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2017-05-28

http://anond.hatelabo.jp/20170528165058

国の核武力強化の道に響いた多発的、蓮発赤性

地上デジサン中長距離戦略弾道弾「北斗-2」型の試験発射で再び成功

敬愛する最高指導者キム・ジョンウン同志

弾道弾発射実験を参観希望であった

 

国全体が主体朝鮮の新型中長距離戦略弾道ロケット火星-12」型の試験発射の大成功を熱烈に祝い、大きな激情歓喜に激しく沸い広がっている中部隊実戦配備を控えた地上デジサン中長距離戦略弾道弾「北極星-2 「型試験発射が再び成功裏に行われてきた惑星震撼している。

偉大な党の指導により、日に一日一日、新しい叙事詩英雄を広げている私たち国防科学研究部門と軍需労働者階級は、この間、米太平洋司令部が巣ハワイ米国アラスカを射程圏の中に置いている新型中長距離戦略弾道ロケット試験発射で成功したその勢いは、その気迫にジュルギチャンリョンソク攻撃戦を展開し、中長距離戦略弾道弾「北斗-2」型の系列生産準備を終え敬愛する最高指導者同志を迎えて部隊実戦配備のための最終的な試験発射を行うことになった。

朝鮮労働党書記であり、朝鮮民主主義人民共和国国務委員委員長であり、朝鮮人民軍最高司令官であるわが党と国家軍隊最高指導者金正恩同志が現地に出る以上、地上デジサン中長距離戦略弾道弾「北斗-2」型の試験発射を参観希望であった。

リービョンチョル同志、キム・ジョンシク同志、ジョンスンイル同志、ユージン同志、ジョヨンウォン同志をはじめとする朝鮮労働党中央委員会責任幹部朝鮮人民軍戦略軍司令官作戦軍枚ギムラクギョム同志が同行した。

敬愛する最高指導者同志を現地で槍し同志、ジョンイルホ同志をはじめとする国防科学研究部門と軍需工場幹部科学者技術者たちが迎えた。

今回の発射は、地上デジサン中長距離戦略弾道弾「北斗-2」型兵器システム全般テクニカル指標を最終確証し、各がした戦闘環境の中で適応可能性を十分に検討して部隊に実戦配備しようのに目的として行った。

敬愛する最高指導者同志は同行した活動家と一緒に監視所を占めし発射コマンドを下し時であった。

天地を揺るがす派手同音を壮快に決め「北斗-2」型が眩しい閃光を噴き出しながら万里対空に向けて発射された。発射された弾道は著しく強化された私たちの国の尊厳位相、国力を誇示して、5月の澄んだ青いハヌルガに勝利飛行機雲を誇る冷やし漏れであった。

今回の発射を介してリ大食強行発射台車でのラング発射システム、弾道弾のアクティブ区間の飛行時の誘導と安定システム階段分離特性、大出力固体発動機始動作業特性信頼性の精度が完全確証された。また、核操縦ジョンツブの分離後、中間区間操縦と末期誘導区間でのすべてのテクニカル指標が遠隔測定データによって再確証されただけでなく、ジョンツブに設置された撮影映像データに基づいて姿勢制御システムの精度もさらに明確に検討された。これと共に弾道弾とリ大食強行発射台車をはじめ、地上記載を実地戦闘環境の中で、その適応性を十分に検討した。

敬愛する最高指導者同志は監視所での活動家と一緒に打ち上げ結果を分析評価し百、満点だと、非の打ちどころなく完璧だと大満足の意を表した。

敬愛する最高指導者同志は弾道弾の人中性が非常に正確であること、「北極星-2」型弾道弾は完全に成功した戦略兵器と誇りにあふれ言葉ながら地上デジサン中長距離戦略弾道弾「北斗-2」型兵器体系の部隊実戦配備承認希望であった。

敬愛する最高指導者同志は弾道弾に設置した撮影を介してリアルタイムで受信される地球写真を見て、私たち撮影したロケット地球をずっと降り撮ったものをみると、本当に気持ちがいい、世界中のすべて美しく見えるおっしゃった。

敬愛する最高指導者同志は、地上デジサン中長距離戦略弾道弾「北斗-2」型の戦術技術仕様が党から要求される目標に確固到達したとしながら、今すぐ多く系列生産して人民軍戦略軍の装備しなければならないと教えた。

敬愛する最高指導者同志はアメリカ帝国主義者とその追従勢力がまだ精神取り戻す新しいなく、私たちの核力の多様化、高度化をさらに推し進めていかなければならないと改めて強調しながら、核武力強化で提起戦略的課題を打ち出した。

敬愛する最高指導者同志は党の指導に限りなく忠実な私たちの信頼できる国防科学研究部門と軍需労働者階級が国の自衛国防力、核抑止力をしっかり固めていくための闘争の道で屈することな継続革新前進、リョンソク攻撃していくことで敵にジョンリュルと恐怖、死をかぶせる川威力朝鮮式主体武器、核攻撃手段さらに見事、より多く作ら下しなさいは大きな期待と確信を表明し希望であった。

敬愛する最高指導者同志は、地上デジサン中長距離戦略弾道弾「北斗-2」型の試験発射を再び正常に踏み切った全国防科学者技術者労働者労働者を熱烈に祝ってくださって、彼らと一緒に歴史に残る重要記念写真を撮った。

本社政治報道の半分

국가핵무력강화의 길에 울려퍼진 다발적, 련발적 뢰성

지상대지상중장거리전략탄도탄 《북극성-2》형시험발사에서 또다시 성공

경애하는 최고령도자 김정은동지께서 탄도탄시험발사를 참관하시였다 [ ] 05.22

http://www.rodong.rep.kp/ko/

日本ダメになっているのは、主に金がないからで、

金が無いのは政府が金を世の中に回さな政策を取ってるからで、

政府がそういう政策を取っているのは、国民が支持するからで、

国民自分たち貧乏にする政策を支持するのは、マスコミがそう報道するからで、

マスコミがそう報道するのは、GHQがそう作ったからで、

元々日本人に損させて、アメリカなり中国なり朝鮮なりに利益誘導するのが仕事からで、

そんなおかし構造、気づいている人はとっくに気づいていて、

自分が知る限り30年前には声を上げる人がいたけれど、

まあ、右翼だの暴力団だのレッテル貼りされて、世間に冷笑されていた。

皆が言っていることが正しい、という反知性主義(笑)日本にははびこっているからな。

はてなーがその代表だな。

ネットという新しいメディアが出てきて、やっぱりネトウヨだのと冷笑されたが、

現状としては、まあよい方に動いてはいる。

日本から人材流出している、って話題で、

こういう全体的な構造議論をせずに、精神論で全部を片付けようとするのはなぜなんだろう?

はてなーのようなニセインテリバカなのに自分バカなことに気づいていない人々)特有現象なんだろうか?

2017-05-25

ネトウヨ安倍政権に都合の悪い人間朝鮮と結びつけて貶めるのを何度も見てきたけど

これ、韓国人有名人韓国人認定するのと一緒だよな

やっぱ同類なんだな

2017-05-21

日本観光列車韓国が起源

ネトウヨが「韓国野郎ども、観光列車パクリよって」だって!なめとったらあかんで!日本観光列車ブームを持ち込んだのは韓国ですよ?日本鉄道迷惑施設にしたんは韓国シンパですよ?俺ら鉄道オタク朝鮮走狗と言われる原因作ったんはニダーですよ?あーもうニダー却下です笑

李氏朝鮮は清の冊封のなかの属国主体性のない国だった。清に収奪されていて朝貢する品で価値のあるものは女くらいしかなかったそうだ。

朝鮮日清戦争の後日本併合されて、日本となったことで発展した。北朝鮮にある最大のダム日本が作ったものhttps://ja.wikipedia.org/wiki/水豊ダム

日本がなければ朝鮮は貧しいままだった。全世界が知っている歴史事実だ。

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日天保13年1月1日) - 1917年大正6年)7月9日)は、明治大正期の外交官岡山藩士で実業家政治家(初代岡山市長)花房端連の長男爵位子爵歴任した主な官公職枢密顧問官日本赤十字社社長など。

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1 来歴・人物

2 栄典

3 家族

4 脚注

5 関係記録

6 関連事項

7 外部リンク

来歴・人物[編集]

緒方洪庵適塾で学び、1867年ヨーロッパ諸国アメリカ遊学し翌年帰国1870年から外国官御用掛として外務省出仕。同年日清修好条規の土慣らしの為に渡清。

1872年ペルー国船に乗船の清国人奴隷虐待問題マリア・ルース号事件)で外務卿副島種臣の補佐として書記官担当し、仲介裁判のための代理公使としてサンクトペテルブルク派遣され、訴訟の後は日露国画定交渉のため派遣された榎本武揚全権公使を補佐。

1877年、駐李氏朝鮮代理公使に任命されるが翌年1878年8月10日から1876年5月に締結された日朝修好条規に反して 朝鮮政府釜山の豆毛鎮に税関を設置し、朝鮮国内の輸入行者に対して関税徴収を開始したことから報復措置として代理公使の花房は軍艦と共に釜山派遣され豆毛鎮に設置された税関撤去要求する。最終的に、朝鮮政府が折れる形で事態は沈静化し、1878年12月4日に豆毛鎮の税関正式撤去された。1880年4月日本政府漢城への日本公使の常駐化を決定、初代公使として花房が任命される。だが、この時点ではまだ漢城公使館は開いていなかった。この公使館開設の件と仁川開港問題について金弘集と折衝し、その後、漢城日本公使館正式設置と仁川開港朝鮮政府に認めさせ、それに併せ日朝間で国書の交換がなされ、花房は代理公使から公使へと昇格した。

その後朝鮮駐在朝鮮近代化の為別技軍を提案するが、それが原因となった壬午事変では暴徒に包囲された公使館脱出して命からがら帰国、直後に寺内正毅率いる日本軍と共に朝鮮渡り済物浦条約を締結させ、事件の損害補償とともに、漢城への日本軍駐留などを認めさせる。

1883年より1886年までの3年間にわたり、在露特命全権公使としてサンクトペテルブルク駐在した。

その後は農商務次官、帝室会計審査局長宮内次官枢密顧問官日本赤十字社社長などを歴任した。1896年華族に列せられ男爵

目黒にある城南五山の一つである花房山は、1911年に花房が子爵に陞爵した際に別邸を構えたことが地名の由来。(現在品川区上大崎三丁目付近

1917年慢性胃炎のため死去[1]。

朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代朝鮮における貴族実業家日本名山崎 永春。

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1 生涯

2 家族

3 その他

4 登場するテレビドラマ

5 脚注

6 出典

7 関連文献

生涯[編集]

判書大監朴元陽の子として京畿道水原生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在大韓民国国旗である太極旗デザインを考案したとされる。朴泳孝が日本派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると、8月9日仁川から日本船籍明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。

帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派事大党)の反対に遭って挫折さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデター閔妃から政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本亡命慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。

光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣宮内大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島流刑処分とされた。

隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会長1911年)、朝鮮銀行理事1918年)、朝鮮経済会長1919年)、朝鮮維民会会長1919年)、東亜日報社初代社長1920年)、朝鮮人産業大会会長1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長朝鮮殖産銀行理事朝鮮総督府中枢院顧問1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長1922年)、貴族院議員1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

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1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

1883年6月金玉均自身にとって3回目の日本訪問の途についた。前回の訪日で会見した日本政府の高官は、朝鮮国王委任状があれば借款に応ずることを示唆しており、朝鮮から留学生尹致昊の帰国に際しても大蔵大輔の吉田清成はかさねてそのことを金玉均伝言していた[5][注釈 2]。

しかし、高宗からあたえられた300万円の国債借り入れの委任状を持参して来日した金玉均に対する日本政府対応は冷たかった[5]。300万円は当時の朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本予算約5,000万円からしても巨額なものであった[5][7]。メレドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿松方正義緊縮財政を進めているなか、財政力に乏しく政情も不安定朝鮮に対し、そのような巨額な投資をおこなうべき理由は乏しかった[5][10]。金玉均は、日本についで、フランスアメリカ合衆国からの借款工作にも失敗した[5]。

1884年5月金玉均は失意のうちに朝鮮帰国した。朝鮮では、以前にもまして大国清の勢力が猛威をふるい、朝鮮国の重臣たちはそれに追随し、開化派の活動はいっそうせばめられていた[5]。清とフランスの緊張関係の高まりから5月遼東半島に移駐することとなった呉長慶にかわって野心家の袁世凱が実権を掌握し、朝鮮王宮は彼の挙動に左右された[5]。これに危機感を覚えた金玉均らは国王高宗を動かそうと計画した[7][10]。高宗もまた閔氏の専横に心を痛め、朝鮮の将来に不安をいだいていたのである[7]。

清仏戦争の直接原因となった1884年6月23日バク伏兵事件英語版

1884年6月ベトナム領有を意図するフランスベトナムでの宗主権を護持しようとする清国との間で清仏戦争が勃発した[10]。清越国付近バクレでの両軍衝突が引き金となったが、この戦いで劣勢に立った清国朝鮮駐留軍の半数に相当する約1,500名を内地に移駐させた[5]。独立党は、これを好機ととらえた[10]。日本もまた、壬午軍乱以降、無為にすごした失地回復の好機とみて清国勢力の後退を歓迎した[5]。井上馨外務卿帰国中の弁理公使竹添進一郎に訓令し、10月漢城に帰任させた。竹添は軍乱賠償金残金の寄付国王に持ち掛ける一方、金玉均独立党に近づいた[5][11]。

竹添進一郎

金玉均らは11月4日、朴泳孝邸宅日本公使館島村書記官を招いて密談をおこなった。集まったのは、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、島村の5名であった[12]。そこで金玉均島村クーデタ計画を打ち明けているが、島村はそれに驚きもせず、むしろ速やかな決行を勧めるほどであったという[12]。かれら独立党は3つのクーデタ計画案を検討し、同年12月に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーに乗じて実行にうつす案が採用された[12][注釈 3]。金玉均11月7日日本公使館をおとずれ、竹添公使クーデタ計画を打ち明け、そのとき竹添から支援約束を得ている[12]。

金玉均漢城駐在イギリスアメリカ合衆国外交官にもクーデタ計画相談した[12]。かれらは、金玉均のえがく理想共感し、清国よりも日本を頼るべきことについても理解を示したが、しかし、決行については清国軍事的優位を認めて、これに反対した[12]。金玉均さらに、それとなく高宗にも計画の内容を伝えて伺いを立てた[12]。高宗もまた、清の軍事力を考えると不成功に終わるのではないかとの懸念を伝えたが、金玉均はこれに食い下がり、フランスと連動して動けば充分に勝機はあると訴えた[12]。高宗は、これを諒とした[12]。

しかし、クーデタに動員できる軍事力といえば、日本公使館警備の日本陸軍仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊の150名と、陸軍戸山学校留学して帰国した10数名の朝鮮人士官学生および新式軍隊の一部にすぎなかった[5]。この人数では、半減したとはいえ、なお1,500名を有する清国兵および袁世凱指揮下の朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった[5]。

朝鮮朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争東学党の乱ともいう。高宗1年,東学1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願教徒大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 312月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民東学徒は少なく,指導者東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国出兵要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。

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デジタル大辞泉解説

うご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争

1894年朝鮮李朝末に起こった東学信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府清国派兵要請日本出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。

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百科事典マイペディア解説

甲午農民戦争【こうごのうみんせんそう】

李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教東学〉は1890年代には活動公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人駆逐をかかげて各地を転戦した。

→関連項目大院君|李朝朝鮮

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世界大百科事典 第2版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。

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大辞林 第三版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

朝鮮1894年(甲午の年)東学信徒が主導した農民戦争地方官の悪政に反対した全羅道農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王政府鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本出兵日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

甲午農民戦争

うごのうみんせんそう

1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争きっかけとして、中国、清(しん)の勢力排除朝鮮支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護名目大軍を繰り出し、日清戦争引き起こした。

 当時、朝鮮民衆は、朝鮮政府財政危機を取り繕うための重税政策官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏罷免租税減免要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮侵入してきたのである朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。

 全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかみえた。ところが、朝鮮上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮占領し、親日政府組織させた。

 清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である日本政府日清戦争と併行して朝鮮植民地化する政策を推し進めた。この日本勢力を追い出すため、朝鮮農民たちは10月かばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民20万人を超えたといわれる。日本軍朝鮮政府軍相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウル処刑された。[馬渕貞利]

[参照項目] | 日清戦争

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世界大百科事典内の甲午農民戦争言及

【崔時亨】より

92から翌年にかけて東学合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来非暴力的な教化主義立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウル処刑された。…

朝鮮】より

しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本侵略意図に立つ軍事力行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…

日清戦争】より

… 朝鮮では王妃一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏不正日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府日本亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…

※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています

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2017-05-18

肉球新党嫌韓派

猫が幸せに暮らせる社会は、人にも優しい。だから韓国が嫌い、北朝鮮も嫌い。そして、動物と人が共生できる社会を。

「吾輩は朝鮮が嫌いである。」「チョンニモマケズ」などのプラカードネット上で評判を呼び、それに共感した人と猫、動物たちの集まりです。基本理念は、「猫が幸せに暮らせる社会は、人にも優しい」。これをもとに、韓国嫌悪し、北朝鮮嫌悪し、在日朝鮮人からの悪影響や韓流のない社会をつくることを目標としています

2017-05-13

詐話師吉田清治の亡霊

従軍売春婦問題国連委員会日韓合意見直し勧告したそうだが、従軍売春婦慰安婦ともいう)は詐話師吉田清治が金のためにでっち上げた嘘なんだろ?

なんでそんな嘘話が原因で日本がとやかく言われなきゃいけないんだ!

韓国北朝鮮中国が作り上げたでっちあげをまだ国威連は信じているのか?

当時の日本朝鮮も貧しくて、日本なら遊郭朝鮮ならキーセンに娘が身売りされたことがあった。

日本軍が人さらいをしたことなんて無くて、キーセン借金のカタに娘を連れて行ったのだ。

非難されるべきは詐話師吉田清治記事を連載して世界を惑わした朝日新聞朝鮮キーセン経営者じゃないのか?

当時のキーセン経営者が今どこで何をやっているか知らないが。

2017-05-09

[] 朝鮮飴

朝鮮飴(ちょうせんあめ)は、熊本県銘菓である。餅米と水飴と砂糖独自製法で捏ね合わせ、片栗粉を塗した求肥飴の一種である

食感は餅に近い。

  

16世紀園田屋の開祖園田武衛門により作られた当初は長生飴と呼ばれていたが、文禄・慶長の役での朝鮮への出兵の際、

当時の城主加藤清正の軍はこれを携行して篭城中の兵糧として役立てたことから朝鮮飴と呼ぶ様になった。

江戸時代中期までこれは藩の買い上げで、製法管理されて市販が許されていなかった。

代々の肥後藩主がこれを江戸幕府朝廷への献上品、諸大名への贈答品として用いた。

  

当初は黒砂糖と玄米使用した淡褐色の黒朝鮮飴しかなかったが、現在は白砂糖精白米を用いた白朝鮮飴が大半を占めている。

1970年代前半には30軒以上が手がけて売上高の総計が10億円に達したが、1990年代後半には2-3億円に減少し、業者園田屋など

数軒になっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%A3%B4

2017-05-06

http://anond.hatelabo.jp/20170506121907

富国強兵植民地政策ではない

 

また日本植民地欧米植民地とは同じ植民地と言う表現妥当ではないくらい違う。

有名なのはベルギー王の植民地だったコンゴ人口が6分の一に減少。

日本植民地だった、台湾朝鮮満州は全て人口が増加

人口増加が政策バロメーターだとすると日本現在少子高齢化日本が行き詰まっていることの証拠だな。

2017-05-03

結局北朝鮮危機って韓国大統領選挙に影響与えるためだよな

北朝鮮核実験をやったらアメリカ斬首作戦金正恩政権を潰すとか言っているけど、結局、今現在朝鮮半島周辺でザワザワしているのは韓国大統領選挙のためだ。

親北朝鮮派か親米派か、どちらが選ばれるかは分からないが、共産圏の国々と、自由主義の国々の綱引きのためにそれぞれの軍事活動を公開しているのだ。

「味方に付けば安全だぞ!」と。

から韓国大統領選挙行方次第で、韓国大統領の行動いかんで第2次朝鮮戦争が起こるかどうかが決まる。

2017-04-30

トランプ大統領白豪主義者だから中国でなくロシアと仲良くする

トランプ大統領にとって朝鮮問題は実はどうでも良くて、第二次朝鮮戦争が起きて中国日本が衰退してくれれば良いと考えている。

アメリカンファーストだけれども、ホントホワイトファーストで、再び白人世界支配したいと思っているに違いない。

白人世界支配すると考えているのはトランプ大統領のブレーンかも知れないが。

から白人国家ロシアと仲良くなろうとしているのだ!

 

間違いない。

2017-04-28

http://anond.hatelabo.jp/20170428075305 続き

続きっすー

http://b.hatena.ne.jp/entry/334100861/comment/coldsleepfailed

質問なのですが、元のコメに書いてあった「マジョリティではないと思う」とは具体的に大多数の方はどういう感じなのでしょうか? ほとんどの人は日本親和的暮らしていきたいと思っているのですか?

マジョリティではないと思う」とは具体的に大多数の方はどういう感じなのでしょうか?

超絶端的に言うと、「朝鮮バンザイ金日成バンザイ!」みたいな生徒はほとんどいないかと思われますー。普通に勉強してスポーツして、大学行ったり就職したり、普通日本高校生たちと変わらないと思いますぜ。

ほとんどの人は日本親和的暮らしていきたいと思っているのですか?

3〜5世とかになると文化が99%日本文化から、「親和的に」って発想も特に無くて、普通にまれ普通に暮らしてってかんじじゃないかな。

http://anond.hatelabo.jp/20170428075305

前に右系の記事で、朝鮮学校大学かな?)で将来の幹部候補的な学生たちによるサークルが作られててスパイ的な活動が行われたりしてるとか読んだけど、生徒間の意識の差は感じる?

体制を維持しようとする右翼(?)的な政治思想の生徒とかいる? そういう子は、政治に興味ないノンポリと差があったりする?

前に右系の記事で、朝鮮学校大学かな?)で将来の幹部候補的な学生たちによるサークルが作られててスパイ的な活動が行われたりしてるとか読んだけど、生徒間の意識の差は感じる?

そういや

学習班?学習組?だったっけ。そういやなんか記事見た気がする。

あれは幹部候補っていうか、クラス委員とかが集められて週一とかで空手習わされてるだけだよ(見ていた範囲で。座学とかあったのかは知らない)。

生徒間の意識の差は感じる?

意識範囲微妙だけど、意識の差はあるよ。意識高い(?)のは朝鮮大学行って総連職員なったり、それでいうと朝鮮学校に行ってない人でも、ルーツ国籍と向き合ってて自覚してるってのもいたりかな。

体制を維持しようとする右翼(?)的な政治思想の生徒とかいる? そういう子は、政治に興味ないノンポリと差があったりする?

おれのときが今の体制じゃないから、今どうかはわからないけど、先述の意識高い(?)のうちに何人かいるのかしら、ぐらいかな。知らんけど。

進路をどう取るかってのはもちろんそれぞれあるけど、普段学生生活内で、思想が突き抜けてるのはいなかったよー。

在日北朝鮮のためにどうってよりは、在日同士のコミュニティというか、同じ属性の人たちで繋がろうぜってかんじがメインかと〜。

http://anond.hatelabo.jp/20170428075305

去年はこんなニュースもあったような。「都内朝鮮大学校「日米を壊滅できる力整える」 金正恩氏に手紙在校生に決起指示(1-2ページ) - 産経ニュースhttp://www.sankei.com/politics/news/160920/plt1609200005-n1.html

おっと、こんなのあったのか。

うーむ、どうすっかねぇ。おれははっきりいってわからないんだけど、同級生中の人いるはずだから聞いてみようかな。数年ぶりの連絡がこれってのがちょい引けるんだが。

http://b.hatena.ne.jp/entry/334136813/comment/lli

記事の方に書いちゃったけど、韓国籍を持つ生徒が朝鮮学校に通うのはどういった経緯なんですか?

韓国籍を持つ生徒が朝鮮学校に通うのはどういった経緯

この辺りが一番ややこしいし、たぶんぴんと来ないところだと思うんだけどとりあえず書くね。

たぶん、おれの中のゴー☆ジャス宇宙海賊)が何回も「訳わかんねぇだろ!」って言うよッ!

まず言ってもぴんと来ないだろうところで、元記事で"朝鮮籍は32%、韓国籍が63%。日本国籍も5%"ってあるけど、朝鮮籍韓国籍の生徒の本籍地(だったっけ?登録基準地。つまりはおじいちゃんとかひいおじいちゃんとか、日本に来た1世の住所)はほとんど全員韓国だよ。日本都道府県いかんじでいうところの慶尚道とか全羅道とか。あとは済州島って島。

この段階で訳わかんねぇだろ!ってかんじなんだけど、まぁそうなっていて、つまり住所は全員韓国なうえで、国籍朝鮮籍韓国籍に別れてる(日本国籍の生徒はわからない。たぶん日本籍から普通に日本の住所かと)。

で、なんでそうなったかというと1世の話になるんだけど、超絶シンプルに言うと、国が分かれる前に日本に来て、戦争終わったらなんか国が別れてんすけどっつって、元記事にある記号としての朝鮮籍のままか韓国籍にするか、って感じになって、1世が選んだ方になってるってイメージでよいかと。というわけで住所は韓国だけど国籍朝鮮籍ってのがわんさかいる。

おれの場合は親父が朝鮮籍母親韓国籍登録基準値はどっちも韓国済州島。訳わかんねぇだろ!

で、元は朝鮮籍だったけど、大学とき意識高くアメリカ語学留学したいなっつって、朝鮮籍だとビザ危ういかもねってなって、母の方の韓国籍に籍入れて韓国籍に変えて無事アメリカに。訳わかんねぇだろ!

ってことで違いはパスポートぐらいかな。朝鮮籍状態海外旅行(元記事にあるように修学旅行北朝鮮以外)したことないから、朝鮮籍状態海外旅行がどうなるのかは身をもって知らないけど。朝鮮籍だと「パスポート」じゃなくて「再入国許可書」ってやつになる。ビザはどんなかんじかわからん

ってことで「韓国籍を持つ生徒が朝鮮学校に通うのはどういった経緯なんですか?」ってところは答えられたかな。

国籍とどこに通わせるかはあん関係いかんじ。経緯というか朝鮮学校に通う韓国籍がいる理由ってかんじになっちゃってるけど。

まぁ経緯ってところでいうと、北朝鮮総連系の朝鮮学校韓国民団系の韓国学校ってのがあるけど、まぁ最初の話に戻るけどどっちに入れるかは親の意志だね。

朝鮮籍北朝鮮籍ってのが元記事にあるけど、まぁ朝鮮学校に通う限りは北朝鮮って認識でいいと思うよー。

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/feature/586

◯元記事

朝鮮学校のいま 「在日」生徒たちの胸の内 - Yahoo!ニュース

https://news.yahoo.co.jp/feature/586

ブクマ

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/feature/586

メタブ

http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/feature/586

ってことでご質問いただきましたので。はてな記法ほとんど使ったことなくあってるかわからないので、間違ってたりこうしたらなおよしってのあれば教えて〜〜。

必要スペックいるなら追記するけど15年ほど前に卒業幼稚園から高校まで朝鮮学校だよっ!

※まぁ全体を表すものじゃなくてあくま個人の感想です

http://b.hatena.ne.jp/entry/333956559/comment/akihiko810

id:Eizo0000 朝鮮学校に行くことは親の意志で決められるんですか?それとも自分意志? あと普通大学朝鮮大学校に行く割合てどれくらいですか? 挑戦大学行くとその後の進路は韓国日本会社なんですか?

朝鮮学校に行くことは親の意志で決められるんですか?それとも自分意志

学校に行く」っていうのが段階にもよるから後でパターン分けるけど、ほぼ100%親の意志かな。

朝鮮学校幼稚園から大学まであって、wikiに書いてるけど

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1

大学東京ひとつだけ、高校都道府県ひとつあるかないか中学校ひとつ都道府県に0〜5個、小学校は一番多い東京で9個。

イメージでいうと、小学校から高校まで同じ場所で一貫してるパターンか、あるいは小学校がいくつかある都道府県なら、小学校がいくつか合併するような形で中学校になって、その中学校合併する形で高校になって、みたいなかんじ。だいたいはエスカレーターで小→中→高に進んでいく。

ってことでスタートはほぼ小学校(or幼稚園)なんだけど、どの小学校に行くかってほぼ親の意志だよね。「おれは慶應幼稚舎に行きたい!」ってなる6歳とかいるのかな。

中学校高校から朝鮮学校に編入ってパターンは少なくて、ひとつ学校で1学年にひとりいるかいないかぐらい。ほとんどが小学校で入ってそのまま高校まで。

で、逆にあるのが、小学校朝鮮学校に行って、中学高校から日本普通学校に行くパターン

普通に受験して入るんだけど、このパターンはだいたい塾とか行ってて成績がいい生徒たちかな。偏差値高い中学高校に行ってそのまま東大京大やら早慶に行くのもいる。数は少ないけど。

自分意志」が出て来るのはこのタイミングかな。だから意志が入ってくるのは朝鮮学校に行くタイミングじゃなくて日本学校に行くことに対して働くかと。

あと普通大学朝鮮大学校に行く割合てどれくらいですか?

当時の体感でざっくりだけど、高校を出るタイミングで半分は就職、半分は進学。

進学の中には、日本大学受験組もいるしスポーツ推薦とかも結構ある。スポーツ強い。)やら短大やら専門学校に行くのもいれば朝鮮大学に行くってのもいるんだけど、朝鮮大学に行くのは全体の1〜2割ぐらいじゃないかな。

http://www.sankei.com/politics/news/160410/plt1604100008-n1.html

1学年に600人ってことかな。単純に10個の高校で割ると同級生で60人なんだけどってそんなにいるかな。どうだろ、いたかもしれない。当時で60人なら2〜3割ぐらいかわからん

挑戦大学行くとその後の進路は韓国日本会社なんですか?

※誤字そのままにしてごめんやで。引用って形で。

朝鮮大学に行ったあとの進路については詳しくないからわからないけど、特殊なのを除くと普通に日本会社が多いんじゃないかな。

日本会社ってのにも在日経営してる会社ってのもあるので、それを日本会社韓国会社かどっちに括るかはわからないけど。まぁ日本会社でよいかと。

で、特殊っていうのは、朝鮮学校小学校高校)の先生になるか、総連組織職員になるってのもあるかな

組織ってところで変なの想像するのはダメよ、やんわり言うとコミュニティセンター的なかんじ。在日同士関わり持とうぜってかんじで集まる場所イメージで。大きな都市で、区にひとつあるかないかぐらいかな。この辺りは説明が難しい。まぁでも危ないやつではないよ。

ってかんじかな。他もございましたら。

あとどうでもいいけど、PCは全文読めてスマホは「アプリ続きを読むしか無い元記事マジでやめてほしい。UX考えろ〜〜

(追記)

http://anond.hatelabo.jp/20170428112309

ネトウヨまとめサイトによくある反日教育ってほんとにやってるの?

本当だったらその後日本社会暮らしていくの大変そうだと思うんだ

それとも「日本という国はは嫌いだが、目の前のこの人はいいヤツ」って感じ?

ネトウヨまとめサイトによくある反日教育ってほんとにやってるの?本当だったらその後日本社会暮らしていくの大変そうだと思うんだ

前提として、ベーシックな授業の内容は教科書文字と話す言語朝鮮語ってだけで、内容は普通英語とか理科とか日本教育と同じ。be動詞+ing現在進行系ですね、とか。

で、オプション的にというか、日本学校に無い授業では金日成歴史とか、朝鮮の歴史とかが週に一コマあるかどうかだったかな。

ちとどう受け取るかで意見分かれるところとも思うんだけど、ファクトとしては、その朝鮮の歴史の授業なんかで、「植民地になりました」的な記述だったり植民地時代日本アメリカ兵士が云々みたいな記述はあるね。

ただまぁ今の日本に対する反日教育ってのはたぶん無いと思うよ。当時の〜〜、ってかんじ。それをどう受け取ってどう現代昇華させるかはまた個人問題なっちゃうんだけどねぇ。

レベル歴史認識がすれ違ってるところだからどっちがどうとかでも無いとも思うけど。

で、"ネトウヨまとめサイトによくある反日教育"ってのがどういうのがあるのかわからないんだけど、ちょいググって

https://www35.atwiki.jp/kolia/pages/1318.html

ってのを見たところ具体的な記述

>「(朝鮮学校は) 金日成 を崇拝しない人は人ではないと教えている。限度を超えた民族教育国税を投入するのはいかがなものかと思う」と疑問を呈した。

とか

> 故 金日成 主席と金総書記写真が随所に掲載され、必ず「敬愛する」「偉大な」という修飾語をつけた上で、その業績が賛美して描かれる。

かな。

両方文字通り読んだときに直接「反日」って読み取れる人がいたらすごいとも思うんだけど、まず前者の「金日成を崇拝しない人は人ではないと教えている」ってのは、うーん、あったかなぁ、人ではないって言うのがいるかどうかわかんないけど、まぁ金日成すげぇぜ!、ってかんじの教えではあるね。まぁ国つくった人だし。

> 故 金日成 主席と金総書記写真が随所に掲載され、必ず「敬愛する」「偉大な」という修飾語をつけた上で、その業績が賛美して描かれる。

これは逆枕詞みたいなもんかな。

「あをによし」って来たら「奈良」って来るの古典で習ったと思うけど、その逆、「金日成」の前に「偉大な」ってセットで来るだけ。

ってところかな。もうちょい「反日教育」の具体例教えてくれたら回答できるかも。

それとも「日本という国はは嫌いだが、目の前のこの人はいいヤツ」って感じ?

民族的イデオロギーで「日本という国はは嫌い」ってのがどれぐらいいるのかは疑問かな。ゼロじゃないとは思うけど少ないと思うよ。

そういうのじゃなくて最近国会ウォッチャー氏の増田とか見てて、日本やべぇなおい、って考えたりするのはまぁ普通の日本人と同じぐらいじゃないかな。

2017-04-26

北朝鮮問題の穏便な解決方法

1.南北統一して真の朝鮮に戻る

2.核開発を放棄する

3.上記の見返りに制裁終了、国際社会に復帰する

まあ、日本にまったく持ってメリット無いですよね。

統一したら日本最前線竹島問題領有権問題でいつ戦争勃発してもおかしくなくなる。

なのにくずみたいな戦力しか持たない大韓民国じゃなくて北の技術に吸収された統一朝鮮とかだったら逆に日本ヤバイ

なので北朝鮮アメリカ先制攻撃を食らって再起不能となり、米中露の3カ国に分断されているほうが日本としては望ましい。

それができない以上、いつ頭の上に核ミサイル降って来るか分からない現状を許容するしかない。

とりあえず首都圏は壊滅確定?

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