はてなキーワード: 嫌なら見るなとは
嫌なら見るなが出来ないのさみんな
自分がやってる某ゲームで知らないバーチャルYouTuberとコラボ企画が行われた。
バーチャルYouTuber関連のグッズがゲーム内で使えるようで当該バーチャルYouTuberや公式がキャッキャしてる。
自分はそのバーチャルYouTuberの動画は全く見たことない。
なーんか知らない身内ネタを見せられてるようで楽しくないな〜。
割と強いグッズだからゲーム内でよく見るし嫌なら見るなが出来ないのもな〜。
なんだかなー。
結局、いくら机上で空論を並べ立てようと、コンテンツ業界そのものが二次創作界隈と懇ろになっちゃっている現実の前では虚しいばかりだよね。
企業が同人イベントで企業ブース出したり、二次創作あがりの絵師がイラストレーターとして起用されたり、小売りとして業界の一端を担っているショップが委託で二次創作作品を販売していたり……。
たまに、今のホットエントリの増田みたいな二次創作されるのが嫌って一次創作者が出てきても「じゃあ禁止すればよくない? 出版社がそう言わせてくれない? じゃあ禁止させてくれるところで書けば良くない?」で終わっちゃう。
あとは自分の好きな作品が二次創作されるのが嫌ってファンもいるけど、それこそ権利者でもなんでもない個人の意見なんて「嫌なら見るな」でサヨウナラ。
私は非常に気分を損ねていた。
帰りついた自宅の駐車場に車を停めて、運転席の背もたれをうんと倒し、不貞腐れて仰向けに寝転がっていた。
朝、私は今日を素晴らしい日にしてやろうと息巻いていた。
喫茶店でサンドイッチを食べ、たっぷりのコーヒーをちびちびと舐めながら、窓際で日向ぼっこをしよう。その為にもお気に入りの目玉焼き柄シャツを着て、人に会う予定もないのに化粧をして、車通りの少ない道をゆっくり走っていこう……。そうやって幸せの逆算をしながら、あらゆる準備を嬉々として行っていた。
目当てだった喫茶店は混んでいたので諦めたが、いくらか離れた元酒屋のそこは空いていた。カフェスペースに先客はおらず、そっと床板を軋ませるのは、なんとも言えない優越感があった。注文が届いてからマスクを外す。なんともいい匂いだ。ピザトーストは分厚くもっちりとして、確かな食べごたえでもって私を満足させた。
ナイフとフォークを用いてピザトーストを切り分けている間、三人連れの女性客が入ってきた。やや離れた席に座った彼女たちは主婦友達らしく、子どもの話やなんかで盛り上がっている。店内のラジオと合さって、程よい午後の気だるさを演出していた。
デザートとコーヒーが運ばれてくると、プリンは直径10cmほどのボウルにたっぷりと入っていて驚いた。甘くざらついて飴がけになったそれもまた、なかなか気に入った。
半分ほど残したコーヒーを冷める前に飲んでしまうべきか、時間をかけて舐めているべきかで悩んでいると、今度は三人連れの若い男性客が入ってきた。灰皿はないかと店員に声をかけて、禁煙だから外でどうぞ、マスクは飲食が始まるまで外さないようになんて言われている。
彼らは私の隣の席に座ってお喋りを始め、もう向こうの主婦の声も、ラジオの音も聞こえなかった。許容できない距離に人間が増えたのが不快で、私はマスクをつけた。こうなってはのんびりとコーヒーを啜っているより、さっさと飲みきって、それから自分の世界に閉じこもってしまうのがいい。そう思って一度つけたマスクをずらし、コーヒーを飲み切る。マスクを戻して背もたれに体重をかけた。
「一口飲む間だけマスクをずらして、すぐに戻す人はこの辺りじゃ初めて見た」
私は眉を寄せ、それから絶望した。なんだこの躾のできていない男は。こんな人間のたった一言で、素晴らしくなるはずだった私の一日は台無しにされなければならないのか!
男性客たちをひと睨みするが、気にした様子もない。うんざりして頭を抱える。ほんの一分、もしかしたら十五秒、忘れようと目を瞑ったがとても無理だった。不機嫌なまま立ち上がり、ごつんごつんと踵を響かせてカフェスペースを出る。会計をしたが、そのまま店を出ていくのは悔しかった。
酒屋と雑貨屋の合わさったようになったスペースをぐるりと回って、何かいいものがないか探し出す。地下にワイン蔵があるのは知っていたが、ワインはあまり飲まないので降りていくのはやめた。ウイスキーと迷ったが、冷蔵ケースに珍しいビールが並んでいたので、二種類選んで買った。今日ではないがそのうち、餃子をつまみにこれで晩酌をしようと決めた。その瞬間ばかりは心が晴れたが、すぐに曇ってしまった。
予定よりも早く店を出て、帰路を辿る。本当なら服屋にも寄りたかったが、もうすっかり気持ちが萎えてしまって向かう気になれなかった。
いつまでも腹が立って、悔しかった。全く不躾な男だ。あんなやつは新型の病気とは言わないから、インフルエンザにでもかかって一ヶ月ばかり寝込んでしまえ。そして金輪際喫茶店になんて近寄らず、自宅で駄菓子をつまみに発泡酒でも飲んでいればいい(私は普段そうやって酒を飲むことが多いので、別にそれが粗悪だなんて思ってはいないが)。なぜ笑われなければならないのだ。なぜあんなしょうのないことが気になって仕方ないのだ。どうしてこんなに打ちのめされなければならないのだ!
どこか公園にでも寄ろうかと思ったがやはり気が向かず、結局帰ってきてしまった。家に入る気にもなれずに、車の中に寝転がる。この空間には私一人だけだ。私をおびやかすものは何もない。本当はそういう安心感を、どこか外の世界で味わいたかった。孤独や悲しさが溢れて流れていった。
このままで今日を終えるなんてとてもできない私は、日記を書くことにした。この自分勝手で、被害妄想的で、矮小で、傷ついた気持ちを、どこか遠くに追いやりたかった。それはそう、どこか私小説と呼ばれる物に似ている気がした。
日記を書き終えると、ずいぶん心が穏やかになっていた。今日という日が私の頭を離れて、このたかだか二千字足らずに収まっている。この出来事はもう、私から切り離された私以外の何かで、私の興味を引くに値しないものだった。
しかし、ここまで真面目に書いたら誰かに見てもらいたい。閲覧数がいくらかついたら報われるし、私を擁護してくれる人がいるかもなんてスケベ心も湧いてくる。くだらないと言われれば古より伝わる「嫌なら見るな」のアスキー・アートを心の中に貼り付けよう。そう考えて、私は投稿ボタンを押した。
ある広告がモノ化と批判されるのを、「企業 対 モデル」の話だと勘違いしてるの? 話をズラしたいのなら、ちょっと悪質かな。
たとえばあるアニメが「女性をモノ化してる、女性差別だ」と批判されたとき、「アニメ会社は声優をモノ扱いなんてしてない」って言っても、何の意味もないでしょ? あるいは「〇〇たんは差別なんてされてないであります!そもそも二次元ですしpgrwww」とか言っても、可哀想な目で見られるだけだよね。
広告でも同じ。モデルは広告の中で、あるキャラクター(例えば〇〇社の製品を使って幸せになってる架空の誰か、みたいな人)を演じてるに過ぎないよ。批判されてるのは、その架空世界やストーリーそのものであって、それを演じてる誰かではない。その架空世界やストーリーそのものに差別的な構造があるとすれば、それは結局のところ作り手の思想なわけで、つまりこれは「その広告のクリエイターの思想 対 世間」の話なんだよ。思想そのものは自由だ。でも、それを世間に向けて「表現」という形にするなら、厳しい批判にさらされることは覚悟しなくちゃいけない。
そして更に言えば、広告が企業にとっていわば「顔」である以上、クリエイターの背後には当然ある会社などの考えそのものがあるわけで。ある企業がお金かけて差別的なメッセージを「世間」に流したら、それは明らかに批判されるべき行為だよ。無自覚にやってるなら修正と自覚が必要だし、自覚してやってるならそれはヘイトスピーチだよ。
昔は、ある思想が「表現」として世間の目に触れるまでには何段階もの目が入って、明らかに炎上するような偏った思想はチェックされてた。まあ、世間もおおらかだったんだけどね。ところが、インターネットやSNSのせいで「個人の内心表明」がすぐ「全世界に向けた宣伝」に直結した。さらに、Twitterなどの「嫌なら見るな」式のクローズドSNSは、規制の眼の入らない小さなコミュニティを大量にネットに作り上げることを簡単にしてしまった。その結果「偏った思想の人ばかりの村」ができ、そこで、「個人の内心」を垂れ流しても別に問題ないじゃんね、みたいな誤った認識が育てられることになった。それに対して公的な規制がかけられつつある現在、その住人らが「思っただけで取り締まられるのか!表現のじゆう!」みたいに騒いでいる現状、これはとても面倒くさい状況だと思う。
ここからは余談。
人々が神秘に弱かった時代は、「神様」の権威の下に社会の制度を作ることが、もっとも「オープンなコミュニティ」を作る最適解だった。
その後、少しの合理性を備え、でも人と人がまともにコミュニケートできず力こそパワーな時代には、強者が「民の声をよく聞く」ことが、「オープンなコミュニティ」を作る最適解だった。
コミュニケートのレベルが少し上がってくると、王個人の資質によらずシステムとして「民の声を聞く」、すなわち民主主義が「オープンなコミュニティ」を作る最適解となった。
そしていま、コミュニケートの手段が飛躍的に加速した現代、その手段が逆に人々をクローズにしている状況で、民主主義が適切に機能しない状況を迎えてしまった。
(これは別にTwitterが悪いという話じゃない。彼らは人々の欲求に応えただけで、問題は、そういうクローズなコミュニティを求めてしまう私たちの方にある。)
民主主義が本当に息絶えてしまう前に、私たちは、新しい「オープンなコミュニティ」を作る思想を作り上げなきゃいけない。
それは何か。ヒントはおそらくこれまでの数千年の歴史の中に示されているだろうと思う。
それも性的消費とは無縁のおばさん
例え男がタイツの絵でしこってるとしても
別にお前らが男同士の恋愛を性的に表現して消費してようと勝手にしろと思うだけ
嫌なら見るなですむ話なんだよ
ましてや広告なんて鬱陶しくて積極的にブロックする人がいるものを熱心に見るなよ
暇かよ
タイツの件、某区議を含むアンチフェミ界隈でも絶賛大盛況ですね。
本件かなり早い段階(スカートたくし上げイラストが消される前)から観察してたんだけど、「フェミが騒ぎを起こしてる」「"性的消費"を問題にしている」「萌え絵を取り下げさせようとしている」「イラストレーターを攻撃してる」「表現規制をしようとしてる」ってのは"恣意的に作り出される"んだなということが分かったので備忘のためにもまとめておく。
(あらかじめ言っておくと、今回についてはこれらの批判は正しくない。後述)
自分が騒動に気づいたのはたしか11/2の昼頃で、「これは燃えそうだな」と思って観察していたので覚えている範囲で時系列を記載する。
延焼し始める前から「これは便乗フェミ叩きも現れそうだな」と睨んでいたので定期的に「タイツ フェミ」等の単語でtwitter検索も実施していた。
つかれたのでこの辺で切るわ。後で追記するかも
増田で所謂お気持ち長文と呼ばれる投稿が流行ってから最初はなんであんなに他人の二次創作に怒りや嫌悪の感情を燃やせるのか不思議でならなかったけど、いくつか読んでみたらその原因が分かってきた。
お気持ち長文を読んでいると必ずと言って良いほど「界隈では~」とか「Twitterでブロックして~」とかの文章が出てきていて、大抵なんらかのオタクコミュニティに属していることが分かる。
そして、多くの人は気に食わないからといってスパッとそのコミュニティから抜けるということができていない。
嫌だけどズルズル居座るか、「あいつらがクソだから私は抜けるんだ」って自分の中での正当性みたいなものを作り上げてそれでようやくコミュニティから離れられるパータンが大半。
だから、『嫌なら見るな』という基本中の基本ができないんだなと気が付いた。
俺はオタクだが、Twitterをやっていて他人と絡むこともないし、創作はしてもサークル単位での活動みたいなことはしたことがないから、なるほどこれは共感ができないわけだと膝を打った。
理解できたところで、嫌と思いながらもコミュニティから出ていきもせず、さりとてそのコミュニティにいるために必要な我慢や受容もできない、我儘な人なんだなーとしか思えないが。
フェミはポリコレは社会学者は漫画やアニメを自分の価値観で叩きまくってる!許されない!嫌なら見るな!→それけもフレ2の時にオタクは散々やってたじゃん。ファンまで袋叩きにして。
漫画やアニメに対して「ほら、こうした方がいいだろ」と押し付けるとか何様のつもりだ!→けもフレ2の時に散々やってたじゃん。イエイヌ救済とか。
不快だからとポリコレを持ち出して漫画やアニメを叩くな!→ビースト生き埋めや髪の毛引っ張る展開を叩くのはポリコレではないと。
けもフレ2は自分もクソアニメだと思うが、表現の自由とか言ってるオタクの本性を暴いてくれて制作陣にはありがとうと言いたい。
Twitterでもはてなでも掲示板でも、コンテンツへの不満を語ったやつが「嫌なら見るな」「not for you」でボコボコにされるのをすげーよく見るようになったけど、作者と鑑賞者の関係として歪んでると思うわ。
そりゃね、こじらせアンチになって叩くためにそのコンテンツに粘着してるやつは、他の趣味の方がいいぜ、下手すると犯罪になるぜって感じだけどさ。
追い続ける程度に好意は持ち続けてる人間であっても、この売り方は不快だとか、新展開に納得できないだとかの不満を持つことは当然あるわけじゃん。
ジョジョの二部四部七部が好きだが三部八部は面白くないだとか、龍が如く極の演出やストーリーはいいけど戦闘がだるいだとか、1st2ndアルバムは名盤で3で落ちたが4で盛り返したと思ったら新しく出た5枚目はがっかりだとか、Switchで遊ぶのは面白いがコントローラーの誤動作はマジで何とかしろとか、ランダム特典商法エグすぎとか、Twitterに面白い奴もいるがクソうざい奴もいるとか、あるだろ。
でもその不満が語ったやつが「じゃあ見るな」「not for youだっただけ」「黙って去れ」みたいに言われまくるようになってるのは、労力をかけてコンテンツを作った側と、金と時間を払ってそれを買った側の関係として、だいぶ不健全だろ。
不満や批判に対して、腰据えて再批判するならいいよ。「お前の批判内容は間違ってる」は健全だよ。
でも昨今は、「批判という行為をすべきでない。ファンなら全部褒めるべき、文句は口に出すべきでないしそれができないなら消えろ。全肯定ファン以外はファンにあるべからず」って風に切り分けたがる感覚が広まってるように感じる。切り分けが言いすぎなら住み分けでもいいけどさ。
なんか、それを鑑賞する者たちの空間ではほめることしか許さないのって、コンテンツ制作者もしくはコンテンツ自体を偶像・崇拝対象として扱うのが常識になりつつあるみたいで、居心地よすぎて居心地悪い。
最初に結論を書くと、私には今Twitterに見られる殆どの「フェミニズム」はその実、自身の「復讐」のことを述べているように感じられてならないという話です。
私がこのところ観測した、Twitter上でフェミニストとして声を上げる方々の多くは何らかの性犯罪を受けたか、男性嫌悪をお持ちです。
ですが被害にあったことは、復讐をする権利を与えられたことにはなりません。
ましてや、加害した訳でもない男性へ怨嗟を向け続けている状況は、はっきり言って異常に思います。
専門家ではない一般人としての意見になりますが、法律とは罪を裁くためのものであり、被害者の心を満足させるためのものでは無いと考えます。同時に、被害者が加害者を許さないことはどこまでも自由です。加害者が罪に問われるのは「貴方」を害したからではなく、罪に問われる行為をしたからです。
男性をはじめとした「貴方」にとって不快なものを排除した、「貴方」が満足する世界を生きたいという欲求の表現にフェミニズムという単語を使うことは、本来のフェミニズムに反することではないでしょうか。「貴方」が「自分」に害をなした人々を憎む心を、フェミニズムという耳障りのいい言葉で包んではいませんか。
フェミニズムは万能の剣ではありません。一人一人異なる考え方を持つなかで、フェミニズムが全てを解決するわけでも、全て正しいわけでもありません。
さて、この文章を書いている私はゴリゴリのオタク、腐女子です。主にBLでエログロなんでも好む私は、二次元において好きなように女体や男体を弄んでいます。二次創作においては既存のキャラクターを用いて妄想しています。彼らはいわゆる「客体化された」女性や男性です。
Twitterで見受けられるフェミニズムは、私のこれらの行動を排除したいということなのかと疑問に思い、キーボードを打っています。
お伺いしますが、あなた方はこのような行動を一切しないということでしょうか。
そもそも実在の人間の表象を持つことを「客体化」と表現するならば、「客体化されていない」キャラクターは存在するのでしょうか。
それではシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』はどうでしょう。ミケランジェロやダ・ヴィンチの作品はどうでしょう。今まで人間を客体化し、好きに描いてきたあらゆる作品は、Twitter上で批判される作品たちと何が違うのでしょうか。
名作だから違う?芸術だから違う?価値があるとされているから違う?「貴方」が思う「萌え」がないから違う?今そんな話はしていない?
ジブリ作品について言及しているツイートもありましたので、「今はそんな話はしていない」は通用しませんね。
答えは、「同じ」です。アニメも漫画も彫刻も文学作品も絵画も、あらゆる作品は誰かの手によって生み出されたものなのですから。
これらの作品が非難されていないのは「創作物であるとあなた方が認識しているから」でしょう。
では、宇崎ちゃんやジャンプなどの物語を、創作物でありながら非難するのは何故ですか。
作品とは、ある人から見ればかけがえのないものであり、ある人から見ればただのゴミになります。嫌悪を感じる人もいれば、好んで鑑賞する人もいます。生きる糧となる人もいれば、一生関わらないで生きてゆく人もいます。その自由な態度を咎められることもありません。
誰かがある作品を批判したからといって、その作品を好む人にはなんら問題はありません。
時代によって許容される表現や文化は異なり、時には焚書などの弾圧を受けた歴史があり、そして日本に生きる私たちは「表現の自由」を手にしています。
では何故、サブカルチャーには自由な態度が許されないのでしょう。
常に何かしらの「正しさ」が求められるのでしょう。
一つの理由として「多種多様な人々が目に触れる機会が増えた」ためだと考えています。自ら探しに行かなければ分からないアングラな世界から、インターネットの普及などによりサブカルチャーが身近にある状態へとシフトしました。同時にコンテンツのほうも、典型的なオタク向け作品からポップでライトな作品まで裾野が広がり、様々な人が様々にサブカルチャーを楽しんでいます。
同時に、Twitterのようなツールが普及したことで、受け入れがたいものを目にしたとしても、完全に情報を排除することが困難になりました。「私が正しくない・面白くないと思うもの」を検索すればこんなに情報が出てきてしまう、「私が正しくない・面白くないと思うもの」を好きな人がこんなにいる……。自分が楽しめないものを多くの人が楽しんでいると感じると、まるで楽しめない自分が悪いのだと「錯覚」し、悪感情を増幅させてしまうことは私も身に覚えがあります。一方で、自分と同じ感情を抱く人のことも探すことができます。
その結果、「これだけの人が嫌だと考えているのだから、この作品を嫌だと考えることは正しい」という自身の考えを補強すると同時に、「この作品を好きな人はおかしい」という着地をしてしまう。
それがいわゆるロリ巨乳が登場する作品だったりすれば、「私たち女性を勝手に客体化しているこれは正しくない、やめろ」ということになる。
私がTwitter上で「女性を客体化するな」と訴える方々に特に伺いたいのは、客体化されない存在とは何か、ということです。
客体化されているのは女性だけではありません。男性、犬や猫、車、あらゆるもの客体化されて表現されています。自由な「客体化」を封じた場合、表現の場に残るものは何でしょうか。女性のみが女性について表現できる世界が、あなた方が目指す世界なのですか。
類似した案件において、「全てを消せなんて求めていない」という意見も見ました。ではその消す消さないの判断基準は何ですか。「フェミニスト」を掲げる「あなた方」ではないですか。「フェミニスト」に憎まれる、あるいは傷つけかねない表現を消していった先に、全ての表現が消える創造をすることは誇大妄想でしょうか。
その問題の重要さを、日々表現の規制を求める方々は本当に立ち返ってお考えになりましたか。
昨今話題になった献血やJAのポスターについて「公共の福祉」を挙げて問題視している方々もいらっしゃいましたが、「公共の福祉」とは「多くの人を不快にしない」ことを言い換えたものではありません。例えばポスターにおいて個人情報を載せたり、特定の人物を誹謗中傷したときに初めて問題になります。
性器が丸出しなど、無関係かつ過度に性的なイラストであれば公序良俗の面から問題になると思います。
話は逸れますが、ゾーニングの問題ももっと議論されるべきだと思います。Twitterでは、特に男性向けの18禁イラストがワンクションやゾーニングなしにアップされています。女性向けではゾーニングがなされることが多いため、BLのゾーニング問題に関連してしばしばやり玉に挙げられています。
私は寧ろ、表現の自由のためにあらゆる18禁表現作品のゾーニングを徹底すべきだと思います。性的な表現と普通の描写を一緒くたに放流していたがゆえに、普通のキャラの描写まで誤解、もしくは悪意のある解釈をされている可能性はないでしょうか。
きちんとゾーニングすることで、堂々と表現の自由を行使した方が健全だと思います。
二次創作でゾーニングしていながらめちゃくちゃエッチな商業BLがほとんどゾーニングされていないのは私の中で七不思議の一つです。白塗りや海苔をすれば良いってものでもないでしょうし、何より修正されていないものが見たいので出版社の方には是非ゾーニングをご検討いただきたいものです。
話を戻しまして。
Twitter上でなされている主張は、「女性を勝手に客体化するな」ではなく「女性を誤解するな」あるいは「誤解されかねない表現をするな」ということではないかと思います。そしてこの「女性」は「私」なのでしょう。「客体化」という表現を用いてしまうから語弊や誤解が生まれてしまっていますが、こう言い換えると納得することができました。
客体化された女性に関する表現が、いつかそのまま受け取られて「私」を害するかもしれない。「私」もそう見られているかもしれない。あるいは、この表現は「私」がかつて嫌だったことそのものだ――。
このように「自分」が経験した不快感や被害が創作物とリンクして、登場する女性が「私」になる。そして「私」に加害する登場人物たち、ひいては作品を楽しむ人々へも悪感情が向けられてしまう。
何度も議論されていることだとは思いますが、やはり根本的な原因は自分と客体化された女性に対して、男性からの性被害について共通点や共感を抱いてしまうことによるものといえるでしょう。これは物語に対する共感力というよりも、架空の人物に対する自他境界の曖昧さの問題ではないでしょうか。
この世界に「女性を客体化した」表現があること、そしてそのような作品があり楽しまれていることは、「貴方」の尊厳を傷つけること直接の関係はありません。
「女性であっただけで」セクハラをされた、性被害に遭った、差別されたと訴えるのならば、「男性であっただけで」潜在的な加害者であるとされることも同様に不当ではありませんか。
「まだ起きていない性犯罪」の原因を「客体化された女性像を鵜呑みにする男性」であると決めつけることで、問題は解決するのでしょうか。
現在も無くならない性犯罪は、むしろ表面化しないところに原因があるのではないかと私は考えます。
一人一人性犯罪を起こす原因も違えば、性犯罪の被害を受けた原因も違うのではないでしょうか。それなのに画一的に「表現」に原因を求めるのは、思考停止ではないですか。もしも「表現」に原因があるとするならば、同じ表現を目にしてきたにもかかわらず、問題や犯罪を起こしていない圧倒的多数の方々の存在はどう説明されるのでしょうか。
オタクはよく主語が大きいと言われますね。「女性」という主語、大きくないですか?その主語は「私」ではないですか?
「貴方」が被害を受けたこと、「貴方」が感じたことは、貴方自身を主語にするのが適切ではないですか。たとえ同意者がいなかったとしても、貴方が感じたことは否定されるものではないはずです。
「貴方」に害を加えた人物と、「貴方」が嫌う作品を読む人物は全くの別人です。
「貴方」が嫌いな作品を読んでいる人を嫌いになることもまた、「貴方」の自由です。それだけではどうしていけないのでしょう。「貴方」が作品や作品を読んでいる人を非難する際に、「気に入らない人物からそのひとが好むものを取り上げて満足したい」という感情は本当にありませんか。その感情を満足させたいがために、声を上げているところはありませんか。それは本当に「フェミニズム」でしょうか。
私は、本来誰にでも権利があり広く議論されるべき「表現」という問題がフェミニズムの名の下に一方的に敵視されていると言っても過言ではない現状が嫌すぎてこの文を書きました。
私が観測したツイートや主観のみで構成されており拙いところが多々ありますが、「復讐」という感情への自戒の意を込めてここに残します。
私は推しCP小説を書くのに忙しいはずのに、あまりにもやるせなくて気づいたらこんな長文を……。何故……。
つらつらと思ったことを書き連ねているだけの全くまとまっていない文章ですが、お読みいただきありがとうございます。正直こんなにコメントを頂けると思っていませんでした。
スタンスの提示のため、また議論に挙げられるのが主に男性向けが多いなと感じていたため腐女子という要素を盛り込みましたが、もう少し言いたいことを整理するべきですね。考えていることをできるだけ忠実に表現するということはこんなにも難しい……。
ご指摘の通り私はTwitter上でなされているフェミニズムの主張に賛同していません。ですがTwitter上でフェミニストの方々が意見が発信されていたからこうして考える契機になりましたし、文章を書き他の方に見ていただくことで自分には無かった視点を知ることができたので、良いきっかけになりました。
余談ですが、投稿する前に「普段の特徴を隠して匿名を楽しもう」とあったので意識的に普段と違う書き方を頑張ってみたら「ネカマ」や「男っぽい」とのコメントがあり新鮮でした。普段と違う書き方をしてみるのも面白いですね。支部やTwitterに小説を上げるのが生きがいの、ただの腐女子です。
「名誉男性」というコメントもありましたが、もし私がTwitterで意見を述べたならば、Twitter上のフェミニストの方々は私を自分たちと同じ女性とは認めないのではないかなと想像しています。穿ちすぎかな。
男女という性差は個人の一要素でしかないものの、その要素が個人を占める割合が人それぞれ異なっているということがとても厄介だなと非常に感じます。
このこと自体は至極当然のことなのですが、自分とスタンスの違う他者のこと、ひいてはその集合体である社会のことを考えると全くもって一筋縄ではいきません。
欲望を持っていい。持たなくていい。何かを好きでいい。嫌いでいい。それが私たちが持っている権利ですが、生きているからには権利の行使だけではなく様々に考慮しなければいけないことがあります。
ただ「嫌う」権利の行使にフェミニズムを掲げるのは違うのではないか?というお気持ちです。
Twitter上でなされているようなフェミニズムの主張をするならば、BLは生きていけないよな、と思いますし。正直腐フェミと呼ばれる方々はダブルスタンダードだと感じます。
同時に、「好む」方々からの「嫌う」方々への無配慮も無視できないので、「嫌なら見るな」で思考停止もしたくないです。
とりあえず、私には好きなものがたくさんあります。だからこそ考え続けたい。
素人が「改善の余地がある」って思うのは思い上がりに過ぎないので「嫌なら見るな」
プロが「改善の余地がある」って思うなら他人の作品になんかかかずらってないで「自分で作れ」
これに尽きる
自分が好きなコンテンツに対して文句言ってる奴見ると、その気持ちになるんだよ。嫌なら見るな お前に合う水のあるどっかに行けってさ。
でも自分が言われたら「それって思考放棄じゃん?改善の余地があるのになんで現状に固執すんの?」みたいな反骨?的な気持ちになるんだよな。
もうこの時点で大いに間違いなんだけど。正しさとか善性への価値観を相手も同じものを持ってるはずだと信じきってることが。
要するに、自分は「嫌なら見るな」って言いたい場面多いけど、一番自分が言われたくない言葉でもあるわけ。
でもその心理が具体的に説明できるかって言われれば否なんだよなあ。小野ほりでいさんあたりがnoteにまとめてくんないかなあ。