はてなキーワード: あの世とは
悪い報告は東リベ最終回を読んじまったってことだ
(上記から察することが出来ますが本エントリーは東京卍リベンジャーズに対しておおよそ肯定的とは言えないものです。ご了承下さい。)
あくまで私個人の意見だが、文句を言える作品は負の方向性であったとしてもそれだけ自分に響いたということなのである意味『受け取らせる力がある作品』だ、と私は思っている。
最新刊に追いつき、マガポケ単話購入で最新話に追い付き毎週読んでいた。
破竹の勢いで人が死ぬじゃん。
私は震えていた。
それでも彼等は彼等の成すべき事を成し遂げて、その積み重ねの果てにきっと彼等の信念や葛藤が報われる結末が見られる事を信じて読んでいた。
は?
それ以上でもそれ以下でもない。
視神経を通して脳に届いた東京卍リベンジャーズ最終回は、脳をそのまますり抜けていった。
文句さえ…出てこねぇ…。
あんなに魅力的だったストーリーもキャラクターも最終回ではスカスカのハリボテにしか見えない。
問題作でもなく、駄作でもなく、最終回を迎え幕を引いた東京卍リベンジャーズは私にとって『無』そのものになってしまった。
ロクな文句も出ないまま過ごしており、それ故にほぼ東京卍リベンジャーズという存在さえ忘れかけていた私はふと気がついた。
最初の頃、場地の親御さんはどれだけ嘆き悲しみ息子の様子を気にかけなかった自分を責めただろうと胸を痛めた。
ドラケンがこんな道を選ばず幸せに生きられるように養子に迎えてやれんか?とキモい庇護欲を湧かせていた。
要するに私は物語を楽しみつつも、彼等が未成年であることからどこか「保護者寄りの目線」で見ているところがあった。
キモいのは承知の上で私はみんなに幸せになって欲しかったし自分とは全く違う価値観で生きているみんなの幸せってどんなものだろうな、と悩んでいた。
ヤンチャして大人になって、物語としては旨味のない、数行のモノローグで説明できてしまうような人生を送って。
(勿論その全てに物語があるのは確かですが、東京卍リベンジャーズという作品が表現してきたものから逸れる内容ではあると思うのでこう表現しています)
私があの世界のみんなに望んでいた幸せをみんなは手に入れたんじゃないか?
伏線が回収されていなくても、武道とマイキーがやり直す前の世界であったことが無かったことになったとしても、私がみんなに望んでいたものをみんなは手に入れて、それを私は見届けることが出来たのに。
それを「無味乾燥」と一蹴してしまうって、なんか私って凄い無責任で冷たいやつじゃないか?
私は彼等を更生させる何かしらの人でもないしただ傍観しているだけの消費者なのだから、作品に対してどんな感想を持ったってそれは余程社会性を欠いていない限りは自由だ。
言ってしまえば「たかだか娯楽にそこまで真剣に向き合う必要無くない?」という話である。
でもさあ…素直に「みんなお疲れ様!おめでとう!先生もここまで描ききってくれてありがとう!この作品に出会えて良かった!」って言えないのほんと悲しいんだよ…自分が言ったことの責任も取らず、向き合う気にさえなれないのがめっちゃキツいんだよ…
ダメだろ、これ。
失敗の原因は5つ。
冒頭、どこか非現実的で、しかし東北の震災を思わせる風景はいい。
踏切を渡らない演出や、立ち入り禁止看板を乗り越えるところなど、日常へ行かず、非日常へ入っていくことを描写していくも、よくわからないまま立ち去り学校の日常描写→そして地震、なんか山から祟り神みたいなの出てる→再び廃墟へ。
ここが一つテンポが悪かったと思う。
どういう物語かを提示するという形で及第点ではあるが、特段面白くはない(わずか35秒で説明し、全く本編が面白くなかったソラとウミのアイダを見習ってほしい)
その後、猫(ダイジン)を追いかけ、船に乗るというところまでが、序盤といっていいと思う。
気になるのはすずめが船に乗るのは自発的な意思に基づくものであって、君の名は。の不可抗力で入れ替わったこととは違う。
ここにご都合的な強引さを感じるのだ。
さらに致命的だと思うのが、ダブル主人公のうちの一人、草太が早々に椅子の姿になってしまった。
この結果、ロードムービーでありながら、草太は椅子の姿であることからコミュニケーションをとることに作劇上の制限が加えられてしまった。
コメディ的なキャラクターになったことで、ラブストーリーとしての進め方にも違和感が出ている。
草太がどういう人物なのかが明示されないまま物語が進んでいく。役割しか持たされていないんだよね。
で、そのメンタルのまま、後半、突然の死にたくないっす。要石なりたくないっす。→私も草太がいない世界怖いっす。
ロードムービーをやりたいのか、と思ったけれども、ロードムービーって基本的に旅する二人が、旅先での人との出会いによって関係性が変化するというのが定石じゃないですか。
でも、本作のヒロイン、すずめは一体に何に不満があって、成長するのかというのが不明瞭なんですよね。
災害の原因であるミミズが出てくる扉を閉める、という役目を帯びた青年が全国行脚しているようだが、ファンタジー職業にありがちなどうやって食べてんだ?という疑問には普通に大学生であるし、将来的には教師を目指しているという謎の情報が与えられた。役目が重すぎるだろ……。
関東大震災もミミズが原因だったという描写があり、直接的に言及されていないが、3.11も同じミミズが原因であったと推察できる。
こいつらがきっちり仕事してれば3.11を防げたってこと?という疑問点が観客の引っ掛かりになるのではないか。
感動部分は、作品によってではなく、3.11の悲劇性と記憶に頼って泣かせているんだよな。そして人間は馬鹿だから感情が動くと名作だと錯覚する。
本作の中盤では、首都直下地震を思わせる災厄を封じるために、東京を舞台に駆け回る。
通常の映画で言えばクライマックスに相当するようなアクションの末に、すずめは草太を要石として使用し、東京を救うことになる。
天気の子が「世界」か「君」かの選択で、「君」を選んだ結果、めちゃくちゃになった世界があって、それでも生きていくという話だったのに対し、今作では「世界」を選んだその後を書くつもりか?と思っていたが違った。
物語はこの要石となってしまった草太を救うために、幼少期に見たあの世への扉を探すことになる。
そして終盤、気仙沼の炎上を思い起こさせるファンタジー災害空間で、暴れだす巨大なミミズを背景に、主人公を走らせる。この絵を描きたかったというのは分かる。
要石となった草太を解放することで、ミミズの抑えがきかなくなる。
さあ、どうする?
すまん!今まで要石やってくれとったダイジン、サダイジン!またやってくれ!
了解!!
おわり。
は?
「世界」か「君」か、という選択と代償の話が、第三者に委託したら何とかなったわwで終わっていいわけねえだろうが。
自然に外れちゃった東京の要石ことサダイジンは、なぜか主人公たちの旅に付いてくる上に、最終的にはまた要石として役目を担うことになる。
ええ?
要石が外れたけど、機嫌治ったんで、自主的に役目に戻ってくれましたみたいな解決法である。
基本的に四国、神戸と行く先々でミミズを見かけて戸締まりするアクションシーンというのが連続で起きる。
また各地で出会う人々もそれほど深掘りされることはない。
これが東京まで来るとそれなりに街の描き方が生き生きとしてくるし、後半のキーパーソンになる芹澤が登場する。前半と後半で明らかに映画の趣旨がガラリと変わっている。
だからこそ前半の時間の使い方はもったいなかった。(後半にほとんど繋がっていかない)
おばさんも遠くで心配してる描写を延々はさむぐらいなら、もう少し後半の決裂に至る問題点(避難者受け入れ、被災者遺族の家庭の問題)をやっとけばよかったのに。
ロードムービーをする都合上、各地を巡り、そこで出会う人々とのつながりを書く必要があるので登場人物が増える。
そうするとそれぞれのキャラクターに割ける時間が相対的に少なくなるので、魅力を描写する時間が足りなくなる。
途中で出会った人々を後半に繋げるでもなく、主要キャラの問題点の提示や成長に繋げるわけでもない。何がしたいんだ。
新海が触りたかったものはロードムービー、3.11被災者への応援、衰退する地方都市、避難民と家庭環境、自然への畏敬、民間信仰、恋愛あたりだろう。
終盤で、主人公が過去の自分を見つけ、この世界は明るいんだと、ド直球な被災者への応援メッセージを長々とぶちかましていく。
一方で衰退する地方都市と自然に還る廃墟を映し、戸締まりの際の呪文、山河をお返し申す、人間が使ってきた土地を自然に返すという話であろうが本当に触れるだけだし、それを3.11テーマとどういうリンクをさせるつもりだったんだ。
ある種の無常観というか平家物語的な持っていき方をするわけでもなく、災害はそれはそれとして悼みます、という一貫性のなさ。
おばと主人公の決裂も、避難民の子供引き取っちゃったせいで人生めちゃくちゃやん→ごめん言い過ぎたわ……。で終わり。
ダイジン、サダイジン、それにキャラクターの名前を見ても民間信仰というか古代神道系の話っぽいなぁとは思ったが、そこもそれほど深掘りされず。
どうでもいいけど九州の要石、廃墟と化してるとはいえめっちゃ現代的な施設の真ん中付近に刺さってるの謎すぎるやろ。
男側の感情が一切見えない上に、女側もイケメンと旅して、神戸でいきなり発情し始めて椅子にキスするという展開を伏線としてクライマックスで結ばれましたってやるの強引すぎるだろ。
今作は終盤に使うために仕込んだ伏線が、全て雑すぎて、「前に説明してましたよね?」と新海が言い訳するために挟まれるシーンが多すぎる。
戸締まりをする際に、その土地の人々に思いを巡らせる、というのもすずめにとっては何の縁もない土地の思い出が想起されるのは変だろう、と思っていると、終盤に被災前の人々の情景を描くシーンがあり、ああ、これのための言い訳だったのかと理解した。
なんなんすかね、これ。
ネタバレあり。
猫が嫌いだ。
猫に罪はない。猫を異常に崇める猫厨による被害者ともいえる。
だが猫を見ると異様に不快になってしまうので猫が出るアニメやドラマ、映画、小説は出来る限り見ないようにしていた。
そんな生活の中、前知識なく知人に誘われすずめの戸締まりを見た。
すずめというのだから鳥の話だろう。家ではカナリアとインコを7羽飼育している。鳥好きにはたまらない映画だ。フィンチ良いよね。文鳥も錦華鳥も鹿の子雀もかわいい。飼いたい。
と思っていたが開始早々猫が出てきてゾッとした。
自分の意思かそうでないかは分からないが禍神の封印という重荷を背負わされやっとその輪廻から抜け出せたと思ったら望んだ幸福から拒絶され再び永遠に続く重荷を背負う気持ちとは一体どれほど辛く悲しく重苦しいものなのだろう。
すずめや草太はなんやかんやあったけどこれからはハッピーに生きていきます!で幸せエンドだったがあの猫2匹はどうなるのだろう。
あの世に縛り付けられたままあの猫達は何を思うのだろう。
なおスズメは全く出なかった。チュン。
すずめの戸締り
登校時にすれ違ったイケメンの草太に一目ぼれ
草太はこの世と常世(あの世)を繋ぐ扉を閉じて回る「閉じ師」だった
扉(裏戸)が開けばあふれ出たミミズが災害(地震)を起こしてしまう
様々な出来事に遭遇し成長していくが
みたいな話で
扉から溢れたみみずが暴れると現実では地震が起こりアラートがなる
このアラートにスズメは全く反応しないし、地震が起こっても怖がらない
一つ一つのパーツ(塗りつぶされた日記)とかはクルものがあるんだが
(全米が泣いたみたいにならない)
震災の描写があってもすずめは一切ひるむこともなく突き進んでいく
で、最後4歳の自分に高校生の自分が常世であっていたという描写が入るのだが
震災で親を失った4歳の子供に、超然とした今の自分がメッセージを送るシーンを見ながら
それじゃ救えんだろう?という描写で終わってしまうのだ(個人の感想です)
と、疑問符を付けざるを得ない出来
叔母との確執も、震災に纏わるアレコレも、東北への旅も、徹頭徹尾、「ための演出」舞台装置としか感じられない
思春期の少女が惚れた腫れたをしながら自分探しの冒険活劇とした方が全然よかった
親は交通事故かなんかで死んでればいいのだし
あれでPTSDとか繊細過ぎって感じだし
( ゚Д゚)ハァ? って感じ
まず「あの世」なんか無いぞ
「個人は憲法に縛られない。はい論破」なんて話をしてるんじゃない。
俺は「ゆたぼんの親を今すぐ裁け。でなければ俺の税金をただにしろ。ついでに労働も放棄するから黙って生活保護を寄越せ」と言うつもりだが、それを憲法に直接求めてなぞいない。
憲法を実現する役割を持った国家そのものが違憲のままで平然としていることに対して、「あの世で昭和天皇が泣いているぞ。愚かな政治家がまた日本を滅茶苦茶にしている、と。」って言っているんだ。
子供の意思に由来した不登校なら仕方ないと思うが、親の洗脳による不登校は許されないものだ。
罰せよ。
罰せよ。
納税せぬものを罰するときの勢いを持って教育につばを吐くものを罰せよ。
それが出来ぬなら俺に対して、勤労不可能の証明を必要としない生活保護をいますぐ寄越せ。
俺はこれを「ゆたぼんの親」に対してだけ言ってるわけじゃねえぞ。
それを放置することを平然と決め込んでいるこの国そのものに言ってるんだ。
兄が亡くなって5年経った。
兄はサウンドノベル系?がとても好きで、街やガンパレード・マーチ(あとサクラ大戦も)を終わっても何度も何度もやっていた。
兄とは幼い頃から結構遊んでいたはずなのだけど、とても思い入れがあったのはそれくらいしか思いつかない。
親も、他の兄弟も、友人も、奥さんもゲームには興味がなかったので、サウンドノベルゲームの話をできるのは俺くらいだった。
俺は街はやったものの詳しいわけでもなかったが、周りで自分の大好きなサウンドノベルゲームの話ができる人はいなかったらしく、たまに帰省で会うととても楽しそうにゲームの話をしていた。俺も楽しそうな兄の話を聞くのが好きだった。
最近たまたまゲーム系の記事を見て知ったのだけど、今生きてたら、たぶん十三機兵防衛圏にとてもハマってたんだろうなぁと思う。
5年経ち、ようやく自分の中で気持ちの整理がついてきて、兄貴とあの世で会った時の話題作りに十三機兵防衛圏をやってみようかなという気になってきた。
でも久しぶりのゲームだし、とても時間がかかりそうだし、システムも複雑そうで尻込みしている。
背中を押して欲しいな。