『女性が32歳になったら見直すこと』
http://yukixxxxx.hatenablog.com/entry/2013/12/17/205707
彼女が「32歳になった」女性を「見直す」ときに使用する判断基準とは、自分の目で自らを省みるときに確立されたものだ。
それは「32歳になった」女性が「見直」せば確かに見つかるようなある客観的な指標ではなく、
彼女の身体と、身体を鏡で眺めた視線の調和というごく個人的な事情に由来している。
32歳でそれができないのはまずい
これらの独語はすべて「ただ私一人の振り返り」以上のものではない。ここにあるのはまなざしが自己自身へと向けられるときに
覚える、単純な苦々しさの感情だけだ。しかし彼女は、「私が見直」す自分自身の服装・振る舞いへの視線を、
同年代の他者にもまた瞬時に振り向ける。まなざしが自分ではなく他者へと向かうとき、自身が裁かれた裁きによって彼女は
その他者を裁く(「きつい」「痛い」「変」)。
ところで、そこには同時に、酷評された他者の身に置き換えられた自分を眺めわたす視線も同居している。
他者に向けていた視線は、再び自分自身へ戻し返されている。ここでは、他者を裁く裁きによって彼女自身が裁かれている。
このとき、振り返られた「私」への視線・評価とは、当初の、鏡で見たときの自身への視線と同一ではある。けれど、
「私」はすでに鏡で「私」を見るのではない。まなざしの対象であった他者の身に置いたとき、「私」は「私」の目に見られる者と
なってしまった。外からの目にさらされ、だから彼女は「恥ずかし」いと想像したのである。この仮想の経験をきっかけとして、
「まずい」という彼女の苦々しい感情は、標語的な自戒の確認へと変わっている。
改めて気をつけたいと思います。
こうして見ると、文章を通して彼女のまなざし=評価基準は一貫していながら、目とまなざしの関係はころころと変転していることが分かる。
第一に、ひとり鏡を見るときのような「振り返り」のときもあるし、第二に、品評するかのように視線を他者に振り向けるときもある。
かと思えば、第三に、身体は他者の身に置きながら、目はそのまま固定され、「私」となった他者を凝視している。そしてけっきょく
各項目の最後では、まなざしの対象となる身体は「私」に舞い戻り、反省的に鏡を眺める目との関係を回復する。
しかし、これらの順序は実際はほとんどでたらめで、ひとつの文の中でもごったまぜに入り交じっている。
彼女は、もう自分自身の身体の固有性を強く信じることができるほど自分が美しくないことを知ってしまったのだ。
「もう20代が終わってちょっと時間が経ち、大学生でもなくなったあたりから10年」経ったそこらの女性と、自分の容姿はもはや見分けがつかない。
少なくとも、周りの視線は「私」の身体を特別扱いしてはくれなくなった。こうして、自分と他者の身体が置き換わっても何もおかしくないことに
気づいたときから、彼女の身体に他者の身体が闖入するようになった。だから、鏡を見ているかと思いきや、鏡の向こうには批評されるべき
他者がたたずんでおり、その他者の身体は間をおかず彼女自身の身体に変貌してしまう。
「私」の身体を鏡で眺めるとき、「私」はそこに同居している、美しいとはとても言いがたい他者の身体を苦々しく思う(第一)。そこで彼女は侵入してきた他者の身体を
切り離すために、実在する他者に転嫁しようとする(第二)。そうすることで安心して自分自身の身体の奪還を演出することができるからだ。
しかし今度は逆に、彼女は他者に汚らしい自分自身の身体を見出す羽目に陥るので(第三)、彼女は慌てて鏡の前へと退却してしまう。そうして、
混じりけのない自分の身体とまなざしの純粋な関係を取り戻すことを願いつつ、鏡に向かって言い聞かせる。
改めて気をつけたいと思います。
そこに他者の身体が入り込む余地など最初からないということを示すために、この文章は「ただ私一人の振り返り」でなければならなかった。
「他人を侮辱」してしまえば、酷評される他者の身体が自分と同居していることを認めることになるだろう。しかし一方で、
自身のまなざしに由来する自省は、他者に向けたまなざし、およびその断罪とは切っても切り離せない。というのも、
彼女の身体に他者の身体があまりに重なりあってしまったために、それを脱ぎ去ることはできないからだ。
したがって、「32歳になった」他者に対して「改めて見直すといいのではと思う」ことと、「私が見直した」ことは根源的に区別できないし、区別すべきでもないことになる。
そしてまた、「べき論」であってはいけないが、「私」を裁くことは同時に「32歳になった」「私」と他者をまとめて裁くことになる。
「自分のこと」というタグにも関わらず、タイトルが「32歳になった」女性に向けられているのも、身体の特権性を回復させようとする意図的な錯誤である。
こうして、彼女は耐えがたい矛盾を抱え込みながら、またもや鏡の前へ遁走することになる。自戒の身振りを通して、鏡の中の「私」の身体を証立てるために。
けれど、その身体はもう他人の身体と見分けがつかない。
あんたの長くて全部読んでねーけど元記事で もう20代が終わってちょっと時間が経ち、大学生でもなくなったあたりから10年。 そんな女性が、改めて見直すといいのではと思うことを...