はてなキーワード: たかじんとは
自分は東日本出身で関西は2,3回しか行ったことがない。基本的に東京で殆ど過ごしてきた。
一部の関西人の苦手な点を書く。
・お笑い・話のオチを求めるなにわ臭がキツすぎる。 別にオチなくても会話やコミュニケーションって成り立つし、おもしろ話が一番ベストな訳じゃないからさ。いい加減関東来たんなら勉強してくれる?
・郷土愛のなにわ臭がキツすぎる。 アレだけ韓国のことは嫌いなくせに、関西を否定されると途端に機嫌が悪くなるのはかんべんして欲しい。ジョークやんけ。
・下ネタが汚くてキツすぎる 一線超えたの平気で日常から言ってるので関東だと空気が凍る
・橋下愛がキツすぎる 頼むから国政語るのかんべんしてくれっていうレベル
・関西至上主義がキツすぎる じゃあ帰ればいいじゃんっていう。
旅行に行く分には楽しいし、飯もうまいし、関西出身の友達もいるのだが、最近粗が目立つ。
以上
たかじん…殉…ウッ頭が…
何でも言っていいとしながら、相変わらずピー音で一番重要な部分は伏せてるし
自称皇族の芸人竹田恒泰がまず根拠出さずに適当な事を言っては委員会メンバーはその通りだと頷いてて
今回なら、農協改革についても田嶋陽子以外が何も意見せずに賛成の立場に回ってて気持ち悪かった。
たかじん委員会って昔三宅久之がいた頃は大体半分半分くらいに割れてたし、時には三宅が反対に回る事もあって
だけど、竹田なんて番組収録中にスマホ弄っては2ちゃんねるとかから情報拾ってそれ披露してるだけだから
ちょっと酷過ぎんよ。
「自民党のそこまで言って委員会」に改変した方が良いよ、そうじゃないとじんちゃんも三宅久之も浮かばれないわ
まずは系列よみうりテレビのたかじん委員会での辛抱治郎の自衛隊はいらない発言、
後に身勝手なヨット横断で身勝手にも遭難して身勝手にも自衛隊に助けられて税金1000万円も無駄に使う事になった。
行列のできる法律相談所の元司会島田紳助肝いりの企画カンボジアに学校作ろうというもので当初こそ話題になったが、
後に廃校寸前のレベルにまで落としていたのに日テレの対応は、ウチは関係ないの一点張りだったこと。
更に、今年裁判で和解になった女子アナ内定者をホステスとして働いていた事を理由に内定取り消しをした事件では
当初は夜の仕事や従事者に否定的な差別発言が多く見られたが結局世間から大非難を浴びた事にビビって内定取り消しを取り消した。
でもそこからどうするかって話がまるでない。
議論のために議論をしても不毛な議論を呼び起こすだけで何も得られてないと思う。
これは朝生に限らずたかじん委員会も肝心な結論は先延ばしてる。
結局この手の討論番組は後は自分で考えて行動しろよという助言しかしてないんじゃないか?
そうじゃなきゃ、国会で討論されてもいいような話題をいちいち討論番組でしか話せないのかと言わざるを得ない。
それどころか、討論番組でしか自分をアピールできないのではないか。
与党はそれが顕著で、別に議論のための議論をしてるでもなくて、要領を得ない。
だからといって結論を出すかと思えば、今後の抱負を述べるだけに過ぎない。
これでは出る意味がないと思う。
そもそも討論の意義がない。
それなのに毎月末、こうした不毛な議論のために不毛な国会議員が何人も集まって不毛な議論のために
不毛な議論をしているわけで、もはやプロ選手にたくさんのハンデを付けてようやく勝ったら子供みたいにはしゃぐ大人げない年始のクソ番組スポーツ王は俺だ!並の自己満足でしかない。
ああいう番組はその道のプロを論破した、やり込めたと思いたい一部の連中が番組の趣旨とか無視してやりたい放題するのが、趣旨に沿ってると本気で思ってんのなら、
殉愛の一件からネット上で愛国主義者と目されてきた百田尚樹がその胡散臭い内容と鬼女板での驚天動地の真実によって
故たかじんの億を超える埋蔵金をたかじん嫁と騙し取ろう画策した事が判明し、ネット上では熱い手のひら返しが為され始めた今日この頃。
そのせいか、NHK委員を務める氏が、朝日廃刊産経推奨を打ち出した時には、何か裏があるのでは?と勘繰られる事態にまで発展している。
ましてや全方位に目下敵を作り続けてきたものの、ネトウヨを始めとして幅広い保守層から支持を集めてきた氏にとっては寝耳の水かもしれない。
自分が今まで着飾って来た言論が、よもやそのせいで自らの崩壊を幇助する事になろうとは氏は気付かなかったのだろうか。
朝日新聞の件で捏造だの何だのと批判の的としてきたが、一方で永遠の0のスポンサーは朝日新聞なのである。
宮崎駿の件にしても風立ちぬでは大絶賛していた事を忘れていたようだ。
二枚舌のこの氏、発言内容からして怪しさ満点になってきたのは、恐らく件の殉愛捏造に端を発したからであろう。
下手をすればたかじんの遺族に対するきわめて重大な凶悪詐欺事件である。
だから、慌てて自らの潔白をその汚らしい言動で主張し続けるのだが、もう遅い。
自称皇族自称憲法学者の竹田恒泰をはじめ、故三宅久之の知識量の半分以下で右翼論を語る津川雅彦、
似非天然が売りのBBA山口もえ等、どんどん小粒になってきた。
もう田嶋陽子も出ない方が良いかも知らんね。
中立や左派寄りの人が出ない番組で、発言も都合よくカットするのに何が「そこまで言って委員会」なのか。
やしきたかじんも居ない今となっては、辛坊が帰ってきた所で焼け石に水。
もうどうしようもねえな。
まだ右・左・中立を残してるたかじんNOマネーの方がはるかにマシに思えてしまうなんて
もはや討論番組の形態を無くすか、そこまで言って委員会を無くすかした方が無難だと思えてきた。
いっそ桜チャンネルでやってる事を新たにやったら?(提案)
まず、冒頭に述べると、私は石原慎太郎・橋下徹という政治家は嫌いではない。
特に橋下氏には大阪府民ではないが彼らの行動力や構想力、討論力そして徹底的に民主主義者たる有り様に好感をもつ。
少なくとも「ハシズム」批判をしている自称・識者よりははるかに社会にいい影響を与えていると思っている。
その橋下氏が先日の「たかじんのそこまで言って委員会」に出演されて熱い議論をされているのを見てある小説の一節を思い出した。
なぜ、いまさら袂を分かった石原氏の小説を持ち出すのか、と訝しむ声もあるだろうがまずはその一節を引用したい。
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「嫌悪」こそが今日の人間が生きるための情念である。「嫌悪」だけが、自らを正しく見出し、己の生を生きるための情熱を与え得る唯一の術だ。「嫌悪」の遂行こそが現代における真の行為なのだ。それが遂行される時にのみ、真実の破壊があり、革命があり、創造があり得る。「嫌悪」に発する、精神的に凶悪な思考だけが真に知的なものであり得る、等々、私は私なりにその主題を発展させていったのだが。(石原慎太郎・「嫌悪の狙撃者」より)
===
嫌悪の狙撃者のあらすじ等は他におまかせするとして、嫌悪の狙撃者において石原慎太郎氏が述べようとしたのは「嫌悪」という感情の純粋性と創造性であった。
その石原慎太郎氏が嫌悪を向けた対象は①左翼・リベラル主義者②中華人民共和国③アメリカの日本支配④硬直した日本官僚制、の大きく分けて4点であった。(その昔は田中角栄による金権政治にたいする嫌悪も強かったといえるだろう)
「右翼」とは日本の古くからの伝統を重要視し、「保守」し、必要に応じてそれを改革していく思想である。
そして、日本の古くからの伝統というのは皇室であり、戦前に「國體」とよばれたもののことである。
つまり「右翼」ならば皇室に対する強い尊崇と、それを維持しつつ日本の改革を進めていく姿勢が必要なのである。
しかし、石原慎太郎氏は日の丸については並々ならぬ思い入れを語る一方で、ご皇室に対しては「皇室は日本の役に立たない」「皇居にお辞儀するのはバカ」(http://biz-journal.jp/2014/03/post_4279.html)と語る。また、君が代についても斉唱する際は冒頭の部分を「わが日の本は」と替え歌して歌う旨をのべている。
この姿は日本の右翼の姿とはかけ離れている。石原氏自身も自分のことを「真ん中よりちょっと左」とかんがえているようだ。
それでは、なぜ石原慎太郎氏は「右翼」と勘違いされるのだろうか。それは、上記①②への並々ならぬ「嫌悪」からである。国民の印象の中には石原氏が①②へ強いレトリックを用いて批判するのを見て石原氏は「左翼」の逆、つまり「右翼」と勘違いしているのである。
石原氏を知るには右左の切り口ではなく、「嫌悪」という切り口で考えなければその本質は見えてこないのである。
そして、同じ構図は橋下徹氏にも当てはまる。
橋下氏は「たかじん…」において、自分が保守だとかリベラルだとかの「思想がない」と批判されることを歓迎している。
そのおかげで「必要なときに必要な政策をうつことができる」からだという。
しかし、その「必要」か否かを判断することに「思想」が必要なのであって、無思想というのはありえない。
橋下徹が嫌悪するものは①左翼・リベラル主義者②硬直した中央官僚制③メディア(王手から週刊誌まで)の3点あった。
橋下氏はこれらの人々にたいして徹底した論戦を挑む。論戦において彼らを叩きのめすことで嫌悪のはけ口とする。
彼を右左という切り口でみることもまた、本質を見失うことになる。
石原慎太郎と橋下徹には上記のような共通性がある。橋下徹・石原慎太郎の二人をつなぐものは「嫌悪」という感情以外の何物でもないのである。
最後に忘れずに申し上げたいのは、「嫌悪の政治家」というとなにかとても悪いものに聞こえるが、私はそうは思わないということである。
フランス革命を成し遂げたのはプロレタリアートによるブルジョアに対する「嫌悪」以外の何物でもない。嫌悪があったからこそマリー・アントワネットを断頭台に導いたのである。
しかし、その結果として「創造」されたのはフランス人権宣言という人類の宝であった。この例からも「嫌悪」によって創造されるものが悪とは決して言えない。
また、仮に「平和の政治家」や「思いやりの政治家」と呼べる人がいたからといって、彼らの生み出すものが日本・世界にとって素晴らしい物になるとも限らないのは日本の過去の政治家を見ればわかる。
しかし、我々有権者が、彼らが「嫌悪の政治家」であるということを理解し、その観点から政治活動を見守るのは意味があると思う。
以上
フィナーレに関する目に留まったいくつかの……多くの記事と多くの部分におよそ三十年分の記憶との齟齬があり、明石家さんを軸に百字で収まらぬあれこれを書き留めておこうと。
文字起こしではなくライブで関西ローカルラジオを全国の明石家さんファンが聴けば、おそらくその数は激減すると思う。伊集院のラジオを聴きスタッフの馬鹿笑いにたちまち拒否反応を起こす関西人よりも多かろうと。
「笑っていいとも!」へのたけし乱入はたいした事件ではなかった。登場でいきなり出演者の首を締め上げるのは当時からのお約束。たけしが人選を間違えて変になった。「お笑い論を偉そうにぶっていた康夫にカチンときた」といった経緯もない。そもそも初期のいいともはアングラ芸人タモリを始めとする監督や芸術家、作家、アナウンサーら文化人が時事風俗を斬る、社会風刺を主とする番組であったのだ(田中裕子回必見の安産祈願を巡る宗教団体の抗議等々により、観覧客だけでなく視聴者にもタモリは恐怖感を抱いてしまい、ゆるいお笑い路線となった。最終週の後説で安産祈願ネタをタモリがややムキになって話していたのが感慨深い)。ほぼ初対面で髪をぐしゃぐしゃにされた康夫がむくれたのはたけしのミス。後のインタビューで「あそこで俺の首を締めかえしたら成立したのに、これだから作家はダメ」とたけしが語っていたが、芸人矜持を偉そうに語るなら当時毒づいていたタモリに(大橋巨泉なぞに認められる奴はそろって贋物だとか)いけよと思った。たけしオタクを自負する太田ならこのインタビューも当然読んでいたはずだが、フィナーレでは反撃を恐れて放りっぱなしで逃走、康夫は仕方なく傍の田中裕二に組み付いたが本気で抵抗され、諦めて壇上を降りる康夫の背中に裕二は蹴りをかます(当たってはいないが)。「あいつは、テレビの前の皆様に向けてじゃないんですよ。あれは俺に向けてやりよったんですよ」は明石屋さんの自意識過剰だと思われ。あと、いいとも降板は選手権で笑いを取ったことを責められせいではなく、制限時間オーバーで失格と裁定されたのが気に入らなかったため。
鶴瓶のヤンタンも聴いたが、同じく最初に読み上げられたリスナーのハガキが「師匠の引き際に感嘆した、素晴らしい」だったのが象徴的。共演NGが本人よりも外野、スタッフの死活問題に帰するという見解は正しいのではと考える。さんまの毒舌というより真正面からの他者批判を聞いていれば、共演を避けるよう周囲が動くのも仕方ないなと。さんまはNGが多いタレントという印象。徳光とのNGは徳光側の意向もあるのだろうが、「次番組に呼んだら俺は降板する」とからくりTVのスタッフに伝えた野村克也のケースは異例だろう。ひょうきん族にとんねるずが出演した際、石橋に今後の相談を受けたさんまは、お前らなぞ眼中にないとばかり、そのままでええんちゃうと軽くいなしてやったと得意げにラジオで語っていた(のりおは石橋はともかく木梨なんて竜介レベル、すぐに消えると言っていた)。石橋が関西芸人敵視になったのも仕方ない。夕ニャンが終了した際は「フジテレビとしてはとんねるずよりおニャン子が惜しい、大事」と素人の私も首を傾げる業界事情を報告していた。松本に関してはさんまのまんま登場時の松本へのスカシや、最近も「すべらない話」なんて掲げる自体がお笑い失格、恥ずかしいと語っていたが、吉本芸人同士、両者に重なるスタッフもいてあからさまな共演NGとはならなかったのだろう。後輩の松本が配慮していたというのもある(まんま出演後は自らの失敗と反省していたし、「まだまだ売れるわー」の連呼もそう)。浜田に関しては先輩である寛平の頭を叩く行為に怒っているという噂も聞いたが、フィナーレでミニコントしたり、太田への浜田の苛立ちを腕を抑えて笑いにしたりと決して険悪な関係ではないのだろう。
太田は談志の後継者らしく政治的に動く人という印象(談志と揉めた後、業界の偉いさんらに悪口言い触らされたとたかじんがぼやいていた)。タモリ、さんま、石橋があの芸風を好んで許容しているのかはなはだ疑問。ファンには「プロレスをせず、真剣で戦っている唯一の芸人」なのだろうが、もしも浜田のツッコミを振り切り、例の客席、視聴者へのつまらぬアピールをやったら、浜田は加減なしでケツを蹴り上げる。今田も東野も宮迫もその覚悟を持ち共演しているが、怪我でもしたら社長が吉本に大人の申し入れをしそうでなんとも。土下座事件は噂の真相で事実のように書かれていたがこちらもはなはだ疑わしい話。たけし後継に勝手に名乗りを上げるなとプロレス好きの弟子の水道橋が乗っかっただけのように思われる。太田が著書で松本批判をしたのは確かなので、ライバルとしてではなく、何が面白いのかわからぬ後輩の売れっ子がこっちにからんでくるなと、俺らウンナンとは違うからなという程度だろうと(太田は「笑いの殿堂」でメインのウンナンの悪口陰口を石塚英彦と一緒にくっちゃべっていた)。
たけしに「男気」を感じたことは一度もない。その類のエピソードが語られるたびに、正月のフジヒットパレードでの松村との初顔合わせのVTR、どこかに残ってないかと思う。最終回いいともの辞もありきたりのベタ。「似非インテリの集団」に担がれたが自虐ネタになってないのは辛かった(山下や赤塚、浅井慎平や高平哲郎に比べ高田文夫やテリー、高信太郎はいかにも山師っぽい。筒井康隆はタモリを小説に登場させたほどだが、たけしについては俺の毒舌の二番煎じ、ぐらいに考えていた節がある)。
ナイナイも当初は太田批判をANNなどで話していた。とんねるず世代で、舞台や漫才ではなく、あくまでもテレビに出たい人。芸人にダメだしするなと中居批判、下駄を履いたジャニーズ批判もやっていて、めちゃイケ共演までははっきりと敵視していた。いいともへのレギュラーが決まった際は「見つかってもうた」と嘆き(有吉のバカに見つかっちゃったの先行事例)、その「タモリ愛」もジャングルTVから始まったものだといえる。ちなみに東野のツボ芸人は「さんまのスポーツするぞ」で会話に割っていけず泣きくれたナイナイ矢部、いいとも後期の森脇健児、どSの中川礼二、現在の爆笑太田。
鶴瓶はやはり怖いという印象。関西時代はたけしの何が面白いのかわからないと問うていた(問われた相手は爆笑こそしないがニヤリとはすると答え、そんなん笑いなら爆笑させんとと)。たけしのANN開始前に鶴瓶ラジオを参考にしていたと聞き、さらに「東京進出失敗」もあり「たけし兄さん」と呼ぶように。メインではなくサブに回るのには抵抗もあったはずだが、タモリに諭されいいとも出演を続けた。タモリとは深い親交を結んだが、さらに古いさだまさしとの親交は話さなかったらしくジャングルTVゲスト出演の際の交友フリップを見て初めて知ったタモリが「え、あんた友達だったの?」と仰天していた。いいとも出演よりもさんまの「覚えてるでえ」が東京での起爆剤になったと思う。
タイトルにした香取慎吾のスピーチは印象に残った。それぞれ良かったのではないか(石橋の発言は馬鹿にしたものじゃなく本心だと思うので、タモリの反応は可哀相だった)。これ以上の盛り上がりはない、スピーチは余計という声もあるが、芸人祭りで締めればそれこそ「バラエティーのフジテレビの終わり」で終了してしまう。
駆け足が長くなった。ここでおわり。
民主政権時代では右左半々という構成だったのが、自民大勝に従って左派系が田嶋陽子だけで
右翼、というよりネット右翼(ネトウヨ)に近い連中で構成されてる。
集団的自衛権についてもそうだ。
議論内容としては、戦争参加においても国民投票を踏まえるべきだと言った主張に対して「トモダチを助ける」として「トモダチを守るために関係のない民間人を殺す」事に
こういう人は「俺も戦争行くからお前らも戦争に行くべきだ」という主張を貫いてる。
どうせ皇族とか政治家っていうのは戦時中と同じで戦争責任を果たす事はない。
主にそういった義務とか責任を果たす事になるのは我々国民なのだ。
国民に対して何の説明もなく、戦争地域に赴かせるといった主張なので、これは言語道断ではなかろうか。
たかじん委員会においては、国民投票は民主主義の権利であるにも関わらず、これを「トモダチ作戦」において不要だと唱えている。