はてなキーワード: 君の名は。とは
AIがラジオ放送をするサービスは面白そうですね。ランチタイムに明るい気分になれる日本のJ-POPを3曲おすすめします。
・ Happiness/嵐1:国民的男性アイドルグループのポップでキャッチーな曲です。歌詞は明日に向けての希望や夢を歌っています。
・ ずっと笑顔で/いきものがかり:人気のミクスチャーバンドの爽やかで元気な曲です。歌詞は笑顔でいることの大切さや幸せを感じることを歌っています。
・ ハッピーエンド/back number:ロックバンドのヒット曲で、映画「君の名は。」の主題歌です。歌詞は切ない恋愛を歌っていますが、メロディは明るくて心地よいです。
乗れてるもの
・音楽
最近そこそこ追えてる、ランキングがなくて困ったけどカラオケのランキングがかなり参考になる
・新海誠
君の名は。天気の子、全然ピンとこなくて絶望してたけどすずめはそれなりに面白かったので安心した
見ればそれなりに面白い
くだらないのもあるけどスキップすればいい
流行りネタは追ってなくても勝手にちょいちょい挟まれるから助かる
「あ、それ知ってる」レベルにはなる
・アニメ
乗れてないもの
てか嵐あたりからわからんねん、テレビ見ないとジャニーズはガチで追えない
BTS、TBT、見ようかと思ったら韓国語わからなさすぎて詰んだw
てか男子高校生はやっぱVtuber見てるらしい、Youtuberは割と女子向けなんだな、どおりで・・・
平成フラミンゴあたりは面白いけど、長いんだよね最近のYoutuber
・Zenly
潰れて安心した
・お菓子
グミ食べる気にはなれない
・言葉
ありがたいことにここ数年若者言葉というものが消えてる気がする
・ゲーム
なんかここ15年くらいゲームできてない、実況は見てるけど
大丈夫だよ。なにしろ二十年もすれば生産者も消費者も今よりゴッソリ減るから。所詮カルチャーは社会に影響されやすいものだ、今盛んに下らぬ与太事を喚き散らすフェミニスト共も、勿論新海誠さんも足立さんも誰もかれも現在虚業で飯を食っているもの全てが、食い扶持を失うだろうよ。むしろ今が異常なのだ。毎年のように百億越えの作品が連発されていること自体がバブルそのものだ。バブルはいつか必ず弾ける。悲惨なことに、現在カルチャーを成り立たせている産業自体が肥大化してしまって、デブって来ている。その維持に掛かるリソースが、いつか折り返しにくる時代がもうすぐそこまで来ている。一気に凋落するだろう。原作があってもAV(オーディオ・ヴィジュアル)化するのに必要な人員を割けなくなる。そうなったとき、残念ながら外注先の中韓のリソースは彼らの自前の原作(夙に韓国に至っては日本よりも上等な原作者がゴロゴロいる)をやらねばならないので彼らを使えないし、そもそも資金が足りてない。君の名は。が俺が好きなのは妹だけど妹じゃないと同レベルの作画だったら売れていない。と言うか一般は対して原作には興味がない。
とは言え、現代の日本のアニメ界はそれ自体が完全に終わっているよ。水星の魔女、リコリコ、もっと言えばワンピースもそうだし、中身がない薄っぺらだけど作画がよい作品が流行っちゃっているし、それを是としてしまっている以上、既に衰退しているよ。
一つ救いなのが、新海誠がすずめの戸締りでやろうとした(努力自体は認めるが中身は認めない。極めて一辺倒な見方でこれが五十の人間が考えることかと情けなくなるから)姿勢が光明となれたら、延命はするね
先週はじめてすずめの戸締りを見て、やはり新海誠の作風はファンタジー要素を入れない方がうまくいくんじゃないかと感じた。
秒速5センチメートルからファンで作品を追っているけど、新海誠作品の真骨頂は説明不足だけどそれを補完できる(または想像を膨らませることのできる)表現力だと思う。
それが最大限に出来ていたのが言の葉の庭だと思っていて、あの作品は雪野先生がどういう状況に立っていて、何故公園に来るようになったのかを描かず受け手に想像させることによって
主人公側から見た雪野先生の謎めいた美しさが際立って見えていると思う。
尚且つ終盤に主人公自ら雪野先生の過去を、表面的かつ客観的に人づての情報だけで自分の中で処理して行動している。
ここでポイントなのは映像作品だけを見ると、そもそも何故雪野先生がいじめのターゲットになったのかが
全くわからないということ。
このいじめに至る経緯は小説版を読めばわかるのだが、それをせずとも
主人公の行動原理を理解して感情移入が出来るのは国語のテストで言う
「この場面での~の考えを答えなさい」が分かりやすく、説明がなくとも大多数の人間が正解を導けられるということ。
君の名は。以降の作品は特にこの行動原理について説明なくとも分かるでしょ?が行き過ぎていて、置いてけぼりになる(若しくは疑問に思ったことが頭から離れずモヤモヤしながら見てしまう)
ということに繋がっていると感じる。
勿論映画は何も考えず直感的に楽しみ、その後に考察や小説を読んでみるなどで作品の輪郭を把握していく楽しみ方もあると思うので
【ネタバレあり】
「君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である。主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇を追体験し、不思議な力によって惨劇を回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世は過去も現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去の自分と出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親に常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である。
「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である。世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災と愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去の震災被害の経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去は意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である。
翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティックに世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界は微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。
過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである。過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます。
「大人の論理、子どもの純粋さ」という対立軸は日本のアニメ漫画文化で普遍的なテーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母は組紐の伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。
「天気の子」では鮮明に「大人の論理、子どもの純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立に解決や落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもにたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼントの刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである。象徴的なのは須賀の義母である。相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分の価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事や役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。
一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤と和解が大きなストーリーラインを構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸で出会うシングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生にベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態を引き起こした当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。
もともと新海誠はキャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品も主人公とヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者が勝手に自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去の作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠の最高傑作」との宣伝文句は伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである。
・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある
・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた
・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった
『君の名は。』はそもそも二人の人間の中身が入れ替わり、しかも時間すら超えてそれが発生するファンタジーだった。
今の日本と限りなくそっくりな場所で行われているファンタジーの感覚で、だから彗星が落ちても平気だった。
しかし『すずめの戸締まり』は、完全に「今ここ」の話である。だからしんどい。
被害規模で言えば、『天気の子』もなかなかすごいことになっているが、やはりファンタジーだった。今から晴れんだろ。
だから東京が水没しようと、今ここにある東京とは別の、限りなく似た別の場所という感覚だった。
『すずめの戸締まり』にもファンタジー要素はある。いきなり猫が喋るし。
しかし、ヤツは神だ。古事記や日本書紀のファンタジー感に近く、今ここと地続きな感じがする。
『すずめの戸締まり』でじんと来たすべては、震災の風景や記憶によるもので、震災ドキュメンタリーから得られるものと同じだった。
やりたいことが多すぎて全部中途半端なんだよな。いろいろ詰め込んでいてよくいえばテンポがいいになるけど、どう考えてもすずめの心理描写が圧倒的に足りてなくて行動原理がわからないからストーリー展開に振り回されただけに思えてくる。
年々昔の新海誠から変化していってるけど、今作で新海誠が置いてきたものの1つが「心理描写のナレーションポエム」。これがなくなったのが致命的でそのせいですずめの心理がわからなくなっている。今までの新海誠作品なら主人公がどこか現実に絶望しつつ、それでもなんとなく日々を過ごしているナレーションがあっただろう。多分すずめ自身の心境や環との日常はもっと暗く重い雰囲気であって、そういうところから後先考えずに行動したり、家出して草太についていったり、いろいろな行動に結びついてきたはず。
これが新海誠の集大成として売り出されているのが違和感。今までのやってきたテーマ・フォーマットと災害が奇跡的にマッチした「君の名は。」のほうがよっぽど集大成だわ。
何か大災害が起こる。男子と女子が出会う。映える田舎の描写がある。気合の入った東京の描写がある。ヒロインの母が死んでる。適当な神道モチーフのギミックが出て来る。女子が走る。男子も走る。カメラ回る。走るときにRADWIMPSがかかる。災害で酷いことになったり災害を何とか阻止したりするけど、男子と女子は犠牲にはならず何となくくっつく。あたりまでが「君の名は。」以降の新海誠の基本フォーマットで、そこに入ってるものにあんまり意味はないと思う。3.11の描写もありきたりだし、母親も常世の描写のミスリードにしか使ってない。
だから、そこから外れた要素である「廃墟の風景」「椅子になった草太のアクション」がこの映画で本当に描きたかったものなので、そこを評価してあげてほしい。
これはおれも思ったね。
とあるシーンで体がガタガタ震えるほど号泣したけど、あれは現実の被災者に感情移入したからであって、映画のシナリオに感動したわけではないんよね、たぶん。
若い人なんかは泣くどころか、逆にtwitterで無邪気に「めっちゃおもしろかったー!」っていってたりするくらいで、311の記憶のない世代にとっては泣ける話ではなく楽しく面白い話なんよね。
秒速や言の葉みたいな短編ならなんとかなるけど、長編になるとことごとく、説明不足になったり、キャラが無駄にが増えてごちゃごちゃしたり、一本調子の単調な話になる。
脚本が合格点だったのは脚本協力つけてた君の名は。だけだよね。
なんで脚本協力つけないんだろうね?
ダメだろ、これ。
失敗の原因は5つ。
冒頭、どこか非現実的で、しかし東北の震災を思わせる風景はいい。
踏切を渡らない演出や、立ち入り禁止看板を乗り越えるところなど、日常へ行かず、非日常へ入っていくことを描写していくも、よくわからないまま立ち去り学校の日常描写→そして地震、なんか山から祟り神みたいなの出てる→再び廃墟へ。
ここが一つテンポが悪かったと思う。
どういう物語かを提示するという形で及第点ではあるが、特段面白くはない(わずか35秒で説明し、全く本編が面白くなかったソラとウミのアイダを見習ってほしい)
その後、猫(ダイジン)を追いかけ、船に乗るというところまでが、序盤といっていいと思う。
気になるのはすずめが船に乗るのは自発的な意思に基づくものであって、君の名は。の不可抗力で入れ替わったこととは違う。
ここにご都合的な強引さを感じるのだ。
さらに致命的だと思うのが、ダブル主人公のうちの一人、草太が早々に椅子の姿になってしまった。
この結果、ロードムービーでありながら、草太は椅子の姿であることからコミュニケーションをとることに作劇上の制限が加えられてしまった。
コメディ的なキャラクターになったことで、ラブストーリーとしての進め方にも違和感が出ている。
草太がどういう人物なのかが明示されないまま物語が進んでいく。役割しか持たされていないんだよね。
で、そのメンタルのまま、後半、突然の死にたくないっす。要石なりたくないっす。→私も草太がいない世界怖いっす。
ロードムービーをやりたいのか、と思ったけれども、ロードムービーって基本的に旅する二人が、旅先での人との出会いによって関係性が変化するというのが定石じゃないですか。
でも、本作のヒロイン、すずめは一体に何に不満があって、成長するのかというのが不明瞭なんですよね。
災害の原因であるミミズが出てくる扉を閉める、という役目を帯びた青年が全国行脚しているようだが、ファンタジー職業にありがちなどうやって食べてんだ?という疑問には普通に大学生であるし、将来的には教師を目指しているという謎の情報が与えられた。役目が重すぎるだろ……。
関東大震災もミミズが原因だったという描写があり、直接的に言及されていないが、3.11も同じミミズが原因であったと推察できる。
こいつらがきっちり仕事してれば3.11を防げたってこと?という疑問点が観客の引っ掛かりになるのではないか。
感動部分は、作品によってではなく、3.11の悲劇性と記憶に頼って泣かせているんだよな。そして人間は馬鹿だから感情が動くと名作だと錯覚する。
本作の中盤では、首都直下地震を思わせる災厄を封じるために、東京を舞台に駆け回る。
通常の映画で言えばクライマックスに相当するようなアクションの末に、すずめは草太を要石として使用し、東京を救うことになる。
天気の子が「世界」か「君」かの選択で、「君」を選んだ結果、めちゃくちゃになった世界があって、それでも生きていくという話だったのに対し、今作では「世界」を選んだその後を書くつもりか?と思っていたが違った。
物語はこの要石となってしまった草太を救うために、幼少期に見たあの世への扉を探すことになる。
そして終盤、気仙沼の炎上を思い起こさせるファンタジー災害空間で、暴れだす巨大なミミズを背景に、主人公を走らせる。この絵を描きたかったというのは分かる。
要石となった草太を解放することで、ミミズの抑えがきかなくなる。
さあ、どうする?
すまん!今まで要石やってくれとったダイジン、サダイジン!またやってくれ!
了解!!
おわり。
は?
「世界」か「君」か、という選択と代償の話が、第三者に委託したら何とかなったわwで終わっていいわけねえだろうが。
自然に外れちゃった東京の要石ことサダイジンは、なぜか主人公たちの旅に付いてくる上に、最終的にはまた要石として役目を担うことになる。
ええ?
要石が外れたけど、機嫌治ったんで、自主的に役目に戻ってくれましたみたいな解決法である。
基本的に四国、神戸と行く先々でミミズを見かけて戸締まりするアクションシーンというのが連続で起きる。
また各地で出会う人々もそれほど深掘りされることはない。
これが東京まで来るとそれなりに街の描き方が生き生きとしてくるし、後半のキーパーソンになる芹澤が登場する。前半と後半で明らかに映画の趣旨がガラリと変わっている。
だからこそ前半の時間の使い方はもったいなかった。(後半にほとんど繋がっていかない)
おばさんも遠くで心配してる描写を延々はさむぐらいなら、もう少し後半の決裂に至る問題点(避難者受け入れ、被災者遺族の家庭の問題)をやっとけばよかったのに。
ロードムービーをする都合上、各地を巡り、そこで出会う人々とのつながりを書く必要があるので登場人物が増える。
そうするとそれぞれのキャラクターに割ける時間が相対的に少なくなるので、魅力を描写する時間が足りなくなる。
途中で出会った人々を後半に繋げるでもなく、主要キャラの問題点の提示や成長に繋げるわけでもない。何がしたいんだ。
新海が触りたかったものはロードムービー、3.11被災者への応援、衰退する地方都市、避難民と家庭環境、自然への畏敬、民間信仰、恋愛あたりだろう。
終盤で、主人公が過去の自分を見つけ、この世界は明るいんだと、ド直球な被災者への応援メッセージを長々とぶちかましていく。
一方で衰退する地方都市と自然に還る廃墟を映し、戸締まりの際の呪文、山河をお返し申す、人間が使ってきた土地を自然に返すという話であろうが本当に触れるだけだし、それを3.11テーマとどういうリンクをさせるつもりだったんだ。
ある種の無常観というか平家物語的な持っていき方をするわけでもなく、災害はそれはそれとして悼みます、という一貫性のなさ。
おばと主人公の決裂も、避難民の子供引き取っちゃったせいで人生めちゃくちゃやん→ごめん言い過ぎたわ……。で終わり。
ダイジン、サダイジン、それにキャラクターの名前を見ても民間信仰というか古代神道系の話っぽいなぁとは思ったが、そこもそれほど深掘りされず。
どうでもいいけど九州の要石、廃墟と化してるとはいえめっちゃ現代的な施設の真ん中付近に刺さってるの謎すぎるやろ。
男側の感情が一切見えない上に、女側もイケメンと旅して、神戸でいきなり発情し始めて椅子にキスするという展開を伏線としてクライマックスで結ばれましたってやるの強引すぎるだろ。
今作は終盤に使うために仕込んだ伏線が、全て雑すぎて、「前に説明してましたよね?」と新海が言い訳するために挟まれるシーンが多すぎる。
戸締まりをする際に、その土地の人々に思いを巡らせる、というのもすずめにとっては何の縁もない土地の思い出が想起されるのは変だろう、と思っていると、終盤に被災前の人々の情景を描くシーンがあり、ああ、これのための言い訳だったのかと理解した。
なんなんすかね、これ。
※うっすらネタバレあり
いや、「君の名は。」はなんて当時のJKに大ヒットしたんだから、女性受けが一番良いってのは語弊があるか。
あの頃から今まで新海映画を「気持ち悪い」と評していたタイプの一部の層の女性にも、今回の映画がおおむね好意的な意見なのが面白いと思ってる。
なので、理由を考えてみた。
最近、新海がインタビューで「瀧が入れ替わった三葉の胸を揉むシーンは今だったらボツにします。今の観客は受け入れないとジャッジしたでしょう」「これから金ローで放送されるたびにどう思われるか心配もしなくちゃいけない」と言ってたが、実際、今回の「すずめの戸締り」では、JK主人公すずめに対する性的な目線は一切描かれてない。
出てくるイケメン閉じ師の草太は、作中のほとんどを椅子に変えられた姿(去勢された男)としてすずめと旅をするのでそこに性欲は混じらない。
ただ、その分にすずめ→草太への性的な欲望は感じ取ることが出来る。江戸時代に女歌舞伎がえろいから駄目ってなったから若衆歌舞伎になって結局、男にえろさを求めたようなそんな感じになってる。
もう一人のイケメン芹澤も見た目はホスト崩れのチャラ男だが、すずめにもすずめの叔母の環にも性的なまなざしを向けることは一切ない。
目の前で環が顔を覆って泣き崩れても、無遠慮に体を触ったりすることはない。
ただひたすら、草太への心配という感情ゆえに巻き込まれて、一緒にドライブすることになった不憫な男である。
すずめは草太を救うために命がけで行動する。そして、最後にすずめを救うのはすずめ。自分を救うのは自分というテーマだ。
最初は、JKと大学生男の恋愛とか問題にならんのかと思ったが、新海は「すずめの草太への想いは恋心だが草太はわからない。恋愛ではなく戦友、相棒として描いた」というようなことを言っていて、草太が作中で「すずめさん」とさんづけで呼びつづけたのもそこが大きいのだと思った。
君の名は。や天気の子と同様ではないにしろ、同クラスのエンタメを期待して見に行ったら説教された気分。
友達と久しぶりに飲みに行ったらアムウェイの勧誘されたみたいな気持ち
すずめの戸締まりは説教部分が多すぎて、キャラや背景の掘り下げがあまりに雑。
出てくる奴ら全員テンション高すぎ。もう少し親交を深める描写有っていいでしょ。
なんであの流れで全国旅行から大恋愛?(君の名は。や天気の子くらいまで描写しろや)
それもこれも災害をメインに置きながら多方面に配慮して中途半端になったせいでしょ。