はてなキーワード: 従順とは
彼女らは必ずしも「同性愛の恋愛ドラマ」が好きとは限らないと思う
黒子のバスケにしろ弱虫ペダルにしろ、古くは聖闘士星矢だのキャプテン翼だの
ふつうの少年漫画がほとんどで、劇中本編に直接、男性同士の同性愛描写はない
つまり、たとえばチームメイト、戦友、主従、先輩後輩、ライバル等々の
「『男同士の関係性のドラマ』を過剰に深読みすること」が好きなのだろう
実際、おっさんずラブみたいとかに、最初から主要登場人物がゲイであることが前提
「空想の余地がない」から盛り上がれないと述べる腐女子は実在する
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俺は男なんだけど、以上に気づくのに20年ぐらい掛かったw
2000年年代の東方二次創作でストーリー性の高い百合同人誌の傾向が
だいたい男女をひっくり返して同じような感じだったから
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ではなぜ、腐女子は「(同性間の)関係性のドラマ」が好きなのかといえば
男女間だと関係の形が性的役割分担に回収されるのが面白くないという説がある
そらなあ、女性が強くてかっこよくて金のある男とくっついて救われるとか
・
普通のヘテロ恋愛を描いた作品よりBLだの百合だのを好む奴というのは
それすらもないぞ
なのでそれを嫌った若者が経営者と近い環境で働けるベンチャーでヒャッハーし
やがて、
『この会社はあなたがお金を出して作った会社では無いのでその選択は社長と役員の自由ですよね』
あるいは、従順な羊🐏になるのだ
実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたかは記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。
年を重ねるにつれて「宗教的な儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範は自分自身にも深く根付いていった。思春期に差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。
さらに長じて倫理とか規範とかに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。
「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より
①自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範(平時にご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである
「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、
②すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範・マナーから逸脱すべきでない
ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか。
①「自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について
当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰や規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由や平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理と表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教の人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理と表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由や平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。
具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒が聖書を引用して「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書の記載」に自分は価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒が同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分は世俗道徳を尊重し支持しているからである。宗教倫理と世俗倫理が背反するときには世俗倫理が優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律や暴力装置によって施行されるべきと考える。これは宗教倫理の優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。あくまで思想・信条の自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。
ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分が尊重する「世俗規範」の基づいて社会が運営されるべきと考える。どれだけ他者の価値観を尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会で尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム(必ずしも直接的な暴力ではない)で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理を現代で志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的・暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーランの字義通りの解釈を尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。
さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分の自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理を尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間に配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者の規範の尊重は、私の尊重する規範を害さない範囲でないともちろん認められない。人権思想や表現の自由は自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマドの表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである。
まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別な意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教・神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナーの問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります。
②「すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存の規範・マナーから逸脱すべきでない」について
これを言い換えると
・上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない
いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。
まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的に絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティと非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。
何かのマナーに価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである。基本的に選択肢は多いほうがいいと自分は考える。
さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリットが存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。
ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナーに価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださらに思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別な意味を見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。(このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報大募集です)多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナーが存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。
マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまり、マナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーは不快を感じる機会を増やしているだけである。不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さないメリットを自由に享受できる社会のほうが絶対にいい。自分がマナー業界を蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナーを創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。
と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナーに合理的な意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範=マナーに従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間を排除する上では非常に有効に機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的なメリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ、自分の信仰としてこういった排除のロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。
ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時にご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定の不快感を生じてしまう。これは自分だってそうである。ご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由で有害なマナーを継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているから道徳的である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなものに迎合していいのか。他人に自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。
「ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生、高校生ともなればこの理屈は理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で残酷になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベストを選択できないことはベターを選択しない理由にはならないはずだ。
将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちはご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナーの存在を知らない世代の食卓はどんな光景だろうか。
彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないか。ご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。
これからの世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない。
と、限界男オタクから問われた。彼が出掛けた先で女性向けコンテンツのイベントも同時開催されていたそうで、その時の女オタクの振る舞いを見て、タイトルのような疑問をいだいたのだそう。
まあ、私はイベントとか最近あんまり行かないから今のことは知らんけど、記憶では、コミケのような大きなイベントでも、女性率90%な何かの同人オンリーイベントでも、女オタクは普通にマナーがいいと思うのだが。スーパーなどで日常的に見られる買い物客の様子よりはだいぶマナーがいいと思う。
限界男オタクに、では男オタクのマナーの良さとはどんな感じ?と聞いたら、挨拶をちゃんとする、絶対列の順番抜かさない、列をトイレとかで途中で抜ける時、周囲の人(赤の他人)に声をかけておけば戻った時にちゃんと元の位置に入れてもらえる、マナーの悪い人がいれば諌めるしマナーを知らない人には丁寧に説明する、事前調査や下準備を怠らず現場でモタモタしない、だそう。
うーん、女オタク、同じイベントに参加するからって、列の前後の人にわざわざ挨拶するかといったらそこまではしないかもって気もするけど、大体男オタクと同じじゃね?と思って、マナーの悪い女オタクの群れの様子を詳しく聞いたら、それはジャニオタだった。とあるオタク向けコンテンツにジャニーズが出演していたので、ジャニオタがイベントに参戦してきたのだそう。その、ジャニオタ込みの女オタクの群れは、開場された途端に列なんか無視してわっと走り出し、物販に突撃し、ディスプレイを蹴散らし、昭和のバーゲンみたいにグッズを我先にと漁り奪い合ってレジに走ったという。
なるほどそういうこと。それって、たぶんジャニーズという広く一般に知られているジャンルなので、オタクのイベントに慣れていない人達が多く含まれていたのではないだろうか?そういう人達の自由過ぎる振る舞いに流される形で、本来はマナーのいい女オタクも合戦場に飛び込んで行ったのでは?
「マナーが悪い人がいたら止めるなり注意したらいいのでは?そうはせずに一緒になってイベント開催側に迷惑をかけ、グッズの奪い合いをするなど……」
そうだなぁ。目の前の欲に眩んだ、あるいはそれしか利益を得る手段がないという現実に屈している。簡単にいえば、多勢に無勢というやつだ。いくら紳士な男オタク達といえども、もしも同じ状況に少数派紳士として参戦しなければならないとなれば、やはり仕方ないと奪い合うのではないか?
結局、ジャニーズファンの裾野が広すぎるというのが問題なのではないか?オタクイベント慣れしている人しか集まらないイベントならば、女オタクだってジャニオタだって、ちゃんと並んでマナーのいい買い物をすると思う。そう私は限界男オタクに話した。
そんな会話をした後考えたのだけど、本当に女オタクというか、女性の方がガチでマナーの悪い可能性というのを考えた。男性だけの集団の方がマナーのいい可能性である。
どうしてそうなるのかというと、男性の方は幼少期には振る舞いがモンキーである期間が長いぶん、ルールやマナーを守ることが自分の利益になること、守らないことが自分の不利益になることを身をもって理解するのではないかということだ。
一方女性の方は、幼い頃からきっちりルールを守って従順な傾向があるけれど、それはただ大人の言うことを鵜呑みにし、行動に反映させているだけのことで、ルールやマナーの価値というものを本当には理解しないまま育ってしまう、ということだ。失敗しないので学びがないということ。だから、上から偉い人が押さえ付けてくるという状況から離れると箍が外れて無法の限りを尽くして平然としている、ということもあり得るのでは?
そんな推測もあるっちゃあるのだろうか、なんていうことも思ったが、本当のことはよくわからん。まず女性だって、オタクだけが集まる場では統制が取れている辺り、男性が特段にマナーがいいというよりは、オタクという属性の人々は性別問わずに特殊である可能性が高いじゃないか。
私も元増田と同じような感じで、レズよりのバイでタチ。男性とも付き合った事がある。
性的には女の子の方が好きだと思う。支配欲もあるし、上に立たれるのが絶対に嫌な性格。
例えば金銭。割り勘にはしない。自分が全部払う。もちろん収入も多い。
プレゼントもこちらから高価なものを買い与えたりすることがほとんど。彼女からはご飯を作ってもらったりする。
荷物を持ったり、PCの設定をしてあげたり、お店では率先して自分が対話して彼女は後ろで静かにしている。
寝る時は腕枕をしてあげる。腕が痛い。悪夢を見る。
セックスももちろんそう。基本自分がするばかりでしてもらうような動作はほぼない。特に気持ちよくはない。
それに対して女の子から得られる心地よさも沢山ある。可愛い。言いなり。従順。甘やかせる。怒れる。
しかし特に私は男になりたい訳では無く、あくまで女のタチでしかないので徐々に疲労した。
その時実感したのは、私は女なんだなあという事と、男の人って大変なんだなあという事だった。
どうも男の役割をしていると、甘やかすことばかりで甘えるという図式が見つけられなかった。
男性と付き合っている時は仕事に失敗したら慰めてもらう、相談に乗ってもらうのような図式があったものの、
女の子とタチとして付き合っている時には許されない気がした。いつでも強い人間で、弱みを見せてはいけない気がしたのだ。
なので落ち込むような事があった時には彼女を無視したり、あるいは叱ったり、突然怒ったり、まあとにかく申し訳ないような事をするしかなかった。
先述した通り私は男になりたい訳では無く、根っからの女なので、これは女からみた男像の再現でしかないのだろう。
それにしても男の人は甘えられないし、弱みを見せられないし、男っぽくあることを強要されているんだなあとその時感じた。
そりゃ男の人だって守られたいに決まっている。つらいときには甘やかされたいよなあ。これはとってもしんどいことなのは確かだ。それでこれが軋みを生み出している事も。
女視点の男像がどこまで正しいか、どこまで男の男らしい事に影響を及ぼしているかはわからないけど、男の人も守られるような時代になればもうちょっと平和なんだろうなと思う。
要は「男性に都合良い」「男性に従順で逆らわない」「余計な自己主張をしない」「男性の為に自己犠牲出来る」って事だし
よっぽど後ろ盾がしっかりしてるなら別だけど、悪人ってのは後ろ盾がない人間を狙って捕まえるもんだし
DVモラハラ男と「相手の交際要求を断れなかったから」付き合って結婚して「夫に何も不平不満を言えないから」我慢してる女性が典型例
それより「やや男より自分優先」「やや自己中」「やや身勝手」な「やや性格悪い」女性の方が
結果的にそれを許容する男性と結婚してるか、嫌な男性を拒絶して独身で自由に生きてる、幸せな人の率高いと思う
90年代の音楽シーンってアイドルが消滅してアーティストの時代になったのよ
ハロプロくらいじゃない?
それで紅白出るのダサいよねって風潮が90年代末から2000年くらいにできたんだよ。
自分たちのファンと年を越したいとかいって自分のコンサートを優先したり
そういう理由でね
そんな流れのなか総合格闘技バブルで年末にビッグマッチが組まれてさ
それで紅白はオワコンだオワコンだってゼロ年代にはなってたのよ。
そんな流れを変えるきっかけとなったのがPerfumeなんだよ
ストーリーに紅白を組み込むっていう大胆なこと言いだしたのよ。Perfumeは。
事務所が言わせたのか本人がそう思ったのか知らないけど
当時の俺は何言ってんだっておもったよね
その戦略は見事だとは思うよ
そして見事紅白に出ることになるのよ
きのせいかNHKもPerfumeを応援していたようにおもうよ
(売れたきっかけがACのCMでNHKでも流れてたからってのもあると思う)
なにが不満なんだ?って話だけど
ただ、Pefumeの成功もあってかほかのアイドルも紅白めざしますとか言い出したのよ
それでおそらく業界人は気づくのよ
自分の時間が大事だとか生意気なことをいうアーティストなんかよりも
結果どいつもこいつもアイドルになったよね
Perfumeのせいじゃないのかもしれない
いやおばさんだからやめろっていうんじゃないぞ
自分勝手な上司。すぐどなる、恫喝。威嚇する感じ。今でもたまに思い出す。適応障害で辞めたし、その時の記憶はあまりないけど、外に吐き出してみよう。
もう会うことはないが、会ってやりたい。そしてあの時は本当にひどかったと言いたい。
社会の癌。たかだか22,23の男に何を期待してればそうなるの?
てか子供産まれない先輩に奥さん腐ってるの的事平気で言ってたし。あたまヤバいおかしいだろ。
こっちが従順に従ってるからってなんでも言っていいってなってる。てかもう通報されて左遷されてねぇかな。
妄想の中でこの上司が怒鳴ってくるし、自分の理屈で言い返しても怒鳴り返されての繰り返しで、頭の中がキュっとやばくなる。
優しさなんかかけない方がいいかな。死ねって言葉を使わない優しさみたいなのが自分のにはあると思ったけど、そんな考えだから舐められるのかな。
ここまでくると、もうその上司の実態なんてどうでもいいかもな。
でも本人がのうのうと暮らしてると思うと腹が立つ。
その方からの敬意を感じるし、好意を感じてくれている部分や尊敬してくれている部分を言葉で直接伝えてきてくれます。
わたしはいわゆるカリスマ性質があるタイプで、男女問わずこういった感じになついてくれる方が多いです。
そういう子を見ていると可愛くて仕方なくなってしまい、男女問わず性的な欲望を感じてしまいます。
いまなついてくれている方は過去に出会ったわたしの信者のなかでも並みはずれてかわいらしく、いじらしくけなげで、従順で、可愛くて仕方ありません。その方を思って自分を慰める日々です。わたしの性別は、その方にとってほぼ確実に性愛対象だと思われます。つまりどうしたいかというと床に誘いたいです。
しかし、世の中においてはいくら好きでも性愛対象と親愛対象はあくまで別という感じ方も存在することを知っています。
わたしの場合性愛も親愛も一直線上のものですからこういう状況になっているわけですが、実際「性愛」と「親愛」が別だと感じる方は、どういった分け方をされているのでしょうか?
仕切りで区切られたようなもので、一度カテゴライズすると、もう二度と変更されることはないでしょうか。
もしくはグラデーションのようなものでしょうか。その場合は、相手から感じる思慕の中に性愛が含まれると見極める方法とはあるものでしょうか。
また、敬意が最大に達すると献身的になるものでしょうか。熱狂的な矢沢ファンのヘテロ男性が「矢沢永吉になら抱かれてもいい」とおっしゃってるのを見たことがありますが、それは矢沢永吉が性愛対象ということではなく、あくまで献身ということですよね。そういった切り口でも、活路があるのかな。
ともあれ、今の状態ではツラいため、本懐を遂げたい思いと、断られることへの恐怖で行ったり来たりしています。
※念のため注意書きしておきますが、その方との関係は仕事上のものや、何らかのコミュニティにおいて上下関係にあるものではありません。社会的にはお互いフラットな関係です。