はてなキーワード: 村上春樹とは
今日の帰り道、長い塀とその中にある高い木々に囲まれた屋敷を見かけました。随分昔からあるような雰囲気でした。大きな門のところにはぴかぴかの監視カメラがあって、そこだけちぐはぐな感じがしました。
私は散歩が好きで、気がつくと三時間くらい歩いていたりします。この街はくまなく歩き回ったと思っていたのですが、まだ知らない場所があったみたいです。こういうことがあると、物語の中に入ったようで少し楽しい気分になります。ここはそんなに大きな街ではないので、もう何ヶ月かしたらきっと、本当に行ったことがない場所などなくなってしまうでしょう。そう思うと少し残念でした。その時が訪れたら、人に迷惑にならない程度に少しばかり酒に酔って散歩するのも良いなと思いました。そうして、意識がはっきりしていない状態で歩き回ると、「猫町」に出てくるような遊びができるかもしれないと考えました。
小説といえば、昔に村上春樹の小説を夢中になって読んでいたことがありました。近頃はあまり読まなくなってしまったのだけど、日常から非日常へとシームレスに暗転していく感じが好きで、今でも地下鉄に乗っている時や、古いホテルの長い廊下を歩いている時などに小説の情景を思い出します。
どうして村上春樹のことが頭に浮かんだかというと、今横を歩いているこの立派な屋敷は「1Q84」に出てくる篤志家の老婦人が住む家の描写に似ていたからだと思います。塀の中にはほうれん草が好きなドーベルマンや、隙なく鍛え上げられた肉体を持つガードマン・タマル氏がいそうでした。思わず空を見上げましたが、月は一つしかありませんでした。
小説の内容は断片的にしか思い出せませんでした。ただ、タマル氏が語った木彫りのネズミを作る少年の話ははっきりと記憶しています。その少年はタマル氏が育った児童養護施設にいて、ネズミを彫ることの他に何もしませんでした。少年がネズミを彫る情景は、何故かわからないが心に残っていて、それは自分にとって大切なもののように思える、というようなことをタマル氏は言っていました。それが彼の心象風景なのだと。
1Q84を初めて読んだときのことはよく覚えています。お金がなかったので本は買えず、図書館はずっと予約待ちでいつ読めるかわからず、でもどうしても読みたかったので、きっと責められるのでしょうが、隣町の図書館に行った帰りに本屋で立ち読みをして少しずつ読み進めたものでした。
その当時の私は、失意のどん底にいました。大学受験に2回も失敗したのです。高校を卒業して就職し、少し経って色々なことが見えてきて、大学に行きたくなって、仕事をしながら受験勉強をしました。そして失敗しました。頑張って溜めたお金もどんどんなくなって、やっぱり自分は馬鹿なんだ、甘かった、叶わない夢を見ていたのだと思い知らされて、本当に惨めでした。それでも諦められなくて、図書館の自習室に通って勉強を続けていました。
そんな折にウッカリ病気になり、入院して手術を受けなくてはならなくなりました。高額医療なんとかという制度でかなりの額が戻ってきたのですが、それでもやはりお金は減るし、大部屋だったので周りの病人になんやかんや干渉されるし、古い病院なので暑くて臭いし、とにかく最悪でした。
その日も最悪な気分でした。手術で受けた傷が痛みました。術後から数日間しか経っておらず、しばらくは風呂に入れないでいたので、自分が臭いのがわかって辛かったものです。
気分転換でもと思って院内を散歩しているうちに、見知らぬ病棟に入り込んでしまったようでした。エレベーターで一番上まで上がると、屋上に続くドアを見つけました。
屋上には誰もいませんでした。洗濯されたシーツがはためく耳障りな音と、やかましい蝉の声だけが聴こえました。季節は夏で、真っ青な空と真っ白な雲のコントラストが憎たらしいと思いました。しかしながら病院の屋上というのはなかなか絵になるもので、まるで自分が小説の中に入り込んだような心持ちがして少し気が晴れました。ですが、そんな雰囲気で柵に凭れたら、熱された金属が肌を焼いて飛び上がり、格好が付きませんでした。ため息をついてふと見下ろすと、ある病棟の窓から内部が見えて、目をこらすと病室から廊下に棺が運び出されているのが目に飛び込んできました。
私はますます憂鬱になりました。それで、とぼとぼと病室に戻ると、点滴を引きずりながら歩いたせいで血が逆流してしまったらしく、看護師さんに怒られました。
落ち込みながら、歩き回って汗をかいたので着替えて、脱いだTシャツを流しで洗濯していると、明らかに大掛かりな手術をしたと思われる包帯ぐるぐる巻きの人がやって来ました。その人は壺のようなものを重たそうに持ってよろよろと歩いていて、とても怪しい人物のように見えました。それを流し台に置いて居なくなったかと思うと、しばらくして綺麗な花束を持って戻ってきました。壺ではなく花瓶だったのかと私は思いました。
その人にとって、かがみこんで花を花瓶に入れることも、蛇口をひねることも、そしてその後に運ぶことも難しい状態に思えました。普段は、困っている人に親切な行為をするのに随分勇気が要るのですが、その時は反射的に声をかけることができました。
病室のテーブルに花瓶を置くと、その人は小さな板(何回でも書いて消すことができる子供用のお絵かきボードがありますが、それに似ているものです)のようなものを取り出し「ありがとう、とても助かりました」と書きました。そして、手術をしてもう喋ることができないのだと続けました。私はその時初めて、その人が今まで一言も発していなかったことに気が付きました。
私は何故かその瞬間、自分を恥じました。しかし、そう思ったこと自体もその人に失礼で、恥ずかしく思いました。
視線を落とすと美しい紫色の花が目に飛び込んできて、見たことがない花でした。とても綺麗な花ですねと私は言いました。
その人は花の名前を教えてくれました。名前は聞いたことがありましたが、こういう見た目の花ということは知りませんでした。
そう言うと、好きな花なんです。母が持ってきてくれた。と答えました。
それからもう10年が経ちました。あの夏を過ごした翌年に、私は何とか滑り止めの大学に合格しました。その後、機会にめぐまれて、大学院にまで進学することもできました。いわゆるロンダリングです。恥を忍んで正直に言うと、大学に入るまで大学院を存在することを知らなかったので、それを初めて知った時はなんだか謎めいた機関のように思えました。周りに院を出ている人などいなかったし、そもそも大学を出ている人も多くはありませんでした。今では、本の奥付に書かれた著者のプロフィールにX大学大学院X課程修了などと書いているのが目に入るようになりました。昔から色々な本をたくさん読んでいたはずなのに、きっと見えていなかったのでしょう。
20代前半で初めて東京に出てきて、育った環境の違いに打ちのめされたものでした。中高一貫の学校出身の人々に囲まれて、私が初めからこういう場所で育ったならどうなっていたかなと考えましたし、今でも考えます。奨学金の残りの返済額に憂鬱になることもしょっちゅうで、そういう心配がない人はいいなと思います。進学してから変な経歴を笑われたこともありましたし、ロンダだと陰口を言われたこともあって、そうした時は悲しくなりました。
でも、いつからか、自分で自分の人生をある程度コントロールできているのだという充足感があって、これは昔にはなかったものでした。ただ、これは、大学受験を乗り越えて「分断」を渡った(かもしれない)ことだけが原因ではないように思えます。
何かがあって落ち込んだり、何かなくてもふと悲しくなったとき、あるいはただ呆けているだけのときに、あの夏の病院で出会った包帯の人との出来事が、鮮やかな紫色の美しい花のイメージとともに浮かび上がることがあります。普段は忘れていて、そのとき見たものや匂いや状況などがトリガーになって出てくるのでしょう。この情景はとても印象的ではあるのですが、別に感動的ではないし、大きく感情を動かされることもなく、さして貴重な体験だったという訳でもないように思えます。
ただ、思い出したときに何となく心が凪いで、これは私だけが持っているものだと言う気持ちになります。多分ですが、自分にとって大事なものであるような気がするのです。そう思うと、タマル氏が言っていたことが理解できるような気がしました。
「俺が言いたいことのひとつは、今でもよくそいつのことを思い出すってことだよ」とタマルは言った。「もう一度会いたいとかそういうんじゃない。べつに会いたくなんかないさ。今さら会っても話すことなんてないしな。ただね、そいつが脇目わきめもふらずネズミを木の塊の中から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える」
何言ってるかわからないと思う。
でも本当なんだ。
村上春樹は一冊も読んでない。読んだことがない。
でも村上春樹風の言い回しをあちこちで読まされすぎて、個人的には文学界の島耕作みたいな作風でしょってなっている。
偏見だと思う。
でもやたらスパゲッティが出てきたり、
やたらやれやれと言ったり、
しょっちゅうそれに興味もないし何かを言う権利もないと言ったり、
自由を尊重してるようででもそれに言及してる時点で言い訳がましいのか女々しいのかよく分からない、
そういったイメージになっている。
あの文体を見させられすぎて、村上春樹本当に嫌だなって感じになっている。読んだことないのに。
そして、もっとひどいのがノーベル文学賞取れない取れないと話題になるたびに
Twitterとかブコメとか見てると、犯罪者の思考だったり政治家の汚職だったりに対して「吐き気がする」「吐き気を催す」って書いてる人がメチャメチャたくさんいる
もちろん言葉の綾というか、実際に吐き気がしているってことはないんだろう、と思ったところで、やっぱりそういう決めつけはよくないなと思い直した
俺もそういえば村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』で人が生皮を剥がれるシーンを読んだ時はけっこう気持ち悪くなった それでも吐き気まではいかなかったが
グロさみたいな直接的なものじゃなく、思想の気持ち悪さだけで吐き気まで引き出せる感受性を持つ人が実際にいる可能性は捨てきれない
してねえなら書いてんじゃねえぞカスという思いは正直ありますね
あれだ ツイッターバズレシピで、クソどーでもいい3流のおつまみみたいなやつに「悪魔的」「箸が止まらない」「世界一うまい」つってんのと同じ嫌悪感だわ
吐き気ってかなりのもんだぜ?
排水溝がかなり臭くても吐き気まで行くことは稀 うっかりグロ画像みても、胸がボンヤリムカムカすることはあっても吐き気はせん
どうせアレだろ 昔見た誰かの表現を猿真似してんだろ 深く意味も考えねえでよ
ニュース読んで、多少の怒りは覚えつつも、バッチリ健康体、そのままカルボナーラでも豚カツでもなんでも食えるような元気いっぱいの体調で「吐き気」なんて書いてんだろ
なめてんじゃねえよ
本当に一度くらい吐いてから言ってみやがれ
Twitterで盛り上がってるタモリ(森田一義)を月に移住させる署名運動の問題点について書き残したい。
ノーベル文学賞にカズオ・イシグロが選ばれたのは記憶に新しいが、それによって村上春樹は今後20年受賞の目は無くなったと言われている。何が言いたいのかと言うと、タモリが月の移住者に選ばれたら次の日本人移住者はだいぶ後になると言うことだ。75歳のタモリに月のアダムとイヴ(またはイザナギとイザナミ)の役割を担わせるのは、年齢的にかなり厳しいと思う。そうでなくても、タモリは長いことお昼の顔を務めていた事もあり、夜の象徴とも言える月の始祖にはイメージ的にもしっくりこない気がする。
「地球に優しく」というキャッチコピーがあるが、当然ながら月も同様に大事にしなければいけない。タモリは芸人になる前、ボウリング場の支配人をしていた事がある。ボウリングのボールはウレタン製が多いが、昔はプラスチック製のボールもよく使われていた。今レジ袋が今問題視されているが、レジ袋がダメでボウリングの球が良い道理はない。そういう観点からもタモリは月に相応しくないと思う。
タモリの祖父は満州で駅長をやっていたらしい。駅長というとJRや私鉄の駅長を想像しがちだが、満鉄の駅長はそれらとはまったく意味が違う。満鉄は鉄道を敷くだけでなく病院や学校や様々なインフラを整備し、駅の周辺の行政権を持っていた。企業が国家を運営するSF作品はよくあるが、あの時代の満州は既にそれを実現していたのだ。そしてタモリの祖父はその中で一定の職務を務めていた。もしタモリが祖父のその才覚を引き継いでいるとしたら、それはある視点では適任だと言えるだろう。しかしいつ何時タモリが月の裏側に軍事基地を建造し地球に侵攻して来ないとは言えない。
村上春樹とおんなじ枠になりそう
次のノーベル文学賞にふさわしい日本人といえば誰になるんだろう。
うちら書店的には売り上げ的に見てやっぱり村上春樹なんだけれど。
多和田葉子が次なんじゃないかと言う人がぼちぼち周りに出始めて。
受章歴からも作風からも多和田が近いのは分かるけど知名度が低い。
多和田葉子?知らん、で終わられては売り上げが見込めなくて辛い。
日本人の大多数が知っていて、世界の人にもぜひ知ってほしい作家。
そういう人がノーベル文学賞を獲ってくれたらみんな幸せだと思う。
西脇順三郎以降に詩の分野で候補に挙がったという話はないけれど、
そろそろ日本の詩人が獲っても良いのではと私は思っているのです。
(ピンフスキー氏のツイート:https://twitter.com/hideyosino/status/1136252884020895744?s=20より)
こうした「OOしてそう」、は自身にオタクくん(ここでは狭義の「オタク」、すなわち「何かにはまっている人」ではなく、「深夜アニメやソシャゲなどの教養のあるインターネット住民」を指す)要素がある人間であればだれでも聞いたことがあるだろう。
私は、この「OOしてそう」という定型文が好きである。ここではこの定型文の魅力と応用例を紹介したい。
そもそも私はインターネット((特になんJ、例のアレ界隈))特有の「罵倒ネタ」が好きである。
この「罵倒ネタ」とはどういうことかというと、例えばこういうのである。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm30714097
このように、罵倒をエンターテイメントとして消費する場面では、皮肉・ウィットに富んだ表現をすることが勝負となる(例えば、巨人小笠原や金本蔑称シリーズなど)。
したがって、欧米のジョークが好きな人は「罵倒ネタ」との親和性は高いかもしれない。
その中でも私は「OOしてそう」という罵倒が好きである。理由を述べよう。
このように手軽・上品に高いダメージを与える罵倒句、それが「OOしてそう」である。
次では、その応用例を見ていこう。
この「OOしてそう」を作る際に問題なのは、この「OO」である。
私が秀逸だと思う基準は、
この二点である。
この基準に基づけばいろんなインターネットの人やキャラに対して「OOしてそう」作ることができる。
新海誠の作風が童貞臭いとか、童貞力が持ち味みたいな意見を度々目にしてきたが、
実際に新海監督のプロフィールを見てみると、小学校時代はスピードスケートをやっており、
中学時代はバレーボール部で部長を務め、高校では弓道部に所属していたそうだ。
大学時代に童話サークルに入ったのが謎だが、その後は美人で高学歴な女優と結婚している。
こんなの童貞どころか、むしろリア充そのものの人生を歩んでいるように見えるのだが。
『君の名は』を新海らしくない一般受けの作品だという人がいるが、それはむしろ逆で、
新海監督は『君の名は』で、ようやく自分らしいキャラクターや世界を描くことができたのではないか。
『言の葉の庭』以前は、いかにも村上春樹や岩井俊二の影響を受けている感じの、
恋愛やセックスに普通にありつけるようなリア充が憂鬱ごっこ、孤独ごっこにふける軽薄な作品ばかりだった。
「太宰とか芥川とか泉鏡花とか川端康成とか読んだことないの?笑」ってなんやねん!!!!!!怒
本屋にふらっと入って、その時話題だったり平積みされてるのから面白そうなのを適当に選んで読む。
最近読んだ中では「蜜蜂と遠雷」とか「あきない正傳 金と銀」とかがハマって凄い面白くて一気読みした。ホームズとかも好き。
同年代に流行りの村上春樹は「騎士団長殺し」は50pくらいまで読んだもののどうしても合わなくて途中で売ってしまった。
けど、「遠い太鼓」はちょっと面白くて、1年くらいかけてちまちま読んだ。
そんなだから趣味は読書ですって言っても良いと思ってるんだけど、
そうすると文豪の本をほとんど読んだことがないので、読書仲間の間ではなんとなく浮いている気がする。
読まず嫌いというわけでもなく、刺青とか堕落論とかは一応最後まで読んでみたものの、読み終わっても別になあ…っていう感じだった。
女生徒とか吾輩は猫であるも冒頭チラッと読んだけど、上がんなくて最後まで読めなかった。
文体が古くて読みづらいって言うか目が滑るって言うか。というのもあるけど、現代人が現代小説の方が好きなことって別に普通のことじゃないか?
自分は当て勘で本を買っては当たったり外れたりしているけど、
それって自分にとってそうってだけで
他の人のハズレが自分にとってあたりだったり、その逆もあるってもちろん理解してる。
文豪は文豪として扱われるだけの力があるんだろうなってこともわかる。
んだけど、やっぱり太宰治読んだことないよっていうと苦笑されたりするんだよな。
・【小説】ライ麦畑でつかまえて / J・D・サリンジャー
・【映画】スタンド・バイ・ミー /
追記: コメントで教えてもらった創作物を追加しました。 まだまだ募集中
・【クラシック】ラプソディ・イン・ブルー / ジョージ・ガーシュウィン
・【クラシック】ローマの松 アッピア街道 / オットリーノ・レスピーギ
・【音楽】1001のバイオリン / ブルーハーツ
・【映画】最高の人生の見つけ方 / ジャスティン・ザッカム
・【小説】マルコポーロの見えない都市 / イタロ・カルヴィーノ
・【映画】プリシラ / ステファン・エリオット
・【TV】ドキュメント72時間 / NHK
・【映画】グランド・ブダペスト・ホテル / ウェス・アンダーソン
・【映画/小説】モーターサイクル・ダイアリーズ / エルネスト・チェ・ゲバラ
・【映画/小説】イントゥザワイルド(荒野へ) / ジョン・クラカワー
・【音楽】My Favorite Things / オスカー・ハマースタイン2世 とリチャード・ロジャース
・【音楽】AMBITIOUS JAPAN! / TOKIO
すこし前のことだが、とある掲示板で論争というかレスバトルになった。
議論のテーマを一言でいうと「東方Projectで一番強いのは誰か」だ。
うん、まあなんだ、いい年した大人が顔真っ赤にして、バトるようなテーマではない。自分でもわかっているので、とりあえず、それは置いておいてほしい。
その議論において私はとあるキャラを最強だと推し、相手は別のキャラを最強だと主張した。ここでは、その二人のどっちが真に最強か、とかそういうのはどうでもいい。私はここで最強議論をやりたいわけじゃないし、自分の思う最強キャラを推したくてこのエントリを書いたわけでもない。
私には彼(あるいは彼女)の主張する最強説は根拠が曖昧に思えたので、そこを突いた。彼はすぐさま反論した。曰く「ZUNがそう言ったから」と。
その後、いくつかレスが続いたのだけれども、彼が何をもって自分の推すキャラを最強と信じているかというと、要は「ZUNがそう言ったから」ということに大部分を拠っているようだった。
知らない人のために説明するとZUNというのは東方Projectの作者である。
ZUNはラジオかなにかのインタビューで、とあるキャラクターのことを「いままでのキャラよりずっと偉い。はるかに高位の存在」みたいなことを言っていて、それが彼らの根拠となっているようだった。
だが私はそれは根拠にならないと思っていたので「作者の言ったことは公式設定ではない。あくまでゲームや公式書籍から読み取れることを根拠に議論すべきだ」と書き込んだ。
そうすると即座に「なにを馬鹿なこと言っているんだ。作者の言っていることは公式設定に決まっているだろう」という反論が多数寄せられた。
最初はレスバに勝ちたいからそう言っているのかと思ったけれど、どうもそんな感じでもない。
どうやら、彼らは本気で「作者の発言したことは公式設定」と信じ切っているようだった。
世の中には「作者の発言=公式発言」と思っている人間が、思った以上に多いということである。私はなによりもその事実に衝撃を受けた。
(しかし、そう思うのは勝手だけど、それを否定されたからといって自分が馬鹿にされたかのように怒るのは意味がわからん。なぜかこの私への反論レスはほかと比べても感情的になっている人が多かった)
私はそうは思わない。
作品の持つ価値とか主題とかいったものは作品自身から読み取るべきであり、作者の発言はそこに含まれない。
はっきり言えば、作者が作品外で発言したことは、一個人の発言と変わらないと思っている。参考資料ぐらいの扱いがせいぜいだろう。
仮に村上春樹が「『ノルウェイの森』は核兵器の廃絶をテーマにして書いた小説だ」と発言したら、その日から『ノルウェイの森』は核兵器廃絶がテーマの小説になるのか?
夏目漱石の日記が見つかって、そこに「『坊っちゃん』は自然保護をうったえる小説だ」ってあったら、坊っちゃんは環境保護小説になるのか?
いやいや、そうはならんでしょう。
作者は作品の中で自分の主張なり、美意識なり、好き嫌いなり、といったこと、要は全てを表現しないといけない。
作品内でそれが表現しきれていないのに、別の場所で「あれは実はこれこれでね~」とか言ってもしかたがないんじゃないか。
いや、別に言うこと自体はかまわないし、私もそういうの聞くの好きだけれど、それを作品の正当な解釈として扱うのは違う。
「作者の発言だから」とそれを絶対的なものと考えるんじゃなくて、「ふ~ん、この人はこういう解釈なんだ」と、あくまで解釈のひとつとして、相対的に扱うべきではないだろうか。
少なくとも私は、たとえ作者の発言であっても、それが作品内から読み取れないことであったらノイズとしか思えない。
無論、作品を産み出してくれた作者には敬意は払う。尊敬もするし、作品というのは作者のものだとも思う。しかし、それと「作者が作品外で発した発言を、その作品の一部とすること」は別問題である。
【追記】
公式資料集は個人的には重視しない。ああいうのってたいていむちゃくちゃだし。作者のチェックなんかほとんどなしで編集者が勝手に作ってるだけでしょ。
仮に作者ががっつり関わっているとしても、それが「作品から読み取れること」を補足するための資料足り得るのかどうかは物によるとしかいえない。
あくまで重要なのは「作品そのものから読み解く」という姿勢であって、別に作者の発言や公式資料集を否定しているわけじゃないのよ。「作者の意見は一個人の解釈にすぎない」という前提さえ理解してくれるのであれば。
作品を読み解くにあたり有用だと思えば作者の発言も(参考資料として)採用すればいい。ただ問題は、そういうレベルで作者の発言を捉えている人間は少なくて、彼らは「作者の発言>作品そのもの」って思っているってことなんよ。