はてなキーワード: まこととは
いやきみ本当になんていうか低能だな
君はその若い女性を裸に剥いて~みたいなイメージでハアハアしてんのかもしれんが
はてブのコメント欄見てくりゃいいけどフェミ側の一番攻撃的な人達でも
君みたいなトンチンカンな論点でどうこうというのは言っていない
アンフェ側や弱者男性側が言ってるのは
「人命救助と言う最大レベルの善行においてすら女の被害者意識で悪者にされて社会的に裁かれたり訴訟されたりするリスクがある!ぼくちんたちは被害者だし女やフェミはまことにクソだから助けねー勝手に死ね」って話
どちらのチームも君みたいな論点で戦っていない
君は要するにみんなが何を言ってるか捉える力が完全に欠如してるわけだから
「普通」は「勉強は嫌なもの」だけど、なんかやはりその価値観は植え付けられているものだと思う。
嫌と感じる理由に「やらされてるから」「分からないから」があるが、分かった時の快感はやらされてる感を覆せる気がする。
とはいえ「勉強楽しい」と言うとそれはもう奇人変人の類いと呼ばれてしまう。オタクが筆頭。はてなもその類ですよね(悪口)。
かと思いきや「知識がある」風を装ってマウントを取りたがる人が山ほどいる。勉強して得た知識は紛い物で、それ以外の手段で楽して知識を得て「みんなの知らない知識を知ってる俺スゲー!」ってなりたくて、義務教育で習った基本知識と反するような「絶対勝てる投資」とか偽医療とか怪しいセミナーとか宗教とか引っかかる。ファストチェックなどされてないまことしやかな噂こそ本当なんだと。「俺は真実を見分けられる天才なんだ」と。
承認欲求の一つであるとは思うんだが、他人からの承認というよりは自己肯定なのかな。とりあえず「勉強が好きな奴は頭がおかしい」と言う割に知識人ぶりたい人多いなと思って。
絵描きを救いたい気持ちはあったことにはあったが、何故救いたかったのかを言語化すると絵描きへの特大悪口になってしまうことをお許しください。そして救う気が失せました。
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作品の無断学習、非商用限定の画像群を学習したモデルを商用利用、フェアユース規定の無視疑惑……事実、画像生成AIは現在多くの問題を抱えています。
しかし。現行の日本の法律では、(利用範囲は定められていますが)機械学習における著作物の使用に著作者の許可はいらないことになっています。フェアユース規定よりさらに強力で、機械学習に有利すぎる条文です。
このままでは、絵描き的には大問題なわけです。自分が心血注いで作ったものが勝手に持っていかれるなんて、不快なことはなただしい。創作のモチベーションも奪われ、やがては産業自体の危機になると警鐘を鳴らす人もいます。
また、モラルなき人々にまで高い技術が与えられることで様々な被害がもたらされていることも報告されています。
世界的には、AIは規制の流れに傾きつつあります。Stable Diffusionを開発したStability AI社に対して、フェアユースの観点に対する集団訴訟が起きています。また、同時にGetty Imagesも訴訟に踏み切っています。
かのchatGPTも、EU単位で禁止になるかもと噂されています。
さらには、AIの推進に対してかの中国ですら及び腰だというのです。
署名出して法律の改善を訴えたり、訴訟起こして判例を作ったりすればAIに対してエラく歓迎ムードの日本すら変えられるかもしれない!
勝ったな!日本の絵描きは再び安寧と静寂を取り戻し、これまで通り絵が伸び伸びと描けるようになることでしょう!
しかし、そうはなりそうにない。
はっきり言います。今、日本の絵描きたちは自滅の道を辿っています。この勝ち確の流れで。
そうです。今こそ日本にAIの危険性を強く訴えるチャンスなのです。ここで上手く立ち回れば確実に勝機があります。誰から見ても自明でしょう。
でも自滅しようとしてます。
絵描きの大半は、絵を描くことすら取り柄かどうか怪しい無能で馬鹿でメンヘラの社会不適合者だからです。
Twitterでは今日も画像生成AIに対する愚痴や問題点が飛び交います。絵を描くことを忘れて画像生成AIの問題点を発信せんとする人が何人も出てきました。
多くの方は「いやそんなに文句あるならもっと行動しろよ…」と思ってるかもしれません。実際その通りです。Twitterでたらたら文句タレてる暇あるなら団結してクラファン立ち上げて訴訟費用賄えばいいのです。
動かすべきは画像生成AIなんてものを開発した悪の親玉組織ではなく、国という大きく頼れる組織。そうは思いませんか?
でも、しません。
何故なら、繰り返しますが、彼ら彼女らは無能で馬鹿でメンヘラの社会不適合者だからです。
彼ら彼女らは、明らかに知識不足としか言いようのない発言を平気でします。あの感じですと、我らが著作権法の条文すら多分読んだことがないし、画像生成AIの仕組みもロクに理解していません。
しかし、そんなエアプで語ることがまかり通ってしまっています。
何故なら、何度でも繰り返しますが、彼ら彼女らは無能で馬鹿でメンヘラの社会不適合者だからです。無知の知なんて期待するだけ無駄です。
もし、画像生成AIがオプトインを大前提としたものに生まれ変わる場合、アーティストの懸命な訴えが受け入れられたのかもしれません。
何故自分たちの作品を無断で使ってほしくないのか。自分たちにとって作品とは何か。懇切丁寧に、相手も納得できる形で説明したからこそ、その未来ではオプトインが採用されているのでしょう。
何故なら、まことに悲しいことに、彼ら彼女らは無能で馬鹿でメンヘラの社会不適合者だからです。
無能で馬鹿でメンヘラの社会不適合者に、詳しい言語化と冷静な判断が期待できるでしょうか?出来ないから『お気持ち』と揶揄されるような具体性に欠ける感情論しか発信できないのです。このままでは誰にも絵描きの感情や絵描き内のルール、絵描きの理論が理解されないまま終わってしまいます。
しかし。必ずしも絵描き自身が戦う必要はありません。人間社会はよく出来ており、役割の分担が基本なのです。大半の絵描きが苦しむ中、手を差し伸べてくれる人がいるかもしれません。それは親切なファンかもしれないし、法の専門家、法律家かもしれません。
繰り返しますが、大半の絵描きは無能で馬鹿でメンヘラの社会不適合者です。
そのくせプライドだけは一丁前にあって、少しでも正論を混ぜるとすぐにヒスる。声だけデカい割に利用規約や著作権法すら読めないので、デマに近いツイートをすぐ鵜呑みにして騒ぎ立てます。しかも自分から行動しません。Twitterで騒ぐだけ騒いでおいて。結局、国内の署名活動すら話を聞きません(海外の署名活動も全然集まってないですが)。
『真の弱者は助けたくなるような姿をしていない』という話を嫌でも思い出します。
インターネットリテラシーもなければ社会の変化に適応することもできず、ヒスって暴れて無能さをただひたすら曝け出す。かといって何か行動を起こすでもなく、延々と愚痴愚痴と文句を垂れるだけの存在。そう認識されてしまったら、確実に無視されブロックされNGリストに放り込まれ、インターネットの片隅に追いやられることでしょう。正直絵を描いててもキツいです。
誰がそんな奴らを助けてくれるというのでしょうか。
それでも絵を描ける存在を人は助けてくれると思ってるのなら、流石に絵の力を過信しすぎでしょう。作者の本性は、どんなに素晴らしい絵であっても平気で貫通します。作者はゴミカスだけど絵は本当に最高だから応援します!なんて言ってくれる人はかなり少数派ですよ。
大半の絵描きのことを散々に言ってきましたが、これは巨大な問題を孕んでいます。
何故なら、問題を言語化できる人間がいない集団は、その声を民主主義に届けることがあまりにも難しいからです。
日本はAI技術の発展を重視し、AI大国として国際競走にもう一度乗り上げることを目指しているとされます。その過程で、もし訴訟に敗北してStable Diffusionがなくなっても、国際的な規制でがんじがらめになりchat GPTがなくなっても、国産の新たなAIを生み出していくことも考えられます。著作権法30条の4が味方となって、あらゆるデータ資産を学習に使っていくことが考えられます。
日本はとにかくやる気です。
しかし、その過程で日本がアニメ・マンガ・ゲーム・イラスト……そういったサブカルチャー産業の源泉である創作者の集団が無碍に扱われ、将来的に縮小するとすれば問題になるでしょう。
しかし、彼ら彼女らは声のあげ方すら知らない。絵を描く以外能はなく、絵を描く以外の知識もないのですから。芸術をよすがに今日も生き延びているだけのコミュ障社会不適合者は、真の弱者層に位置しているのです。
それでもって、絵を描くことに執着する人間なんてのは数が少ないのですから、より国政や企業に対するアプローチが難しい……
これもう詰みでは?
もちろんわかっています。
ちゃんと知識を持ち、その上で問題点を発信している絵描きはいらっしゃいます。
自分なりに考え、画像生成AIとの付き合い方、画像生成AIの在り方を考えている方もいらっしゃいます。
しかし、それ以上に大多数の無能が足を引っ張りまくってます。頼むから、理論ガバガバの文章に踊らされないでくれ。お願いだから、話にならない無知を晒さないでくれ。本当にお願いします、簡単に不安を煽られないでくれ。何が正しいのか、何が間違ってるのか、分からないかもしれないけど、だったらジッとしていてくれ。落ち着いてまずは調べろ。Googleでいくらでも出てくるんだ。理解できなかったら他人に説明してもらうんだ。chatGPTはいいぞ。(それらのAIの恩恵を受けるなら、画像生成AIの恩恵も検討しなければならないけど)
自分たち側に無能で馬鹿でメンヘラの社会不適合者が圧倒的に多いことを事実として受け止め、できる中でより良いAIとの共存を模索する。それが、画像生成AI規制派に必要なことではないでしょうか。
推進派と規制派が持ちつ持たれつ議論を重ねることで科学の良い発展がもたらされると信じていますから、規制派にはマジで頑張って欲しいのです。
自分なりの救い方は検討していました。自分自身が絵描きの理屈やルールや感情の代弁者として立ち上がり、推進派との架け橋になる……ありきたりかつ理想的ですが、価値のある行いではあるかもしれません。
例えば、オプトイン制度に際してのコメントは以下のものが考えられます。
「そもそも、芸術行為とはどこまでも自分本位の行いであるべき。自分本位に生み出した作品は、自分のためだけに存在しているべきもので、そこで技術の発展だとか、他人の見栄だとか、そういうことに使われると芸術行為の芯に傷がついてしまうのでは。それが意欲の低下に繋がるのかもしれません」
あるいは、クラファンを立ち上げ、司法に是非を問うてみるのもありかもしれません。
でも、こんな奴ら助けるくらいだったら、その時間使って画像生成AI技術に手を出して学んだ方が遥かに有意義なんじゃないか?ぶっちゃけ自滅する泥舟に乗りたいか?そもそも救いたいという感情自体が傲慢なわけで。
というわけで、救いたいと思い言語化していたはずが、し終わる頃にはマジでやる気が失せました。
絵描きがただひたすら自滅を重ねていく様を楽しみたい気持ちすらあります。
もう知らねー
いえいえまことに助かり申した
友人の話を聞くのが苦痛だ
こんな自分を輪の中に入れてくれる稀有な相手だというのに、その話を聞くのが苦痛で仕方がない
友人が話すことに、まったく共感できない
「あっそ、それで?」と内心思ってしまう
肉体機能でもなく、道具使用でもなく、環境を調整するための大きな武器の一つであるらしい
だから、最後の最後になって私の周りには誰もいなくなってしまう
このままずっと生きていくのかと思うと
我々の精神なんかとは比にならないほど、現実や肉体は強い存在強度を誇る
生かされているのだ、端的に言えば
土台じたばたしても詮方ないことなのだ
認めたくないと何度繰り返したところで、何も変わりはしない
ただただ、今日も気分が悪い
過去の自分の言葉が、予言のように、呪いのように積み重なっていく
隣で相手が笑っているうちにできた事は沢山あったハズだ
失敗したってちょっと恥かけばすんだチャンスを
くだらないプライドを守るために全部消費したんだ
終わってから気が付いた事は「わかってた」事にはならないよ
それができないなら 独りで生きる準備だ
自分自身に、何の価値もないと思っているから、他者にその担保をして欲しいだけに過ぎないんだろう
「結婚は勢いでするものだ」と言うようだけど、私は違うと思っている
恋愛や結婚というのは、共依存的な色彩によって後押しされるものなんじゃないかと
それは、もしかすると性欲よりも強いのかも知れない
生きていくことは正気ではできないから、それぞれが個別の神様や宗教や教義をでっちあげる
「互いを互いの存在意義とする」というのも、そうした思考停止の一つだ
「他人に迷惑をかけたくない」「これ以上不幸な人間を増やしたくない」と、反出生主義を唱えるくらいなら
私は、私の遺伝子を根絶やしにしたい気分になることがある
このクズの遺伝子が、罷り間違って後世に残るようになってしまうこと程、罪深いことはないと思うのだ
私の子供が、この世に“理不尽に産み落とされ”地獄に落とされるのを赦してはならない
私の汚濁のような欲望のために、不幸な人間をこの世に生産してはならない
ポルナレフ 人間は何のために生きるのか考えたことがあるかね?
名声を手に入れたり人を支配したり金儲けをするのも安心するためだ
人の単に役立つだとか愛と平和のためにだとか
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 27巻」
全ての女は、宮崎駿にとっては、グランマンマーレと同じなんです。
「全ての女はグランマンマーレと同じように怖く、得体がしれなく、でも、強くて美して、男は敵わない。
だから、一度好きになってしまったら、一生死ぬまで振り回される。それが女である」というのが、宮崎駿がこの映画の中で語っている、「女とは何か?」という考え方なんですよ。
生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
@Gesu_Masuda
夜21時 仕事から帰って、むらむらしたのでお風呂で自慰をしてさっぱりした後
休み前だし持ち帰った仕事でも処理するか・・・とパソコンを立ち上げ、小腹が空いたのでかっぱえびせんを開封して食べながら仕事を始めた。
仕事終わりで帰宅しても仕事だなんて、なんだか退屈だし YouTubeでBGMでも流すか~ と思い動画を選んでいたら急にお腹がゴロゴロなりだした。
別に痛いわけでも催したワケでもないので そのまま音楽を選んで 仕事を始めて十数分経ったとき、急におしりに違和感が・・・
今は特段トイレに行きたいって程でもないけど、一応トイレ行ってみるか・・・ と思って 正直面倒だと思いながら席を立った。
すると 椅子から立って机から2歩ほど歩いたところで突然とても強い便意と腹痛に襲われた。
座っている時や横になっている時は余裕だと思っていたのに 立ち上がると急に来る時、ありますよね・・・よくあると思う。 少なくとも自分はよくある。
私室からトイレまでは少し距離がある。 しかも寒い。体がぶるると震えた。
部屋から出て急に寒くなったからか、くしゃみを2回した・・・ 拍子に後ろから勢いよく硬めのやつが出てしまい 続いて泥っぽい感触のやつが少量出てしまった。
他の家族を起こさないように声を殺したせいで不意に腹圧がかかったからだ。 気をつかったつもりが身を滅ぼしてしまった。
肌の感覚と温度ですぐに分かった。 今ので前も後ろも漏れた。終わった。
そして尿 おまえはどこから来た いなかったでしょさっきまで。
まあ、尿漏れは妊娠中に何度も経験しているのでそこまで抵抗がない(それはそれで問題だが)けど
大きい方を漏らすとやっぱり・・・子を持つ親としてはやはりショックである。 結構簡単に漏らしてしまった。割と勢いよく。
みっともなく ぎこちない歩きをしながら 必死で前と後ろの穴を締めてゆっくりトイレまで歩いたが
トイレどころか道中の扉を開けた時に また大きい方が漏れてしまった。 締めてたのに勝手に出てきた。
今度は結構出た気がする。おしりからシュワワ・・・って音がした。 終わった。これはもう終わった。ほぼ水の音だこれ。
この辺りで冷静にトイレは無理と判断し、諦めてそのままお風呂へ向かっていた。
当然浴室でズボンとパンツを脱いだらばっちり汚れていました そりゃ当然ですけども。 尿漏れに下痢漏らしです。 色々終わってます
しかし我が家に下着を汚した程度で その都度買い替える経済力は無い・・・ ので当然 手洗いして漂白剤で消毒して再利用です。
漏らしたからって捨てられるほど裕福じゃないので なんだか悲しい。 まことに遺憾ですが前の穴も後ろの穴もがばがばだったようです。
産前産後に何度も尿漏れを経験したので、自分で汚した下着洗いはもう慣れた。 恥ずかしくもない。 でもやっぱりへこむなあ・・・。
ごめんなさい愛しい我が夫。 あなたの妻は夜中に廊下でうんちを漏らしてトイレに間に合わないため、お風呂で用を足します。申し訳ない。
ちゃんと掃除して綺麗にしておくから許してほしい。 無理してトイレに行くと廊下とトイレを掃除するハメになりそうだったので許してほしい。
いつもお風呂を掃除してくれているのに本当に申し訳ない。 もちろんちゃんと綺麗にした めっちゃキレイにしました。 許して・・・。
でも我が夫は優しいので 臨月に自分がおねしょをしても嫌な顔ひとつせず布団を洗ってくれていた。 優しさを司る神!結婚しよ!
よくよく考えたら 寒い中帰宅して その冷えた体のまま寒い浴室で全裸になり自慰に勤しんだことが原因でお腹を下したような気もするので 完全な自業自得である。
たとえば今だと多数決ならとある宗教を「邪教」として禁止さえできそうですよね。でも、多数決でも、「内心で信仰させろ」「儀式は続けさせろ」までは侵せない理由付けが「自由」です。
反多数決主義の難点という議論がアメリカで古くからある。選挙で選ばれていない裁判官がなにゆえ選挙で選ばれた国民代表議会の法律を覆すことができるのか、というやつである。これは、単なる哲学的問題ではない。19世紀末から20世紀前半にかけて、産業資本の著しい発展の弊害が顕在化してきた。それに対して立法的対処を行ったところ、裁判所が「契約の自由」を盾にしてそれを違憲にしたところから来ている。
もう少し具体的に言おう。ニューヨーク州議会が、パン屋の労働時間を規制する法律を作った。一日10時間、週60時間までという規制である。これに反して処罰を受けたあるパン工場経営者は、労働者をどのくらい働かせるかについては、契約の自由があるのだからそのような規制は違憲であると主張した。そして連邦最高裁はその主張を認めたのである。このような判例法理が通用した時代のことを、この著名判例(Lochner v. New York, 198 U.S. 45 (1905))の名前をとってロックナー時代という。
すったもんだの末、ロックナー判決は否定されるに至る。どのように否定されたかというと、これがある意味羮に懲りて膾を吹くというようなやり方なのである。すなわち、裁判所は議会の制定した法律については、原則として合憲の推定を与える。議会制定法については、①目的が正当か、②目的と手段が合理的に関連しているか、しか裁判所は審査しない。換言すれば、手段の必要最小限度性を要求しないということであり、まことに緩い審査基準である。こうなるとまたしても困った事態が発生する。確かに、労働関係の規制については、そのくらいゆるい審査で良いかもしれない。しかし、議会に自らの利益を代表してもらうことができないような少数派の利益を押し潰すような法律を議会が作った場合も、そんな緩い審査基準を適用して良いのだろうか。連邦最高裁は、戦前の判例の中で、キャロリーヌ・プロダクツ判決(脱脂粉乳の規制に関する法律が問題になったのだが、それは措く)の脚注4で、人種的・宗教的あるいはその他の少数者の利益が問題になった場合などは、別の処理をするかもしれませんよ(この事件はそういう人が問題になっていないが)、ということを仄めかしている(United States v. Carolene Products Co., 304 U.S. 144 (1938))。
このような戦前のアメリカの判例を取り入れて始まったのが有名な二重の基準論である。二重の基準論は、精神的自由については厳格な審査を、経済的自由については合理性審査をという図式として受容されているのだが、実際には、一般的には裁判所は合理性の基準という緩い審査しか行わないが、政治過程の中で不利になっている少数者の利益が問題になる場合は、審査基準を厳格化する、というものなのである。一般論としては合理性の審査しかしない、というのがミソなのである。
芦部説はこのような議論を巧妙に換骨奪胎(?)し、精神的自由の制限は、政治過程そのものを傷つけるおそれがあるから、原則として審査基準が厳格化する、という議論を立てた。こういった議論はアメリカにも見られる。ところが、これを逆に考えると、精神的自由の制限であっても、政治過程そのものを傷つけるおそれがない場合には、裁判所は合理性基準で審査するべきだ、ということにならないだろうか(ロバート・ボークというある意味悪名高い裁判官が直球でそういうことを言っている)。これが問題になる典型的な事例が「わいせつ」である。少なくともハード・コア・ポルノ※に関しては、その禁止が政治過程を傷つけるとは言えないだろう(アメリカの場合、猥褻obscenityに該当する言論については、第一修正によって保護されないので、合理性審査すらしなくても良いということになっているのだが、それは措く)。わいせつの規制は、精神的自由の制限ではあるが、厳格審査に服しないというのが、反多数決主義の難点に対して一般に合理性審査を行うという解決法を用意した司法審査論の帰結となる。
ハード・コア・ポルノに対する規制を(も)廃止するべきだと考える者が、表現の自由論や民主主義を素朴に信奉するのも考え物である。一般論として合理性審査をもたらす反多数決主義の難点という論点それ事態を疑ってかかる、つまり、多数決によって事態が進行する議会政、多数決主義それ自体を排撃したり、あるいは、ハード・コア・ポルノの規制に対しても厳格な審査をもたらすような議論を何とかして立てるほかあるまい※。そういうことをしない表現の自由の信奉者は、表現の自由で戦死せざるを得ない。
※長谷部恭男『憲法』などを読むと、刑法175条違憲論が、単なる「表現の自由」によって支えられているわけではないということが分かる。
今囘の配給タバコの配給量が男か五十本、女が五十本というように決定したと新聞は報じておるようであります。これは事實だろうと思いますが、しかしいかに憲法上、男女、平等が保障されておつても、このタバコの配給方法というものは日本の現状から、また過去の日本の喫煙というようなひとつの習慣からみて悪平等の感があると思うが、他に名案がなかつたかどうかという點について、政府の所見を伺いたい。これをもつて私の質問を打切ります。 https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100104365X03119471101/12 これは日本においてまだ女子の喫煙は一般的な慣習にはなつておらないように思うのであります。大體男は十人おれば九人まではタバコをのみます。女の場合はむしろそれの逆ではないかと考えておるのでありまして、この點は新憲法の十四條に規定しております男女の平等という問題とも關連がありますので、今囘五十本同數の措置といたしたわけでありますが、のまない方にこの貴重なタバコを配給することは、またそれから新しい問題を派生させる、すなわち横流し等の根源になるとも考えられますので、適當な品物の見透しがつき次第、配給を辭退される人に對して代替品をもつて配給し、そうして得たタバコは他の適當な方面に供給するような措置をとりたいと考えておるわけであります。とりあえずは五十本五十本を新しい憲法の精神を尊重いたしましてとることにしたわけであります。 https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100104365X03119471101/13
この前の当時の政務次官であつた小坂君が、現在の女五十本、男五十本という制定は、日本の喫煙の慣習から言つてよろしくない。そこで女に対する配給タバコは、他の代替品をもつてするというようなことを言明されたのでありますが、すでに半年を経過しております今日、そのことに対して現実にどういう手を打つておるかお尋ねしたいと思います。 https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100204365X02319480506/17 ただいま五十本々々々という、まことに氣の毒な配給になつておりますが、これを十二月ごろから男女とも十本ずつ増していきたい。こういう計画でおります。 https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100204365X02319480506/18 男女の配給はどうですか。 https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100204365X02319480506/19 男女の配給でございますが、これはただいまのところこの平等配給をかえるということの実現は、当分の間できないと考えとおります。 https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100204365X02319480506/20 先刻タバコ部長の御説明によると、配給の面において、男女関係を同等にすることは、当分変更の意思はないという御答弁でありました。一体この不足経済の場合において、足らざるものを万遍なく配給するということは、先刻石原委員の言われたごとく、統制の理論にとらわれた考えであります、あるいは男女同権というような理論にとらわれた考えであるだろうと思う。タバコのごとき嗜好品の類は、生活上必ずなければならぬというものではないのであります。一旦習慣がつけば、なかなかやめられない性質のものであります。そう考えますと、日本の過去の社会生活の実情からみて、男子はタバコをすうけれども、女子はすわぬ者が多いという、実情に即した政治的考慮を拂つて配給の面を考えるならば、男女同等に配給して、そして量を減らすようなことは、はなはだ実際に適しないような感じをもつのであります。 https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100204365X02319480506/53 お答え申し上げます。男女の配給量が同じでありますことが、日本として、從來からの習慣等から見ましても、実情に即しないということはその通りであろうと思います。ところがこれは大藏事務当局といたしましても、從來からそういう主張はし続け來つたのでありますが、新しい憲法下において男女同権じやないかという考え方からいたしまして、その筋でやかましく主張されました結果、正直なところを申し上げますとそういうことになつております。 https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100204365X02319480506/54