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はてなキーワード: あの世とは

2023-01-30

anond:20230129184309

から隙あらばこの国をアメリカから切り離そうとする動きを見せるのが不愉快しかなかったな

アメリカとの断絶は共産圏への隷属に繋がるという、コーラを飲んだらゲップが出るくらいに当たり前のことを結局最期まで理解できないままあの世に行ってしまった

ま、所詮自由民主主義よりも反米を優先する輩だったんだろうな

2023-01-28

すずめの戸締まり11周目感想

今日から特典で芹沢本が貰えるからみんな、劇場行こう(ダイレクトマーケティング)

ネタバレにならない範囲ネタバレすると、あの世界でもコロナ禍は発生してた

すずめが新幹線マスクするの身バレ防止かと思ったらそういうことなんやな

そういえばスナックでも消毒してたな


来週から上映回数減って辛い。終映じゃないからいいけど…すずめの戸締まりが観れない世界が私には怖いんです!

気付いたこ

響鬼でやりたかった清めて鎮めるってこんな感じなのかな。響鬼たことないけど

明石海峡大橋の先は明石なのに、草太は東京モンだから神戸だと勘違いしてると思ってた。調べたら明石じゃなくて神戸だった

参考書見るに小学校教師志望なのね

・サダイジンは右目が白いんだな。左目じゃないんだ

常世ですずめがポニテセーラー服、草太が手当てしたばっかの格好なの、最終回で初期フォームになる感じで極好

ポスター買おうかと思ったけどすずめの戸締まりが大好きな人みたいで恥ずかしいからやめた

2023-01-26

国債国民借金じゃない」とかい寝言

じゃあ何で俺たちの納めた税金国債の償還に食い潰されてんだよ。

国民借金じゃねえなら俺たちが納めた税金国債の償還に使うんじゃねぇよ

下らねぇ言葉遊びしたって俺たちが食い潰すために国債で前借りした金の返済を将来の国民税金負担する仕組みは変わらねぇよ

ただ、「国債国民借金」というのも違って、正しくは「国債は、発行時点の国民が償還時点の国民に押しつける借金」だな。

10年債なら死ぬ間際の老人以外は自分で償還費用負担することになる。

20年債は結構多い割合で償還費用負担せずにあの世に逃げるヤツがいる。

40年債は若い世代けが償還費用負担する。

そういう類いの卑怯借金だよ。

2023-01-22

忍者極道』のガムテラストバトルがオンリーロンリーグローリーだった理由完全に理解した

白鳥の湖』で二人共敗北したことが、結果としてあの世で引き合わされる二人の魂の勝利意味する伏線だったという所までは、一年ほど前にたどり着いていていた。

でも今日ふと気づいたのさ、Spotifyバンプを聞いていてわかったんだ。

オンリーロンリーグローリーには「トロフィー」が3回出てくるんだ。

この3回が大事だったんだよ。

それこそがガムテ過去と今と未来に連なる3つのテーマだったんだ。

ガムテ物語は3つのトロフィー」の物語だったんだ。

最初トロフィーは、「殺しの王子様」という称号だ。

ガムテこそが発する光によって、グラスチルドレン達に希望を与える。

それこそがガムテ存在証明だった。

ガムテ王子であることをやめたとき、グラスチルドレン達は目指すべき姿を失って絶望の中に戻ってしまう。

から負ける訳にはいかない。

そのためにも目の前のターゲットを倒す。

そう、忍者(しのは)を倒すこと。

そうして守り続けるのだグラスチルドレンたちの夢を。

特別じゃないその手が触ることを許された光を。

2つ目のトロフィー極道(きわみ)だ。

グラスチルドレンのリーダーとしてではなく、ガムテ個人物語における最重要ターゲットだ。

ガムテ人生における最大の目的、それは極道(きわみ)に自分を認めさせること。

そのための最短ルート、それは極道(きわみ)の首級(トロフィー)を獲ることだ。

殺しでだけ繋がった歪な親子関係、その物語の完成のために必要不可欠なトロフィー

失った家族愛を取り戻すための一瞬の温もりを求めて。

一人に凍えるこの手が温もりと出会うための光へ。

最後トロフィーは温かい家庭本当の家族

これはガムテだけの物語じゃない。

プリマ物語でもある。

物語の骨子は白鳥の湖だ。

呪われた王子と姫が呪いを越えて結ばれる物語

二人の物語から失われた家族の温もり、それを寄り添い合うことで取り戻すまでの道だ。

特別じゃないこの手を特別と名付けるための光だ。


かくして3つのトロフィーに向けてガムテの帰投なきラストフライトが始まる。

その始まりを告げる歌だったんだ。

俺はやっとたどり着いたぞ近藤信輔。

見ているか

かに伝わったぞ!

つのトロフィー物語が!

2023-01-18

ちょっと待って!?ぼっちの髪がピンク色ってホンキで思ってる奴おるんか?

んなわけないだろ。

オヤジも妹も髪の毛ピンクな時点で「あっ……この世界では「黒」をピンクとして描くんだな」って理解できるじゃん。

ボッチのジャージも当然真っ黒で、漆黒ジャージをまとったいつも不機嫌そうな巨乳バンギャだよ周囲から見たら。

制服を着ることをやめたもこっちみたいなもんだ。

もしかしてあの世界の人ってあんなに目が大きくてドライアイにならないのかな?」とかも思ってたりする?

抽象的な表現っていう概念そもそもないのヤバない?

国語美術テストいつも赤点じゃなかった?

作者の気持ちちゃんと考えられる?

コロナ禍が終わってほしくない

コロナ禍が終わってほしくない。

狂った満員電車を消し、うざったい飲み会を消し、無意味会議を消し、変に凝った飲食店を消し、風俗店を消し、旅行留学も消し、無茶苦茶ビジネスを消し、世の中に静かな安らぎをもたらしたコロナ禍が終わってほしくない。

コロナが終わったらコロナが終わったらって、正気か?

戻りたいのかコロナ前の世の中に?

効率の良い金集めのためになにもかもが高速化、先鋭化しすぎて誰も彼もが疲れ切ってイラついていたあの世の中に?

戻りたくない。絶対に戻りたくない。

何もかもが金集めのためだった世の中なんて、今考えるとあまりにも恐ろしくて戻りたくない。

他人の金集めに貢献するために働いて、時間感性を消耗して、消耗した時間感性の傷をやわらげるために、金集めのため変に凝った飲食店つまみ食いしたり、金集めのため最速で人の感性支配するよう計算されたコンテンツを目に映したりなんかして、疲れて寝る。

こんな世の中だったことなんて考えるだけで疲れて仕方がない。

凝った飲食店なんかどうでもいい。評論家でもない大勢人間があっちでもこっちでも凝った料理を食べ続けるなんておかしい。評論家でもないただの人間なんか何食べたってうんこ製造の助走でしかないのに、やれここは美味いとかなんとかって、正気か?

芸能とかもどうでもいい。そもそも大した芸能なんかなかっただろ。コンプラコンプラコロナコロナがとか言って都合よく思考放棄して、気持ち良さそうにつまらコンテンツ垂れ流してる奴らなんか、コンプラコロナがなくなったってしょうもないものしか作れないに決まってる。こういうのとは別で、金集めのために完璧設計されたコンテンツもあるけど勿論論外。金集めのために人の感性支配しようとするな気色悪い。

風俗店なんか一番どうでもいい。どうでもよすぎて言うことない。好きにすれば?

旅行もどうでもいい。感性ガバガバ大勢人間テレビで見たことある観光地に押しかけて写真撮って料理食べてどうなる?どうでもよすぎる。貴重な燃油使ってまでやることがそれ?アフリカだろうが南米だろうが、行けば「何か」があるなんてないし、ただの人間が行けばただの町だろ。バックパッカーですら滑稽なのにノマドワーカー(笑)。現地の滞在許可取れないか観光ビザでちまちませこい移動生活してるのに豊かぶってて笑える。

留学もどうでもいい。高校出て海外大学に4年行くとか、大学院行くとかならまだしも、日本大学に行って間の一年間だけ海外に行って何になる?遊んで終わり、それもくだらない遊び方して終わり。現地の空気を肌で感じたい、現地の人と触れ合いたいって、お前が行けるようなとこは十中八九日本地方都市と変わらん町だし、お前が触れ合えるような現地の人は似たような階級で似たような考え方のつまら学生しかいないよ。ボランティア山谷行けば?山谷学校作れよ。

あーーーーーーーどうでもいいな。全部どうでもいい。コロナでパーになったもの全部どうでもいい。

悲しいんですか?

でもそれって会社の外でグルメぶって感性が生きてるふりしないと自分価値がないと感じるようになってしまった自分人生が悲しいんじゃないんですか?旅行とか留学ちょっと特別っぽい自分演出できなくなって自分には価値が無くなって悲しいんじゃないですか?飲み会会議でくだ巻いて他人自分感情の尻拭いさせられなくなって自分のケツに汚い感情が詰まって価値が落ちてる気がするのが悲しいんじゃないですか?

コロナで全部ダメになったけどコロナがなくたってどの道もうダメだったよ全部。

てか福祉とかもマジでしんどそうだよね。金集めと一番縁遠いもんね。その罰でしんどくてみすぼらしい立場に追いやられてるとしか思えない。金を集められないと罰を与えられるってどんな世の中だよ。

あーあコロナ禍終わっちゃうのかな。嘘と金ストレスの世の中に戻ってほしくないな。

2023-01-16

anond:20230116171101

アニメ版放映当時はこのオチについて「りりかは死んで天国に行った」と解釈する向きが多かったため、今でもりりかSOSを最終回主人公死ぬアニメ記憶している人も結構いるのだが、作り手側は「りりかが倒れていた花畑あの世とかではなく、りりかの戦いの結果で命の花が大量に開花したことを示しているのであり、りりかはちゃんと生きていて、自身が助かったことに気づき笑顔を見せた」として描いたつもりであることは当時から雑誌などで発言している。

2023-01-13

anond:20230113151313

じゃあ、団塊世代人達暮らしって良かったのかな

社会人なりたてで大金もらって、毎晩のみに歩いて、子供の面倒は全部奥さんにやってもらって、土日はパチンコ競馬とかだったのかな

そうだとしたら、あの世代の人達に何も言われたかないな

2023-01-11

国宝に使ってる金はcolaboなどの団体に使ったほうがいい

そもそも国宝みたいなものより人権の方が大事なのは当たり前だよね。

国宝とかナショナリズムを高揚させるのが目的だしないほうが良い。

国宝とかああいうのって昔に作られた物ばっかりだよね。武士とか武力人民から富を巻き上げたのは明らか。

農民が貧しい暮らしをしているのか自分たちは巻き上げた金で豪奢な鎧や刀など軍国主義的なものを作ってたんだから壊したほうがいい。

あとは寺社とか朝廷とかだろうけど、

寺は女は解脱しないとか言ってるし、反フェミなのは明らか。それにあの世かい存在しないもので金を巻き上げたカルト教団統一教会と一緒。

神社軍国主義なのは戦前を見れば明らか。

朝廷天皇制が前提なのでだめに決まっている。天皇制とか家父長制度権化だしね。

はてなバカどもは国宝なんて全部メルカリで売ってその金をcolaboなどの今生きてる女性を大切にする団体資金にするほうがずっと良い事に気づくべき。

2023-01-09

anond:20230109220352

これなんだよなぁ。

現実ぶってるわりにたどり着く結論はコレ。

需給ギャップいくらあるはず、需給ギャップ放置したら損をするはず、

そういう仮定の話を積み上げた先にたどり着くのは「国債永遠に借り換えしろ」。

御大層な屁理屈いくら積みあげても結局のところは「自分の懐から金出さずに豪遊したい」でしかないんだよな。

今までもそうしてきたんだから、これから人口激減しても同じことが出来るはず、という根拠のない楽観論。

どっちを選んでも俺は大して痛い目見ずにあの世に逃げられるけど、ツケを押し付けられる若い世代はたまったもんじゃないな。

2023-01-08

あの世なんて必要ない

俺が地獄に落ちるのは確定してるから

人を罵倒し、すべき事を怠け、ふざけ、不謹慎を楽しんだ、見ろ地獄行き要素の役満

地獄永遠の責め苦を受けて苦しむハメになる、そんなのは嫌だ

からあの世なんて必要ない、存在してほしくない、死の先は無であってくれ

俺は地獄で苦しみたくなんかない

俺たちの末路なんて河川敷橋の下ミイラ化だろ

お父さんお母さん産んでくれてありがとうございます

助産婦の皆さん先生の皆さんご近所のみなさん

おかげさまで立派に河川敷橋の下ミイラになれましたってあの世で報告してこいよ

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2023-01-02

anond:20230102104157

自分にとって都合のいいことが一つあったか世界から善人だと全面的に称賛されるべき みたいなことってないってわかるよね?

ほかの何よりもまず自分の命を救おうとしてくれた事自体に完全な善意自己犠牲を感じたとしてもそれ一件あればほかの何件あるかもわからない問題清算されるなんて事はないのわかるよね?

宗教で悔い改めたら許されるってあるけどあれこの世の話じゃないのってわかるよね?

悔い改めたらこの世ではどうかしらないけどあの世ではほかの誰でも全員が必ず迎える平等な死の向こう側の裁量が変わるよって話なのわかるよね?

逆に君を利用してその結果をもってしてほかの人が君の救われる前の状態と同じ目にあってるとしたら自分はOKだったからきっとそれもOKって思うわけないよね?

いいこともしてるだろうけどもそういうのはなんら意味ないんだよ

2023-01-01

子が亡くなり 仏壇を買った

当方30歳前後

子供が亡くなった。病気を持って生まれてきて、一生懸命治療をしていたが亡くなってしまった。もうすぐ1歳だったが その一生涯を病院で過ごしたため生きているうちに家に連れて行くことは出来なかったし、それどころか呼吸器をつけていたため抱っこすら出来なかった。それでも急変だったから、心の準備なんて出来ていなかった。

第一子。自分たちの両親にとっては初孫妊娠中 たくさんの人たちが御札やお守りも買って子が元気に生まれてくるように祈ってくれた。だが生まれた子は難病。闘病中だって 良くなって退院できることをたくさん祈ったけど、亡くなってしまった。

神も仏もいない。人並みに真っ当に生きてきたよ。なのにこの仕打ち絶対神なんていないだろ。

というのが 子が亡くなってからスタンス

元々信じている教えも宗教もないしね。

死んだら基本的に無である そんな気がしている。

子が亡くなった次の日の、配偶者は居ても立っても居られなくて、仏壇屋に行って資料をもらってきた。確かに私達は親としてしてあげられたことってほとんどなかったし、何かしてあげたいっていうのはあるよね。

自分子供を想うスペースは必要と思ったけど、別に仏壇って形である必要はないと思ってた。けど配偶者仏壇がいいって言うから、話し合いの末 仏壇を購入した。

仏壇を買ったりして思ったけど、一般的な死後の考え方があまり受け入れられないなって。

仏壇の1番上 奥には仏様をおいてその下には位牌。位牌には亡くなった人の魂が入る。一段上の仏様が亡くなった人を導いてくれる。

→死んでからも誰かから指導されたりするの?

チーンとならすおりんは極楽浄土まで音が届く。

→届くか?

死者は香りを食べる。だからお線香をあげて手を合わせる。ご飯お供えする。

香り届くか?

あの世で7日ごとに極楽浄土に行けるかどうかの裁判があり、49日はその最後裁判

→現世的すぎない?

おりんをならす行為 お線香をあげる行為子供に心の中で語りかけたりするから、すべてが無駄だとは思わないけど なんか都合が良すぎないか?とは思ってしまう。

49日に至っては、子は赤ちゃんなのに裁判にかけられるなんて酷すぎないかと思ってちょっと嫌な感じするし。人の子勝手に裁くな。

小さい頃から仏壇がある家で育った配偶者と、仏壇に馴染みのない自分と、仏壇に関する考え方が違いすぎて、どれにするか どのものを置くか まとまるまで少し言い争う事もあった。

私は 赤ちゃんの子供に厳かすぎる仏壇にしてしまうと、子が遠いものに感じてしまうような気がしていたため 何か子の象徴のような形にしたかった。配偶者ちゃんとした仏壇にして子を弔いたいと言う気持ちがあった。


まあお互い言っている事はわかる。

相互妥協してちゃんとした仏壇にポップ目(ピンク色の仏具 パンケーキの香喰等)な仏具を置くことでまとまった。仏様は置かず 位牌も置かない。100センチ程の仏壇の上にはぬいぐるみを並べた。

だがおりんは置きお線香もあげられる。子を想い手を合わせる場所にした。お骨は仏壇に置いた。お骨は 夫婦生き残ったほうが先に死んだ方の骨と一緒に子のお骨も処理する とした。

私は今の形である程度納得している。配偶者もそうであってほしい。


亡くなったのが赤ちゃんだったか一般的感覚とは少し違うのかもしれないけど、死んだら現世の煩わしさとか辛さ痛さからは 「無」だから何もしなくても開放されると思ってる。でも仏壇は親側の気持ちの行き場所 何もしてあげられなかったから誠意 手を合わせたいみたいな部分で意義があって買って良かったと思う。

けど、一つ一つのもの 事に対してはこじつけだしご都合主義過ぎないかちょっと思っちゃったな。

仏壇に仏様置かないと導いてくれる存在がいなくて良くないって仏壇屋さんには言われてそれってどうなのって思ったし、それって仏様買わないことに対する脅しみたいなもんじゃんって。

納骨は子のためにした方がいいっていう親族もいた。

わかるよ。わかるけどね。

死や死後に対する考え方は人それぞれだと思う。正解なんて誰も知らないし ないのかもしれない。

夫婦という二人の間だけでもそれなりに揉めたのに、親が亡くなり、その子供が何人もいてその配偶者が絡んできてなんて場合、多くの人の考え方があって 墓や仏壇一つ買うのもすごい大変なんだろうなって思った。

2022-12-31

anond:20221231130210

普通に不老不死人間と限りある命の人間共存してる世界で言ってたら」

 

この世界じゃないからなあ、あの世

なんかそういうありえない条件くっつけた世界無理やり作って否定するの意味ある?ないよ。

2022-12-28

テスラ株価高値から73%下落しました

あれだけテスラでイキっていた人はどこへいってしまったのでしょうか

あの世でしょうか?

2022-12-26

ゆるキャンに新キャラいるんだけど劇場版には出てきてないんだよね

ハブられちゃってるのかな?

完結してない作品で将来像を描くことのリスクってここにあるんだと思う。

後輩が来ること無く野クルがあの世代で滅んだ平行世界、もしくは世代間の対立によって極めて強烈な形で袂を分かつことになった平行世界舞台だったことにすれば解決はするんだけど、それって何か悲しくねえか?

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