はてなキーワード: 酷評とは
http://www.malaysia-navi.jp/news/?mode=d&i=2831
中国は大戦前夜のヒトラー=南シナ海の「ズデーテン化」警告-比大統領
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201402/2014020500590&g=int
http://www.cnn.co.jp/world/35043562.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140206-00000026-mai-n_ame
あえてスルーしてんのか知らないが、その上日本のことだけは執拗に非難してるんじゃまるで中国の使いだね。
実際わざわざ一小説家の言葉を拾い上げて米国様に進言してまで日本を問題にしたがってる朝日は中国の使いで間違いないでしょう。
米国の対中批判の記事には以下の推察がある。その通りだと思う。
オバマ政権は挑発的行為の自制を中国に求める一方、安倍晋三首相の靖国神社参拝に「失望」を表明し、日中関係の改善を促してきた。だが、中国政府による日本批判の世界的なキャンペーンが続く中、中国の狙いを「日米同盟にくさびを打ち込むこと」と捉えて警戒感を強め、4月の大統領訪日を前に「同盟重視」と「対中けん制」を鮮明にした可能性がある。
一応歴史認識に問題があるとか言われてる人を実質無害とした理由も書いておく。
歴史認識がおかしいとか言われてる人は所詮過去のことがどうかってだけでさ、
そんな人らも過去を語るに当たってだいたいワンクッション置いてるよ。
それで十分じゃねぇか!
現代において侵略戦争しようとか慰安婦はこれからも必要とかそんなこと言ってる奴はいやしないよ。
でも実際問題として現代においても我欲のためにあちこち侵攻してる国はあるよ。
そこが脅威であり問題だろ。
それに比べたら歴史認識がどうこうなんて可愛いもんだよ。無害もいいとこだよ。
ブクマあたりでははてな村ネタとして消費されてるようだけど、似たようなこと時々考えてるのでマジレス。
とはいっても、俺は小説書いてるわけではなくて趣味で楽器弾いてる立場だから少し前提条件が違うかもしれない。それはあらかじめ承知してもらった上で読んで欲しい。
で、結論からいうと、あなたが斬新な発想が失われたと思っているのは別に「はてな」に出入りしているのが原因ではないと思う。単にあなたが大人になったからだよ。
ゲスパーを承知で言うと、あなたの若い頃の作品が「セミプロに近い実力」であったとしても、そこからプロのレベルに至るまでには見た目よりずっと大きな断崖があったはずで、あなたは現在その断崖にはまるべくしてはまっているだけだと思う。
例として、クラシック界では題名のようなことが言われる。全く当たっていない訳ではない。上手な子供はレッスンの課題で小学校高学年ぐらいでモーツァルトなんかを次々与えられて、なかなか魅力的な演奏をしたりする。一方で、超絶技巧の難曲を弾きこなす音大生に、古典的で簡素なモーツァルトを弾かせてみると機械的で散々な演奏になることもまたよくある。そうでなくても音大生の演奏って力任せで面白くないことが多い。結果、このあたりの曲には音大を卒業してからも苦手意識を持ちっぱなしという人が意外と多くて、巷のピアノ教師なんかじゃ、40代とか50代になってはじめてモーツァルトのような古典的作品のすばらしさがわかった、なんてことを言っている人が意外なほど少なくない。だいたい、中高生あたりの間にプロになるための修行に着手したあたりで、この辺の作品は練習課題にしか見えなくなってしまったりするらしいんだね。
ただ、聴き手の立場で言うとこれは理解に苦しむ現象ではあるんだ。モーツァルトって純粋で単純素朴みたいに言われるけど、聴いていて触発されるのは、憂愁とか諦念とか憤慨とか、なかなかどうして複雑な「大人の感情」も多分に含まれている。子供がこの辺の感情を消化して表現できることなんて到底できない以上、子供がどれだけ上手に演奏したって限界があるんだよ。
じゃあ子供がどうして音大生よりもマシな演奏をすることがあるかというと、逆説的だが子供は「何も考えていない」からだ。ちょうどあなたが超自然的なものについて突き詰めて考えずに感性で処理していたのと同じようなもの。そうすると、わからない部分は「適当」に弾くことになる。しかしモーツァルトの作品は音楽的に無理がなく自然に作られているから、「適当」でも一応それなりに形になってしまったりはするし、それを聴く大人は「深み」を勝手に読み取ってしまって、子供の演奏を褒めてしまったりするわけだ。実はその演奏にあらわれた「深み」は全部作曲者のおかげなのにね。
ところが音大生は違う。歳を食ってしまえば、怖いもの知らずでもはや「適当」になんか弾けやしない。一見なんてことなさそうな作品なのに、あれこれ試しても本質に触れた気がしない。だからこそ迷う。悩む。その結果何もわからなくなり、技術と理屈だけで無理押ししたような演奏になってしまう。そして聴き手からは「子供の方が上手だ」と酷評されることになるわけだ。
でも、これって退歩なんだろうか?違うよね。子供時代の、曲に乗っかっただけの「適当」な演奏が、自ら曲のよさを引き出す成熟した演奏に進化するまでの過程には、「曲に振り回される散々な演奏」という段階をどうしても通らなければいけないということでしかない(もちろん、その辺をあっさりクリアしてしまう人もいるのだけれど、そういう人は並以上の才能に恵まれていた一般化できない存在であることは明らかだから今はおいておく)。
あなたの今の状態って、そういうことじゃないの?「作品」という表面では長いスランプかもしれないけれど、あなた自身は過去より確実にものを理解できるようになった(「はてな村」がそういう訓練の場として適切か、についても言いたいことは大いにあるがこれも今はおいておく)。この状態で元の場所に引き返そうったって、戻った先に進歩があると思う?戻った先は「退行」じゃないの?
そうじゃなくて、あなたが今やるべきことは、強化されたあなたの頭で、あなたの過去の作品のよさと限界を冷静に分析することじゃないの?そして分析した結果、摩耗した感覚があったらそれを再度取り戻し、同時に過去の作品の限界を超える方法も模索していく。そういう格闘の先にしか、あなたの進歩はないように思えるんだけれど、どうだろうか。
と、全部あなたの話をネタにして自分語りしてみた。的外れだったら「ゲスパー乙」で片付けてもらって構わない。しかし、現在の気づきから再度ナイーヴさに逃避してしまうのではあなた自身の進歩を殺してしまうのではないかと心配になったんだ。
役に立とうが立つまいが、何かを考えるきっかけになってくれれば幸い。
『女性が32歳になったら見直すこと』
http://yukixxxxx.hatenablog.com/entry/2013/12/17/205707
彼女が「32歳になった」女性を「見直す」ときに使用する判断基準とは、自分の目で自らを省みるときに確立されたものだ。
それは「32歳になった」女性が「見直」せば確かに見つかるようなある客観的な指標ではなく、
彼女の身体と、身体を鏡で眺めた視線の調和というごく個人的な事情に由来している。
32歳でそれができないのはまずい
これらの独語はすべて「ただ私一人の振り返り」以上のものではない。ここにあるのはまなざしが自己自身へと向けられるときに
覚える、単純な苦々しさの感情だけだ。しかし彼女は、「私が見直」す自分自身の服装・振る舞いへの視線を、
同年代の他者にもまた瞬時に振り向ける。まなざしが自分ではなく他者へと向かうとき、自身が裁かれた裁きによって彼女は
その他者を裁く(「きつい」「痛い」「変」)。
ところで、そこには同時に、酷評された他者の身に置き換えられた自分を眺めわたす視線も同居している。
他者に向けていた視線は、再び自分自身へ戻し返されている。ここでは、他者を裁く裁きによって彼女自身が裁かれている。
このとき、振り返られた「私」への視線・評価とは、当初の、鏡で見たときの自身への視線と同一ではある。けれど、
「私」はすでに鏡で「私」を見るのではない。まなざしの対象であった他者の身に置いたとき、「私」は「私」の目に見られる者と
なってしまった。外からの目にさらされ、だから彼女は「恥ずかし」いと想像したのである。この仮想の経験をきっかけとして、
「まずい」という彼女の苦々しい感情は、標語的な自戒の確認へと変わっている。
改めて気をつけたいと思います。
こうして見ると、文章を通して彼女のまなざし=評価基準は一貫していながら、目とまなざしの関係はころころと変転していることが分かる。
第一に、ひとり鏡を見るときのような「振り返り」のときもあるし、第二に、品評するかのように視線を他者に振り向けるときもある。
かと思えば、第三に、身体は他者の身に置きながら、目はそのまま固定され、「私」となった他者を凝視している。そしてけっきょく
各項目の最後では、まなざしの対象となる身体は「私」に舞い戻り、反省的に鏡を眺める目との関係を回復する。
しかし、これらの順序は実際はほとんどでたらめで、ひとつの文の中でもごったまぜに入り交じっている。
彼女は、もう自分自身の身体の固有性を強く信じることができるほど自分が美しくないことを知ってしまったのだ。
「もう20代が終わってちょっと時間が経ち、大学生でもなくなったあたりから10年」経ったそこらの女性と、自分の容姿はもはや見分けがつかない。
少なくとも、周りの視線は「私」の身体を特別扱いしてはくれなくなった。こうして、自分と他者の身体が置き換わっても何もおかしくないことに
気づいたときから、彼女の身体に他者の身体が闖入するようになった。だから、鏡を見ているかと思いきや、鏡の向こうには批評されるべき
他者がたたずんでおり、その他者の身体は間をおかず彼女自身の身体に変貌してしまう。
「私」の身体を鏡で眺めるとき、「私」はそこに同居している、美しいとはとても言いがたい他者の身体を苦々しく思う(第一)。そこで彼女は侵入してきた他者の身体を
切り離すために、実在する他者に転嫁しようとする(第二)。そうすることで安心して自分自身の身体の奪還を演出することができるからだ。
しかし今度は逆に、彼女は他者に汚らしい自分自身の身体を見出す羽目に陥るので(第三)、彼女は慌てて鏡の前へと退却してしまう。そうして、
混じりけのない自分の身体とまなざしの純粋な関係を取り戻すことを願いつつ、鏡に向かって言い聞かせる。
改めて気をつけたいと思います。
そこに他者の身体が入り込む余地など最初からないということを示すために、この文章は「ただ私一人の振り返り」でなければならなかった。
「他人を侮辱」してしまえば、酷評される他者の身体が自分と同居していることを認めることになるだろう。しかし一方で、
自身のまなざしに由来する自省は、他者に向けたまなざし、およびその断罪とは切っても切り離せない。というのも、
彼女の身体に他者の身体があまりに重なりあってしまったために、それを脱ぎ去ることはできないからだ。
したがって、「32歳になった」他者に対して「改めて見直すといいのではと思う」ことと、「私が見直した」ことは根源的に区別できないし、区別すべきでもないことになる。
そしてまた、「べき論」であってはいけないが、「私」を裁くことは同時に「32歳になった」「私」と他者をまとめて裁くことになる。
「自分のこと」というタグにも関わらず、タイトルが「32歳になった」女性に向けられているのも、身体の特権性を回復させようとする意図的な錯誤である。
こうして、彼女は耐えがたい矛盾を抱え込みながら、またもや鏡の前へ遁走することになる。自戒の身振りを通して、鏡の中の「私」の身体を証立てるために。
けれど、その身体はもう他人の身体と見分けがつかない。
水を入れてかきまぜたあとレンジでチンすると、
関西のカレーライスというか、コメとルーが完全に混ざった状態のカレーライスが出来上がるというやつ。
買う前にネットで評判を見た。
個人単位の評価だと「くそまずい」「これを商品として世に出そうとした担当社員の味覚を疑う」とか
なんだけど、財布に余裕もあったので、近所のコンビニで購入。
いやーネットの評価ってあてにならないとか言うけど、ほんとなんだなぁと思っていた。
しかしハマったあとで気づいたのが、この商品、「チンする前に水と内容物をかきまぜる」という工程をぬかすと
非常にまずくなる。コメはボソボソグズグズで、ルーも水っぽい。
タイトルの部分について監督が映画をつくっているわけではないというのは大阪城を立てたのは大工さんというクイズみたいな理屈です。
本文は「つくっているものは映画またはそういうジャンルのものではない」というものだと理解しています。
監督というものが何をしているかというと、見て楽しんだりダメだししたりする仕事です。ポケットマネーで作っているわけでなければ「作った」のが誰かという所在には諸説でてくるものです。
美術、撮影、演技、その他各監督が監督が何をしたいか伝え聞いてそれを纏めて現場に指示して成果を監督に献上してご意見を伺いOKであれば作品として追加されるという流れです。
つまり監督のお気に入りをつくるために多額の資金と大勢のスタッフが動いて一品つくります。
他の商品も「芸人○○完全プロデュース弁当」とかコンビににあったり化粧品やその他アイコンになる芸能人を掲げたものがあるでしょう。
つくったのは製作スタッフです。資金提供したのは大企業です。商品を「作った」ということに関しては掲げた看板芸能人のものになります。
まったく同じ内容の商品で他の人間やタイトルであれば売れないかもしれないという点を補って一つの製品化をしています。
企業の形も同じです。社長がなにをしているかといえば自分のしたいことを人に指示して結果に満足したりダメだししたりするだけです。
その社長のお気に入りを作るためにお付きの人がその下に指示を出しています。
松本氏が動画を取って映画界で評価を受けたという構図について「この著名人が笑った」というタイトルを冠する動画を「撮りたい」と願ったスタッフが集まりその案に資金提供し企業アピールもできるのではないかという会社が後押しし「完全プロデュース」みたいなタイトルのかわりに「監督作品」となっているだけです。
動画が長編でスポンサー形態や発表場所を「映画と同じ陳列にしよう」という結果映画とジャンル分けされているまでで、そこに流入してきた対象に映画界が評価を下し始めるのは自然な流れでしょう。
「映画としては異例のユーチューブ配信」とかになれば単なる長編動画俗称「映画」になっていたかもしれませんしそれでも映画界は評価をしてくるかもしれません。
各種媒体もその完成した製品を取り扱って部数や売上を伸ばしたいと考え陳列するでしょう。
松本氏の感性はすぐれているしかしそれは映画むきではない、という話だと思いますが「なんで松本おまえ映画なんてとるんだよ」という質問では「そりゃみんなが撮りたいって言ってきてくれるから」という回答に帰することになるんじゃないかと思います。
映画という結果についてであれば「なんであの人の脳のなかを映像化しようとかおもったの。それ撮り方とか発表や媒体の選び方が別にあるでしょう?」と製作スタッフ一同もしくはスタッフ内の有力者について苦言を呈すべきものじゃないでしょうか。
酢豚にパイナップルいれてパイナップル本人に「なぜ入ってきたの」と問い詰める図はおもしろいですが、酢豚について考えるならそれをつくった料理人に問うのが筋でしょう。
松本氏が映画を撮るという松本氏としての人生の一部でおきるイベントについて問うなら本人にでしょうけれども、作品ひとつについてどうしてこうなったと問うのは「松本氏がこれなら満足するんじゃないか」と思案して提示してきた内容を「実際につくった担当」でしょう。
料理人、つまりスタッフが「酢豚にパイナップルを入れるのは料理界では定説だ」としていたとしても監督、役割としては店主的な人間が「それはなしだ」または今回だけは、その客には等と指示をだして「酢豚にパイナップルをいれないという作品」を作ることも、料理人が店主と交渉して「かならず入れる」という結果、最終的に映画や料理といった結果が世に出ることになるでしょう。
「これ、おもしろいんじゃない?」といってくる松本氏に「それいいっすね、絵にしましょう」というスタッフと「松本さんこれどうっすか」と提示してくるスタッフのじゃれあいの結果が収録された長編ビデオが、映画界でいまいちだったということでしょう。
パイナップルの入った経緯がいろいろあって、それを商店街で出したとき酷評だったとかそういう話です。銀座の一等地ならヒットしたかもしれないとかそういうことはあるでしょう。
社長や監督は赤子でも中学生でもできます。それを中心に「その人を満足させるため」と動く実働員に実績があり交渉において信頼があり決定について実際に動かせる経験、蓄えられた実力や資金がある人が動くことで計画が前に進みます。
ただ大人もバカじゃないので商品として「その社長が売り出したもの」という冠を使って商品化したときに価値がでるものに就いていきます。話題の中学生社長が雑貨を扱っていたとして、その雑貨の購入者が「これ中学生社長の」ということで商品価値を上げることができるものであれば、その案にのる大人もいるでしょうし、それならおっさんが売っても一緒だろというのであれば資金力を目安に支持する人間を選ぶでしょう。
映画について内容がとか評価がというのは、いじり方を間違えたプロデューサーが「監督役をミスキャストした」という話です。
まとめて、松本氏は自然にしていると面白いのに仲間内で面白くいじろうとすればそれを収録した絵はいまいちだったり、いまいちと大勢から評されることがあるという話じゃないでしょうか。
独裁者1人を倒したとしても、それを支えて構成していた人間の行動力を挫かないと第二代三の指導者がでてくるのと同じでアイコンは挿げ替えできるし、アイコンを挫くことでそれに連なる行動力を低下させることができるようなものでしょう。
同じ絵はおそらく他の誰かでも撮れたかもしれません。ただ今回据えたトップに批判が集中するのは「評価は下されたが撮影技術など他の実力を否定されずに延ばし続けることが出来るよう」監督が一身に受けることで現場を保護し「作成したけど評価されない」という立場の人の、作ったというメリットと批評というデメリットの集約点でもあるし、何百人というスタッフが作ったのに「ボクの作品」と言う特権と責任でしょう。
かわいい女子は、撮影するだけで絵になりますが、あたまのなかがかわいいおっさんはいまのところどう撮影してもバラエティ番組であいかたのおっさんに突っ込まれなければその絵がとれないという現状なんじゃないでしょうか。
最新作「R100」について、いわゆる松本信者、松本人志の初期の天才性を高く評価している人ほど酷評をしているようだ。
わたしも松本の天才性を認めるにはやぶさかではないし、今でもその根本的な特異な才能は初期のころとそれほど変わってはいないのだと思う。
なのに何故今は往年の信者にすら見放されているのか。
彼にとっての不幸は、キャリアの初期において本来ならば理解困難なそのユニークな感性が浜田という相方の存在により広く「革命的に面白い」と認識されてしまったことにあるのではないか。
彼の特異性は、その驚異的なまでの無知さにある。
ベストセラー「遺書」を読んだことがあるかたはわかると思うが、彼は全くと言っていいほど「引用」「参照」ということをしないし、そもそも何かを学ぶという意識が皆無なのである。
彼が面白いと思うこと、新たに生み出しているギャグというのは、全て彼自身が見ている範囲、彼自身のみから考えられる範囲でのみ構築されたものであり、すなわち常にゼロからひねり出しているものなのである。
それゆえ初期のお笑いの活動においては全くもって斬新なネタ・コントを繰り広げていたのであるが、これはたまたま彼の感性が作り出すものが、浜田の存在により、たまたままだ笑いとして理解可能な範疇であったからである。
松本の感性は、人を笑わそうとしてしてのものではなく、あくまで自分が面白いと思えるものに対しての探求であり、それが世に受けていたのはたまたまに過ぎない、というか相方やブレインなどによるものだ。
彼が映画に手を広げたのは、単に表現手段のひとつとしてであり、テレビ・舞台・ラジオ・漫才・コントといったバリエーションのひとつに過ぎないのであろう
しかし残念ながら映画というものは単なるいち表現手段としては完結しない。映画はひとつの作品として存在するためには、その背景に膨大な参照と引用が必要で、そもそも映画という形式自体が映画文法そのものによってなりたっているのである。
北野武が映画監督として確固たる地位を築いているのは、北野は彼なりに映画というものをとことんまで理解し、その理解の上に自分なりの映画というものを構築し、時にはあざとくも映画の文法を逆手にとって鑑賞者に媚を売ることすら厭わないからである。
松本人志は既存の映画を映画として観ていない。初期のネタづくりのように、自分の感性に対して何か生み出してくれる材料としてしか観ていない。しかもそれすら自分にしかわからない理屈によるものだ。
繰り返しになるが、映画というのは膨大な引用と参照によってなりたつものである。既存の映画と全くの連続性がないとしたらそれは既に映画ではなく、実験映像であり百歩譲って実験映画である。
松本の、自分の得意な感性によってのみ構築された映像は、そういうわけで映画ではない。しかも独自にひねり出してきたのであろうそのコンセプトは映画の中では陳腐なもので、車輪の再発明にすらなっていない。
映画を名乗りたいのであれば、まずは映画を知らねばならないのだが、残念ながらそれは彼の唯一の天才性である無知と完全に相反するものなのだ。
悲鳴伝もそこそこつらかったが、ますますつらくなってもうまともに読むにたえない。
半分過ぎたあたりから会話の部分だけを拾って読んでいったけどそれでも物語は十分に追える。
キャラ萌えもないし、主人公の思考も本当に駄々漏れという感じで読んでて全然おもしろくない。
悲鳴伝はまだ割りと話の盛り上がりとかがあったけど、今回は完全に行き当たりばったりで抑揚がまったくないお経を聞いてるような気分になる。
おまけにこんだけ長文に付きあわせて最後は未完とかほんとに時間の無駄だった。
才能が枯渇した中で一生懸命にひりだして薄めて薄めてといった感がアリアリ。
物語シリーズの偽物語以降のgdgdっぷりを見ても戯言シリーズからのいちファンだった自分としては残念だ。
いったん充電期間置いたほうがいいと思う。
このままうっすい本を出し続けても見限られるだけだと思う。
最初に西尾維新を見出した太田あたりは今の西尾維新についてどう思ってるのかねー。
メフィスト賞かなんかの酷評が定期的に話題になるけど、今の西尾維新の本を別名で応募したら同じように酷評されるレベルまで落ちぶれてると思う。
あー。。。でも物語シリーズ第二シーズンアニメ化も控えてるし、またそれの書きおろし短編とか書いたりするんだろうなー。。。
もう見てられないよ。。。
なんだかんだで出たら読むとは思うけどさ。。。
もういい休めのAAをぜひ贈りたい。
みなさんも記憶に新しい、崖の家とガラスの家とが、あまりにも見事な典型例だったため勢いで書く。
まず、そもそもの前提として、普通の場所に普通の家を立てるのは、
小市民的には夢のマイホームであっても、TV的には何のオモシロミも無い。
というわけで、(ドリームハウスでドリームなハウスができあがるのはなぜか http://d.hatena.ne.jp/lastline/20130430/1367305630 )で挙げられているように、ドリームハウスでは概ね3パターンの地獄への道が敷かれている。
崖の家は、典型的な「無茶な立地」だ。
前記のブログでもある通り、コレが一番なんとかなる可能性がある。
実況スレでも概ね「奥さんがビッチっぽいこと以外は良いな」という評価だった。
お宅訪問時の奥さんの満足そうな表情と、旦那の小市民的な挙動が、末永く幸せそうで何よりだと思う。
(尚、2chでは「ビッチ≒俺達とは相容れないタイプの女性」くらいの意味)
完全な布基礎だったらアレだろうが、繋いであるしキッチリ設計されている気配がする。
そしてコレが重要だが、崖の家向かって左側の家は鱗のような壁であり、正面向かいの家の駐車場には薪が積んである。
つまり、この辺り一帯が趣味人の家であり、外壁が杉板でもまったく浮かないことが予想できる。
伝説の「借景の家」とは異なり、この立地で海や日の出を遮るような建物を立てるのは相当に困難だ。
良い家だと思う。
空き地時代には、道路沿いに見事な紫陽花が咲き近所の人の目を楽しませていたと思うので、
拘りがないなら植えといてご近所付き合いのキッカケにすると良いんでないかな。
家は独立して存在するが、地続きの周辺環境との調和で完成する。
(まあ、シーランチ・コンドミニアムを建てたいと望む施主なら、感覚で理解している気もする)
建築家に責を求める声が実況スレにも多かったが、これは責められない。施主に問題がある(断定)
建築家の責としては(「無茶な建築家」要素が関連するが)、設計してしまった事だと思う。
あのガラスの家を酷評する前に、一旦ドリームハウスの事は忘れて、次のような想像をしてみよう。
どうだろうか。施設としては、無くはない形状ではある。
では、これらに共通の要素はなんだろうか?人が定常的に住まない?それはそうだろう。
一番大きいポイントは、「通常、外履きで歩きまわる建物である」というところ。
あれは、「外からやってきて、一時的に滞在して、また出て行くタイプの建物」なのだ。
それがよく分かるのが、床だ。
法律で木造住宅の基礎の立ち上がり(地面から木を置くとこまでの距離だと思いねえ)が30cm以上と決められてるのには理由がある。
基本的には、土台の腐敗を防ぐのが目的だ。木が腐るのは湿気だ。地面からの湿気と雨水な。
床に直接本を重ねて置いとくと、下から波打ってきちゃうタイプの建物だ。
ただまあ、住めないわけじゃない。
普段から靴で生活するとか、ホームパーティーバンバンやったりするタイプの家族が住む可能性はある。
そもそも「床に本をおいておいたら波打った」とか「梅雨時にフローリングがしっとりしてる」とかは、経験ある人も居るだろう。
それが住環境としては致命的だ、ということじゃない。
どういうことかというと、それぞれの要素に対しては回答があるのだ。
外壁のガラスは、ビルなんかでよく見るカーテンウォール(建物を支える壁ではなく、全部とっても家が崩れない壁)だろうし、高層ビルなんてな全面ガラスってのもよくある。
平屋建ても大開口もソコソコたってるし、天井配線だってまあまあある。
それぞれの要素要素で見ていけば、ありえなくはないし、一般家庭以外ではおなじみの作りもある。
じゃあどういうことなのか。
番組を見ていた人は思い出して欲しいのだが、崖の家にも「大開口」は付いている。3m近い巨大な窓だ。
あれに違和感がないのはなぜだろうか。
あの窓に対して、「特注だろうし割れたら高くつく」とか「夏場は暑い」とか「結局カーテンつけっぱになるだろ」なんてのはナンセンスだ。
翻って、ガラスの家はどうだろうか。
何を「見る」為の大開口だろうか。何を楽しむための大開口だろうか。
あの環境下で、あのガラスの家は、周辺の住民にとって完全な罰ゲームだろう。
ビニールハウスでイチゴ栽培始めましたっていうほうがインパクトは小さい。
家は独立して存在するが、周辺環境も込みで完成するのだ。あれは、あの場所に建ててはいけないタイプの建物なのだ。
一族が所有する絶海の孤島に、森を感じられる建物としてあれが建っているのであれば、なんかの賞は取れるかもしれない。
あのガラスの家をどうにかしようと思うと、相当難物だ。
もし自分があの物件をタダで手に入れて、しばらく住もうとするのであれば、レンガの塀を作ると思う。
高さ1.2mのギリギリサイズの赤レンガの塀で周囲グルっと囲み、ツル性の植物を植えて回るだろう。
芝生のままでも良いが、普通に造園業者に入ってもらって、築庭すると思う。
周辺からの視線を完全に遮った上で、庭の緑を楽しむ家としてなら悪くない。
ロール網戸を付けるような建物にはなってないから、エアコン代は屋上に太陽光パネルでも載せて足しにするか。
台風の度に大事になるだろうが、ま、沖縄の店舗なんかも似たようなもんだ。
正直、あの家って、紅花の咲く頃に愛人と一緒に長期滞在する別荘ぐらいしか使用方法が思いつかんのだよな……
まあ、売りに出たら愛人がいる人はご一考を。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1304/02/news033.html
知らなかったけどクックパッドもはてなと同じようなことやっちゃってたんだな。
抜擢された「UXの専門家」はおそらく張り切って自分の専門の仕事をし、ある程度は自信満々に製品を送り出したのだろう。レビューに並んだ酷評の嵐を見て何を思っただろうか。
結局ユーザーはシンプルさを求めていて「モダンなインターフェース」なんて要らないのだろうなと、このスクリーンショット一つ見ても思う。カッコ良くするために使い勝手を一段階落とす。これはやはり愚かな行為なんじゃないかと。
「ここを目立たせて、ユーザーを課金に誘導したい」等ビジネス上の理由があるかもしれないが、ユーザーには知った事じゃないし当然叩かれるだろう。はてなの場合はそんなのではなく、ただの迷走だろうが。
「批判が殺到しても利用者は増えている」「レビューは感情的な意見の集積と割り切る冷静さが必要」と言い逃れをし方針転換しないのははてなも同じか。ここで開発者が意地を張るのは正解か?せっかく開発したものが認められないのは辛いだろうが、失敗を認めて捨てる勇気も必要なのではないか。
昨今の健康な男子なら、一度や二度すけべえなサイト見て、やたら重かったり、たらい回しにされた経験があると思うんだけどさあ
そりゃあ私も今じゃあ「広告収入で稼ごうとしてんだろうなー仕方ないね」くらいにしか思わないわけよ。
でもさ最近、ネットでは有名な某人の作ったエロサイトを見たのね。
これもやたら重いの。広告ベタベタ。しかも明らかに自動投稿な。オマエ絶対その動画見てねえだろってヤツ。
別にそれが悪いとは言わないよ。自動投稿、楽だもんな。広告踏ませてアフィリエイトおいしいですだもんな。楽して金もらえるなら私だって欲しいよ。
でもさ、見る側としては重いし広告だらけでスゴイ不便なサイトなわけ。
もちろん、それは作ってる側も分かってて、わざと重くしてるんだよ!ホントはもっと軽くも出来るんだよ!でもお金儲けのために(ryてことで、やってるわけでしょ?
だからひどいサイトなのは仕方ないと思うよ。そこは分かってる。ホントにひどいなーと思ったけど。
だけどさ、ひどいサイト作って「わたしがつくりました!」ってアピるのって、どういう神経してんのかな。どんだけ必死なんだよ。って思ったんだよね。しかも、別に酷評もされてないのな。ってことは、同業者は知ってて放置してるってことでしょ?(作者はネットでは有名人だからね) これってさ、放置してる同業者も、こういうプログラマ・エンジニアを放置してたらどうなるのかって考えないのかなーって思うわけ。こんなの「こんな人でも、こんなエロクソサイト作って広告収入を得ています!」って宣伝してんのと一緒じゃん。それ見たとき「あー。こいつら快適なサービス・システムを提供するとかより、自分とか同業者の金儲けの方が大事なのかな。職業倫理とかどうでもいいのかな」って思ったの。
だったら自分で軽いサイトでも作ってオナってろよって話なんだろうけどさ、
自分の子供に「ほーら。これがパパの作ったお金の成る木だよー」とでも説明すんのかなーとかは置いておくにしても、
クソサイト量産して自分は儲けて、後は焼け野原になっても知らね。ってスゴイなー焼畑だなー飛び火しないかなーって思ったの。それだけ。
http://togetter.com/li/338917(古本じゃなく新刊を買ってほしいなぁと漫画家が呟いたら、何故か叩かれた)で話題になっている件。
voidさんの「それはお前の著作物が酷評されているだけだろ」という至極まっとうな問いに答えることができず逆ギレ、といういつものパターン :-)
十数年前と論法がブレていなくて、ちょっと安心すると同時に、相変わらず皆引っかかるのね、という感じです。
この漫画家の人の「私が言ってないことを作らないでくださいね」っていうのもお約束ですけど、これも、むしろ最初に「作った」のは彼女の方なわけですよね。彼女が最初に問題にした「書評」は彼女の書籍に関する「評」なのだから、それをもって「すべての著作物をネットで開示すべしという意見はおかしい」というふうにすり替えていくのは、いくらなんでも滅茶苦茶です。
周りの取りまきもちゃんとフォローしてやれ。
ネット上で―特に最近になって―アニメにおける「神作画」と呼ばれる類のシーンに対して。
好意的な意味合いを込めて「ぬるぬる動いている」という感想をよく聞くようになりましたが、正直言って違和感があります。
何故ならアニメーターにとって、この「ぬるぬる動く」という言い回しは『貶し言葉』に他ならないからです。
まずはこの2種類のGIFアニメを見てください。
A http://dl6.getuploader.com/g/kusosure/204/ball-A.gif
B http://dl6.getuploader.com/g/kusosure/205/ball-B.gif
この両方の「球体が弾む」様を表したアニメ、AとBどちらの方に説得力や生理的快感(見ていて気持ちいい動き)を受け取る事が出来たでしょうか?
概ね、Aの方ではないでしょうか?
Aの動きも大概ウソっぽい所あるのですが、少なくともBの方に生理的快感を得る事はないと思います。
どちらも枚数・秒数・描画の出来など同一条件下で作成しましたが、それでもタイミングだけでここまでの違いが生じます。
そしてこの2つで「ぬるぬる動いて」いるのは、Bの方を指して言われるものです。少なくともアニメーターにとってはそうです。
タイミングに対して無頓着なもの、整合性もなければ閃きも無いもの、そういったアニメーションに対して侮蔑の意味を込めて「ぬるぬる動いている」と言います。
「完成度の高いアニメーション」を目指す場合、ぬるぬるした動きなど作ってはいけないのです。
ただ演出的な要求で、例えば超スローモーションだとか、巨大質量の物体が迫ってくる様などを表したい時は、Bのタイミングを優先させる"場合"もありますが
そういうのでは無い限り、アニメーターは常にAのタイミングを求めていくべきなのです。
実写かと錯覚するようなリアルな動きでも、現実にはありえない大迫力のアクションシーンでも、
生理的快感、見ている人を興奮させるようなエネルギーを持ったアニメーションはAのタイミングによって作られているのです。
これは動画枚数の多い少ないの問題ではありません。
1カットに何百枚費やしても駄目なものはありますし、ほんの数枚で多大な説得力と快感を内包したアニメーションもまた多く存在します。
偉大なるアニメーターの一人、グリム・ナトウィックは「アニメーションのすべてはタイミングとスペーシング(間隔)だ」と言ったそうですが
アニメーターという職業はすべからく、この「タイミングとスペーシング」に命をかけていると言っても過言ではありません。
少しでも素晴らしいアニメーションシーンを作るために、カメラ等を使って実写映像を参考にしたり、過去の素晴らしいカットを参考にしたり、
意地でも自分の実力内(あるいは超えるべく)でどうにかしようとしたり、インチキな手段で手軽にらしく済ませようとしたりする場合でも
「タイミングとスペーシング」に最大の神経を使えるようでなくては、アニメーターとしては失格なのです。
Illusion of Life(生命を吹き込む魔法)は、死んだようなタイミングとスペーシングでは宿らないのです。
そこに来て、アニメーターの仕事ぶりを称える言葉として「ぬるぬる動く」などと言うのは
いささか無神経が過ぎるとおもいます。
なってない駄目なアニメーションに対して「ぬるぬる動いてる」と貶すつもりで使ってるのならまだ分かります。
「ぬるぬる動いてて何か変、気持ち悪い」という酷評の意味なら、我々は甘んじて受け入れますが
「ぬるぬる動いていて凄い!」というホメ言葉として使われているのには、アニメーターの身としてはどうしても理解に苦しみます。
ただなんとなく凄い!と思ったアニメーションに対して、まだ他に言いようはあると思います。
カッコイイ、迫力がある、イカしてる、超リアル、綺麗、センスがある、ハッとする、興奮する、味がある
何でよりによって「ぬるぬるしてて凄い!」なのでしょうか・・・・・。
こんな観る側に関係ないだろうアニメーターの苦労を知った上で気を使って言葉を選べ、等と言うつもりは(少ししか)ありませんが
ちょっとだけでもアニメーションの作画に、何かしら心が付き動かされたのなら、「ぬるぬる」で片付けるのは出来れば止してほしいと、そう思うのです。
男全般からの受けを気にするんじゃなく、彼氏受けだけ気にしてればいいから、ラクになった。
たとえば陰毛。
パイパンあるいはブラジリアンスタイル、ハイジニーナ、色々と呼び方はあるけど、私はそれに憧れてた。
でも「セックスアンドザシティ的、白人女性文化かぶれ」とか、「毛ジラミビッチ」みたいな認識をして"引く"男性も存在する。
もし、両思いになった男性が、パイパン状態にドン引きするような人だったらどうしよう…。
そう思ってずっと踏み切れなかった。
彼氏が出来ると、「これから付き合うかもしれない男性の好み」についてあれこれ考えるよりずっと簡単。
「パイパンどう思う?」って聞くだけ。で、彼氏が「別にいいんじゃない?」と言ったから、その日の夜に全部剃ったよ。
チクチクを恐れていたけど、剃り続けたら全然平気。本当に快適。
陰毛が一番大きかったけど、そのほかの髪型についてとか、服装についてとか、とりあえず彼氏に聞く。
ネット上の男性からボロクソに酷評されてたトレンカは彼氏的には普通にアリで、逆にネット上では人気の「森ガール」系が無理とか言う。