はてなキーワード: 寒いとは
1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき
第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由に行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。
もちろん、ショックサーキット自体は第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団がロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。
だが第九話から続くトップジョイの物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから第十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである。
トップジョイが――シルバーキャッスルに好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測の比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。
第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。
これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイの本心だ。彼は本心でラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンとオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋に交流を楽しんでいる一方で。
同時に、九話ではトップジョイの過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガーである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイの根底にある。
彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットだけが理由ではない。もっと根底の、自分の存在そのものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである。
これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。
作中で、ロボットの意思や思考、心が人間にプログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボットが人間の赤ん坊と同じようにまっさらな状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間の意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である。
「トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボットの機能・性能は、つまりは製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格にプログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。
(製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)
だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格はチームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身の純粋さから、本来のスパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。
そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか。
人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか。
人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。
そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。
S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思や感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。
S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーのフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。
第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品」であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思や感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。
しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的なシルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。
S-XXXにも、心は存在した。
なぜS-XXXの製造者が「兵器」であるロボットに「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである。
もしかしたら「心」というものは、それは製造者の意図的なものではなく、自分で学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。
いずれにしても、例え人間にほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。
にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。
ロボットは、人間によって役割を定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである。
この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボットを役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。
一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。
僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットがスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。
しかし、である。一通り憎悪と煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。
ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。
僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。
頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。
月並みな言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間の幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。
そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚。人間とロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界。
第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。
それはつまり、人間もまたロボットと同じであることを意味する。
この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義を無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である。
しかし、完全に自由な人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師、学生、老人、若者、友人……そういった役割や立場を与えられ、家庭環境、ジェンダー、経済力、文化、時代、価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請で意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種のプログラミングである)。
真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己の存在意義を証明し続けることを要求される。
(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)
その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。
もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。
しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間の隠喩、象徴であると述べたそうだ。そして訳者の浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間の隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。
こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思や感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思や感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体的特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である。
と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボットを人間の象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。
これについては、象徴や隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)
「ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上の区別には関心がない。(中略)ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部』12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディックの社会思想」)
『アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間が自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味である。いかに彼らのルーツに薄ら寒い人間の欲望が渦巻き、彼らの意志が人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志で決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。
彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである。
『実力も運のうち:能力主義は正義か?』という新刊を出したんだ
日本でもそこそこヒットして増田でもちょいちょい語ってるやついたかな?
端的に言えば、『能力主義(メリトクラシー)の傲慢と堕落』についての本だ
成功者は自分の達成した成果を努力のみによるものであると信じ、
「たまたまうまくいった」とは考えず、成功に至る過程で助けになった幸運の恵みを忘れてしまうってヤツね
これ以上は説明しても増田に理解出来ないと思うから省略するけど元増田の話はそれ以前のレベルの話だぜ?
>そもそも全員が等しい機会を持って出発するという理想に到達していない
『スタートはみな平等じゃない、平等な状態で競争は行われるべき』っていう主張ではなくて
『競争自体が公共善(共通善)を蝕む悪』としている
静かな夜だった。
幼い娘が電気を消して欲しいと言うから、わたしは寝室の常夜灯を消して、ベッドに横たわる彼女の隣に寄り添った。
「ママ、苦しくない?」
娘はそう言うと、チューブを自分の鼻から外して差し出した。わたしはそれを受け取らず、代わりに小さな手を握り返した。
「お母さんは大丈夫、もう少し吸っていなさい」
そう言うや否や、自分の肺の底から咳が込み上げてきた。身体を反転させ、娘に背を向けて咳き込んだ。
同じ病気にかかっているから、こうすることにたいした意味はないのに。
わたしは枕元のチェストに置いたティッシュペーパーをとって痰を吐き出した。
薄闇の中で、それはどす黒い血のようにも見えたが、さすがに気のせいだろう。
娘は健気にわたしの背中をさすり続けた。その柔らかな皮膚と荒いスウェットの生地が擦れる音は、世界で一番優しい音だと思った。
幼な子の咳は軽やかで愛らしいけれど、自分が重たい咳を吐き出すときよりもよほど強くわたしの胸をしめつけた。
......あのとき帰省しなければこんなことにはなっていなかったかもしれない。ワクチンだってまだ打ってなかった。
そのことを娘に詫びると、彼女はこう言ったのだ。
「そうだね、流れ星も見れたね」
あの夜、星が天球の上を一筋に流れたとき、とっさに願ったのはこの子の幸せだった。
「ねえ、ママ、お水が飲みたい」
「待ってて」と言って、わたしは橙色のルームランプをつけ、スリッパを履き、ベッドから立ち上がった。
足元には、フローリングを埋め尽くすほどたくさんの観葉植物が並べられていた。
わたしたちの感染がクリニックの外来で証明されて、だけれども入院できる施設がどこにもないと知ったとき、帰りに立ち寄ったドラッグストアで買ったものだ。
髪の薄い男性店員が、眉を八の字にして申し訳なさそうに宣告した。
だったらどうしたらいいのよ! といつものわたしだったら食い下がっていた場面だろう。
もうそんな元気がなかったのもあるし、何より社会全体が何かを諦めてしまったかのようなムードに包まれていたから、わたしは何も言えなかった。
調剤室の前のベンチにはたくさんの人が座っていた。
みんな、まるで負けることを知った試合を消化するチームメイトのように、うつむいて、冴えない顔つきをしていた。
結局、わたしたちは酸素ボンベの代わりに、たくさんの鉢植えを買ってきた。
植物が光合成をしてくれたら、部屋の酸素濃度が上がるかもしれないという、浅はかな考えだった。
ドラッグストアからの帰路、緑を満載した赤いコンパクトカーの後部座席で娘は咳き込みながら笑った。
「また行きたい、フラワーパーク」
「うん、行こうね、必ず連れていくよ」
返事はなかった。
白いマスクと、冷えピタシートに挟まれた可愛い目を細めて、彼女はそのまま寝てしまったのだ。すーすーと穏やかな寝息を立てながら。
わたしは安堵して、赤信号が青に変わったのにしばらく気がつかなかった。発進を急かすクラクションがやけに遠くから聞こえた。
あれからまだ三日しか経っていない。いや、二日だったか? すでに、寝室とダイニングキッチンを往復するだけでも身体が重く、息苦しい。
洗っていないコップに水を注いで、一口飲む。
水はもとより味がないから助かる。
昼間に食べた卵がゆは、まるで湿地帯から採取した粘土のようだった。まだ喉の奥にひっかかっている気がする。
味が濃いはずのものを口にして、その風味を感じられないことがあんなに不愉快なこととは知らなかった。
昼間に洗って水切りかごに伏せておいた子ども用のプラスチックのコップに水を注いで、寝室に戻った。
ルームランプに照らされた黄色いコップには、アニメのキャラクターがプリントされていて、屈託のない笑顔を永久に固定していた。
娘はマットレスに手をついて起き上がると、壁にもたれかかって、コップの水をゆっくり飲んだ。
枕元に転がっている酸素ボンベをちらりと見る。これが最後のボンベだった。
フリマアプリで、とんでもない高額で取引されていたものだ(たぶん違法だ)。だから何本も買えなかった。
配送を待っていられなかったから、車で片道二時間かけて取りに行った。古い戸建てに住む、中年の男性だった。
まいどあり、と言ったあの笑顔が、がたがたした歯が、家の臭いが、忘れられない。
......彼は一体どうやってあんなにたくさんのボンベを手に入れたのだろう……どうだっていい!
帰りの高速では意識が朦朧として、事故を起こしそうになったっけ。
黒光りする筒の頭の部分におもちゃみたいなメーターが付けられていた。針は、かなり傾いていた。
パルスオキシメーターで測定したわたしたちの酸素飽和度は、故郷の山の、空気の薄い山頂にいるくらい低い。
どうりで頭がぼおっとするわけだ。
N-95マスクをつけた医師に、少なくとも一分間に五リットル以上の酸素は必要と言われたが、もったいないからもっと絞って使っている。
酸素に味はないけれど、吸えば少し楽になるのがわかる。
「美味しかった」
娘がコップを差し出した。まだ水は半分も残っていた。
もういいの? うん、もういい。
チェストにコップを置くと、ランプを消して二人で横になった。それから娘の体を抱きしめて、小さくて丸い頭を撫でた。
髪の毛は柔らかく、少し湿っていて、甘い匂いがするような気がした。
「ママ、それ、ほっとする」
腕の中で彼女はそう言った。子守唄を歌ってあげたかったが、もう声を出すのもしんどくなっていた。
確かに、わたしの身体は震えていた。でもそれは寒さから来るものではなかった。
「大丈夫、咳を、こらえて、いる、だけ」
声がなるべく震えないように、切れ切れに言って(あるいは本当に息が続かなかったのかもしれない)、わたしは頬を伝う一筋の涙が彼女に落ちないように頭を上の方に向けた。
それにつられて、娘も顔を上げた。
ベッドサイドのチェストの上に窓があった。正方形の小さな窓だ。
ただ今が真っ暗な夜ということだけがわかる。
娘が、ママ、とささやいた。
どうしたの? と尋ねると、彼女は目をつむってこう答えた。
「星が、きれいだね」
わたしは頷いて、
「ねえ、あのとき、流れ星を見て、何をお願いした?」と聞いてみた。
返事はなかった。
意識していたわけではないが、仕事が忙しいので競技は全く見れなかった。
スマホの通知で各種ニュースサイトの速報が流れてきて「へーメダル獲ったんだ。多いのか少ないのかわからんな。ふーん」程度の感想しか無かった。
ただ私は一応エンタメ系クリエイターの端くれだったので、開会式と閉会式だけはちゃんと見ようと思ってリアルタイムの予定を空けていた。
リオの演出には本当に心震えていたし、色々最後までゴタゴタがあったがそれでもどこかで
「なんだかんだ兆円規模の大会にふさわしい演出があるんだろう?」とどこかで期待をしていた。
なんなら恥をしのんでMIKIKO案でもパクってくるんだろ?さぁどんな禁じ手をやってくるんだ?とソワソワしていた。
どうであれどこかで楽しみに待っていた。
虚無だった。
虚無だけがそこに広がっていた。
しかもリオのときはオブジェクトと連動した光の演出だった気がするのに、会場をただスクリーンに見立てた映像演出。
漫画の吹き出しプラカードを手に虚空に向かって手を振る選手団の入場。特に関連性のないゲームBGM。
度々キャスターの口から出る「多様性」の言葉。何が多様性???
リオの煌めきは何だったんだ? ん、いや待て待て、ここから本番が始まるんだろう?
なんて思っている間にピクトグラムの余興。24時間テレビとかで見そうな演出ですね。
ドローンで描かれる地球。あーなんかドローンをスクリーンにするのって中国のイベント映像良く見るなぁ。
そして長嶋茂雄の痛々しい聖火リレーの姿。いや車椅子とかにしたげてよ、見てるほうが辛いよ。
開会式、終わり。
ところどころ順序が違う気がするけどまぁもう見返す気も起こらないのでご愛嬌。
終始私の頭では「なんだ?今私は何を見せられているんだ?」というはてなマークの嵐だった。
そっとFireStickのリモコンを手に取り、アマプラで配信中の東京卍リベンジャーズを見た。面白かった。
それから大会期間中は、冒頭に触れたとおりで、五輪が始まったこともあまり意識に無いまま日々を過ごした。
私の中で五輪ははじまっていなかった。
はてなでの連日のコメ欄でのバッシングなどを見て、あー今日も非難されてるわーと思った程度だった。
それでも私は諦めなかった。
私は五輪はどうでも良かったが、閉会式はエンタメ系クリエイターの端くれとして楽しみにしていた。
虚無だった。
虚無だけがそこに広がっていた。
キャスターが言葉として今やっている演出の補足を入れるんだが、それがいちいち薄ら寒い。
語らないと伝わらない演出意図が意味不明なパフォーマンスの数々。
演者たちが各々パフォーマンスを最大限やり遂げているというのは伝わってくるんだけど
なんの一貫性も感じられず、共感性羞恥みたいなものを感じてしまってただただ辛い映像が流れた。
後で何かの記事で、これは混沌を題材としたと言っていたが、カオスとは演出されて成り立つものであって
一応クリエイターの端くれの私からしたらこれは演出を拒否したただの無法地帯にしか見えなかった。
演者に全てを丸投げし、現場はどうにかいい舞台を作ろうともがいている、そんな苦しい空気を勝手ながら感じ取ってしまった。
突如差し込まれる日本美しいデスネな映像も前後の脈絡が無く、空虚なもの。
パリのPVは結構賛美されてたけど、私は特に刺さらなかった。リオがあまりに良すぎたので。
そして、終わってみれば、私にとっては開会式以上の虚無が眼前に広がっていた。
虚無を終えたところで、何かが始まって終わった感じが無い。
だから私にとって五輪は実感のないままただ過ぎ去っていったもの、だった。
私は日本で五輪やるんだから自分の中でどこかでお祭り気分みたいなテンションの振れが起こると思ってたんだ。
でも本当に、何も私の中に起こらなかったんだ。
クリエイターの端くれとして、こんなに心が動かない自分に驚いてしまったんだ。
みんなはどうだった? 五輪終わったなーって感じある?(パラがまだあるっていうのは置いといて)
こんな所でこう書いても会社を辞めるか辞めないか、その後の人生がどうなろうがは自己責任だということは分かっている。
よくある話題で大して面白くもないが、自分は社会の適正が低いと思う。
そもそも労働に対しての意識も意欲もあるとは言えないし、対人関係、特に上司との関係構築に難がある。
戒めと問題提起の意を込めて書き綴る。私は人見知りがちな女とだけ先に書いておく。
1社目は私・上司それぞれの異動のローテーションの兼ね合いや出向元の関係で毎年上司が変わった。
感情の起伏はなく落ち着いた人だった。多大なストレスがかかる業務の中ぺーぺーな私の面倒をよく見てくれた。
ぺーぺーだった私は生意気な面も今よりかなりあった上、困難な業務も多く、手のかかる部下だったと思う。
正直なところ新人にこんな業務をやらせるなよ、というものも多々あったが、この上司なくしては私はもっと早くリタイアしていたかもしれない。
今思えば私と最も相性が良かったのはこの上司で、もっと長く一緒に働きたかった。
頼りない人だった。自己顕示欲が高かったり意識高い陽キャタイプではなかったが、ノリが寒いタイプ。
部下の業務を知り、フォローするような人ではなかったため、関連部署からの評判もあまりよくなかった。
私は2年目のペーペーとなったが、その私に頼りきりなところがあり、ペーペーの私は非常に困った。
業務の報告をしても相談をしても、的確なリアクションが得られないのである。業務は現場に任せきり。
私はやれるだけのことはやったが、上司にと信頼関係があまり築けず、舐めた態度を取るようになってしまった。
今思えば私の態度にも問題があるわけなので、分岐点はここから始まったような気がする。
次は私が異動となった。上司は頼れる人。仕事もでき、部下のフォローもでき、周囲からの信頼も厚かった。
同僚との関係性もよく私自身ものびのびと働けていた。コミュニケーションも活発で順調だった。
残業中に2人きりになった際に雑談が弾んだ。ほかの同僚に対してもフランクでフレンドリーだったし普通の内容だったので私も仲良くなれたと嬉しく思っていた。
面談でも、私の仕事ぶりをよく見てくれておりその上で必要な助言もくれた。今の私では考えられないほどいろんな話ができていた。いい関係だったと思う。
メールでも頻繁に会話することが増えた。軽い相談から始まった。
しかしそれは徐々にエスカレートし、プライベートの内容が増えていき(家族の話、異性関係の話。当時私は交際している人はいなかった。)、最終的に勤務時間外に返信を求められるようになった。
このままでは私はまずいと思い、断りを入れた。職場以外の場所で時間を取って会えないかと言われたときに。だって、上司には妻子がいる。
すると上司の態度が豹変した。機嫌を損ねてしまったようだ。もう私には二度と話しかけない、と言われた。いじけられた。
コンプライアンス、というか社会人のマナーとして私は間違ったことはしていないと思うのだが、どうして私がいじけられないといけないのか。意味が分からない。
だが、所属している組織の上司と部下という関係上、その関係が悪くなってしまうのはもっとまずいので、私は勤務時間中はできる限り普通の対応に努めた。
しかしながら私の努力とは裏腹に、上司との溝は深まってしまった。
私は精神的に疲れてしまい、業務に支障を来すようになってしまったため、産業保健師とさらに上長への相談の結果、一定期間休職することとなった。
休職の期間中どういった協議がなされたのか知ることもなかったが、今思えば、今後のキャリアと待遇上の不利を私だけが被る形となっていたことは文句を言っておけば良かった。
そして上司の異動後に私は復職することになった。この時点で私はの人間不信が加速していた。
第一印象は穏やかな人だった。裏を返せば前の上司と比べて頼りない人。前の上司とのギャップと私の人間不信が重なってお互いが気を遣い合っていた。
トラウマ的なもので、特に男性に対して心を開けなくなっていたことは確かで、コミュニケーションに躊躇するようになった。
そんなことでうまく行くわけがない。うまく行かなかった。キャリア上の問題もあり、私は退職を選んだ。
新天地である。フレッシュな人だと思った。私から見たら意識高い系。仕事とプライベートの区別をつけないような人。そのくせ古いジェンダー概念を持っている。
私が他者に対する警戒心が解けない(一生解けないと思う)おかげで、一線を引いてしまうことになったのが心象を下げてしまっていたと思う。
他の同僚とは仲良しグループ♪みたいなのを作っていたみたいなので、私が自己開示してくれないとか、心を開いていないとか思われていたんだろう。
単なる愚痴だが、上司は子供みたいな人で、前述した仲良しグループもそうだが、その仲間を少しでも否定されたり攻撃されると異常なまでに反撃するような人だった。
これが本当に厄介で、機嫌を取り上手く気に入られたら安泰、それができないと地獄の日々。
仲良しな部下からの情報(密告)は鵜吞みにし、それで部署内の雰囲気はギスギス。ごくありふれた話かもしれないが。
そんな厄介な上司は社外のパートナーに対しても失礼な言動が多かったため、そのフォローを裏でしていたのは気に入られていなかった側の部下だったことに彼は気付いていないだろう。
見事に合わない。マイルールの押し付けと小言ばかりの日々。自分に厳しい人って他人に不寛容なんですか?
一つ質問したら回答の前に小言が返ってくる。
私なりに進めている業務も、自分自身のやり方に沿っていないと最初からやり直し。それなのに積極性が足りないとダメ出し。
打ち合わせをお願いしてもすっぽかされること多々。
私は無能だと思われているんだろう。そのうちもう来なくていいと言われるかもしれない。
機嫌を窺いながら、萎縮をしながら、失敗を恐れながら過ごしている。何をしたらこの人のお眼鏡に適うのか、許しを得られるのかばかり考えている。
上司ガチャに失敗し続けて、今に至る。もちろん私にも非がある。他人に対してどんどん臆病になっている自分がいるからだ。
この世にはどうしても合わない人がいることは誰にでもあり、仕方がないことだ。
ここで会社を辞めて、次に行ったとしても次の上司と合うかなんて分かるはずがない。
でも、合わない場所に居続けるのも時間の無駄で迷惑な話だと思う。
それとも神経をすり減らす日々を続けるのか?
逃げた方がいいのか?逃げないほうがいいのか?
どこで何をどうしたら、私は私らしく生きていけるのだろうか。
上司との付き合い方を教えてください。