はてなキーワード: 村上春樹とは
村上春樹読んだことない。村上春樹作品の評価基準はほとんどマンガからだ。
1つ目はマンガ・昨日何食べた?。お姫様気質のゲイが村上春樹の小説にこんな会話が… と言うシーンがあった。なんか女子の面倒くさい人が好きそうな?という印象を持った。
2つ目はマンガ・いつかティファニーで朝食を。この中で村上春樹が好きそうな男=メンヘラ、という評価を登場人物がしていた。昨日何食べたのシーンもあって、ああメンヘラ御用達なのかという印象が固まった。
3つ目はリアルで、婚活サイトの男性会員のプロフィールから。村上春樹作品のようにお互いに対して何ができるかを考えるような関係が理想です、というような事が書いてあった。印象としてはティファニー…を読む前だったので、ああナイーブな感性の人なのね、だった。けど今、ティファニー…を読んだ後だと、実はメンヘラくさい人だったのかもなと思う。自分の心情に敏感でモラハラかましてきそう。けどスペックは恐ろしく高い人だった。
わたくしは山本一郎のことをネット上でおもしろプロレスしてくれる頭のいいおじさんくらいの認識でした。
こないだもドワンゴのかわんごとボコスカ訴状で殴り合いしてて、ドワンゴのことを切れの悪いうんこくらい疎ましく思っていたわたくしとしては、むねのすく思いがしたものです。
山本一郎さんはわたくしたち凡人の及ばないあらゆる物事に精通をしておりまして、いつも軽妙な語り口で法律やら司法制度やらあらゆる分野の専門情報を理路整然と説明してくれていて、本当にこの人は一体いつこんなに勉強をしたんだと、そういったふうにとても好意的に受け取っていたものです。
まさかあれらの言説がすべてサイコパスの人心掌握術で、読み手を先導するために最適化されただけの、中身空っぽの単語だとは思いもよりませんでした。
一部の嗅覚の良い人たちは気がついていたみたいですが、いやはや私のようにIQ120の凡人は、門外漢の専門用語の羅列で完全に脳みそを麻痺させられ、簡単に操られてしまうものなんですね。
今回のやり取りで本格的に、人を操るサイコパスという才能の一端を垣間見させていただきました。
山本一郎さんの文章は読んでいて心地よく、彼の文才は村上春樹に及ばずとも劣らないと、わたくしは愚考いたします。
どちらも白昼夢みたいな真実だろうが虚構だろうがそのまえに話として破綻しているような、あってないようなどうでもいい文章の羅列で、読んでると何故か心地よいという、一種のドラッグみたいな文章であり、その文章を証拠に世の中の問題を語るなんてのは、幻覚剤を投与されたチンパンジーつかって手術してもらうくらいとても建設的で文化的な行いであると言えます。
山本一郎さんは権力者さんとは一旦離れてもらい、岩田医師などの専門家の御膳で無能を晒すために中身のない妄言を垂れ流すなんていう不毛な作業から手を引いて、もっと世の中の人を喜ばせるような、作り話を作る仕事などをしたほうがよろしいかと思います。
上記の台詞は村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリに村上春樹の記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど
タイトルで述べた台詞は村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレなだけの台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章が漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキスト。タイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。
昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている
「小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)
完璧な文章とは何で、完璧な絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。
つまり、文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまり、もっと言うならば自分の意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。
とは言え、何らかのエゴを文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章の純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり、人間は文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章に自己のエゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものがエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴは小説の小説たりえるための何かを、文章の文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔なものでさえあるということなのです。
あるいは、完璧な文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章に自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧な文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧な文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。
ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧な文章などといったものは存在しないのです。完璧な絶望が存在しないようにね。
伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というものは存在しません。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己の存在がこの世において断絶してあるということです。自己の存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。
「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分の感情を、自分のエゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧な文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。
自己がそこには混入しており、エゴが文章を汚濁させているからです。
伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。
でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分の感情を伝達することなく、何一つ自分のエゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章が存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧な文章である筈です。
そして、それは同時に、明白に絶望なのです。
誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧な文章であると同時に、完璧な絶望の表現ということになるのです。
そう、存在しないのです。そんな、完璧に絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧な文章は、完璧な絶望が存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅を表現することは、不可能だからなのです。
あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧な絶望が存在する時、完璧な絶望の存在は否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり、比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。
だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまりは自分の真実を混入してしまうのです。そこには、表現の不可能性ではなく、表現の不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。
上記の台詞は村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリに村上春樹の記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど
タイトルで述べた台詞は村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレだけれど適当な台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章が漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキスト。タイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。
昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている
「小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)
完璧な文章とは何で、完璧な絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。
つまり、文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまり、もっと言うならば自分の意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。
とは言え、何らかのエゴを文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章の純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり、人間は文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章に自己のエゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものがエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴは小説の小説たりえるための何かを、文章の文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔なものでさえあるということなのです。
あるいは、完璧な文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章に自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧な文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧な文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。
ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧な文章などといったものは存在しないのです。完璧な絶望が存在しないようにね。
伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というものは存在しません。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己の存在がこの世において断絶してあるということです。自己の存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。
「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分の感情を、自分のエゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧な文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。
自己がそこには混入しており、エゴが文章を汚濁させているからです。
伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。
でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分の感情を伝達することなく、何一つ自分のエゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章が存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧な文章である筈です。
そして、それは同時に、明白に絶望なのです。
誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧な文章であると同時に、完璧な絶望の表現ということになるのです。
そう、存在しないのです。そんな、完璧に絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧な文章は、完璧な絶望が存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅を表現することは、不可能だからなのです。
あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧な絶望が存在する時、完璧な絶望の存在は否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり、比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。
だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまりは自分の真実を混入してしまうのです。そこには、表現の不可能性ではなく、表現の不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 102 | 14334 | 140.5 | 37 |
01 | 62 | 5985 | 96.5 | 39 |
02 | 33 | 2527 | 76.6 | 30 |
03 | 4 | 682 | 170.5 | 75 |
04 | 9 | 1505 | 167.2 | 61 |
05 | 12 | 6118 | 509.8 | 50.5 |
06 | 13 | 2000 | 153.8 | 100 |
07 | 37 | 3633 | 98.2 | 48 |
08 | 78 | 8372 | 107.3 | 52.5 |
09 | 189 | 13942 | 73.8 | 51 |
10 | 208 | 20869 | 100.3 | 44 |
11 | 190 | 14180 | 74.6 | 42.5 |
12 | 183 | 12555 | 68.6 | 30 |
13 | 122 | 11004 | 90.2 | 45 |
14 | 227 | 14830 | 65.3 | 37 |
15 | 149 | 10499 | 70.5 | 34 |
16 | 184 | 11955 | 65.0 | 32 |
17 | 131 | 11964 | 91.3 | 46 |
18 | 112 | 10112 | 90.3 | 45 |
19 | 189 | 12492 | 66.1 | 35 |
20 | 208 | 19535 | 93.9 | 36 |
21 | 133 | 10024 | 75.4 | 44 |
22 | 163 | 12421 | 76.2 | 35 |
23 | 137 | 10043 | 73.3 | 34 |
1日 | 2875 | 241581 | 84.0 | 39 |
リベオス(6), 事犯(7), 迷惑防止条例(10), 部分集合(6), サクナヒメ(4), リベチン(3), 帝京(3), ださい~(3), 逞し(3), カビ取り(3), 強制わいせつ罪(4), ホームレス(64), 動物園(8), インセル(7), 孤立(6), エロゲ(11), 境界(6), オマエ(13), アンタ(7), vtuber(5), マッチ(7), 女オタク(7), 女優(9), 知性(12), 美少女(18), 筋肉(13), 痴漢(29), DV(10), 専業主婦(15), 文化(44), 🐈(16), 悪意(11), 宣伝(13), 芸能人(19), 欲(10)
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つうかノーベル文学賞取ってるようなのだろうが、国語の教科書に載ってるようなのだろうが、大部分は全員美少女にしたらほぼエロゲじゃね?
最近のラノベやアニメはエロゲっぽい~~って意見をたまに見るけど、そもそもあらゆる創作物はエロゲとの違いはキャラデザだけじゃね?
ギリシャ神話だって、主人公が「ガハハハ~~!!グッドだ~~~~!!!」って色んな女にえちえちな事をしてるし、この世界には最初からエロゲっぽい作品だけがあって、そのキャラデザが変わった途端に、エロゲっぽさを皆がそこに見出したのでは?
始めての観測によってフラグが立って、そのあとは前よりも緩やかな条件で観測が可能になったというか。
そういったイデアは最初から既に底にあったけど、その影の形に人類が見いだせる意味のパターンを人類がまだ知らなかっただけ。
あらゆる作品はキャラデザ以外はエロゲぽpくて、その中でよりエロゲっぽさが強いものを指してエロゲっぽいと呼ばれるようになっただけでは?
つまり、エロゲは美少女という触媒を利用した原点回帰で、それ故にそこから再度日本のクリエイターたちが分岐したのも当然の帰結だったと言えるのではないだろうか。
少し不思議+不思議ちゃん+浮気+ストーリー上無意味じゃないような無くてもいいような程度のセクロス、構成要素がエロゲすぎない?
https://anond.hatelabo.jp/20201109184717
という文章を書いて400件近くブクマがついたので、それを読んで(読ませてもらって)思ったこと、考えたことについて、以下のとおり書いておく。
もはや、ほぼ愛知県知事リコール署名とは関係のない話になるので、あくまで俺個人の整理のための記述になる。
…
高須院長とその界隈を高みから見物しているつもりで、本当はこの騒動に食い気味にのめり込んじゃって、一番おかしいのはお前だろ、というブコメがいくつかあって、これは実際にその可能性がある。
俺は文中で自身の正気をちゃんと相対化できているつもりだったし、最後も、(俺にとってはもっとも合理的な理解である)愛知県知事リコールにおいては高須院長もその取り巻きも半笑いであって、仮に全てがおちゃらけに過ぎないのなら、頭から湯気立てて正気を失ってるのは俺だけだな、と書いたつもりだった。だから、お前も頭おかしいぞ、と言われれば、「だから自分でそう言ってんじゃん」という気はする。
ただ、「俺はてめえの頭がおかしくなってる自覚があるからつまり狂ってねえ!」というのは当然、矛盾している。
俺は自分のどうかしている具合について認識が甘すぎるんだろう。以前、何かの増田についたブコメで「この増田は自身の頭がおかしいことを自認しているが、おそらく増田自身が思ってるのとは違うかたちでおかしいんだと思う」というのがあって言い得て妙だな、と思った経験があるが、なんていうか、それに近いのかもしれない。
…
・お前は醜怪だ、という話
上の、俺の頭がどうかしているというブコメと似て非なるというか、印象的だったものがあった。
最初に反論しておくと、俺は誰かが真面目だったり熱心であることを理由に、おちょくられるのを無条件に免れるべきではないと思っている。
別に俺も、真面目かつ誠実に世のことを思っている人間に対して辻斬りのように悪意を浴びせるほど邪悪じゃない(とは思っている)。ただ、今回の高須院長の、86万筆という当初の目的に明らかに届かないにも関わらず、いかにも肉薄しているという空気を醸成しようとしたこと、結果として集まった43万筆の中身にも疑義がついているのにその検証を言下に否定したこと、署名活動中にリコール反対派を犯罪者呼ばわりしながら届けた工作活動の進捗を説明しないこと、ははっきり言って不誠実だし、リコールという制度を悪質にショー化する行為であって、それはおちょくられても仕方ねえよな、とは思っている。
で、ここからが少し複雑な話になる。
俺は、相手の悪口を書いたり、内容に虚偽を含めたりしない限り、不誠実で悪質な言動について相手を直接、ネット上でやり込めようとすることは許されると思っている(この考え方は本当に俺の異常性を吐露しているのかもしれない。「不誠実」で「悪質」を、ちゃんと主観を除外して判断できるつもりの上、攻撃のトリガーまで引くんだから)。今回の俺のリプライは、表面上は高須院長の味方にしか見えないものなので、(あくまで俺の中の)基準を満たしている。
一方で、俺は自分がほぼ悪意で行動していることを自覚している。義憤ではなく、私的かつ単純に「気に入らない」という感情にドライブをかけられていて、まともな人間はこんなことをそんなにしない。
つまり、高須院長の言動は真っ当な市民感覚によって非難されるべきだと思うけど、俺が従っているのはそういう倫理観ではまったくないし、取っているアクションもネジクレている。
お前は醜怪だ、という指摘はその点でこたえるものがあった。
…
・俺がtwitterで捨て垢を使ってリプライを送った / 先の増田はtwitterで当該のリプライを目にしたまったく別の第三者によって書かれた、という話
皮肉ではなく、おもしれえな、と思った。
この人たちには、本垢で有名人をおちょくったり、そのことを武勇伝めかして増田で書くことは想像を絶しているらしい。どちらが真っ当な感覚かはわからないが、この人たちの方がまともな気もする。
異常でわけのわからない行為を合理的に説明しようとすると、かえって、実態と異なる推論がはじき出されてしまうということで、これは頭を働かせている側がいけないのではなく、そもそも現実に起きていることがのっけからおかしいので、そうならざるを得ない。
おもしれえな、というのは、まるで、先の増田で高須院長たちの行動を理解しようとした俺自身のようだったからだ。つまり、「まったく事実に反した異様なツイートに大量の支持が集まるって、俺の理解できる世界を完全に超えている。もしかして、院長もその支持者も、全然本気でやってなくてふざけてやってんじゃねえのか?」。こんな俺の考えも、見当違いの方向にぶっ飛んだ推測なのかもしれないな、とあらためて思った。
…
・今回のリコール運動の中にもいろんな思惑があるよ / 個人の中にもマジの部分と半笑いの部分や時期があるよ、という話
言ってることはわかるんだけど、俺としては以下の1~4のどれかで断言してくれた意見の方が面白かった。
お前が面白いとかどうとか知らねえよ、という感じだと思うが、そう感じた理由はあとで書く。
…
・1~4の話
2. 院長はマジだが取り巻きは半笑い、という70過ぎのジイサンを見世物にした構図
ブコメを見ると、1, 4にそれなりに割れて、2、3がちょいちょい、というように見受けられる。
俺はこれが本当に面白くて、おそらくはこれまでの印象や知識によって、あの運動が各人で全然違う見え方をしていることがわかった(もちろん先の増田にブコメをつけた人々の意見なので、世間全体ではまた違うんだろう)。
俺が1ではなく2~4を選ぶのは、あるブクマカが仰っていたハンロンのかみそり(愚かさで説明できることを悪意で解釈してはいけない)が、この場合機能するのかな? という疑念があるからで、俺にとっては悪意や冷笑のために時間と労力を割いて敵方を嘲弄することはちゃんと合理的な行為だからだ。
こうして考えると、人間は自分をモデルにしてしか他者の行動を推論できないことがよくわかる。実際は1の可能性も十分あるだろうと思う。
あと、4の中にも高須院長と取り巻きが共犯ってパターンと、院長と取り巻きの意志共有はされていなくて、結果として4が形成されてるだけってパターンがある、と指摘している方もいて、なるほど、と思った。
いずれにしても、1~4のいずれかが今回の運動のメイン層であり、グラデーションはあっても、あるいは個人内でスタンスのうつろいはあっても、コアになる部分があると思う。
俺が「色んなやつがいるよ」的な解釈にあまり乗れないのは、「巨大な運動の内部に様々な思惑があるって、そりゃそうだろうな」っていう一般論でしかないのであんまり面白くないからだが、(ここから少し大仰な話になるので、狂人に訳知り顔されるのが不快な方はすみません)、もう一つ理由がある。
ブコメを読んで色んな見方があることがわかって、その中には「◯◯に決まってるじゃん」と断言するものもあって、正直言ってこれは便利だな、と俺は思った。
これってつまり、一つの現象をめぐる解釈について、どれだけいい加減な放言を言い散らしても、誰かしらは味方してくれるし、耳を貸すということじゃんな?
もしどこかの世界線で、俺が今と同じくらい世に倦んでいて、今と比べ物にならないくらいもっと金持ちで頭が良かったら、「××について、正解は1~4のうちどれでしょう?」の中で、自分にとって一番得で、自分の憎悪で人がたくさん泡を吹いて苦しんで、みんなができるだけ不幸になる答えについて、それを信じてくれる人たちに頑張って吹き込むのにな、と割とマジで思った。
そういう悪意に対抗するには、どれもが正解に見えるうちのもっとも核心に近いものを常に求めるぐらいが関の山でほかにどうしようもなく、「色んなやつがいるよ」は答えとして絶対間違えようがない一方で、悪意の味方になり得て助かるかもな、と思うので、あんまり好きな回答じゃないな、と思った。
言い換えると、これ! という正解を常に抱えながら、科学的な証拠があれば別の正解に賛同できる柔軟性が市民には必要だ、ということになり、皆さんにはこれができるだろうか。ちなみに俺自身は絶対にできないと思う。
…
・オウムの話
「ふざけきってるようであいつらはマジだぞ」という1を選んだ人の中に、オウムとの相似を見た人もいて、そういう見方もあるのか、と思った。なんとなく村上春樹の『アンダーグラウンド1・2』を思い出した。
ウヨの考えてることなんてわかるわけねーだろ、というブコメもあって、俺もまあ先の増田で高須院長の取り巻きのことを途方もないアホか、(俺と同じ)悪意の塊かの二択の後者寄りでとらえてるので、いさめる気も権利もないんだけど、仮にあいつらがマジなら、誰かが高須院長の取り巻きたちの話をマジメに聞いてやったほうがいいのだろうか、とも思った。これは、『ボウリング・フォー・コロンバイン』でマリリン・マンソンが学校銃撃事件の主犯だった少年たちに向けた言葉から思いついたんだけど(「黙ってあいつらの言いたいことを聞いてやる。誰もそれをしなかった」)。だけども、俺には無理だ。理解できないやつとも、俺と同じくらい醜いやつとも話す気力も知性もない。善良で体力のある人に頑張って欲しい。
なお、理解の及ばない排他的な方向に加熱している、という意味でのカルトや『ボウリング・フォー・コロンバイン』の例えであって、暴力予備軍とみなしているわけではないことは言い添えておく。
…
・ポコチンの皮の話
バカバカしいことだが、俺は先の増田を書くにあたって、高須クリニックで包茎手術をやっていることを確認していた。
https://www.takasu.co.jp/danseiki/
俺がお詫びしなければならないのは、他人の生業を揶揄するような文章を書いてしまったことだ。これは本当に俺の想像力が欠如していた。高須氏にも美容整形に携わる方々にもお詫びいたします。申し訳ありませんでした。