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はてなキーワード: 人魚姫とは

2023-05-30

やっぱりビジュアル的にいかにも泡になって消えそうな人魚姫が欲しいよね

黒人でもアジア人でもいいけど泡になって消えそうなビジュアルでお願いしま

黒人文化盗用して様になるのは人魚姫より侍だよね

黒人侍がアジアンから白人までぶった斬りまくる痛快SF時代劇アニメとかウケるんじゃない?

anond:20230529143342

人魚姫の主役に黒人ってのが意味わからん

いや意味は分かるし別にいいと思うけども

否定批判もせんし普通にみるけど

商業的な観点で言えばそりゃアメリカ人からすれば新鮮だろうが

他の世界の人からすれば意味不明だから

で、他の世界の人に期待するのは作品内容への文化的な興味だが

アメリカ以外の人が文化的意味試聴したい時、デンマーク人のあの物語雰囲気を楽しみたいわけで

黒人人魚姫の役をやるというハイコンテクストな衝撃はチンプンカンプン

日本ポリコレ要素で評価されたいなら日本ポリコレ要素を出せ

日本軍が人魚姫放射能漬けにして拷問してるのをマイノリティ出身者のヤクザが助けだすストーリーとか

ディズニーならそれくらいやれよ

2023-04-26

×黒人人魚姫は嫌だ

黒人の「アリエル」は嫌だ

なのに、論理すり替えがほんっとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーに卑怯だね

この人が嫌われているのは肌の色のせいではないだろう

2023-04-15

そもそもなんでアリエルになりたいの?

https://twitter.com/mitsuo_cinema/status/1646515545808965634

まだ23歳の才能ある女性が、って年齢関係あるの?43歳の女性だったら言われても問題ないの?

23歳ってとっくに成人なんだけど、

未成年カードが使えなくなったら「まだ23歳の」と若さを強調するの?そういうエイジズムって、レイシズムと同じくらい有害じゃない?

そもそもなんでアリエルになりたいんだろう…?

私はそんなふうに思った事がないから分からないや

人魚姫シンデレラ白雪姫かぐや姫もみんな自分とは違う別世界の「憧れ」であって、なりたいなんて思った事はないし

仮になりたいと思ったとしてもなれない事は自明の理として理解している

黄色人種アリエルになれない」と言われたところで別に怒りもしないし当たり前に受け入れるよ

なんで黒人は違うの?

黒人なら、CG特殊メイクで弄りでもしない限り、赤い髪で白い肌のあの「アリエル」にはなれない。それって単なる事実じゃない?

しかもこの彼女は髪形をわざわざドレッドにして、見た目を寄せようとすらしていない

世界の子供達に伝えるメッセージとしてなら、人はみな個人として尊重され、自分以外の何者かになろうとする必要なんてないって事こそ教えるべきでは

2023-04-13

アジア人なのに白人人魚姫思い入れを持つのおかしい!」と言う人達

アジア人なのに違う人種である黒人に肩入れするのはおかしい!」とは絶対に言わない謎

そもそもフィクションキャラクター容姿に対する拘りとファン当人人種を結び付けて語る発想が意味不明だが

仮に『アジア人』という括りで見るならば、白人黒人も等しく他者なんだから

黒人に肩入れする理由なんて一つもないだろ

黒人コロナ禍でここぞとばかりにアジア系女性暴行を振るっていたのをもう忘れたのか?

2023-04-09

もし日本人人魚姫やった時に「黄色人種アリエル演じるなんてイメージ壊れる!」って言われたら、

大半の日本人は何とも思わず普通に受け入れると思うんだよなあ

実際日本人エドワード・エルリックだってコスプレ学芸会と叩かれてたし

同じ人種ってだけで肯定する日本人は滅多にいないと思うんだわ

舞台舞台映画とは別物でしょ

引き合いに出す意味が本当に分からない

黒人役者アリエル批判しながら「だってモアナジャスミン白人が演じたら嫌でしょ?」と言ってる人達よ…

モアナポリネシア文化圏アラジンアラビアンナイト物語から、そりゃ白人が演じるわけにはいかない訳であって、人魚姫物語にそういう縛りは無いのですよ』

批判派は『人魚姫』ではなく『リトルマーメイドアリエル』の話をしているんだし

あと『アラジン』ってそもそもアラビアンナイトに取り入れられたのは後期であって、しか中国舞台の話でしょ。

あの衣装や背景はディズニー創作

モアナポリネシア文化圏と言ったところで別に史実に基づく訳ではない架空の話である以上、人魚姫と何も変わらないと思うよ。

しかもこういう事を言っている奴等が黒人アリエルリトルマーメイドを何度もリピーターしたりグッズを大人買いしたりするかといったら

経験即上絶対にそんな事はないんだよな…

黒人プリンセスディズニー作品であるプリンセスと魔法のキス』だってから推してるファン観測されるけれど

そういう人達黒人アリエルを無批判に称賛しているなんて事はない

大抵昨今のブラックウォッシュ風潮とは距離を置いている

2023-04-03

スプーンおじさんというものがある。それは、森の近くに住んでいたスプーン発明した人が、自分を蛇とたとえて、ネズミを餌食にしていた森の住人に対して、ネズミを殺せといって吊るし上げ、スプーン発明者がネズミを殺さなかったという伝説人魚姫のこと。その伝説人魚姫と、森に住む村人たちの間にできたのが、スプーンおじさんである。森の住人たちは、村人たちの間に出来た新しいスプーンに食物をのせて一緒に食べるようになった。やがてスプーンが森の住人たちを襲い、大きな被害を出した。スプーンおじさんは村

Anond AI作成

2023-04-02

もうエイプリルフールは終わりましたよ( ・3・) ウフフ...うーん。人魚姫のような、よみうりランドの巨大水から出てくるのかな。もしかすると彼氏が飼っているのかもよ。でもこの水槽サイズはどうせ彼女では入らないのかな。まあ、そのうち彼女デートのために( ・3・) じゃあ私もいつ会えるかな。お祝いに花束も用意してあるから、当日持って来てね( ・

Anond AI作成

2023-03-25

anond:20230325193541

てかあまりにもこの運動?というか流れが続くと、数100年後には人魚姫が描かれた当時から黒人への差別なんてなかった、更に言えばそもそも白人黒人差別したことなんてなかったってこととかになっちゃわないか

ある意味、こういう童話古典作品黒人が出ていないということが白人差別歴史を後世に残す術でもあるのではないかなと思う

まぁ、今の黒人仕事を、って意味では人種の設定は無くした方がいいのかもしれないけど、やりすぎると歴史が無くなりそう

2023-02-17

CoCで「エモシ」を楽しむ人と、うまく楽しめない自分との違いについて

 昨日話していて、いわゆる「エモいシナリオを好んでやる人が感じるような、シナリオ内のPC個性が発揮される盛り上がりどころが、実は自分と全く真逆なんじゃないか、という話になった。

 まず前置きとして「エモシ」の盛り上がりどころを整理しておく。

 僕の観測する限り、「エモシ」「タイマンシナリオ」「うちよそシナリオ」の様なものは、何か決定的な断絶、齟齬障害などがあって、その上で、「自分いかに考えているか」「自分いか覚悟であるか」「あなた気持ちをどう受け止めたか」みたいなことを思い思いの形で精一杯RPして、それが何かEDだったり、その後のPC間の関係性に寄与していく、みたいな形式実質的に取っているものが多いように感じる。

 次に、こうした盛り上がりどころが、実際の時系列の中でどのように展開するかについて話す。これは分かりやすい所があるだろう。つまり、「何か気持ちを表明する」シーン(シナリオ内の要請)があって、次にそれ以外の日常がある。それが経過すると、また「何か気持ちを表明する」シーンに導かれていく。「エモシ」に複数行くような探索者はそうした構造を取っていると思う。

 これを盛り上がりどころとして捉えている人からすれば、探索者の日常は以下のように整理できるだろう。

__/\__/\__/\__/\__

 山になっているところがシナリオであり、「盛り上がりどころ」であり、言葉での表明である。そして、それ以外の所が幕間になる。

 最初真逆と言ったのは、このことだ。これが僕にとっては、以下のように見えているのだ。

/\__/\__/\__/\__/\

 つまり、「その後の日常」こそが「盛り上がりどころ」であり、「何か気持ちを表明するシーン」は幕間に過ぎない、ということだ。

 ここで疑問に思う人もいると思う。「なぜ日常が盛り上がりどころなのか?」と。全然盛り上がっていないじゃないか、と。最もだ。これを説明するために、「盛り上がりどころ」とは何なのか、という話をしたい。

 ここで言う「盛り上がりどころ」とは、必ずしもストーリー上でテンションの上がる瞬間のことではない。PLが、真に価値があるとみなしていて、PCの行動のここだけは見ておきたい、と思う様な、その行動を見ればPCについて分かる、と確信できるような瞬間の事なのだ

 つまり平たく言うと、「エモシ」を好んでやる人は「探索者が自分の胸中をカミングアウトし、言葉によってこの先の展望を語る」シーンに魅力を感じているのに対し、僕は「それが全て終わった後で、実際に探索者がどのように動いているか」が確認できるシーンに魅力を感じているのだ。もちろん、僕も探索者が胸中を語るシーンに魅力を感じないわけではないし、逆もまた然りだろう。ただ、相対的にどちらに価値を感じ、どちらが「おまけ」であるかという点において、両者は明確に別れるのではないだろうか。

 僕がなぜそのように思うのか、を先に話しておくと、「言葉で語った内容と、それが言葉通りに実践されるかは全くの別問題である」「むしろPCの胸中が『どのように実践されたか』が重要なのであって、それを言葉に出す必要はない」「それどころか言葉にすればするほど、特に安易シナリオ要請によって言葉にすればするほど、それは陳腐ものになってしまう」と思っているからだ。実際にどんなドラマティックなRPをしていたかよりも、胸中が実際に行動やRPに「にじみ出る」瞬間の方にはるか価値を置いていて、積極的に表出する必要性を感じていないということだ。

 このような背景事情があるから、僕はシナリオ内で「探索者の覚悟を聞かせてくれるように」シナリオ要請するシーン――例えば、シナリオキーマンクリティカルな問いを問いかけられるようなシーンや、PCKPC自分の胸中をカミングアウトしなければならないようなシーンなどだ――をあまりシナリオ面白い瞬間として感じてはいない。しなくてもよければしないほうがいいし、するにしても必要最小限にとどめたい、というのが本音だ。それ以降感じていることは、PCの行動から読み取ってほしいと思う。

 しかし、おそらく「エモシ」を積極的に楽しめる人――TLの多くの人は、そう感じない人が多いのではないか予測する。ここで、話していた相手から面白い指摘をもらった。要約すると、「女性場合、期待や理想を胸中に描く傾向が強いので、『RPでその胸中を強く示された』ならば、それが理想的な形で実行される(つまり、その後の『どのように実践されたか』の部分)のは当たり前のことであり、確約されていることだ。だからこそ、『どのように実践されたか』ではなくて、『どのように確約してくれるのか』の方に興味があるのではないか」というものだった。

 目から鱗が落ちる思いがした。僕は今までずっと疑問だったのだ。「なぜ安易な形でシナリオに『決意』を吐かせられるようなシナリオを好むのか?」「そうして吐き出した『決意』の分だけキャラが薄くなっていくのではないか?」「なぜ、そうした『決意』なき形でのRPでのキャラ性の表出(自他問わず)は汲み取ってもらえないことが多いのか?」という様な疑問だ。(悪い言い方をある程度はしている。申し訳ない)

 これらはすべて違ったのだ。むしろ、周りの人間にとっては、『胸中』と『その行動の反映』が完全に紐づいているのだ。そうだとするならば、『胸中』さえ明らかならば未来約束されている。

 これはちょうど、「二人はいつまでも幸せ暮らしましたとさ。めでたしめでたし」の部分の話だと感じた。シンデレラがどのように王子様と結ばれたか白雪姫がそのように王子様と結ばれたか、というのさえわかれば、その後の「めでたしめでたし」は確約されるのだ。逆に、そこがうまくいかない人魚姫は水の泡になってしまう、ということだろう。

 そこを僕は「でも王子様も、シンデレラの事なんか何も知らないんだから、その時にいくら愛情を表明しても持続するとは限らないよね」と思ってしまう。「めでたしめでたし」を信用しない気でいる。そうした期待や理想をあまり強く持たないからこそ、あるいはその理想は行動によってしか反映されないと思っているからこそ、「行動」の部分を説明したくなってしまう。

 逆に周りの人にしてみれば、ドラマチックで最もおいしい部分を飛ばして、「めでたしめでたし」の部分だけに注目しているように映るのだろう。そりゃつまらないに決まっている。

 僕が「うちよそシナリオ」「タイマンシナリオ」に行きづらいと思っていることについて、かつて「探索がしっかりしていてシナリオ強度があるシナリオなら行ける」と言ったことがあるのだが、これはこの話に直結している。「『安易な』RPでの『表明』を求められないシナリオがよい」ということだ。

 であるから、ここには(まだこれを男女差と断じるには早いとは思うが)かなり大きな趣味の断絶があると感じた。人間ペルソナの切り取りをシナリオで行っているとするならば、おいしいと思う部分がそれぞれ違う、どころか、むしろ必然的な興味の差によって、背反の形で別の部分を切り取り合っていたのかもしれない、と思ったからだ。

 これを読んでいる人がまだいたら(よく長い文を読んでくれたなとも思うが)、そうしたこの人にとっての「RPの骨子であり、味わいどころ」はどこなのか、ちょっと探ってみると、気持ちのいいRPがし合えるんじゃないかと思う。相手面白いと思うところはちゃんと汲み取ってあげたいし、同様に汲み取ってほしいからね。

 最後に、僕に今まで「決意や胸中を表明させる」シナリオを回してくれたKP諸君や、同卓者諸君に。面白いシナリオ体験だったと思っていますありがとう

2023-01-13

anond:20230113130750

魚に似た雰囲気なら、せっかくの個性を活かして人魚姫みたいなアバター使用するといいのかも🧜‍♀️

2023-01-08

追記増田でボロクソに言われてた漫画を読んだ

年末年始暇なんでブックオフで安売りしてたぼくたちは勉強ができない(ぼく勉)を買ってみた。

増田でボロクソに言われてたのは覚えてたけど、漫画を一通り読んでネット感想も色々読んだうえである程度は言われてもしゃーないなと思った。

全体的に読者の期待を裏切った結果なんだろうなという印象。

せっかくなんで何をどう裏切ったのかについて自分が感じた感想をまとめる。

見立てと対比

ぼく勉は見立てと対比を多く使っている。

具体的な手法でいえば緒方理珠が唯我成幸への恋心を明確に認識したシーンでUターン禁止標識を同じコマに入れるという方法を取っていたり、桐須真冬と唯我成幸の指導方針真逆であることについて、床の線と足の並びを平行に描いて「(お互いの指導方針が)平行線」などと言わせていたりする。

このような見立て手法のみならず設定自体にも取り入れられており、例えば主要なキャラ童話アニメキャラクターに見立てられている。

キャラ童話アニメ
緒方理珠親指姫
古橋文乃眠り姫
武元うるか人魚姫
桐須真冬アナと雪の女王(エルサ)
小美浪あすみピーターパンティンカーベル
唯我成幸幸福の王子

対比については例えば桐須(キリスト教)←→唯我(仏教)のような指導方針の違いや名前の由来の対比については作者が言及しているが、

その他にも将来の進路についてヒロインごとのグループによる対比が見られる。

将来の進路キャラ
才能と希望が一致せず希望を選ぶ緒方理珠、古橋文乃、桐須真冬※1
才能と希望が一致せず才能を選ぶ武元うるか
才能と希望が一致小美浪あすみ※2、唯我成幸

※1本人の発言。また一生徒であり指導方法を学んでいない唯我成幸ですら達成できた緒方理珠と古橋文乃の成績を向上させることに失敗しているため。

※2小美浪あすみは受験科目の理科分野が苦手であるが、作中で患者の診断については得意であることが示されている。したがって研究側としての才能はないが、現場医師としての才能はあるものと思われる。

追加ヒロインである桐須真冬、小美浪あすみはそれぞれ同じグループキャラクターの将来のロールモデルとして見立てられている。

すなわち桐須真冬存在緒方理珠と古橋文乃が自分の才能がある分野ではなく、自分希望する進路を選んでも幸せになるということを示唆しており、

小美浪あすみの存在父親のいない唯我成幸の代わりに、父親対立したとしても父親の背を追うことは間違いではないのだということを示唆している。

この漫画テーマの一つが幸せになることであり、この2つのグループは将来幸せになることが示されている。

では自分の才能と希望が一致しておらず、才能がある分野を進路として選んだ場合ロールモデルのない武元うるかは将来どうなのか、というのがこの漫画の結末に当たる唯我成幸から婚約指輪を送られる部分であり、これを以て将来幸せになるということが示されている。

この点、作者は古橋文乃ルートで武元うるか失恋ときで不幸にさせるなと言わせているが、将来ではなく現在での描写であり、また幸せとは言わせていない点に本旨があろう。

できないことの克服

この漫画のもう一つのテーマとしてできないことの克服がある。

ぼくたちは勉強ができないというタイトルの通り勉強ができないというのは前提としてあるが、ここでいうできないこととは勉強以外でキャラクターが抱える問題であり、主として家族に関連する問題である

キャラできないこと
緒方理珠人の気持ち特に亡くなった祖母の)がわからない
古橋文乃父親や親しい人と向き合えない
武元うるか恋愛をうまくすることができない
桐須真冬家族の反対を振り切って選んだ道が向いていないと思っている
小美浪あすみ子供の頃から憧れた居場所父親診療所)を継げない
唯我成幸周りの幸せを優先して自分幸せを追い求めることができない

これらのできないことを各キャラ長編(①など番号を付された連話)で唯我成幸が尽力して克服するというのが基本的な流れになっている。(武元うるかと唯我成幸は長編がない代わりに本編の終盤がその流れに当たる。なお武元うるか家族ではなく他人との関係であるが、これは将来家族になる相手との問題であることを示唆している)

この点武元うるか恋愛ができないことについては他のキャラも同じではないかという批判があり、なんなら成就していないのだから他のキャラこそ恋愛ができないのではないかという指摘もあり得る。しかし武元うるか場合恋愛的なアプローチに失敗することが多々あるという点で他と差別化されている。

まり他のキャラクターの場合、唯我成幸の気を引こうとして主体的アプローチをした際にはドキドキさせたり意識させたりして成功しているが、武元うるか場合は好きな相手を唯我成幸ではないと言ってしまったりプールで溺れさせたりするなど明確に失敗してしまうことが多々ある。つまり作中での描写問題であり、そのため恋愛ができないのは武元うるかなのだ。(メタ的に言えば克服できなかったものをそのキャラ問題にするのは最後まで問題を抱えたキャラがいることになるため読後感が悪くなるという問題もあろう)

将来の保証

上記のようにして各キャラが進路を選び、できなかったことを克服することでぼく勉のキャラ幸せになり、その幸せになった将来の姿が本編最終話に当たる150話で書かれている。

この話が卒業後すぐではないのは、緒方理珠と古橋文乃と違って将来像のロールモデルがいない武元うるかにとってはこの最終話こそが将来の幸せ保証するものからである

まり付き合い始めてすぐではなく数年後の将来においても、唯我成幸は他のヒロインたちからの誘惑を振り切って武元うるかを選び、お手製の婚約指輪を渡してプロポーズをする。

このエピソードを以て将来に渡って武元うるか幸せであることが保証され、同時に将来においても唯我成幸にとって武元うるかを選ぶことが彼自身幸せであることが保証される。だからこそこの最終話恋人になってから数年後の話であり、恋人がいるにも関わらず他のヒロインから誘惑されるという一見陳腐な展開が必要なのだ。(あのような陳腐な展開でなければならなかったかは別として)

物語構造

ぼく勉はこのように緻密な構造で作られている作品である。(構造を元にした話自体が緻密とは言っていないので誤解のないことを望む)

簡潔にまとめるならば、作品全体を通して周囲の人間幸せにしてきた一方で自分幸せをないがしろにしていた主人公が、最後最後で今まで幸せにしてきたキャラ背中を押されて自らの幸せのために好きな相手告白をして、恋愛がうまくできなかった女の子と共にできないことを克服した、という結末になるように作られている。

また見立てと対比の話に戻れば、人魚姫幸福の王子という他の4作と対比して不幸な結末で終わった童話モチーフにした2人が、童話と違って幸せな終わりを迎えたという形にもなっている。

作中のキャラの配置やモチーフなどを考えればこのようなストーリーを作者が想定しており、その結末になるように連載を進めていたことが読み取れる。

テーマへの裏切り

さて、ここまでぼく勉という作品の作りを辿ったが、最終的に作者である筒井大志は他のキャラパラレルストーリーも描くことを選択した。

作者のインタビューを聞くと編集との雑談の中で増刊で描けないかと言ってみたら本誌でやることが決まったとのことであり、連載中に急に決まったことがわかる。

このような形で決まったものであるから当然様々な弊害が生まれている。

例えば物語構造として今まで幸せにしてきたキャラ背中を押されることができなくなってしまっているため、主人公告白の重みがなくなってしまっている。(武元うるかには幸せにしてやるという決め台詞を言っておらず、逆に幸せにできないかもしれないけれど自分幸せのために付き合ってほしいという告白になっている。つまり幸福の王子というロールから脱却するというカタルシスがある)

また武元うるかには恋愛というできないことが残ったままになってしまっているため、上で書いたような克服できなかったものをそのキャラ問題にすると、最後まで問題を抱えたキャラがいることになるため読後感が悪くなってしまうという弊害がそのまま生じている。この点古橋文乃ルートセリフを反例として挙げられることが予想されるが、上記の通り現在時間軸であり幸せと言わせていない点に本旨があると考えられ、また結局のところできないままであるという問題は何ら解決していない。

これらの弊害は作中のテーマとしてそれまで書き続けていたことを自ら否定したものであり、それぞれの読者が気づいていたか気づいていないかは別として、無意識的に期待していたものを裏切ってしまった。

無意識的に期待していたものを裏切った上でさらに個々の話でも、特に緒方理珠と桐須真冬について、読者の期待を裏切ってしまった。このように読者の期待を繰り返し裏切ってしまたことが今も批判される原因だろうと感じた。

結果としては自分の考えたストーリーがどのキャラ好きな人にも受け入れられると信じきれなかった作者の敗北だろう。

作中で武元うるか失恋ときで不幸にするなと言わせていたが、好きなキャラ失恋したらファンは喜ばない、不幸になると作者自身が思いこんでしまったのは皮肉である

その他入れられなかったこ

最終回無限未来があると言い、実際の作中のほとんどの女キャラクターが触れていると恋人になるというジンクス主人公成就させているのに、主人公以外の彼氏がいる女キャラクターは主人公に触れていないのは些か逃げ腰ではないかと感じた。

単行本最終巻の作者コメントの僕(作者)が描いたぼくたちは勉強ができないはこれで終わりというコメントはあまりにも無責任過ぎる。お前以外に本物を描くやつも描けるやつもいないんだよ。

特に後者の点でボロクソに言われるのはしょうがないなって感じがした。あやふやな土台の上に二次創作は実らないんですよね。悪いけど。

追記

もしそういう物語構造なら、うるか1話から出ているとは思うが、それはともかく、これだけ独自考察することが、まずもって素晴らしい。/「ボロクソ」は、うるか好きをこじらせた増田いるから…。

この解釈が正しいので「もし」ではないですね。事実です。

冗談はさておき1話から出ていないというだけで否定することができる強度の構造ではない。あらゆる要素がそう物語っているので。逆に1話から出ていなければならないということもないだろう。

才能がある分野ではなく自分のしたいことをするべきというのがこの作品の主張なのであって、その点はセンター試験合格緒方理珠と古橋文乃が衝突を繰り返していた桐須真冬和解するという形で結実するのだから、衝突のない分野に進みその主張とは直接関わらない武元うるか1話に出ていないのも不自然ではないだろう。

当初勉強恋愛の二本柱で進めて行くつもりだったが勉強要素が不人気か何かで早々になくなったために、勉強要素を担っていた2人が恋愛要素も担っているという誤読が生まれたのではないだろうか。

後段の件はちょっと調べたけどうるか派はそりゃキレて当然じゃねえかな……。(私が読んでボロクソと言ったのとは違うので必ずしも恨みの結果ではないと思うが)

パラレルは完全に逃げだったけどなぜパラレルやったかって「真冬先生が一番人気になってしまたから」だよ。先生を真エンドにはしにくいので全員分描いて一番最後真冬編を持ってきて読者の人気に応えた。

パラレルやった理由がそうなのは火を見るより明らか(順番通りなら桐須真冬→小美浪あすみになるはずなのに人気を鑑みて桐須真冬最後にしているから)なので、この増田でも別になぜしたのかとか言ってないよ……

真エンドにしにくいもなにも、話を曲げて人気が高いキャラのエンドにするようなラブコメほとんどない。ぼく勉の場合は桐須真冬人気を惜しんだ作者が話を曲げて描くことにして、その結果期待を裏切ってしまったのだろう。

どのルートでも幸せであることを保証するとか作者言ってなかったっけ

これ(最終巻でヒロイン全員どのルートでも幸せになることを僕(作者)が保証するなどという作者コメントがある)は言われそうだと思っていたが、ではその幸せとは何なのか。

できないことはできないまま残った上で、それでも別の幸せを得られるよという話でしかないだろう。

それが今まで描いてきたこととなにか関係があるかといえば何も関係はない。

幸せになるのはそうなのだろう。でも漫画で書かれてたできないことはできないままだ。それが変わることはないし、代わりに見つけた幸せを得た姿を見ることもできない。

ではその保証にどんな意味があるのだろう? 私はないとしか思わない。

(そういった事情考慮しないとしても、古橋文乃ルート最後唐突に今まで一切書かれていなかった平行世界解釈を語らせるなど言い訳をするような作風鑑みると、読者に批判された言い訳として書いたものと見るのが妥当だろう。そもそも当然のこととして作中から読み取れないことを考慮する必要はないので本文では触れなかった。もちろんファンが作者コメントに救いを求めるのは自由であるが)

2022-11-25

BrooklynTokyoという黒人YouTuberが大嫌いだ。

https://www.youtube.com/channel/UCciTVyFEABep-FNc4PMy59A

最近おすすめによく出てくるけど、まじ何なん?

人魚姫黒人になったのはおかしいとか、セサミストリート無視差別じゃないとか言ってる。

ましてや日本に住んだこともなければ人権活動家でもない、ただ日本相手にそれっぽい話をして褒められて気持ちよくなってるだけの人。

黒人という当事者性を利用して、ネトウヨかにに受けのいいことばっか言ってんだよな。

例えるなら、アジア人差別擁護するひろゆき黒人版だ。

はてブで有名になって叩かれて欲しい。

2022-10-10

anond:20221010134005

幼稚園児の時に人魚姫絵本を読んでるとなぜか毎回おちんちんムクムクしてた

当時は理由がよくわからなかった

2022-10-09

人魚姫ブサイクだったから振られた説

新しい解釈きたな...。

自分の命救ってくれた女でなおかつ美女とか絶対好きになるじゃん

そうならなかったんやったらブサイクやったんやろなって。

魚介類オタサーの姫やったんやなって。

人魚姫』は何の物語か?

もちろん、海の妖怪人間王子に恋をするという悲劇的な恋愛物語であるが、実はフリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』という、水の精霊人間騎士との恋愛物語を描いた先行作品存在する。そういう意味ではアンデルセン作品は、あまりオリジナリティが無いとも言えるかもしれない。

フーケの作品ウンディーネ』には無くて、アンデルセンの『人魚姫』には有る要素として、我々がよく知っているのが、主人公人魚姫人間になることの代償として「声」を失うという筋書きである

この「人間になることで声を失う/奪われる」という描写元ネタと考えられているものの一つに、アイルランド海浜に近い場所存在する某村に関する民間伝承がある。

周辺の他村の住民たちは、某村の住民たちのことを「人魚の子孫」と見なし、彼らと会話することを忌避していたというのである

この話から直ぐに連想するのが、ホメロスの『オデュッセイア』にも登場する、妖怪セイレーンのことである。これは、航行する船を操る船乗りたちを、美しい歌声で惑わして誘き寄せ、船を難破させて殺害し、その人肉を喰らったとされる、半人半魚の妖怪である。ここでも「声」禁忌とされている。しかし、どうしてもセイレーン歌声を聞きたいと願った知恵者オデュッセウスは、部下の船乗りたちの耳を蜜蝋で塞がせて、歌声を聞こえないようにさせてからセイレーンたちの居る岩礁の傍を通過するように船を航行させた。オデュッセウス自身は、己の身体を帆柱に縄で縛り付けさせ、決して海に落ちることの無いように万全の防止策を施してから、その耳で彼女たちの歌声を聞いたという。

日本においては、人魚との「会話」が禁じられていたというわけでは無いものの、やはり不吉な影が付き纏う。『吾妻鏡』や『北条五代記』等には、人魚らしき妖怪発見事例が記されており、これを何かの前触れとした陰陽博士などの占術職能者によって、兵革の兆し奥州藤原氏の滅亡の前兆などと見なされたといった例が見出される。

ただし、これらの国文学的な文献に記された人魚は、アンデルセンの『人魚姫』のような美しく可愛らしい姿とは、かなり異なる。例えば、頭部だけが人間人面タイプであったり、四脚らしきものが生えていたりと、なかなか奇怪な姿をしていたようである。中には、頸部に鶏冠の如きヒラヒラしたもの付属していたという事例もある。また、発見される場所も水辺だけではなく、時には、山肌で起きた土砂崩れ現場発見されたことも有るようである

してみると、人魚にとって魚身であることは、我々現代人が思う程、重要ではないのであろうか。実は、先に挙げた『オデュッセイア』に登場するセイレーンにしても、元々は半人半魚ではなく半人半鳥であったとする説が有る。その鳥の怪が、もしも水鳥の怪であったとすれば、後に、半魚の怪との交雑を起こしても、それほど不思議では無いと考えてもよいのかもしれない。重要なのは、半人半怪という混合性である

さて、アイルランドの某村に関する民間伝承比較するために振り返ると、日本においても「妖怪の子孫」と見なされた人々が存在しなかった訳では無い。例えば、江戸時代南町奉行根岸鎮衛(ねぎやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収められた「河童の難を遁るゝ歌之事」という文章を参照してみよう。そこでは、菅丞相(かんしょうじょう)すなわち菅原道真(すがわらのみちざね)の作として伝えられる、次のようなまじない歌を紹介している。

「ひよふすべよ 約束せしを 忘るゝな 川だち男 うぢはすがはら

根岸鎮衛は、菅丞相の作は疑わしいとしつつも「ひよふすべ(ヒョウスベ)と云ふは川童(カッパ)の事の由」と記しているが、これは、長崎県諫早市周辺でのカッパに該当する水怪に対する方言的な呼称であるしかし、カッパ避けの歌が伝えられていたのは、現在で言うところの千葉県(アメリカで言えばノースダコタ州)である。随分と遠くの地までヒョウスベの名が伝えられていたことになる。

岩波文庫版では「川だち」には「水泳の上手い者」との注釈が付けられている。これは遊戯としての水泳のことを言うのではなく、職業的必要性から河川で泳ぐことをしていた者たち、職能者たちと考えるのが妥当である。その川だち男が「我々は菅原氏の関係者なのだ約束を忘れるな」と、歌を通じてヒョウスベ≒カッパに向かって呼び掛けているのである。一体、何を約束したというのか?

菅原道真家系である菅原氏は、遡れば土師氏(はじし)に連なるとされる。土師氏の祖は、野見宿禰(のみのすくね)とされ、当麻蹴速(たいまのけはや)との角力すなわち相撲(すまひ)による決闘を行ったことでも知られる。現代では十把一絡げに河童(カッパ)と総称されるようになった水の妖怪が、相撲を好むことは昔話などを通じて広く知られているが、その起源には、土師氏菅原氏との関わりが存在するということである

この土師氏は、埴輪を作ることを能くしたが、埴輪といえば赤土であるが、この赤い色は、酸化鉄を多く含むためである。このような粘土採掘は、鉄分を含む土の採掘であり、これは時代が下れば、鉄を初めとした金属鉱脈採掘にも関連・発展したことであろう。

鉄に限らず金属は、採掘されるだけでなく精錬されるので、山の掘削、森林樹木伐採という環境変化を伴う。これは、山に水源を発する河川にも影響を及ぼしたと考えられ、そうなると、粘土採掘金属採掘精錬を行う山の民と、漁業・水運などによって河川生業を立てる川の民との間で、何らかの紛争を招いたのは想像に難くない。本来の「カッパによる水難」とは、元々は「山にいるカッパ」による山林環境の変化によって引き起こされた、河川災害環境破壊のことを指したのではないのか。なお、カッパといえば河川などの水辺だけにいると現代人は思いがちだが、カッパ河川から山、山林から河川へと、季節の変化ごとに移動するという伝承が見られるのである

山林の環境破壊が火種となって紛争が発生し、これを停止するための平和条約のようなものが「約束」であり、それが川の民と土師氏菅原氏との間に結ばれたことにより河川災害発生件数が減少したこと、それが「カッパ避け」の実態だったのではないか。川の民に害を及ぼさないと、かつてカッパ親分であったであろう土師氏菅原氏が約束したことが変化して、川だち男が「我々は菅原氏=土師氏の裔であるぞ、だからカッパよ、我々には害を及ぼすな」と呼び掛けるようになったのではないか

ヒョウスベには「兵主部」の漢字が当てられる。このうち「部」は物部や斎部などと同じであるが、では「兵主」は何なのかと言えば、これは大陸から渡来した蚩尤(しゆう)のことではないかと言われている。というのも『史記』では、蚩尤は金属製の戦用武具を生み出した「兵主神」とされており、しか角力(相撲のようなもの)を能くするのである。その上、石や鉄を喰らうとされるので、これは金属精錬象徴するのではないかと考えられる。ここから、兵主部とは元々は「兵主神を祀り、それに関連する金属職能に携わる部民」であろうと考えられる。

脇道に逸れた話の部分が予想外に長くなってしまったが、土師氏菅原氏という職能集団的氏族カッパの裔であると考えられていたということ、そして、カッパに対する民の恐れの根源には、職能活動による影響が存在した可能性のことを言いたかったのである

本筋に戻ると、アイルランド海浜そばの某村に住むという「人魚の子孫たち」が、周辺他村の人々から会話をすることを忌避されたのは何故か。それは、彼らが「予言する能力」を持っていたからではないのかと私は推測する。ただし、予言と言っても、超常の能力ではない。彼らが漁業や水運業など海の船仕事に携わっていた職能集団だったとしたら、どうだろうか。そのような仕事に携わることで、海路における岩礁や難所の存在場所についての知識も蓄積されたであろう。また、船仕事に影響するような天候の変化を読む(予測する)観望天気の知識も蓄積されたであろう。そのような、いわば専門知識能力を身につけた彼らが、もしも「海路のあそこには岩礁が有るぞ」「嵐が来るぞ」と予測して教えてくれたとしたら、何の知識も持たなかった他村の人々は「某村の住民が不吉な予言をする。彼らが予言を行うせいで不吉な出来事が起こる」と逆転した考え方をして、誤解したのではないだろうか。それが「会話を忌避する」ことに繋がったのではないだろうか。

上で粘土採掘金属採掘精錬を行う職能集団カッパの関連を述べたが、こういった専門的な仕事は、その仕組みを外部から理解しにくい。自分たちには出来ない仕事をする能力を持ち、影響力が大きい者のことを、人間尊敬するだけでなく同時に差別もするという例は、古今東西を問わず広く見られる現象である。例えば、西アフリカ伝統的な音楽歌唱職能グリオ(griot、フランス語。現地のウォロフ語でgewelギュウェル、トゥクロール語でgauloガウロ、マンディング語でdjeliジャリなどと呼ばれるのが語源)たちは、歌の言霊を駆使することで、人を幸せ気持ちにしたり、戦の前に闘争心鼓舞したり、逆に人々の間の争い事の調停役を担ったりといった役目を果たすことから、非常に尊敬を受ける反面、亡くなると普通の墓に埋葬されずにバオバブの木の虚穴に遺体を遺棄されるという。そこでは、尊敬差別心理アンビバレントに同居している。

日本人魚が不吉の前兆と見なされた話は既に述べたが、その中には、人魚自身言葉を口にしたという例も見られる。それも、もしかしたら海の民などの姿を人魚に反映していて、やはり海の民による予言とそれに対する恐れの感情の名残なのかもしれない。

西洋人日本渡来するようになると、剥製ミイラ製造技術も伝えられ、魚や動物のパーツを組み合わせることにより、カッパ人魚ミイラ製造されたことは、現在日本の各地に残るミイラの実物とともに知られている。したがって日本における人魚形態傾向が、人面タイプや四脚タイプから現代人にも親しみのある上半身人間下半身タイプへと変化した原因として、西洋人の影響が有るという可能性は、もっと大きく見積もっても許されるであろう。しかし、日本よりも先に西洋人との接触果たしていた中国を通じて、もっと早い時代ミイラ製造技術日本に伝えられていたという可能性は無いのだろうか。その時に、西洋人が抱く人魚イメージも一緒に、早期から日本流入したという可能性は無いのだろうか。大陸西洋から人魚伝承流入によって、前触れ予言というイメージ形成された可能性は、今後より丁寧に調べる必要が有るだろう。

まだまだ考察すべきことは多く残る。

人頭獣身の妖怪しかも不吉の前兆予言を伴うといえば、人頭牛身の妖怪「件(くだん)」が思い浮かぶ。上で半人半怪の混合性が重要と述べたが、この混合性の故に、人間の住まう現実世界と、非日常・非現実世界との結節点となる役目が、人魚や件のような半人半獣の妖怪には与えられたのであろう。そして、その役目を具現化したものが、前触れ予言なのであろう。

また古来、予言神託の役目を担う者の多くが、巫女という女性であった。これは、女性には生理があり妊娠出産可能であることから男性に比べて、より自然というカミの領域に近い存在であり、現実日常世界との仲立ち・結節点の役目を果たすことが出来ると信じられていたかであるセイレーン人魚に限らず妖怪怪物たち(例えば、エデンの園アダムとイブを誘惑した蛇など)に女性性が付与されているのは、ユダヤ教キリスト教仏教などが地位確立する以前の世界において、カミの領域との仲立ちを務める職能を担っていた女性たちに対する、尊敬差別というアンビバレント感情が反映された名残であろう。

最初に『人魚姫』は何の物語か?と掲げ、長々と文を書き連ねたが、正直に言えば、それを確定することは実は難しいと思っている。ただし、少なくとも、異なる世界の住人が出会った物語、それに伴って起こったコンフリクト悲劇物語とは言えるのかもしれない。

乱文も長くなり過ぎたので、ここまでとしよう。

2022-09-30

BrooklynTokyoという黒人YouTuberが嫌い

https://www.youtube.com/channel/UCciTVyFEABep-FNc4PMy59A

最近おすすめによく出てくるけど、まじ何なん?

人魚姫黒人になったのはおかしいとか、セサミストリート無視差別じゃないとか言ってる。

黒人という当事者性を利用して、ネトウヨかにに受けのいいことばっか言ってんだよな。

例えるなら、アジア人差別擁護するひろゆき黒人版だ。

はてブで有名になって叩かれて欲しい。

2022-09-24

正史リトルマーメイド

ぶっちゃけよく考えたら、めっちゃ美人なのに王子にフラれる今までの人魚姫が変だっただけで。

本当は魚の中では美人とされる半魚人顔の姫だからフラれたのが正しい、という解釈なんじゃないか

シンデレラとか平民出身王族結婚する話は存在するし、

問題身分じゃなかったんだ。顔なんだ。みたいな。

2022-09-22

黒人異世界転生ものを書けばいいんだよ

アメリカで(本当かどうかは知らん)、黒人女の子達が自分達はプリンセスになれないと思っていたけれど新作の黒人アリエルを見て喜んだらしいけれど

そもそも人種がどうこう以前に、人魚姫って元々王の娘に生まれなければなれないナチュラルボーンプリンセスなんだから

庶民に生まれた時点でそれは無理なのが分かるじゃん

日本人女の子だって人種が同じだからと言って自分かぐや姫になれると思ったりしないでしょ

卑弥呼にも、静御前にも千姫にもなれない

日本人女の子からしたら対象日本人プリンセスだろうが白人プリンセスだろうが「憧れ」はあっても「自分もそうなれる」なんて思ったりはしないし

それって多分白人女の子だってそうだと思うんだけど(殆ど白人少女プリンセスでも何でもないんだから)、何故か黒人だけは違うのか?


日本だと悪役令嬢ものとか処刑回避ものとかで、女性向けの異世界転生も流行ってるじゃん?

日本女の子だったら創作物に出てくる白人プリンセスに憧れた場合、今の自分自身がそうなるのは無理だと分かっているか

夢見るとしたら「生まれ変わってプリンセスになりたい」だと思うんだよねー

黒人女の子はそれじゃ駄目なの?異世界転生でプリンセスになる創作物を楽しめばいいじゃん?キリスト教世界には輪廻転生概念がないから駄目なの?

2022-09-16

白人の中の馬鹿にされる系マイノリティであるチリチリ赤毛の女が輝く場のひとつであるところの人魚姫黒人で潰して喜んでいる図を黄色人種がわーわー是非を問うという絵面よ

2022-09-12

実写アリエルについて、ポリコレ批判差別へのお気持ちも全部だるい

実写版リトルマーメイドPVが公開されて話題になっているのを見た。

https://www.youtube.com/watch?v=eqcG8uBsp4U

 

ツイッターで「アリエル」と検索したら様々な意見がある。歓迎のコメントも多いが批判的な意見の方が目立つようだ。

自分も思うところがあったので書いてみる。

 

自分が(これはどうなんだ…)と思ったコメントは主に2種。

①「これだからポリコレはクソ」

②「これは意義あるキャスティングだ」

 

自分は、「公式がこれでいくと決めた」という事実が全てで、それ以上でも以下でもないのでは?と思う。

ポリコレ差別問題配慮しました!なんて制作陣は言っていないのだから

制作陣が「君がアリエルだ!」と肩を叩いたのがHalle Baileyだった、という話でしかない。

 

 

アニメアリエルと似てなくてショック」という意見はとても多かった。

それは大いにわかる。ファンにとって公式解釈違いはめちゃくちゃ辛いだろう。

熱心なファンでもない自分ビジュアル違和感を覚えた。

不満な人は好きなだけ不満を持っていいと思う。

 

これに対して「元々ディズニー原作人魚姫をなぞらえていない」「人魚人種はない」というコメントも多かったが、

アリエル名前を使って「リトルマーメイド」をリメイクしてるんだから、そりゃあ辛いのはアリエルファンでしょう。

そもそも人種問題ではなく「大好きなアリエルビジュアル面で再現されていない」のが不満なんだから

 

肌の黒い少女PVを見て興奮&感激している動画もあった。

誰かの喜びや勇気になったことは喜ばしいことだから、それは本当によかったね!と思う。

 

で、問題はこの先。なぜ彼女が選ばれたのか?という話で嚙み合わない喧嘩が本当に多い。

「今の子供たちの希望

「また配慮かよ、ディズニー終わったな」

「このキャスティングに不満を抱く人間時代遅れだ」…

いやいや、「自分は気に入る・気に入らない」というだけの話では!?この感覚おかしいのか?

 

なんで彼女が起用されたか理由なんて語られてないのに批判擁護も決めつけが目立つ。

歌が素晴らしかたから。演技が良かったから。肌の黒い子もアリエルのなれると伝えたいから。

制作側はそんなことひとつも言ってない。叩きたい意見を叩くために公式意思妄想で語るべきではない。

 

黒人差別の類や役者への誹謗中傷は論外だし糾弾すべきだ。

でも、解釈違いは差別ではない。そして黒人から配慮」でもない。

公式が「リトルマーメイド」をリメイクするにあたってアリエルにHalle Baileyを抜擢しただけだ。

そこは間違えてはいけないのでは、とモヤモヤしたのでこれを書いた。

 

フィクション歴史再現まで現実理想表現しなくてはならない、とは思わない。

誰かを貶めない限り、ファンタジーも、各々の「理想」も、自由であってほしいと願う。



 

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