はてなキーワード: 新海誠とは
オタク作品の中で一般人に受けてるもの今後求められていくものはポリコレとフェミ化して脱臭された、ただ絵柄が漫画風というだけのキレイなオタク文化だよ
山本直樹のインタビューを読んで、いつの時代の話だと思ったのだが、はてブでは賞賛する人が多いようで意外だった。
僕らはこっちの棚でやってるから、カーテンを開けなければいいだけ。けど、表現の自由戦士は「カーテンをぶち破れ!」っていうし、もう一方は「カーテンの向こうを潰せ!」って。
既にゲームもアニメもカーテンの中には納まらない経済規模になってるってことを山本直樹も表現規制派も分かっていない。
一般人はオタクを馬鹿にすることが多かったので、オタクはカーテンの中で楽しんでいた。
音楽番組のランキングにアニソンが出てくるとと失笑されるあの空気とか覚えている。
原神やウマ娘といった昔ならオタクゲームとみなされただろうコンテンツが数百億数千億を売り上げている。
abemaがW杯を無料で中継できたのもウマ娘の金があったからと言われている。
東京オリンピックの開会式でもアニメやゲームが前面に出されていた。
映画ではオタクな作風の新海誠が100億越えの興行収入を連発している。
かつてカーテンの中にいたオタクがメインカルチャーになってしまったのだ。
今さらカーテンの中に帰れと言われても不可能な話なのである。。
山本直樹の認識は2000年代初頭までのオタクが馬鹿にされていた時代で止まっている。
そして表現規制派はオタクが馬鹿にされていた2000年代初頭以前に押し戻そうとしているのだ。
ただ自分はアラフォ―のオタクなのだが、正直言うとJR大阪駅の広告が批判されるのはわかる。
艦これとかウマ娘とか女体化して愛でるのって、カーテンの中でやるものだよねという意識が自分にも残っているので、ウマ娘の広告がドーンとあったりすると「あ、大丈夫かな」と反射的に思ったりする。
むしろ若い世代にオタク的なものが広範に受け入れられている状況に戸惑う。
でも、そういう時代なんだよね。
「オタクはカーテンの中に帰れ」というのは「女は専業主婦で家にいろ」と同じように聞こえるんだよね。自分には。
いや、いまさらそれはムリでしょ、そこには戻れないでしょ。
アニメとか何も知らんやつが、適当漕いてる文章なんで。お前はそう思っとけ、ッて言う感じの落書きです。真に受けないでね♡
もともと子供とか十代の頃に見たせいってのもあるのかもしらんけど、駿作品なんか変じゃない?
変て言うと不確かかな?エンタメとして作られて無いのがわかるって感じかな
エンタメとして売り出してて最低限その体裁は整えてはいるけど、エンタメにゲージは40%くらいで視聴者がぎり怒らないレベルにおさえてて
それ以外のこだわりポイントとかを作り込んでるって感じかな?まぁそういう作品があってもいいけど、面白いって言われると、面白くはなくはなくないか?
流石にクソ映画とは比べ物にならんほどクオリティは高いんだけども
ナウシカとかラピュタあたりは完全にエンタメ優先で作られてて、面白いことこそが前提で、思想とか監督の趣味はその後。っていう空気がまだよめるんだけど
もののけ姫とか千と千尋あたりから?は?どういうこと?これ見て考察しろってこと?考察しないと面白さがわからんってこと?
みたいなのが多くなってきてて、「エンタメ」としての力みたいなのは明らかに落ちてるんだよな。落ちてると言うか創作サイドとか駿先生もわかっててわざとやってるんだろうけど、視聴者に対する信頼感といえば聞こえはいいけど、投げっぱなしとか、甘えが見えて透けるっていうのかな。
いいすぎかもしれんけども。トトロはこどもの俺が見てもめちゃ面白かったし、面白かったし、多分おっさんの俺が今見ても面白いだろう。
でも、中学生の俺はもののけ姫も千と千尋も意味わからんくて、はぁ?って感じだったしな
宮崎駿作品が視聴者に甘えてるのは確かだと思う。そのせいでエンタメとしての力は下がってると思う。
だから国民は新海誠とかの新しいアニメ映画を求めたんじゃないのかな。ジブリは巨匠になってしまって、敷居が高い、専門家が見る作品になってしまった。
専門家以外は見ても意味わからんからな。普通の人は見なくなる。
駿先生のアニメ力が神レベルに到達してしまってて、一般人の俺には、何を見せられてるんだ……。ってなることが増えたんかなぁ。
格ゲーとかも90年代後半は無理だろっていうコマンドとかコンボ前提の仕様になってて素人お断りになってたけど、ジブリアニメも素人お断り感が感じる。
鬼滅が図書室にあるのはすごいとは思う。
ただ昔からワンピースとNARUTOとかのジャンプ漫画は読んでいてもオタクとして迫害はされなかった。
個人的にオタク迫害がもうなくなったと感じたのは新海誠さんのヒット。
新海誠さんはminoriっていうエロゲー会社のオープニングとかを作っていたこともあり
絵も美少女アニメっぽい絵だと思う。
前回、学校園との体操着の変遷についてまとめると書いたが、気が変わった。
電波ソング歌詞DBから「ブルマ」という歌詞を含んだ歌を検索する。
「バトルアスリーテス 大運動会」という1997年から1998年にかけてのメディアミックス作品の曲。OVAでヒロイン夏樹リオが歌う曲。SF、スペースオペラ、スポ根ものらしい。
……。
「いもうとブルマ」というあまりにもそのまんまなタイトルのゲームのOP。2002年。
主人公と幼馴染の姉妹の親同士が突然再婚し、幼馴染の姉妹が自分の義妹になった。良好だった関係がふとした関係で性的なものとなり……みたいな話。
「体操服とブルマだけでなく、レオタード、水着、チアリーディング服などを収録」だそうな。
はいアウト。
いもうとブルマ2というあまりにもそのまんまなゲームの続編。中身も親の再婚により突然4人の義妹たちの兄になってしまうというもの。2006年。ちなみに歌っているのは上の人と同じ萌娘。
関係ないけどブルマーフェチにも裾だしと裾たくし込みフェチや、食い込みやハミパンフェチと区別があるみたいだ。
ストーリーは、彼女との初体験で挫折した主人公を、義母が教え導くもの。コスプレの一つとしてちょっと言及されるだけである。
2009年のPrincess Party〜プリンセスパーティー〜というエロゲのOP。
古いゲームなので情報が少ないのではっきりしたことは言えないが。メインヒロインが青春禁止令を出しているそうだ。ただ、キャラの振る舞いとしてはツンデレ風だとか。
ブルマは脱がして燃やせばいいよ
暴挙。
片想いの相手が同僚と結婚することを告げられて、何も言えずに田舎に帰ってしまった主人公が、伯父の代理として教師をする物語で、OP映像があの新海誠である。そういわれてみれば主人公のうじうじ具合もそんな気がしてこないか。
それと、「ほしのこえ」ではヒロインのブルマー姿があったよな。
『1・2・3・4・5・6・7・8』
2001年に連載が始まったみづきたけひとによる「こはるびより」という漫画があるが、これを2007年にOVAにしたもののOP。
人間と同等の容姿・能力を持つメイドロボが実用化されている時代を舞台に、オタクでフィギュアマニアのご主人様にあくまでメイドでなく愛玩人形として扱われているメイドロボが、その使命とのギャップに悩む話、らしい。
1000歩譲って着せかえOK
これもブルマーそのものではなく、数多くのコスプレの一つとして出てくるに過ぎない。
anond:20220613080116のブクマにて載っていたので掲載。
「ぶるまー2000」というゲームの曲。2000年のゲームかな? ジャンルが「ケツゲー」。なんじゃそりゃ。エロゲのジャンル、いや、エロゲだけに限らないんだけど、ジャンルの説明が説明になってないケースって多いよね。
内容はここによれば、「地球全土のブルマー化を目論む「BB団(ビッグブルマー団)」と世界の微妙なブルマバランスを監視する国際ブルマ機構「MIB(ブルマーの男たち)」の抗争の中、大陸間弾道ブルマーが発射される」らしい。
エロゲではときおり正気を疑う設定があるので面白い。個人的には設定がぶっ飛んだソローキンとか読むのが好きなのでこういうのは嫌いじゃない。
参考:バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳「ちゆニュース - 歌関連」
Wikipediaによれば「ライターの大澤良貫は、書籍『美少女ゲームマニアックス』に寄せたレビューの中で、新撰組を題材としたアダルトゲームというと冒涜のように見えるが、実際は歴史ファンや幕末ファンをうならせるようなマニアックで愉快な作品に仕上がっていた」らしい。
参考:同上
「scungies」「basketball」という単語で検索をすると、以前の記事のようにバスケでブルマーをはいていた証言がたくさんヒットした。
以前と重複するのもあるが、貼る。記事を見ると豪州では90年代までブルマーは現役だったようだ。
ブルマーの流行、ショーツ化、廃止の流れは日本だけの現象ではなかった傍証がまた一つ増えた。
https://www.facebook.com/bibsnskirts/photos/a.245704185447177/245704202113842/
(これはネットボールか)
あと、こちらの拒食症を扱った記事では、陸上でもブルマーをはいていたことが記録されている。
関係ないけど、体育の教科書なんかだと、普通の体操着以外にレオタードを着ている女子生徒が映っている。普通の体操着以外の体操服を注文させられる学校が昔はあったんだろうか?
こちらでは男子が短パンなのに対して女子がブルマーなのは「不完全」に感じられるということが書いてある(ななめよみ)。
https://sirensport.com.au/op-ed/lycra-wars-when-one-size-does-not-fit-all/
新海誠のクセの強さがだいぶ減ってた
そんで作画力はやはり異常に良い
前のジブリ枠のような
前作まではまだそんな感じしてなかった、新世代向けって感じしてた
苦手民も一度見てみて欲しい
日本のクリエイターはこれまで被災地や被災者の恐怖体験をゼロ地点に戻すことはしなかった。それは被災者の悲しみが風化することと、震災を風化させないことを同時に祈ったからだ。
当時のニュースのような直接的な恐怖体験をどのように暗喩として映し出すかに心を砕いてきた。だが新海誠はその祈りにも似た形を生ぬるいとして破壊した。風化が怖いなどと政治家のような天皇のような視点で。青臭い子どもの恋愛もので2人を切り裂く障害物のように最高で最低の舞台として利用した。
先週はじめてすずめの戸締りを見て、やはり新海誠の作風はファンタジー要素を入れない方がうまくいくんじゃないかと感じた。
秒速5センチメートルからファンで作品を追っているけど、新海誠作品の真骨頂は説明不足だけどそれを補完できる(または想像を膨らませることのできる)表現力だと思う。
それが最大限に出来ていたのが言の葉の庭だと思っていて、あの作品は雪野先生がどういう状況に立っていて、何故公園に来るようになったのかを描かず受け手に想像させることによって
主人公側から見た雪野先生の謎めいた美しさが際立って見えていると思う。
尚且つ終盤に主人公自ら雪野先生の過去を、表面的かつ客観的に人づての情報だけで自分の中で処理して行動している。
ここでポイントなのは映像作品だけを見ると、そもそも何故雪野先生がいじめのターゲットになったのかが
全くわからないということ。
このいじめに至る経緯は小説版を読めばわかるのだが、それをせずとも
主人公の行動原理を理解して感情移入が出来るのは国語のテストで言う
「この場面での~の考えを答えなさい」が分かりやすく、説明がなくとも大多数の人間が正解を導けられるということ。
君の名は。以降の作品は特にこの行動原理について説明なくとも分かるでしょ?が行き過ぎていて、置いてけぼりになる(若しくは疑問に思ったことが頭から離れずモヤモヤしながら見てしまう)
ということに繋がっていると感じる。
勿論映画は何も考えず直感的に楽しみ、その後に考察や小説を読んでみるなどで作品の輪郭を把握していく楽しみ方もあると思うので
ここでの「セカイ系問題」とは、二人の関係性を選択した場合に社会が甚大な被害を被る場合に、関係性と社会のどちらを選択するのかといった意味の造語である。
その問題に対する「すずめの戸締まり」での解決方法は、ちょっと驚きだった。
前作「天気の子」の鮮やかな選択を知っているだけあって、今作での本問題に対する結論は、かなり驚愕であった。
以下ネタバレになるが、今作ではファンタジカルな第三者が現れて、その問題を解決するという解決方法だった。
いや、第三者が現れて「セカイ系問題」を解決すること自体は、根本的に正しい。
多くの作品で子供として存在する主人公が、その対立問題を一手に引き受ける必要などみじんもない。
そこを例えば、大人である私たちが導くなりカウンセリングするなりして、問題の糸を解いていくのは、本当に根本的に正しい。
「すずめの戸締まり」では、その役割をファンタジカルな存在に投げてしまった。
ファンタジカルな存在が解決するということは、社会が何も手助けしないというのと同義だ。
新海誠は、本作を多くの人に届く作品にしたい旨の発言をインタビューでしているが、そうすると、こういう展開が社会の多くの人々が望む展開なのだろう。
すなわち、「セカイ系問題」みたいな個人的かつ社会への影響が大きな問題には、社会はコミットしないけれども、
社会が甚大な被害を被るのも許容しない。ファンタジカルな第三者が現れて、その問題が解決されることを期待する。
という、ふざけた解決方法を社会の人々はきっと望んでいるのだ。
いや、これは作品を描いた作者が悪い訳ではない。
それを、社会に受け入れられる展開として描かせる社会の器量の狭さこそが悪いのだ。
逆説的に言えば、「すずめの戸締まり」のあの解決方法は、社会の本当の宿痾みたいなものを暗示している。
前半は、人々の寛容みたいなものをひたすら示すロードムービー的展開だっただけに、その隠された社会の人々の不寛容がかなり心に突き刺さり、驚愕の声が出てしまった。
新海誠が本来好きなのは小さい話と言うよりはゆっくり気持ちが動いて行くのを丁寧に描写するのが好きなんではと思う。秒速とか言の葉とか。
今日見てきました。会社都合で昨日今日と休みになって、家族は普通に平日なので一人でふらっと映画館へ。
平日の映画館はガラガラで巨大スクリーンほぼ独り占め(正確に言うと五人占め)でした。
映画の内容はあちこちに出てるのでここでは書かないけど個人的な感想としては良かった。
ロードムービー形式で話は進み移動しながら人に会い経験を深め、話が展開されて行く。その旅への共感、地震への恐怖の共感、もっと言うと小さい頃のすずめへ共感出来る人はすっごくハマると思う。
毎日は小さな旅の連続。そして人との繋がりの中で生きる、そんな日々。それは行ってらっしゃいとお帰りなさいで紡がれる日常。良い映画でした。
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にしても新海監督、これ以上壮大な映画は作れないのではと言うくらいネタを出し切った感がある。もうこれ以上の良い映画は撮れないと言うのではなく壮大さと言う点で。
・準備するもの 紙の束と筆記用具
①最初の一人が、何かを紙に書いて伏せて誰かに渡して「見た?」と聞く
②聞かれた人は紙に書かれたものを確認して「見た」、または「見てない」と答える
③「見た」と答えた場合は、紙を公開して直前に渡してきた人に返し、答えた人の両隣が「すごかった!すごかった!」と言う
④「見てない」と答えた場合、伏せたまま他の人に渡してまた「見た?」と聞きましょう
⑤「すごかった!すごかった!」が終わったあと、または書いた人以外の全員が「見てない」場合、最後に伏せた状態で紙を渡されていた人が新しい紙に何か書いて、他の人にまた「見た?」と聞きましょう
これを続け、返された紙を2枚集めた人が勝ちです
【ネタバレあり】
「君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である。主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇を追体験し、不思議な力によって惨劇を回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世は過去も現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去の自分と出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親に常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である。
「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である。世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災と愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去の震災被害の経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去は意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である。
翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティックに世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界は微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。
過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである。過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます。
「大人の論理、子どもの純粋さ」という対立軸は日本のアニメ漫画文化で普遍的なテーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母は組紐の伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。
「天気の子」では鮮明に「大人の論理、子どもの純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立に解決や落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもにたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼントの刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである。象徴的なのは須賀の義母である。相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分の価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事や役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。
一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤と和解が大きなストーリーラインを構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸で出会うシングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生にベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態を引き起こした当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。
もともと新海誠はキャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品も主人公とヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者が勝手に自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去の作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠の最高傑作」との宣伝文句は伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである。
・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある
・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた
・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった