はてなキーワード: イノセントとは
もう癖になってて射精する直前に「この売女が!」って言ってから射精することを半ば強いられている
断っておくけどセックスワーカーは立派な仕事だと思うよぶっちゃけ
中学生の頃に友達が同級の女の子と喧嘩した時に「この売女が!」って言ってビビった記憶があるんよ
「えー!!お前そんなこと言っちゃうの!」って
ただ後から訊いてみるとその友達は「売女」っていうワードをとある漫画で知ったらしく女性に使う悪口ってことは知ってるけど意味までは知らなかったんだよね
だからその友達は漫画で知った台詞を使ってみたかっただけのイノセントボーイだったんだな
ただその時の鮮烈な体験が未だに俺の記憶の深い部分に突き刺さったままなんで、なぜか射精するとそれがトリガーになって「この売女が!」っていう台詞がせり上がってくるんだよ
俺はこのAV女優さんにどんだけお世話になってんだよって
なのに「売女」とはどんな恩知らずだよと
まあたぶん俺のこの悩みって人類にとってかなり普遍的な悩みなんだろうけどね
内容はともかく癖が治らないっていう意味においては
癖との付き合い方って難しいよね
プロジェクトXのノベライズ本を選んだ時があってその時はいたく担任に感心されたな。
てかさ、俺の増田は自意識過剰すぎて本選びすら優柔不断だったって話なんだよ。ちぐはぐなトラバでもやもやすんなあ。
結局のところプロジェクトXの時もしんどかったよ。
しかも褒められてその場ではちょっといい気にはなったけど、結局その本を選んだ経緯とあらすじと当時の情勢の説明で原稿用紙が埋まってるような代物で情けない気持ちも強かった。今でも思い出しただけで恥ずかしい。
経験に照らし合わせると俺はどの年でもどんな本選ぼうが苦悶していた。
繊細さを踏みつけにされながら自意識を癌細胞のように肥大させてた俺の様な児童がいたとして
それこそ「自分ならどうするか」「この本の人たちのように行動できると思えない」「本の人たちは困難に立ち向かって社会を変えられて本当にすごい」「自分もこうありたい」って理想的なことを簡単に書ける
というようなテンプレ優等生解答を書き綴ることは受け入れられないし
「それが『面白かった』『つまらなかった』レベルの感想より深みのあるものなのか?そんな虚無の塊みたいな人間を俺は演じないといけないの?」みたいな反発心を抱くんじゃねえの?実際俺はそうだった。
これは今でもそう感じてしまうことなんだけど、藤井聡太だとかの神童みたいな扱いされてる未成年が公の場で話してるの見て「若いのにしっかりしてんね」みたいな反応する奴に凄くイラッとするんだよ。これぐらいの月並みな挨拶やスピーチできる子どもいくらでもいるからって言い返したくなる。
だって「がきなんて未熟だから思想とか人格なんてろくにあるわけないでしょ」って普段軽んじてるから「若い割になかなかやるじゃない」っていう上から目線な褒め方になるわけじゃん。
フラットな視線から見て純粋に素晴らしいと感じたから褒めてるってわけじゃないんだから投げかけられた方は面白くない。更に言えば、褒めた(つもり)の方は受け手の人格が酷く幼稚で単純な物だと考えてるからそれで喜ばない方がおかしいぐらいに思ってるし、自覚していても子どもが見抜いてくることはないと思っている。
こういった感じの大人に誰が見てるわけでもないのに愛想よく振る舞う秀才が、子どもの頃の俺には滑稽に見えた。優等生的な回答で卒なくこなすことが二流でかっこ悪いものに感じたんだ。
テレビとかネット見たら10代で自分のスタイルを確立しているように見える人がいくらでも見つかるわけじゃんか。だって子どもがそんなん見て憧れないわけないじゃん。
で、俺の時代は10代作家を持て囃すブームがあって綿谷りさとか羽田圭介、乙一なんかに衝撃受けてたからなおさら読書感想文に気合入れたんだよ。今の子にもこういう文章がかけたらいいのになって憧れの対象はいると思うけど違うかな?
とどのつまり作文とか読書感想文書けない子ってイノセント故に志が高すぎるのかもな。
俺はもう中2くらいから開き直ってこういう類の課題は「高校もろくに通ってないおバカ系アイドルのブログ」とか「小学3年生が祖父母に宛てた手紙」みたいな想定でわざと雑に書くようにしてた。
アメリカやイギリスにいたときの経験だが、現地の人間から「なにかをを言われる」ということがある。これが結構曲者で、こちらがハッキリとは分からないような言い方で、私を馬鹿にしたことを言っているようである。
彼らは時にこちらをニヤニヤと見ながら、あるいは視線を合わせず冷ややかな態度で何かを言ってくるのだが、言葉が聞き取れることもあれば、そうでないこともある。聞き取れる場合でも、それが分かり易いような侮蔑的な言葉遣いであることは寧ろ稀で、仮に文字にすれば普通の発言なのかもしれないが、発言がなされた状況と彼らの態度の組み合わせから、彼らが馬鹿にしていることが、何となく分かるのだ。私自身(男)について書いておくと、私が海外で過ごしたのは二十代の後半である。英語は、TOEICで測ると日本で一般的によいとされる水準は超えていてフォーマルな会話はできるのだが、日常のナチュラルなスピードの会話は比較的聞き取れない、というよくある日本人男性だ。派生形として、日本人(の主に女性)に対して少し馬鹿にしながら話しかけて、日本人のイノセントな返答に対してわざと通り一遍の「会話」をし、(内心?)馬鹿にしながらその場を去る、というのもある(気がする)。確信はないが、特にヨーロッパで日本人旅行客が「現地の人がフレンドリーに話しかけてくれて」と書くエピソードの幾分かはこれでないかと思う。
別にオチのない話なのだが、「人種差別」という大上段のテーマに対し、日常的に経験する外国人としての居心地の悪さというものはこういうものだ、ということを、ふと思い出したので書いてみた。
母があの子がインタビュー答えてるのみて「若いのにしっかりしてる」とか言ってて年甲斐もなくちょっとイラっとしたのな
あの子は普通なら見とがめられるような生活能力の低さを自らの才能と品のいい私立校に通っているという事実でねじ伏せてしまっていることが凄いんだ
この場合「やっぱり天才って浮世離れしたとこあるね」というのが正しい反応なのだ
人に気を使って周囲との調和を意識し集団を束ね他人からの期待に応えることをモチベーションに毎日ちまちまタスクをこなすようなたまではないのだ
己のイノセントな憧れや欲求がぶれることのない芯としてその体に備わっていて情熱のほとばしるままに鍛錬を重ねひたすら邁進しつづけるのである
たとえ国家の威信を背負うようなことになっても土台はそうであってほしい
何か勘違いしているようなだ?
だから、自分の性別がどうであれ、育った国がどこであれ、2次元コンテキストに精通すれば、「2次元のXキャラ」をそういうものとして消費するようになることはまったく自然だしイノセントだ。
2次元のキャラが自我を持って3次元の現実世界の政治に干渉してくるようになった時に、あらためてけしからんとか気持ち悪いとか考えれば良い。
今の所はそんなことが起こる兆候は一切ないし(Vtuberなんかは見かけ上それっぽい演出であることはあるが、あくまで「ごっこ」だ)。
すべてのキャラクターは現実の人間がエゴを投影して好き勝手に創造し都合良く演じさせているお人形であって、お人形ごっこファンな我々はあくまでお人形ごっこのノリで楽しまなければならない。
赤ちゃんの相手をするときは赤ちゃんレベルに合わせるように、時に知能を退行させて現実と分離する振る舞いも、高度で適応的な振る舞いなのだ。
ワイもイノセントボーイやったんや
いい感じになった人に言われた
わたしは海外に住んでいていまコロナだから、送り迎えありのおうちデートしてた。家で料理したりね。(こっちでは料理作ってあげるのって結構あなたのこと好きですよって感じ)
ちょっとまてーいと思って、
わたしのこと好きなの?って聞いたら
「そうだね。
正直にいうといつもだったら1回目のデートでセックスするけど、可愛くてイノセントだったから出来なかった。
でも僕は2年後まで彼女を作らないんだ」
って言われた
30になったら仕事をやめて世界中を旅して、そのあと東京に住むって決めてるんだって。
起業家なんだけど、自分の人生はこうだって決めてるんだって言ってた
あとは、彼女にレスポンシビリティ持ちたくないってよ。時間を作ったりするのがやなんだって
あなたがそう感じるのは間違いでないし、感じたことをそのまま言うのもイノセントな行為です。
そう感じたことを「感じるな!」という行為は間違いです。もし「感じるな!」という声があったのなら、それは間違いですので安心して無視してください。世の中には間違いはありますし、誰もが間違いを犯します。
他方「表現」とは常にそういう「快不快」を孕んでいるものであるのも間違いありません。
絵として、言葉として表現すると、それがいいなと思う人もいれば嫌だなと思う人もいるわけです。大多数は「無関心」ですが(悪いというのでなく現実として)。
嫌だな、と思うことはイノセントですが、それでそれを封印できるかどうかは別の問題となってきます。
ではどんな表現が封印されるべきことなのか。これは現実としては「声の大きさ」で決まります。裁判はできませんからね。
何某か表現を規制する方向に動くとき、ここに抵抗が存在します。これは実に自然なことです。無関心な人も、規制するならちゃんと説明しろと思うわけです。これもまたイノセントなわけです。
だからみんな頑張って文句言っているわけです。これを社会の潮流とされちゃたまらん!と双方思うわけです。
そうして声の大きさが拮抗したときに、炎上するわけです。明らかに問題のあるものは抵抗が少ない。微妙であればあるほど拮抗して炎上する。不幸な話です。
今世間は、インターネットの双方向通信により企業は安全サイドに倒すようになっています。安全とは「規制・封印」です。自然なことです。
封印は抑圧を産みます。これも自然なことです。「なにがわりーんだよ」となる。当然ですね、そう感じないのですから。自然なことです。
その抑圧が正しいものなのかどうかは、判断は非常に難しい。抑圧の結果社会に不利益が出るのかどうか?これは予想するしかない。歴史に学ぶことも必要でしょう。
相手の人格までを否定するのは間違いだと思いますが(本能の否定も人格の否定になりますし、「感じること」の否定もそう)、互いが互いの意見を逮捕されることなく述べ合うことができるのは、ある意味では健全といえるでしょう。
第一弾と第二弾見て、違いはぶっちゃけあったと思うよ。パッと見の印象という意味でいわゆる「煽情的加減」は第一弾の方があったとは思う。もともと本売るための表紙だしね・・・
で、第一弾がそもそも規制を必要とするほどの表現なのかと言えば、俺はそうは思わないなぁと思う。そう思うなぁという人もいたと。その人数に男女比はあるかもしれないがデータはないし男女双方の感じ方をした人はいただろう。
問題の本質は結局「程度の線引き」の問題になると思ってるんだよね。俺は。
もし町中のどこに目をやってもあのレベルのポスターしかない!だったらまあちょっと偏ってんなーと思うけど、公共の場とは言え一部にしかないんだったらまあ苦笑いで終わりじゃねーか?と思う。
またあれ以上のレベル(例えば裸だとか)なら一部にしかなくても「やめとけ」と思う。
じゃあその「程度」って何ですか?というのは、本来は性欲求構造からひも解く必要があるはずなんだよね。
というのは、どういうものがイノセント/ギルティなのか、というのは、結局人間に刻まれた本能の行動と結果により決まる。
やりたいからレ〇プした、なんてのはギルティだよね、身勝手すぎるよね、と。
逆に性欲求を抱くことを糾弾するのはギルティだよね、不可能を強いてはならないよね、と。
で、そこから線を狭めていって「程度」のラインを見つけるべきなのに、「俺は私はこう思う」だけ言っててもそれお気持ちじゃん、としかならない。
で、ここで発言の強弱の問題が出てきて、発言強者の意見が通ればそりゃ別の気に食わなさが出てくるよねと。だって「程度」を一方的に決めるんだから。
※一部の人でも不快に思うならやめろ!っていうなら、今すぐすべての小麦製品の広告を取り下げてほしいと俺は思うわけ。俺は毎日苦しんでるからね。でもそんなことは言わない。だって俺のためにみんなの商売を邪魔するわけにはいかないじゃん。苦しさで言ったら宇崎イヤイヤより俺の方がずっと上だと確信してるけどね。と、この話をしてしまうと論が発散するので愚痴はここまで。
毎週毎週、来週こそおもしろくなるのかなと思ったら、あまりおもしろくならないまま終わってしまったw
かといって、これは駄作だ!とプンプンするほどつまらないというものでもなかった。なんといったらいいのか……もっと時間かけて、全52話くらいでやれば面白くなったんじゃないかなぁ。
ベラが人間の男の子に恋する回はちょっと面白かったな。妖怪人間三人組のキャラが立ってる感じだったし。
終盤になって、ベムがイノセント過ぎてお前マジ天使かな?って感じの性格だと判明したのズルい。もっと天然ぶりを見ていたかった。
『妖怪人間ベム』の50周年アニバーサリー企画のアニメだそうなので、『BEM』が今後『BEM』として再アニメ化することはもうないだろうなと思うけど、しかし私はもっとお金と時間をかけて作り直して欲しいなと思う。
誘導員は基本的に、勤務前日に会社からもらう勤務指示に従って現場に派遣されて来ている土地勘も何もない人なので、工事の迂回路以外の道を聞かれても基本的に分からない(そもそもイベントの警備でも限り道案内は業務に入ってないので道聞かれて素直に答えるのは給料関係ないただの善意)
意識の高い誘導員は事前に現場周辺の地図をグーグルマップ等で調べて道を聞かれたときに備えているらしいが、正直サービス過剰だと思うしそれが基準になったら嫌なので止めて欲しい
工事の影響で狭くなったり視界が悪くなったりしてしまった歩道に立ち、自転車が歩行者や対向車とごっつんこしそうになる前に誘導する現場がいくつかあるが、そういう現場でよく見るのが、歩行者の背後に無音でぴったりついた自転車だ。たぶん眼前の歩行者を轢き殺したくて仕方がないが誘導員の目があるのでぎりぎりで抑えているのであろう。もしくは死ぬ程シャイか。
いや誘導員が「後ろから自転車来てますよ」と声をかければいいのだけれども、運転しているのはお前なのだから、もし轢く気がないなら自分が後ろにいることを前の人間に知らせてくれ。轢くなら俺の仕事とは関係のない場所で轢いてくれ
キッズでも偉そうな中年男性でもジジババでもなく若い女性が運転する自転車が大型の工事車両より遥かに怖いのこのバイトで初めて知ったのだけど、マジで何で?
総じて、世の中にイノセントなタイプのバカがこれほど多いと知らずにイノセントを相手にするバイトを始めた自分が悪いのだが、それにしたって誘導棒振れば素直に止まってくれるDQNカーより自転車の方が危ないなんて普通に生活してたら気付かないだろ…
ヴィヴィアンウエストウッドの長袖ポロシャツに首元にゆるく巻いたスカーフ、隣の清水ミチコは強いパーマが全体にかかったショートヘアでツバの大きい帽子をかぶっている。
ファッションにしても時勢にしても、あぁバブルとはこういうものであった...と思い起こさせるものがある(当時子供だったので具体的にはわかっていないが)
相方浜田は何も変わっていないようにすら思える。しかし松本人志は全然違うのだ。
ウンナンをウッチャン、ナンチャンと呼び、誰かがボケたことにすら大真面目に「せやんなぁ」と呟いて流している。
決してキャラが変わったわけではなく、当時からちょっとマニアックな人という認識ではあったはずなんだけど、今見返すと「まっさら」という言葉が似合うイノセントぶりだ。
ついでに関連で出てきた、番組終了から1年半後、当時ニューヨークにいた野沢直子に会いに行くという段になって初めて、パスポートが失効しているからと言いつつ、あんな十何時間もかけて、どうして言葉の通じないところにいかなくてはいけないんだ、と言ったところでやっと、今の松本人志を形成している頑固さの芯のようなものが見えて、そこで見るのをやめた。
俺は人であった頃、故郷の小さな城下町にある古代言語学塾に通っていた。
塾の先生はメイプゥルという聖なる力に保護されし連邦帝国ダ・ケナディア出身で、この街で日本人の魔女と結婚している。
塾生はパルスの放埓な神の恩寵を受けし者であり、一節には先聖のペルソナもあり、何とも悠久の時を感じた塾だった。
古代言語学塾の聖地は町にある民家を貸室に違法改造したモノリスの貮階層《クラス》の一室で、一階は大人がヨルムンガルドのハングアウトとして使役(スレイヴ)していた。
若干アトモスがダークなところで、小中と通った俺……いや、『黒騎士』は密かな中二心をクリスタルの光で抱いていた。
聖ベベル宮は何回か変遷したけれども、過ぎ去りし時に刻まれた安息の地を借りてその時を待ち侘びていることが多かった。
覇道を制御していない民家の一室であることが多かったと預言書にも記されているように思う。
定められし『刻』、霊廟に進入すると、先生はゲームボーイヴァルハラをしていた。
正確に言うとゲー・ムスヴォーイン“青竜”の異空間をブレイズオンしていた。
「お元気ですか……”彼女”の前でも、同じ事が言えるか? 元気だよもう一人の僕は…とでも言わせる気かね? 悪くない(…ま、嘘だがな…)!」
戦い続けて問う。
「ドラクエ2と呼ばれる太古の大厄災」
俺は超越娯楽の始原でやった真理<ファティマ>があるゆえ、預言書に記された旨を話す。もちろんヌフォン語だ。
「一振り仮初めの探求がある」
「なんですか……俺を、殺すんだな?」
神々の遊戯をやったことのある罪深き種族はご存じだと思うが、かの紋章は他と比べて我らを導きし物が少ない。神の瞳<ヘヴンズ・アイ>で見れば無垢<イノセント>みたいな禁域にある。
太陽の支配者(サン・オブ・サン)の万魔殿をくまなく探さなくてはならない。後の幻想薬の使用では妖精の導きが増やされた箇所だ。
俺も弟と共に一歩ずつ希望を求めて、ついに「あの伝説の場所」を見つけた。
先生はアロゲネースだし、導き手というメインジョブだゆえに、無意識の聖廟に心理的な障壁を術式武装していたと想う。
大地を照らす炎の紋章はそれを取り払った。
存在し得ぬ地の人なれど神々に作られし遊戯をやって、俺と村の者ですら滅多に近寄らない所で翻弄されるのだ。
そして、普段は強者を待ち構えている側に、暗黒と同調せし吾輩が“再教育”を施す事象もあるのだ(遺された遺志を継ぐ者が知恵を与える側にたったら今考えている事の逆が正解なのかもしれない)。
この次期特異点がどっと心の裡に流れ込んできた。
英雄のいない現在(いま)でも、異空間に存在を維持している者と接触する時に前世の記憶として呼び覚まされる。
幾ばくか変な例えだし極端な話かもしれないなれど、この秘跡《イニシエィション》があったから不可解なネクロマンサーの如くならずに済んだのか、或いは希望という可能性を具現化できるかも、と思う。
生きたい という気持ちに 死にたい という気持ちが上回った時、私ならどうするか想像もできません。
どうしようもなく辛いことが重なって冗談じゃなく本気で死にたいとおもうことがある、と友人に相談した時もお母さんに死にたいと伝えたときも、死にたくてたまらなくて一晩中泣いたときでさえも、私は心のどこかでは死にたくありませんでした。というか生きていたかったのだと思います。私は死にたいという言葉を何度も吐いた自分に嫌悪感を抱きました。
私は主人公の幸乃に同情をしながら非情もしました。死にたいという感情を抱いて生き続けていた彼女は無罪ながら「元恋人の家に放火し、妻と双子を殺人した」という容疑に問われました。そんな彼女はそれを否定せず、死刑囚になりました。とても複雑ですが、一言で表すと「悲しい」が最適でしょう。彼女が親身に存在していたと想像してもかける言葉がわからないほど、気持ちの矛盾が私自身の胸の中で駆け巡ります。普通の人なら冤罪で死刑判決を下されれば、どんな術であろうとも死ぬ気で否認し事実を伝えようとするはずです。でも私は生きたいという気持ちには勝らない程度で死にたいという感情を抱いたことがありますし、今も全くないと言ったら嘘になります。本気で死にたかったと共に周りへ迷惑をかけることを異常に嫌った彼女にとっては最も良い機会が訪れ、それを逃すわけにはいかなかったのかもしれない。という部分ではそれでよかったとも思ってしまいます。しかし例え死刑でなくても他人の罪をかぶるというのは決して良いことではないですし、結局本当の犯人もその事実を知って罪悪感で事故を装った自殺をしてしまったという事実も兼ねて本当にそれでいいのかとも思ってしまいます。自らの選択によって死を選んだ彼女のせいで私は死刑という制度を少し否定する気持ちまで持ってしまいました。今までそんなこと考えたことすらなかったのに。
彼女の微かな生きたいという感情に死にたいという感情が勝ってしまったのは、彼女の過去にありました。17歳で自分を産んだ母と義父、義姉と共に暮らしていた彼女でしたがたったひとつの希望であった母が事故で亡くなってから彼女にとって地獄がはじまりました。その日から死刑判決の日まで、確かに彼女は多くの人に見下され人じゃないような扱いも受けていました。だれかに必要とされたい、と彼女は何度も思ったといいます。私はそんな彼女については、馬鹿だと思います。沢山の人からの罵倒のなかで、自分を受け入れている人もいたはずです。何年にもわたり、彼女の無罪を突き止めた彼女の過去の友人がとても可哀想に思います。自分のことを思ってくれる人に気付こうとしなかったこと、これが彼女の欠点です。自分の人生において自己嫌悪しかしてこなかった彼女は愚かともいえる、と私は思いました。
私はこの本を読み終えたとき、幸せとはなんなのか考えさせられました。彼女と私の価値観は恐らく全く違います。家族ででかけたとき、おいしいものを食べたとき、私は単純に幸せだなと思いますが、幸せな人生といわれてみると心の底から考えても「わからない」という言葉しかでてきませんでした。でも、それでいいのかもしれません。たぶん「幸せ」に概念なんてないんだと思います。というかないですよね。個々それぞれで全然ちがうのです。