2020-07-11

久しぶりに日記を書く増田

ここ数日、

「5本の指で足りるほどの知人しかいないツイッターで呟こうとしても、自分発言に重みが増して、彼らのメンタル自分存在が影響を与えてしまうのが怖くて呟けない」

と、防御機制の投影がお手本みたいに分かりやすくはたらいてしまっていた。さっき、そのことに気が付いた。それと一緒に、はてな匿名ダイアリーのことを思い出した。

匿名掲示板では自分コメントが誰かとのキャッチボールになることではじめて価値があるような気がしてしまう。誰かもわからない人とのコミュニケーションが成り立った時過剰に興奮してしまうし(時代錯誤)、独り言になったときはどうにも喪失感を感じてしまう。しまいにはどうせなんのリターンも得られないのだ、と無意識にふてくされて、ほとんど思考停止でなんの推敲もせず言葉を垂れ流すようなことになってくる。それで余計に独り言になる確率高まる、負のスパイラル

ツイッターは、みんなに自分の話を聞いてほしい!というポーズを取らないといけないのが、恥ずかしくてできない。クオリティ必要な気がしてくる。他の人のツイートいくらくだらなくても、自分ツイートの非は気になって仕方ないのだ(もう半年以上ツイートしてないけど)。

匿名ダイアリーシステムは、匿名だけど、自分エントリは保存されてずっと見返せる。

新着エントリのとこで人に見られるところを想像するだけで、自己承認欲求が満たせる。

なによりこうして文章を書くリハビリが、常に必要なんだ。書くことへの恐怖は書くことでしか、考えることへの恐怖は考えることでしか、克服できないのだっていろんな人が言っている。……にしてもひどいけど

  • 自意識過剰だよ 前にコロッケ食べ他のいつだよ 他愛ないことじゃダメかよ 長文じゃないと価値がないと思い込んでないか? どうせ100年後には今生きてる奴らみんな死んでっから気楽に...

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