はてなキーワード: 元少年とは
俺は楽しめるだろうか。
きっと痛快だろう。俺以外の全員がバカだと思えてしょうがないはずだ。
寝る前の妄想なんか、記者に浴びせかける言葉をニヤニヤしながら考えるはずだ。
人生計画は常にマスコミを意識し、発見されたら話題になりそうな街・家に住むだろう。
しかし、代償を払うに相応しいだろうか?
親切にしてくれる先輩や心置きなく語り合える友達が突然元少年Aと関係をもつことになる。
両親の息子が元少年Aになる。
一瞬だけヤフーニュースのヘッドラインに挙がったこのニュース。
要約すると中学生をイジメで殺した被告人たちが、民事上有罪と判決され、損害賠償命令が出たにも関わらず、自称冤罪を叫びバックれているという話。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160209-00000186-yamagata-l06
これを話してるのって弁護士なんですよね。
判決が出て、損害賠償命令が出たにも関わらずにも関わらず、司法のもとで仕事をしている弁護士が判決・命令を無視して被告人に肩入れしてるのって許されるの?
冤罪なら冤罪で再審請求をすればいいのに、それすらせず口だけ冤罪を叫んで逃れようとしているし、
賠償金は払うつもりもないけど冤罪を司法の場で証明するつもりもないって、司法国家をバカにしていて、これこそ下衆の極みじゃないの?
これの何が怖いって、民事判決を無視するやつや、それをアドバイスして弁護士収入を得ようと悪巧みする弁護士が世の中に存在してるってこと。
裁判して、公に被告人の罪が認められたのに、こんな横暴なことがまかり通るなんて許せないし、怖い。
当時、東京とその近郊では、「山形県新庄市と言えばマットの街」と言われるぐらい、新庄=明倫中・マット事件となったし覚えている人も多いと思う。
おそらく新庄市出身を名乗っただけで明倫中のことを訊かれた人もいると思うし、それにウンザリしたとも思う。
新庄市が街ぐるみで貶められたのにも関わらず、いまだに支援する会が存在していることも甚だしい。
〒996-0301
中学生の子供を無くした親が20年以上やり場のない怒りと悲しみで苦しんでる。
それなのに、手は罰も受けず罪も償わず、年末年始は家族と新年を祝い、クリスマスを楽しみに、子供の入園・入学など成長を喜んで暮らしてるかと思うと悔しいし、家族共々社会的に抹殺されてしまえと切に願うだけだ。
http://www.sankei.com/affairs/news/151013/afr1510130014-n1.html
彼らはある組織によって、特殊能力を植え付けられた少年達で、組織の駒として任務をこなしていた。
その中で、少年Aと少女Zがある事件をきっかけに組織に離反しようとする。
もちろん他の少年少女達が組織の命令でそれを阻もうとするが、その時は逃げ切ることができる。
月日が流れて、元少年Aと元少女Zが組織に見つかったところからメインパートがはじまる。
そんなようなラノベか何かを誰かが書いて、大ヒット。
アニメ化・実写化等のメディアミックスもされて、「少年A」「元少年A」と検索しても出てくるのはその作品の話題ばかり。
こうして、少年Aや元少年Aという単語が彼の元から解き放たれる。
内容は拙いけど、そんな感じの事ができたらいいのにな、という妄想。
神戸連続児童殺傷事件の犯人である元少年Aが自伝『絶歌』を出版した。
僕は特に読みたいわけではなかったが、いろいろあって『絶歌』を読むことになった。
はっきり言って、Aが考えてることは理解できないけど、Aは病気にかかっていると思った。
世間はその病気にかかっているAを喜ばせるかのようにAをののしる
それは少なくともAの病気をより悪化させても、Aの病気を治すことにはつながらないはずだ
例えると、膿んだ傷口を指でいじるようなものだ。
ならば、その傷口をそっとさせるように、世の人間がAをつまらないやつだ、おもしろくないやつだと考える。あるいはAがそう考えれば、
別の可能性として、世間に面白く思われようとして、また犯罪を起こすかもしれない。
しかし、僕はAがまた犯罪を起こすことはないと思う。自伝を読んだが、Aの思考は、病んでいるもののかなり普通に機能しているように思えた。
確かにAを非難したいのはよく分かる。だけど、Aが喜んでいるのはもっと恐ろしい。
その意味で、『絶歌』は広く世に出してAをけなすための道具になっただけにすぎなかったように思えた。
このごろAがサイトを開設したらしい。僕は見ていないが、
「絶歌」のことは知っていたが、興味がなくて読んでない。
今朝スマホ記事で、元少年Aがホームページを立ち上げたというのを読みあぁ、そう…と思いながら一通り目を通してみた。
http://www.sonzainotaerarenaitomeisa.biz/
精神疾患がどうなってるのかは知らないが、なんというか…うん。現代用語辞典の「厨二病」項目には是非このサイトのURLを掲載することを勧めたい。Don't think, feel。
地方の中学生が、ビレバンで触れたサブカルに触発されて勢いで組んだギターロックバンドの公式HP…みたいなビンビンのセンスよ。「実家に帰ったら母親が自分の黒歴史ノートを出してきた」級の恥ずかしさで、読むのも辛い。そうか。30超えてコレか。
もうこの際、社会に大きな影響を及ぼした元・殺人犯が社会復帰後に自身を語ることの是非は横に置く。俺は正直、佐川一政の生き方なら、あれはあれだと思っている。むしろ、語り方、語る内容に一般人のソレとは違うものがあって、なにがしかの感銘や感覚を惹起するならば、汚らわしくとも価値はある。
これを見て思ったのは、酒鬼薔薇というのは徹頭徹尾凡人だということだ。少しばかり発達し過ぎた自己愛と、ユルユルガバガバの社会性と、特殊な性癖に後押しされて、たまたま勢いで若くして殺人者になってしまっただけであって、肥大した自意識の有り様や、ついうっかり「正しくオナニー」なコラージュ「作品」を公開した上でページに「ギャラリー」とか名付けてしまうゲロが出る様な痛々しさまで、この人は少しイタいだけのフツーのセンスの人だ。
ページタイトルが「存在の耐えられない透明さ」だった点、ミラン・クンデラを敬愛する自分は若干イラっときたが、この軽薄さまでもが平凡だと思い始めると、なんとなく可哀想になった。
憐れみは他者への最大の攻撃になり得るが、自分の元・少年Aへの憐憫はそういう当て付けの悪意を表明するためのものではなく、結構本気で言っている。だってこの人は、持て余した自意識と自己愛を解消する為に「元・少年Aである自分」にもうずっと縋り付かざるを得ないのだ。
そして、そうすればするほど社会との折り合いなんて付け様がないのだ。だって、僕らはこんな香ばしい元・犯罪者と関わり合いたくないのだ。
だいたいにおいて少年〜青年期の過剰な自意識は、社会に出た際の軋轢で徐々に削り取られたり、それに対する挑戦を通して昇華されたり、最終的には消化されなくても、その様なプロセスの中で自分とのバランスをとって大人になっていくものだけれど、彼にもうそのチャンスはないんだろうな。
だって、元・少年Aであることにしか、「異常な性癖で人を殺した」ことにしか、彼の社会的な価値はないんだから。もっと言えば、「アタマのおかしい、少し壊れてしまった人」として憐憫と共に、一般とはかけ離れたアウトサイダーアート的な才能への他言できない憧れも集めつつ贖罪に生きる姿が人々の胸を打つ…とか何処のラノベだよ。でも、彼が自意識を支えていくには、そんな世界観で生きていくしかない。
このままこんな生き恥を垂れ流しにしていたら、ほっときゃサイコパスへの憧れを持ってくれたかもしれない多感な10代とかですら「あ、これは結構ッス」てなるよ。。そんで社会から隔絶されて、また謎の敗北感を抱えて再犯に走るとかの悲劇も、ワンチャンある。
いくら酷い犯罪を犯したとはいえ、当時未成年だった元少年Aの氏名や居住地などは少年法で保護されてるから報道しちゃいけないのはわかってる。
でも彼は出版物を出したよね。
そのベストセラー作家としての存在は、もう少年法の保護から離れちゃってるんじゃないの?
だから週刊誌あたりが現在名乗ってる氏名や写真を入手したとしても、「ノンフィクションベストセラー作家をパパラッチしただけに過ぎない」とか言い張って報道すれば通りそうな気がするんだが。
つーか今頃もう新潮だの文春だのは血眼になって探してると思うんだよね。
絶対逃げ切れないよ。
どうすんだろ。
1
6月11日に、「絶歌」は発売された。その直後、この本の刊行を報道で知った遺族のうちの一人が、遺憾であるとコメントを発表した。
以来、今日に至るまで、様々な人々が—— 専門家、知識人、芸能人、ライター、クリエイター、etc——、この本についてコメントをしたり、記事を発表している。
少しだけ、どこかで見たような光景だな、と俺は思った。
原発だ。
震災以来、原発というのは、賛成だろうと反対だろうと、何かしらの意見を持たなければならないような問題になった。「どうでもいい」「どっちでもいい」というような態度は許されない。誰しもが原発に対して、真剣に考えなければならない(あるいは、そのフリをしなくてはならない)、そんな風潮が蔓延している。
そんな光景に、どこか似ている、と俺は思った。この本の出版に関して、肯定的だろうと否定的だろうと、有名人(というかライターやクリエイター、芸能人)は、何かしらコメントをしなくてはならない。そんな雰囲気が漂っているような気がした。
また、ネットでもあちこちで、この本のことが言及されている。その内容(というか質)も、原発に関するもの似ている。有意義なものあるけれど、ほとんどが似たり寄ったりな退屈な意見で、特にAmazonのレビューに関しては、まぁ、平均的な人間の平均的な意見が読める、という以上の価値はない。
なんというかまさに「脱法ハーブ、握手会、風営法、放射能、ダサい、ダンス、ダウンロードって言ったら負け」状態だ。
2
俺がこの本を読んだ理由は、端的に言えば好奇心だ。この本が発売されると知ったとき、純粋に読みたいと思った。ただの好奇心。
この際だから、書いてしまおう。俺は小説を書いている。ほとんどの人は知らないと思うが、Amazonで販売出できるKDP(Kindle Direct Publishing)で発表もしている。つまり、創作をする人間として、この本に興味を持った。
この本の元になった事件は、説明するまでもなく、後のフィクションに多大な影響を与えている。俺が知っている範囲だけでも、舞城王太郎や佐藤友哉あたりは確実に影響を受けているだろうし(舞城の『阿修羅ガール』に出てくる鬼畜殺人鬼グルグル魔人を知っているか?)、奥浩哉『GANTZ』に出てくる西なんかは、もうまんまだ。他にも探せばたくさん出てくるだろう。
創作をする人間として、そんな風に後のフィクションに、作家たちに影響を与えた事件の当事者が書いた手記に興味を持つことは、そんなに不思議ではない、と思う。だから手に取った。ただ、これは弁解だ、言い訳だ。下世話な好奇心で読んだ、と言われても反論は出来ない。
(これは余談だが、先述したとおり、この本は6月11日に発売された。ニュースになったのも、その二三日前だったと思う。しかし、振り返って見ると、五月の終わりに、この事件をモデルにした窪美澄「さよなら、ニルヴァーナ」が出ているし、そのちょっと前には、34歳になったとある小説家が事件現場を巡礼(?)するという内容の佐藤友哉「ドグマ34」がすばる4月号に掲載されいてる。偶然か? さらに余談だが去年放映されていた、金城一紀脚本のドラマ「ボーダー」の第三話は、殺人を犯した元少年が手記を出版しようとして遺族に殺されてしまう、といった内容だった。まぁ、偶然だろう)
3
事件当時、俺はまだ小学生だった。けれど、この事件のことは、やはり印象に残っている。
俺は子供のころ、モデルガンが好きで、アクション映画などの銃撃戦のシーンを見てはひとり興奮していた。シュワルツェネッガーがバンバン人間を撃ち殺しているのを観ながら熱狂している俺を見て、母親も心配していた。俺も子供心に「自分は人が死ぬことになにも思わないのか」などと普通のことを普通に思っていた。平均的だ。
そしてこの事件以降、子供によるセンセーショナルな事件は、たびたび起こる。「キレる17歳」などいうキャッチコピーがつき、まるで急に少年犯罪が増えたかのように報道された。
フィクションも影響を受ける。バスジャック事件を題材にした青山真治の映画「ユリイカ」などだ。
開き直るわけではないが、俺は上記の作品たちが好きだ。だから作者に興味があるし、その作者に影響を与えた題材、事件にも興味がある。センセーショナルな事件は、良くも悪くも、フィクションに影響を与えているのだ。
ただ、報道のされ方、ニュースの選ばれ方のせいなのか、はたまた「事実は小説より奇なり」なのか、現実では悲惨なニュースが相次ぐ。自然災害は仕方がないにしても、凡人には理解できない理由で、または理解できないほど身勝手な理由で、色々な事件が起こる。無差別殺人、闇サイト、児童虐待。世紀末を過ぎても、この手のニュースには事欠かない。
「近頃はありきたりのリアリズムに追いつかれそうにも見える」
これは、とある賞の選評の一部だ。とある一作品に向けられた言葉ではあるが、なんだかフィクションがひどくしらけてしまうときに、この言葉がふと思い浮かぶ。
我ながらバカなことを書いているな、とは思う。でも、俺は嫌なのだ。俺はフィクションが好きで、物語が好きで、小説が好きなのだ。だから、読むし、書いている。書いては直して、また書いている。
この本が出たときも、似たようなことを思った。批判が溢れ出ているのに、蓋を開ければベストセラーだ。売れているからって、優れたものじゃないってことは判っている。それは音楽も映画も本も同じだ。
4
そして、この本を読んでみた。内心ドキドキしていた。偉そうな事を言っておきながら、日本の犯罪史上稀に見る(仰々しい枕詞だ)事件を起こした、当事者の手記。正直、影響を受けてしまったらどうしようか、とも思った。俺は本を読む以上、どんな本でも最大限影響を受けるつもりで読んでいる(そうでなければ読む意味なんてない)。ただ、この本だけは、少し怖かった。
しかし、どうだろう。前半はネットで揶揄されている通り、自己陶酔しきった糞ポエムだった。ガラガラのライブハウスで演奏しているクソみたいなバンドの歌詞でも、これよりはほんの少しマシだろう。ただ、文章自体は上手いな、とも思った。読ませる文章だ。特に、後半の面会に来た弟のやり取りの場面では、ちょっとぐっと来た。少しだけ泣きそうにもなった。
でもこれは(ここまで書いておいてなんだが)、所謂ただのお涙頂戴話だ。当たり前の反応というか、けして面白かったというわけではない。
そう、端的に言って「つまらなかった」というのが、この本を読んでの感想だ。
一部で神格化、カリスマと化している「殺人鬼」だが、彼はつまらない、ただの普通の人だったのだ。多くのフィクションに影響を与え、ひとたび本を出版すれば大いに話題になる「あの人」は、普通の人間だった。
前半のあの糞ポエムが、それを象徴している気がした。あの稚拙で過剰な修飾表現は恐らくわざとで、そうやって過剰に飾らなければならないほど、内容は、実は普通なのだ。
これについてはロマンポルシェのロマン優光さんが書いた記事に頷ける箇所があった。
“この本には特にそういうところがないのだ。(性的偏向については代入される対象がおかしいだけで数式は同じなので、対象がいくら理解できなくても根本的に理解できないというわけではない。) 普通の人が普通に想像したような話が続くだけである。 ”
http://bucchinews.com/subcul/5203.html
5
少し前になるが、日曜の午前にやっている「ワイドナショー」という番組で、店の商品に爪楊枝を刺す場面をYouTubeに投稿した少年のニュースをやっていた。
それを観た松本人志が、「全然おもしろくない。声も張ってないし」とコメントしていた。他の出演者は「そこですか?w」といった感じだったが、俺は、松ちゃんはこういうコメントをどんどんしていったほうが良い、と思った。
つまり、つまらないものは、つまらないというべきなのだ。そして、松本人志のようなおもしろい人は、こういうくだらないことをする人間に向かって「全然笑えない。おもしろくない」ともっというべきなのだ。
同じ番組で、松ちゃんは、この本は読まない、といっていた。遺族の方がここまで言うのなら、と。立派な態度だと思う。下世話な好奇心で読むヤツに比べたら、遥かにマシな態度だ。
でも、俺は松ちゃんに読んでほしい。この本を読んで、おもしろくない、と言ってほしい。
「俺に影響受けてるのかもしれへんけど、お前の本、つまんなかったで」と言ってほしいのだ。
舞城でもユヤタンでも乙一でも、こんな本より、俺の小説のほうがおもしろいぜって言ってほしい。なにがベストセラーだ!っていってほしい。
だから、俺は敢えて言う。
自分に取っての本当のことを書いたのかもしれないが、ハッキリ言ってフィクションのほうがおもしろいぜ。普通の理由で普通の狂い方をした普通の人間なんかより、グルグル魔人のほうが狂ってるぜ。なんせウンコパン三世〜♫ デレッデレ〜♫ なのだ。
だから俺は、この本を批判するならおもしろい人たちに、「つまらない!」って言葉こそ、声高に叫んで欲しい。
6
“結局のところ、人生で起こるすべての本当のことは、陳腐で薄っぺらで通俗的なのだ。そうじゃないことは小説の中にしかない。だから小説の中で、つまんないなあと思うとき、わりとそれが人生の本当のことを書いているってのがあって、だから小説って難しい”(舞城王太郎/パッキャラ魔道)
まったくその通りだ。
そんで、つまんない本のことで、
いちいち騒ぐのはやめようぜ。
おわり。
これまでも会っていもいない橋下大阪市長を人格障害扱いしたり、原発推進派を病気と断罪したりと、精神科医であることを盾に言い放題で精神医学、心理学の地位を貶めている人物であるが、
2段落目から香山リカっぷりが爆発しているのが、酒鬼薔薇に通常の感情がないことを前提に述べたコレ↓
"その原因は、男性の脳の構造や機能の特徴というか、機能不全に由来するものだろう。"
男性の右脳の構造や機能の特徴として『感情がない』なんていう脳科学的、心理学的研究が存在するなら教えて頂きたい。
続いて
"せめて誰か専門家が「なぜ男性はこのような書き方をするのか」と精神医学や脳科学見地から解説を加えたほうがよかった"の述べている。
私から言わせれば、
『せめて誰か専門家が「香山リカはなぜこうも男性を目の敵にしているのか」と精神医学や脳科学的検知から解説を加えて上げた方がいいんじゃないだろうか。』
この私の素朴な疑問に対する答えもまた、香山リカの言葉を借りるなら"何らかの脳の機能不全に基づいている"のだろうか。
香山リカは酒鬼薔薇の脳を画像検査すれば良いといったことを述べているのだが、私からも1つ提案したい。
酒鬼薔薇脳研究と並んで、極左反日香山リカの脳研究も執り行ってほしい。
人の政治思想は様々だが、彼女ほど極端に偏った思想・思考というのは大変興味深い。
『私が香山リカに脳の機能不全がある、と確信している理由はもうひとつある。』
当初香山リカが書いた覚えもないと言った、文章が彼女のツイッターからつぶやかれた事件があった。
後に、書いたのは間違いない。と一部ウソをついたことを認めつつも、つぶやいてはいない。と主張を変えたのである。
自身のウソ、偽り、偽善には目もくれない精神構造は、一般人の目には異常に映る。
最後に、香山リカの文中での"男性"の使い方は後半に行くにつれ、"この男性"という表現に変わっていく。
文頭では"元少年"と書きながら、あたかも男性全般の脳構造がおかしいかのような文章に仕立て、
しかし、この"男性"は「he」として用いているのだという言い訳が通るように文末では"この男性"と表現を変えてきているように思える。
ここに引き合いに出して申し訳ないが田嶋陽子といい、香山リカといい問題の原因を本質と異なるものに投影するのはそろそろ止めていただきたい。
うーん。
元少年Aは重大な罪を犯したが、中川氏はそうではない。そしてそれこそが決定的であり、それを捨象して議論をおこなってはいけない。あなたの論法は宮崎勤をもってコミケにいる群衆を犯罪者予備軍と煽ったマスコミが使ったものだよ。
どっちも「相手の気持ちが分からない」人間だからどっちも「仕方ない」という話をした積もりなんだけど、伝わっているかな。
どっちも同じだから「許せねえ」なんて話をした積もりはないので、「あなたの論法は…」以下のくだりには釈然としないんだけど?
始めに、この文章は「元少年A」や『絶歌』に対する世間の大多数と反応と「真逆の主張」であることを先に示しておく。
馬鹿じゃねえの。
この中川淳一郎っていう奴の『絶歌』の書評( http://biz-journal.jp/2015/06/post_10431.html )を読んで、正直こう思った。
ハッキリ言うけど、お前に元少年Aや太田出版を外道だなんて糾弾する資格なんてないだろ。正義ぶって身勝手な書評を書く前に、我が身を反省してみたらどうなんだ。
おそらく、中川淳一郎はこう思ってるんだろうな。
「元少年A」は叩かれて当然の「極悪人」で、それを一刀両断している中川淳一郎は「正義の告発者」だからな。
世間の感情と同調している中川淳一郎はきっと、どれだけ「元少年A」を扱き下ろしても大丈夫だと、そう思っているんだろう。
フザけんな。
非難してやる。ネット上の他の全員がお前の書評を褒めちぎっても、俺だけは非難してやる。
元少年Aを「外道」だと罵るお前の方がよっぽど「外道」だと、この場で主張してやる。
俺が最も中川淳一郎の書評で怒りが沸いた部分は、元少年Aが「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対して答えた箇所に、コイツが吐いた感想だ。
一応、元少年Aの言葉を引用しておく。前述の問いに対して、元少年Aはこう答えた。
(引用)
『「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」』(註:原文では「あなた自身が」の部分に傍点あり)
で、これについて、中川淳一郎はこんな風に言っている。
(引用)
あぁ、何もわかっていない……。どうしてこうも自分本位なのか。「あなた自身が苦しむから殺人はいけない」と言い、まるで自分が悲劇の主人公かのように「重い十字架」というエセ文学的表現を使う。人を殺してはいけない理由は、これである。
「誰もが他人の人権を蹂躙することはできないから」 「殺された人に近しい人が悲しむから」
酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。そしてこれがやっと見つけた唯一の答えとは、非常識かつ幼稚もはなはだしい。
ハッキリ言って、頭にきた。
何も分かってないのはお前の方だろう?
人の「本気の思い」をこんな風に平然と踏みにじる、お前の方がよっぽど外道だ。
確かに、元少年Aの答えは自分本位だよ。凶悪な殺人を犯したくせに、いまだに自意識の中でしかその理由を語れてない非常識で幼稚な答えかもしれない。
だけどな、ここにあるのは『本気の思い』だよ。事件の後の全人生を通じて、元少年Aが自分の頭で考えて言葉にした「人殺しをしてはいけない」ことへの『本気の思い』だ。
どれだけ自分本位で幼稚でも、本人があの事件を起こした後に見つけてきた『自分の答え』だ。
それを、お前は踏みにじった。
「あぁ、何も分かってない・・・・・・。」なんて、さも悲哀ぶった言い方で、お前は元少年Aの言葉から耳を塞いで、「自分の意見」で踏みにじったんだ。
「人殺しをしてはいけない」ことに、お前の考えや正義があるのは分かったよ。客観的に見れば、お前の考えの方に正当性があるんだろう。
でも、だからって踏みにじって良いわけじゃないだろ?
他人が自分の全人生をかけてたどり着いた『本気の答え』を、そんな風に無価値だと切り捨てて良い理由にはならないだろ? お前にとっては「何も分かってない」ような幼稚な意見でも、それが元少年Aにとっては「やっと見つけた正しさ」なんだぞ。
まあ、元少年Aの「答え」なんて、他人から見たらボロ布くらいの意味しかないのは分かってるよ。
ネット上の大多数、「元少年Aや『絶歌』に対する怒りを燃やす人々」はそれでもいいよ。
だけど、中川淳一郎。お前は違う。
お前は、婚約者を亡くしているんだろう?
正直、俺には信じられない。婚約者を鬱病の末の自殺で亡くしているにもかかわらず、あんな身勝手な書評を書くだなんて。
一応、読んでない人のために書く。
中川淳一郎の書評には、その昔、当時の婚約者が自殺で亡くなった件について書かれている。
そして、その際に本人が参考にしたのが『完全自殺マニュアル』・・・・・・『絶歌』の担当編集である落合美砂が、93年に世に送り出したベストセラーとのことだ。
これだけ書くと、まるで中川淳一郎が「『完全自殺マニュアル』のせいで婚約者が自殺した!」って主張してるみたいに誤解しそうだけど、そこまでは思っていないらしい。
ただ、その本が自殺した婚約者の本棚の中にあって、そこに書かれた「最も推奨されている方法」で自殺したという、それだけらしい。
中川淳一郎は言っている。「彼女が死んだのは鬱病のせいである。それは間違いない」と。
これは完全に憶測になるけれど、鬱病みたいな「心の病気」の最たる原因は「孤独」だ。
自分の抱えている問題を誰にも打ち明けられない、誰とも共有できない、そういう風に「一人でどうにかしなきゃ」という状況に追い込まれたときにこそ、「鬱病」みたいな精神病に人は陥る。
もちろん、実際にその婚約者が「孤独」だったかどうかは憶測の域を出ないけれども、誰にも相談できなかったことは間違いないだろう。
そうでなきゃ、『完全自殺マニュアル』なんて買うわけはないからな。
当たり前だけど、この本は自殺の「方法」を書いているだけであって、自殺を「推奨」しているわけではない。中川淳一郎も引用していたけれど、太田出版の紹介文ではこうなっている。
(引用)
「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは、生命保険会社でも、破綻している年金制度でもない。その気になればいつでも死ねるという安心感だ! 自殺の方法を克明に記し、さまざまな議論を呼んだ、聖書より役に立つ、言葉による自殺装置。」
この文章で注目すべき点は、二つ。
一つ目は、「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは」という部分。この箇所から、この本は「生きる僕ら」が「頼れる」ものを示したものであることが窺える。
二つ目は、「その気になればいつでも死ねるという安心感」という部分。この箇所から、あくまでこの本は「安心感」を提供するためのものであることが窺える。
以上の点から、この『完全自殺マニュアル』はあくまで「生きるための本」であることが分かる。具体的には「自殺という『逃げ道』を示したから、後は安心して生きればいい」という本だということだ。
イメージが掴みにくい人は、『完全自殺マニュアル』を「精神科医」に喩えてみてほしい。「『いつでも安心して、私を訪ねてきて下さい』そう患者に言ったら、二度と患者は訪ねてこなかった」一度くらいこういう話を聞いたことはあるだろう。要するに、「いつでも訪ねられる」という「安心感」が重要なのであって、実際にその選択肢を取るかはさほど重要ではというないのだ。その「安心感」を提供されただけで、患者の心の問題は半分くらい解決しているらしい。
おそらく、『完全自殺マニュアル』も、そういう「安心感」を提供することが目的の書籍なのだろう。事実、前書きや後書きの部分には「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」旨が書かれているようだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/完全自殺マニュアル)。
というわけで、この『完全自殺マニュアル』はそういう、精神科医的な「安心感」を提供する本だ。
そんなものが本棚にあったということは、そんな「安心感」に頼らなくてはならないほど、その婚約者は精神的に追い詰められていたのだろう。
普通ならば、『完全自殺マニュアル』は買って読まれた時点でその役割を全うする。
「いつでも死ねるという安心感」さえ提供してしまえば、いつでも精神科医に相談できる患者のように、「生きる日常」に帰って行けるからだ。
『完全自殺マニュアル』に書かれている方法を実行して、本当にこの世から「逃げ」てしまったからだ。
その婚約者がいつ亡くなったかは分からないが、おそらく『完全自殺マニュアル』を読んですぐというわけじゃないだろう。
一度読んで、一度「日常」に帰って、そこで何かしらアクションがあったのだと思う。
そして、そこで「上手く行かなかった」からこそ、まるで精神科医に再び相談しに行く患者のように、その婚約者は『完全自殺マニュアル』に頼ってしまったはずだ。
そして『完全自殺マニュアル』に頼ったことからも明らかなように、その婚約者も「誰にも相談できない」状況に陥っていたはずだ。
それが行き着くところまで行き着いて、自殺だ。
何が言いたいかっていうと、その婚約者の死因は「周囲の無理解」だということだ。
中川淳一郎本人が語っている、「(自殺の)予兆に気づけなかった」という話が象徴的だろう。「婚約者」という最も近しい立場の人間ですら、本人の抱えている「問題」に気がつけなかった。
婚約者の男が居てもこの世を去らなくちゃいけないほど、自殺したその女性は「分かられていなかった」のだろう。
以上のことから、俺が言いたいのはこうだ。
「他人の言葉に耳を塞ぐ」ってのは、こんな風に人を鬱病になるまで追い込んで自殺させることもあるってことだ。
それを中川淳一郎は、「予兆」に気がつけず婚約者を自殺させてしまったお前は、知ってるはずじゃないのか?
にもかかわらず、中川淳一郎はよくも平然とあんな風に「人の思い」を踏みにじれるものだ。
自分の婚約者を殺したかも知れない「人の話に耳を貸さない」ことを、あんな風に実行できるものだ。
元少年Aの「問いへの答え」へ呟いた感想もそうだし、『完全自殺マニュアル』の「大義名分」を語ったこともそうだ。
確かこんな風に勝手に決めつけてたな。
(引用)
「自殺する自由はある」 「苦しい時の選択肢として、自殺もあっていいのでは」 「命の大切さを伝えたい」
こういった大義名分は『完全自殺マニュアル』発刊にあたってはあったのだろう。
きちんと紹介文を読めば、この発言が的外れであることが第三者にも明らかだろう。
『完全自殺マニュアル』は、「生きるための安心感」を提供する本なんだよ。本当は自殺のためじゃない。
婚約者が亡くなった後、「本当に後追い自殺をするつもりになり、彼女が愛読した『完全自殺マニュアル』を再度読んだ」ときに目にした前書きと後書きに、ちゃんと書いてあったはずだろうが。
そういう態度にこそ自分の婚約者が殺されたかも知れないことに、どうして気がつかない?
元少年Aは外道だと、いまだに悲劇の主人公ぶる幼稚な男だと、中川淳一郎はそう言った。
だけど、ハッキリ言うぞ。
元少年Aの「なぜ人殺しはいけないか」っていう問いへの答えを、お前は「自分本位」だとか「非常識」だとか「幼稚」だとか非難するけどな、お前の書評だって全く同じだ。
『完全自殺マニュアル』や落合美砂への「自分本位」の勝手な決めつけ、記念パーティでの「非常識」で「幼稚」な不謹慎発言。これらは元少年Aの態度と何が違う?
「酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。」ってお前は非難するけどな、だったら自分はどうなんだ?
自分が婚約者の自殺の予兆に気がつけなかったのを棚に上げて、『完全自殺マニュアル』や落合美砂という「外的要因に」文句をつけるしかないお前の態度はどうなんだ?
「『完全自殺マニュアル』を参考に恋人に自殺された、可哀想な自分」を気取っているお前は、「いまだに『罪の十字架』に苦しんでいる、可哀想な自分」を演出している元少年Aと何が違う?
「悲劇の主人公ぶっている」のはむしろ、今のお前の方じゃないのか。
他人の言葉に一切耳を貸さない、身勝手な「自分本位さ」にまみれているお前の書評は、いまだに被害者遺族の心情に寄り添うことのできない元少年Aの「自分本位さ」と良い勝負だ。
ハッキリ言っておく。
中川淳一郎。そして、元少年Aや『絶歌』を叩きまくっているネット上の大多数の諸君。
お前らがやろうとしていることは、れっきとした人殺しだ。
『絶歌』という本人の言葉を封殺して、元少年Aの人格を否定して悦に浸るその行為は、間違いなく「一人の人間」を社会から抹殺しようとしている殺人行為だ。
かつて、どこかの誰かの婚約者を自殺に追いやった「他者への無理解」を、今度はお前たちがやってるんだ。
かつて、どこかの十四歳が、か弱い十一歳の少年を殺したようなことを、今度はお前たちがやってるんだ。
元少年Aのことをお前らは「殺人犯」だって言って罵るけどな、今ではお前らの方がよっぽど「元少年A」に見えるよ。
正直な話、『絶歌』なんていう「ポエム」を出版「しなくちゃいけない」くらい元少年Aを追い詰めたのは、俺たち社会の方だと思う。
本当にこの書籍の出版を憎んでるなら、こんなものを出さなくて大丈夫なくらい元少年Aを社会の方が受け入れてやれ。
これが、俺の精一杯だ。
大半を占めるのが真っ当な感想。
ポエム、全く反省していない、被害者に無断でなぜこのような本をだすのかetc
その中で少数意見が出てくる。
断言しよう。
過度に飾られた、ちょっと文学に浸って己を過信した、中二病の文章だ。
中二だ。これが高校になるとこのくらいの文章を書く奴は少し増える。
大学になるともっと増える。皆そういった恥ずかし気を越え一周して簡素な文章になる。
目立って特別な文才ではない。
ただ元少年Aの文章がそこまで囃し立てられるわけは「ゲテモノ」だから。
タブーを犯したゲテモノが書いた文章だから、専門家はそのー言葉に意味を見つけたいのだ。
少し頭が良くて少し文章が書けて。自分が犯した行動を抑えきれない自己顕示欲で、オナニーを見せつけるのだ。
誰かがはっきりと言ってあげなくてはいけない。
ネットの評価では文学的だとか一部ではそんな意見があるけれど。
賞に出しても一次で落ちる。バイトが選考するのにも引っかからないね。
これ以上表に出てはいけない。
出家して、人の目が届かないところで一生許されることない罪と対峙してほしい。
誰にも見えないところでね。
もう2度と世間に出てこないでください。
当時殺された小学生くらいの年代だったけど、あの事件はよく覚えている。
連日報道されていた通り魔事件の最中の出来事だったのでかなりインパクトがあった。
「校門前に男児の頭部」「さあゲームの始まりです」「不審な車と男性の目撃情報」
そして少年Aが逮捕された夜の記者会見で、子供でもあんな事件を起こすことが出来るのを初めて知った。
ほかに同じころ起こった和歌山カレー事件で同じ年くらいの子供がカレーを食べただけで死んでしまったのが怖かった。
オウム事件もあって、世の中にはたくさん悪い人がいることを知った。