はてなキーワード: ルイージとは
スーパーマリオブラザーズの映画について、公開前はルイージがさらわれてピーチ姫が戦うからポリコレだと叩いていたくせに公開後はポリコレじゃないからヒットしたと手の平返して主張してる、と言われてるけれど
少なくとも私は全く見た記憶がないんだよなー
マリオ映画って、公開前はソニックと比較する意見やよくあるハリウッドのアニメ映画としてスルーする程度で
アメリカで公開されて大ヒットという話が入ってきた後は確かに「ポリコレゴリ押しじゃないから流行った」という意見は増えたけど
公開前はほぼ無風だったと思う
これって水星の魔女も同様で、オタクは放送前は主人公の肌の色が濃いからポリコレだと叩いていたくせに放送後は手の平返して称賛してる、というツイートもよく流れてくるけれど
私は放送前にそういう叩き方をしてるオタクを見た記憶って全然ないんだよな
(もっとはっきり褐色の肌のガンダム主人公ならターンAが既にそうなので
ちなみに「眉毛が太くて可愛くない」という意見は見た記憶があるので
何故か現実世界から始まるとか(別にマリオの映画でリアルな現代アメリカなんか求めてないんだが…)
マリオは何をやってもダメで父親からも見放されている、と言う設定とか(そもそもマリオに両親の設定なんてあったっけ?)
マリオがブラコン過ぎるとか
ピーチ強すぎとか(どう見てもポリコレ配慮だしもはや別人、まあ個人的には従来通りのピーチは魅力ないからこれでいいけど)
別にドンキーの映画じゃないのにドンキー出張り過ぎじゃね、ルイージより目立ってたぞとか
青い星何なんだよとか(調べたけどマイナーキャラな上に元々そういう性格なわけでもないんだよね?
あれは何なんだ?子供向けの無難キャラ・無難台詞しか出さないなんて嫌だという製作者の自己主張か?)
ファンムービーと言う割に違和感が強くて、これ原作がもっとうるさいオタクが粘着してるようなコンテンツだったら炎上だろと思った
元々マリオに大して思い入れがあるわけじゃないから何か違うなーで済んだし多分大多数の観客がそうだから皆気にしてないんだろうけど
(ってか吹替版だったから子連ればっかだった、コナンに興味がない子供のGW映画の選択肢がこれしかないってのもあるよな)
映像が良かった。このシーン、このアイテムの映像解釈がこうなるのか!という驚きの連続。BGMや効果音のさりげないアレンジも良い。
楽しい場面も多くて映画館で何度も笑いが漏れてた。間が絶妙なかんじ。
ピーチ姫のアクションがカッコ良い。ギャルっぽい話し方に最初違和感を覚えたけど格好良いから100点満点です。
映画批評家の評価が低いらしい。これはポリコレは全く無関係で、映画のセオリーを無視した脚本だからだと思う。
映画の脚本術は3幕構成とかセーブザキャットとかいろいろあるけど基本的に「主人公が挫折するパート」が必ずあるはず。
この映画を「普通の映画」にするとこんな感じになると思う(太字が改変部分)
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はピーチ姫は裏切っていた。「ごめんなさい王国を救うにはこれしかなかったの」罠にハマり捕まるマリオ
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はルイージが裏切っていた「いつまでも兄貴ヅラするな。僕はお前が嫌いだったんだ」ルイージに叩きのめされ失意のマリオ
6. 再び立ち上がりルイージと対決。溶岩に落ちかけたルイージの手を掴む。「お前がどう思おうと、僕にとっては弟だ」
上の5に相当する挫折パートがないんですよね。批評家が違和感を覚えるのはその辺かも。
ただ、これはファン向け映画なのでマリオキャラの仲間割れとか過度なドラマはファンは求めていないと思う。だからこれで良いんだ。
いちおう、ドンキーとマリオ主人公の「バディとの友情」としてみるとだいぶセオリー通りな感じなのですが・・・ドンキーはマリオの登場人物でないからうーん???友情出演と思って見ていたのに中盤であれ?こいつシナリオ的にメインキャラだなって
これ。
ようするに「スーパーマリオの映画には、別にマイノリティが出てこないし、人種差別もLGBTも差別問題も出てこない」
ということ。
つまり、アメリカの映画評論家が突きやすい社会問題が投影されていないということだ。
という話だ。
娯楽作品に何でもかんでも社会問題を入れるのは、それが作品に作用することはあるが「絶対的なルール」ではない。
差別に苦しんでいる人間以外にも、娯楽作品で楽しみたいひとはいっぱいいる。
マリオやルイージの住むスーパーマリオの世界は、いわゆる「バカでのろまで、失敗続きの優しい二人が、勇気を出して困難に立ち向かう」
という映画だった。
わかりやすい被差別のアイコンは出て来ないが、十分普遍的なテーマだったと思う。
ゲイでもトランスジェンダーでも、有色人種でもないが、上手く行ってない、社会から軽んじられている二人の物語だった。
多くの観客は、それで十分。
なぜなら、その二人は、かつて自分の分身として、ゲームの中で悪戦苦闘をともにしてきた、古くからの友人だからだ。
それ以上は余計なものだった。
オープニングの前の任天堂のスーパーマリオのシーエムで泣いてしまいそうなほどそんな思い入れは無いんだけど
もうあれはひっちゃかめっちゃかの1-1のステージにクッパが何匹もバトル勝ち残っている終盤には出てくるというカオスさがスーパーマリオなのね!って思って
Switchで色々遊べるスーパーマリオがあったのでそれで遊んでみたぐらいの私のスーパーマリオ歴なんだけどね。
なんかでもゲームの画面がそのまま動いてこれもうゲームにしても面白いのかもね!って思うぐらいなワールドで
あれだわ、
スーパーマリオランのキノコ王国!ってあれがもっと密度がギュッとキノコ王国を集めた感じの景色だったのよね。
自ら文字通り私自ら出る!って勢いで戦いに行くあれファイヤーピーチになるとき服の色が変わるのが最初意味が分からなかったけど、
ああ!そう言うことねってマリオもファイヤーマリオになるのと同じ理屈なんだわ!ってプログラムをあとで読んで腑に落ちまくりまくりまくりすてぃーだったわ。
私が好きだったのはファイヤーフラワーのお花畑が綺麗だったし、
ドンキーコングと戦うときのステージにはてなブロック叩いてアイテムゲットしたんだけど、
あと、
ノコノコが意外と強いってことよ。
おまえそんなワザ秘めていたんかーい!って
踏んづけて蹴飛ばされるだけじゃなかったんだわ。
あんた強いのね!って言って言えそうなレヴェル。
総じて良かったけど、
私もSwitchで遊べるマリオをやろうと思って遊びたい気持ちはあるんだけど、
今はスプラトゥーン3のヨビ祭中だし、
もうさ、
昨日は勝てず調子悪くこんな時は寝るに限るわね!って調子だった。
うふふ。
渋々と思いながら食べるのは良くないわね。
お茶を入れるガラスの容器と私がルービーを飲むガラスのコップがそれを使うと足りなくなるので、
また私の好きなガラスのコップのことについては書くわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーを見てきたので感想を残しとく。
[視聴環境]
[事前情報]
世界興収がスゴイらしい。評論家からの評価は悪いらしい。吹き替えはマリオが宮野守でルイージが畠中とかいう奴らしい。予告チラ見した感じ、声が微妙だったので字幕でみることにした。
[どんな話か(うっすらネタバレ)]
現代のニューヨーク在住の冴えないイタリア人配管工の兄弟が、ひょんなことから異世界(マリオワールド)に飛ばされ、キノピオ、ピーチ、ドンキーコングとともに悪者クッパを倒そうとするお話。
[総評]
普通に面白かった。良くも悪くもファンムービー。映像的な革新性、脚本の秀逸さ、思わず吹き出してしまう小気味よいジョーク、心動かす感動的なシーン、胸が熱くなる激アツ展開、などはない。
かといって出来が酷いわけではなく、一応どれも及第点は取れてる、と思う。(脚本はかなり雑で突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるけど、子供向け映画にマジになっても仕方ないよね)
[おすすめ度]
劇場で何度も見たくなるタイプの映画ではないけど、人生でマリオのゲームに触れたことある人なら一回は見といた方がいい映画だと思う。
[誰向け?]
万人向け。マリオのゲームをやったことある人なら、小さい子連れのファミリーから、デートムービー、友達グループ、独り身の暇つぶしまであらゆる層に対応してる。
[グロ度]
なし。ただしギャグ演出として暴力的なシーンが多用されている。痛々しい演出は多め。(例:手をピアノで挟む)
<良い点>
・キャラクターのモーションやSE、BGMが原作を忠実に再現していて楽しい
<悪い点>
それに加えて各シーンの演出や各エピソードの繋がりがとてもご都合主義的。
どのような「ご都合」かというと、「原作のこの絵を再現したい!」→「じゃあこういう展開でこういう演出にしましょう!」というのが明け透けに見えている。
たとえば、「ベビーマリオを出したい!」→「ルイージに幼少期を回想させよう!(何の脈絡もないけど)」みたいなのが盛りだくさんとなっている。
原作再現が最優先なため、伏線を先に引いて、後で回収する・・・というのがほぼない。
ピーチ姫がSWのレイみたいになってたり、キノピオが陽気な友人キャラみたいになってたり。どれもハリウッド映画に出てくるお決まりのキャラではあるけども。
<まとめると>
どのシーンにも「物語上の必然性」がない。かわりに「原作再現上の必然性」がある。
だからマリオを知らない人が見たら「なんでそうなる???」「唐突・・・」「最初からそうしとけばいいのに・・・」「無理矢理だなあ」「この人たち出てくる意味あった?」「え?なんでみんな普通に受け入れてハッピーエンドみたいになってるの?なんか説明合った?」「こいつは一体なんなんだよ」と突っ込みどころ満載かもしれない。
が、それもこれも原作再現を楽しみにしてるファンを思ってのことだと思うので悪く言うつもりはない。
最近の欧米主流のポリコレにうんざりしている人達が(全員がそうではないにしても、大半が)
忌み嫌う「ポリコレ」というのは、
元々の作品にないのに後から無理矢理改変や追加をして、さらにそれがあまりにも不自然で違和感あるものを指しているに決まってるじゃん
マリオ映画がポリコレじゃなくて良かったっていうのは、あくまで原作のゲームの設定を維持してくれていて良かったという意味だよ
マリオを黒人にしたり、ルイージを日本とも韓国とも中国ともしれないアジア系にしたり、クッパをゲイにしたりしないでくれていて良かったっていう意味だよ
(リトルマーメイドの実写版の話題で)「赤毛はマイノリティじゃない!アイルランド系はマイノリティじゃない!」「現代アメリカでは有色人種の方が多数派なんだから現代アメリカの人種構成に合わせるべき!」
(スーパーマリオの映画の話題で)「ブルックリン在住のイタリア系の配管工だからポリコレでヨシ!」「マリオは元々ポリコレ!変える必要なし!」
いやいやいやいや、イタリア系がマイノリティならアイルランド系もマイノリティだし
ブルネットのマリオがポリコレならば赤毛のアリエルもポリコレでしょうが。
リトルマーメイドに使った理屈で言うなら、イタリア系の配管工がマイノリティなのが発表当時はポリコレ的に正しかったとしても、
30年後もそれを引き摺っているのは反ポリコレになるじゃん。
現代アメリカの人種構成に合わせてマリオも黒人にしなきゃ駄目でしょうが。マリオを黒人にしろとかマリオとルイージを兄弟じゃなくてゲイカップルに改変しろとかって騒がなきゃ駄目でしょうが。
大ヒットした映画にすり寄りたいがために無理矢理『マリオ映画はポリコレ』という事にしたがるってあまりにも卑怯。
マリオやルイージの肌の色はピーチ姫と同じで普通に見たら単なる白人でしかないのに、イタリア系だからマイノリティ要件クリアヨシ!にするなら、リトルマーメイドも赤毛のアニメ版のままでOKだろ?
ラテン系俳優ジョン・レグイザモ、アニメ版『ザ・スーパーマリオブラザーズ』を批判 「包括性の点で後退」https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a43690055/john-leguizamo-would-consider-super-mario-bros-230425/
で、過去の実写版ルイージ役の俳優が批判してるんだけど、お前イタリア人じゃなくてコロンビア人じゃねーか
130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。
見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。
主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画にありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。
あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。
でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。
こういう映画ってたまにあって、それは自分が言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。
じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。
主人公マリオはニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民で大家族で暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。
会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。
おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。
映画になって肉付けされたこのマリオ像ってのは、結構好感度ありました。
主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。
それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。
これらは映画を含む既存のストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマの類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます。内面の問題や弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品の王道ですから。
歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。
そういう歴史あるテーマの歴代傑作の洗練に対して、この映画のエピソードづくりや演出が最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸なファミリー映画」ですらある。
たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家と一般ユーザーの間で、この映画の評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。
あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディアは物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定をちゃんと払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実の問題が駆逐されるなんてことはなかったわけです。
でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。
それは成功体験です。
問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!
そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲームの本質はこれで、これでしかないんです。
何か挑戦すべき課題、突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲームの世界を調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。
「努力すればなんとかなる」。
そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要な価値観が込められていることがわかるでしょうか?
スーパーマリオの歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲームの歴史です。そして、ビデオゲームの歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージの歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。
前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存の物語メディアの、少なくとも映画の文脈で言えばそのシナリオや演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。
つまり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオと任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。
マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオは映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。
それをマリオは「スマートに物事を解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。
それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲームの主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。
そう考えてみると、この映画の白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオがピーチ姫への同行許可を得るために、練習用コースに挑戦した部分だったと思い出されます。
マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。
そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。
でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題と勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンにクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワーに覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃんと理解できるのです。
ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者の理解や感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画もドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲームの文脈を抱きかかえることができた。
映画もゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。
+30点はあるよ、ちゃんと実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観をゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。
マリオとドンキーコングが到着し結婚式に参列していたでかいボム兵を炸裂させる
キラーがマリオを追いかけマリオが誘い込んだ土管に入り異空間で大爆発する
土管に何もかもが吸い込まれマリオたちもクッパ城もブルックリンに飛び出す
ピーチ姫がスターを弾き飛ばしマリオが取ろうとするがクッパが火を吹く
クッパの火をルイージがマンホールの蓋で抑えマリオとルイージがスターを取り無敵状態で軍団とクッパを倒す
ペンギンの城がクッパ軍団に襲われクッパの火炎でハテナブロックがむき出しになり中身のスターをクッパに奪われる
王を含めペンギンたちはカゴの牢屋に入れられ溶岩の上に吊るされる
ブルックリンの配管工マリオブラザーズがテレビCMを流し始めたら豪邸から水漏れ修理の依頼が来た
豪邸で飼われてる犬の骨を踏んで折ってしまい犬に嫌われ豪邸の洗面所で大喧嘩して洗面所の配管が壊れる
家族の夕食の会話で凹むマリオがテレビを見るとブルックリンの配管が壊れて大洪水
マリオが活躍しようとルイージを連れて下水道に入るが元栓のバルブが壊れてしまい衝撃で更に地下に落ちる
何年も使われていないような地下道の土管にルイージが吸い込まれマリオもそれを追うと異空間に飛ばされる
途中でルイージは赤黒い雲に飲み込まれマリオはキノコ王国に辿り着く
キノピオに出会い兄弟を探していると言うと姫に会うよう勧められる
愉快な町並みを通り城に行くと門番に止められるがキノピオが料理を振る舞いマリオがその隙に忍び込む
衛兵に見つかり大捕物になるも姫に会いやっときた人間であるマリオは一緒にクッパ軍団を迎え討つことになる
城にあるステージでキノコを食べ機械仕掛けのパックンフラワーなどを相手に特訓してマリオがやっと強くなり旅立つ
ピーチ姫は人間で2歳の時に土管から迷い込みキノコ王国で育ててもらい姫になった
クッパ軍団に演説するクッパの狙いがピーチ姫と結婚することだとわかる
ピーチ姫とマリオはクランキーコングに謁見して兵隊を借りようとするが一笑に付され息子のドンキーコングとマリオの対決になる
ドンキーコングの鉄骨ステージでマリオが青キノコで小さくなったりファイアフラワーを取りそこねたり苦戦する
上に殴り飛ばされたマリオが復帰しハテナブロックを叩きネコマリオになりドンキーコングに勝つ
ドンキーコングとクランキーコングのカート軍団を引き連れてレインボーロードに入るがクッパ軍団が襲いかかる
ピーチ姫が弾いたキラーが浮島を破壊してレインボーロードが壊れマリオとドンキーコングが海に落ちクジラに飲み込まれる
ドンキーコングたちはクッパ軍団に捕まりペンギンたちやルイージと同じ溶岩上の牢屋に吊るされ青チコが死は救いと言う
ピーチ姫はキノコ王国の民を避難させキノピオとクッパ軍団を迎え討とうとするがクッパにキノピオを拷問され結婚することにする
クジラの腹の中でドンキーコングのカートが見つかりタル大砲に乗ってマリオとドンキーコングはピーチ姫たちのところに向かう