はてなキーワード: 享楽とは
活躍する人に高学歴な人が多いのは、知的好奇心が高い結果なんだろうな、と思う。
偏差値の高い学校に行けば、自分より知的好奇心が豊かな同級生に囲まれる。
パソコンにのめり込んでいる奴や、ロケットを作ろうと実験している奴、日本史が好きで大学レベルの本を読んでいる奴…そういう奴らと刺激を受け合い、自分も夢を持ち、それを実現するにあの大学に行きたいから勉強しよう、としていけば、能力は伸びる。
残念ながら、中堅以下の高校、特に地方の高校では、刺激し合って伸びる雰囲気が薄い。
むしろ、頑張って伸びたい奴が居たら、足を引っ張る。そんな雰囲気の中で、目先の享楽を求め、搾取される側の人生で終わる人が少なくない。
これは地方の構造的な問題かもしれない。優秀な奴に中央へ出て行かれたら、地方の社会は持たない。能力あっても庶民の子なら、意志を挫いてやり、その能力を地方のために提供する奴隷にしてやる方が良い、って発想。
自分自身、地方の公立中学校(学力レベルは県内底辺)から、周囲の反対を押し切って県庁所在地の進学校に越境入学し、国立大学に進んだ人間だから、こういう雰囲気が分かる。
どれだけ筋骨隆々な男でも、どれだけ容姿端麗な男でも、腰を振る姿だけは本当に間抜け。
あんなの快楽がなかったら間抜けすぎて絶滅間違いないっていつも思っている。
もちろん排泄も間抜け。
これに限っては排泄をコントロールできなかった生物はすでに絶滅したと確信がある。
世の中を眺めているとセックスの快楽がそこに至るまでの手間の煩雑さとかセックス以外の手軽な享楽とかに負けつつある。
つまりはセックスのコストが特定のパートナーを持つことより結果的に風俗のほうが安くなってるってことだよね。子供増えるわけない。
ラブホなくすのは構わないんだけど、少子化対策したいなら生まれてから後のことよりまずは気軽にセックスを楽しめる環境をなんとかしないと駄目なんじゃない?
ちんこが好きだ。
ああいや、お前の股にぶら下がっているそれじゃない。すまないが、汚いからさっさとしまってくれ。
東京ちんこ倶楽部というTwitterアカウントがある。
僕はそのアカウントが好きで、随分前からフォローして、遠くから眺めてコンテンツとして消費させていただいている。
しかし、彼がコンテンツとして面白いのは、その裏に、人間としての苦しみ、それも、他の人間よりも苦しみ、悩み、不条理な苦さを感じ尽くした、そういう苦しみがあるからだ。
僕のような、ふらふらと生きている人間よりも、彼のコンテンツの方が面白いのは、彼のそういった経験的背景があるからに他ならない。
ただ、痛みは共有できないものだ。アーレントもそう言っているだろう。
彼の、表に現れた痛みは、イロニーとなって、まさにこのグローバル資本主義社会と日本的経営の融合物としてのブラック企業におけるスローガン「圧倒的成長」というフレーズを通して、表象=再現前化された。
しかし、それは彼の痛みではない。彼の痛みを表象=再現前化することによってコンテンツ化され、一般化されたものであって、彼の痛みそのものではない。
「圧倒的成長」
彼の生み出すコンテンツは楽しい。しかしそれは、それをコンテンツとして享受することが許される限りのことである。
彼は、その痛みの中で、しかしなお苦しみ続けている。
僕はそれを、コンテンツとして楽しんでいる、いるがしかし、苦しい。
繰り返すが、「痛み」は個人的なものであり、共有できないものだ。
「憐憫」も「共感」も、それを人々の社会、こう言って良ければ「類的存在」としての我々を、所与としてではなく、帰納的に成立せしめるところの作用ではあるけれども、
しかしながら、それが個人そのものの、内的な連関にまで届くわけではない。
ならば、僕の苦しさは、むしろ他人の不幸をコンテンツとして楽しんでいるという現実にあり、(しかし芸術というのは、ゴッホにせよ金子みすゞにせよ、やはり不幸を源泉にしている場合が多いのだが、)人の不幸を享楽する自分というものが受け入れられなくて苦しいのだろう、この偽善者め。
と、言ってしまえばそれまでかもしれないが、やはり僕は、単にそうはいえない。
僕は、案じている。
あるコンテンツとしてのイロニーという、一つの優れた作品を通じて知った、その先にいる人を、僕は案じている。
彼は、外から見て、明らかに容易ならざる状況にあると思われる。
そして、そういった状況に陥った多くの知り合いは、その、最後には、(最後にはというのは寿命でということではなくて、)究極の選択をすることが多かった。
それこそ、「ツバメのように」。
いや、しかしこうやって、僕がここに書くことすら、単に僕の享楽であり、それは彼には関係のないことだ。
いや、そうなんだけれども。
じゃあお前は何ができるんだ、金か、体か、法か、などと言われたとしても、僕は何もできない。
だから、単に案じている。
案じていることを、ここに念の為、あくまで念の為、書き記しておく。
それだけのことだ。
僕にできることは、何もない。
いずれにしても、風は吹くのだから。
10年以上前、はてなで盛り上がっていた「非モテ論壇」において著名だった、id:Masao_hate氏。
※ブログ:https://masao-hate.hatenablog.com/
確か「スクールカースト」という言葉の提唱者(最初は「学校カースト」とか言っていたかと思われる)でもあり、個人的にすごく愛読していた。
彼が制作に参加してた「奇刊クリルタイ」とかいう同人誌も、わざわざ即売会で買いに行ったりもしてて、今でも保存してる。
今は、別ID(id:Ta-nishi)でブログをやっているのを初めて知って、ちょっとびっくりした。
http://ta-nishi.hatenablog.com/
http://pic-b.com/photo/252031/437882/
改めて調べてみると、なんというか、旧ブログの雰囲気に似たものを感じる。
確かに過去記事に「別の場所でブログやっていた」とか「同人誌を手伝っていた」とかあったけど、そういうことだったんだね。
時系列を遡って見てみると、この人もいろいろあったんだねえ。彼女との交際、別れetc.....
ttps://www.amazon.co.jp/gp/product/4900550132
浴場での出来事、つまり湯をはねかける者、押す者、罵る者、盗む者
世の中のすべてから愛されようといった、
虫のよいことは考えず、異端を恐れずに進む。
マルクスアウレーリウス
十人が十人とも悪く言う奴は善人であろうはずがない。だが、
十人が十人とも良く言う奴も、 善人とは違う。
真の善人とは、
行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。
毀誉(きよ)は人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候(そうろう)。
各人へ御示し御座候とも毛頭異存(もうとういぞん)これなく候。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96
顧客のすべてのニーズに合致した製品で、なおかつ最高のものを提供しようとするならば、必ず失敗します。そんな戦略では、勝てるわけがありません。
https://anond.hatelabo.jp/20180611212751
わたしの場合は、会いに行ける系のアイドルやYouTuber的な何かなんだけど、
超越的な場所ではなく届きそうなほどの身近さでコミュニケーションしてくれる、
地に降りたアイドルと接していると、
あなたの場合は、バーチャルアイドルという、みずから虚構性をうたい、またみんなから、その存在を虚構であることを前提に楽しんでいるがゆえに、
その「実際は届かないこと」が可視化されやすい環境にたまたまあった、だから気付いた、ということだ。
バーチャルアイドルでよかった。
もしこれがバーチャルアイドルじゃなかったら、大変だったことだろう。
気づかず、ドス黒い感覚が領域拡大し、もう戻ってこれなくなる。
バーチャルだからね、ははと、相対化できて、諦めることができた。
去勢された人間が成熟しているという意味においては、あなたは、立派で、成熟している。
成熟したのだ。
まず断念、諦めが前提にないと、あたかもそれがここに到来可能であるかのように錯覚し、到来する死の享楽として、世界が没落するから。
断念のうえで、じょじょに対象aとの接し方を身につけなくてはいけない。
わたしの場合は、***がまだファーストアルバムを出す前に握手会行ったりしていた。最初のあなたの状態だ。
アルバムデビューしてメジャー化する過程で、私のドス黒い感覚は領域拡大し、ある一線をこえ、世界没落感覚のエンペラータイムがはじまった。
私は戻ってこれたが、いま、テレビのバラエティに******がいて、吐き気がして、すぐにテレビを消した。
いうまでもなく、******は、VTuber同様、虚構の存在だが、Vtuber同様、虚構だからといって、相対化し、無視できるものではない。
避け続けるしかないよ!
超音速備忘録が大好きだ。でも気難しい管理人だからここに書く。
模型は本物ではなくその再現であることの不自由と、作る人にその完成を判断する裁量を委ねられている自由が彼の言っているプラモの背骨なのだと思うのだけど、違うような気もする。
私のような技術オタクはその表現の地平を超えたフミナ先輩を作り上げたその苦労と、間違った方向だったとしてもその市場に爪痕を残そうとした思いを軽く見れないのだけど、そうではないらしい。
彼がいま理想だと思うプラモデル。カメラで殴りたくなる要素を佃煮にしたプラモデル。そういう商品を彼が、どこかと組んで出してくれたらいいのに。(希望)
米山知事が“買春”報道で辞職した。しかしあれは本当に“買春”だったのか。決まった相手とお金を払って(もらって)肉体関係を結ぶという意味ではあれは“愛人”ではなかったのか。そしてそういう関係の女でも、知事当選におめでとうとメールが来れば愛人が本命になってもおかしくない。お金を払わなければ女性に振り向いてもらえない男ならそう思ってもおかしくない。たとえお金を払っていても、彼女がそれをもらってくれて逢瀬を重ねてくれるなら、それはいくらかでも自分のことを気にしてくれている、少なくとも拒まれてないと思ってもしようがないではないか。お金を払わなければ女性に振り向いてもらえない男とはそういうものだ。そういう関係の中で、針の穴に糸を通すような希望を持って、彼女がいつか自分のことを愛してくれるのではないかと思うことは、やむをえないというよりそうならざるをえない。人並みの青春を過ごし同世代の女性と愛を紡ぎ体を交わしてきたような恋愛健常者にはわかるまい。私は彼がどのような想いで彼女に三万円渡していたかと想像すると胸が詰まる。ほんのわずかな時間。体だけの関係。それでも彼女が喜んでくれるなら金も払う。彼女の笑顔が見れるなら、彼女のぬくもりが感じられるなら、それが全てなのだ。心無い人は言う。今まで人生生きてきて金を払うことでしか女性と関係を築けないのは人として大事な何かが欠けているからだ、と。おそらくその指摘は正しい。だからどうだというのだ。人生を成り直すことなどできない。青春時代をやり直すことなどできはしない。お金を払わなければ女性に振り向いてもらえない男になってしまったら、それはそのまま生きていかなければならないのだ。そういう人間に、いわば不具者に、一生女のぬくもりもキスの味も自分だけに向けられる笑顔も知らずに生きてそして死ねというのか。自分の金で好きな女に金を渡して何が悪い。たとえそれが商売女であってもだ。まして今回はしろうとである。出会い系サイトで知り合ったと言うが、彼にとってはまさしく“出会い”だったのであろう。相手ははじめから金を要求しいわばワリキリだ。そりゃ払うさ。それでぬくもりが手に入れられるなら払うさ。相手では成人女性である。何が悪い。売春防止法?だから売買春じゃないって言ってるだろ。恋愛不具者にとってはお金を払うことが唯一の手段なのだ。恋愛健常者はそれを奪うのか。責めるのか。ひどいじゃないか。お前らは幸せなんだろう。なんで不具者にやさしくしてやれんのだ。女と交わる方法を知らない男にとって、女に(肉体的にも精神的にも)受け入れてもらうことがどれほどの救いになるかわからんのか。わからんのだろうな。きっと恋愛健常者どもは自分の幸せを当たり前と思い、そして他人も当たり前に手に入れてると思い、それができないものを劣ったものとして嘲笑し一時の享楽にしてそしてすぐ忘れてしまうのだろうな。彼は人生を棒に振ったのだぞ。スーパーエリートの彼があのような行為でしか女性を関係を持てなかったのだとしたら、自業自得などととても言えない。しかし市井の人々には理解してもらえぬのだろうな。私はそれが悲しい。
食について同様のことを感じる。
あるモノがなぜ粗末にされるかと言うと、それはそのモノが有触れているからそうなるわけだ。
家庭での食べ残しや、商店飲食店での商機逸失を避けるための過剰供給・廃棄は、食材のコストが割安だから起こるので、
食材の値段が現在の数十倍数百倍になれば、そういった事態は激減するだろう。
そうなれば、安全安心な食品をいつでもどこでもだれもが手に入れることは不可能になり、深刻な生命の危機に晒される人も出るだろう。
人が生きるために食を取るのが本義なのだから、食の価値が人よりも高くなるような状況もその肯定も許されないという意見はあろう。
だが、人命の安全のために、余計に動植物を殺して食品の過剰生産をすることも批判されるべきではないかとも思うのだ。
現在の群馬県と長野県の県境、地図も当てにならないような山中にひときわ目立つ石碑が無造作に転がっているのを知る者はあまりいない。石碑には「強力零」とだけ力強く彫られている。
群馬大学の研究チーム9名が1999年に調査したところによると、その力強さは同年代に彫られた石碑の文字に比べて約9%増しであることが判明した。これが何を意味するのか、当時の知見では解明されることはなかった。
零戦を強力に改良した航空機の開発が推し進められていたことは周知の事実だろう。その名称はもちろん「強力零」であり、従来型よりも戦闘力を9%向上させる設計となっていた。アメリカ側も当然にその事実を握っていた。英語での呼称は、言うまでもないだろう。
「そういえば」と強力零作戦に配属されたばかりの青年が言った。「じいちゃんが言ってましたよ」
「何?」と上官。
「その昔、祭りでは酒が振る舞われていたって」
「酒くらい飲むだろ」
「いやいや、その酒ってのが特別な代物で、強烈な多幸感をもたらすんだそうです。それがあったからこそ、暮らしに活力がみなぎって、明日から頑張るかって気になるとか。先祖代々伝わる話ですよ。もはや伝説ですよね」
人類の歴史は密造酒との戦いであるとも言えるだろう。無法者が蔵を構えたのは監視の行き届かない山奥であった。違法であるからこそ享楽は9%増しになる。当時、日本で最も人気のあった密造酒はアルコール度数99%の「強力零」。ここから認知バイアスによって陶酔が9%増しになるということは、アルコール度数108%。ハレの日には「強力零」が大量に振る舞われ、人々は「酒が飲めないなんて人生の9%を損している」とその幸福に酔いしれた。
999年、その酒蔵は忽然と姿を消した――。
未来と過去を行き来するストロングゼロの正体とは。その陰謀に巻き込まれた九条強と山鳥・アッパラッパー・幸子。生存確率は9%。果たして彼らは999人の政府関係者と9999人のギャングから本物のストロングゼロを取り戻し、ハレの日にアッパラッパーすることができるのか。
たぶん、作ってる製品の、最終的な、強度とかの数値としての品質は昔から変わらないと思うんだ。だから、不正が発覚しても追跡調査では結局問題なしとされることが少なくないんじゃないかなって思う。
そうでもないよ(AA略
確かに昔は緩い面はあった。
ただ、ソニータイマーの様な言葉は昔はなく、オーバークオリティ気味だったのも確かだし。
それだけ無駄や遊びが多かったとも言えるが。
結局、「驕れる者久しからず」であって、経営の勉強もせずに享楽に耽った経営層も「もう技術革新について行けない」と言っていたり、マスコミはイバンカ基金の57億円報道も視聴者を騙すのが前提だったり、
契約社員だらけにして協力会社にはネットを使わせないみたいな話も権力を握っている人が横着した結果だしね。
誰も彼もが、楽でおいしいポジションを狙って下をコキ使うわけだから、論理的結論としてはまともにやる人はいなくなり、ニートが増えるという話だと思うけどね。
そうですね、他人の尺度でビクビク生きている女はすごく多いですが、他人の尺度なんて存在すら関知せず、自分の信じる世界観こそ常識、と思っている新世界の神な女も非常に多いです。
男も、くだらないオモチャに独自の価値を見出して楽しく暮らしているバカなおっさんも多いですが、自分の考える世間体や世渡り術で妻や子供を縛り付けることも多いです。
ところで、他人の目に怯えて暮らすのって人生損していると思いませんか?
もっと楽しいと思うことだけを考えて生きた方がよくないですか?
ですが、自分一人が楽しかったと思う人生を歩んでも、世の中的には無価値ですよね。
多少は楽しさを犠牲にしても、他人に評価される人物であり、評価される業績を残さなきゃいけないのかな、とも思います。
何事もそうですが、自身の考えを、どう生かすか、が焦点なのかな、というのが真理かもしれません。
他人の目が気になる人は、ビクビク怯えて暮らすのではなく、他者の評価に耐えるくらい努力をして自信を持つべきでしょう。
自身の価値観と快楽のみ重視する人は、その享楽がどこかで誰かの役に立たないか、他者に価値観を押し付けてないかという観点には敏感であるべきでしょう。
誰しも自分一人では生きられないのだから、自分にとっても他人にとっても幸せな生き方をして欲しいと願っています。
全ての人がね。
待ち合わせに遅刻。
キャバに行く前に一杯引っ掛けていこうと言う。
行く場所は決めていない。
適当な男。
何の計画性もない行き当たりばったりな奴。
キャバクラでどんちゃん騒ぎ。←何も残らない。ただの享楽。そんなんだったら講演とか芝居とか映画とか音楽とか、もっと身になるものがある。よほど興味深かったり好奇心をそそられたり自分を向上させるトークの出来る嬢がいれば別だが。
どうせいくなら一流のキャバだな。
とにかくそいつは遊び方がヘタ。キャバでカラオケでどんちゃん騒ぎして何が楽しいっていうんだ?何が残る?くだらない。そんな一時的な享楽にうつつを抜かす奴はどうしようもない。
それだったら家族、友人、恋人と思い出の時間を作ったほうがいい。
金を散財してホームレスになるのが目に見えてる。
負に引きずり込まれる。
虫酸が走るほど嫌な一日だった。
彼女たちは創作物を一時的な享楽のためのささやかな娯楽とみなしていて、なおかつフィクションと現実を明確に区別できる、そんな分別のついた人間だという自負を持ってる。
多分そう。
だから絵本みたいな作風のものを好んで鑑賞も、それは暇つぶしにツムツムをやるようなものであって、幼児的嗜好の兆候だなんて言われる所以はないと考えている。
ではなぜディズニー好きな女子の中にはアニメや漫画というサブカルチャーの愛好家を貶す者がいるのだろうか。
僕が思うに彼女たちは愛好家が好むアニメ・漫画・ラノベ等をみた際に、作品の舞台設定やキャラクター描写に現代日本の流俗や現代日本人の嗜好を見て取れることから、フィクションと現実社会の世界観の違いを上手く分けることができず混乱する。
そして愛好家たちが作品の世界観と現実社会のモラルのギャップに戸惑わずに鑑賞を続けられるのは、フィクションと現実社会を混合しているために違いないという判断を下しているのではないだろうか。
彼女たちは創作物に対するメディアリテラシー能力に長けていると自負しているために、自分が理解出来ない物を愛好する人々を分別のない愚劣な者とみなして半ば強引にアイデンティティを守るのである。
古典的名作や純文学といったアカデミックな扱いをされがちな物は、読み解くためには予備知識が多大に必要であり、理解出来ずとも自分の知識不足のせいにできる。
テレビドラマ等実写作品は非現実的なビジュアルなり辛いうえ、全ては俳優を引き立たせる装飾であるという鑑賞スタイルも成り立つために、フィクションと現実社会の違いを意識せずとも楽しむことができる。
アニメ・漫画・ラノベ等を含む日本的なサブカルチャーでは、基本的に、ハイコンテキストな世界観やテーマをローコンテクストな文法や世俗的な媒体に落とし込んだ作品が評価される。
サブカルに関心がなく、作品を読み解く気がない人からすればそれらはとても奇々怪界な物なのかもしれない。
ワンピースや進撃の巨人、ティーン向け少女漫画が、サブカル愛好家を下に見る人にも受け入れられるのは、ハイコンテキストな主題がない、もしくはローコンテクストなわかりやすいメッセージで包み込んでいるからだと思う。
「昔はワルだった」「あの頃はバカやってた」
こんな文句で自分の過去の快楽主義、享楽主義、刹那主義を振り返る人、物語、たくさんありますよね、だいたい最後には説教混じりの美談で終わるんですが。
「人は顔じゃない、本当に心が通じる人をパートナーにしなさい」みたいな
それ言ってるあなた、若い頃の自分に言えるかな?そしてそれを本気で説得できると思えるかな?
本当に心を通わせられる人と付き合うこと、素晴らしいことだと思うよ、ホント。心の底からそう思う。
でもね、自分の性衝動にくる女の子と一緒にいることと、そうありたいと思うエネルギーって半端ないんだよ。自分を取り巻く環境、自然が美しく見えてくるんだ。
その一方で「昔はバカやってたけどやっぱり中身で人を選ぶべき」みたいな物語に深く感動してる自分もいて、もうめちゃくちゃだよ。
何も知らない状態で快楽主義を経て、今、理性的に美しい状態に落ち着いてるあなたたちが僕は堪らなく羨ましい。
だって知らないならしょうがないもの、本能が先にきたんだから。
でも僕は違う、あなた達が実際に生きて、編んできた美しいストーリーに深く感動しているから。それに感動していながらそれに反することは罪だから。美しい日常に戻ることができなくなってしまうから。僕の未来には「馬鹿をしてそれに反省し美しい心を持つ」ストーリーなんてない。それをやった所で悲しい自作自演になってしまう。