はてなキーワード: 楽器とは
アマとはいえ弦楽器奏者の自分にとって、合奏は割と日常的な話だったりする。
それで、基本的なノウハウはどんな楽器だろうが大して変わらないと思ったら、管楽器は正直かなりトンデモに見えることをやっていたという。
まず驚いたのが、何でもかんでもチューナー頼みという話。
まあ個人練習やオケのオーボエのAのときくらいはいいけど、合奏の最中までいちいちチューナーと睨めっこして「私の音は合ってます」とかどうなのよ。
合奏において、チューナーとピッタリという程度で「音が合っている」とか「ちげーよ!」としか言いようがない。
発音体や共鳴体の組み合わせで音が大きく異なる楽器同士を、綺麗な響きで合わせるという非常に難しいことをやっているのに、チューナーを持ち出したところで全然解決策にならないと思うけど。
というか、チューナーばっかり見ていたら合うものだって合わねーよって、そんなことも分からないのだろうか。
次に驚いたのが、指揮者がいるときに棒だけを命綱にする合奏態度。
別に指揮者を当てにするなとは言わないが(まあ弦は基本あんまり当てにしてないんだけど)、お互いが自発的に聞き合って連携しているところに棒が介入し、グランドデザイン的な道標になるのが順序じゃねーの?
というか指揮者からしてみたら万が一の振り間違い→アンサンブル大崩壊とか、恐怖以外の何者でもないだろう。
というわけで、ここまで「そう見える」だけで書いてみた。
今夜は父に連れられjazz喫茶へ。その帰り道、近所にある(父の)知人のbarへ寄るはずが貸切のため延期となった。
でもね、そこのお店、以前私がクレームつけた店でした。。毎晩毎晩夜中に楽器の音が聞こえてたから。。そのことを父に伝えたら小言を言われちゃいました。大目に見なさいって。
繁華街の騒音問題って難しいよね。お店の人も客寄せ(サービス)のために演奏してるだろうから。月2〜3日のイベントならしゃーないとは思うよ。でも、毎晩23時だったり26時だったり28時に演奏されちゃあたまんないです。。
今回は店には入りませんでしたが、たぶん、今後のスマートな対応としては父にはクレームのことは何も言わず、お店に入ってもそ知らぬ顔してお酒を楽しむというのが良いんだろう(かな?)。今からよく分からない騒音に備えてに耳栓で寝ることに慣れるべきなのかな。
コンビニ店長に粘着してた人間は誰よりも「愛」があったんじゃないか
二重に間違ってる。
まず一点、例の増田が執拗に批判してたのは二十四時間残念営業それ自体ではなくて、あのブログが毎度Buzzってしまうhatena(およびTwitter)という土壌。Midas陛下の言葉を借りれば「コンビニ店長」という「ブランド」をあの増田は批判してた。女子高生がプラダを提げる社会風俗を批判するのにプラダ愛は必要ない。だからターゲットは別にChikirinでもfinalventでも構わなかったはずだけど、そこで二十四時間残念営業を選んだのはおそらく「ほかにアンチが見当たらなかったから」というきわめて観客コンシャスな理由で、つまり増田は観客たる我々をこそ愛してたってわけ。
つぎに二点目、二十四時間残念営業は粘着されて嫌になったから移転しますとか書いてたけどあれは嘘。読んでたならわかると思うけど彼にはそもそも「他人の話を聞く」という回路が存在しないから、他人からなんか言われたくらいでいちいち揺らぐはずもない。今回のは例のよくある「やめる理由を探してた」ってやつで、その手頃な理由としてあの増田が使われただけ。で、なんで彼がblogをやめたがってたかってとこだけど、彼はそもそも他人を必要としてなくて、すくなくとも他者との関係性みたいなものを欲望してなくて、そういう人間が文章書いてるとどうしても自家中毒起こして結局ああなる。どうも他者を想定しない文章ってのは無理みたいなんだよね。絵とか楽器とかならわりと平気みたいだけど。彼は「一人でも読んでくれる人がいればそれでいい」みたいなこと書いてたけど、その一人ってのが具体的にどこの誰で、好きなものはなにで歳はいくつでなにに悩んでて、みたいなイメージというか欲望みたいなものが彼の中には無い。彼が文章を選んだのはたぶん間違いだった。
人は易きに流れるに向かわないならば向かわない理由があるんじゃないかな?
それが人にはなくて貴方にはあったそういうことでは?
僕はハードロック、ヘビーメタルといったジャンルが好きだったけど20年くらい練習してやっと1曲弾けるようになったレベル。
ハードロック系の曲は必ずと言っていいほど難しいギターソロがある。その難しさ故にかっこいいと感じていたけれど、それを弾けるようになるには随分時間がかかった。
ギターを初めて半年でイングヴェイマルムスティーンの曲を完コピしたよ。誰でも練習すればイングヴェイ弾けるんだ。等と雑誌に書いてあったりするのを読んで、自分がそう出来ない事に悲しみを感じた事もあった。ねたみだったのか。
じゃあ毎日練習したか?っていうと、そうじゃない、弾かないときは1週間、いや、1ヶ月弾かないときもあった。
それでも、20年経った今、2〜3曲、弾ける曲が出来た。あきらかに、僕の場合は「練習不足」だった。それでも20年少しずつ積み上げればそこそこ弾けるようになる。未だイングヴェイは弾けないけど。
楽器は練習しないと弾けない。なのに、練習しないと弾けないのが悲しい。と言う。
なぜ、楽器を弾こうとするの?
誰だって音楽プレイヤーの再生ボタンを押せば好きな音楽を演奏(プレイ)出来るだろう。
練習しなくてもできる方法があるのに、それを使わず、練習しなければできない方法を選択しようとしていながら、それは悲しいという。
きっと元増田は楽器演奏うんぬんではなくただ悲しくなりたいんだよ。
なにかしら悲しみを感じたいのだと思う。
元増田が悲しみを感じることのできるものはこの世にたくさんあるよ。
別の事で悲しめよ。
つまり、傷を舐めてくれる相手が欲しいということ?
ばかにするつもりはないよ。そういうのが必要な時もあるからさ。
話は少しというかもしかしたらぜんぜん違うんだけど、俺の兄は作曲やりたかったんだよね。
楽器はPとV弾けるんだけど、作曲を専門に勉強する機会はなかった。
んで、たまに作曲してーみたいな事を漏らしてたのでMacにこんなフリーウェアあるよって
なんかのDTMのやつ紹介したらその日四時間ずっとやっていて次の日八時間いじっていて
とかすごい熱中してた。それから10年ぐらいして、オケに演奏させたCD聞かせてくれた。
別に作曲で食えてるわけじゃないけど一応作曲は出来るようになったみたいだ。
ソフトの力があったとしてもそれをやれたということはある程度才能あったんだろうし
努力もしたんだろうけどね。
兄がPとVを弾ける、という事から、我が家がまったくの貧乏という訳じゃないことが
あなたに不足していたのが環境なのか、それを励ましてくれる人なのかはわからない。
ちょっとズレた言い方になってしまうけれども、世の中には例えば「プラモデルを作る」という行為でも
*@@@の模型が欲しい、プラモデルを買ってきて組み立てるのはそれ(@@@の模型が欲しい)に至るまでの手段
だという人と、
*模型を組み立てること自体が目的、プラモデルを組み立てると@@@の模型が完成する、というのは結果にすぎない
という人がいる。
前者を求めるのなら、存在してるんであれば完成品買って来るのが手っ取り早い(売ってれば)。
上手に絵を描いたり上手く楽器を弾いたりするという行為は大概の場合ある程度以上の練習が必要だけど、それ(上手くなるための練習)を
苦痛に感じる人というのは、上の例なら前者なんだろう。
問題なのは、「自分で絵を描いたり楽器を弾いたりする」には「完成品の販売」が存在しないので、どれだけ求めてもどこにも売ってないから
手に入ることはありえない、ということかな。
そういう人は「自分がこういう風に描けたり演奏できたら最高」というものを、他人が描いたり演奏したりしてる中から探し出すことで満足
するしかないんじゃないだろうか。
また、そうするしかないと思う。
>楽器を叩くでも吹くでもなく、弾きたいんですよね?
いやそういうことではないと思う(わかってて書いてんだとは思うけど)
ただ「なぜ自分はできるようにならないんだろう?」という人にそういうふうに「それにはこれこれこういう理由と根拠がある」と教えることは大切だと思う。
自分なりに納得できる 熟練を必要とせずに楽器を弾く方法 を開発するといいかも
それで熟練を鼻にかけているやつをあざ笑ってやればいいんだ
ただひたすらに悲しい。
でももっと悲しいのは、今だかつて(と言ってもまだたかだか50年に満たない人生だが)そう言った時に同意してくれた人が一人もいない、つまりはこの感情を共有してくれる人に会ったことがないこと。
「別に弾けなくても困らないじゃん」か「今からでも練習して努力を重ねればできるよ」かどちらかの答えしかなかったから。
「別に困ってるわけじゃないけど、そういうことじゃないんだよ」「その、「自分は努力に努力を重ねないと楽器が弾けるようにならない」ということが耐え難く悲しいんだよ」
っていうのが、自分が説明が下手くそなせいもあってどうしても人に伝えられない。
昔、村上龍の小説(女子高生が援助交際してまで物が、いやお金が欲しいのか、って事に悩んでみる小説)の中で
「**ができるようになりたい、と思い続けることはとても難しい。それは「**ができない」ということをずっと思い続けるのと同じだから」
自分の歌を聞けとか、演奏を聞けとか、パフォーマンス見ろよとか
曲や動画といったパッケージを作る場に居てピンポイントに何かを見ろという人が思った以上に多い。
演奏してみたでも、歌ってみた…各種あるんだろうが
機材をごく一部分の作業の為にしか使いこなせていないなら劣る部分に目が行くのはやむをえないのでは?と思った。
右も左もわからない状態から拙いながらも何かを生むまでの時間を競っているんだろうかと思う。
遊んでいる、楽しんでいるならいいと思う。
ある日の取材で、「最近人気も出てきてソレでメシを食っていこうという気持ちになってきているが
どうすればメシを食えるようになるかがわからない」と尋ねられた。
例えばちょっとした技術的な事はできるかと聞いてみるとまずその言葉がわからない と言われた。
MTRのようなボタンを押せば録音するような道具だと思っているならそれでいいのではないか?と思ったが、
どうもその人は作曲をしたいと言う。DAWや楽器を使いこなし作曲をしたいのだと。
それならDAWも楽器も既にあってやれているのではないか?と問うと違うのだと言う。
ミキサーなどのエンジニアやライター、制作会社での業務風景とは程遠く、
どうすればそういう世界と自分の今やっている事がつながるかわからないと。
どれをとっても自分の身の丈に合わせて一つ一つレベルを上げていった結果だと説明してみたが、
どうもその、時間をかけて何かを磨くというのが辛い事らしい。
取材したその人以外も、軒並み時間を掛けて研鑽する事を面倒な事だと回避する傾向があったが
時間をかける代わりに数十万程度の子金をかけているのが現代の姿なんだろうか?
だとすれば耳や目などの感覚、いいものをいいものと知覚する感性を養うのは難しい事なのか。
「なんとなくPCが身近にあって数万円の機材やプラグインを買ってやってきた自分には
突然この帯域がどうとか耳を要求されたりしてもわからない。どうやってそれを養えば
次の仕事に間に合うのか。まるで断崖絶壁で仕事にできる気がしない」
と語ったあの人に、だったら仕事にせずその辺りでチヤホヤされていればいいではないかと言えなかった自分はオトナになってしまったのかもしれない
歌を録音して、動画を作って、題名に「歌ってみた」の文字を添えてニコニコ動画にアップロードしている。そんなことをもう3年ぐらい続けている。
多くの「歌い手」がそうであるように、私もボカロ曲やアニメソングなどを主に歌っている。でも、最初からそうだった訳ではない。一番最初に「歌ってみた」のは戸川純の「諦念プシガンガ」だった。戸川純ファンと思しき人々から辛辣なコメントが次々に投稿されたので、怖くなってすぐに削除してしまった。今にして思うと、それほど激しく攻撃されたわけではないけれど、不特定多数からネガティブな感情を突き刺されることに慣れていなかった当時の私は、すぐにパニックに陥ってしまったんだと思う。
話が前後するけれど、私が「歌ってみた」を始めたそもそもの動機は、ざっくりした言い方をしてしまうと、チヤホヤされたかったからだ。いや、チヤホヤとまでは行かなくても良い。ただ、自分が起こしたアクションに対して、誰かから何かしらの肯定的なリアクションを返してほしかった。
当時の私は実生活があまりパッとしなかった。地方の大学を卒業して、それなりに名前が知れた電機メーカーに入社して、東京に配属されて、そこでずっと働いていた。それ程極端に忙しいわけでもなく、賃金にも満足していた。会社での人間関係も悪くない。
しかし、仕事を終えて、職場を一歩離れてみると、途端に宙ぶらりんになる。
たまに職場の飲み会に参加したり、数少ない友達とご飯を食べに行く以外には、特にやる事がない。やりたい事がない。資格の勉強をしてみたり、ジムに通ってみたり、ライブや映画を観に行ったり、ウクレレを練習してみたり、色々と手を出してはみるものの、それでも一人の時間を持て余す。新しい友達を作りたい。でも、友達をどうやって作れば良いのか分からない。恋人もずっといない。友達の作り方も分からないけれど、恋人の作り方となると見当もつかない。今となっては誰かを好きになるという気持ち自体がよく分からない。
決して不幸ではないし、普通に生きていけているけれど、その普通さに、波風の立たなさに、だんだん気持ちが押しつぶされていくような感覚を覚えながら、毎日を過ごしていた。
そんな時、キリンジの動画を観たくてYouTubeを検索していたら、どこかの少女が自宅で撮影したと思われる動画に行き当たった。顔が見えない角度でギターを弾きながら「エイリアンズ」を歌っている動画だった。冷やかし半分の気持ちで再生してみると、ものすごく上手くはないけれど、原曲の雰囲気を大事にしながら丁寧に歌っていることが伝わってきて好感を抱いた。
その動画は、元々はニコニコ動画にアップロードされたものを本人がYouTubeに転載したものだった。ニコニコ動画の、同じ動画にアクセスしてみると、コメント数は50程度で「雰囲気が良いね」、「頑張っている」といった、私が抱いたのと同じような感想がぽつぽつと付けられていた。
それ以前にもニコニコ動画の「歌ってみた」の存在は知っていたけれど、若い子達が派手なアレンジの曲を大げさに歌った動画に対して、賛否ともに過剰なテンションのコメントが弾幕のようにつけられているような、私とは世代も文化も違う人達が集まる場所だと思っていたので、この「エイリアンズ」の、まるで地方都市の駅前の暖かな路上ライブのような雰囲気は意外だったし、好ましくも感じた。
それから何週間か、毎晩ニコニコ動画で自分が好きなミュージシャンの名前の後ろにスペースと「歌ってみた」という文字を付けて検索して、色々な「歌い手」の動画を観て回る日々が続いた。多くの動画は、3桁に届かない程度のコメントしかついておらず、お世辞にも盛り上がっているとは言えなかった。
だけど、どの動画にも、最初に観た「エイリアンズ」と同じように、「歌い手」達に対して押し付けがましくない程度に好意を伝えるコメントが並んでいて、それらのコメントを眺めていると心が落ち着いた。同じ音楽を愛する人たちが集まって、それこそ「ニコニコ」しているような、楽しさがそこにあった。
でも、多くの「歌い手」は決して歌や演奏が上手なわけでは無い。色々と動画を観ているうちに、「この程度なら私でもできる」と思う事がだんだん増えていった。そして、ある動画を観ていて「何で普通に歌っているだけで、みんなから褒められるんだ。ズルい」と思った瞬間に、私は我慢できなくなった。すぐさま、Googleで「諦念プシガンガ コード」を検索した。自分で歌ってみるならこの曲だと、実はもうずっと前から決めていた。この曲なら、私が弾ける唯一の楽器であるウクレレでも似合うはずだと思っていた。
しばらくの間、家にいる間はずっとウクレレで「諦念プシガンガ」を練習した。夜中にウクレレの弦が切れたので、慌てて池袋で一番遅くまで開いている楽器屋に駆け込み、ウクレレの弦を3セット、そして、思い切って19800円の新しいウクレレも買った。今まで使っていたのは雑貨屋で買った1980円のものだった。
毎日毎晩、練習した。そして二週間。私は、今まで殆ど使ったことがなかったパソコンの動画撮影機能を起動させて、最初に観た「エイリアンズ」の彼女のように、自分の顔が映らないようにディスプレイの角度や、座る位置を調節して、目一杯緊張しながら「諦念プシガンガ」を、歌ってみた。三回目の撮影で、声がひっくり返らず、音程も飛ばず、ウクレレも殆ど間違えなかったので、それをアップロードした。
それでも懲りずに、「歌ってみた」動画をアップロードし続けた。一週間から二週間かけて、歌を決めて、練習して、撮影して、公開する。そんな生活サイクルが自分の中で定着してきた。ネットで検索してコードが分かる曲の中で、自分にも歌えそうな好きな曲を選んで、少しずつ歌ってみた。再生数もコメント数も少なかったけれど、動画にアクセスする度にちょっとでも再生数が伸びていたり、一つでも新しいコメントがつくと、無性に嬉しかった。「新曲待ってました」というコメントが目に入ってきた時は涙が出そうになった。この人は、私の歌を待っていてくれた。私のことを待ってくれていた。それは、初めて感じる種類の喜びだった。
そのうち、オーディオインターフェイスやマイクを使うようになった。パソコン標準の動画撮影機能の音質では物足りなくなったのだ。初めてそれらの機材を使って録音したときは自分の声がはっきり録れすぎていて、その生々しさに怖気づきそうになった。「どうにでもなれ!」という気持ちで公開すると、「ものすごく聴きやすくなった」という暖かいコメントが返ってきた。再生数が伸びる速さが、少し上がった。
「ボカロを歌ってみてほしい」というコメントがついたので、ウクレレで試しに「メルト」を歌ってみたら、再生数がさらに跳ね上がった。初めて、再生数ランキングの下の方に自分の動画が表示された。否定的なコメントも「諦念プシガンガ」の時とは比べ物にならない程の数が寄せられたけれど、それ以上に好意的なコメントもどんどん書き込まれた。生まれて初めて「萌えた」と言われた。
多分あの時、私は、気持ちの上で一線を超えたんだと思う。
すぐに私は、ボーカロイド関係のウケが良さそうな曲を選んで歌ってみるようになった。私のウクレレの腕では弾けない曲ばかりだったので、出来合いのオケを使うようになった。歌の練習だけで済むようになったので、ずっと楽になった。再生数もさらに増えた。コメントも増えた。それまで自覚していなかったのだが、私の声は一定の人々の「萌え」をくすぐる要素があるらしい。そういう人達のコメントを眺めることが、たまらなく快感だった。最初からこうしていれば良かったと思った。「ウクレレじゃないと魅力が半減」というコメントも投稿されたけれど、しばらくは見て見ぬ振りでやり過ごし、やがて「ウクレレ」をNG設定して自分の目に触れないようにした。
それまで日常的に使っていたTwitterアカウントとは別に、「歌い手」としてのアカウントを作った。最初は「新しい動画を公開した」といったアナウンスに使っていたのだけれど、少しずつ他愛のない呟きや、自撮り写真を載せるようになった。
フォロワーの人たちは私のちょっとしたツイートにFavをつけたり、リプライをくれたりした。私が精一杯角度や光を工夫してボロが出ないように撮影した顔の一部や、素肌を撮影したボンヤリした写真に「100万回保存した!」と反応してくれた。
Twitterは、ウクレレで弾き語るよりも、オケにあわせて歌うよりも、ずっとずっと楽だった。準備もいらない。練習もいらない。ただちょっと踏み込んだ事を言ったり、気を引くような写真を見せるだけで、肯定的なリアクションが返ってくる。最初はウサギのイラストをアイコンにしていたけれど、途中からTwitterで知り合った絵師の女の子が私をイメージして描いてくれたという、素顔の私とは似ても似つかないウサ耳美少女の画像に変えた。フォロワー数が激増した。
先週、ある男の子に会った。
その日、私はお台場で開催された岡村靖幸のライブ会場にいた。満員の客席で、開演を待ちながらスマートフォンで「今から岡村ちゃんのライブ♪」などとツイートしていると、後ろから肩を叩かれた。まだ二十歳にもなっていない程度の、知らない男の子だった。そして、彼自身のスマートフォンに表示された、私が投稿したばかりのツイートを指差しながら、不安げな顔で、口の動きだけで「◯◯さん?」と、私の「歌い手」としての名前を呼んだ。血の気が引いた。
彼が誰だったのか、何でそこにいたのかは分からない。たまたま、私のことをフォローしていて、客席で私のスマートフォンの画面を見て気付いたのか、あるいは以前から岡村靖幸ファンを公言していた私に会うためにライブ会場にまで来たのか、今となっては分からない。彼は、名前を呼ばれて凍りつく私の顔をしばらく見た後、そのまま振り返って、他の観客の間を押しのけて、客席のずっと後ろ、私から見えない位置にまで移動してしまった。
全身が震えた。姿を見られた。
岡村ちゃんと同い年の、歳相応の容貌の私の姿を、私の子供でもおかしくないぐらいの男の子に見られた。
もし、彼一人がネット上で私のことをバラしたとしても、恐らく多くの人は真に受けないだろう。写真を撮られたわけでもなければ、私が自分で「はい、歌い手の◯◯です」と認めたわけでもない。
頭では分かってる。絶対大丈夫。今までと何も変わらない。
でも、あれから一週間。私はニコニコ動画にもTwitterにもアクセスできずにいる。
この世界にたった一人だけでも私の生身の姿を知っている人がいると思うと、私はもう、私とは似ても似つかない萌え声ウサ耳美少女歌い手の◯◯になれない。
そして、全てのきっかけになった「エイリアンズ」の歌詞を思い出す。
この星の僻地で、私が自分自身にかけた魔法は、あの日、あの一瞬で解けてしまったのだ。
うーん。
読書って、食べ物みたいに体に快い感覚のものを「好き」っていうレベルとは別だと思うのだけど。
「文字を目で追うのが好きです」っていうならともかくさ。
「本(作品として作られたもの)を読むのが好きです」っていうなら、
(作者の経歴はおいておいても)作品自体については、
「彼の作品は別の作家のと違って、こういう傾向があって好きだ」
とか、
「類似の作品と比べて良い点はココだと思った」
くらい語れないと、なんというか、嘘だと思うよ。
私は読書の他に音楽鑑賞も好きで、昔は「音楽は語るもんじゃない」て思ってた。
音楽鑑賞なんかは、読書よりもっと感覚に訴えるところが大きい趣味だからそう思ってたが、
それでも今は、歴史とか背景とか楽器とか奏法とか、分かった上でのほうが、より楽しめると感じてるよ。
"感情への耽溺は多くの場合音楽美の芸術的理解にたいしてなんらの教養を持っていない聴者たちの行うところである。素人は音楽においてもっとも多く「感じ」、教育ある芸術家はもっとも少く「感ずる」" — ハンスリック 『音楽美論』より
ってことで。
アマオケでヴァイオリンを弾いていると、フォルテシモ以上の箇所で「もっと出して!」としょっちゅう言われる。
自分がただでさえ少ない男のヴァイオリン弾きだからなのか、まず第一に力強い音を求められるのは閉口する。
自分にとってヴァイオリンは「世界一綺麗な音が出るモノ」という位置づけなので、それを壊すような力技の演奏はしたくないんだけどなあ。
もちろんそういう演奏を売りにする、ハイフェッツみたいなソリストは嫌いだったりする。
ヴァイオリンは楽器の性格上、ちゃんと弾けばいくらでも綺麗な音が出る反面、少しでも油断すると容易にけたたましい音や汚い音が出てしまう。
なので騒音発生器状態だとたちまち周囲から「なんだアイツ中途半端な腕で無茶しやがって」という目で見られるので、とにかくまずは余計な力を抜いて、そして出来る限り艶やかに・・・ということに腐心するわけで。
それに力強い音でとか、お前それメンコンやバッハのシャコンヌでも同じ事言えんの?という感じ。
日本ではアップルが生まれない、アマゾンが云々てエントリーを見るたびに
の中身は大方同じようなことが書かれている
*アップルやアマゾンから感じるアメリカ的合理主義の良い部分がものづくりや経営の隅々まで行き渡ってる
*日本でもかつてウォークマンを生み出したソニーがそうであり、任天堂&ソニーが世界中のゲーム業界を席巻した
そこまでネガティブな事ばっかりならべてまぁ読んでるとこっちが痛い
そんな中で日本の楽器メーカーってのは実は世界中で大きなシェアを持っているって事はwebではあまり見かけない
先日のグラミーでRoland社が賞をとって少しは知れ渡ったかなぁ?と思ったが違った
そもそもグラミー何冠ってなAdeleですらソフトバンクの孫さんのTwitterで知った人も多かったようだ
日本にはローランドの他には、KorgやYAMAHAなどもある
過去にはRolandのTR-808/909、TB-3030、YAMAHAではDX7、KorgのM1など世界中で定番となるような銘機を各社リリースしており
その後も進化しつづけているように思う
ピアノやバイオリンはヨーロッパなどに多く有名なものが有るのかな?と思っていたが、アメリカだが先日のスーパーボールではアリシア・キーズはYAMAHAだった
他には(踊る)クラブのDJ関連機器でも世界中の定番となってるメーカーが日本にはある
一社はダイレクト・ドライブ式のターンテーブルSL-1200シリーズのTechnics(いまのパナソニック)
こちらの制作秘話をドキュメントやってたのを見かけたことがあるが興味深いものだったが、デジタル化の波に押されてSLシリーズ生産停止したようだ
もう一社はそのデジタル化の並にのって躍進したCDJシリーズのパイオニア、こちらも圧倒的なシェアを誇ってるようだ
今のDJスタイルってのはデジタル化がいっそう進みパソコンでほとんどのことが行われるそうで、そちらのソフトウェアは海外のメーカーが定番となりつつあるようだ
子供の頃から高校くらいまで習っていた楽器を、中年に差し掛かった最近になって習い直すことになったら、大学以来演奏で苦しんでいたことの大半が解決してしまった。
何に苦しんでいたかというと、大きく言って2つ。
それでも楽器のことをあまりよく知らない素人さん相手ならまだ誤魔化せたけど、同じジャンルの音楽経験者からは高確率でツッコまれてきた。
ちなみに再入門のきっかけは上述の悩みのためではなく、弾きたくなった曲が、独学では絶対にマスターできなさそうだからというものだった。
しかし最初のレッスンで、僅か数分の演奏を聞かせた直後、指導者から長年の問題とその原因をズバリ指摘されてしまった。
即ち、とにかく力み過ぎ、無駄な力が入りまくっていると。
というか西洋の楽器は、基本的に手首も肩も全く力を入れる必要はないらしい。
指を使う場合も基本軽く押せば事足りるものであり、少なくとも押せなくなるまでいちいち力を込めて押すものではないと。
そこまで色んな所が力んでいると、音はガッチンゴッチンした硬い音がデフォで、その音を荒っぽいとか汚いとか感じる人が絶対出てくるし、曲によっては力任せにやっつけたみたいな演奏になるわけで。
更に、素早いパッセージではまず指も腕も回らない→焦る→頭に血が上って我を忘れる→走る→ますます弾けなくなるという悪循環。
そもそも熱い演奏というのは胸が熱くなるのであって、頭が熱くなるもんじゃないし。
それで基本に立ち返り、言われた通りに力を抜くようフォームを直したら、腕は素早く動くし、指はスルスル回るし、より楽器は鳴るし、頭が常に冷静なので他の楽器の音もよく聞こえてきて殆ど走らないと、自分でもびっくりするほど改善してしまった。
えーそういうことだったのかー。力の効率的な使い方って一番大事で一番基本なのか。
まあ、力抜けというのは色んな所で目にしてはいたけど、自分がそれに該当するとは思えなかったし、「じゃあどう抜くのか」を懇切丁寧に教えてくれる人も全然いなかったよ。
世の中の上手な奏者は、どこらへんでこの真実に気付くものなのだろう。
これはもう早く理解したほうが絶対にいいことだけど、子供のうちから理解できるとも思えないし。
それと、知り合いにこのことを話したら「弾けてる人にそんな基礎からやらせるレッスンとか嫌味な先生だね。もっと色々な曲をやって楽しくやるのが普通じゃない?」と返されて驚いてしまった。
自分の場合は経験上、そういうフィーリング重視のなんとなく系レッスンでは何一つ身につかないので、これくらい実利的なレッスンのが好みなんだけどなあ。
物欲は果てしない、物を持てば持つほど悩み事が増える。物を手に入れれば壊れる心配が出来る、盗まれる心配も出来る。新しい製品が出て型落ちになる心配が出来る。
買うまでは楽しいが、買ってしまうとあるのが当たり前になってしまい「なーんだ、こんなものか」と思ってってしまう。物欲を満たしたところで人は本当は満たされていない。ゴータマ・シッダルダさんは2500年も前に気づいていたこと。
物欲を完全に制御できたらいいのだが、現実にはなかなかそうも行かない。文明の利器の便利さは保ちつつ、不要なものを整理して行きたいと日ごろから考えている。
↓そこで目指すのは、これくらいあれば十分という生き方↓
このくらいで満足出来るシンプルな生き方が理想だ。沢山の物を持っていることをステータスにせずに、経験や知識を財産にしたいものだ。
※あまり正確でないまとめ
2. 長さを制限しようとするストッパーがエロゲーにはあまり無い
4. 長大化で小回りが利かなくなったので衰退した
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積んでた夏空のペルセウスやってたらこんな記事が話題になってたので、以前考えてたことを出力してみた。
まずもって、世の中のたいていのものは放っておくと長くなる。全部突っ込めばそれだけ長くなるし、切り捨てるのにはセンスと覚悟が要求される。
論点を置き換えて「他のジャンルの作品は何故長くならないのか」と問うてみた方が話が早くて、フォーマットや制作体制や商業的事情や物理的法則に種々のストッパーを見つけることができる。テレビアニメには放送枠があるから1話30分弱に収まるし、読者アンケートの結果が悪い漫画は打ち切られる。ボリュームと制作期間と費用は通常比例するから10時間の映画はペイしづらい。観客の体力も保たない。製本技術には限界があるので京極夏彦や川上稔がある種のチャレンジャーとして驚かれる。商業作品である以上、諸々の制約と歴史的経緯によって現在のジャンルの姿がけしてベストな形ではないにしろあり、いまも着々と変化している。
ところで家庭用ビデオゲームというのはある意味で特殊なジャンルで、この手の制約が相対的に弱い。(どういう経緯があったからかは知らないが)企業の成果物として単品売り切りで販売されるために一作で完結していることをより強く求められる。連載形式や短編連作は馴染んでいない。アーケードのように課金制ではないため私的な場で長時間にわたってプレイされる。デジタルデータであるがゆえにボリュームの制約が相対的に弱い(勿論家庭用ゲーム機の歴史とは一側面ではすなわちデータ容量との戦いでもあったということを知らないわけではないが、しかしそれは、書籍のページ枚数やテレビの放送時間とは本質的に異なった枠組みだろう)。そしてエロゲーもこの例に漏れない。
いま、エロゲーを長くさせない/シナリオ量やCG枚数や楽曲数やキャスト数、ゲームエンジンの性能、その他全てを含めて総体的に立ち現れる「ボリューム」を一定程度にとどめようとするなにがしかの制約を想定してみたとき、せいぜいメーカーの経営体力とメディアの容量、それからマシンスペックくらいしか思い浮かばない。後ろ2つは開発環境が消費者のプレイ環境にある程度近いのもさることながら、そもそもPCの廉売とスペックの進歩、間接的にはブロードバンド環境の普及がエロゲーの長大化を物理面で下支えしてきたように中長期的にはむしろブースターとして働いている節がある。トップブランドのフラッグシップタイトルが折に触れて消費者側のマシン更新を促してきた事実もあるように、決定的な歯止めとなっているようには見えない。1点目にしたところで、勿論この業界の危うさ、開発企業の経営基盤の脆弱さは消費者にもつとに知られたところではあるが、零細ゆえに諸々の手段で延命可能であることもまた、たとえば半ばアパレルメーカーと化し盆と正月に衣服や楽器を売りさばく某ブランドの例から知ることができよう(もっともこの手の主客転倒した経営と現状の市場を席巻している初回特典偏重の商法が相まっていくらかのエロゲーメーカーのグッズ屋化を促進しているのだが、さすがに本論から逸れているので一旦措く)。そもそも零細的な企業体制でも比較的手軽に参入可能な市場として開発者の側からかつてエロゲーは持て囃されたという歴史もある。
ところで、「ボリューム」と書いた。実は「CG枚数や楽曲数やキャスト数」は、これはきちんとデータをとって検証したわけではないけども(誰かやってください、というかもう先行記事があるでしょう)、一部の大作を除けば体感としてはここ10年、さして増加はしていない。勿論マシンスペックの向上に伴って画質も音質も向上してきたが、数量としてはほぼ横這いじゃなかろうか。むしろ攻略ヒロイン数なんかは全体として微減の印象がある。じゃあどこに工数が注ぎ込まれて「ボリューム」感を実現しているのかっていうと演出のスクリプトとゲームエンジンの融通とシナリオ量で、だから「長大化」として語られる。そうしてヒロイン数が割を食う。
畢竟、「これ以上長くすると開発スタッフが死ぬ」以外に天井が見当たらないのがエロゲーであり(実際菜種油を搾るように業界人の首が絞められた末に納品された成果物を今われわれはプレイしている)、そして消費者はぼんやりと長大化を期待した。マルチエンディングのADVが市場の大勢を占めるようになったがために、ビデオゲームでありながら作品間で「ボリューム」を直接的に比較することが可能となったのも後押ししたのかもしれない。あるいは国内経済のデフレーションと関連付けることだって可能で、フルプライス=税抜8,800円の価格設定はここ10年以上にわたってほとんど揺らいでいない。数年前からいくつかの大手メーカーが大作に限ってようやく税抜9,800円に手をつけた程度のありさまで、であれば同一価格内での「品質向上」を求める圧力が加わるのは自然の成り行きだろう。それでなくても市場は2000年前後をピークかくしてエロゲーは長大化の一途を辿り、ジャンルとしては衰退した。
これは当然の展開で、しばしば指摘されるように現代はコンテンツ飽食の時代、趣味は時間の食い合いとなるので長ければ長いほど不利になる。そんなの知ったこっちゃねえ俺は何十時間何百時間でもエロゲーを続けるぜって御仁には頭が下がるばかりだが、ジャンルの/市場の健全性とはかようなストイシズムとは対極の、ヌルい裾野の広がりによって担保されるのであって、エロゲー修験者ばかりではジャンルは早々に先細る。複数買い&積みで支援するのも似たようなもので、そこに健全な言説(そもそもインターネット上のエロゲーについての言説が「健全」であったためしなぞいまだかつてあったのか甚だ疑問だが)は生まれ得ないし、エロゲーは他のオタフィクション同様、本質的には中・下層の大衆、賃金労働者の変種としてのオタクによって担われる速度重視のサブカルチャーの一種であるのだから、ルネサンス期のメインカルチャーのような貴族のパトロンによる全面的支援などという夢は早晩挫折しよう。
速度。現代のインターネットで語られるオタフィクションとしては何よりも速度、1単位のコンパクトさと間口の広さ、新陳代謝の活発さが重要で、そして先にも触れたように「ボリューム」と開発期間はふつう比例する。込められたアイディアも思想も発売時には陳腐化している。ゆえに、足回りの悪くなったエロゲーが往時の勢いを失うのも自然の流れだろう。
・おわりに
突っ込みどころ多いしエビデンス挙げてないし、取り扱うのが面倒でわざとスルーした話題がいくつかあるけどまあいいや。気力の保つあたりでアップしておく。
それにしても、平均年収300万円以下って、まあ天引きor確定申告前の数字なんだろうけど、俺より貰ってるじゃねーか。まあ激務やスキルやクリエイター幻想に見合わないって趣旨なんだろうけど。
この手の、市場の縮小と消費者層の年収減と割れの話はオバフロの人はじめ、色んな人が語ってるから適宜ググるといいと思うよ。
夏空のペルセウスは大変エロかったですが他に言うことがありません。minoriの歴代作品に比べて開発期間=資金の限られている中で最善を尽くしたんだろうなあ、とは思うけど。
すぴぱらの続きマダー?
ネットというかニコ動にいるクラシック好きの間では、どうやらハイフェッツのヴァイオリン演奏が大人気らしい。
でも決して綺麗な音ではない。
そもそも西洋の楽器は、ノイズを除去し純粋な倍音を追求する方向で発展してきたので、擦れる音まで味にしてしまうのは明らかに異端というか。
それに、世界の有名ソリストが使っている楽器も、甘く柔らかくシンプルな音で定評があるストラドが多数派で、華麗で力強い音のガルネリが少数派という現実を加味しても、世界的傾向として、ヴァイオリンで好まれる音色はしっとりした優美さだと思っていたのだが、ニコ動だけ違うというのが興味深い。
ちなみに個人的にはパールマンの、聴いていてとろけそうになる極上の音が好きなので、ハイフェッツの凄さは認めるけど、演奏する参考にはちょっと・・・という感じ。
音楽の歴史にはさほど詳しくない素人として、オケの楽器編成はいつも不思議に思う。
オケの音楽様式はリュリがその形を作ったとされていて、大雑把に言ってしまえば、弦楽器が表現の中核で、それで表しきれない部分を管楽器や打楽器が補う。
時代が下るにつれて、管打の存在感は増してきたけど、それでも基本は割と同じ。
だって楽器が高い上に、育成にも非常に時間が掛かる弦楽器奏者を、大人数揃えないといけないから。
ヴァイオリンなんて最たるもので、プロになるなら就学前から習い始めるのが当たり前、楽器のお値段は最安でも新車が買えるレベルという奏者の皆さんが、ベートーヴェン以降の作品だったら最低でも30人は必要。
一方、オケ以外の器楽グループ、特に管楽器メインのビッグバンドとか吹奏楽とかだったら、プロでも始めたのは中学高校の部活動からで、別に最初からプロ目指していたわけじゃない人がほとんどだし、楽器だって管体が貴金属というだけで高価なフルートとかでもヴァイオリンの銘器と比べたら全然安いし、何よりメンバーが30人もいたら「何でもできる、あるいは多すぎ」レベルなのに、オケではヴァイオリンの1st2ndという、たった2つのパートしか揃わない。
これが今の今まで1ジャンルとして確固たる地位を築いていることが驚きだ。
もちろん「表現は効率とは無関係なんだよ低俗なツッコミはやめろクソが」と言われればその通りなんだけど、オケの本場のヨーロッパでも、あんだけ無駄と非効率の塊みたいな音楽が愛されてきたのが「ケタ違いの表現力」の一言では済まされない気がするんだよね。