はてなキーワード: 成人式とは
ずっと悩んでいた抜毛症が治りつつあるので、同じように悩んでいる人の力になれればと思い書きます。
①「絶対に治す」と固く誓う
こんなんで治ったら苦労しねーよと苦笑いしたくなると思うけど、実際私は治りつつあるので、よかったら参考にでもしてください。
①私は、成人式は絶対に自髪でアレンジしてもらう!そのためにはもう絶対抜かん!と決意しました。抜くのは一瞬だけど髪が生えて元に戻るのには何年も何ヶ月もかかる。いつまでに治したいってのがあるなら逆算して考え直してみて。意外ともう後がないことに気づくと思う。
②毎日写真を撮ってはフォルダに保存。なんとなく黒い部分が増えていく写真に達成感を味わうことができる。私頑張ってるなぁって自分自身を褒めてあげるの大事だと思う。抜きたくなったらかつてのやばい状態の写真を見ると我にかえることもできる。誰かにフォルダを見られないように注意。
③頭に手を伸ばさないようにする。両手がふさがることをする。手持ち無沙汰な状態で読書とかYouTubeはやめとけ。あと、学生さんは勉強するときは片方はシャーペン持つでしょ?抜いちゃうよね。そんな時もう片方の手はぬいぐるみでもモミモミしとく。
○以下私が今まで苦しんできたことまとめ
7年間抜毛続けたけどガチでしんどい・いつも同じ髪型・髪を下ろせない・学生の時はプールが地獄・自分より背の高い人が怖い・親を悲しませた・美容院に行けない・身の回りのありとあらゆる悪口に敏感になる・集中できない・自己嫌悪ループ
たくさんたくさん抜毛症のブログを読んで知恵袋見てTwitter見て色々悩んでいろいろ試したけれど、どれも効果なかった。そんな辛いならやめればいいじゃんとかみんな簡単に言うけれど無理だった、抜きたくてたまらない衝動と、長年染みついた癖があるから。自己嫌悪しては泣いての繰り返し。そんな私でも、やっと、髪が元どおりになりました。
今思えば、抜毛は自傷なんだと認めて、自分が辛いと感じてることを認めて、自分に素直に生きたほうがいい。抜毛してる人って自分に厳しすぎる。抜いた自分を責めるんじゃなくて、抜かなかった自分を褒めてあげることが大切だと思う。そしたらいずれ、「抜きたい」という気持ちを忘れられる。
参考
参考
先月、成人式の前撮りをした。きらきらの着物とメイクとヘアセットで綺麗にしてもらって、地元の有名なフォトスタジオで撮ってもらった。家族や親戚にもたくさん褒めてもらってすっごく嬉しかったのだけど、わたしは少し違うことを考えていたので、そのことをここに書こうと思う。
今回の前撮りの費用は祖母がお正月にくれた前撮り用資金から出させてもらった。どんな着物にするの?楽しみだねえ、と言って大きな額を渡してくれた祖母は、わたしの前撮りの日を待たずに春に亡くなった。生まれた時からずっとそばにいて、幼い頃の写真にはよく祖母も写っていたし、着物や浴衣を着付けてくれるのもいつも祖母だった。わたしは祖母に振袖姿を見てもらうのを楽しみにしていたし、着物が好きだった祖母もきっと楽しみにしていてくれたと思う。見せたかった。わあー!素敵!と言って喜ぶ祖母が想像できるし、わたしが自分のセンスで選んだ着物の完成形を見て欲しかった。前撮りを終えて家に帰るとき、祖母の家に寄って振袖のまま仏壇に手を合わせてきた。普段は咳き込んでしまう御線香の香りも、なんだか祖母が近くにいる証のような気がして少し多めに吸い込みたくなった。
振袖、ちゃんと見てくれた?少し派手な色だけど、この振袖すごく気に入ったんだ。可愛いでしょ。ばばにもちゃんと見せたかったのになあ。ちなみにお昼は松茸食べたよー。美味しかった、へへへ。未だにばばがいないの信じられなくて、ふとした瞬間に元気かなー?って思ってああ、って寂しくなるんだ。夢だったら会えるのかな?会えたら振袖の感想、教えてね。
19歳 高校を辞め、浪人までして独学で受験したが、目標学力には到達せず地元の偏差値50前後の法学部に入る。夢破れて死んだ目をしたまま家と学校を往復する日々、4年間友人は1人も作らなかった
20歳 ネットで出会い厨化し年下と遊んで1年間ほとんど大学に行かず単位を落とす。学歴コンプで成人式に行けず布団の中で泣く日々。死ぬつもりで放蕩し九州の果てまで行くが死ねず、自宅へ戻る。
21歳 現実と向き合い、とにかく今の大学を卒業することを目標にする。学校以外はプラステでゲームばかりしていた。
22歳 2年に単位を取っていなかったので4年になっても64単位残っていたが授業を詰め込み無事卒業。受験生の頃より勉強した。就活していなかったので無職になる。
23歳 就活というものをしてみる。3社受けようとしたが、2社は会社の前で怖気付き帰る。1社は個別説明会でさえろくに話せず、本面接で怖くなり会社の前から泣きながら帰る。結局就活してない。それ以外は近所で釣りと散歩ばかりしてた。
24歳 何もしてないと親の目線が痛いので、言い訳作りに公務員試験を受けたら受かってしまう。思い立って親に金を借り、二輪普免を取る。
25歳 某地公に採用される。自分の金で車の免許を取る。労働というものが初めてなので、自分がまるで一般的な常識が無いことに気付く。
26歳 仕事でミスばかりで、自分の発達障害を疑う。特に病院には行かない。周囲の人に恵まれ、追い込まれる事なく仕事を教えてもらえた。
27歳 仕事をパターン化させ、努力すれば能力の低さや発達障害の傾向は抑えられると認識する
29歳 昇進する。異動も重なり激務となる。親に国内旅行をプレゼントする。昔の同級生と会えるようになる。18歳の彼女が出来る。
あの空間で底辺をさまよっていた自分は、のびのびと学び、正しい人との関わり方を学ぶということはできなかった
毎日消耗し続け、精神をすり減らしながら、少しずつ歪んで行った
いじめられることこそなかったが、下に見られて居場所を少しずつうばわれ続けた
そもそも、いじめられなかったのは、ただただいじめられないように必死に異常な自分を隠そうと取り繕っていたからだ。それは苦しい毎日だった
少ないが本当に信頼できる友人ができ、やっと一息つける居場所を見つけたのは高校だった。それすらも部活内のことで、教室に戻るとわたしはまた、出来るだけ馴染もうと普通のふりをしようとするだけの存在に戻った
教室に友人は1人。プライベートでは連絡も取らなければ遊びにも行かない、ただ2人組を作るとき、移動教室に行く時に必要なだけの友人だった。彼女が欠席すればたちまち1人になった。彼女のいない選択種目の体育は、輪の外で、浮かないようにするという虚しい行為に徹した。
高校の卒業を機に、人付き合いを9割たった。もう友人を作ろうとしなくてもよいのだと思うと嬉しくて、大学では友人を作る努力をやめた。はじめの方だけ数人、挨拶をする人もいたが、やがてグループというものに吸収されて、輪となったので、自分はまた外側の人間になった。1人で買い物し、1人で外食した。1人でも生きていけるぞと拳を突き上げた。過干渉な親から離れられたことも、その開放感を手伝った。勝った気でいた。苦痛でしかないと思っていた人生の抜け道を見つけたような気持ちだった。
中学生の頃、昼休みの教室で1人本を読んでいたのを教育実習生に心配された。一緒にドッジボール参加しに行こうか?と誘われた。しかし、それから5年も経ってわたしは勝った。1人でも平気だと証明した。わたしは1人が好きなのだ。
そう思いながらも、生活の張り合いのなさを日々感じた。寝るか、ネット巡回するか、飯を食うか、寝るか、それだけの休日に意味を見いだすのは難しかった。元来人間は嫌いではない。わたしはおしゃべりな人間だった。話し相手を欲していた。だが、友人を作るのはあまりに面倒臭かった。それに伴う多くの苦痛で自分が摩耗していくのは目に見えていた。少ない友人に連絡を取るのも億劫だった。張り合いはないが特に不満があるわけではない現状を変える気にもなれず、成人式にも卒業式にも出ないまま大学を後にした。
すっかり人間嫌いになった。若い女の笑い声が嫌いだ。強いストレスを感じる。ガキが走り回ってる休日の混んだ駅も嫌いだ。うるさい外国人旅行客への嫌悪が日本人にまで拡大していったと言えばいいだろうか。
就職して、また、少しだけ救われた。部署の2人の同僚と最低限の日常会話をして、上司と業務連絡だけの関係を保ち、後輩にはお互い敬語で話す。1日の会話は、挨拶と、ほんの少しの立ち入らない雑談だけだ。時々、お土産に美味しいお菓子をもらえばみんなで食べる。だが、会話はほんの少しだ。わたしは今の部署がとても心地よい。こんなものでよいのかと思った。あの、30人も40人もひしめく狭い教室で溺れるような毎日はなんだったのだろう。
思うに教室は特殊すぎる空間だ。最下層のわたしは「社会性を身につける」どころか、「人とうまくやれなかった体験」ばかりを積み上げてきてしまった。子どもの頃はあんな場所が一生涯続くのだと絶望しながら生きていた。
教室は苦しい形だ。画一化された平等な形。だが、そこで生きていない子どもだっているだろう。そこで生きていけるようになれと、突き落としてしまうのはあんまりに乱暴だと思うのだ。もっといろんな形の教室があったらよかったのにと思う。「通っている今」も幸せであれる形の教室。40人の同僚とたった1人の上司の下で仕切りもない箱の中働くなんていう架空の将来のために苦しさを我慢する場所ではなく。
ゆたぼん君には賛同はできないが、彼を一様にバッシングする人々には驚いたし反感を覚えた。
体育祭は嫌いだった。なくてもよいのにとずっと思っていた。でも、多くの大人は体育祭を無くそうと言われれば、子どもが可哀想だと反論する。教室制度を否定すれば、そこでしか得られないものがあるという。1クラス40人だからこそ、我慢強さと社会性が身につくと。より効率的な、誰も取りこぼさない我慢強さと社会性を身につける方法なんか絶対に話さない。例えば同い年しかいない空間では上下関係のうちでのコミニケーション方法は身につかないといえば、それは部活があるという。じゃあ、ホームスクリーニング児童も課外活動で我慢強さを身につけさせればいいじゃないか。と言えば、それじゃあダメだという。社会は甘くないと。
訳がわからない。わからないから自分は1人だったのだろう。どうせもう、子ども時代に戻ることなんかない。学校大好き人間の自己満足の城でいくら不登校児が苦しんで低学歴の底辺に育とうがわたしにはなんの関係もない。だからもうどうでもいいのだ。教室が好きな人間が教室を作ればいい。……こうやって、確固たる正しい教室ができたんだろうなあと思う。
そう思えば、今の学校教育にはなんの不満もないな。クーラーがつくのはずるいもの。下の世代だけ教室から逃げていいなんてあっていいことじゃない。苦しめ。
https://anond.hatelabo.jp/20130809115823
これを読んで昔のことを思い出したので吐き出す。
僕は地方出身で大学進学と共に東京に来てそのまま東京で仕事をしているが、中学生のときに低学歴の世界と高学歴の世界の溝を感じた時の話。
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僕が勉強を教えた友達Tは小学校から同級生で中学も同じだった。田舎ではよくあると思うが小学校、中学校は家から近い公立校に通う人がほとんどで、そもそもそれ以外の選択肢があるのかはよく知らない。
Tの母親はスナックを経営していて、父親は何の仕事をしていたかは知らないが見た目はパンチパーマにゴツい金のネックレスをしているような明らかに普通の人ではない感じの風貌だった。Tは小学生の頃から金髪で緑のランドセルを持っていてなかなかに個性的だった。いわゆるDQNな家庭だったんだと思う。
Tは学校の成績はダントツに悪かったが、PCとかゲームにはめちゃくちゃ詳しくて、Winnyで音楽や映画やゲームをひたすらダウンロードしたり、ゲームボーイのマジコンを買って色々なゲームを入れたりしていた。小学生のころからよくゲームをしにTの家に遊びに行っていて、中学生になってからはTママのスナックで営業時間外であればカラオケをやってもいいと言ってくれていたのでよくTママのスナックに入り浸っていた。Tと一緒に遊んでいた他の友達には不良っぽい奴らもいたが、Tは見た目こそ不良っぽさはあったが体は細くて華奢だし暴力的なことは何もなかったし、どちらかというとオタク気質なタイプだったと思う。
その頃Tも含めた何人かの友達と僕は同じ美容院に通っていた。そこの美容師の人はちょっと意識高い系な感じで、一時期「次のテストで目標の点数をとったらご飯を奢ってあげる」というのを言ってみんなで勉強しようとなっている時期があった。中学生の僕らはまだ純粋で感化されやすかったので僕もTも他の友達もモチベーションが高まっていた。
その美容師の人から「Tに勉強を教えてあげなよ」と言われたことがきっかけで、僕の家でTと2人で勉強することになった。
TはPCとかゲームに詳しいことを知っていたし理系の方が好きそうだったのでその日は理科をやることにした。僕が持っていた教材の中から簡単そうな単語を埋めるだけの小テストが載っているページを選んで「まずこの10問を答えを見ずに全問正解できるようになるまで何回もやろう。途中で分からなかったらすぐに答えを見ていいから。」って決めてやってもらうことにした。
最初はちゃんとやってくれるか少し不安だったけど、Tはすぐに静かになって集中し始めた様子だったので僕は安心して自分の勉強をしていた。
そこから2時間くらい時間が経って「全問正解できた!」とTが言った。その時のTはすごく嬉しそうな表情をして「勉強っておもしろいね!」と言ってたのがめちゃくちゃ記憶に残っている。
結局3時間くらい一緒に勉強して、Tはめちゃくちゃ疲れた様子だったのでその日はそこで終わりにした。
Tの集中して勉強をしていた様子を見て、ちゃんと勉強すればもっともっと伸びるのにと思った。その日にやった問題は簡単なものだったし3時間もかけてやるのは遅すぎるのかもしれないが、Tはまだ勉強のやり方を知らないだけだし進みの大小は関係ない。
そこで別の日に僕は「同じ塾に入って一緒に勉強しようよ」とTを誘ってみた。Tは勉強の面白さに気づいたからか乗り気になってくれてまずはTママに聞いてみることにした。Tママは少し困惑した様子ではあったけど否定はせず「お父さんがいいって言ったらいいよ」と言ってくれた。
その日たまたま父親がTママのお店に寄ることになっていたようで、そのままの流れで一緒に父親にお願いすることにした。Tママの反応が悪くなかったこともあり、きっと父親はOKしてくれるだろうと期待していた。
しばらくして父親が来て、Tは父親に向かって「塾に行って勉強したいんだけど」と言った。
その父親はすぐに「塾~!?お前が勉強なんかしてどうすんだ!バカはバカなりに生きろ!」と一蹴し、いそいそとまた出かけて行った。
しばらく僕もTも呆然としていた。
その後TやTママと何を話したのかはよく覚えていない。
その一件があってから僕とTが2人で勉強することは一度もなかった。
高校に行ってからは付き合う友達も変わったのもあり疎遠になり連絡を取ることはなくなったし、高校生の間に2~3回くらいしか会わなかったと思う。
それから数年後、成人式に出るために地元に帰った時にすごく久しぶりにTに会った。いま何してんの?という話になり「東京の大学に行ってるよ」と話すと「東京の大学って東大!?」みたいな冗談を言っていた。その他はあまり覚えていないが、たわいもない話しかしなかったと思う。
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Tの父親に塾に行かせてもらうようにお願いをしたとき「そもそも勉強したいと言って親が止めることなんて有り得ないだろう」と僕は楽観的に考えていた。当時の僕は自分が恵まれた環境にいる事に気づいたおらず、自分の環境だけの当たり前を「世の中の全ての人の当たり前」だと思い込んでいた。
僕に向けてそれを言われたわけではないが、この言葉は僕の中に今でもずっと響いている。
Tは勉強のやり方を知らないだけだった。僕がTに教えたのは「答えを暗記すれば問題に正解できる」という極めて当たり前のことだった。
どんなに苦手な科目であってもひたすら答えを暗記すれば比較的短時間で80点くらいは取れるようになるというのを僕は自分の経験から知っていた。それと同じことを学校の先生も教えてはいるんだろうが、Tはそれを理解することも実践することもなかった。
たった3時間程度でさえもそれができるようになるまで付き合ってくれる人が周りにいなかった。
問題を正解できてもその達成感を分かちあえる人が周りにいなかった。
勉強をやろうと言ってくれる人が周りにいなかった。
そして偶然勉強の面白さに気づくチャンスがあった時に「勉強をしてみたい」という気持ちをサポートしてくれる親がいなかった。
TはゲームやCDをたくさん持っていて新しく発売したものもすぐに手に入れていたし、塾に行かせてくれなかったのは経済的な問題ではなかったと思う。
Tの親はブランド物や貴金属にお金をかけたりゲームやおもちゃはいくらでも子どもに買い与えていたが、塾に通うための1〜2万円を払ってくれることはなかった。
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自分にはTに低学歴の世界と高学歴の世界の溝を越えさせることはできなかった。
しかし仮にあの時に塾に行けたとしてもただ挫折させるだけの結果になっていたかもしれない。僕も結局Tのサポートをいつしか諦めてしまったわけだし、そこまで強い気持ちでTに勉強をさせたいというわけではなかったんだと思う。
誰かの人生の選択に責任を持つことなんて到底できないし、ただただ未熟な中学生の身勝手な思いつきでTを振り回してしまって申し訳なかったとも思う。
彼が本気で勉強をしたいと思ったなら塾に行かなくても勉強はできるし、父親に何を言われようと行動をしていたはずだ。
でも、だからといって行動することを本人のやる気だけに求めるのはあまりにも酷すぎる。
高学歴の人であっても強い意志を持って人生の選択をしてきた人が果たしてどれだけいるだろう?
僕は偏差値60くらいの理系の学部を卒業した。東大京大や海外の大学を出ていたり博士号まで取得した人などと比べれば個人的にはとても高学歴とは言えないが、日本全体で見れば僕も高学歴に分類されると思う。
そんな僕が勉強をやり始めたきっかけを考えると、勉強をしなさいと親に言われたからやっただけだった。兄弟が塾に行っていたからという理由で親に言われて同じ塾に通い始めただけだった。
いつしか勉強をすることが自分事になり自発的に勉強することができるようになったが、最初のきっかけは親に同調しただけだ。そこに「高学歴の世界に行く!」なんて強い意志なんか一切存在していなかった。
「高学歴の世界」にいる人たちは自分の強い意志があったから勉強をして大学に行ったのだろうか?
Tと同じ環境にあったとしたら果たして同じように高学歴の世界に行けたのだろうか?
僕は今エンジニアとしてIT企業で働いている。周りには高学歴で優秀な人がたくさんいる。
もしTがあれから勉強を続けてプログラマーになっていたとしたら、この世界を知っていたら、彼はどうなっていたのだろう。
今でもたまに当時のことを思い出す。
地元にいるとしたら田舎は結婚するのが早いし、もしかするとTには子どももいるかもしれない。
この先Tが自分の子どもに「塾に行って勉強したい」と言われたら彼はその子に何て言うんだろう。
あの日のTの父親と同じように「バカはバカなりに生きろ」って言うんだろうか。
もしそんな日が来るのであれば、Tは彼の子どもには違う返答をしてくれると信じたい。
5歳:遊覧船のデッキより俺を抱きかかえたままバランスを崩した親父もろとも冬の海に転落→無事生還
8歳:校庭でソフトボールのフライを取ろうと後ずさりしてたらサッカーのゴールに激突→タンコブで済む
9歳:度胸試しにかなり勾配のきつい坂道を自転車でノーブレーキで降下中、路肩から出てきた軽トラックと激突。運転席から飛び込み助手席のガラスに顔面でヒビ入れる→大量の鼻血で済む
11歳:女の子にイキりたくて覚えたてのスケボーでベンチを飛び越えようとして足の先がベンチに引っ掛かり転倒、顔面を強打→大量の鼻血で済む
14歳:合宿で食べたフライで食中毒となる→部員全員が1週間近い入院をするも3日で退院。お通じも普通に戻る。
16歳:免許取りたてのくせに高速を140キロで走り転倒。バイク大破→左腕を広範囲に擦りむいただけで骨折も打撲もなし
20歳:成人式でケンカになり4~5人に相当激しくボコられる→ビールケースで殴られたりするも口の中をちょっと切っただけ
24歳:ガンが見つかる←今ここ
来月早々に入院して手術をすることになってる。ちなみにステージ2。俺は不死身なので、また修羅場コレクションが増えることを楽しみにしてる。彼女にフラれたばかりで本当に良かった。
既婚者は事実上留袖一択&わざわざ持ってる人少ない、買うのも高いからレンタル需要高いけど
独身なら普通のその辺で売ってるドレスで構わないしそれなら安く買える&友人の結婚式とかで着る機会も多いだろ、って事で需要無いんじゃないの
着物プラン頼んで、後からお食事会をするホテルで着付けとかメイクとかをお願いするつもりだった。
ところがだ。
私、未婚。
年齢はぶっちゃけアラフォーだから、振袖じゃなくてもいいんじゃないかと思うんだけど、うちの天上天下唯我独尊世界は自分が中心に回ってる女親様が、振袖は無いと聞いて「お着物で並ぶのは私と愛する妹ちゃんだけね!!」と言わんばかりに喜んでる。
即、ドレスにしろと言われる。無言でいたら、「みっともなくなっても困るしとりあえず金は出してやるから自分で着物も着付けも探してこい」と。
それはまだいい。いつものことだし、出してくれると言うなら、ここぞとばかりに出してもらいましょう。
腹立たしいのは、「お前だけ別になるけど」を繰り返し繰り返し、何が楽しいのか笑いながら言ってくること。
逐一棘のある言い方をするのはいつもの事だけど、本当に、私が選んだことが台無しになると嬉しそうにするなぁ、この人。
まあ、愚痴はおいておいて、いや、これも愚痴なんだけど、結婚式の親族用着物の選択肢が留袖オンリーってなんぞ?
ねーよ。そんな金なかった家だったよ。
でも、潔くドレスにするのも嫌だ。
妹も、私が着物にするって言ったら喜んでたし。