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はてなキーワード: グリーングリーンとは

2024-02-12

グリーングリーングリーンズはなんでこんなにもAIっぽいのだろうか

全体的にチグハグというか、リレー小説的なんだよなあ。

キルアオやウィッチウォッチは良くも悪くも全体にも個々の話にも一貫性があるんだが、グリーングリーングリーンズは何をしたいのかが明確な感じになってない。

要領よく生きてきた凡人が天才になって世界活躍するという設定に対して、周囲のレベルがいきなり凄い高い。

凡人が天才に食らいついていくという物語は分かるんだが、当の本人がどういう人間なのかがイマイチ見えない。

正々堂々勝負したいのか、勝つためならハンディが欲しいのかも場面ごとにコロコロと変わる。

それが人間臭いテンパリとして描かれるならともかく、作品はさもそこに一貫性があるかのように語ってくる。

なんで?

今週の内容もなんだか、チグハグだ。

「凡人のくせに挑戦した結果、失敗した」という思い出が宿った写真を「変に冒険心を出さない戒め」と語りながらも、それを切り口に始めた話で「俺は本気でやって天才に勝つよ」と口にする。そして、最後には写真を消す。

一見すると話が繋がっているように見えるが、よく考えるとおかしい。

「戒め」の写真を消して冒険に挑むというのは確かに物語としてはそれっぽいのだが、実際にこの写真に写っているのは「凡人だけど挑戦してしまうという気持ちが昔から一貫していた」という部分なんじゃないのか?

100人漫画家を集めたら95人は、この物語の終わりで「挑戦しちゃうんだよな。結構いい顔してるじゃん、俺」と言ってこの写真大事しまいなおす物語を描くだろう。

だってその方が主人公物語一貫性が出るから

グリーングリーングリーンズは凄い漫画だ。

漫画なら絶対にやってしまう「主人公一貫性をもたせる」を放棄している。

第三者の目で見ればおかしく見えるような公道普通に主人公にさせるし、それがおかしいことを漫画世界自覚なく描く。

主人この目から見れば、一貫性のない行動に一貫性があることになっているという思い込み世界を通して我々の目に飛び込んでくる。

漫画というものはどうしても「体を一貫させる*」ということを大事にしてしまう。

起承転結として正しい形を。

チェーホフの銃は撃たなければいけないし、燻製ニシンの虚偽はそれが分かる形にして終わるべきだとされる。

物語として納得の行く着地点を目指して、都合よく全てがトントン拍子に進まなければいけない。

何気ない食事一つから殺人事件のヒントを見つけ、怪しい動きをしていた子供真犯人に口止めされていなければいけない。

そういった窮屈な「納得感」「必然性」の檻の中に漫画はいる。

だがグリーングリーングリーンズはそこを打ち破る。

凡人の癖に主人公が強いのは「めっちゃ努力する天才から」で終わらされており、他の天才も滅茶苦茶努力しているはずなのに追い抜かれていく。

なんで主人公ゴルフを始めたのかの理由は驚くほど薄っぺらいし、主人公自己認識も言ってることもしょっちゅうブレる。

この漫画には自由がある。

枠組みに囚われた人間がついつい「これはこうあるべきですよ」と自縄自縛に陥ってしまう所をすり抜けていく。

これは、まるでAIによる出力だ。

人間常識という壁によって気づかなかった可能性を、ブルートフォースアタックの総当たりで無理やり引っ張り出してくる。

将棋世界AIの力によって新手が無数に産まれ、新手を乱発する棋士はまるでAIのようだと評される。

グリーングリーングリーンズはまるでAIのような漫画だ。

ジャンプという動脈硬化を起こしきった雑誌に吹き込んだ新しい風だ。

皆、読んでくれ。

そして首を傾げてくれ。

「体を一貫させる」ことに囚われないリアル高校生の無軌道さを楽しんで欲しい。

体を一貫させる

この記事から拝借しました。

23/10/21 就活に苦しむインテリの学生に社会の真実を教える - LWのサイゼリヤ

2023-12-20

ジャンプ新連載のグリーングリーングリーンズ主人公クズ化したと荒れてるらしい?

週刊少年ジャンプグリーングリーングリーンズという漫画の新連載が始まった。

個人的にはそれなりに面白く読んでるが、どうも四話での主人公言動クズだとXのジャンプ感想勢でマイナス話題となっているようだ。

しかし、これまで物事真剣に取り組んでいなかった主人公ゴルフに対し必死になるようになったという描写であり、それがそのように読者が受け止められていれば、おそらくクズ行為としては認識されず、勝負への真剣さへの表れと受け止められただろう。

また、主人公勝負しているのはプロを目指していて経験豊富な先輩であり、しか飛ばしなのだからハンディをつけなければそもそも勝負として成立しない。

なので、ハンディをつけるという行為のもの問題がないはずなのだ

まり仮に多くの読者が主人公クズ認識してしまったんだとしたならば、クズ行為のものではなく別の部分で問題があり、その結果作者の意図通りの印象を読者に与えられていない、というのがより正しい状況であろうと思われる。

その原因について考えてみるとおそらく最大のものは、勝負位置づけの軸が物語の展開と合っていないという部分だろう。

この勝負では主人公バイトのクビをかけてるが、クビになったら主人公実質的ゴルフ練習する環境を失い、ゴルファーになる道を断たれることになる。

そして物事の原因は先輩の恋煩いによる一方的逆恨みなのだから人生を賭けた勝負を引き受けなければならない理由は全くない。

そのため主人公軽率人生に関わる勝負を受けて勝手ピンチになってるただの間抜けになってしまっている。

主人公が単に勝負に対して真剣になっているという描写をしたかったのであれば、賭けるのはバイトのクビではなくもっと軽いものでよかっただろう(例えば今日一ヒロインと会話するな、とか)。

それなら遊びの勝負でも真剣になる、という描写にすることができた。

遊びの勝負なら卑怯ともいえるような真っ当ではないハンディ提案も遊びの部分として受け入れられただろう。

個人的には面白く読んでるので応援したい。

2023-12-02

「逆」に考える事が出来ない、それがリベラル

NHKインタビュー取材メモ流出問題で相変わらずのダブスタ反応を左翼やらリベラルやらフェミニストやらがしていて

分かり切っていた事とは言え、さすがにうんざりしますよね。

仮にも不偏不党を謳うNHKが、民事訴訟中の当事者の内、片方だけの主張を一方的に取り上げようとしていたなど

完全にジャーナリズムが死んじゃった案件ですよね?

ジャニーズ忖度しまくってたNHKに元よりジャーナリズムがあるとも思えませんが

こうも堂々とズブズブっぷりを見せつけられると、さすがに反応に困りますよね。


これ、リベラルが本気で怒らなければいけない、権力者による権利濫用だと思うですけど

何故かリベラルがキレてるのが主に暇空側に対してなのが本当に不思議ですよね。

オウムと同じだ!」とか、マジで正気

当時から既に出家信者問題詐欺商品販売問題ガチ反社疑惑があったオウム「側から要望」に

何故かTBS忖度して情報流出させたTBSビデオ問題と、下っ端の社員勝手当事者リークして

暇空側も半信半疑世間に対し拡散した今回の問題全然違うじゃないですか。


100歩譲って「マスコミが外部に情報を流した!」という点でオウムと同一視しているのならまだ分かります

(それにしてもマスコミ関係者が外部から情報を「リーク!」とするのに、同じ事を一般人がやると大事にするのはどうかと思いますが)

左翼リベラルフェミニストの皆さん…どう考えてもそういう観点で語ってない人も多いですよね?

アノンオウム、暇空(水原)=麻原、みたいな論調で叩いてる人の方が多いですよね?


ミソジニーだのナチスだの、ワードの強いレッテル貼りから始まるリベラル仕草全開で凄いなって思いますよ。ある意味ね。

これが俗に言う「暇空狩り」(@東京弁護士会)なんでしょうか?

平和主義一般市民には、思想野蛮人の考えがよく分かりませんね。

結局、主張が正しいのであれば訴訟で堂々とやれば良いというのが世間一般感覚であって

デマゴーグと盤外戦術相手の評判を貶めて社会的評価を「そういう事」に持っていきたいのは

正々堂々と戦うと後ろめたい事が多すぎて勝てないから、別の手段攻撃していうのだな、と思ってしまますよ。

暇空は普段言動はお察しですがリーガルに関しては極々正当な手段を用いているので

暇空=オウムだと、リベラルオウム以下の何か、という事になってしまますが、それで大丈夫



そもそも「逆」に考えてみて下さいよ。

何かの間違いで暇空だかなるだかがNHKインタビューを受けた。

当然彼らは好き放題Colaboや仁藤夢乃氏に対して放言しまくった。

そのインタビュー内容を見て、思う所があった派遣社員が仁藤夢乃氏にリークした。

仁藤夢乃氏が、「これは酷い!」といつもながらの勢いでXツイートしまくった。


この流れで、リベラルやら左翼人達がColabo=オウム、仁藤夢乃=麻原彰子、だなんて主張します?

絶対に、しないですよね?暇空酷い、暇空は悪だ、好き勝手主張しやがって!

こんな感じで騒ぎますよね?仮にリークを受けたのがColabo側だった場合は、絶っっ対にインタビュー対立相手の方を叩きますよね?

500億円かけても良い。

「逆」にすると、途端に対応を変えて攻撃仕草に走るリベラルダブスタが、たまならく、キショいんですよ。

「俺(私)らは何を言っても良いし誰を殴っても良いけど、お前らが俺(私)らに文句言うのはNGな」

という、ジャイアンを超えたジャイアニズム仕草を、令和の時代になっても昭和の亡霊かの如く押し通すのは

一般社会的迷惑だし党派性思想がやられてる姿も浅ましく醜悪キモくてキモくてキモ過ぎて気持ち悪いし

真面目にこういう所が、左翼リベラルフェミニストが、エコーチェンバー界隈以外からの支持や共感をどんどん失っている根源なんですよね。




さて、今回インタビュー内容流出被害にあったのは、元漫画家片倉真二氏。(代表作:グリーングリーンキラ☆キラ忘却の旋律)

元暇アノンで暇空が色々ヤベー奴というのを最初から最後まで見抜けずに仲間面して

ウザがられ最後には蹴り出され、その後は速攻でアンチ空軍団に寝返ってColaboの手先として

活動家デビューしたという、非常に恥ずかしい類のお人なのですが、

かと言って一方的恨み節を捲し立て、取材相手にも小馬鹿にされているにも関わらず

その事に気がついてる様子すら無く言いたい放題しているという恥ずかしいインタビュー流出されて良い訳ではありませんよね。


それにしても、何であの界隈って元某な人間を持て囃しがちなんだろうね?

ネトウヨ雨宮古谷、元性犯罪者マギー、元男の金尻や自称トランスジェンダーの変質者共、

テロリストであり凶悪犯罪者の重房とかさ。昔から真面目にリベラルやってきた人達可哀想じゃん。

それともモト冬樹面影でも見出してるのかな?知らんけど。


100歩譲って、坂本弁護士一家事件の時から既にジャーナリズムとして死んでるにも関わらず

ゾンビ状態で生き続けながら統一教会認定🏺マニア教の伝道師信者達に忖度し続けるTBSやらかしたのなら、まだ分かるんですよ。

仮にも不偏不党を謳ってるNHKが、民事訴訟中の当事者の内、片方だけの主張を一方的に取り上げようとしていた。

どう考えても不偏不党とは程遠いですよね?だいぶ偏ってますよ。公共性なんて皆無じゃないですか。


仁藤夢乃氏は、対暇空氏に限った話でも無く、平素から企業民間団体に対し恫喝まがいの誹謗中傷を繰り返し迷惑や損害を与え続け、

行人の顔を晒して「性犯罪者」「性犯罪者予備軍」呼ばわりする名誉毀損プライバシー侵害も当たり前の様に行い、

当然の如く草津冤罪ホロコースト事件にもノリノリで加担しているという、どちらかと言えば加害者サイドの人間です。

そういった方に懺悔して手下になった元漫画家片倉真二氏こと避難所氏も、まあお察しの様に誹謗中傷を繰り返す迷惑Xユーザーです。

そもそも限度を超えた誹謗中傷が原因で暇の人にキレられて蹴られたんですよね。逆サイドに立って同じ事繰り返してるだけじゃないですか。


NHKは、不偏不党標榜しているにも関わらず、この様な加害者側の人間の主張一方的拡散しようとしていたのですが

情報流出問題というよりは報道被害問題なんですよね。正確に言えば報道被害未遂問題ですが。

令和のご時世に一般人名誉を不当に毀損しようとした報道被害を発生させかけたなんて、昭和の亡霊にも程があるのでNHK完全民営化してどうぞ。

TBSと同等の存在に成り下がって下さいとしか言い様が無いですよね。



というか、NHKですら自分達の主張が出来てしまう、自称一弱小団体って何なんでしょうか。

すげーコネとか権力とか持ってる様に思えてならないのに、何故か民衆の反権力側を気取っている不思議一般市民から程遠い存在なのにね。

2022-06-06

今の小中学生って合唱とかするんかな?

全然わからん

歌うとして何を歌ってるんだろ?

グリーングリーンとか今でも歌ってるんだろうか。

あのころの歌った歌、ってふと思い出すといいよな。

2022-02-03

児童歌の「グリーングリーン」のパパって死んだの?

30年越しに気づいたんだが……

「遠い旅路で二度と帰ってこない」って

言葉通りに離婚でもして旅に出たのかと思ってた

「小さな木の実」って児童歌も暗かったなあ

2021-05-23

anond:20210523142806

2000年代異世界モノのスタートにあたるヤマグチノボルゼロの使い魔かく前にかいグリーングリーンでさえ

電波もの届かないクソ山奥の高校から携帯持ってたところで意味がないって意味合いにしてたというのに

2021-04-17

「パパー、この世に生きる喜びそして悲しみってなんなの?」

子供にこう聞かれたら、なんて答えればいいのかわからない。

子供を混乱させたくないから、グリーングリーンやめてほしいなぁ」

これが、一般的な親の本音だと思う。

どんなに意識アップデートしろと言われても、辛いときには泣きたい。

別に誰が遠い旅路へ出かけようが勝手だけど、その状態子供の視界に入らないでほしいんだよね。



anond:20210416190537

2020-10-09

anond:20201007230906

グリーングリーン

その朝パパは出かけた遠い旅路

二度と帰ってこないとらららボクにも分かった

2020-06-13

子供を得る事をなく死ぬようだ

もう40を過ぎて、結婚どころか恋人もいないし、特段結婚したい願望もないし、多分このまま一生を過ごすのだろう。

グリーングリーンみたいな名曲聴くと、なんか子供を育てる事なく死ぬのは割と両親に対して罪悪感を覚えるが、まあこれも人生と思ってもらうしかない。

1000年名前が残る偉人の中にも、子供を残すことが無かった人は沢山いる。

(ちなみに関羽子供を残したが、その子孫たちはホウ徳の子孫によって皆殺しにされて血脈は残ってないそうだ)

その人たちの人生無駄だったのか。

何のために生きているのか、と聞かれるとちょっと困るが、少なくとも「子供を産み育てるため」に生きているわけでは無い。

っつーか、子供を産み育てているという事を以て、何か使命を果たしている気になるのは傲慢ではないかという気がする。

それは細菌が分裂するために生きているようなものだ。

良く言っても問題の先送りに過ぎない。

もし地球外の知的生命体と会話する時が来たのなら、最初に聞いてみたいのは「あなたは、そしてあなた達は、何のために生きているのか」だ。

もうすぐ43歳。

2019-08-13

学校合唱曲意味ってその場で教えてくれないね

大地讃頌とかグリーングリーンって反戦歌だったんだ

意味を教えず歌わせるのは卑怯だわ

2017-11-02

ヤマグチノボル最高傑作ゼロの使い魔という風潮

俺はモノクロームグリーングリーン)の歌詞だと思ってる。

というか「作詞ヤマグチノボル 作曲milktub 歌:YURIA」って今考えると最強すぎでは?

2017-05-10

夜はお腹が空く増田罪悪感各間座出す魔クスが金尾春代(回文

からコアラ下りてきた

危ない握力約1トン

村人みんなで退治した

カメラヨドバシカメラ

急な備品の購入に24時間のところは便利よね!

コピー用紙買ってきます!!!

えーよん♪

なーんて。

おはようございます

グーグルの最新の研究によると、

空腹の人のうち、

10割強はお腹が空いてるって言う研究結果があるらしいわ。

なんかあたりまえだのクラッカー的なことを研究してるのね。

でもさ、

お腹空いて帰ってきて、

夜も遅いし、

これからごはん食べるのって言うのもなんか罪悪感に駆られてしまうわ。

なんかその夜のお腹空いた空腹感を

乗り切りたいのよね!

要は己に勝たなければって話なんだけど、

うーん、

またちょっと春雨スープでもストック買い込んじゃおうかしら。

お腹空いたわ。

ぐー。


今日朝ご飯

朝多く、昼ちょっと、夜なるだけ食べないようにしたいのよね。

から朝はちょっと多めに食べたいわ~。

だって一日のエネルギーじゃない。

と言うことで、と言うことわないけど

いつものサンドイッチよ。

今日はミックスとタマハムサンド

いつものサンドイッチの棚からサンドイッチを取ろうとして

手が引っかかって他のサンドイッチが棚から落ちちゃったのよ。

棚に戻すのもなんだし、

落とした物なんか他の人が買っていくのも悪いなって思って、

欲しくないけど落とした物を私が買ったのね。

そういう時のことわざ

からサンドイッチ

略して棚サン

こういうシチュエーションの時!

今使うのかーって思ったわ。

みんなも使ってみてね!棚サン

デトックスウォーター

水出し緑茶が美味しい、

コールドクリーングリーングリーンウォーラー

ある日パパと二人で話し合ったわけではないわよ。

うふふ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2016-06-30

エロゲにおける泣きゲー概観

エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである

しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアムフレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為エロと称するのであれば、その意味で泣きゲーエロゲの一ジャンルであることは間違いない。

泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったか技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。

2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。

だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。

ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。

1988~1996年

そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。

その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからであるエロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。

例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である

人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。

男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。

DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。

さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲー元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。

努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇きっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。

「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。

1997年

難病物は概ね、主人公ヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したもの涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一ノベルゲームシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである

この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。

前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。

1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。

おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。

そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴である。もし泣かすという意思で作られたもの泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。

MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。

はいエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである

1998年

ToHeartで泣かせる物語構造確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.スタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインルートで導入された。

当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。

本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独ジャンルを成立させられることを示していた。

今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。

1999年

6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。

特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチKanonは泣かすという目的で採っている。

Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代泣きゲー金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物であるリアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。

――一方で、ToHeartもONEもKanon加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴であるハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である

興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。

2000年

知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。

そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。

しかし、彼女無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。

もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔幸福記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。

悲劇象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。

2001年

ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。

鬱ゲである

MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。

そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。

男女関係修羅場シリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。

誰を切り捨てるかは、プレイヤー選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。

さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である

家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。

襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。

なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである

2002年

……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である

例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である

また、集団間の絆も広く扱われていく。

うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である

2003年

ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決はいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。

これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である

ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。

2004年

そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤー凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。

そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。

泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要位置に少女の悲劇と愛が配置されている。

そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である

としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。

そう捉えるならば泣きゲー歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。

2005年以降

いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である

例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くもの2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。

また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトル以下略)。

昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやす泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである

おわりに

リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲー元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。

かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。

どうか、幸せエロゲライフを。

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