はてなキーワード: 殊にとは
「故人サイト」という本がある。
慣れ親しんだブログやサイトが突然更新されなくなっても、多くの場合は理由など分からないが、その本に出てくるサイトは、タイトル通り、管理人の死去によって「故人サイト」になったものばかりである。
例えば主が病没した場合も家族などがその旨を報告すれば、読者は悲しいけれどブログ主との別れを受容することになる。
刑事事件や不慮の事故、海外旅行先の病気などで命を落とされても、報道された人物と、ブログに綴られた情報とのシンクロに誰かが気づくことによって、多くの読者がブログ終焉の理由を知るに至るケースもある。
まさか、私が最も長い期間読んでいたブログが、これ以上ない衝撃的な形で、NHKのトップニュースになるような(6/26朝)経緯で、「故人サイト」の仲間入りをしてしまうなんて。
6月25日朝7時、いつものように「Hagex-day.Info」をチェック。更新されていない。予約投稿であろう「本日の一曲」もない。
いつだったか、数日単位で更新がなかったときは、「Hagexを心配する人の声まとめ」みたいなのもできる位マメに、精力的に更新されていたブログなのだが、朝イチでは更新されていないことは時にあるので、この時点ではいつもの朝だった。
25日の朝9時前、Twitterのトレンドに「hagex」を発見し、「へ~、何で?」と見に行ってみたら、とても信じられない、悪夢のような文字が。字は読める、意味は分かるのだが頭が理解しなかった。
確かに、地元の福岡で24日夜に勉強会をする旨を彼は告知していたが、まさか。
Twitterで「この被害者はHagexさんでは」という書き込みを読み進め、「福岡でセミナー講師が刺された」「講師とはHagexさんだったらしい」ということは飲み込めたが、「刺殺」ってなんだ。もう生きてないのか、死んじゃったのか。
どうしても飲み込めなかった。とてもじゃないが咀嚼できる情報じゃなかった。
刺された人がいたとしても、「人違いでした」というオチが絶対にあると思っていた(”ロング・グッドバイ”みたいに、仕組まれた替え玉じゃないか…と。代わりに死ぬ人がいなければ成立しない、酷い願望なのに本気で考えた)。
タブレットに表示されたHagexさんのお顔、お名前、知りたくなかった。知る必要なんてなかった。Hagexさんが自ら開示されるならともかく、いったい誰が、こんな形で彼の素顔を知りたいと考えるだろうか。
25日は他の事が手につかなかった。たまたま仕事を休んでいたのは幸いだった。26日の朝も、目覚めてすぐに「あれは夢だったのでは?」と思った。
夢ではなかった。
私が読み始めたのはいつ頃だっけ?と、記憶に残る最も古い記事を検索してみたら05年のこれ。
http://hagex.hatenadiary.jp/entry/20050813/p1
この少し前から読み始めていると思うので、約14年間の「Hagex-day.Info」の歴史のうち、約13年間、ほぼ毎日読み続けていたことになる。
その頃よく発言小町を読んでいたのだけど、Hagexさんやトピシュさんの言うところの「もやもや」を抱くことが多い。
「いや、これ創作でしょ」「これ、トピ主が変でしょ」等々、突っ込みを入れて楽しみたかった私が見つけたのが「Hagex-day.Info」だったのだ。
その他、発言小町のまとめサイトも複数あったのだけど、小町の運営会社から抗議があったらしく、ある時期に全てなくなってしまった。
Hagexさんも、「小町の運営会社からはてなに削除依頼があったが、削除依頼があってもきちんとユーザーサイドの意見を聞いてくれるのは大変嬉しかった。」と仰っていた。
その後、ブログで批判したサイトの運営会社から「名誉毀損、信用毀損」を理由に削除要請があった際も、即削除することなく、ユーザーの意見を聞いてくれたはてなに対し、「ユーザーに対して誠実な対応をしてくれた、はてなに感謝!」と綴られている。
それらを読んでいたので、私も「はてな」には良い印象を持っていた。
Hagexさんのブログ、ごく初期は普通の日記、その後は発言小町からの抜粋、発言小町からの転載が禁じられて以降は2ちゃんねるからのコピペが多くの割合を占める。
事件で初めてHagexさんのブログを訪れた人は、「ただのまとめサイト管理人じゃん。何を騒ぐことがあるのか」と思ったりするのだろうか。
そういう方(はてなにそんな人はいないか…)は、是非右側の「人気記事」に並ぶエントリーをクリックしてほしい。特に「Facebookはバカばかり」とか。
私は、2ちゃんからの転載も別に嫌いじゃないし、読み物として読んでいた。面白いと思ったものはブックマークもした。
しばらくの間は、「Hagexさんは、時折投入する渾身のエントリーをより多くの人に読んでもらうために、せっせとまとめサイト的な投稿をしてるのだろう」と思っていたのだけど、「三度の飯よりインターネットが大好き」な彼は、まとめ的投稿も結構楽しんでいるのだろう、と考えるようになった。
でも、Hagexさんの真骨頂は、やはり時折アップされる舌鋒鋭いネット批評。
Hagexさんのお蔭で、仕事と子育てに追われる私も、「デマは怖い。デマは、面倒でも火消ししなければすぐに広がってしまう」とか、「これ、掘って行ったらココと繋がるのか。やばいよね」等、ネットと、それに連なる世間の怖さを垣間見ることができた気がする。
あるいは、TwitterでRTされてきて、「何これ、こんな安い話によく食いつくよね」と鼻白む思いで見たサイトが、Hagexさんによってコテンパンに貶されているのを読んでスッキリしたり。
「“落としどころ”なんて言葉はオレの辞書にはない」と言わんばかりの、どこまでもしつこく、容赦ない筆致に、「これ、食いつかれたら大変だわ…」と嘆息することもしばしばだった。
一方、Hagexさんの映画や音楽評は実にユーモラスで、「観て(聴いて)みようかな」と思わせるものだった。Hagexさんのエントリーが切っ掛けで観た映画は少なくない。
その中でも最も素晴らしく、紹介してくれたHagexさんに感謝しているのは「ザ・フォール 落下の王国」である。
ハゲ子の社畜ぶりを自嘲するエントリーや最近飼い始めた「猫先生」を含む、Hagexさんの身辺雑記も楽しかった。
そういえば、「古本屋さんで買った本にかなり昔の写真が入っていた。アップしたら持ち主が見つかるかな?」というエントリーを写真とともにアップされていたこともあった。「写真、アップしちゃって大丈夫?」と思う一方、「Hagexさんロマンチストなのかな」と微笑ましく感じたエピソードだった。
Hagexさんは福岡出身で、貶しながらもこよなく故郷と博多弁を愛していること、タバコが大嫌いなこと、小児を性の対象にする行為を断じて許さないこと(当たり前の事ではあるけど、これに関しては殊に強いHagexさんの意思を感じた。)など、ブログを通じてHagexさんの人となりが、断片的にだけど見えてきたような気もしていた。
そんなHagexさんが、故郷で開催する初めての勉強会、その終了直後に問答無用で殺されてしまうなんて。
あれほどネット上の戦いに精通し、危機管理に自信を持っていたように見えた彼が、理不尽な暴力の前にはあまりにも無力だった(というか、誰だって無力だ)。
Hagexさんは、容疑者とされる人物が、自分と同郷だということを知っていたのだろうか。
酷すぎて、酷すぎて。
使い古された言葉だけど、これまでの人生で使う機会もなかった言葉だけど、「神も仏もないものか」という叫びが、私の中で暴れ続けている。
心中で叫ぶだけでは、やりきれなくて辛いので、心の赴くままにだらだらと綴ったのがこのエントリーです。
東京で行われた一回目の勉強会、結構本気で行きたかったのだが、幼い子を持つ身なので諦めていた。「これから勉強会を定例化するのであれば、いつか行く機会もあるだろう」と思っていたが、その機会はもう訪れない。私はHagexさんに会えない。
「落下の王国、素晴らしくてソフトも買っちゃいました!」と、なぜコメントを入れなかったのか。
明日も明後日も、ずっと続くはずの日常は、いとも簡単に、あっけなく断ち切られるものでもある。その理不尽さに、恥ずかしながらこの歳になって初めて接した気がする。
十数年の間、ブログへのアクセスが毎朝の日課だったので、今朝もついアクセスしてしまった。「注目記事」のトップにある記事のタイトルにまた悲しい気持ちになる。
「お前は一体彼の何だからこんなに湿っぽい記事をアップするのだ」と問われれば、「スミマセン、コメントも1~2度つけただけの一読者です」としか言えないのだけど、「それなのに、どうしてこんなに辛いのかな、悲しいのかな。」と自問自答しながら、べそべそと泣きながら、Hagexさんにこの駄文を捧げます。
日常どころか人生を、あっという間に断ち切られてしまったHagexさんはどれほど無念だろう。「安らかに」なんて白々しく言える心境じゃない…と思いつつも、それでもHagexさんの眠りが安らかであることを祈らずにはいられない。
「長い間、本当にありがとうございました。どうか安らかにお眠りください」
数年のブランクを経て、先月、金策とリハビリを兼ねてコンビニアルバイトを始めた。夕勤四時間を週に2、3回だ。
何せ久々の労働だし、以前の仕事先では使えないとかお前みたいな役立たず死ねばいいのにとか毎日面と向かって罵倒されていたので、今度は上手くやれるだろうか?というのんきな不安よりも、今度もまた死にたくなるほど詰られたり、なんのかんの言いくるめられて契約時間がどんどん引き伸ばされ連勤の嵐にのまれてブラック労働から抜け出られないようにされるんじゃないかっていう恐怖があった。
だが心配は杞憂だったようで、今のところこれまで働いたどの職場よりも快適な環境でルンルンの気分で働いている。
コンビニバイトはよく、覚えなければいけない仕事が多くてキツいと言われている。要領と物覚えの悪い私に勤まるのだろうか?と不安だったが、実際仕事について得たのは、私意外と要領も物覚えも悪くないんだ!?という発見だ。
思うに、毎日充分な食事と睡眠を取れて体のコンディションがよく、上司に些細な事で罵倒されず心穏やかに働けるのがいいのだろう。勤務日数も時間も少ないから疲れが溜まりにくいし。
小さなミスを何度も何度も重ねて客に胸ぐらを掴まれ泣きながら仕事をしていた若い頃の日々はなんだったんだろう?
なんだー、私だって落ち着いてやれば出来るんじゃん。一つ一つの仕事を速く正確にこなしていけるという、それだけの事が嬉しい。
私以外のアルバイトやパートの人達も、それぞれ無理ない時間で希望の収入が得られるだけ働いている様だ。
そういう環境を整備してくれている正社員の人達、特に店長や副店長はかなり過酷な労働をしていて、毎日の様に12時間以上勤務し、出勤時間も不規則の様だ。私など非正規は昼勤なら昼勤、夕勤なら夕勤だけと勤務時間帯が固定されているが、正社員は主に夕方~早朝の勤務、それに加えて非正規の休暇の穴埋めをしている。
今週は、高校生のバイトの子達が中間テストの勉強の為に休んでいるので、正社員さん達は特に忙しそうにしている。(私も1日出勤を増やしたけれど、私以外のバイトで高校生達の代わりに入ってくれる人は見つからなかった模様。)
殊に店長はゾンビ状態で、たまに遠くを見たまま立ち止まっているし、呼んでも反応がないこともしばしばある。
人手不足のお陰でいつの間にかアルバイトやパートが優位になりつつあるようだが、正社員さん達の様子を見ると、この状況は長くはもたないだろうなあと思う。
読んでくれてありがとう。
実例を、とのことで、何か著名なものを、と思ったのだけど申し訳ない、、
たぶん著名な作品で例はないや。
これを書いてる時に頭のなかで想定していたのは、いわゆるゲームや漫画の二次創作における表現のことで、その辺あたればたぶん結構な量があると思う。
↓根拠が貧弱で申し訳ないけど、ピクシブの百科事典にも「しばしばこの「月が綺麗ですね」と「死んでもいいわ」はセットで使われる。」とある。
https://dic.pixiv.net/a/%E6%9C%88%E3%81%8C%E7%B6%BA%E9%BA%97%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%AD
あとは…私の観測範囲では、艦これの二次創作(特に鳳翔というキャラ)において、数ページの漫画をツイッターやピクシブにアップされたものをみていて、殊に感じたしだい。
1997年に結成した彼らは、00年代V系シーンにおいて、その重厚なサウンドと自他への憎悪や怨念、そして寂寞の篭ったような世界観という強烈な個性から、多くのファンを獲得し邁進してきた。
そしてその世界観を自ら打破し、ロックやテクノ、メタル等の様々な音楽要素を取り込むなど、新たな個性として「多様性」を得た結果、今やファンも老若男女様々な層が増え、20周年の今年は日本武道館2days公演を納めただけでなく、更に年末にもう一度玉ねぎの下で大規模な主催イベントを控え、その日に向けて日夜怒涛のツアーやイベントに勤しんでいる。
私は、ファン歴で言えば中堅どころにあたると自負している。
もう十余年もムックの音楽に浸り、彼らのライブサウンドに酔い、最早生き甲斐やライフサイクルの一環として「次のライブに行くために、また彼らの音楽を生で楽しむために」と社畜生活に従事する日々。
長らく夢烏(=ムックのファンの呼称。ムッカーと読む)を続けてきて、もちろん不満に思う事や上がろう(=ファンを卒業しよう、追っかけをやめよう)と思った事も多々あった。
しかし彼らの最大の魅力は良くも悪くも「変化し続ける事」と「ファンを裏切る事」である。
何だかんだと文句を垂れ、貶しては「やっぱりムックは最高だ」と舌を巻く羽目になるからこそ、次の良い裏切りを期待して離れられずに、盲目的に好きであり続けている。
そして自身の周りの夢烏仲間も「だせぇwww」「無いわwww」「新アー写ぶっさwww」等と貶しては、生のパフォーマンスを拝んだり、新しい歌詞を読んで「やっぱムックいいわ…好き…かっこよすぎ…」と滂沱と溢れる涙を拭い、感涙に咽びながら新しい告知に躊躇無くクレジットカードを切っていた。
2008年夏にリリースされた19枚目のシングル、「アゲハ」。
このリリースをきっかけに、あるバンドのファンが怒涛のようにムックに流れ込んできた。
ムックと同じ事務所に所属する大御所バンド、L'Arc〜en〜Cielのファンである。
このシングルにはラルクのギタリスト、Kenが楽曲のプロデューサーとして参加している。
日頃ラルクの活動の無さに飢えているファンが、ラルクの片鱗を求めてムックの音楽に興味を持ったのだ。
ムックは元々、リーダーであるギタリスト、ミヤのワンマンバンドである。
幼い頃より音楽を嗜み、プロデュース、作曲、編曲等々多方面のマネジメントを行うミヤに対し、音楽のド素人から始まった他メンバー。技術的な部分から何から、3人はミヤに首を垂れ従い続けるのが常であった。
「メンバーもファンもひたすらミヤのご機嫌取りに徹するバンド」等とも称される事もあったし、夢烏を自認する私も事実そういうバンドだと自覚する。
なお余談だが、興味のある方は是非今年リリースされた「M」というインタビュー本をご一読頂けるといいだろう。
リーダーから何故出来ない、お前に期待しているのに、というスパルタ虐待親よろしく高いスキルを要求され、心身に支障を来たす者もいれば、トラブルを起こす者もいた、解散しなかったのが不思議でならないかつての殺伐としたムックが。
そして20年という歳月を経て、ようやく分かり合おうとし、ほんの少し分かり合えるようになってきた彼らの、ありのままの成長の軌跡が綴られている。
さて、そんなムックが、よそのアーティストにプロデュースを頼むだなんて。
当初は「は?ムックのサウンドが好きなのによそにプロデュースされるとか無いわ」という気持ちと「あのとんでもワンマンバンドがよそに力を借りるなんて、少しは丸くなったんだなぁ」という気持ちを抱いていた。
実際楽曲そのものは、これまでのムックには無かった新しいテイストが組み込まれ、彼らの「多様性」に新たな1ページが加わったなぁと感慨深かった。満足であった。
しかしそのシングル曲が含まれるアルバムツアーから、ライブ公演に違和感を覚えるようになった。
「アゲハ」と、同アルバム収録のもう1曲のKenプロデュース曲「空と糸」のイントロで、何故か、黄色い悲鳴が上がる。
V系というジャンル柄、ファンは盲目的に思い入れを持つ曲が各々あったりする。また歴史を重ねるごとに、昔の音源はだんだん演奏頻度が下がる。
そうした中で、たまにいわゆるレア曲を演奏したりすると、イントロの時点で泣き出したり、歓喜の絶叫を上げるファンは沢山居た。
何ならこのツアー中は100%演奏するし、シングル曲故に今後もセットリストに組み込まれる可能性は非常に高い。
私はただたた首を傾げる事しか出来なかったし、周りの夢烏友達もそうであった。
その正体に気付いた時には、奴らはすっかりムックに居座っていた。
あれは忘れもしない、某年の恵比寿リキッドルームでのライブ。
早めに着いた私は、グッズ販売の待機列で友人を待っていると、数人程前にやたら声の大きい2人組が和気藹々と歓談していた。
V系のファン=バンギャもある種のキモオタなので、声が大きいのもよくある事だと、会話をBGMにTwitterを眺める私の耳に、信じがたい台詞が飛び込んできた。
「ムックはチケ代が安いから、ラルク待ってる間の暇潰しにはコスパがいいよね」
「Kenちゃん、ゲストで来てくれないかな。Kenちゃん見たい」
先の台詞は百歩譲って許そう。
いくら盲目に、宗教的にバンドを愛するバンギャと言えども、複数のバンドのファンを掛け持ちする事はザラだ。
特に本命バンドの活動が乏しい場合、あの爆音の非日常空間が恋しいあまり、他のバンドに手を出す事はしばしばある。
そして本命バンドと比較して、やっぱり本命バンドが一番好きだという実感を改める事は私も多々ある。
ムックが一番好きな人達ばかりのアウェイ環境で、よくもまあ大声でそんな事がしゃあしゃあと抜かせるものだと少しイラつきはしたものの、気持ちは分からなくもない。
しかし猫も杓子も二言目だ。
そう言うのならばKenソロのライブに行けと。公演が無いならばDVDでも観ていろと。チケットに書かれた出演者をよく観ろと。貴様の目は節穴かと。ムックにラルクの片鱗のみを求めているのかと。
音楽シーンにおいて特に興衰の激しいヴィジュアル系というジャンルでは、新たなリスナーの獲得が今後の生死を左右する。だから、新しいファンが、殊に音源やグッズを購入し、ライブにまで足を運んでくれる存在が増えるのは大歓迎だ。
それでもムックの純粋なファンではなく、ムックを通して結局ラルクしか観ていない。カードだけ剥ぎ取られて、開封もせずに捨てられるプロ野球チップスのようだと感じられる、ムックが本命バンドの自分からすれば侮辱としか思えない発言だった。
気持ちは分からんでもない。ただせめてこの場においては、まっすぐにムックを観てくれないものか。とにかく不愉快で悲しくて仕方が無かった。
しかしムックは、みるみるそれらのファンを増やし、固定させていった。
その後もKenのプロデュースの機会も増え、ラルクメンバー絡みのイベントに参加し、オールナイトイベントなんかにも出るようになり。いつかの2人組が望んだ通り、ワンマンライブにゲストで現れるようにもなり。
気付けば、スタンディングのライブで友達とはぐれた時、自分の周りにいる人間は知らない空気を纏っていた。
先述の通り、私はファンが増える事は喜ばしく、歓迎すべき事だと思っている。
以前はモッシュピットに棒立ちで、ぶつかられ露骨に嫌そうな顔をしながらも近くで見たいからと動かない、危なっかしい新規ファンも居たが、最近はムックのノリに慣れたのかそんな人間も見かけなくなった。
ムックそのものをちゃんと観に来ているファンが増えた実感もある。
しかし、あれからずっと変わらずKenプロデュース曲で上がる黄色い悲鳴。
チケットのファンクラブ先行受付がある度に、既存の夢烏同士の規模を圧倒的に上回る人脈での人海戦術で、人数の何倍も申し込んでは、ひたすら身内に、余れば興味の薄い人間にまで回されるチケット。
「ムックは昔から、皆仲が本当に良い」「ボーカルさん可愛い、女の子みたい」「リーダーさんが人を殴るなんてありえない」という、誤解を超えて定着してしまった新しい解釈。
そして何だかんだ言っても結局、Kenが関わる話題が上がっては「Kenちゃん来ないかな」。対盤で未発表枠が告知されては条件反射で聞こえる「絶対ラルクでしょ」。
何より許しがたい、「今のムックの動員や売り上げは、ラルクに支えられているようなものでしょ」という、あまりにも乱暴で横柄な認識。
そして自分達が総意であり真実であるかのように振る舞う。いつしか私も、仲の良かった旧来の友人達も、周りを念入りに警戒してから遠慮がちに感想をぼやくようになった。
もちろん、いいファンと悪いファンがいるのは重々承知しているし、それは旧来の夢烏にも言える事だ。
それでも、メンバー間のトラブルや修羅場があったからこそ生み出された過去の楽曲やパフォーマンス。そして背景としてそれらがあったからこそ、紆余曲折と凄まじい努力を経たからこその「今の彼ら」が在るのに、「今の彼ら」しか切り抜かれていないようで悲しく思えてならない。
V系における2ちゃんねるのような某掲示板で、貢ぎやセフレ要員として簡単に繋がりを持てると、繋がり入門麺とまで称されたメンバーに対して、手放しで可愛いだの聖母だの褒めちぎる。
バンドの運営をほぼ全て自分を中心に回し、ステージでミスしたメンバーや段取りの悪いスタッフを一切の遠慮なく睨み付け、手や足を出す事もザラだった、田舎のヤンキー気質の抜けないワンマンリーダーを、優しいだのと聖人君子のように捉える。
先述のメンバー程よろしくなかなか女関係が汚く、今やすっかりほうれい線の強い老け顔に対してただただ馬鹿のひとつ覚えのようにかっこいいを連呼する。気持ち悪さが売りであり、コールアンドレスポンスとして罵声が求められるパフォーマンスに対してきゃー可愛いなどと場違いな歓声を上げる。
元よりお馬鹿キャラではあったものの、立派な一人の成人男性としてオフショットでは煙草を吸ったり、平均的な態度振る舞いである事は容易に見て取れるのに、そうであると押し付けんばかりにひたすらバカわいいなどと称する。
昔の楽曲も好きだけれど、暗いから最近の曲の方が好きだなどと抜かす。
汚い部分もひっくるめてのムックは今時のファンの中では息絶え、やがてムックの中でも無かった事にされるのだろうかと、一抹の寂しさを抱いた。
ファンの在り方は様々だ。貶し愛と呼ばれる、極端なツンデレのような愛し方をする者もいる。ガチ恋と呼ばれる、本気で結婚したいと考え必死に札レターを贈る者もいる。アイドルのように無条件に可愛いかっこいいと愛でる者もいる。
ムックが本命バンドの人間もいれば、他のバンドが本命だという人間もいる。
必死な人もいれば、緩く追っている人もいる。
十人十色、千差万別。色んな愛し方があって当然だし、「多様性」を強みとするバンドならばファンも多様であっていいと思う。だからこそムックは、色んなものを身につけ、色んなものを培い、色んなものを味方につけて、色んな道を歩んできた。
とりあえず、これからもムックに金を落とし続けてくれればそれで結構なので、頼むからせめてダイブする時は柔らかい靴で・アクセサリー類は外す・髪は括る・ステージにもフロアにも余計なアピールをせずさっさと転がって降りるの4点くらいは徹底をお願いしたい。
それと人海戦術チケ確保も程々にして頂きたい。激戦チケットとの交換カード用に、自分にとっては余計なチケットを申し込んで転売するのもほんとに勘弁して下さい。
あーあ、やっぱりラルクソ居なくなって欲しいな。何だかんだ言ったけど、やっぱ存在が無条件にただただムカつくし気持ち悪いわ。
さん付けとかたつえちゃん呼びもきしょいし、下手くそな小学生の夏休みの工作以下のお手製土産(笑)を「声かけて下さい!」とか拡散してるのも本当にきしょい。
それもラルクソの文化?男性アイドル追っかけてる夢女子腐女子のオタ中学生みたいですね。
ガチ恋も増えた臭いけど、やってる事だけじゃなくて身なりもオタ中学生みたいな糞ダサデブスだし、見た目も繋がるためのお金も何の努力もしてないから本当に見苦しい。
せめてまず痩せろよ。1人で2人分くらいスペース取ってるデブ本当に殺意沸く。
何食ったらそんなデブになるの?何処かの相撲部屋に所属してるの?ちゃんこが美味しいのは仕方ないだろうけど、ここは土俵じゃないんですよ。
万が一にも動員落ちたら1人でチケ20枚くらいは買い支える気持ちでいるから、ここらで一発ムックには炎上してみて欲しい。
物心ついてからというものの、BGMが流れている店が嫌いである。
服屋にせよ何屋にせよBGMが流れていると腹が立ってくるのだが、殊に飲食店でBGMが流れてくると味どころではない。戦争が始まる。
とりあえず何かしらの音楽を流していれば体裁が整うと思っているのであろうが、俺は騙されないぞ。
かつてドイツに行った時は店にBGMなんて流れていなかった。ドーナツ店。刺青を入れた2mくらいの屈強な碧眼の店員が無言でドーナツを売っている。異様な緊張感が支配する店内。ドーナツが皿に投げ付けられる。釣り銭は正確。
日本の店にはこういった緊張感が足りないんだよ。頼めばコーヒーのおかわりをくれたぞ。いい奴じゃねえか。
まあともかくドーナツはうまかった。ラムシュタインみたいな連中とドーナツと濃いコーヒーだけが記憶に残り、強烈な思い出として俺の頭に登記済みだ。機会があればまた行くだろう。
マニュアル化が進んだ日本の接客稼業はこういったバラエティを提供できなくなりつつあり、いずれは滅ぶ運命なのだ。
俺は店内BGMが滅ぶまで待てないからいくつか疑問を投げ掛けたい。店内BGMを流すと得するのか?俺の脳に嗅覚と味覚の処理をさせろ。耳に瞼はない。
知っているぞ。大音量で聴覚にアプローチすることで正常な思考能力を奪い、消費欲求に抗えなくするのだ。郊外のドラッグストアがよくやる手法だ。BGMに限らず、お買い得情報を爆音で流してうんざりさせ、値段を確認させずにレジへと向かわせるそのメカニズムは、まさに知性に効くドラッグだ。その手には乗らないぞ。
ちなみに俺は仕事をしている時は常に音楽を流している。音楽を流している間は余計な事を考えられなくなり、仕事に集中できることを知っているからだ。
視覚というものがある程度意識と密接な繋がりを持っているのに対して、聴覚は無意識的に作用するのではないか。最近『虐殺器官』を読んで、この考えはより確固たるものとなっている。
前述したように耳に瞼はないのだが、音楽を聞いて感動するのも、怒号を聞いて恐懼するのも、意識がその意味を理解して感動しあるいは恐懼しているのではない。聴覚は意識的な選択を行うよりも前に脳に作用し、感情の惹起や行動の促進を引き起すのだ。インドカレーの店で流れているインドっぽい音楽は、あれがインドっぽいと脳が理解したからインドっぽいのではない。あの音楽を聞いた瞬間に、脳が自動的にインドを惹起するのだ。一度でもあの音楽を聞いたことのあるお前はインドからは逃れられないのだ。
ともかく飲食店でBGMが流れていると余計なイメージが惹起されて迷惑しているので、静かに集中して食事に集中するためにも、店内でのBGMの使用を控えていただきたいと主張していく。
Twitterは最初周りでは「オタクの集まりでどんなヘンタイ発言も許容してくれる」みたいな扱いだったのに今やマナーがどうだとかやっぱり腐女子ルールができた。
オタクの集まりでどうこう、にかんしては、腐女子だけの問題ではないようにおもう。
殊に「ツイッター的発言」をするツイッターアカウントは許さないみたいに言う「新参勢」が「古参勢」と喧嘩してたりする。
自分もネットやってるのに「ネット民キモい」って叩きまくる人とか。
ネットでネットスラング使う人が叩かれててどうこうって話はだいぶ前にここであったけど、
旧陸軍の、殊に青年将校の精神性が強く残っているのはミャンマーである、と説いていた教授なら知っている。ってか師事していた時の余談で出てきたんであるが
*まあ、こんなところで言っても信じられないだろうが、至極真っ当な(左派から見れば、リアリストであるがゆえに軍国主義者と罵られるだろうが)先生です
曰く、見よ血縁でも地縁でもないにも関わらず存在する鉄の紐帯を、農村に対する厚遇を、裏切り者や内ゲバがの少なさを、さらに(比較すれば、ではあるが)蓄財も少ないではないか、と。あれこそがある意味で旧軍の青年将校が求めた道であったと。
んなわけあるかい、と思ったが問題はあるにせよ割にすんなり民政移管に政権交代を許したことは、何かしら特殊なものを感じる。そもそもああいう体制で、保証があるとはいえタン・シェがちゃんと身を引いたというのは確かに驚異的な話ではある。
なお、軍の行進様式は旧軍に似ている。これは曰く「泥田の中を歩くためのモノである」という。確かに稲作国家ではあるが・・・。
茂木健一郎のTwitterが盛り上がっている。(一番盛り上がっているのは茂木自身だ)
なにやらTVに出ているコメディアンの国際的水準に満たない陳腐な笑いに辟易してるらしい。(笑い話では無いようだ。)
しかし、なにやら今回の主張は違和感がある。なぜ、コメディアンの国際的水準に合わせないと日本の芸人がオワコンになるのだろう。ネトウヨがこの論理を使えば国際的に見たときに日本の憲法は国際的水準を満たしていないからオワコンだ、となりそうなものである。(実際にあったよね。)
冷静に見て、明らかに今回の茂木の主張はその国固有の文化に対する感性が発揮されていない。
本来、茂木の日本のマスメディア、殊にテレビ報道に対する姿勢が、今回の主張のような論理であったはずだ。この先茂木は、政治、報道、お笑い、映画、音楽、小説、コラム......と続いてついには日本人の精神構造は欧米人に達していない、キリストを崇拝すべきだ、とも言いかねない感じもある。(あるいはない。)
私の診断はこうだ。マスメディアに対する積年の恨みを書いていたら突然テレビで日本のお笑い怪獣が東大生と仲良く馬鹿をやっていた。茂木は東大生の劣化を憂いつつトランプに代表されるような、各国のナショナリズムの高まり、および人種差別運動の拡がりが駆け巡り、アカデミー賞での気の利いたユーモア(少なくともアメリカでは気の利いたという事になる)と、こんな日本が不安に苛まれている時に実に緊張感(ここで言う緊張感とはお笑い芸人の芸に関するものではなく、政治に関する鋭い批評の事である)のない笑いに、、、キレたのである。
日本のお笑いの真っ当な批評は別にあるはずだ、と思わせるくらいに茂木の主張が陳腐なのはこのような理由からだろうとしか思えない。(陳腐というのは日本のコメディアンと一括りにする乱暴さと、先述の固有の文化に対する感性の薄さである。)
お笑い芸人達が鎬(しのぎ)を削って作り上げた真っ当な日本の笑いが今後も、例え憲法が改正され日本が何処かの国と戦争しても、ヘイトがますます勢いを持っても、茶の間にあり続ける事を願うものである。
『伝奇』とは「普通には起きようもない話」が辞書的な定義みたい。
エロゲでいうとこのちょいファンタジー要素のある鍵作品は伝奇に入るか? の回答は厳密にはYesなんだろうけど
奇の部分をメインに語ってる訳じゃないし。
要は「それまでの日常に、非現実的な非日常が持ち込まれる話」みたいな定義なのかもしれない。
たぶん夢枕貘とかの「伝奇バイオレンス小説」が流行ったあたりからイメージが変わってきたんだろうけど、「竹取物語」とか「日本霊異記」とか、そういうのが本来の伝奇ですな。
ホラー的なものもあるけど、もっと広い意味での「空想物語」っつうか。
ついでに英語でいうとromanceなんだけど、こっちはこっちでまた意味が変っちゃってる。
【1】伝説、伝承(神話など)あるいは、伝説上の存在(魑魅魍魎の類、鬼とか)をストーリーに絡める
2.が分かりづらいかもしれないけど。なんていうか、気がついたら異世界に 片足突っ込んでいたという感覚、自分が正しいと信じていたものが実はそうではないかもしれないという感じを登場人物が抱くといったら少しはわかりやすいかな。
伝奇エロゲーには人ならざる者が出てくるゲームは結構あるけど、 周りの人間があっさりとそれを受け入れていて、2.の感じが出てないのは伝奇とは違うかもしれない
■『伝奇』
gooのネット辞書あたりで引くと「怪奇で幻想的な物語」とかナメた反応が出る。
これを言葉通り捉えてしまっては頭に述べたように本当に何でもアリになってしまうので少し、伝奇モノの歴史を
語っちゃおう。
そも、伝奇というジャンルの開祖としてよく挙げられるのは半村良です。
70年代のことですね。
無論、国枝史郎等の先達があってはじめて彼が浮かび上がるわけですが、
それまで単に荒唐無稽な物語として埋もれていた伝奇というジャンルを復興し、
HMにおけるブラックサバスみたいな存在なのです。(ちょっと違うか)
そこに科学的な(というよりSF的な)メスを入れることをその切り口としています。
「現代に起こる怪事件を、神話や伝説にその因を求め、解決していく」というものが、
YU-NOなんかにも通じるスタイルです。
(もっともあれはワイドスクリーンバロック的な造りをしているので、伝奇の枠に入るとは思っていませんが)
その、半村の引いたレールの上に乗ってきた後続者たちが荒巻義雄、志望田景樹、谷恒生といった人々です。
推理小説であったり、冒険小説であったりする色を添えて、独自の作品を作りました。
伝奇が半村一人のものではなく、一つのジャンルとして成長を遂げた瞬間です。
前者が格闘技の要素を、後者がスプラッタ・ホラーの要素をぶちこむことで生まれた
「伝奇バイオレンス」というジャンルは凄まじいまでの人気を誇りました。
おどろおどろしくも官能的な美女の絵で彩られたノベルズの表紙に、まだ小学生だった私は、
「バンパイアハンターDの人の本だけどエッチな表紙すぎて買えないよぅ」とか思ったものでした。
数多くのフォロワーを生み、まさしく時代の寵児となった伝奇バイオレンスですが、
80年代後半の黄金期を最後に、ノベルス界王者の椅子をミステリや仮想戦記ものに譲ったばかりでなく、
幾つか理由はありますが、一つには伝奇+バイオレンスだった筈の作風が
バイオレンスの側に大きく傾倒してしまったことが言えるでしょう。
殊にセックス描写等に関しては、ポルノ同然の有様であったといえます。
伝奇的な設定の妙にしたところでオカルティックな、とってつけたような設定をもってこなされ、
粗製乱造がなされていったのです。
まあジャンル全体の質が低下してしまったことで、ブームの終焉が訪れるのはやむをえなかったのでしょう。
さて、こうして伝奇モノは数ある中の一ジャンルに帰ってゆくのですが、
エロゲーライターにおいてもそれは同様で、「痕」の高橋龍也なんかの(エロゲーにおける)先達は、
間違いなく彼らの血を引いていると言えるのではないでしょうか。
これを読んでくれている皆さんの方が詳しいだろうと思います。
ここまで言って結局私が何を言いたいのかというと、一つには伝奇の歴史を紐解いて分かるように、
このジャンルはあらゆる別ジャンルのものと化学変化を簡単に起こすということです。
エロゲーにおいてもやはりそうで、因をクトゥルフ等に求めるものは「伝奇ホラー」、
さっきから板違いっちゃ板違いで扱いにくい痕なんかは「伝奇SF」に本来ならカテゴライズされるものでしょう。
そういう意味では寧ろ物語構造の方にその特色が強いジャンルだとも言えます。
白鳥異伝を読んだ。久しぶりの読書。読みきった充実感はあるけど、荻原規子の小説は自分には合わないのかもしれないと思った。
少女が主人公だから仕方がないのかもしれないけど、白鳥異伝も少女小説っぽいなって感想を持った。生まれ持った使命や純真な恋愛などもろもろもの要素を練り込んだ大作になっていたと思う。
空色勾玉よりかエンターテイメント性に指針を振っていてので読んでいて楽しかった。特に小倶那の出生および悲劇的な運命は読ませるものがあったと思う。本当に可哀想な男の子だった。
一方の遠子なんだけどすごい癖のある人物で困った。最後の方は好きになれたけど、中盤は本当にきつい。菅流に指摘された通りの思い込みの激しい人物で、なおかつ直情的なもんだから本当に共感しづらかった。初めに少女小説的って言ったのはこの遠子の性格が原因。彼女に感情移入できるならかなり楽しめる作品なんだと思うんだけど、自分には難しかった。
また遠子に限らず、登場人物が揃いも揃ってものすごく感情に忠実なもんだから思わず突っ込みたくなった。激情に駆られても理性が勝って冷静な判断をする場面が、殊に遠子に至っては殆ど無かったんじゃないかと思う。何やってんだよと何度か思ってしまったし、またこうなるのかとうんざりすることも多かった。
また古代日本を舞台にしたファンタジーだから当然とはいえ、折に触れて運命やら定めやらのキーワードが出てくるのも辛かった。その運命なり定めなりにしても、内実をある程度明らかにしてくれていたらすんなりと読み込めるのだけれど、ぼんやりとぼやけたままある状況下に陥ったのはお前の運命なんだよみたいな流れが出てくるのでもやもやした。まあ運命やら定めって言葉はそのように使いのが普通なのかもしれないけれど。
これら二つの気になる箇所が所々で悪魔合体したかのような読書感を与えてくるもんだから閉口してしまった。もちろんそのように感じる方にも問題があるんだけど、なかなかに辛かった。二度目読むときはその時々の登場人物が抱いている本当の感情がわかっているから楽しめるような気がする。一度目は文章だけを頼りに頭空っぽにして読んではつらいと思う。いろいろ想像して書かれていな本当の気持まで読まないと楽しめない小説なのかも。
その他の人物について。菅流がとびきり良い人物だった。喧嘩っ早くておちゃらけてて尻が軽いのに、面倒見が良くて優しい菅流は遠子と小倶那のいいお兄さんになっていた。七掬や武彦みたいな年長者たちは相変わらずどっしりと構えていて頼りがいがあった。
結局この物語は大王が糞なのと、百襲姫が狂ってたのが元凶だったのかなあ。妄執というものは何に対してであれ恐ろしいものだと思った。
二巻三部に渡る物語で、それぞれガラリと話の感触が変わるけれど、一貫したエピソードでもって引っ張っていく小説だった。今度は薄紅天女を読む。
「上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利きの眼に合ふ事なし。」
およそ、能の名望を得る事、品々多し。上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利きの眼に合ふ事なし。下手にて目利きの眼に叶はぬは、不審あるべからず。上手の、目利かずの心に合はぬこと、これは、目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん爲手ならならば、また、目利かずの眼にも面白しと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とを極めたらん爲手をば、花を極めたるとや申すべき。されば、この位に至りたらん爲手は、いかに年寄りたりとも、若き花に劣る事あるべからず。されば、この位を得たらん上手こそ、天下にも許され、また、遠國・田舎の人までも、遍く、面白しとは見るべけれ。この工夫を得たらん爲手は、和州へも、江州へも、もしくは田楽の風體までも、人の好み・望みによりて、いづれにも亙る上手なるべし。この嗜みの本意をあらはさんがため、風姿花傳を作するなり。
かやうに申せばたて、我が風體の形木の疎かならんは、殊に/\、能の命あるべからず。これ、弱き爲手なるべし。我が風體の形木を極めてこそ、遍き風體を心にかけんとて、我が形木に入らざらん爲手は、我が風體を知らぬのみならず、他所の風體をも、確かにはまして知るまじきなり。されば、能弱くて、久しく花はあるべからず。久しく花のなからんは、いづれの風體をも知らぬに同じかるべし。しかれば、花傳の花の段に、「物数をつくし、工夫を極めて後、花の失せぬ所をば知るべし」と云へり。
一、この壽福增長の嗜みと申せばとて、ひたすら、世間の理にかかりて、もし、欲心に住せば、これ、第一、道の廃るべき因縁なり。道のための嗜みには、壽福增長あるべし。壽福のための嗜みには、道まさに廃るべし。道廃らば、壽福おのづから滅すべし。正直圓明にして、世上萬徳の妙花を開く因縁なりと嗜むべし。
およそ、花傳の中、年来稽古より始めて、この條々を注す所、全く、自力より出づる才覚ならず。
于時應永第九之暦暮春二日馳筆畢 世阿
河川敷を走る一台の三輪車。前には5歳と7歳の男児。そして、少し女の人が一人。日傘をもって歩いてる。
走るといっても、母親の歩く速度とそう対して変わらない。
二人の兄が、ときおり、かわりばんこで、三輪車を押して走る。そのときは、きゃっきゃと笑って、自分が及ばない速度を体感して喜んでいる。
秋晴れの雲ひとつない透き通った空が、4人を見下ろしている。
優しい風が、いつまでもこの時間が続きますようにと、祈りを捧げて通り抜けていく。
川面は絶え間なく秋の日差しを反射し、きらきらと輝いている。あぁ、ずっとこの時間が続けば良いのに。
「お母さん、もういくの?」幼く、高く透き通った声が母を求める。
午後2時の陽気は、永遠の幸せを一瞬に詰めて降り注いだような、暖かなものでした。
深まる夜のにおい。僕はこのにおいが好きだ。
好きだって言うと語弊があるかも知れない。でもずっとかいでいられるってことは、きっと好きなんだろう。
いつだってそばに居て、手を伸ばせば、いや、手を伸ばさずとも、いつも忍び寄ってくる。
殊に、誰もいない夜道を歩いてるときなんかは。僕は時々、こうしてあてもなくふらつく。
そして夜の臭いを手のうちに握って持ち帰る。この孤独の感覚を握りしめていないと、気が狂いそうになる。
ジャケットのボタンをひとつ留める。首回りのガードを固める。夜が入ってこないように僕はフードも深く被る。
入ってきたら一巻の終わりだ。夜は手に握りしめていなければだめだ。
砂利が踏まれる。
今日はどこへ行こうか。
確かに、川本くんはそうではなかった。小学校の頃の彼は、優しくて、人を笑わせるのが好きで、まぁ、お調子者であったり。
ところが、中学に入ってから人が変わっちゃったんだな。人が変わるって言い方も変だけど。でも川本くんは変だったからしょうがない。
僕の知ってる川本くんは、なんだろう、怯えていた。
もっと違う言葉で表現しようとしたんだけど、僕はそのことを知ってるからそうとしか言えないな。
何も知らない頃だったらもっと違う言い方をしたと思う。例えば、「怖かった」とか。
そう、川本くんは怖かった。それが、僕がその頃、周りの人から聞いた川本くんの感想だった。
「てめぇ、何してんだよ!」
「…ごめん」
昨日までの親友はもういなかった。「子供にはあること」かもしれない。
けれど小さな心には、混乱をもたらすばかりであった。
川本くんが遠くから来てたってことは割と有名だったし、遠くに行ったってことももう一方では有名だった。
ごめん、今日はこれ以上は書けない。川本くんが探し出されてしまうようなことについては僕にきかないでほしいし、誰にもきかないでほしい。
とにかく、川本くんが中学にあがるころには、川本くんはほとんど一人で、両親とはもうほとんど会えない状況になってたってこと。
それだけわかってもらえれば良い。
川本くんが殴った理由なんだけど、だいたいもうわかったろ。またもっと具体的に書くかも知れないけど、
だいたいこんなところなんだ。川本くんは優しかった、優しかったけど、馬鹿だったんだよ。
僕は今これ以上具体的なことを書くつもりはない。
体が冷え切る前に、行かないと。
痴漢や女性専用車両の問題を語る時、二言目には「冤罪がー」と言う輩がいる。私はこの様な輩をただのミソジニーのアホなんだと思っていたが、もしかするとここにはある種の内実が有るのかもしれないと思ったのでそのことについて綴りたい。断っておくとこれは私の思いつきであり具体性は無い、形而上の上滑りした話であることは初めにお断りしておきたい。フェミニスト及び親フェミニズムな方に問いたい問がある、以下の様なものだ。
『痴漢冤罪による男性への暴力は女性の権利として正当化されるべきであろうか?』
前提として私は男性であり異性愛者である。痴漢は(主として)男性から女性に齎される暴力で、これは擁護の余地のない加害行為であると考えている。また痴漢冤罪の問題は極めて刑事司法上の問題であり、そこで行われている「人質司法」や「自白強要」などは痴漢という犯罪に於いてのみ特異な事柄では無いので、ことさら痴漢という犯罪についてだけ冤罪の問題を声高に叫ぶのはおかしいと思っている。前提終わり。
この問題について常々疑問だったのは、「なぜ女性は痴漢問題に於いて冤罪の事を持ち出す人間を批判しないのだろう?」ということだった。これは私の観測範囲であまり見受けられなかっただけで実際にはそのような議論をものしている方もおられるのだろうとは思うが、兎に角私にはそう思えた。先にも述べた通り痴漢と冤罪は全く別の次元の問題であり、痴漢被害を受けた、受けたと思い込んでいる、受ける可能性に晒される事を甘んじて受け入れねばならぬ満員電車に乗る女性が負うべき責任では無い。であるがしかし、昨今痴漢冤罪は結構メディアを賑わせているトピックであるし、殊に痴漢という罪に於いては証拠など無くとも「弱者」である女性の告発が事実上強いパワーを持っているように見える構造があるのが現実である。この様な現実に対しては女性側から「確かに冤罪の問題は解るがそれは刑事司法の問題で、痴漢の問題とは別に議論すべし」と宣言する事が必要であるように思うのだが、その手の言説は痴漢問題のたびに「冤罪!冤罪!」と喚く輩と比すれば余りにも少ない。
痴漢と冤罪の問題を切り分けないといつまでも男女の溝は埋まらぬよな、と思う私はこの時ふと思いついた。これは恥ずかしい話本当にただの直感なのだけれど、もしかするとある種の女性の側こそが痴漢と痴漢冤罪の接近を温存したいと言う理路もありうるのではなかろうか?言うまでもなく痴漢という犯罪の前にあって女性は被害者である。被害者である女性が被害事実を以って加害者を告発するのは当然の権利である。痴漢という羞恥させる類の犯罪では泣き寝入りも多いであろうから成る可く告発し易い土壌作りも必要である。しかしそれも行き過ぎれば毒となる、痴漢冤罪に於いては刑事司法制度上被害女性を手厚く遇しすぎている面が拭い難くある。そして人は被害者であるが故に加害者になるということをとても容易に行う。戦前のドイツが、日本が、部落解放同盟が、中国韓国の一部の民族的イデオロジストが……etcetc、様々な場所や時代に於ける「弱者」がそうであるように思う。
痴漢の疑いをかけられたものが雪冤を果たすのがどの程度難解なのか、本当のところは解らない。特に昨今はメディアで痴漢冤罪が取り沙汰されることも増えてきているので、完全に否認している人間を捕まえてそこまで強引に長期拘留などということも出来なくなりつつあるのが現実ではなかろうかとも思う。しかし世間一般に流布されているイメージは違う。
「否認などしようものなら長期間の拘留により必ず社会的地位を失陥する」
「疑いをかけられた無実の人間が選ぶ最も賢い行動はその場からの逃走である」
これらは必ずしも真実では無いかもしれない。しかし現代の神話として男女問わず相当な信仰を得ているストーリーではある。この現代の神話に於いて男性は男性であるというだけで例え無辜であっても常に社会的地位を一瞬に失うリスクに晒されており、彼が男性であるが故に弁明も許されず、出来ることはその場からの遁走だけであるというのだ。これは凄まじい「パワー」であると言わざるをえない。(何度も言うがこれが事実かどうかはこの場合関係がない)「被害者」で「弱者」である女性がこの「パワー」を欲していると疑うのは穿ち過ぎだろうか?この「パワー」を以ってして「加害者」である男性に隠微な復讐を企図していると考えるのは私の被害妄想だろうか?
私は今まで痴漢問題に於ける女性の立場を「女性は被害者であり被害を訴えているだけである」と、とても単純に考えていたのだが。これほど痴漢冤罪ということが取りざたされる様になって来て、女性がその裏にある「パワー」について全くイノセントでいられるのだろうかと考えると、流石にそのような見方は無理がありすぎるような気がしてきた。むしろ女性を馬鹿にしているとすら。勿論本当はそのような「パワー」などありはしない、ただたまたま警察の取り締まり方針の転換と中世さながらな刑事司法制度が組み合わさっただけである。だが、「そのようなパワーがあると思いたい」という点に於いてある種の男性とある種の女性の間で利害が一致している、と思うのだがいかがだろうか?この「被害者であるが故に加害者にすらなる」という問題について、フェミニズムは何か解答を持ち合わせているだろうか?それともフェミニズムとはジェンダーという枠組みから解放されることを目指すのではなく、女性が「パワー」を獲得して男性に対して下克上を果たす事を目的とした運動なのだろうか?是非お伺いしたい。
昭和22(れ)177強盗昭和22年12月9日最高裁判所第一小法廷判決破棄差戻東京高等裁判所
主 文
原判決を破棄する。
理 由
弁護人大井静雄上告趣意第四点及び弁護人松本重夫上告趣意第一点について。
記録を調査すると、原審公判において被告人の弁護人は所論のように心神耗弱の
主張をなし、その立証として証人の訊問及び被告人の精神鑑定の申請をしたに拘わ
らず、原審裁判所は不心要としてその申請を全部却下した。そして、その判決理由
においては、「被告人は、昭和二二年三月私立A学院中学部を卒業して、上級学校
への入学試験を受ける準備中の者であつたが、他人を脅迫して金品を強奪しようと
考え、犯意を継続して云々」と本件犯罪の原因、動機に関する事実を判示し、原審
公判廷における被告人の供述によりこれを認定し、更に右弁護人の主張に対しては
「本件犯罪の動機、態様及び被告人の当公廷における供述態度等を綜合すると、被
告人は本件犯行当時正常の精神状況にあつて心神耗弱者であることは認めることが
出来ない」と説示しているのである。
ては、右のように単に「他人を脅迫して金品を強奪しようと考え」と抽象的に判示
しただけで、少しも具体的な判示がなく、またその証拠に供した原審における被告
人の供述によるも、その点に関する弁護人松本重夫の上告趣旨に述べられているよ
うな供述記載があるのみで、右判示に該当する具体的な供述は存在しない。その他
全記録によるも、被告人が如何なる原因、動機により本件犯行をするに至つたのか、
殊に金銭に窮した事情があつたのか、新聞又は大衆小説その他により示唆を受けた
のか等についても何等明確な証拠がない。また被告人の本件犯行後の行動、就中、
本件奪取の金品を如何なる場所に、如何なる目的を以て隠匿したのか、その金銭を
費消したのかしないのか、犯行直後父兄その他の者に会つたのか、直ちに臥床した
1 -
のか、翌朝何時に起き何をしたのか、等々の事実については原審審理において何等
触れるところがない。その点について一件記録によれば寧ろ犯行直後における本件
金品の処置に関しては常識に反し特殊異常の点あることを窺い知ることができる。
しかのみならず、本件弁護人の主張によれば被告人の祖父が精神病となり壮年にし
て投身自殺した事実ありとして原審に証拠申請をしたもののごとくである。このよ
うに本件で重要な関係にある犯罪の動機が判決において具体的に判示確定されてお
らず、却つて異常な特殊事情が伏在する疑が濃厚である本件の場合に、この点に関
する証拠申請を全部却下してその審理をなさず、しかも犯行当時の精神状態を判断
説示するのに、前記のように只抽象的な犯罪の動機と犯行後数ケ月を経た原審公判
廷における被告人の供述態度等をもつて犯行当時正常の精神状態にあつたと認める
旨を説示した原判決は、審理不尽に基く理由不備の違法あるものと言わざるを得な
い。
従つて、本論旨は結局理由があることになるから、その余の上告趣意に対する
判断を省略し、なお右の違法は事実の確定に影響を及ぼすものと認めるから刑訴第
裁判官 沢 田 竹 治 郎
裁判官 齋 藤 悠 輔
裁判官 岩 松 三 郎
昭和22(れ)177強盗昭和22年12月9日最高裁判所第一小法廷判決破棄差戻東京高等裁判所
主 文
原判決を破棄する。
理 由
弁護人大井静雄上告趣意第四点及び弁護人松本重夫上告趣意第一点について。
記録を調査すると、原審公判において被告人の弁護人は所論のように心神耗弱の
主張をなし、その立証として証人の訊問及び被告人の精神鑑定の申請をしたに拘わ
らず、原審裁判所は不心要としてその申請を全部却下した。そして、その判決理由
においては、「被告人は、昭和二二年三月私立A学院中学部を卒業して、上級学校
への入学試験を受ける準備中の者であつたが、他人を脅迫して金品を強奪しようと
考え、犯意を継続して云々」と本件犯罪の原因、動機に関する事実を判示し、原審
公判廷における被告人の供述によりこれを認定し、更に右弁護人の主張に対しては
「本件犯罪の動機、態様及び被告人の当公廷における供述態度等を綜合すると、被
告人は本件犯行当時正常の精神状況にあつて心神耗弱者であることは認めることが
出来ない」と説示しているのである。
ては、右のように単に「他人を脅迫して金品を強奪しようと考え」と抽象的に判示
しただけで、少しも具体的な判示がなく、またその証拠に供した原審における被告
人の供述によるも、その点に関する弁護人松本重夫の上告趣旨に述べられているよ
うな供述記載があるのみで、右判示に該当する具体的な供述は存在しない。その他
全記録によるも、被告人が如何なる原因、動機により本件犯行をするに至つたのか、
殊に金銭に窮した事情があつたのか、新聞又は大衆小説その他により示唆を受けた
のか等についても何等明確な証拠がない。また被告人の本件犯行後の行動、就中、
本件奪取の金品を如何なる場所に、如何なる目的を以て隠匿したのか、その金銭を
費消したのかしないのか、犯行直後父兄その他の者に会つたのか、直ちに臥床した
1 -
のか、翌朝何時に起き何をしたのか、等々の事実については原審審理において何等
触れるところがない。その点について一件記録によれば寧ろ犯行直後における本件
金品の処置に関しては常識に反し特殊異常の点あることを窺い知ることができる。
しかのみならず、本件弁護人の主張によれば被告人の祖父が精神病となり壮年にし
て投身自殺した事実ありとして原審に証拠申請をしたもののごとくである。このよ
うに本件で重要な関係にある犯罪の動機が判決において具体的に判示確定されてお
らず、却つて異常な特殊事情が伏在する疑が濃厚である本件の場合に、この点に関
する証拠申請を全部却下してその審理をなさず、しかも犯行当時の精神状態を判断
説示するのに、前記のように只抽象的な犯罪の動機と犯行後数ケ月を経た原審公判
廷における被告人の供述態度等をもつて犯行当時正常の精神状態にあつたと認める
旨を説示した原判決は、審理不尽に基く理由不備の違法あるものと言わざるを得な
い。
従つて、本論旨は結局理由があることになるから、その余の上告趣意に対する
判断を省略し、なお右の違法は事実の確定に影響を及ぼすものと認めるから刑訴第
裁判官 沢 田 竹 治 郎
裁判官 齋 藤 悠 輔
裁判官 岩 松 三 郎
1
判 決
同 松 田 誠 司
同 清 原 直 己
同 中 村 哲 士
同 富 田 克 幸
同 夫 世 進
同 有 近 康 臣
同 前 澤 龍
同 蔦 田 璋 子
被 告 パ ナ ソ ニ ッ ク 株 式 会 社
同 速 見 禎 祥
主 文
1 原告の請求を棄却する。
事 実 及 び 理 由
2
第1 請求
特許庁が無効2012-800008号事件について平成26年6月24日
にした審決を取り消す。
第2 事案の概要
被告は,平成22年8月10日に出願(特願2010-179294号。
平成15年12月22日に出願された特願2003-425862号の分割
出願。優先日同年8月5日)(以下,この優先日を「本件優先日」という。)
され,平成23年12月9日に設定登録された,発明の名称を「帯電微粒子
水による不活性化方法及び不活性化装置」とする特許第4877410号
(以下「本件特許」という。設定登録時の請求項の数は6である。)の特許
権者である。
原告は,平成24年1月31日,特許庁に対し,本件特許の請求項全部に
ついて無効にすることを求めて審判の請求(無効2012-800008号
事件)をした。上記請求に対し,特許庁が,同年8月2日,無効審決をした
ため,被告は,同年9月10日,審決取消訴訟を提起した(知的財産高等裁
判所平成24年(行ケ)第10319号)。その後,被告が,同年12月7
日,特許庁に対し,訂正審判請求をしたことから,知的財産高等裁判所は,
平成25年1月29日,平成23年法律第68号による改正前の特許法18
1条2項に基づき,上記審決を取り消す旨の決定をした。
被告は,平成25年2月18日,本件特許の請求項1及び4を削除し,請
求項2を請求項1と,請求項3を請求項2と,請求項5を請求項3と,請求
項6を請求項4とした上で各請求項につき特許請求の範囲の訂正を請求した
(以下「本件訂正」という。)。特許庁は,同年5月8日,本件訂正を認めた
上で無効審決をしたため,被告は,同年6月14日,審決取消訴訟を提起し
(知的財産高等裁判所平成25年(行ケ)第10163号),知的財産高等
3
裁判所は,平成26年1月30日,上記審決を取り消す旨の判決をした。特
許庁は,同年6月24日,「訂正を認める。本件審判の請求は,成り立たな
い。」との審決をし,その謄本を,同年7月3日,原告に送達した。
原告は,同年7月31日,上記審決の取消しを求めて,本件訴えを提起し
た。
本件訂正後の本件特許の特許請求の範囲の記載は,次のとおりである(甲3
4,39,40。以下,請求項1に係る発明を「本件訂正特許発明1」,請求
項2に係る発明を「本件訂正特許発明2」などといい,これらを総称して「本
件訂正特許発明」という。また,本件特許の明細書及び図面をまとめて「本件
特許明細書」という。)。
請求項1
「大気中で水を静電霧化して,粒子径が3~50nmの帯電微粒子水を生成
し,花粉抗原,黴,菌,ウイルスのいずれかと反応させ,当該花粉抗原,黴,
菌,ウイルスの何れかを不活性化することを特徴とする帯電微粒子水による
不活性化方法であって,前記帯電微粒子水は,室内に放出されることを特徴
とし,さらに,前記帯電微粒子水は,ヒドロキシラジカル,スーパーオキサ
イド,一酸化窒素ラジカル,酸素ラジカルのうちのいずれか1つ以上のラジ
カルを含んでいることを特徴とする帯電微粒子水による不活性化方法。」
請求項2
「大気中で水を静電霧化して,粒子径が3~50nmの帯電微粒子水を生成
し,花粉抗原,黴,菌,ウイルスのいずれかと反応させ,当該花粉抗原,黴,
菌,ウイルスの何れかを不活性化することを特徴とする帯電微粒子水による
不活性化方法であって,前記帯電微粒子水は,大気中に放出されることを特
徴とし,さらに,前記帯電微粒子水は,ヒドロキシラジカル,スーパーオキ
サイド,一酸化窒素ラジカル,酸素ラジカルのうちのいずれか1つ以上のラ
4
ジカルを含んでおり,前記帯電微粒子水は,粒子径3nm未満の帯電微粒子
水よりも長寿命であることを特徴とする帯電微粒子水による不活性化方
法。」
請求項3
「霧化部に位置する水が静電霧化を起こす高電圧を印加する電圧印加部を備
え,当該電圧印加部の高電圧の印加によって,大気中で水を静電霧化して,
粒子径が3~50nmであり,花粉抗原,黴,菌,ウイルスの何れかと反応
させて,当該花粉抗原,黴,菌,ウイルスの何れかを不活性化するための帯
電微粒子水を生成し,前記帯電微粒子水は,室内に放出されることを特徴と
する不活性化装置であって,前記帯電微粒子水は,ヒドロキシラジカル,ス
ーパーオキサイド,一酸化窒素ラジカル,酸素ラジカルのうちのいずれか1
つ以上のラジカルを含んでいることを特徴とする不活性化装置。」
請求項4
「霧化部に位置する水が静電霧化を起こす高電圧を印加する電圧印加部を備
え,当該電圧印加部の高電圧の印加によって,大気中で水を静電霧化して,
粒子径が3~50nmであり,花粉抗原,黴,菌,ウイルスの何れかと反応
させて,当該花粉抗原,黴,菌,ウイルスの何れかを不活性化するための帯
電微粒子水を生成し,前記帯電微粒子水は,大気中に放出されることを特徴
とする不活性化装置であって,前記帯電微粒子水は,ヒドロキシラジカル,
スーパーオキサイド,一酸化窒素ラジカル,酸素ラジカルのうちのいずれか
1つ以上のラジカルを含んでおり,前記帯電微粒子水は,3nm未満の帯電
微粒子水と比較して長寿命であることを特徴とする不活性化装置。」
3 審決の理由
審決の理由は,別紙審決書写しのとおりである。本件訴訟の争点となる部
分の要旨は,① 本件訂正特許発明の粒子径の記載はいずれも明確である
(特許法36条6項2号の要件を満たす。),② 本件訂正特許発明の粒子径
5
に関し,発明の詳細な説明に記載されていないとすることはできない(同項
1号の要件を満たす。),③ 本件訂正特許発明の静電霧化の意味は明確であ
るほか,本件訂正特許発明の静電霧化手段に関し,発明の詳細な説明に記載
されていないとすることはできないし,発明の詳細な説明には,当業者が本
件訂正特許発明の実施ができる程度に明確かつ十分な記載がなされていない
とすることもできない(同項1号及び2号並びに同条4項1号の要件を満た
す。),④ 本件訂正特許発明1及び3はいずれも,I.Wuled LEN
GGOROら「静電噴霧法による液滴およびイオンの発生」粉体工学会誌V
ol.37,No.10(日本,2000年),753~760頁(甲10。
以下「甲10」という。)記載の発明(以下,審決が本件訂正特許発明1と
対比するに当たり認定した甲10記載の発明を「甲10発明1」と,本件訂
正特許発明3と対比するに当たり認定した甲10記載の発明を「甲10発明
2」という。)に,特開平11-155540号公報(甲5。以下「甲5」
という。),特開平7-135945号公報(甲6。以下「甲6」という。)
及び「ラジカル反応・活性種・プラズマによる脱臭・空気清浄技術とマイナ
ス空気イオンの生体への影響と応用」(株)エヌ・ティー・エス発行,20
02年10月15日,218~231頁,363~367頁,389~39
2頁(甲7。以下「甲7」という。)に記載の技術を組み合わせても,当業
者が容易に発明できたものではない(同法29条2項の規定に反しない。),
⑤ 本件訂正特許発明1及び3はいずれも,特開2002-203657号
公報(甲11。以下「甲11」という。)記載の発明(以下,審決が本件訂
正特許発明1と対比するに当たり認定した甲11記載の発明を「甲11発明
1」と,本件訂正特許発明3と対比するに当たり認定した甲11記載の発明
を「甲11発明2」という。)に,甲5ないし7記載の技術を組み合わせて
も,当業者が容易に発明できたものではない(同上),というものである。
上記 ④の結論を導くに当たり,審決が認定した甲10発明1及び2の内
6
容,甲10発明1と本件訂正特許発明1及び甲10発明2と本件訂正特許発
明3との一致点及び相違点は以下のとおりである。
ア 甲10発明1及び2の内容
甲10発明1
「液体を静電噴霧して,粒子径が数nmで幾何標準偏差が1.1程度の
甲10発明2
「導電性の細管の先端に位置する液体が静電噴霧を起こす高電圧を印加
する高圧電源を備え,当該高圧電源の高電圧の印加によって,液体を静
電噴霧して,液滴径が数nmで幾何標準偏差が1.1程度のイオンを含
む液滴を生成する静電噴霧装置」
一致点
「液体を静電霧化して,粒子径が3~50nmの帯電微粒子の液滴を生
相違点
a 相違点10a
「本件訂正特許発明1は,水を静電霧化して帯電微粒子水を生成し,
帯電微粒子水を花粉抗原,黴,菌,ウイルスのいずれかと反応させ,
当該花粉抗原,黴,菌,ウイルスの何れかを不活性化する不活性化方
法であるのに対して,甲10発明1は,帯電微粒子の液滴が,花粉抗
原,黴,菌,ウイルスのいずれかと反応し,それらの何れかを不活性
b 相違点10b
「本件訂正特許発明1では,大気中で水を静電霧化し,帯電微粒子水
は,室内に放出されるのに対し,甲10発明1では,大気中で液体を
7
静電霧化するのか,また,液滴が室内に放出されるのか明らかでない
点」
c 相違点10c
「本件訂正特許発明1では,帯電微粒子水は,ヒドロキシラジカル,
スーパーオキサイド,一酸化窒素ラジカル,酸素ラジカルのうちのい
ずれか1つ以上のラジカルを含んでいるのに対して,甲10発明1で
は,帯電微粒子の液滴が,そのようなラジカルを含んでいるか不明で
ある点」
一致点
「霧化部に位置する液体が静電霧化を起こす高電圧を印加する電圧印加
部を備え,当該電圧印加部の高電圧の印加によって,水を静電霧化して,
相違点
a 相違点10d
「本件訂正特許発明3は,水を静電霧化して帯電微粒子水を生成し,
花粉抗原,黴,菌,ウイルスの何れかと反応させ,当該花粉抗原,黴,
菌,ウイルスの何れかを不活性化する帯電微粒子水による不活性化装
置であるのに対し,甲10発明2は,帯電微粒子の液滴が,花粉抗原,
黴,菌,ウイルスのいずれかと反応し,それらの何れかを不活性化す
b 相違点10e
「本件訂正特許発明3では,大気中で水を静電噴霧し,帯電微粒子水
は,室内に放出されるのに対し,甲10発明2では,大気中で液体を
静電霧化するのか,また,液滴が室内に放出されるのか明らかでない
点」
8
c 相違点10f
「本件訂正特許発明3では,帯電微粒子水は,ヒドロキシラジカル,
スーパーオキサイド,一酸化窒素ラジカル,酸素ラジカルのうちのい
ずれか1つ以上のラジカルを含んでいるのに対し,甲10発明2では,
前記 ⑤の結論を導くに当たり,審決が認定した甲11発明1及び2の内
容,甲11発明1と本件訂正特許発明1及び甲11発明2と本件訂正特許発
明3との一致点及び相違点は以下のとおりである。
ア 甲11発明1及び2の内容
甲11発明1
「空気中で水を静電霧化して,0.001μm(1nm)程度の大きさ
である,小イオンを生成し,集塵する方法であって,前記小イオンは,
室内に供給され,さらに,前記小イオンは,水の分子に極小イオンが結
合して水分子のクラスターを核としている,小イオンによる集塵方法」
甲11発明2
「放電電極を兼ねる水管の先端から滴下する水滴がコロナ放電により微
細な水滴となって霧散する高電圧を印加する高圧電源とを備え,該高電
圧の印加によって,空気中で水を静電霧化して,0.001μm(1n
m)程度の大きさである,集塵するための小イオンを生成し,前記小イ
オンは室内に供給される装置」
一致点
「大気中で水を静電霧化して,帯電微粒子水を生成し,室内の空気を清
浄化する帯電微粒子水による方法であって,前記帯電微粒子水は,室内
相違点
9
a 相違点11a
「本件訂正特許発明1は,帯電微粒子水の粒子径が3~50nmであ
るのに対して,甲11発明1は,小イオンの大きさが1nm程度であ
る点」
b 相違点11b
「本件訂正特許発明1は,帯電微粒子水を花粉抗原,黴,菌,ウイル
スのいずれかと反応させ,当該花粉抗原,黴,菌,ウイルスの何れか
を不活性化する不活性化方法であるのに対して,甲11発明1は,小
c 相違点11c
「本件訂正特許発明1では,帯電微粒子水は,ヒドロキシラジカル,
スーパーオキサイド,一酸化窒素ラジカル,酸素ラジカルのうちのい
ずれか1つ以上のラジカルを含んでいるのに対して,甲11発明1で
は,小イオンがそのようなラジカルを含んでいるか不明である点」
一致点
「霧化部に位置する水が静電霧化を起こす高電圧を印加する電圧印加部
を備え,当該電圧印加部の高電圧の印加によって,大気中で水を静電霧
化して空気を清浄化するための帯電微粒子水を生成し,前記帯電微粒子
相違点
a 相違点11d
「本件訂正特許発明3では,帯電微粒子水の粒子径が,3~50nm
であるのに対して,甲11発明2では,小イオンの大きさが1nm程
度である点」
b 相違点11e
10
「本件訂正特許発明3では,帯電微粒子水が,花粉抗原,黴,菌,ウ
イルスのいずれかと反応させ,当該花粉抗原,黴,菌,ウイルスの何
れかを不活性化するためのものであるのに対して,甲11発明2は,
c 相違点11f
「本件訂正特許発明3では,帯電微粒子水が,ヒドロキシラジカル,
スーパーオキサイド,一酸化窒素ラジカル,酸素ラジカルのうちのい
ずれか1つ以上のラジカルを含んでいるのに対して,甲11発明2で
は,小イオンがそのようなラジカルを含んでいるか不明である点」
第3 原告主張の取消事由
以下のとおり,審決には,粒子径に関する明確性要件の判断の誤り(取消事
由1),粒子径に関するサポート要件の判断の誤り(取消事由2),静電霧化手
段に関するサポート要件及び実施可能要件の判断の誤り(取消事由3),甲1
0を主引例とする進歩性の判断の誤り(取消事由4)及び甲11を主引例とす
る進歩性の判断の誤り(取消事由5)があり,これらの誤りは審決の結論に影
審決は,本件訂正特許発明における「粒子径が3~50nm」とは,凝集
していない個々の粒子のほぼ全てが粒子径3~50nmの範囲に分布してい
しかし,審決は,甲10において静電霧化により生成する液滴の粒径分布
が非常に狭く単分散性が高いことを前提としているが,本件特許の特許請求
の範囲には,粒子のほぼ全てが上記範囲内にあるか否かは何ら記載されてい
ない。
そして,「粒子径が3~50nm」と幅をもって表現された場合に,その
上限,下限の値が,平均粒子径の幅を示しているのか,D50(頻度の累積
11
が50%になる粒子径〔メジアン径〕)の幅を示しているのか,ピーク値
(最大ピークとなる最頻出値)の幅を示しているのか,様々な解釈があり得
るところ,本件特許明細書には,どのような幅を示しているのかの説明はさ
れておらず,本件特許明細書の記載を参酌しても,上記の幅は不明確である。
現に,本件特許明細書の記載を参酌した場合,粒子径の範囲の解釈につい
ては,その記載箇所に応じて,ピーク値の幅と解釈したり(【0024】,粒
子のほぼ全てが範囲内にあると解釈したり(【0038】)する余地があり,
そうすると,「粒子径が3~50nm」との記載については,本件特許明
細書の記載を参酌しても,複数の意味に解釈される余地があるから,本件特
審決は,本件特許明細書【0013】,【0024】及び【0052】の記
載等から,帯電微粒子水の粒子径の上限は,粒子の空間内への拡散性や人の
肌への浸透性の観点から100nmが好ましく,抗原の不活性化の作用や空
気中の湿度に影響を与えないという観点から,50nmが好ましいこと,ま
た,粒子径の下限は,粒子の寿命と抗原の不活性化の作用の観点から3nm
が好ましいことが把握されるから,本件特許明細書に実施例として示された
ものが,20nm付近をピークとして,10~30nmに分布を持つ帯電微
粒子水のみであったとしても,粒子のほぼ全てが粒子径10~30nmの範
囲に分布している帯電微粒子水であれば,室内への拡散性が良いことや,長
寿命であること,抗原の不活性化の作用を奏しつつ,空気中の湿度調整に影
響を与えない等の作用効果を奏することは,当業者が明細書及び図面の記載
12
そして,「粒子径が3~50nm」の意味はピーク値の幅と解釈する余地
が十分にあり,そのように解釈した場合,本件特許明細書には3~50nm
のうちの20nm付近の粒子径についてしか長寿命化と不活性化効果が示さ
れていないのであるから(【0042】,【0045】~【0048】),かか
る実施例を本件訂正特許発明の全体まで拡張ないし一般化することはできな
い。
「粒子径が3~50
nm」との数値は,本件訂正特許発明の課題を解決する作用効果に直結する
重要な数値であるところ,本件特許明細書の実施例には,粒子径3~10n
m未満の部分と粒子径30nm~50nmの部分のいずれについても,長寿
命化という効果を裏付けるデータの記載はない。また,3nm及び50nm
をそれぞれ下限値及び上限値とする不活性化効果については記載されている
ものの,それを裏付けるデータも記載されていないし,帯電微粒子水の長寿
命化についても記載されていない。
したがって,本件特許明細書の具体的な実施例をもって,「粒子径が3~
50nm」の全体についてまで長寿命化と不活性化の各効果が存在するもの
と理解することはできない。
被告は,粒子径3~50nmという数値限定につき,帯電微粒子水の粒子
径を本件発明の課題目的に沿って最適化したものであって,当該上限,下限
値が課題目的を達成し,顕著な作用効果を奏する臨界的意義を有する数値と
いうわけでないから,具体的な測定結果をもって裏付けられている必要はな
い旨主張する。
しかし,本件訂正特許発明の出願時の技術常識に照らすと,本件訂正特許
発明の特徴的な部分は,静電霧化で発生させて殺菌等に用いるラジカルとし
13
て,粒子径が3~50nmの帯電微粒子水に含まれたラジカルを用いる点に
あり,かつ,上記粒子径は,長寿命化と不活性化の双方の技術的課題達成の
発明明細所謂クレームは以下の如くで、これをみれば、リパーゼはRaリパーゼとしか考えられないのは明白。
「リパーゼを用いる酸素的鹸化及び遊離するグリセリンの測定によってトリグリセリドを測定する場合に、鹸
化をカルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数10~15のアルカリ金属―又はアルカリ土
類金属―アルキル硫酸塩の存在で実施することを特徴とするトリグリセリドの測定法。」
発明の詳細な説明
(1) 「本発明はグリセリドを鹸化し、かつこの際に遊離するグリセリンを測定することによってトリグリセリド
(2) 「公知方法によれば、差当りアルコール性アルカリでトリグリセリドを鹸化し、次いで生じるグリセリンを
測定することによりこの測定を行なっている。」
(3) 「この公知方法の重大な欠点は、エタノール性アルカリを用いる鹸化にある。この鹸化工程は、さもな
ければ個有の精密かつ容易に実施すべき方法を煩雑にする。それというのは、この鹸化はそれだけで約70
℃の温度で20~30分を必要とするからである。引続き、グリセリン測定そのものを開始する以前に、中和し
かつ遠心分離しなければならない。」
(4) 「この欠点は、1公知方法で、トリグリセリドの酵素的鹸化により除去され、この際、リゾプス・アリツス
(Rhizopus arrhizus)からのリパーゼを使用した。この方法で、水性緩衝液中で、トリグリセリドを許容しう
る時間内に完全に脂肪酸及びグリセリンに分解することのできるリパーゼを発見することができたことは意想
外のことであった。他のリパーゼ殊に公知のパンクレアス―リパーゼは不適当であることが判明した。」
(5) 「しかしながら、この酵素的分解の欠点は、鹸化になおかなり長い時間がかかり、更に、著るしい量の
非常に高価な酵素を必要とすることにある。使用可能な反応時間を得るためには、1試験当り酵素約1mgが
必要である。更に、反応時間は30分を越え、従って殊に屡々試験される場合の機械的な実験室試験にとっ
ては適正が低い。最後に、遊離した脂肪酸はカルシウムイオン及びマグネシウムイオンと不溶性石鹸を形成
し、これが再び混濁させ、遠心しない場合にはこれにより測定結果の誤差を生ぜしめる。」
(6) 「従って、本発明の目的は、これらの欠点を除き、酵素的鹸化によるトリグリセリドの測定法を得ること
にあり、この方法では、必要量のリパーゼ量並びに必要な時間消費は著るしく減少させられ、更に、沈でんす
る石けんを分離する必要性も除かれる。」
(7) 「この目的は、本発明により、リパーゼを用いる酵素的鹸化及び遊離したグリセリンの測定によるトリグ
リセリドの測定法により解決され、この際鹸化は、カルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子
数10~15のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩の存在で行なう。」
(8) 「リパーゼとしては、リゾプス・アリツスからのリパーゼが有利である。」
(9) 「本発明の方法を実施するための本発明の試薬はグリセリンの検出用の系及び付加的にリパーゼ、カ
ルボキシルエステラーゼ、アルキル基中の炭素原子数10~15のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―
(10) 「有利な試薬組成物の範囲で、特に好適な試薬は次のものよりなる:リゾプス・アリツスからのリパー
ゼ 0.1~10.0mg/ml」
主 文
原判決を破棄する。
理 由
上告代理人菊池信男、同大島崇志、同島田清次郎、同岩舩榮司、同小花弘路、同米倉章、同伊沢宏一
一 原審の確定したところによれば、(一) 被上告人のした本件特許出願の拒絶査定に対する審判請求に
おいて特許庁がした審決は、本願発明の要旨を、別紙明細書抜粋の特許請求の範囲記載のとおり認定した
上、第一ないし第六引用例に記載された発明に基づいて本願発明の進歩性を否定し、本件審判請求は成り
立たないとした、(二) そして、本件特許出願の明細書の発明の詳細な説明には、別紙明細書抜粋の(1)な
いし(10)の記載がある、というのである。
二 原審は、右確定事実に基づいて、次のとおり認定判断し、審決には、本願発明の基本構成部分の解釈
を誤った結果、同部分の進歩性を否定した違法があり、右の誤りは審決の結論に影響を及ぼすことが明らか
であるとして、これを取り消した。
1 本願明細書の発明の詳細な説明中の前記(4)記載の方法は、リゾプス・アルヒズス(リゾプス・アリツスと
同義)からのリパーゼ(以下「Raリパーゼ」という。)によるトリグリセリドの酵素的鹸化により遊離するグリセリ
ンを測定するトリグリセリドの測定方法であるところ、これは、Raリパーゼを使用してトリグリセリドを測定する
方法に関する被上告人出願の昭和四五年特許願第一三〇七八八号の発明の構成、すなわち、その特許請
求の範囲に記載されている、「溶液、殊に体液中のリポ蛋白質に結合して存在するトリグリセリド及び/又は
蛋白質不含の中性脂肪を全酵素的かつ定量的に検出するに当り、リポ蛋白質及び蛋白質不含の中性脂肪
をリゾプス・アルヒズスから得られるリパーゼを用いて分解し、かつ分解生成物として得られるグリセリンを自
体公知の方法で酵素的に測定することを特徴とする、トリグリセリドの定量的検出法」との構成と実質的に同
一である。そして、本願明細書の発明の詳細な説明の記載による限り、本願発明は、(4)記載の測定方法の
改良を目的とするものであるから、Raリパーゼを使用することを前提とするものということができる。
2 本願明細書の(4)の記載によれば、本願発明の発明者は、Raリパーゼ以外のリパーゼはRaリパーゼ
のように許容される時間内にトリグリセリドを完全に分解する能力がなく、遊離グリセリンによるトリグリセリド
の測定には不適当であると認識しているものと認められるから、発明者が、右のようなトリグリセリド測定に
不適当なリパーゼをも含める意味で本願発明の特許請求の範囲中の基本構成に広く「リパーゼ」と記載した
ものと解することはできない。
3 本願明細書の発明の詳細な説明に記載された「リパーゼ」の文言は、Raリパーゼを指すものということ
ができる。
4 そうであれば、本願明細書の発明の詳細な説明の記載により前記(4)記載の測定方法の改良として技
術的に裏付けられているのは、Raリパーゼを使用するものだけであり、本願明細書に記載された実施例も、
5 そうすると、本願発明の特許請求の範囲中の基本構成に記載された「リパーゼ」は、文言上何らの限定
はないが、Raリパーゼを意味するものと解するのが相当である。
三 しかしながら、原審の右の判断は、にわかに是認することができない。その理由は、次のとおりである。
特許法二九条一項及び二項所定の特許要件、すなわち、特許出願に係る発明の新規性及び進歩性につ
いて審理するに当たっては、この発明を同条一項各号所定の発明と対比する前提として、特許出願に係る
発明の要旨が認定されなければならないところ、この要旨認定は、特段の事情のない限り、願書に添付した
明細書の特許請求の範囲の記載に基づいてされるべきである。特許請求の範囲の記載の技術的意義が一
義的に明確に理解することができないとか、あるいは、一見してその記載が誤記であることが明細書の発明
の詳細な説明の記載に照らして明らかであるなどの特段の事情がある場合に限って、明細書の発明の詳細
な説明の記載を参酌することが許されるにすぎない。このことは、特許請求の範囲には、特許を受けようとす
る発明の構成に欠くことができない事項のみを記載しなければならない旨定めている特許法三六条五項二
号の規定(本件特許出願については、昭和五〇年法律第四六号による改正前の特許法三六条五項の規
これを本件についてみると、原審が確定した前記事実関係によれば、本願発明の特許請求の範囲の記載
には、トリグリセリドを酵素的に鹸化する際に使用するリパーゼについてこれを限定する旨の記載はなく、右
のような特段の事情も認められないから、本願発明の特許請求の範囲に記載のリパーゼがRaリパーゼに限
定されるものであると解することはできない。原審は、本願発明は前記(4)記載の測定方法の改良を目的と
するものであるが、その改良として技術的に裏付けられているのは、Raリパーゼを使用するものだけであ
り、本願明細書に記載された実施例もRaリパーゼを使用したものだけが示されていると認定しているが、本
願発明の測定法の技術分野において、Raリパーゼ以外のリパーゼはおよそ用いられるものでないことが当
業者の一般的な技術常識になっているとはいえないから、明細書の発明の詳細な説明で技術的に裏付けら
れているのがRaリパーゼを使用するものだけであるとか、実施例がRaリパーゼを使用するものだけである
ことのみから、特許請求の範囲に記載されたリパーゼをRaリパーゼと限定して解することはできないという
べきである。
四 そうすると、原審の確定した前記事実関係から、本願発明の特許請求の範囲の記載中にあるリパーゼ
はRaリパーゼを意味するものであるとし、本願発明が採用した酵素はRaリパーゼに限定されるものであると
解した原審の判断には、特許出願に係る発明の進歩性の要件の有無を審理する前提としてされるべき発明
の要旨認定に関する法令の解釈適用を誤った違法があるというべきであり、右違法は原判決の結論に影響
を及ぼすことが明らかである。この点の違法をいう論旨は理由があり、その余の上告理由について判断する
までもなく、原判決は破棄を免れない。
よって、更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととし、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇七
条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
裁判官 藤 島 昭
裁判官 香 川 保 一
裁判官 木 崎 良 平
明細書抜粋
「リパーゼを用いる酸素的鹸化及び遊離するグリセリンの測定によってトリグリセリドを測定する場合に、鹸
化をカルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数10~15のアルカリ金属―又はアルカリ土
類金属―アルキル硫酸塩の存在で実施することを特徴とするトリグリセリドの測定法。」
発明の詳細な説明
(1) 「本発明はグリセリドを鹸化し、かつこの際に遊離するグリセリンを測定することによってトリグリセリド
(2) 「公知方法によれば、差当りアルコール性アルカリでトリグリセリドを鹸化し、次いで生じるグリセリンを
測定することによりこの測定を行なっている。」
(3) 「この公知方法の重大な欠点は、エタノール性アルカリを用いる鹸化にある。この鹸化工程は、さもな
ければ個有の精密かつ容易に実施すべき方法を煩雑にする。それというのは、この鹸化はそれだけで約70
℃の温度で20~30分を必要とするからである。引続き、グリセリン測定そのものを開始する以前に、中和し
かつ遠心分離しなければならない。」
(4) 「この欠点は、1公知方法で、トリグリセリドの酵素的鹸化により除去され、この際、リゾプス・アリツス
(Rhizopus arrhizus)からのリパーゼを使用した。この方法で、水性緩衝液中で、トリグリセリドを許容しう
る時間内に完全に脂肪酸及びグリセリンに分解することのできるリパーゼを発見することができたことは意想
外のことであった。他のリパーゼ殊に公知のパンクレアス―リパーゼは不適当であることが判明した。」
(5) 「しかしながら、この酵素的分解の欠点は、鹸化になおかなり長い時間がかかり、更に、著るしい量の
非常に高価な酵素を必要とすることにある。使用可能な反応時間を得るためには、1試験当り酵素約1mgが
必要である。更に、反応時間は30分を越え、従って殊に屡々試験される場合の機械的な実験室試験にとっ
ては適正が低い。最後に、遊離した脂肪酸はカルシウムイオン及びマグネシウムイオンと不溶性石鹸を形成
し、これが再び混濁させ、遠心しない場合にはこれにより測定結果の誤差を生ぜしめる。」
(6) 「従って、本発明の目的は、これらの欠点を除き、酵素的鹸化によるトリグリセリドの測定法を得ること
にあり、この方法では、必要量のリパーゼ量並びに必要な時間消費は著るしく減少させられ、更に、沈でんす
る石けんを分離する必要性も除かれる。」
(7) 「この目的は、本発明により、リパーゼを用いる酵素的鹸化及び遊離したグリセリンの測定によるトリグ
リセリドの測定法により解決され、この際鹸化は、カルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子
数10~15のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩の存在で行なう。」
(8) 「リパーゼとしては、リゾプス・アリツスからのリパーゼが有利である。」
(9) 「本発明の方法を実施するための本発明の試薬はグリセリンの検出用の系及び付加的にリパーゼ、カ
ルボキシルエステラーゼ、アルキル基中の炭素原子数10~15のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―
(10) 「有利な試薬組成物の範囲で、特に好適な試薬は次のものよりなる:リゾプス・アリツスからのリパー
ゼ 0.1~10.0mg/ml」
殊に國字が假名があり、或いは漢字があるというようなことで以て、非常にその國字の學習だけにも時間を取りまして、私は曾て國字問題竝びにその歸趨という國字改良問題の本を書いたことがあります。その當時に私調べたところが、小學校で兒童の授業の半分以上がその國字或いは國語に關する時間に費やしておりまして、外國に比べますと、その國字、國語を覺えるだけに一年半、どうかすると二年ぐらい餘計費やさなければならんような状態であります。而もその結果どうかというと、例えば尋常六年頃までやられた人達が、完全に新聞が讀めるかといいますと、これも讀めない。非常に讀めないということは、最近にその筋の意向がありまして、カナ文字協會が工場の勞働者千五百人の人にいろいろな文字を出しまして、それで試驗をした。で假に百點を滿點にして、何人おるかという例ですが、提携という文字が五十點、確執というのが五十五點、富裕という字が三十七點、憎惡というのが三十三點、軋櫟という字が二十二點、これらは皆終戰後に決められました千八百五十字という漢字制限の中に入つておる文字であります。その文字が或ものによつては二二%しか讀めない。こういうのであります。即ち外國の學校では大抵小學校に行く前、殆ど大抵の子供が新聞が讀めるというのに比べると非常な差であります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1344/00108261344003c.html
○湯山勇君 この前にお尋ねしておつたときの御答弁について、なお疑義がございますのでお尋ね申上げたいと思います。それは例の狩獵法の「ノイヌ」、「ノネコ」ですね、これはどういうふうになつているか、もう一度御説明頂きたいと思います。
○政府委員(楠本正康君) この「ノイヌ」「ノネコ」いずれも野犬その他の犬を意味いたしておりませんし、又猫とも全然別なもので、種類の違うことを意味しております。従つて狩猟法は犬及び猫には適用がないものと考えなければなりません。
○湯山勇君 ところがこれは林野庁長官から各府県知事に出ております通牒によりますとそういうふうにはなつていないのです。これは愛知県知事からの問合せに対して昭和二十五年十二月二十八日林野第一万六千九百九十九号を以て回答したのには、そういうふうにはなつていない。でこの「第一条のノイヌとは山野に常棲する犬をいう市街地村落に棲息する所謂野良犬はこの範疇には入らないものと解せられたい」と、こういうふうになつておりまして、結局この畜犬が山に入つたもの、種類としては同じものを指しているわけです。林野庁のほうの見解としては……。そうすると種類が違うというのじやなくて、ただその棲息の場所が違つただけであるのです。そうなりますと薬殺の場合に非常に問題になつて来るのじやないか、こういうふうに考えるのですが。
○政府委員(楠本正康君) 私この「ノイヌ」の見解を、動物園の古賀園長に実は尋ねたわけであります。古賀園長はこれは全然もう種類が違うものである。そしてすでに日本には現在はこの「ノイヌ」というものは残念ながらいなくなつたということを伺つておりますが、なお併し只今御指摘のような林野庁の見解等については、更にその点を質してみたい考えでございますが、なお実際に薬殺するというような場合に、山野の、人里離れた山野等において薬殺することはこれは考えられませんので、実際に人畜に傷害を与える犬を、つまり薬殺する意味であります。殊に現に狂犬が出て、真に緊急上止むを得ない場合に限つておりますので、さような観点からいたしましても山野に適用されることはあるまいと、かように考えておる次第であります。
○湯山勇君 今の見解は動物園長のお話だつたということですけれども、これは園長も恐らく若干勘違いしておられると思います。と思しますのは、学名じやなくて和名ですね、日本の名前というのは、いろいろな文献見たのですけれども、やはり「ノイヌ」という名前はありません。「山の犬」となつているのはあります。「山犬」若しくは「山の犬」、まあですから「ノイヌ」というのは、やはり林野庁の言う見解に立つたほうが、この法の適用上から言つても間違いないと思います。そうでなければ今部長の言われた処置もできなくなると思いますので……。
なお都市の中には、都市の真ん中に山がある、例えば私の郷里の松山なんかは市の真中に山があります。そうしてその山の中に相当多数の畜犬の野性化したものがいるのです。そうしていわゆる野良犬がそれに入り込むということもたくさんございまして、このことは、やはり林野庁との間にはつきりした見解統一をなさるのと、そうして今のように山に入ることはないというけれども、事実そういうこともあるということも併せて一つ事施上においては御検討頂きたいと思います。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0790/01904190790030c.html
○湯山委員 この問題は、ここで議論するにはあまりにもばからしい問題ですし、これでは話になりませんから、あとでもう少しはっきりするようにしたいと思います。
今度資料に直接入ります。たとえば狩猟鳥獣で、これも私はいいかげんな解釈をしておられるように思うのですが、狩猟鳥獣にノイヌ、ノネコというのがあるのです。これは何でしょうか。ノイヌ、ノネコという種名を持つ動物が日本にございますか。まずそれから伺います。
○若江説明員 ノイヌ、ノネコは、元来は家畜でございましたものが野性化いたしまして山野に自生いたしまして、野山におるというのを、のら犬、のらネコ等と区分いたしまして、この場合ノイヌ、ノネコと称しまして狩猟烏獣に入れておるわけでございますが、アメリカあるいはカナダ等におきましてはこれらをファーラル・ドッグあるいはファーラルーキャットというように区分いたしまして、やはり狩猟鳥獣にいたしておるというような例もあるわけでございます。それにならいまして野山に自生しておりますノイヌ、ノネコを狩猟鳥獣に入れておるわけでございます。ただしこれは動物学上の分類では区分がないわけでございます。
○若江説明員 たしか昭和二十二年に狩猟鳥獣に加えたというふうに考えております。
○湯山委員 昭和二十二年というのはちょうど占領下であって、そういうことがよくわからないで向こうの法律をそのまま訳したのではございませんか。
○若江説明員 先ほど申し上げましたように諸外国の例等に徴しまして加えたというふうに考えております。
○湯山委員 東京にノイヌがおりますか、あるいはノネコがおりますか。
○若江説明員 東京都下にはおりません。
○湯山委員 もう一ぺんお聞きします。東京都下にいるのかいないのかはっきりわからないのですか。どうなんですか。
○若江説明員 のら犬、のらネコはおりますけれども、ここでいうノイヌ、ノネコはいないと思います。
○湯山委員 それではどこにおったのでしょうか。それが狩猟されたという報告がございますか。いただいた資料にはそういうノイヌ、ノネコが狩猟されたというのは一つもないのですが。
○若江説明員 お手元に差し上げました資料の中には明記しておらなかったかもしれませんけれども、狩猟統計には狩猟された頭数があるわけでございますので、必要でございましたら、後刻年次別の頭数を御提出申し上げたいと思います。
○若江説明員 ここに持ち合わせておりませんけれども、あるようでございます。
○若江説明員 ノネコにつきまして資料を手持ちいたしておりませんが、あとで調べまして、お答え申し上げたいと思います。
○湯山委員 ノイヌ、ノネコ以外の犬、ネコを狩猟すれば違反になるわけですね。これはどうですか。
○若江説明員 狩猟鳥獣として指定されておりますノイヌ、ノネコを狩猟期間外に狩猟いたしますと違反でございます。
なお先ほど資料の手持ちがないので御答弁申し上げかねましたが、三十五年度の有害鳥獣の駆除の中には、ノイヌ、ノネコがそれぞれ八頭ずつ上がっております。
○湯山委員 狩猟期間以外、それからノイヌ、ノネコ以外の犬、ネコを狩猟すれば違反になるというけれども、狩猟されたものでノイヌ、ノネコと普通の犬、ネコの区別がつきますか。つまり店先につってあるそれを見てその区別がつきますか。
○若江説明員 判別は生息状況によって識別するのが最も判然とするのでございますが、これが店先に並べられたときに、どれがのらネコで、どれがノネコかということは、判別が非常に困難であろうかと思いますが、医学的に胃袋その他を検査して、食性の種類等で判別しなければならぬのではないかというように考えます。
○湯山委員 これは私、妙な問答をしようというつもりじゃないのです。こんな名前を残しておくことは不合理だ。これは今おっしゃったように判別困難だ。解剖して内蔵を見ればわかるだろうといってもわかるものではありません。そういう答弁じゃ何のために質問しておるかわからないので、そういうことをお尋ねしておるのじゃないのです。こういうわけのわからない、種類の名前でもないようなものはこの中からのけなければならぬでしょう。そうしてその野生化したものは人畜に害を加える場合があります。これはさっきおっしゃったように、ちゃんとはっきり野犬狩りとか、野猫狩りというのがあるかどうか知りませんけれども、そういう方法でやらないとできるものじゃないのです。あなた方のいうノイヌだって本来これは人になつく性格を持っていますから、野生化した犬だって、連れてきて飼えばけっこう役に立ちます。そうして非常に利口です。だからその区別をつけようたってつきません。私の家はちょうど松山の城山の下にありましたから、よく知っておりますが、あなた方の言うノイヌの子をとってきて飼うと、とてもいい犬が育ちます。そういうことですから、おそらくこれはアメリカあたりのほんとうの野生の犬というものとそれとをごっちゃにしておると思いますので、そういう判定もできないし、ことにそれによって処罰を受けるというときに、こういういいかげんなものを並べておくというのはよくないことだ。これは考えなければならない。そうでないと困るのじゃないでしょうか。
○若江説明員 仰せのようにノイヌ、ノネコとのら犬、のらネコとの識別は非常に困難でございますが、野生いたしておりますノイヌ、ノネコがいるということも事実でございます。この際これを狩猟鳥獣からはずしますと、ノイヌ、ノネコ等の狩猟に事かりまして、山野にこれを狩りに行くということになりますと、狩猟秩序を乱すということにもなりかねませんので、その点は先生の仰せのように、識別を十分行なうように考えて参りたいと思いますが、大へん困難な点はありますけれども、従前とも入れておりますし、ここでこれをはずすという特段の理由もありませんので、従前通り入れて参りたいと考えております。
○湯山委員 はずす理由がないという理由がわからないからお尋ねしておるのです。はずさなかったら今のように困るじゃありませんか。
○若江説明員 特にこの二種類を加えておりますために大きな障害があったという事例もないわけでございますし、今後ともそういうことのないように私の方でも運営して参りたいと考えるわけであります。
○湯山委員 障害は、こういうふうにお尋ねしてもはっきりお答えができない、また狂犬病の問題とも関連して参ります。そのほか関連するところ大きいのです。ネズミにはちゃんとノネズミという種類があるのです。ところが国の法律でノイヌ、ノネコというのがちゃんとあれば、これはずいぶん迷わしますよ。だからあって益なきものはやはり害があると見ていいわけなんですが、どうですか、これをのける意思はありませんか。
○若江説明員 先ほど来申し上げておりますように、これを直ちに除外するという考えはございません。
○湯山委員 それじゃ、めんどうになりますが、もう少しお尋ねしてよろしゅうございますか。
この犬、ネコの野生化したものですね、これは一体どの程度野生化したものをいうのですか、飼っている親が山に入って、山で生まれたその子はもうノイヌですか。それがたとい町へ出てきても、あるいはどこをどう通っていても、ノイヌというのですか。
○若江説明員 野生のノイヌから生まれましたいわゆる子犬でございますが、これは獲物を山野で得て、山野で自生していくという状態におきましては当然ノイヌと解しております。
○若江説明員 その行動範囲の中でたんぼ等へ出て参りましても、ノイヌであるということには変わりはないというふうに考えます。
○若江説明員 家の中に獲物を探しに来るという場合もあるいはあろうかと思いますが、それはたとえばイノシシが獲物がないために里山に来るというのと同じような現象であろうと思いますので、同然でございます。
○湯山委員 だから間違いを起こすのです。イノシシというのはイノシシという種類です。動物園の中にいようが、山の中にいようが、家の中にいようが、イノシシというのは動物の一つの極数の名前です。ところがあなたは、ノイヌというのは固定した種類の名前でなく、生息の状態であると言う。だから家にいたらどうなるか、田の中にいたらどうなるか、山にいたらどうなるかをお尋ねした。そうしたら今度はどこへ行ったってノイヌはノイヌだ――今度は種類になったのです。それならノイヌとはどういう種類ですか。またもとへ返りますが、どうなんですか。
○若江説明員 もともと山野におりまして、生まれた子供がたまたまたんぼに来た、家の付近まで来たというのは、行動半径の中で行動したのであって、本来終始山野で生活している限りにおいてはノイヌであるというふうに申し上げた次第であります。
○湯山委員 違うでしょう。今おっしゃったのは家の中に入ってきてもノイヌはノイヌ、だとおっしゃったのですよ。さっき私が申し上げたのはそれなんであって、あなたのいう意味のノイヌの子を飼えば、とても利口でいい犬ができます。それでもノイヌですか。生まれたのは山で生まれたのです。飼い方だっていろいろありますから、主た飼い方で聞かなければならぬことになるわけです。
○若江説明員 狩猟家がノイヌをとりまして自分の家で飼養するということになりますと、それは飼養鳥獣でありますので、自己の支配下で飼養されているノイヌであるというふうに解釈されます。
○湯山委員 そうすると、はっきり言ってノイヌというのはどこにどうあってもそれは撃っていいわけですね。
○若江説明員 先ほど来申し上げておりますいわゆるノイヌを免許者が期間中に撃つということは当然よろしいわけであります。
○若江説明員 欄、柵、囲障あるいは人家等で狩猟するということは禁止されておりますので、撃つわけには参りません。
○湯山委員 私はそういうことを尋ねているの、じゃないのです。つまり狩猟の対象になるかということを尋ねておるわけで、今大へんな間違いを犯しておるというのは、その生息の状態だと言われたのが、今部長の御答弁ではだんだん一つの品種になってきておるのです。よろしゅうございますか、品種でないものがだんだん今の御答弁でも、どこにいてもノイヌはノイヌだ、今のように別な規定を考慮に入れればどこで撃ったっていいんだ、こういうことまで変わってくれば、もうそれは、はっきり一つの品種になっているのです。大へんな間違いですから。
○若江説明員 最初に申し上げましたように、ノイヌという区分が動物学上にはないけれども、それが生息の状態からしましてノイヌと判定せられる犬がおる、それを狩猟鳥獣の中に入れておる、そのノイヌがたまたま山野から田畑の付近まで現われてもそれはまだノイヌであろう、こういうふうに申し上げた次第であります。
○湯山委員 あろうじゃなくてこうこうだということが明確でなければ、間違ったら狩猟法違反に問われるわけです。罰金をとられるわけです。だからそういう不明確なものは明確にする責任があります。ところが明確にしようたってノイヌ、ノネコに関する限りは明確にしようがありません。私は前に古賀園長にもこれは聞いたことがあるのです。そんなことはわからぬとはっきり言っておられる。よろしゅうございますか、ほかの動物学者に尋ねてみましても、それはわからない、こう言うのが常識です。もしあなた方がこの法律の中にある言葉だからあるいは規則にある言葉だからというので統一解釈をおつくりになっても、ほかでは通用しません。その証拠には、狩猟されたもので、はたしてノイヌであったかどうかという区別はつかないのですよ。ことに今おっしゃった内臓を抜いて皮と目だけにしてつっておけば、絶対区別がつく人はないでしょう。どうなんです、区別がつかないでしょう。
○若江説明員 内臓を抜きまして皮だけぶら下げたというふうな仮定の問題では、ほとんど識別が至難であろうとは思います。
○湯山委員 そして同じようにノウサギというのは種類の名前です。だがわかります。見ても区別がつくのです。そういうノウサギというのは区別のつく種類でいいのです。ノイヌというのは区別がつかない。ましてノネコに至っては全くわからない。それをなお個室されるところにこの法律がまだ脱皮していない。私が申し上げたのはそこなんです。白痴、瘋癲という、わけのわからない言葉がそのまま残っている。そしてノイヌ、ノネコというようなものが、まだどうもあるようなことになっている。そういうところに不徹底さがあるから、それで抜本的に考えなければならぬのじゃないか。今のようなお考えだとほんとうの鳥獣保護はできませんよ。取り締まる人にもわからないのだから。白痴、瘋癲なんて、読んでも法律もわからない。そしてまだかたかな書きでしょう。これはどうですかね、こういうことにこだわって、そういうお考えでほんとうに鳥獣保護をやっていこう、狩猟の適正化をやっていこうなんて、できますか。そういうお考えがなお残っておって、はたしてできるかどうかです。できないでしょう。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0408/04303120408017c.html
『文は人なり 書は人なり』とは言うけれども、『チ○コの舐め方は人なり』などという哲学が果たして成立しうるか。
私は電車の中で考えた。
AVを鑑賞していると、男の一物を舐めるシーンを必ず目にする。
慣れた様子で弄ぶのも捨てがたいものだが、舐めるところの醍醐味は、殊にそれが新人女優の手による時に現れる。
緊張で満たされる中、視聴者の期待に応えようと懸命に頑張る姿は、やや滑稽であるとともに、妙な愛おしさを感じさせてやまない。
恥ずかしそうに目をつぶってぺろぺろする子もいれば、開き直って大胆に、バキュームを炸裂させる子までいる。
ほとばしるものを笑顔で受け止める子もいれば、びっくりして今にも泣きそうな顔を汚す子もいる。
そんな場面を頭に描きながら私は考えるのだ。
少なくとも、性に対して内向的か外向的かの差異は、チ○コの舐め方に表出する。
私は確信した。
くだらぬ事を考えていたら、私の両隣に女性が座った。
混雑する車内で席を確保できたことに安心したのか、二人の女性はさっそく眠り入り、やがて私の肩を枕にした。
筋肉質からは程遠く、腕にはやわらかな脂肪がついているので、私の肩を頼る女性は珍しくはないが、両隣の女性が同時に寄ってくる機会はめったにあるまい。
少々体裁が悪いので私も目をつむることにするけれども、心の中では万々歳。
顔が綻ばぬよう注意をしつつさっきの続きを考える。
かりにチ○コの舐め方により性格が明らかになるとすれば、その場面を観ることで内向的な性格か外向的な性格かが分かりそうだけれど、はたして本当に、照れながら舐めれば内向的で、張り切って舐めれば外向的ということになるのだろうか。そんなに単純なことなのか。
私はなおも考え続ける。二人の女の頭がいよいよ私の肩を重くする。
そうだ、自分がチ○コで、両隣の女がそれを求めているとしよう。
仮想のシチュエーションで視点を変えれば、新たな発想が生まれるかもしれない。
そしてチ○コの気分で電車に揺られてしばらくたったその時であった。
片方の女がビクっとして、驚いて目を覚ましたのである。
さっきまで考えていた難しい問題をすっかり忘れた私は、言い知れぬ満足感を胸に秘め、二人の女を残して目的駅のプラットホームへぴょんと降りた。
していない」と回答した。
沖縄保守層から基地押し付けを軽減するクリーンな政治家と期待されたが
戦後レジームを強化する方向で
安倍晋三も 結局は
沖縄の人々にとって良かったと思えるよう
日本人全体で心を尽す」という
天皇陛下のお気持ち※3を踏みにじった
※1 沖縄返還交渉に当たった吉野文六外務省元アメリカ局長が政府側として初めて「密約」の存在を認めた。密約の存在は情報公開法により米国政府が公文書で認めている。北海道新聞2006年2月8日参照 (リンクは吉野告白記事を取材した徃住嘉文記者の講演要旨)
http://jcj-daily.sakura.ne.jp/hokkaido/report06/0923tokosumi/youshi.htm
※2 貿易収支は2兆7900億円の赤字。1979年の統計開始以来最大の赤字を記録。大和証券・チーフマーケットエコノミスト永井靖敏氏は「1月貿易収支で、円安が輸出増に結び付かないことがほぼ確認された。日本経済の自律回復は難しいかもしれない。輸出を基点とした景気回復シナリオが崩れるという観点で、株安要因」と述べ、「アベノミクスは、現段階で好循環が生じていない」と結論づけている。
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA1J00U20140220
※3 平成15年平成15年12月18日天皇陛下会見記録 質疑応答
「この沖縄は,本当に飛行機で島に向かっていくと美しい珊瑚礁に巡らされ,いろいろな緑の美しい海がそれを囲んでいます。しかし,ここで58年前に非常に多くの血が流されたということを常に考えずにはいられません。沖縄が復帰したのは31年前になりますが,これも日本との平和条約が発効してから20年後のことです。その間,沖縄の人々は日本復帰ということを非常に願って様々な運動をしてきました。このような沖縄の人々を迎えるに当たって日本人全体で沖縄の歴史や文化を学び,沖縄の人々への理解を深めていかなければならないと思っていたわけです。私自身もそのような気持ちで沖縄への理解を深めようと努めてきました。私にとっては沖縄の歴史をひもとくということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし,それであればこそ沖縄への理解を深め,沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました。」
「沖縄は離島であり,島民の生活にも,殊に現在の経済状況は厳しいものがあると聞いていますが,これから先,復帰を願ったことが,沖縄の人々にとって良かったと思えるような県になっていくよう,日本人全体が心を尽くすことを,切に願っています。」
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h15e.html