恋人とは別れましょう」と言ったところですぐに分かられられないのが依存カップルです。
だからこそ、今一度関係や、相手のことを見直してほしい。たいして好きでもない相手に、自分の大事なリソースを割かないでほしい。若いうちに考えましょう。意外と、自分のことを理解してくれたり、受け止めてくれたりする人なんて結構いるもんです。
freee のイクメンエンジニアはどんな 1 日を過ごしているのか? - freee Developers Blog
https://developers.freee.co.jp/entry/freee-childcare-culture
この記事はそれほどブクマを集めてるわけでも無ければ、私は freee 社に勤務してるわけでもない。でもこの記事に色々思うところがあったので、書く。
ルサンチマンというか負け犬の遠吠えというか、そういうものかもしれない。幸せそうにイクメンを語られると腹が立ってくるのは、私が不幸だと感じているからに違いないのだろう。
特に腹が立ったのはこの辺。
> ちなみに、イクメンは自己評価ではなくパートナーからの評価です (笑) > 平日のなんでもない日にパートナーや子どもが会社に遊びに来ます。
なんとも私と比べてのんびりしている。私は男なのに育児に振り回され死にそうだし、平日は妻も会社で子供は保育園だ。
他人と比べても仕方ないと思いつつ、同じイクメンエンジニアのはずなのに、freee社がのんびりした気質なのか、私が切羽つまってるのか。
まぁまずは私の1日を見てもらうほうが良いだろう。
7:00 〜 9:00
子どもより早く起きて、妻と朝食の用意。
子どもが起きてきたら一緒に朝ごはん。起きない。寝起きが悪い。たっぷり10時間は寝てるだろうに、何故だ。泣く。みかんで釣って起こす。
一緒にご飯を食べる。
妻は8:30前には出社する。
それから30分は子供と3人きり。下の子はEテレに、上の子はiPad上でのYouTubeに食いついて離れない。
このタイミングで茶碗を食洗機に放り込み、ドラム式洗濯機にセットする。乾燥が使えないシャツ系等は週末まであらえない。
着替えよう、保育園行くよ、と言ってもYouTubeに食らいついて聞かない。iPadを与えるんじゃなかったと毎日後悔する。ギャー!と騒ぐので無理やり着替えさせる…最近はYouTuberの実況風に「さぁっ!今日はですね!このお洋服着替えにチャレンジしたいと思います!」とやると着替えるハックを学んだ。。効果てきめん。
9:00までに保育園につれていかねばならないのに、出るタイミングにうんこする…。
お尻をふいておむつをかたして、連れて行くと「お父さん、9時までに連れてきてくださいね…!」はい、すみません。。
独身時代は徒歩通勤に住んでたりしたものだが、と思いつつ、片道1時間以上かかる電車に乗り込む。クソ遠い。急行が超混む。
職住近接にすることで育児に参加する時間を増やせる?うらやましい。freee社は2km圏内に住むと2万支給(らしいね)。その範囲の3LDKだと最低20-25万とかなんですけど。戸越銀座あたりで。でもまぁまだ五反田でいいよな。私がかつて在籍してた六本木だの渋谷だのの企業は2km圏内にまともな家がなかった。1Rで13万とか。住んでたけど。
11:00
若手エンジニアが出社してくる。
「寝坊しました」とかslackしてくる。知るかよ。近所に住んでるくせになんでそんなダラダラしてんだ。
11:30 〜 13:00
集中してコード書こうと思ってる矢先に、採用評価だの、サーバのエラー通知だの、営業系からの相談だの、EC2インスタンスがメンテナンス入るだののメールが来る。
13:00 〜 14:00
昼飯。時間が合う限りチームや他チームの人とご飯を食べる。Face-to-Faceのコミュニケーションは大事だ。
14:00 〜 18:00
いい加減コードを書こうと思う。
だいたいどうでもいいことで潰れる。
18:00 〜 20:00
*本気で* コードを書かなきゃならんと思い始める。クソエディタを立ち上げる。割り込みが入らなければ2時間で一気に1日分の仕事を終らせる。
(この頃、嫁が保育園からのお迎え・食事の用意・子供を風呂に入れてる)
20:00 〜 22:00
経営サイドの面倒な話が降ってくる。出世するんじゃなかった。上の子が生まれたばかりの頃はヒラだったし早ければ19:45くらいに帰宅してお風呂入れて寝かしつけてあげてたのになぁ…。対案とか出したり、前から残ってる課題を解決したりする。
もしもラッキーにも20:00頃までに退社してれば、帰りながら家族にビデオ通話する。
(この頃、妻が寝かしつけしてる)
この時間になると急行がないか、あっても本数が少ないので帰宅には1時間半かかる。きつい。
かつては通勤中にMacbookで仕事をしていたのだが、通勤電車のシートでは目と肩と腰を悪くする。した。治らない。
乗換があるので油断できない。
0:00
帰宅時に子供がベッドから起きてきて「パパ〜」と言ってくれることがたまにある。嬉しいけどもう寝なきゃね。
〜2:00
その合間に食洗機と、洗濯機を回す。保育園の連絡帳を読み、保育園の明日の荷物を詰める。
なお、土日は子供を公園に連れていき、食べかすで汚れた部屋を掃除し、諸々の消耗品などを買いに行くなどです。
基本的に共働きでは「土日くらい休ませてくれよ〜」は通用しません。よくって交互休みです。
技術書典に同僚が「初参加です!」と楽しそうにしてるのを尻目に、「そうかぁ…おじさんはね…むかし出展してたけど…もう本書くどころか…土日に予定をあけて…一般参加すら…」みたいな顔で見ている。
半日くらいなのでムリに妻に子供を任せて出かけていくことも出来なくはないのだが、熱量が失われている。
私も雇用契約は裁量労働制であり、IPO目前ベンチャーのエンジニアである。育児にも積極的に参加している。
なぜ私はこんなにつらいのか。。。
この辺だろうか。
しかし五反田、賃料25万/月とかの3LDKに住むなら、月収75万とかないとつらいわけで…。夫婦合算でも賃料払ってほぼ手残りがない…。子供の学資…。
まぁ戸越銀座の築62年戸建19万/月とか、そういうとこなら月収60万で足りる…?夫婦力を合わせてボロ屋に住む…?
今住んでるくっそ郊外の3LDKは 13万/月。安い。築浅。良い。
毎月10万ぐらい貯められる。
子供風呂に入れたい。職住近接うらやましい。奥さん働いてないのだとしたらそれもうらやましい。
仕事19時に終わるのうらやましい。最近勉強会に行くにも会社はもちろん妻にも断り入れなきゃなので気持ちが萎えて行かなくなってきた。おいていかれる恐怖だけはものすごい。
何が言いたいかって言うと、職住近接の大事さを、職住近接を失ってよくよく分かるようになりました。
毎月10万追加で払ってでも職住近接がいい!いや10万も大事だけど。
なお、freee社は近隣住宅手当2万ですが、5万くれる企業も存在しています。
pixiv, voyagegroup, フリークアウトなどです。など、っていうか、これ以外にある?
あとイクメンエンジニアって名乗りながら育児についてはお風呂と寝かしつけ、あとは社内制度・会社に遊びに来ることしか書いてないんだけど「ん?このひとはパートタイムイクメンなのでは?」という気にはなりました。
氷河期世代救済が叫ばれて久しい昨今、氷河期世代に関わらないがこういう面接にわざと落ちたいとしか思えないような奴は割と多く見かける
ひじょーに言いづらいんだが、そういう自分のことしか考えないというか、他者と協調する概念がそもそも22過ぎてないしわからないような奴、ゴミよりいらないんだわホント
会社は何を求めて、自分には何を提供できるかをアピールする、それが面接って場なのに、自分のことしか喋らん奴とか学校で何習ってきたの?親からどんな教育受けてきたの?としか言いようがない
真面目に生きるなんていうのはな、幼稚園児の頃から言われてできて当たり前なんだよ、大人はな、その上で何ができるかが重要なんだよ
そんなことを、金稼ぐ場でいい年こいて自慢されても「は?何言ってんのこいつ?ヤバい薬でもキメてんの?」としか思われないわけよ
英語の技術論文読めて実装できるだとか、クラウドサービスやAI実装ができるとか、そんなこと「自分の技術や経験を使ってこういう稼ぎができます」という本物のプロフェッショナルやビジネスマンに比べたら、ハナクソ以下、そういう自己承認オナニーはハッカソンかなろう小説でやっててねとしか言いようがない
そんなやつらに金払って雇うとかな、ウチの会社はB型作業所じゃねーんだよ
しかも大体そういうやつらって上司とか同僚が私みたいな女だったら舐め腐った態度取る奴多いしな
こういうゴミみたいな人材とさえ言えない産業廃棄物みたいな人間が、何で俺は女にモテないんだとか、政府のせいだ上級国民のせいだ経団連のせいだとかウダウダはてなとかネットで言い出すんだよな
今はどこも中国人や韓国人やベトナム人のエンジニアが入ってきて働いてもらってて、それを優遇だとかいうがとんでもない話だわ
口を開けばやれ残業代全額出せだの残業はなしのホワイトじゃなきゃイヤだの、年収は500万以上だの、履歴書見ただけで役にも立たないカスの分際と分かるような木っ端が意味不明な妄言喚くより
若くて文句言わずに頑張って働いてくれてる外国人エンジニアの方がいいに決まってんじゃん
常に良い人でありたい。他人から不快に思われたくない。一時的でもいいから居場所を確保したい。
自己承認のキャパが足りない。どうしようもない疎外感。「ここにいてはいけない」という気持ちが細胞の核、奥にまで染み付いて離れない。
理解されない。自分の人生を肯定できない。それでもいいと言われたい。
実際話して、それでもいいと言われ、一瞬の居場所を得たけど一瞬だった。
やはりその人たちも「良い人」「都合のいい人」の私が「それでもいい」のだった。一番近くにいる人だけど、もう本音は話せない。
普通を演じている。自分の半径十数メートルかが世間、とはよく言ったものだとおもう。何の弊害もなく学校に行けた過去があって、化粧もできて好きなものに囲まれて毎日楽しくて、仕事にやりがいも誠意もあって、やる気に満ちてます、ご飯が美味しいですね、大丈夫です、次は何をしましょうか?
そんな過去も気持ちも微塵もないのに虚無に笑顔貼り付けても全然問題ないのはどうかと思ったけど、別にどうでもいいのだろう。
少し前まで頑張れてた。
普通の中に自分が組み込まれている感じがした。安心感、充足感、安堵感に満たされた。毎日全力疾走で、体力がなくなろうとも普通の中に居られるのが嬉しくて頑張れてた。一瞬の居場所は疎外感を忘れさせてくれた。
普通でいるとそれだけで承認される。人は共通点に惹かれるものだから、やはり普通で居た方が理解されやすい。偽った普通でもいいのだろう。
私はあなたのような充足感に包まれた人生を送り、何度か挫折したもののやっと立ち直っていま頑張ってるところなんです。
普通の人は私を「わかる」といってくれる。わかる?他人をそんな簡単に理解できる?生い立ちから人間関係を踏まえ、積み上げていった思考回路と感情は想像がたやすい?それとも普通の人は少し話しただけで他人を理解できる能力があるのだろうか?
ここにきて自分がなんども「普通」という単語を出していることに気づく。
わからない。普通がなんなのかももはやわからない。ただ自分以外の他人と、自分との間にはどうしようもない溝、格差があるように思えて仕方ない。そう思った方が楽だからそう思ってるのかもしれない。
きっとこれは他人にとってどうでもいいのだ。
大事なのは自分以外の他人が「不快」でないか「無害」でないか「いい人」であるか。
人間関係は結局そこに起因していく。本音がどうであれ、どうでもいいのだ。
私なんて、どうでもいいのだ。
ちょっと前に二次の字書きが絵師に表紙を頼んだ話を読んで自分も思い出した話。
少し前に長年付き合いのあった絵師との縁が切れた。
ことの発端は私だから仕方ない話なのだけど、ずっと心の中に燻っているものがあったので匿名者の日記として吐き出してしまおうと思う。
私と彼女との出会いは前ジャンルに遡る。所謂マイナーCPというやつで全盛期をとうに過ぎたジャンルで細々と小説を投稿し10年過ごした場所だった。
彼女からの熱い感想メールをもらったことが切っ掛けでメールのやり取りをする仲になった。投稿した小説の感想やイメージイラストをくれたりと、当時ネット上のみで小説を投稿していた私にとってはとても貴重で有難い存在でありモチベーションをあげてくれる人でもあった。
しかし段々と交流が続くにつれて彼女に対して心に引っかかることが増えていった。私は基本的に他の字書きさんや絵師さんとの交流もない引きこもりで、イベントやオフ会も参加したことがなく10年もの間投稿を続けいていたにも関わらず、知り合いが全くといっていいほどいない状況だったので、彼女から聞くことが創作人口の少ない界隈での全てだと思い込んでいた。
私が○○さんのお話好きだなと言うと「あー…でもあの人さ、他の書き手さんから嫌われてるんだよね」とネガキャンが始まる。そう言われてしまえばお話を読む際にどうしても書き手さんの印象が脳裏に過り素直に本を読めなくなった。そういった流れが何回か続き少し疲弊し始めていた頃。
ある時、彼女に小説内容のリクエストをしてもらった。日頃、イラストや感想を下さる感謝の気持ちを込めて此方からお願いした形だ。彼女はとても喜んでくれて俄然やる気になり彼女の希望した内容で小説を投稿した。けれどあれだけ感想をくれていた彼女からの反応は一切なし、むしろリクエストしたことすら忘れているのかと疑いたくなるほどこの件はスルーされてしまった。折角書いたのにという気持ちと虚しさで心が折れつつも「書いたよ」と連絡すると、少し時間をおいて「あー…あれか」という反応。どうやら彼女のリクエストには添わなかったようだった。
その件が引き金になり「人に媚を売るような小説を書いてはダメなんだな」と、今までそのCPが好きで小説を投稿していたものが、誰かの反応が欲しくて、感想がもらいたくて投稿しているという自己承認欲求の塊のような自分に嫌気がさして小説を書くことが嫌になってしまった。
小説からも彼女からもジャンルそのものからも距離を取りはじめた頃、SNSが普及し始めた。久しぶりに連絡が来た彼女から登録しなよと言われるがままSNSのアカウントを開設したものの、有難いことにフォロワーさんが徐々に増え以前よりも交流が出来るようになった。それが嬉しくてSNSでよくコメントを投稿していたところ、連絡が取りやすくなったからか彼女から頻繁に連絡がくるようになった。
DMで届く内容はオフでも活動する書き手さんへの愚痴が主だった。「あの人とオフで本を作ったり、プライベートでも仲良くしてるんだけど段々と失礼な態度をとられるようになった。ある日急にSNSをブロックされた。なのにアチラは私のアカウントを監視していて文句を言いまくっている、ひどい」という相談事もあり私は私なりに親身に話を聞いていたと思う。
ただ私には彼女がいう突然ブロックされたという言葉には違和感があった。彼女は割と積極的に交流をする方なので多方面で付き合いが多いのだが、とにかく物忘れがとても多くまた人にマウントをとりたがる節があった。彼女はイラスト絵師でもあり、字書きでもありグッズ製作をしたりと活動内容が多岐に渡るのでオフでのノウハウがあり、それを人に吹聴するところがある。私のようにオフド素人の人間に指南をするのが楽しいようでもあった。そういった面で人を不快にさせてしまうところがあったり、物言いが直接的で逆鱗に触れてしまい縁が切られるということが何回か続きジャンル撤退を考えているようだった。
私はとめなかった。ジャンル撤退には人それぞれ様々な理由がある。二次での交流で嫌気がさして撤退する人も少なからずいるのは分かっていたので、そうなってしまうとジャンル愛も枯渇してしまうのも納得だったからだ。
私は私で別件でジャンル愛が枯渇していた。そんな時に今のジャンルに目移りしてしまった。
そのジャンルは全盛期を迎えていて活気づいていた。私は一番人気のCPに傾倒し、久しぶりに思うがままに小説を投稿し続けることが出来た。その熱意なのか投稿した小説がランキング入りを果たしたりと嬉しいことが重なり益々現ジャンルにドハマリしてしまい前ジャンルのアカウントを閉じてしまった。
心機一転、自ジャンルで新しいお仲間さんとワイワイしていた時、見慣れたアカウント名と特徴的な絵柄が私の小説をブクマしていることに気付いてしまった。
私は新しい名前、アカウントにも関わらず私の小説をブクマしてくれた彼女に嬉しくなってしまってついつい自分から声をかけてしまった。
苦い思いをしたにも関わらず懲りない人間だなと今は痛感しているのだけれど、新天地でも出会えたことに盛り上がってしまいジャンル愛が勝って初めて彼女から「表紙描くから本を作ってよ」という言葉に頷いてしまったのだ。
はじめてのオフ活動にやる気になりWEB上で書いた投稿作に書下ろしを加えて本にすることにした。
彼女と何度も連絡を取り合い表紙の進行なども聞きながら書下ろし部分の調整をしていると、彼女から一枚のイラストが届いた。
とても美しい大好きなCPが手を繋ぎ歩いている原風景。私はその美しさに感動して何度も賛辞のコメント送り、表紙の二人を思い浮かべて小説を書き続けた。
しかし数日後その素晴らしいイラストが別の字書きさんの本の表紙になったことを、その字書きさんのSNSのコメントで知ることになった。
私に見せた表紙案といって送られてきたイラストがSNSで投稿されている。
私は何も聞いていなかったので内心かなり取り乱しショックで何も手につかない状態だった。彼女がその字書きさんを神のように崇めていたことも知っていたし、絶賛していたことも知っていたけれど本の表紙を頼まれていたことは知らなかったので「どうして言ってくれなかったのか」という勝手な思いに苦しんだ。そんなこと彼女が私にいう必要なんてない。けれどじゃあ何故、表紙案といって私に送ってきたのか。
結局、私の本の表紙は全く違うものになった。私は最初に見せてもらった表紙案をかなり気に入ってしまったので、その表紙を見ることが少し悲しかった。何よりその表紙は私の小説のシーンに一度も出てこない場所で私が小説の中で着せている恰好ではない装いの二人の日常的なシーンで「なんでこの表紙なんだろうか」と思ってしまったのだ。
とても丁寧に描いてくれた表紙だということは分かっている。けれどCPの二人よりその場所を目立つように描かれた表紙が好きになれなかった。それでもいい顔をしたい私は彼女に有難うと謝礼を振り込み、菓子折りを送った。
本は有難いことに完売した。再販も希望してもらえたが私の事情で出来なかったので悲しいことにオークションでかなり高額に転売されてしまった。
「オークションで買わないで欲しい」とSNS上でコメントをすると「再販しないお前が悪いんだろ」と匿名で何通もお怒りのメールをもらってしまった。
私は自分の自己満足で本を作った。一度もオフ活動をしたことがなかった私にとって誰かに表紙を描いてもらい本を作ることは夢の先のことだったから。
でも本を作るということはそれで終わってはいけないのだと痛感した。「なんで再販しないのか」というDMに心が折れてしまった。
一度に何十万と支払う本の制作にはリスクがありすぎる。私はしがない主婦なのでそんな大金を一度に使う趣味に気が引きてしまう。
結局、どうしても欲しかったけれど買えなかったという方になけなしで手元に置いておいた1冊をお譲りすることにした。その方は私がとても敬愛している書き手さんでSNS上でお付き合いのある方だった。
そのことは伏せて現ジャンルで活動を続けていたある日、彼女から連絡があった。以前私が大好きだった表紙で本を出された字書きさんに「突然ブロックされ、縁を切られた。ひどい」という内容だった。
私は以前にもこんなことがあったな、と前ジャンルのことを思い出していた。
こんなニッチで複雑な感情が絡み合った世界だから同じCPが好きだからといってウマが合うとは限らない。解釈が違えれば逆CPより地雷になる人がいる世界。
最初は仲良くやれていても上手くいかないこともある。付き合いがプライベートにまで進めば仕方ないことかもしれない。
長いこと二次創作を続けていればこういうことは起こりうる。私は彼女を慰めながら色んなことを考えるようになった。
一番大事なのはジャンルを好きでいられること、そのCPを好きでいられること。
好きなことをする為に始めていることで大元を嫌いになるようなことをするくらいなら、人付き合いは一定の距離があっていい。そう思うようになった。
深く関われば関わる程、悲しいことも増えていくくらいなら私はSNS上のお付き合いだけでいい。
彼女のように活動の幅を広げる度に誰かと衝突し縁を切り、ジャンルを嫌いになりそうと言い出すくらいなら。引きこもりのままで構わないと。
彼女は頻繁に私と会いたいと言い出していたが、結局一度も会うことはなかった。
10数年つかず離れずを繰り返し、彼女の私生活からジャンル内のごたごたを時には夜中の2時3時まで付き合って聞いたりもしたけれど彼女の顔を見たことは一度もない。
そんな時間を過ごし、一定の距離感を持って付き合いを続けていたある日。
彼女に私が最後の1冊だった本を手放していたことがバレてしまった。自分から言ったのだけれど、それが彼女の逆鱗に触れてしまった。
「この10数年間付き合いを続けて来たけど、貴方と私は会ったことがない。だからニュアンスは違うのかもしれないけれど、貴方が最後の1冊を手放したというその不躾な態度は、創作者である私のプライドを傷つけた。許せない、涙がとまらない」ということだった。
私はその一言に物凄く腹立たしさを覚えた。彼女に全く同じ感情を抱えたことがあったからだ。「前のジャンルでさ、リクエストした内容も忘れたけど誰かから頂いた小説内容が超地雷でさ、あの解釈はないわって思ったんだよね」と送った相手(私)に堂々と言った(物忘れの多い)貴方にめちゃくちゃ傷つき凹んだことがあるからだ。その時私は面と向かって言われていないからニュアンスが違ったのかもしれないって思うようにしてやり過ごしたのに。
山ほどあった言いたいことを飲み込んで「ごめんね、こういう思いをした相手とずっと縁を続けていてもいずれまた嫌な思いをさせてしまうかもしれないから、もうお互い連絡をとることはやめよう」と伝えた。
「泣くほど嫌な思いさせられた相手となんか趣味で繋がる必要ないよ」と「どんだけ私が謝ろうと、言い訳をしようと貴方は納得しないだろう」旨を告げて連絡手段を断つことにした。
彼女に今までのお礼と好きな創作を続けて欲しい。今回は嫌な思いをさせてしまったけど、貴方の素敵なイラストの表紙の本を今後も楽しみにしていると告げてブロックした。
きっと私次第で彼女との縁を続けることは出来たのかもしれない。
でも毎回聞いていた彼女の「突然ブロックされた、縁をきられた」という連絡を思い出してしまったのだ。
なんでだろう。ブロックした人の気持ちが分かってしまった。怒りよりも悲しみよりも先に「疲れた」と思ってしまった。
「ずっと本当はわだかまりがあった相手ではないか。SNS上では仲良し、大好きアピールを続けていたけど、本当はずっと思うところがあったじゃないか。それをずっとないことにしていい顔をしたい自分の自尊心を尊重してしまった結果がこれなのではないか」と気がついた時に、私は自分の至らなさを実感した。
彼女は時折、激しい自己嫌悪と承認欲求で鬱に近い状態になっていた。幼少期のトラウマを切々と語り今の人生への疲弊を漏らしていた。
感情の起伏が激しく、よくSNSの呟きを全部消したり、鍵をかけたり、いなくなったりしてた。
きっと今日もどこかで誰かに私にブロックされた時の愚痴を言っていることだろう。
もう誰かに振り回されてジャンルもCPも書き手も嫌いになりたくない。
そのためには「相手に何かを求めない」「自分の為に小説を書いていることを忘れない」「好きでいられる為に最良の選択をする」ことを忘れないようにしよう。
新たに興味の出てきたジャンルに見慣れた名前と絵柄があったので自戒を込めて。
まぁもう二度と連絡をとることはないだろうけど!!
数年前に某店長さんがネットから消えたときにぼくが書いた文章をここに流しておきます。(※一部、当時の文章から細かいところを修正しております)
某さんが消えたのは当然知っていて、某さんが書いたであろう増田の存在もとりあえずは知っていたのだけれど見ないようにしていた。ぼくはそんな風にして理性の口では結構強気なことを言ってはいるものの、感情の口では正直なところあのひとがネット上に文章を残さないと決めたことを認めたくなかったのだと思う。
ふと、今朝がた見た夢で某さんがmixiアカウントを復活させて、新着日記のところにその名前があるの見かけた瞬間、ほっとしたのとうれしさで胸のなかの重い空気が抜けていくように思えたことをなんとなく覚えている。
その間、自分のTwitterのタイムラインはずっと流速が遅くなっていたし、おかげ様で頻繁にタイムラインを見るなんてこともしなくなっていた。
たぶんそんな夢を見たきっかけは前日の深夜、skypeでオンラインになってた某さんの名前を見たからだ。声をかけようか迷った、というほどぼくは人間関係に積極性のある人間じゃない。正直なところSNS上でかなり付き合いのある相手でも一度でも顔を突き合わせて話をした誰かであっても去るひとのことをそうそう気にはかけないし、逆に自分がそういうコミュニティから去ることもあまり厭わない。
声をかけることはできなかったけど、某さんがオンライン状態であると確認できたことで安心した。ああ、まだ向こう側にあのひとはいるのか、そういった気持ちなんだろうなと思う。
休日、ぼくは友人の到着を待つまでの暇な時間を使って、某さんの増田を読むことにした。なんというか、本人としては別れの言葉のつもりなんだろうなって思っていたのだけれど、でもこのくらいの熱量で文章を書くことなら某さんにとって余裕であるから、これがネット自殺であるにせよ、もっと強い衝動が訪れたならどういう形でもこのひとはどこかに文章を残すだろうなって思った。
作家や創作者もネットライターも、もっというならブロガーも、個人的には某さんを評する言葉としてしっくりこないけれど、文章書きという表現は心にすっと入ってくる。
「文章を書く」っていうのがなんだと言えば文章を書くことである。
これだけをいうとただのトートロジーなのだけれど、ぼくが出会った時点での某さんは、自分の目と手で書かなければ文章は書けないというただそれだけのことを、すごくストレートに、それでいて簡単にやっているように見えた。
理知的というか、ひとつの話題に対して自分の頭で並べ立てるよう物事を考えて、それを伝わりやすい言葉で表現したかと思えば、突然の楽屋オチもエロゲオチも余裕で辞さないし、100人のうちひとりでも笑ければ充分とでも言いたげなニッチなネタをどんどん放り込んでくる。特殊な部類のエンターテイナーであったのかもしれないし、そうでなければ多分、本人が時折語るようにあのブログがコンテンツとして強い力を持つものにはならなかったであると思う。
ほぼ文章のみでコンテンツ化されるということは「今、そのあなたが書けるもの」を求められているということだ。こと某さんの「そういうもの」とは自身を切り開く性質にある、とぼくは思っている。話すネタがそもそも自分の生きているポジションから来るものであるとか、視座から来るものであるとか、とかく、これは創作なんですネタなんです本気にしないでくださいというようなエクスキューズが利きづらい方に向いている。
比較してもどうしようもない話だけど、ぼくがもしそういう風にコンテンツとして自身を切り開くことを求められたのなら、そんなことをされた瞬間に焼けただれて死ぬ。持っていないものを求められてもしかたがない、というところがあるというのもあるかも知れないし、そもそもとして防衛本能のようなものが働いてしまうようにできている。要は、自分の書いたものが何であっても、自分と深くつながっているわけではないから否認されようと恐ろしくない、先述したような「これは創作みたいなもんですから、ネタなんですから」そういう感覚で文章を書こうとしてしまうものである。
某さんは違う。
あれに特別な視座で世界を見る目や時折出てくるしっかりした知識があっても、エンターテイメント的要素に芸人根性はあっても、誰にでも読みやすいようなバカみたいな親切さがあっても、そしてついでにぼくの大好きなエロゲネタがあっても、根本の部分で「自分」を消費しているように見えてしかたない。
「自分」をほんとうに愛せるうちは良いと思うし、愛せなくても愛してくれるひとが多少は自己嫌悪を上回る自己承認を渡せていたのならそれで良いのかもしれない。けれども、誰にも認められなかったらどうだろう、クソを尻から吐き出してワゴンの大安売りで叩きつけるように店に並べて、ただかわいそうな目で見られてやがて近くを通るひとびとはその場所に誰も居ないことにするだけだ。
恐ろしいことだ、とぼくは思う。
たとえば身寄りもお金もない少女にとって資本が身体しかないからと身体を売ろうとして、それを拒否されてしまったらどうだろう。きっと死ぬと思う。
ネットで自分を切り開きながら文章として晒していくことには、それだけのリスクがあると思う。毀誉褒貶はそのまま自分に刺さる。創作ならばまだ客観的な反省という形をとれても、「自分」で真っ向勝負して否定をされることは、自分を否定されることと同義だ。
某さんが今回ネット自殺をすると決めた理由は、細かい部分を置いておいて「自己嫌悪」に由来しているという。(※この部分は過去にこの文章を書いた当時のお話です)
なんにせよ自分はあのひとの文章を読みすぎた(ひとと比較してという意味ではない)し、それほどこのネット自殺をした理由自体についての自己判断に興味が無いというのもある。
ぼくははっきり言って某さんの文章の書きかたに憧れ強く影響を受けた人間のひとりですし、とはいえそれをあまり押し出す気もなかった。なんでかって言ったら、自分にとってインターネットでも数少ない、同じような話題で笑い合える遊び相手でもあったし、そんな目に見える場所にいる人間が憧れの目を爛々にさせて近づいてくるとかいうと、自分がそういう立場になったらすげー怖い気がするからです。
ただ、某さんの文章の書きかたがぼくに色んなきっかけを与えたのは間違いないし、せっかくだからこれからの自分は少なからずでも自分を切ってでも文章を書いて生きていけたらな思った。(※この部分は過去にこの文章を書いた当時のお話ですが、未だにぼくはこれをできてございません)
そもそもぼくは別れの言葉をいう気もありませんし、ふらりとネット上に戻ってきたって「ふんっ、べ、別にあなたの居場所なんてないんだから! 土下座して謝ったら顔騎して許してあげるわ!(CV:釘宮)」っていう態度で生きているので、この文章は別れを惜しむ言葉というよりは本人の見てないとこできゃっきゃとラブレターを書いているようなものと思ってください。
ただ、ひとの文章がひとを変える力を信じていられるのは、ひとつ、ぼくにとってはあなたがいたからでもあるのです。
追伸 某えろげともだち(『ろりともだち』みたいにいうな)さんが『ココロネ=ペンデュラム』開始してましたよ。お仕事のストレスと疲労から良い感じにほどかれる日が来てくれたなら、おしっこの色で討論するとかは一旦置いといて、またエロゲの趣味がなんとなくずれたりど真ん中に合ったりしながら、そういう話をしたいっすね。またいつかのどこかで。
こういう中低所得層あるいは自称高所得層が思考停止で自民党に投票するのは破滅的だと思う。あるいは富裕層の自民支持も含めて。なぜなら現政権による貧富の差の拡大は、中低所得層に直接不利なだけではなく、資本主義市場経済の維持を危うくするという点で、そこから利益を得る富裕層にも歓迎すべきものではないからだ。
37歳男性、既婚子持ち、夫婦フルタイム、年収2000万円超、自己認識は中産階級上位層の一般労働者(労基法的意味で)
所得再分配を軽視しすぎている。逆進的な消費税を増税しつつ所得税法人税を据え置く、日銀マネーを野放図に相場に投入して投資家を優遇する、その割には経済的弱者への財政支出に消極的、など。
貧富の差の拡大がこうした税財政政策の影響だと論証するのは難しいけれど(グローバルな人や資本の移動は一国主義的介入を難しくするので。cf.国際金融のトリレンマ)、少なくとも貧富の差拡大の流れに抗い、弱者を救済しようとする意思が見られないのは大きなマイナス。
なぜ貧富の差が拡大すると困るのか
中低所得層にとって貧富の差が拡大し、自身の購買力が下がることをネガティブなものだと捉えることにあまり異論はないと思う。ではなぜ自称を含む富裕層にとっても貧富の差の拡大は避けるべきものなのか。
第一に、資本主義市場経済から最も利益を得る層として、それを弱体化するような行動をとるべきではないから。このまま貧富の差が拡大し、人口的には圧倒的多数を占める層の購買力が下がれば下がるほど、経済活動が縮小し、富裕層の取り分も減っていくのは当然だろう。
次に、そもそも資本主義市場経済が維持可能なのか、という論点がある。市民の遵法意識が高く、良くも悪くも飼いならされている日本ではあまり心配ないかもしれないが、このまま少数の富裕層が富の大部分を握る構造が強化され続ければ、人口で多数を占める層が現状破壊的政策を志向するようになるかもしれない。共産主義の恐怖は終わったと言われているが、サンダースやコービンは一部で熱狂的な支持を獲得。日本でもれいわ「新選組」が奨学金「徳政令」を掲げた。いずれ令和の「打ちこわし」を扇動する可能性も想定しておいた方がよい。万一そうなる前に、現状を壊さない程度の再分配を進めておいた方が安全。
最後に、治安的な意味での安全のため貧富の差は避けた方がよい。この点も日本人の遵法意識からか路上のひったくりなどはあまり心配ではないけれど、巻き込み型の自滅的加害、流行りの言葉でいえば「無敵の人の自爆テロ」(私はテロという呼称に反対だが)は本当に恐ろしい。
個人的にはこうした犯罪は自己承認の低さや社会的排除がもたらすものだと考えており、経済的支援で直接なんとかなるものではないと思うが、お金で得られる承認や人間関係もあると思っていて、再分配政策とそれに伴う社会的包摂(どちらも自民は弱い、というか伝統的家族観に寄りすぎ)の強化で間接的に抑止していけるものと考えている。
以上、富裕層にとっても貧富の差の拡大は厄介であるとの私見。本邦の自称富裕層やノブレスオブリージュを解さない成金が、現政権による弱者切り捨て政治をごく短期の利得から肯定するのは本当にアホ丸出しだと思う。