はてなキーワード: 自己承認とは
いくら金があっても足りない
地方は地方で楽しみはある。まぁでも都会的な楽しみが大好きな人には地方は受け入れ難いのはわかる。
とある地方に住んでたときは市民でも町民でもない、村人になった。むらびと
村人なんて昔話の世界しか知らなかったから自分が村人になったときはウケた。
○○村っていう村に住んでた村人やってたんだよーって人にはなすときの良いネタにしてる。
セックスが体の良い娯楽で、肉欲に飢えてる人を相手にしてセックスを楽しんでいた
村人やってたときの最大限の娯楽がセックスだったな。自己承認欲求や自己顕示欲、性欲等色々と満たされる。人肌は癒し。人肌セラピー
東京は人口が多過ぎて、人混みが苦手な人には地方が良いよ。落ち着いてるよ。
価値観は人それぞれ
元の増田を書いたものです。こんなネットの片隅の独り言に反応があってちょっと嬉しいです。
で、教えてもらった前作を読んでみたんだけど、確かに、あれはミノリさんの物語だね。
「『チェイサーゲーム』のプロデューサー編は完全に悪の負荷として描いていてこの後の倍返しに繋がる展開というか手法ですからね。『例の漫画』はどちらかというと『映像研』的な覚悟と信頼の物語だと私は思いました。
https://twitter.com/PIROSHI_CC2/status/1316677343117602818
この評価が正しいと思う。
第1話においては、カナメ社長によるミノリさんへの信頼とミノリさんによる自己承認の物語。
で、第2話においては、カナメ社長によるチヒロさんへの信頼とチヒロさんによる自己発見(途上)の物語。ミノリさんはどちらかというと読者視点だけど、ある種のバランサーでもあって、また、チヒロさんから刺激を受けて発奮するという三者間コミュニケーションの一員ともなっている。
そんな風に思うよ、僕は。
あと、チヒロさんがどういう人かって話だけど、自負もすごいけど、他者から評価されたい人でもあるんだと思うよ。「自分で自分を評価するから他者の評価はどうでもいい」ってタイプじゃ全然ない。ある種の生真面目も相まって、「他者から求められたい。他者の求めに応えたい」というタイプ。だから、チヒロさんはカナメ社長に「お前の望みはなんなんだ」と思ってた。
カナメ社長に言わせれば、「見たこともない景色を見せてくれ」ということであり、「見たこともない景色ってなんだ」と言われてもそれ以上答えようがない。だって、見たこともないんだから。ただ、完全に突き放しもせず、「欲しかったら助け船だすけど?(でも、要らないでしょ?)」という態度。この辺が信頼だよね。
で、チヒロさんはカナメ社長の真意をそこまでわかってないんだけど、じゃあなんで、それでも頑張ったのって、いうのは、負けず嫌い=難しい課題ほど燃える、という性格なんですよ。「わたしたちにできないことをやって欲しいとうのが要求だ」と言われ、「よし、やってやろうじゃん」って思ったわけですよ。そこに山があるから挑戦したいんですよ。
ジャニーズの動画配信、LIVE DVDの配布が多すぎて引いてる。
見れなかった人やDVDを変えない人に対する善意だったり、自己承認欲を満たすためだったり、お小遣い稼ぎだったり。理由は何であれ違法だって認識してください。
・コンピューターウイルスが仕込まれてる
が考えられる。(それ以外ありましたら教えてください)
配布するときのリスクはもう知らん。早く警察のお世話になってくれ。
以前から配布を行っている方にやめましょう、とリプを送っている。反応は多い順に
①リプした該当の配布ツイートを消し、再度同様の配布ツイートをする
③鍵垢にする
④垢消しをする
⑤配布をやめてくれる
①と②が圧倒的に多い。犯罪を犯してるのはわかってる方が多いのではないか?罪の意識が少しでもあるなら、配布をやめてください。
フォロワーが3000人以上の無償配布を行っているアカウントを見たことがある。
ドリアイ、サマパラの動画を配布していたのだが、3000人が公式に正当な金銭を支払わず配布を受け取っていたと考えると、一動画あたり
1500円 × 3000人 = 450万円
こう言う長文を書くときは結論とかどう言う話なのかを先に書いておくといいとどこかで学んだので先に記載しておきますが、
これは「何かに認められたいのに自分が自分を認められないせいでどうにもできなくなった絵描きの独り言」です。
途轍もない自己承認欲求と自己肯定感のなさがバグを起こしてオールウェイズ三丁目の躁鬱病持ちとなりました。
最初にこれまで生きてきた話をダラダラ書くのでここは読まなくてもいいです。
自分は人の少ない田舎で育ったので、一度いじめられたら進学エスカレーターから外れない限り
ずっといじめられっ子の枠に収まっているような、そんな社会の中の、どこにでもいる隠キャいじめられっ子でした。
母方に絵を描く人がいて、母もその兄弟も絵を描くのが好きでよく描いていました。血筋なんでしょうか、偶然私も絵を描くのが好きでした。
中途半端に手先が器用で平均くらいはできたものだから、中途半端に絵は描けました。
田舎の、学年に20人も人がいないクラスの中では一番手先が器用でした。
しかし私はいじめられっ子でした。保育園の頃からの筋金入りのプロです。すごいでしょう。
20人も居ない教室では私以外の全員が敵か傍観者であり、もちろん私のことを認めてくれる人なんて居なかったし
私が絵を描けばランドセルを漁られ、狭い校内のどこかに貼り出され馬鹿にされたものでした。
周りのクラスメイトが怖いから、昼休みも一人で教室で絵を描いていました。
当時の私は、自分が描く絵が好きでした。
誰も私を認めてくれるようなことはありませんでした。
今でも自分のこと、「カスなので」とか「ボンクラだから」と口癖のように卑下してしまうんですが、
もう少し違う人生を歩んでいたらこんなことになってしまうことも無かったのでしょうか。
私自身の自己肯定感の無さはおそらく幼少期から10年以上に及ぶいじめの影響も少しあるのかなと思います。
とにかく私は何かに認めて欲しかったんだと思います。それは今もです。
私を認めて欲しい、今ある私が幸せなのだと、過去の自分とは違うのだと認めて、認めさせて欲しい。
絵が上手くなりたくて、
認めて欲しくて二次創作をした。
同人誌も出した。
そうして一次創作をはじめました。
いろんなものにしがみつきながら、何年も絵を描いていて、ようやく気づきました。
ああ、絵、言うほどうまくないじゃん。と。
それでも絵を描くのはやめられませんでした。
絵を描くのが好きだったから。
そんな感情だけで絵を描いていたいのに、どうしても承認欲求が出てきてしまって、
何かに勝たなきゃいけない、あの時いじめてきた人間たちより優れていると、そうであると思いたかった。
そう言う気持ちがどこかにいつもあるから、滲み出してしまって、人を寄り付かせなくさせるのかもしれないですね。
もちろん有難いことに褒めてもらえることも度々ありました。ただ、
認められることのなかった人生を歩んできて、私を褒める言葉をまっすぐに受け取ることができないんですよね。
自分が褒められてると感じることができない。この絵は私が描いたんじゃない。描いた記憶がない。
もうぐちゃぐちゃです。自分を認めてあげたいのに。
折角褒めてくれた人に心からありがとうって伝えたいのに伝えられないのが何よりも申し訳ない。
もうちょっと楽になりたいだけなんです。
楽に生きたい。楽しく絵を描いていたい。
評価なんて気にせずに、楽しく。
実際いい絵を描くために必要なのは「楽しんで描くこと」が一番大きいんじゃないかと、
勉強することも大事ですが、一番はやっぱ楽しくなくちゃいけないんじゃないかなと、
少なくとも私自身に必要なのはそこだと思ってるんです。けど、それが一番私から遠いところにあって
どうしようもないんです。
描くたびに辛い。周りの人のデッサンが多少狂った絵も、味だとか個性だとか、そう言うものがカバーして
いいものに見えるのに、自分の絵だけはなんの面白みもない平凡な、しかもちょっと下手な絵でしかない。
こんなに苦しい思いをするなら絵を描くのをやめちゃえば一番楽なのに、
でもペンを握った瞬間「描かなければ」と言う義務感に変わってしまう。
あ〜〜〜〜あ! いじめられなかった世界があれば、そこからもう一度やり直してみたい。
楽になりたい。
どこかで見かけた話ですが、
「こんな…少しばかり絵が描けたばっかりに…!」
これ、首がもげるほど頷きました。
こんな苦しさといつまでも一緒にいないといけないなら、いっそ
絵なんて描けない方が良かった。
とりあえず書き殴って満足しました。
他人に性的魅力を感じない、あるいは恋愛感情を抱かない(アロマンティック)性的嗜好のことを指すらしい。
あなたは他人に性的魅力や感じない、あるいは恋愛感情を抱かないということを想像できるだろうか。
私は想像できない――自分が他人に性的魅力を感じたり恋愛感情を抱いたりすることが。
誰かとセックスするとき、相手の何に欲情しているのか、何に愛しさを感じるのか、教えてほしい。そこに充足感は、あるんだろうか。
私には学生時代から3年半付き合いを継続している恋人がいる。週末に会えばセックスをする。セックスは好きだ。気持ちいいから。感じやすい身体をしているし、相手を気持ちよくさせることも好きだ。
それでも時々強烈な違和を感じる。場に合わせて自分が口にした「好き」という言葉がひどく空々しく聞こえる。慣れないだけかもしれないと思い何度か繰り返したが、むなしくなるだけだったから今はもうやめた。恋人の欲情した目を見て、すごい目をしているな、と客観的に思う。重なる手や唇の感触が、思春期の頃に感じた離人症のように、画面越しの他人事のように思えた。とめどない身体的な絶頂と息の荒さだけが現実的だった。
恋人とハグをするのは好きだ、温もりや匂いを感じて安心するから。寝顔を見て愛おしいなと思う。
だけど、キスやセックスをするときに、自分を見つめて触れてくる相手に対して、何を感じればいいのかわからない。
この日記を書こうと思った理由は、一昨日ある記事を読んだからだ(恋愛的・性的に惹かれない人たち――「アロマンティック/アセクシャル」にとっての恋愛・結婚像/https://news.yahoo.co.jp/articles/c716935ea75a5eea8369ceae4b01406148ddfd1e?page=1)。
「性行為が一般的に愛情表現としてのコミュニケーションとなることに理解・共感ができず、多幸感を感じない、相手のアクションに対し感情が動かない」という文章を見て、ああこれが自分の違和感の正体か、と思った。
アセクシュアルという単語は以前から知っていたが、それを自分にラベリングしようとは思わなかった。自分の性質をラベリングするのはアイデンティティを確立させるため、ひいては自己承認欲求を満足させるためだと考えているが、私は自己の価値やアイデンティティを考慮する際に恋愛や性別にその重きを置いていない。他人と接するときにも性別を強く意識することはない。
メタ的に計測すると、街ですれ違う人の容姿や仕草に好意を抱く回数は、男性相手より圧倒的に女性の方が多い。メイドカフェに行ってかわいい女の子にどきどきする。生涯、この人以上に好きになることはないだろうと、諦めにも似た憧憬を抱いた相手は女性だった。だから昔は自分のことをレズ寄りのバイなのかもしれないとぼんやり思っていた。セックスは男性としかしたことはないが、おそらく女性ともできる。
魅力的に映る他人の肌の質感を想像することはある。でもその誰に対しても、触れたいだとか、服に隠れた素肌を暴きたいとは思えなかった。その肌の感触を確かめるのは私でなくていい。
他人に恋愛感情を向けられると驚く。付き合うとか、そんなこと想像していなかったから。
付き合って知ったのは、私は嫉妬することが少ないこと、独占欲がほぼ存在しないということ。恋人関係とは男女関係におけるファストパスの進呈で、そういう契約関係だから、期限も終了時の条件もある程度決めておくものだと思ってた。友人にそう話すと計画的すぎると笑われて、みんなはそうじゃないんだと知った。
創作物を読んで相手に恋愛感情を抱いたりの欲情したりすることへ共感はできた。
実感だけが、いまだに手元に降ってこない。
不義については触れずに、話を聞いてほしい。
事情があって、顔が最高にタイプの男性の友人と何度かセックスをした。布団に横たわって、相手の体温を感じると心臓がおかしくなったのかと思うくらいどきどきした。
触れ方が優しくて、ゆっくりだから、すごく気持ちよかった。セックスの最中、暗がりの中で相手の輪郭を視認して、唇を重ねて、高い鼻がぶつかって、快楽を感じて、抱き合って背中を撫でて、試しに耳元へ「好き」とささやいてみて、その後「きみとセックスするのが」と付け足した。何度目でも変わらなかった。
顔が好きな男に抱かれていると意識してみたが、そのことに特別何かを思うことはなかった。ハグをしたときの方がよっぽど滲むような充足感を感じた。
男女問わず魅力的な相手にはどきどきする。でも肌を暴きたいという感情が理解できない。
たぶん私は誰とでもセックスできるから、相手を限定するように気を付けている。そこに"特別"を付与しようとしている。
他人に性的魅力を感じない、恋愛感情を抱かないと恋人に告げたら、きっと恋人を傷付ける予感がしている。
ただ、相手を尊重することができれば恋人関係を維持することに問題はないから、打ち明ける必要もないと考えている。
それでも、教えてほしいと思うことがある。