はてなキーワード: 博士論文とは
研究開発ができるよ、的な感じで就職したけれど、配属されたのがほぼ常駐に近いPJでひたすら資料を作ってお客さんとあーだこーだ言う仕事だった
お客さんからたまに技術的な質問も飛んでくるけど、正直さっぱりわからない
だいたいは先輩がテキパキ答えて、資料もサクサク作って、正直俺は言われたことをやっとかっとこなしていく(言われたことすらたまにできない)
「こんな環境から抜け出せるように努力したほうがいいよ」って先輩は言うけれど、抜け出してやりたいこともないし、なにより自分がなにもできないことが一番良くわかってるから、どうしたらいいかわからない
(ちなみに先輩は数年上と掛け合って部署変わるらしい)
あと10日で2年目になるなんて信じられない
大学院時代の成果で博士号取れるよ!って教授に言われたから後期課程に籍だけ置いてるけど、研究なんてやる時間ないし、ぶっちゃけ言われたことしかやってこなかったから、博士論文もどうまとめるか考えもつかない
なるべく多くの人に見てもらって情報、反応、反論等欲しかったので煽り気味に書いてるところはある。そこが気に障ったのならすまん。
まあ私の文章に煽りや売り言葉に買い言葉がないとは言わないのでそこはお互い様ということで。仲良くマサカリ投げあいましょう。
あくまで自分の見方を紹介しているだけで理系のやることが全て正しいとも思ってない。ただ理系では日本が一流研究をしていると誇る分野が数多くある一方で、文系の多くの分野で全体としては日本の学会は二流という嘆きが聞かれるのも確かだ(もちろんどんな分野にも日本人の一流研究者はいるだろうが)。
これ[要出典]ってタグ貼るべきところ? 私は最初の増田(anond:20180217012945)で(1つだけだけど)実例挙げたし、体験談ベースの話でよければ私の見た限りでは日本の外国研究ってけっこうレベル高いと思うんだけど。外国語に訳されても遜色ないモノグラフがたくさん出てる。
理系では著書でオリジナルな発見や研究成果を発表する奴はまずいない。いるとしたらほぼトンデモだと思って間違いない。文系増田が挙げてる怪しい医学博士とか。
文系では違うのか。正直文系のガチの研究書は見たことがない。三浦瑠麗の著書も調べてみたが、タイトルや値段を見る限り一般向けだろう。大学書籍部や図書館を探せばあったんだろうか。ただ(博士論文の出版等は除いて)著書で最新の研究を発表するというやり方は、どの部分に新規性があるのかの表明や議論の双方向性等に問題がないのだろうか?新規の研究成果なら第三者の査読を経て論文にするのが正統なように思えるが。数学の証明のように検証可能性が極めて高ければホームページで発表とかでもいいんだろうけど。
そこからか。何のために研究雑誌にBook Review欄があると思ってるんだ……(和文だろうが欧文だろうがたいていのメジャーな学術雑誌にはBook Review欄はあるし、場合によっては書評に査読がつくよ)。ていうか普通、序章とか第1章とかで先行研究の整理をするし(一般向けも混在するレーベルだと編集に嫌がられることもあるらしいけど)、そこで自分のオリジナリティについても言及するよな。
あくまで一例だけど、先日出た研究書の目次はこんな感じ→http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0871-6.html(適当なUniversity PressのHPを開いて適当な新刊をチョイスしただけなので、内容については何も言わないし、言えない。なぜなら私は読んでないからだ。あくまで「ちゃんと章立てに先行研究って入ってるでしょ」というサンプルとして受け取ってほしい。目次で明示されてないだけでちゃんと先行研究の整理をしている本もあるので気をつけて。それはそれとして面白そうな研究だと思うんで余裕があったら読んでみたい)。
駄目な研究は本として出版したってロクに引用されずにアカデミアから消えていくだろうし(もちろんあまりにマニアックすぎて引用するひとがいないという悲しい状況も有り得るのだがそういう場合は学術雑誌の書評でちゃんと良い研究ですよって言われてるからな。おべっか書評がないとは言わないけど、むっちゃ辛辣な書評も見かける)、まともな研究書なら議論の典拠は明示してあるんだから議論の双方向性に問題はないでしょ。
三浦瑠麗の著書、内容(https://www.iwanami.co.jp/book/b261983.html)を見る限りでは研究書ということでいいと思うけど。文系は割と凝ったタイトルつけるひと多いからタイトルだけで研究書じゃないと即断することはできないし(『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』も『〈日本人〉の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』も立派な研究書です)、値段についても、うちの分野の研究書の半額くらいの値段で売れて羨ましい限りと思うけど、それが研究書であることを否定する材料にはならない(ていうか一般書だとしたら3000円以上ってクソ高では)。国際政治学の一般理論みたいに需要がある分野ならそれなりに廉価でも採算取れるよね。研究書は別に専業研究者だけが読むものではないので、政治学者以外の教養人にも売れそうだと判断したらこのお値段になるのは別に不思議じゃない(逆にマイナー分野では……お察し下さい。売れない→高い→売れない→高いの悪循環でございます。学術成果刊行助成でなんとか刊行できてる研究がたくさんあるんだよなぁ)。気が向いたら図書館で実物見てみるわ。
何度も言うけど、中身は知らない。ひょっとしたらダメダメな内容かもしれない。でもそれは、査読通ったちゃんとした学術論文でも中身がショボかったりオリジナリティが希薄だったりすることがありうるのと同じで、ダメダメだから研究業績にカウントされないということにはならない。たとえそれがサラミ論文であったとしても、英語で書かれた査読つき論文だったらそれは業績としてカウントされるべきだよね。公募で採用されたり学術界で優れた研究者として認知されるためには内容が優れてないといけないし、こんなサラミ論文しか書いてないやつがなんで○○大の講師なんだ! という批判はされていいと思うけど、それはあくまで内容を見た上での話であって、形式だけを見て業績じゃないと言うことはできないはず。今回の元増田の批判が内容を見た上での話なら『シビリアンの戦争』を未読の私は何も言ってないし言う資格がないけど、理系増田も読んでなくて、ここではあくまで形式の話をしてるんだよね。形式の話をするなら彼女は学術業績としてカウントされるべき本を書いていますとしか言いようがない。
一般論からすると著書はオリジナルな研究業績であり得るが、逆も然りで著書は必ずしもオリジナル研究業績とはみなされないというべきなのでは。門外漢は著書数もオリジナル業績数とみなせという主張は言い過ぎだろう。
「著書はオリジナルな研究業績(でありうる)」「研究書は立派なオリジナルの研究成果」と私は書いてるよね? それで前段へのアンサーになってると思うし(そのうしろでちゃんと「一般向けの本」と「研究書」を分けて記述してるよな)、そもそも私は最初の増田(anond:20180217012945)で「新書2冊はおいといて」って書いてるので、“すべての著書”がオリジナルの研究業績なんて端から主張してないってことは読めばわかってもらえると思ってたんだけど(オリジナルな研究を書籍化したものを「研究書」と呼ぶわけだから、“すべての研究書”はもちろんオリジナルな研究業績です。一方で著書のすべてが研究書というわけではないので、“すべての著書”が研究業績というわけではありません。こう書けばわかるかな?)。
後段、著書はオリジナルの学術業績とはみなされないという理系のローカルルール持ち出して他人を業績が少ないと批判する方が言い過ぎでは。いやもちろん他分野の常識に詳しくあらねばならない必然性はないけど、他人を「業績が少ない」と批判する以上は他分野の「業績」の基準も知っておくべき、って、そんな無茶な主張? 文学でも歴史学でも政治学でも社会学でも教育学でも文化人類学でも哲学でも法学でも、おおよそメジャーな文系の研究分野ではだいたい研究書はオリジナルな研究業績としてカウントされるんだから(これは英語圏でも変わらないと思うよ。少なくとも私の専門分野や隣接分野では英語だろうがフランス語だろうがドイツ語だろうが韓国語だろうが研究書はオリジナルな研究業績です)、文系からするとその常識が通用しない方が非常識ですよ。理系のローカルルールを勝手に学術界の一般ルールに敷衍するのやめてもらえます?
院生だろうが単著で論文を発表するのがふつうの分野の人間からすると、理系では指導教授が論文の著者に名前を連ねるのか、変わった慣行だなぁ、って思うけど、それは理系の慣行なんだなとして受け止めてるし、この研究者は自分の学生の論文に名前を連ねて論文数稼ぎしてる! なんて主張しないよ(もちろんギフトオーサーシップは批判されるべきだけど、理系では自分が指導してる学生の論文の共著者になるのはギフトオーサーシップではないんだよね? このへん詳しくないので間違ってたらごめん)。分野が違うと業績のカウントの仕方も違うんだなぁ、って受け取っておけばいいじゃない。
その上で現在日本語の地位が低い分野や日本語でやる意義がまるでない分野まで、日本語で最新の論文を書いてもよい、あるいは日本語の地位を高めていこうなんていう理由がよくわからない。例えば挙げてくれた西洋古代史の最新論文を日本語で書くことに何の意味がある?日本全然関係ないのに?解説書や教科書は別だ。日本語で多くの人が学べることには意味がある。でも論文なのだとしたら欧米の研究者が読まなければ学問の進歩に乗らないんだからただの自己満足だろう。アマチュアの研究者だとしたらそれでもいいんだが、大学の研究者はプロだろう。国から研究費貰って英語が中心の分野で日本語しか書かないのは国民が納得しないだろうから税金泥棒としか言えない。
将来英語が中心じゃなくなることもありうるだろうという論を挙げているがそれは詭弁だ。理系だってラテン語から現代語への変化やドイツ語、フランス語の凋落を経ているが、最新の論文を主流の言語で書かない理由はない。(欧米の科学力を中国が圧倒的に上回ることは考えにくいが)将来中国語になるんだとしたらそれもいいだろう。もし仮に日本がその学問分野で覇権国家になるプランがあってそのためのリソースを投じているっていうなら別だけど、そうじゃないなら英語に圧倒的に負けてる分野はさっさと降伏して英語ベースにしたほうが世界中の学者のためになるし日本人が世界に認められる学問的成果をあげるためにも効率的だと思うんだけど。国際政治学についていえば英語圏の研究が中心だという知識は増田にもあって、反米主義だったり日本の世界覇権を夢見ていたりといった特殊な思想的背景があるわけでもない研究者が英語論文を書かないのだとしたら、怠慢あるいは研究の先進性の不足の誹りを免れないであろう。
これ最初にも書いたけど、主要国のアカデミアでは文系の研究の多くの部分を自分の国の言語でやってます。たとえそれが自分たちとは縁遠い地域のことだとしてもね。日本語と英語以外の言語で書かれた日本学の論文なんて日本人研究者はあまり読まないんじゃないかと思うけど、たとえばポーランド人はポーランド語で日本学の論文書いてるし(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006355425。ちなみに、このポーランド人みたいに、日本人の外国研究者がその国の言葉で日本での研究状況を紹介するっていうのは既にあちこちでやられてます)、それは日本のアカデミアで読まれていないとしても日本学の発展に寄与しポーランドのアカデミアを豊かにしていて、仮にポーランドで極めてオリジナリティが高い研究が出てきたら日本人の日本学者も何らかの方法でそれを読まないといけないだろうと思うわけですよ(別に自分で読む必要はない。他人に読んでもらえばいいんだから。翻訳ってそういうことだよね)。ポーランドのアカデミアは当然ポーランド固有の問題意識を持っているし、その土壌から日本にはない新鮮な日本観が生まれてくるかもしれない、という点で、色々な国のアカデミアがそれなりに独自の発達を遂げていることは重要だと思うけれども。
当たり前だけど西洋古代史の論文が日本語で書いてあっても最新の研究動向は反映されているわけ。書いてるひとは西洋諸言語読めるわけだしね。向こうがそれを読めない、または読もうとしないからといって先進性がないわけではない。読まれる/読まれないという尺度と研究が先進的である/先進的でないという尺度は別だよね? 混同すべきじゃない。そこにはちゃんと研究蓄積というものが存在しているんだよ。明治期以来、主要文系分野では日本語の分厚い研究蓄積がある。もちろんそこには西洋の猿真似だったり「横のものを縦にした」だけの研究もたくさんあるかもしれないけど、それらは日本のアカデミアを間違いなく豊かで質の高いものにしてきたと思う。
で、哲学の本場はドイツとかフランスとかイギリスとかだと思うけど(イメージが貧困すぎたらごめん。正直哲学のことはよくわからないんだ……)、日本人哲学者が優れた哲学書を発表すればそれはちゃんと英訳されてオックスフォード大学出版会から出版されていたりするのね(https://en.wikipedia.org/wiki/Kojin_Karatani)。これは日本語圏で外国人に読まれない研究を積み上げていても、良いものを書けば「日本の研究者面白いことやってんじゃん。翻訳して読んでみようぜ」ってなる実例なんじゃないかと。
根本的な話をするなら、「国際政治学」という分野の標準言語が英語である必然性はどこにもないわけだよね。それは英語圏で優れた研究が積み上げられてきた帰結であって、英語圏の人が自分たちの言語で研究成果を積み上げた結果それが参照されるべき言語になっているだけの話。要するに彼らは先行者利益を得ているわけ。現代思想の分野でフランス語が大手を振って歩いているのも、フーコーやその他の人たちがフランス語で優れた成果を書いてきて、それが受け入れられてきたから英語や日本語にフランス語の文献が訳されまくっているという現状がある。日本語がこの高みを目指してはいけない理由はないよね。
私はここまで書いてきたような理由で日本語で論文を書くのも重要な営為だと思う(加えて、執筆言語が自国語であることは東アジアや欧米の主要国の文系アカデミアとしての標準に則っているので、ことさら日本のアカデミアだけが批判される謂れはないよな、とも思う)。ただ理系増田がそれにどうしても同意できないなら、それを説得する言葉を私は持たないなぁ、とも思う。私の論拠はだいたい言い尽くしたので、執筆言語の問題についてこれ以上理系増田に答えようとは思わない。なんと言って終わらせればいいかわからないけど、とりあえず、お互い研究頑張りましょう。
なるべく多くの人に見てもらって情報、反応、反論等欲しかったので煽り気味に書いてるところはある。そこが気に障ったのならすまん。
あくまで自分の見方を紹介しているだけで理系のやることが全て正しいとも思ってない。ただ理系では日本が一流研究をしていると誇る分野が数多くある一方で、文系の多くの分野で全体としては日本の学会は二流という嘆きが聞かれるのも確かだ(もちろんどんな分野にも日本人の一流研究者はいるだろうが)。
理系では著書でオリジナルな発見や研究成果を発表する奴はまずいない。いるとしたらほぼトンデモだと思って間違いない。文系増田が挙げてる怪しい医学博士とか。
文系では違うのか。正直文系のガチの研究書は見たことがない。三浦瑠麗の著書も調べてみたが、タイトルや値段を見る限り一般向けだろう。大学書籍部や図書館を探せばあったんだろうか。ただ(博士論文の出版等は除いて)著書で最新の研究を発表するというやり方は、どの部分に新規性があるのかの表明や議論の双方向性等に問題がないのだろうか?新規の研究成果なら第三者の査読を経て論文にするのが正統なように思えるが。数学の証明のように検証可能性が極めて高ければホームページで発表とかでもいいんだろうけど。
一般論からすると著書はオリジナルな研究業績であり得るが、逆も然りで著書は必ずしもオリジナル研究業績とはみなされないというべきなのでは。門外漢は著書数もオリジナル業績数とみなせという主張は言い過ぎだろう。
論文の英語日本語問題についてはとりあえず冷静に原文を読んでくれ。
3本しかないので数が少ないと書いただけで日本語は業績に入れないとは言ってない。日本の学会で発表したり国内研究者向けに文章を書くのも意味がないわけではないことは知っている。そもそも三浦の業績もショボいと酷評しただけで全くないとは言っていないし。
それからここは誤解があったみたいだけど英語でないことは「国際政治学」だから批判しているのであって、日本中心で行われている学問なら日本語でも問題ないことは理系元増田にもわかっている。文系増田は動物学を例として挙げてくれているがああいうローカルな側面がある学問についてまで何でもかんでも英語に統一しろと言ってるわけでもない。アジア研究についても日本語論文が重要視されているということもよくわかった。
その上で現在日本語の地位が低い分野や日本語でやる意義がまるでない分野まで、日本語で最新の論文を書いてもよい、あるいは日本語の地位を高めていこうなんていう理由がよくわからない。例えば挙げてくれた西洋古代史の最新論文を日本語で書くことに何の意味がある?日本全然関係ないのに?解説書や教科書は別だ。日本語で多くの人が学べることには意味がある。でも論文なのだとしたら欧米の研究者が読まなければ学問の進歩に乗らないんだからただの自己満足だろう。アマチュアの研究者だとしたらそれでもいいんだが、大学の研究者はプロだろう。国から研究費貰って英語が中心の分野で日本語しか書かないのは国民が納得しないだろうから税金泥棒としか言えない。
将来英語が中心じゃなくなることもありうるだろうという論を挙げているがそれは詭弁だ。理系だってラテン語から現代語への変化やドイツ語、フランス語の凋落を経ているが、最新の論文を主流の言語で書かない理由はない。(欧米の科学力を中国が圧倒的に上回ることは考えにくいが)将来中国語になるんだとしたらそれもいいだろう。もし仮に日本がその学問分野で覇権国家になるプランがあってそのためのリソースを投じているっていうなら別だけど、そうじゃないなら英語に圧倒的に負けてる分野はさっさと降伏して英語ベースにしたほうが世界中の学者のためになるし日本人が世界に認められる学問的成果をあげるためにも効率的だと思うんだけど。国際政治学についていえば英語圏の研究が中心だという知識は増田にもあって、反米主義だったり日本の世界覇権を夢見ていたりといった特殊な思想的背景があるわけでもない研究者が英語論文を書かないのだとしたら、怠慢あるいは研究の先進性の不足の誹りを免れないであろう。
小保方氏がSTAP細胞に関する論文でやらかしてから4年、博士号取り消しの処分が決定してから2年以上の歳月が流れた。
小保方氏がメディアを悪い意味で騒がせていたちょうどその頃、僕は東京大学を受験したものの点数が足りず、合格を貰っていた早稲田大学の某理系学科への進学が確定的となっていた。
世間とマスコミは小保方氏と早稲田をぶっ叩きまくっていた。ガバガバ博士論文を通した早稲田はクソ、コピペ改ざんの小保方氏はクソ、STAP細胞は存在しない!( ー`дー´)キリッみたいな感じで、受験に失敗した結果早稲田への入学が決定していた僕にとっては追い打ち、死体蹴りでなかなかの真顔案件だった。
「うるせぇ有象無象共!このまま早稲田が叩かれまくって僕が就職するときに『ええ?あの小保方さんの早稲田?』みたいなこと言われて不利になったりしたらテメェら責任取れるのかクソが!!」と大いに荒れていたことを今も覚えている。
話の本流からは逸れてしまうが、バッシングの果てに尊い人命が失われているし、人権侵害級の話もあったのでそのあたりについては壁に手をついて俯いた猿のごとく反省して頂きたいとは思う。とはいえどうせ反省を促してもマスコミは絶対に反省しないで今後も似たようなことを繰り返すし、叩いた民衆は自分が叩いた自覚を持って無くて全く反省しないだろうから無意味だとは思うが。炎上している誰かを叩いているとき、それはそれはきっと気持ちがいいのだろう。大義名分も自分にあり、多数のうちの一人であって責任はほとんどない。さぞ楽しかろう。そういう奴が無自覚に人を殺し、人生を壊したりする。
話を本筋に戻そうと思う。
あれから4年間を早稲田大学で過ごしたが、小保方氏の事件はまあそれなりに早稲田に反省を促したように感じた。
いつ頃だったかは忘れたが、小保方氏の学部時代の所属学科である応用化学科の実験レポートで剽窃が発見され、かなりの人数が罰則を受けたと噂で聞いた。
理系における実験の重要度は他の講義の比ではなく、実験の単位を1つ落としてしまえばその他全ての単位をきっちりと取っていても5年生コース(早稲田では4年生を2回というようなことは無く、『留年』すると5年生とか6年生になる)が余裕で見えてくる。剽窃発覚だと半期の単位取り消しと停学がセットでひっついてくるので、ほぼ確実に留年である。
応用化学科は小保方氏以来、随分とそのあたりが厳しくなったという話だったが、それを裏付けるように大量BANの話が出てきたのでなるほどなぁと思った。
卒業論文を提出する段階で知ったことだが、早稲田大学では過去の早稲田内のレポートや様々な論文と類似度を数値化し、ちゃんと自分の手で書いたレポートかをチェックするシステムが稼働しており、インターネット越しの提出窓口から提出すると自動でそのチェックがかかることになっている。このシステムに引っかかってしまうと随分まずいことになるらしいが、実際どうなるのかは分からない。ただ研究室の教授が相当めんどくさそうに言っていたので、まあそれなりにやばいことになるんだろうなと思う。早稲田なりの再発防止策、なのかもしれない。実際いつ頃から稼働してるシステムなのか知らないので断定はできないが、今の早稲田では剽窃はなかなかにハードルが高い状態になってると思う。
データじゃなければなら余裕で剽窃できるという話はあるが、実際に応用化学科の実験レポート(基本紙で提出)で剽窃が発覚してる例もあるし、その後も似たような話をちらほら聞いているので、抱えるリスクと得られるリターンをまともに考える頭があれば剽窃はしないという結論に至るような状況だとは思う。
コピペで博論通った件も、「科学における論文」というのが多分に性善説的に構築されているところがありその穴を突かれた感じなので、今のように定期的な見せしめBANと性悪説的なシステムを稼働させて威圧するというのは効果的だと一学生としては感じている。
ただまあ、学生の間では過去レポが出回っていることは事実だしそれを参考にして文言や順序を大きく変えて要旨を保つという方法ならシステムには引っかからないようなので、もう何かNARUTOの中忍試験編であった「カンニングするならバレないようにやれ」の試験みたいになってきている感じがしないでもない。こういうのはもう原理的に防ぎようが無い。早稲田に限らず慶応だろうと京大だろうと東大だろうとムリだ。まあ自分の言葉で再構築できる程度に理解してるならOK感がしないでもないし、難しいところだと思う。
今はもう存在しない器具名をレポートに入れてしまう、文言が同じ、データが完全に同一、誤字脱字のタイミングが同じ。そういう頭湧いてるレベルのアホみたいなことをやる奴は少なくとも排除されて、それなりに労力をかけた人が馬鹿を見るような状況ではないので、まあ良いのかなと個人的には思う次第。
早稲田は随分と頑張ったと思う。
コメントを見て、大事なことを書き忘れていたことに気付いたので追記を。
あの事件を受けて学生が剽窃パージに怯えつつ暗く沈んだ学生生活を送ったかというと全くそんなことはなく、この事件を時折ネタにしつつたくましく生きていた。
狩野英孝の「スタッフ~~~~!」のネタになぞらえて「スタップ~~~~!」と叫んだり。
明治大のサークルで愚か者が酒に薬を入れてやらかした件や東大で愚か者が女性に下劣な暴行を働いた件などの折、「さーて、どこまでマスコミで騒がれるでしょうか!!目指せSTAP超え!!」などと騒いでみたり。
論文を読んで英語で発表するという課題で、STAP細胞やその後の懸賞論文を持ち出してきて発表してみたり。
STAP細胞のコスプレをした者も居ると聞いた。上記の若干寒い内輪ネタの数々ならまだ理解できるが、こればかりはあまりにも意味不明過ぎて首をかしげたことを覚えている。
「小保る」等という謎の単語が生じていたが、どうも意味は「剽窃がバレて大学から罰則を食らう」という意味らしい。
その他にも、話の流れの中で自虐ネタとして使われたりもしていた。
かのスーパーフリー事件、早大生「あー・・終わったー・・」捜査官「終わってねぇよ」で有名な早大生による大麻栽培摘発などと並び、早稲田の恥ずかしい歴史に名を連ねてしまったこの論文不正事件だが、『きちんと真面目に剽窃などせずレポートを書いている学生』にとっては話のネタ程度のもので終わりそうだ。
早稲田の大学当局は反省した。しかし学生は反省していない。当たり前である。一部を除き大多数の学生は丸ごと剽窃等というアホみたいなことはしないから関係のないことだ。僕に限れば、自分がしたことではなくかつて同じ学び舎に居た誰かと大学が過去にしでかした件のせいで、大学以外の帰属コミュニティで多かれ少なかれ色々言われたことで、薄いながらもむしろ反感のような感情すら持っていた。「は? 僕関係ないんだが。自分が入学した時点でとっくに卒業していた奴の話なんか知らんがな」という感じである。現在に至っては特に何の感情も伴っていない。「そんなことあったね」と微笑みつつ日本酒を飲むだけだ。
帰属する組織やそのかつての構成員のうち何人かが何かをしでかしたことで、組織のみならずその組織の人員までもが色々と悪様に言われたりする事例は枚挙に暇ない。
「そういう人間を育てた大学なんだから、お前もそういう風に見られて当然」と言う人が居る。
恐るべき暴論である。つまり早大生は全員スピリタスで女性を酔わせ強姦し大麻を栽培し革マル派に属し論文はコピペで提出する人間として見られることを受け入れろということである。他の大学も同様に、例えば東大生は全員所属組織の講堂を実力で占拠し全員女性の局部にドライヤーをあてる人間として見られることを受け入れろということであるし、慶大生は集団で女性を強姦し父親を刺殺する人間として見られることを受け入れろということである。名大生はもっと凄い。同級生にタリウムを盛り女性を斧で殺害する人間として見られることを受け入れろということである。頑張れ名大生。
悪質な組織に所属しているからその構成員が悪影響を受けるというのは、一部は正しい。暴力団やブラック企業というのはまさしくその典型であろうし、もっと卑近な例で言えば毒親が居る家庭というのもその1つだろう。
大学はどうか。日がな一日遊び倒すような人間が育ったり一部のアホ共が増長する程度には大学名による謎の権威があることは否定できない。だからこの面で大学の悪影響というのは認めるところである。しかし、全員がそうではない。
暴力団を辞めて反省し必死で正業で生きていく者が居る。ブラック企業を辞め、新たなブラック企業を生み出しかねない染まりきったブラック企業的思考を改めて新しい環境で邁進する人が居る。毒親を反面教師として良い親であろうと心がける人が居る。
大学も同じことで、愚か者がテレビを騒がせる一方、真面目に勉強して真面目に研究して、世界に通用する成果を生み出す人や、大きな企業に就職して働いて社会に貢献する人や、新しいサービスを考え出して会社を起こし、新たな価値と雇用を創造する人が居る。
当たり前のことではあるのだが、人や組織が何かをしたとき、それだけがその人や組織の全てではない。良い面も悪い面も持ち、多面性を持つものだ。
かつて何かしらやらかして早大の名に傷を付けた人も居るが、長期的な目で見るとそんなことを歯牙にも掛けない程に早大の名に(結果として)箔を付けてくれた先人達が居て、今の早稲田がある。
早大生は今日も元気に学んで研究して、アルバイトして税金を払って、遊んで色んなところでお金を使って経済に小さいながらも貢献し、そして高田馬場でゲロを吐いて地域のネズミと鳩をせっせと育てるのである。
業績については「研究者としての実績」に絞ってとりあげた。ただ文系若手研究者増田とは、「研究」の捉え方自体が随分違うようだな。
文系でも同じですが。研究という営みの本質は文系も理系も変わらんでしょ。お作法がかけ離れているから相互理解が難しい局面があるだけで。一部の理系研究者の「お前ら文系は研究とは何なのか正しく理解していないのかもしれないが~」みたいなナチュラルな上から目線はほんと何なの?(あと、仮に百歩譲って理系と文系で「研究」の本質がまるで違っていたとして、なんで問答無用で理系の方が標準的であり正しいものなのだと思えるの?)
もちろん理系でもレビューや著書を書く人もいるが、それを皆がありがたく読むのはその人が最前線で研究をしていることが前提だ。
いや、レビューがオリジナルな研究業績じゃないってのはその通りだけど、著書はオリジナルな研究業績(でありうる)っしょ? 何度も言うけど三浦瑠麗の論文や著書は読んでないので、どのくらいオリジナリティがあるのかは知らない。ただ文系では研究書は立派なオリジナルの研究成果だ。博士論文の書籍化なんてその典型。もちろん一般向けの本とかを書くひともいて、一般向けと専門向けの中間みたいなレーベル(典型的には講談社選書メチエみたいなやつね。パンピー向けの概説書とガチのオリジナルな研究成果が混在してる)もあるから、そこにはグラデーションがあるわけだけど、著書がオリジナルな研究成果じゃないというのは不当な言いがかりでは。
ひょっとして文系の研究書とか見たことなくてどんなことが書いてあるかイメージ湧かない?(いや別に異分野の研究書を読んだことないのは悪いことじゃないけど、実物を知りもせずにイメージだけで語っていいんですかね、「理系」ってのはずいぶんと気楽なもんだ、と嫌味のひとつも言いたくなる)
だから、私そこは否定してないよね? 三浦瑠麗個人の研究者としての資質をあげつらうならどうぞご自由に。私だって彼女が政治学者として素晴らしいなんて微塵も思ってないし、私の知ってる(まっとうな)政治学者で彼女を学者として評価してる人なんて見たことない。でも和文は業績じゃないかのように扱うのはやめてね、っていうのが私の指摘の趣旨ですよ。彼女の雑誌に書いた文章が全部レビューだってのは、ブコメでkyo_juさんが指摘したことであって、元増田は最初「和文しかない」ことを問題にしていたよね? そう言われたらそりゃ「和文でも立派な業績になりうる」と反論するに決まってるでしょ。「言語を問わず、レビューしか書いてないなんて研究者とはいえない!」という主張ならなんの異議もなかったよ。
いずれにせよテレビの研究者枠にはもっと実績積んでバリバリ研究している(あるいは過去にした)人を呼んだらどうかという話にはなる。
そこに関しても私はまったく否定してないよね。和文論文は研究業績であり、また共著が研究業績としてカウントされないことは不当である、と言ったけど、三浦瑠麗の業績が学振PDや東大講師、あるいはテレビの出演者にふさわしい立派なものである、とは一言も言ってない。あんなのを東大講師にするなら私の先輩たちに職を用意してやってくれよ、と思うし、テレビに出ずっぱりの「学者」がマトモな学者だった試しなんて滅多にないよね、とも思うけど、そんなの私や「文系」あるいは「政治学者」に言われても知らんわ。東大の人事は東大の問題だし、テレビがロクに論文書いてない若手を連れてきて「社会学者」や「政治学者」としてチヤホヤするのはテレビの問題、言論人として活動してる人を肩書だけ見て研究者と誤認するのは視聴者のリテラシーの問題でしょ。理系の学位や肩書がそういう怪しげなショーバイに一切利用されてないってんならともかく、現実には医学博士号を利用してニセ科学撒き散らしてるひととかいるよね。アカデミアが自由で開放的な性格を維持していく上では、アカデミアのハクを利用してそういうことをする人たちが出てくるのはどうしても避けられないんじゃね、って私は思うけど(まあ、アカデミアでは全然相手にされてませんよ、と表明する責務くらいはあるかもしれないけど、それはもう色んなひとがやってるよね)。
文系増田は日本の研究者の日本語論文が読まれないことの解決策として日本語論文の良さを英語論文内の引用でアピールするという案を提案しているが、理系から見たら不効率極まりない。一つの研究分野に標準言語がいっぱいあったら世界中の学者が言語習得に苦労するだろう。
うんだから、文系の研究者が色んな外国語を勉強してるのはそういう事情があるわけ。たとえば西洋古代史を研究するんなら、まあ英語に加えてフランス語とドイツ語の研究文献を読めないと話にならんわなぁ。一つの研究分野に標準言語がいくつかあるのは文系だと割と普通で(古代や中世に関する研究だと権威ある学術言語がいくつもあってどれかひとつに決められなかったりするし、複数国にまたがる地域や事例を対象にしている場合なんかは一意に定めることが不可能なのは流石にわかってくれるよね?)、その中で日本語の地位が低いことをどう捉えるか、だよねぇ。
これに関して、日本語を諦めて別の言語で書くべきだ派と、日本語の地位を高めていくべきだ派と、日本のアカデミアを最優先に考える派(これが実のところ多数派だろうねえ)がいるんだなと私はぼんやり思ってる。私が見ている範囲では、現代日本の文系研究者の多様性は、アメリカやイギリスほどじゃないにせよフランスやドイツやロシアとは肩を並べられる水準にあるんじゃないかな。日本史や英文学からアフリカの人類学、オセアニアの少数言語、中央アジアの歴史、とあちこちの分野に手を伸ばしていて、アメリカ人やフランス人やドイツ人がそうできるように、自分たちの言語でそれらの分野の最先端の研究成果を手にすることができる。東アジアや中央アジアからは、自国のことを研究するために日本に来て日本語で博論を書いて自国で教授になるひともいるんだよ。これは、欧米人が読めない・読もうとしないってだけで捨て去るには勿体無い環境だと私は思うけども。
もちろん、日本研究を専門としていない欧米人に日本語をわざわざ読ませるのは難しいだろうけど、たとえば日本の論文につけられた欧文要旨なら彼らは読めるし、和文で書いたものを翻訳して欧米人にも読めるようにしている研究者だっている。どうやら俺らには読めないがチェックすべき先行研究が日本にはたくさんあるようだ、と彼らが認知すれば、いずれ彼らの側から、じゃあ日本語読めるやつに翻訳してもらおうとか、そういう話が出てくるかもしれないし、せめて「読んでないけどこういう先行研究があるらしい」と書かれるようになるかもしれない(これは重要なことだよ。「気づかれない」と「読まれない」はぜんぜん違うんだから。この辺はウンベルト・エーコが書いてたな)。地位向上って、そういう積み重ねの上に成り立つものだと思うんだよね。
こういうプロセスって、文系だけじゃなくて理系にもあるよね。たとえば、優れた魚類学の論文はアメリカ人が日本語を翻訳してまで読みたがったとか、和文論文をチェックしなかったせいでアメリカ人が大損こいたとか(http://shinka3.exblog.jp/8059554/)。それに英語が標準言語になったのは、せいぜいがここ半世紀程度の流れにすぎない。その前はドイツ語とかフランス語とかロシア語とかも有力言語だったけど(たとえば、ちょっと前にサザエの新種記載がされたときは、18世紀のフランス語の本が引用されてたよね→https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id468.html)、英語が頭角を現してきて残りの言語は標準言語とは見なされなくなっただけで、別に昔からずっと英語が標準言語だと決まっているわけじゃないし、今後もそうなるとは誰にもいえない(数十年したら欧米人が中国語で作文するようになるかもね。そうなったら英文業績しかない人が「中文で論文を書いてないなんて!」と馬鹿にされたりするのかな)。日本産の動物種の研究だと英語論文に和文論文が引用されてるのもちょくちょく見るし(網羅的にたくさん読んでるわけじゃないので、私の錯覚だったらごめん)、標準言語が統一されてないとダメだ! というのは近視眼的見方だと思うけどなぁ。
いくら書いても読まれないんじゃ意味がない、という元増田の感覚はわかるんだよ。というかそれは文系の研究者にとっても当然のことだと思う(そりゃ全員が意識高いわけじゃないけど、それは文理問わずだよね)。繰り返すけど最近の若手研究者には外国語で積極的に発信しているひとが大勢いる。ただ、日本国民1億人が最先端の研究成果を自分たちの言語で読めて、どんな地域の研究だって自分たちの言語で遂行できる、という環境が、無意味なこととは私は思えない。増田は、日本にまつわるテーマなら標準言語が日本語でもいいんじゃないか、と言った(これは良い感覚だと思うので大事にしてほしい)。でもたとえば、ツキノワグマの研究はホッキョクグマやマレーグマの研究と繋がっているよね。日本史を研究する上で西洋史で探究されてきた研究モデルや概念が意味を持つことだってある。国文学だって世界文学の中に位置づけられる必要があるだろう。外国の政治についてなんの情報もなしに、自国の政治改革ができるだろうか? 外国の失敗や成功についてしっかり学ぶためのツールは必要なんじゃないか? ジャーナリストや政治家が欧州統合やアフリカ経済やアメリカ大統領選について勉強しようと思ったときに、日本のEU研究者やアフリカ研究者やアメリカ政治研究者がみんな英語で論文を書いていて、日本語にはあっさりした概説書しかない、というんじゃ、不便じゃないのかな。そういう意味で、日本語による研究発表は、世界で読まれていないのだとしても、社会貢献としての意義はけして小さくない、と私は信じてるよ。
バンザーイ!とかやってやったぜという気分は皆無で
しかしながら,他大学にうつり,ポスドクや特任助教を経験するうちに
自分のあのときの悩みも無駄ではなかったなと思うことがあります.
誰からもサポートされない状況で3年間向き合い,自分の実力と限界を知る,
ということは天狗にならずにその後の研究人生を進める上で私に取っては大切でした.
その苦労の甲斐あってか,理由はわからないのですがポスドク以降は
(本当に理由がわからないのですが,気付かぬうちに能力は付いていたのでしょう)
若手には珍しい大型予算を30代前半で得られ,
様々な人的ネットワークの中で自分の研究が面白いと評価されるようになりました.
おそらくあなたや私が思ってる以上に,PIが博士論文をサポートしている研究室が多く,
素晴らしい博士論文を提出した研究者がその後パッとしないのはそういうことが原因ではないかと思います.
(もちろん本物の天才もいるので注意)
かっこつけるために研究をやっているわけではないでしょう?
博士号はあくまでスタート地点,いわば研究者の一人前の証であり,またその程度のものでもあるわけです.
かっこつけず自分の現在の立ち位置を認識して,学位を取られたわけですから,
次の成長のために,つぎの3年間,5年間,何をするのかを考えながら,
周囲の誰にも話せないので、誰も見ていないかもしれないが、ここにツラツラと書く。
出来の悪い駆け出し研究者の戯言だが、誰かが聞いていてくれたら嬉しい。
身バレは怖いので、専門分野は伏せさせていただく。
正確には、まだ微修正や製本作業があるので、学位授与は2ヶ月ほど先だが。
ブラック気味の所属研究室からも抜け出せるし、次のポストも任期付きだが決まっている。
結婚、の予定は無いし恋人も居ないが、ずっと放置していたプライベートも少しは充実できるだろう。
しかし、実際に終わってみて、期待したような達成感や開放感は全く無い。
それどころか、非常に後味の悪い悔しさばかりに捕われている。
あまりに虚しく、情けなくて、もう3日ほど布団から起き上がれない。
私の博士論文は、とても酷い代物だった。
「3年(あるいは5年)間の研究の集大成」ではなく、「研究者としての第一歩」にもならず、
非常にせこく、下品で、信念が無かった。
こうなったのは当然で、自業自得だ。一貫した研究をやって来なかったのだから。
博士課程の研究とは、(人によっては修士課程からかもしれないが)
「1つの大きな研究プロジェクトを立て、試行錯誤しながら遂行する」
博士課程において(おそらく)一番重要な、「1つの大きな研究プロジェクトの構築」が出来ていなかった。
長期的なゴール設定も無いまま、目の前の課題に盲目的に取り組み、とりあえず日々忙しいからと慢心していた。
なまじ、目の前の課題は山ほどあったので、散発的にでも小さな成果が出れば、研究したつもりになれた。
本当は「個々の課題が、より大きな研究計画の中で、どう位置づけられるか」こそが重要だったのに。
私は問題の本質から目を逸らし続け、そのまま博士3年の後期まで至ってしまった。
10月後半、いよいよ問題から目を逸らせなくなった時、私の目の前にあったのは
「複数の、脈絡ない研究課題の、小さな成果の寄せ集め」だけだった。
個別の成果だけでは小さすぎて博論にならないし、全体を包括するストーリーは存在しない。
分かりやすい業績(論文等)が出ている話を掻き集めて、後付けでゴールを作った。
つぎはぎだらけの代物に、博士論文とタイトルをつけて提出したのだ。
元々興味があった話題は、切り捨てた。十分な成果が出ていなかったから。
私のこれを博士論文と認めて良いのか、自信が無い。
なんて、取り返しのつかない事をしてしまったのだろう。
恥ずかしくて、情けなくて、泣きたいのに涙も出ない。
それでも、博論の提出条件(論文数など)に適っていたから、私は合格を頂いた。
私のこの学位は、半分以上「お情け」で与えられたものだと思う。
これを誇れるだろうか。
博士号とは何だろうか?
「自分が一人前の研究者であり、1つの研究プロジェクトを完遂させられる人物である」
お情けで頂いて良いはずがない。
恥ずかしい。悔しい。
それでも、頂いた博士号を返却する気はない。(もっとも、取り消し以外でそんな制度は無いが)
見切り発車で学位を頂いてしまったのなら、これから「博士号」に見合う人物になるしかない。
しかし、なれるだろうか?
私なんかが、3年かけて1つの研究プロジェクトも成し遂げられなかった人間が、この先一人前の研究者になれるだろうか。
いっそ、怠けていたら幸せだったと思う。
少なくとも、怠けた故の失敗なら言い訳ができた。本気を出せば良かったのだ、と。
私は、方向性の正誤はともかく、言い訳の余地が無いくらいには必死に頑張ってきた。
その結果がつまらないものだったのだ。一体どう受け止めれば良い?
努力したからえらい、結果よりプロセスが大事だ、なんて言えるだろうか?
私は言えない。
私は非常に、信用できない奴だ。
でも私には、こんなに信用できない自分くらいしか味方が居ない。
今後も、この胡散臭い研究者もどきを信じて、地道に努力を重ねるしか無い。
そうして度々、期待を裏切られては失望して、潰れて、また立ち上がるしか無い。
他に、私に選べる選択肢など無いんだと思う。
自分に失望した分、他者を失望させてしまった分、この先結果を出していくしかない。
一人前の研究者に、なれるか自信はないが、なろうと努力するしかない。
結果はすぐには出ないから、きっとまた暫くは、挫折感や敗北感とのにらめっこだ。
失った期待や信頼は、一朝一夕には取り戻せないし、そう簡単に一発逆転は起きない。
また1つ、恥を上塗りしてしまった。
しかし、挫折や敗北から這い上がることだけは、幸か不幸か慣れている。
博士号に見合う研究者たるべく、今回の反省点を、今後に繋げていこう。
私はきっと自分に甘いし、世界は私に甘くないから、今後もっと苦しいだろう。
それでも、頑張る。
3日も泣いて寝込んだ。
都内私立に入学して「大学教授」と呼ばれる職業の人たちと出会い、憧れ、あんな風になりたいと思った。どうすれば大学教授になれるのかと思い、職業ガイドみたいな本を読んで、博士号を獲らないとなれないと書いてあった。姉に話すと猛反対され、就職することにした。猛勉強をして新聞記者になった。給料は良かったし、いわゆる「社会的地位」も高い。どこへ行っても「記者様」扱いをされる。でも、この仕事に興味は湧かなかった。新聞記者になればどんな有名人にも会える。総理大臣にも会える。権力が好きな人に新聞記者は向いている。自分はそういったことに興味はなかった。偉い人に会いたいとか、有名人に会いたいとかそういう欲求が少なかったから、新聞記者の仕事に夢を感じなかった。出世することにも関心はなかった。組織の中で上に行くことにどういう意味があるのか、それで心が満たされるのかと言えば、そんな風には思えない。多分、自分は変人の部類に入るのかも知れない。いわゆる「お勉強」が好きだったし、多分「お勉強」しか向いている分野がなかったから、社会人としてのスキルとかそういうのは身につかなかったし、身に着けたいとも思わなかった(社会人失格とか、社会不適合とか言われれば、受け入れる)。多分、大学の自由な雰囲気が好きで、そこに身を置きたいという欲求だけが続いたんだと思う。
30代になって会社を辞めて「お勉強」する目的で海外に留学した。最初は語学学校で、そのあと修士課程に入って、博士課程に入って気づくと40代になっていた。博士号はまだ獲ってないし、お勉強と研究は別物なので、実はあんまり研究には向いていないのかも知れないけれど、博士論文のテーマは一応決まったし、想像していなかったようなきっかけで研究予算をもらえたので、「研究しなければならない」という逼迫した立場になったけど、研究については今まで怠けていたとも言えるので、自分を訓練するいい機会になったと思って毎日資料を読んでる。
留学を始めたばかりのころは新聞社の給料が良かったから貯金がなかなかの金額になっていて、それで賄えた。修士課程、博士課程では返さなくていい奨学金がもらえた。運が良かったと思う。今は奨学金はなくなって、貯金も底をついたけど、大学で非常勤で何コマか担当させてもらえるようになって、大学生と同じか、それよりもうちょっといい生活ができる。40代の収入としては笑えるほど低くて、普通の人なら絶対にやらないと思う。大学で大学生相手に仕事をしていれば、自分の生活水準が低くても気にならないから自分は収入の低さはあまり気にならない。非常勤の講師でも初めて講義をさせてもらえた時は感動した。自分が大学生だった時に憧れた職業の最底辺の隅っこの下座も下座とはいえ、入り込めたと思うと泣けてきた。あと、口座に「給与」が払い込まれることにも泣けてはきた。「給与」を受け取るのは、新聞社を辞めて以来のことだった。最近、担当するコマ数が増えた。体力的にはそれだけ厳しくなるけど、生活費は楽になる。大学生と同じ生活をするのなら、少し貯金できるかもしれないくらいにはなった。後で聴いた話によると、少子化なので今後は新規の採用はしない。とのことで、それでも時々辞める人はいるから、結果として今すでに隅っこに入っている自分に担当が回って来たということらしかった。運が良かったと思う。もうちょっと遅く博士課程に入っていれば、非常勤の講師にすらなれなかった。非常勤の講師はアカポスとすらも言えないくらいの立場だけど、自分はそれになれたということにやはり今書いていていても感動してくる。
40代の大学の非常勤講師といえば悲惨な人生の典型例のように言われる。無駄に高学歴で、驚くほど年収は低く、いつ切られるか分からないからだ。そういうのが悲惨で耐えられないという人は、大学院には行かない方がいい。理系は企業に雇ってもらえるけれど、文系博士は大学の教師になる以外に道は残されていない。文系の博士には「著述」という道はあるけど、著述はけっこうしんどい上にあまり金にはならない。それでもいいやと思える人にしか勧められない生き方だけど、自分は大学という場の雰囲気に馴染みやすいと思うから、それでもいいやと思える。教授様になれるとは思っていない。老後のことも分からない。ある人は「詰んでいる」と言うかも知れない。でもやっぱり新聞社にいるより、今の方がいい。姉の反対がなければ人生の途中で新聞社に就職することはなかったと思うし、それがなければ学問の世界のキャリアをもっと積むことができて、もしかしたら教授様も狙えたのでは...と思うこともある。でも、会社を辞めて自分の願望を目指したのは次善の策だったと思う。あと、新聞社にいた時は贅沢な生活はできた。でも、今の生活の方が自分の好きな空間にいられる分、別の意味で贅沢できていると思うし、美味しいものを食べたり、高い服を買ったりするのは若いうちにさんざんやったので、今はあんまりそういうことにも興味はない。贅沢は若いうちにやっておいた方がいい。年を取ると無駄に目や舌が肥えて来るので、無駄な贅沢をしてしまうと思う。若いうちに贅沢しておけば、飽きが来るのでちょうどいい。
今後のことだけど、取り敢えず博士号は獲っておきたい。その後のことは分からない。いずれ帰国したいとも思う。帰国してアカポスに就けるほど甘くはないと思うから、生き延びるという点では今の大学にしがみつき続けるのがベストなのかも知れないけど、もし切られたら帰国するしかないなあとも思う。帰国したらどうしようか...ということは全く分からない。先が見えないという意味ではしんどい生き方かも知れない。でもやっぱり、牛のようなのろい歩みでここまでやれたことは正直に嬉しい。
単純な話、日本の研究の質が落ちるのは、結局そのベースとなる家庭に問題を求めるべきなんじゃないのかって思う。
家庭に於ける可処分所得が増えれば大学院に行く人も増えると思う。
こう言えば必ず「どうでもいい程度の非難」があるけど、そこからキラリと光る批判を拾いたい。
物事は複雑だからこそ、まずは単純化して考えるのがベストだと思う。
人間なんて複雑な問題を複雑なままに問題を解けるほど賢い奴らばかりじゃない。
だから単純化して、そこからifを考えて肉付けを行っていけばいいと思ってる。
まず教育を十分に得るためには親ないし自身における十分な収入が必要で、例えばそれは仮想通貨のマイニングをするコンピューターの質と同等な気がする。
単純に考えて、性能の高いコンピューターに投資できる資本があれば、仮想通貨をマイニングできる量も増える。
塾や予備校、あるいは有名私学に入れる資本があれば、高度な教育を受ける機会が増える。
有名私立に入るのは学力が必要だって言われるけど、その学力を得るのは独学的な個人の力だけじゃ叶わない。
個人の考え方なんていうのは、その人を取り巻く人たちの束のようなものなんだから、その束が貧相であっては学力なんて望めない。
これを読んでいる人の中で、自分だけの本当のオリジナルの考えを持っている人なんて0.1%もいたら驚きの数字だと思う。
ほとんどが誰かの影響を受けていたり、誰かの公式を使ったり、誰かの理論で武装したりしているはずだ。
その束を肥やさんがためには、結局のところ金を払って優秀な束となり得る人材を集めなきゃならない。
たとえば、超が5つ付きそうな程の敏腕プログラマーが慈善事業のような最低賃金でマンツーマンで教える?ないない。
教育にしても、マイニングにしても、どちらも少ない資本でチマチマやっても無駄なことに間違いはないと思う。
世の中は「金」だ。
日本の論文数の低下云々は経済的な問題を是正すれば改善が見込めると思う。
大学事務局員から言わせてもらえば、大学だってコネだけの教員も雇ってやらないと面倒なことになる。
金で避けられる不幸があるんだったら、それはしかるべきだろう。
クソコネ教授なんて首を刎ねて若手を雇えっていうのは筋違いで、クソコネ教授も使いようではいい出汁は取れる。
存在しているだけで、会話するだけで人を苛立たせる才能があるクソコネ教授は正直消えて欲しいとは思うけど人脈は財産だ。
私の知り合いで、訪日した途端に旧帝大大学院の博士に行って、今や地方の大学で教授になっている。
博士論文の流暢な日本語、難易度の高い漢字の羅列があるのに、メールなんてカタカナと平仮名しか入力できない。
ましてや未だに日常会話に於いてすら「それなんて意味ですか?」といった次第だ。
英語ができる?アブストには流暢な英語が書かれているけど片言英語のアジア人だよ。
こんな状況は全く不思議な現象なんだけど、結局はそこの国とのコネが必要だから仕方ないね。めちゃくちゃ腹立たしいけど。
財産には負債も含まれるわけで、必ずしも良いことばかりじゃないのは推して知るべし。
そうそう、若手の研究者の不遇が話題になってるけど、結局そこに至れる人ってのは既に結構恵まれた人な気がする。
少なくとも漠然とした考えで、独自の問題意識を持たなくてもなんとなく院に行く人なんて特に。
博士課程まで行くのに一体どれだけの金が必要なのか分かってるとは思うけど、それを回収できるかできないかは別の問題だと思う。
今や通信教育でも博士号を取得できる時代、量産される博士の全てが優秀なわけでもなく玉石混交だ。
「通信教育 博士号」でググったら、それなりのサイトは出てくる。
それらの博士たちにも回収できるメリットを必ず与えよというのであれば、結局は生まれた時から恵まれた人の大勝利に終始する。
結局は通信制の大学院であっても結構な学費は要するし、地方ともなればスクーリングだけでも結構な出費となる。
バイトとか奨学金とか、大学院に行くための学費をどうするのかってことに対して色々なことを言う人はいるだろう。
だけどバイトをして学業に投資できる環境があるというだけで十分な勝ち組だ。
バイト代が親の介護に消えざるを得ない人たちの多いこと多いこと。
親のために働いて昼は大学生なんていうのも。
そういう学生は経験則で言えば得てして成績は悪いし、仮に頑張って院まで行ったにしても有象無象の類で終わる。
そういう有象無象の類も「若手」なんだけど、それを教授職に据えるのがお望みなのかしら。
奨学金を得られるほど努力しろと言う人は、奨学金を得る努力をしなくても院に行ける人たちとの資本の差は問題にしない。
資本が豊かである人は、奨学金の奪い合いという不毛な戦いをしなくてもいい、すでにシード権を得た特別な存在だ。
借金して学費を捻出できるのだって信用力が必要だし、その信用は結局は「金」だ。
自分もあなたと同じく、最近(?)、研究者をあきらめました。あなたとの違いは、私がもうアラサーにさしかかろうとしている点でしょうか。
学部は飛び入学しました。諸事情があって修士課程は別の大学の院に進学し、アカデミックに残るには十分なぐらい強い力をもった指導教官の下で研究を満足のいくまでさせてもらいました。
修士課程の内に博士論文審査に進むべき要求条件も満足したので、同期が修士課程でまだ頑張っている中、そこそこ若くでドクターを取れるかと思っていました。
けれども、特に大きな人生のイベントがあったわけではなく、研究者の道をやめてしまいました。
研究は大好きでした。周りも研究に没頭するあまり死人もでました。それでも私には世界で一番強い意志があるのだと信じて突き進みました。
研究分野とは全く関係のない、外資系の金融機関に来年から勤務することにしました。
学部卒で就職しておけば私の年齢になることにはたくさん経験がつめたのかな、なんて思ったりもして笑えてきます。
軸なんて必要でしょうか。
自分がその瞬間瞬間にときめく、何かワクワクできるものに情熱を捧げれれば、過ぎる時間もとても濃いものになると私は思っています。
若いうちは人生の大きな転換期に差し掛かると息が詰まる思いがして、不安につぶされそうになる気持ちも分かります。私もいくつも経験してきたつもりでいます。
軸がないというかブレてるというか、本人の適正が整合するところではないところで生きるって、そんなに悪いことだとは思っていないのです。笑
もっと紆余曲折して人生の横幅を広げるのもおもしろい生き方かと思っています。私はお金がないので、無駄に紆余曲折すると食べるに困りますが。笑
いいじゃないですか。院に内部進学してから就活するのも。その後フリーターしたっていいじゃないですか。
そのとき、もしくは未来にもっとワクワクできるものが見つかればそれでいいんですよ。
適性なんて、一生気づかないままでいいじゃないですか。
長すぎたようなのでこっちで増田に応答。
http://anond.hatelabo.jp/20170527122912
人工知能学会全国大会論文は査読なしだ。これは、人工知能学会だけが問題なのではなく、情報系の大部分の国内学会は査読なしである。
ただ、その理由が「本会議でボコボコにして論文で落とせばいい」としているのが、こちらからみると不思議だ。査読付き論文も同じ国内学会に出すことを前提に書かれているかのようだ。
この分野における研究者の業績評価に用いられるのは国内学会ではない。
AAAI,IJCAIなどのトップカンファレンスと言われる、重要な査読付き国際会議にどれぐらい通したかで研究者の業績が決まる。
つまり、英語に直さないと、そもそも、業績になどならない。ダメな論文は、国際的に評価されないだろう…と思っているから、あまり関心がないのだ。
この辺の常識は分野によって違うので私もわかってなかったです。教えてくれてありがとうございます。
人文系だと和文でも立派な業績になるので、その辺の感覚の違いというのはあるかもですね(もちろん、英文やその他の外国語で書いた方が評価されるのはその通りなんですが)。
ただ人文系の論文って、文章だけを並べて数十ページとか普通に行くやつも多いです。歴史系だと、ちゃんとした和文学術雑誌の文字数上限は30,000字ちょいくらいで、20,000字未満だと「あそこ短いから書きにくいよね」とか言われる世界なんです。英文だと8,000 wordsくらいかな? この辺、理系や情報系の人たちとは「論文の長さ」に関する感覚がけっこう違うと思うんですがどうなんでしょう(あと、基本的に単著)。
英語じゃないといけないっていう縛りもなくて、たとえばフランス研究ならフランス語で書いた方が評価されるだろうし韓国研究なら韓国語で書いても立派な業績になりますよ、って感じです。最近は若手研究者の国際化が進んで、英語で博士論文書く人も増えてますが、ドイツ語で博士論文書きましたって人も増えてきてるんですね。そういう意味で、そちらの分野とは国際化の感覚は違うのかな、と。
背景 http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20170413#p1
博士論文「From brain to business : 脳の環境適応戦略から企業の環境適応戦略を紐解く」
http://ci.nii.ac.jp/naid/500000436370
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/136459/1/ynink00396.pdf
https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshikikagaku/47/4/47_6/_article
https://www.jstage.jst.go.jp/article/cogpsy/2013/0/2013_19/_article/-char/ja/
特集「脳科学と組織科学の接面を求めて」に寄せて (特集 脳科学と組織科学の接面を求めて)
http://ci.nii.ac.jp/naid/40020155472/
IFRS導入時の経営者の公正価値評価に関する脳実験研究 : 時間割引・社会割引の観点から
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009821195/
どちらかというとマネジメントよりか。
英語の学会発表・論文誌: 査読付き、無し、未投稿にかかわらず発見できず。(あったら教えてください)
nekoluna nekoluna あるよ https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19204791
私はなんとか新卒で高専教員になれたので、ここに記録を残しておきます。これから後輩の役に立てば嬉しく思います。
指導教員のコネで仕事を紹介というのもこの業界にはあるらしいですが、不幸にして私は一切そのような機会に恵まれませんでした。ですから、全くのコネ無し公募(jrecin)のみの結果です。
いわゆる就活の機・電・情のくくりで言えば「電」。
就活を始めるまでは「ポスドク・任期付きドンと来いッ!」とか思っていました。しかし、いざ就職を初めて色々と自分の周りの環境を見ていたら任期付きポストで結論を先延ばしして競争に打ち勝っていくことは無理(自分の性格に合わない)と判断したので、任期なし(パーマネント)のポジションだけを狙うことにした。
博士の進路としては「アカポス(大学・短大・高専)、企業、国研、その他」に大別されると思います。私は企業でバリバリ稼ぎつつ管理職を目指すキャリアパスにも魅力を感じず、「三度のメシより研究がスキッ!」という熱血研究者でもなかったので、博士を活かすなら教員かなあと思ってデモシカ教員を目指しました。
ということで、狙いの分野は「アカポス」かつ「任期なし」一本で勝負しました。
学部卒の就活では集団面接に行くと「東大や京大が居て、自分の学歴が一番低い」と言われている程度のレベルの大学の新卒博士。高専卒ではない。
カネはあるが人材の質はピンキリといった感じでした。博士学生が滅多にいないので情報が手に入らないとうのが絶望的に不利な条件でした。結論としては研究向きの環境ではなかた。
プロシとフルペーパーではフルペーパーが圧倒的に重く評価される分野だったので、フルペーパーの数でいうと1本でした。レター等はなし。その他、国際会議と国内会議が数本。
なし。一切なし。
高専 A 推薦状有り 書類通過 面接落選 (面接官の数が3名で最少だった)
高専 C 推薦状なし 書類通過 面接落選 (専門外の担当授業のことに聞かれ、全然答えられなかった)
高専 D 推薦状なし 書類落選 (履歴書手書きが応募要項にあった)
大学 E 推薦状なし 書類通過 面接落選 (教員公募でも高専と大学では雰囲気がかなり違うことがわかった)
高専 F 推薦状なし 書類通過 面接落選 (年齢限定公募だったので結構期待した)
高専 G 推薦状なし 書類通過 面接落選 (推薦も紹介も必要ない珍しい形式の公募だった)
大学 H 推薦状なし 書類落選 (よく応募要項を見ると、分野が細かく指定してあった)
高専 I 推薦状有り 書類落選 (年齢限定公募で推薦状をつけていたので期待した)
高専 J 推薦状なし 書類落選 (専門分野のかなり近い教員がいたことを応募後に知った)
高専 K 推薦状なし 書類落選 (応募書類のテンプレが他の学校とかなり違った)
高専 L 推薦状有り 書類通過 面接辞退 (高専Oの内定を受けたので辞退した)
高専 O 推薦状なし 書類通過 面接通過 (内定をもらった)
周りに経験者が居ないと本当につらいです。しかたがないのでネット上の情報だけを頼りに書いてみて、アカポスとは関係ない友人に見てもらいました。面接にすら呼ばれず「負けが込んでくる」と自分の書類は全く見当はずれなのではないかという不安に襲われましたが、信じて応募を続けるとだんだん落選にも慣れてきます。
論文別刷りの他に論文概要を要求するところが結構あります。論文の内容を読むつもりはないということでしょうか。
他の就活体験記事ですと、指導教員の推薦状作成について触れられていないことが多いのですが、ここに一番苦労しました。基本的に推薦状の全文を私が作成して、指導教員の印鑑だけをもらうスタイルだったので、推薦状は「第三者視点で書く自己PR」と割りきりました。
公募締め切りから面接日時通知までは2週間というところが多い感じでした。面接に呼ばれる場合にはTELで来ます。落選の場合は郵便(書留、普通郵便)でした。内定の連絡は即日TELでありました。返信用封筒の封筒の宛名書きの「(氏 名) 行」を様に書き換えないものや、差出人の書いていない封筒で送付された不採用通知もありました。
高専は模擬授業+面接というパターンが多く、模擬授業はだいたい20分で教科書を指定してくることが多かった。学部の授業で習った以来の復習だったので、苦労した。やはり博士論文を作りながら準備をしていたので、準備不足となることが多かった。少なくとも1周間は練習を見て、模擬授業の模擬授業を3回程度やるとだいぶ慣れてきました。学校のレベルによって模擬授業用の教科書のレベルにかなり差が有ったので、これは今後授業をやる上でのいい経験になりました。
大学の面接は流石に今後の研究を中心に質問をされましたが、高専は教育(授業、担任、寮監、部活)の質問が大部分を占めた。
あとは想定問答を練習して、面接マナーを練習してという感じで独学でした。
高専のことを知っているかどうかを問われることが多かったので、高専出身者への聞き込みやネット上での情報収集を行いました。面接の後半では、「高専出身でないのに大変よく高専のことをご存知ですね」とまで言われるようになった。研究についても教育についても、新卒なので「ポテンシャルはあります!」という雰囲気の一点突破で想定問答を検討しました。
こんなかんじです。
なんで博士課程まで来ちゃったんだろうね? って何度も悩みました。これからは、なんで教員になっちゃったんだろうね? って悩むのかと思います。
ちなみに女性限定公募には応募できないほうの性別でした。就活中は追い詰められていたので何度も「この股間のイチモツさえなければ面接まで行けるのに...」とか悩んでいたのですが終わってみると何だったんだろって感じですね。あまり思いつめないことが大事です。
もう、二度と就活はやりたくない。
完璧な博士就活記録です。私より業績もビジョンも戦略もあるので、私の記事なんかより参考になります(きっと)。
新卒博士の話ではないですが、応募から面接の期間など公募プロセスの様子を参考にしました。
新卒で高専教員になれるんだという希望や、高専で働いて感じたことなどを参考にしました。
大学教員公募が主なスコープかと思いますが、過去ログなど見るとひと通りの疑問点に対する答えがありました。スレからたどり着く52連敗氏のページから元気ももらいました。言うまでもありませんが、情報は玉石混交なので直感的に取捨選択を行うことが必要かと思います。
同僚が研究室に小保方さんの本を持ってきたので、昼休みに流し読みした。つまるところ小保方さんは、研究そのものではなく、研究している自分が好きな人間だったのだと、妙に納得がいった。
そうゆう類いの人は 実は結構居る。学部四年、教わったばかりのエタ沈を嬉々として連呼していた同級生や、 修論で一丁前に能弁を垂れる後輩、 ラボ生活もベテランとなり後輩に対して ペダンチックになる同期など。しかしそうゆう人間は、基本的にはアカデミアには残らない。ポスドクを何年もやるまで自分がそうゆう人間であることに気付かなかった例はあまりにも有名だが (http://biomedcircus.com/research_02_13.html)、若くして見出されてしまい、気付くチャンスすらないまま世に出てしまった小保方さんの方が悲惨であり、少しばかり同情の気持ちが涌いた。
しかし一方で、STAP論文の発表会見の時の発言―うろ覚えだが、実験がうまくいかず夜通し泣いたというような内容―には、強い違和感があった。そんなことは生命科学の研究者にとって常であり、わざわざ世にアピールすることか、と。今更ながら、小保方晴子という女性理系研究者の強かさがよく現れた発言だったと思う。
学生時代にTop journalを出しても ポスドク先では良い結果が出ない、というのはよく聞く。うだつの上がらないポスドク生活を何年も続けていて、論文が出ずに苦しんでいる同業者もたくさん見てきた。研究は、概して困難を伴う時間がおおい。面白い研究テーマを見つけ、ポジティブデータを出し続け、仮説を証明する。仮説に裏切られることもよくあることで、実験に実験を重ね、時に才能や運と対峙しながら、ようやく一つの小さな真実に辿り着く。 研究している自分が好きなだけの人間には、コスパが悪すぎて到底耐えられない、楽しめないだろう。だからそうゆう人間は遅かれ早かれアカデミアを去って行くのだ。
小保方さんと言えば、してもいない実験のグラフを勝手にプロットしたり、顕微鏡写真を他所から拝借したりと、良識から逸脱していることを次々とやってのけた。だいたい、博士号の集大成と言える博士論文や、ましてNatureへの投稿論文ともなれば、実験の生データ画像・数値や、そのデータを取った日の出来事やその瞬間など、よりよく覚えているものだ。論文の推敲段階では目が腐るほどそのデータを見ることになるので、顕微鏡写真など細胞の配置具合まで自然と記憶に残る。足りない点を自分で描き足したり他所のデータを使い回したりしたことを、ケアレスミスでしたと言うにはとてもじゃないが説明が浅短だ。そしてこの言い訳こそ、データや実験には全く愛着がないことを証明している。
小保方さんが愛していたのはSTAP細胞ではなく、STAP細胞はありまぁすと言った彼女自身だ。そうゆう人間は決して珍しくはなくて、しかし大抵どこかの段階でしれっとフェードアウトしたり潔くコンサルにでも転職して経済的に大逆転したりするが、小保方さんはそのチャンスに出会わぬまま、まだ研究者としてはずいぶん若いうちに引っ張りだされてしまった。 寧ろ、派手な捏造をしたからこそ引っ張りだされたのだとすれば、 科学者を辞める契機を作ったのは彼女自身であり、必然であったと言えるのかもしれないが。
この炎上はSTAP細胞が燃えているのではない、小保方氏が燃えているのだ
当たり前の内容になるが、炎上には発生条件があり、条件を満たすほどに炎上へのカロリーが高まる
STAP細胞の論文だけなら疑わしいで済む話だったが、博士論文が明らかな不正だったことで炎上は加速した
条件1だけ見れば、城崎温泉議員やゴーストライター作曲家だって十分に火種はあった
ところが小保方氏の酸素は質も量も違う、同情するほどに敵が多い
右翼は小保方氏を日本人の恥として扱い、フェミニストは小保方氏を女の恥として扱う
元々は右翼とフェミニストにウケる話題としてマスコミに担ぎ上げられ、当人も喜んで担がれたのだから仕方がないのだが
これは小保方氏は科学分野における適正な手順を踏まなかったためで自業自得だが、しかし彼女は科学者として帰る場所として守るべきだった
そうすればポエムのような手記などではなく、今も論文を発表できていたかもしれない
炎上し続けるためには燃料がいる
炎上を終わらせるためには燃料を経つしかないわけだが、小保方氏は本当に最高のタイミングで燃料を投下し続けてきた
ここ最近の城崎温泉議員のように法の力で燃料が投下されるような事故とはまるで違う
先月、韓国の「天才少年」が起こした論文盗作事件が日本でも韓国紙の日本語版記事としてインターネット上で報道された。
韓国の「天才少年」として有名なソン・ユグン少年(17)が彼の指導教官のパク・ソンジェ研究員と共に執筆した論文が、米国の天文学会が発行するAstrophysical Journalに掲載されたのち、韓国のネチズンの指摘をうけ撤回されたというものだ。少年は博士号を取得する間近で、国内最年少博士学位取得の記録も白紙となった。論文が撤回された理由に関してはすでに他に解説がある。
ここでは実際論文がどのようなものだったか、そして推測されることの経緯を探ってみたい。
対象になっているのはパク研究員の2002年の韓国内の研究会の集録に掲載された論文と少年が主著でパク研究員が共著の2015年のAstrophysical Journalの論文だ。論文の中身自体は購読していない限り読めないようだが、双方のページにある論文の概要を比べるとほぼ瓜二つで少年が自分の言葉で執筆していないことがわかる。また別の方法で論文の一部を確認できる。2015年の論文の1ページ目はgoogleの画像検索で確認ができ、google bookで2002年の集録論文のほぼ全文がみれる。見れる範囲では節の名前やほんのわずかな文を除いて、両者はほぼ一致している。
論文は概要と4つの節からなる本文で構成され、最初の3節は過去の研究の説明にあてられ4節目がこの論文の結果になっているようだ。コロラド・デンバー大学のJeffrey Beall氏のブログでは概要と最初の導入の節の比較図があり、そのままコピーされているのが示されている。論文の主要な結果が書かれている4節目もモナッシュ大学の天文学者Michael Brown氏のtwitter上で画像(リンク1、リンク2)が比較されている。こちらも式番号を除けばほぼ完璧に文章と式がコピーされている。氏によると多少の式の変形が見られるが、50以上の式がそのままコピーされているとのことだ。
前述のブログのコメントを読むと上記の部分以外に目を向けても、ほぼ全体にわたって式と文章が完全に位置するという指摘もある。研究者の世界では研究会で先行する成果を見せて、議論ののちに査読雑誌に本論文を投稿する、というのはよくあることだそうが、ここまで一字一句一致するとなると研究集録といえど著作権上の問題から二重投稿として判定されるのは極めて妥当だろう。
興味深いのは前述のブログのコメント欄にあるソン少年が導出したとされる偏微分方程式(論文中の式(4.24)のようだ)を含めた4節目の多くの式でミスがみられるという指摘だ。多変数関数をある独立変数で偏微分する際に他の独立変数を偏微分すると0になることは理系の大学1年生あるいは少し進んだ高校生なら理解できるだろう。ところがソン少年の論文では本来0になって消えるべきこのような項がたくさん残されているという指摘である。この指摘が本当だとすれば、ソン少年かパク研究員のどちらが導出したのかに関わらず、にわかには信じられないミスだ。
少年が導いた式(4.24)は論文の概要にある主要な結果である"Transfield Equation"の可能性が高い。そして上のコメントでは例えばφとωの上にドット(・、時間微分を指す)がついたものは0ではないかと指摘している。面白いことにこれらの項を消すとこの式は2002年の集録論文で同じ"Transfield Equation"と記されている式(61)にかなり類似している。ここからは私の邪推であるが、ソン少年の「功績」とは、式(61)の2、3項目のCの時間微分に式(54)を代入し、4項目のEの時間微分とmの内積を式変形したことなのではないだろうか。しかも上記の初歩的なミスを犯している可能性がある。さて私はAstrophysical Journalを読むことはできないので、論文にある初歩的な間違いが本当か、そして私の邪推が当たっているかはこの論文誌を読める天文学の専門家にぜひ検証してもらいたい。
いずれにせよ、2015年の論文の文章の大半を執筆したのは(13年前の)パク研究員であることにおそらく疑いの余地はない。さらにソン少年が導出した式(4.24)がもし論文の核となる"Transfield Equation"であれば、これはすでにパク研究員が2002年の段階で導いている。ソン少年のこの研究への貢献はその式の単なる変形だけであり、しかも初歩的な間違いを含んでいる可能性が指摘されている。
ソン少年の主著で論文を出版することは目をつぶっても、これを博士課程中の少年の主要な研究業績とするのは倫理的に問題があるのではないだろうか。
ことの経緯はソン少年が博士号を取得するプロセスに密接に絡んでいるようだ。
報道によるとソン少年が所属する科学技術聯合大学院大学校(UST)では博士論文の取得要件として、国際的な査読論文誌に主著で少なくとも論文を一編投稿し、受理される必要がある。ソン少年はこの条件を満たすためにパク研究員の13年前の研究成果をもとにパク研究員と共に論文に投稿したのだろう。
倫理的な是非はさておき、主著のソン少年がパク研究員の研究内容を咀嚼し、自らの言葉で書き直していればここまでスピーディーに問題が明るみにでることはなかった。ところがソン少年とパク研究員は、13年前の集録をごく一部を除いてほぼ一字一句コピーして提出してしまった。このことが原因でAstrophysical Journalから掲載を撤回される今回の事態に行き着いた。
韓国メディアの邦訳や英訳されている記事は、今回の論文撤回によって少年が博士号の取得を逃したということを報道するものが目立つが、ことの経緯が事実であれば倫理的には大きな問題である。本人の意思がどの程度介在したかは分からないが、ソン少年は、他人の業績を自分のものとして出版することにより、博士論文の取得条件をすり抜けようとしたと見られかねない。これは当然、学位を申請したソン少年も認識していたはずだ。これは韓国における"博士"の価値に大いに傷をつける行為なのだが、英訳されている韓国のメディアの記事を見る限り、メディアは国内の研究者への影響には着目していないようだ。
今回の件で合格は撤回されたものの、ソン少年は博士論文の審査に一度は合格したと報道されている。この論文が審査当時少年の唯一の受理された査読論文であった。博士論文の内容は報道では明らかになっていないようであるが、もしこのソン少年の博士論文に撤回された論文の研究内容が含まれていれば彼は他人の研究とみられかねない研究内容で博士号の審査を通り抜けたことになる。先進国の大学では退学などの大きな処分が免れないレベルの大きな不正行為だ。ソン少年は現在新たな論文を準備していると報道されているので、こちらの成果のみが学位論文にまとめられていると期待したい。
パク研究員は国立の天文学研究機関である韓国天文研究院(KASI)に所属しており、 ソン少年がUSTに入学した際に院長を務めているなど韓国を代表する天文学者のようだ。国を代表する研究者が論文の投稿を主導したとすれば、そのインパクトは大きい。
一方、ソン少年が主導したとすれば、彼は研究者の"免許"である博士号を正当な方法ではなく、自らの意思で非良心的な手段で取得しようとしたことになる。ソン少年はおそらく知的には非凡なのだろうが、それに見合う倫理観と良心を持ち合わせていないということを示してしまったことになる。
もっとも論文が13年前の集録の完コピーであったという事実は、彼がパク研究員の成果を咀嚼できておらず、自分の言葉で書き下すことができなかったということを示しているのかもしれない。いずれにせよこの件が明るみになった今、ソン少年の研究者としての信頼とキャリアに大きく傷がついたことは間違いない。
「この研究のオリジナリティは?」って耳にタコができるほど言われる大学院生だけど、色んな研究を見てきて、本当の意味でオリジナリティがある研究なんて一握りしかないと思っている。
①○○を原料にして××を作った。
②××を△△に適用した。
このふたつの研究は存在するのに、○○を原料にして作った××を△△に適用したら今までよりもめちゃくちゃよかったぜ!!なんていう、その2つの足し算みたいな研究が認められて論文になったりする。まあ、ある程度成熟した分野っていうのはニッチな方向に進むのも確かなんだけど……。
話題のデザイン界の問題は、他人の論文だけで自分の論文を書いちゃったみたいなもので、それがレビュー論文ならまだよかったのだろうが、他人の論文からデータを集めて、さらに改竄まで加えてちょっと新しいでしょ?って発表しちゃったことだろう。
発表の場がマイナー学会の支部大会程度ならバレないのかもしれないけど、世界規模の学会の基調講演じゃお手上げだよ。芋づる式に過去の不正が見つかって、博士論文も取り下げられるかもね。
研究者が大切にしなくちゃいけないのは誠意だ、ってうちの教授はいつも言っている。そういうメンタリティが研究者を研究者にしているのだと。
この問題はもう民意がズバズバ入っちゃっていて、本質なんてどうでもよくなってしまっているように思える。外から見ていてやるせないのは、デザイナーという職業が日に日に低く見られていっていること。まるで小保方さんのときみたいだ。
業界全体で「デザイナー」のメンタリティをしっかりと発揮してほしいと思う。ひとりひとりのデザイナーが、デザイナーのメンタリティを見せて欲しい。