はてなキーワード: 下品とは
日曜の朝、珍しく私よりも早くに起きていた恋人がソーセージとスクランブルエッグをフライパンで焼いてつくってくれた。
普段、朝ご飯を食べない彼と朝から食卓を囲むのはとても稀少だ。
せっかくなので、私は冷蔵庫に余っていたアスパラガスを焼き、ついでに食パンもトースターでチンした。
卵の黄色、ソーセージの茶色、ケチャップの赤、アスパラの緑、パンの白……非常に代表的で理想的な朝ご飯ができたではないか。
「準備してくれてありがとうね、いただきます」そう言い合って食べたブレックファーストは、非常においしかった。
たまにはこういうのもいいね。そう思いつつも、心のどこかで「かー!朝ご飯はやっぱ一人で食いてえな」とも思っていた。
平日の彼は出勤が早いので、私が朝ご飯を食べる頃にはもう家にいない。
私は彼を見送った後、野菜とキノコを刻んでドレッシングを手作りしてサラダっぽくして食べる。
そして「はい栄養補給終わり、あとはフリータイム」とコーヒーと菓子パンなどの甘味をゴリゴリ食べる。これが私のモーニングルーティンだ。
食べながら24時間チャージ系のアプリ漫画をスマホでダラダラと見て、ボリボリお菓子を食べて、のんびり洗いモノをしてテレワーク開始。
これが平日の私。誰もいないので食べ方も何にも気にしない。お母さんに小さい頃「これ」と言われるような食べ方だってしちゃう。
彼のいない朝は私にとって、非常に下品でだらしなくて、最高に自由な一人時間なのだ。
別に彼がいて同じことをしても、例えば朝からお菓子ダラダラ食べてても、まあ彼なら許容してくれるだろう。
でも、なんかやっぱり、「ひとりでダラーーーっと品なく過ごす」と「彼といるときに人に見せられないような状態でダラダラする」というのはちょっと違うと思う。
一人暮らしをしていたときと同じように、誰の目も気にせず、親の「これ」もなく、過ごせる平日の朝ご飯の時間が、私は好きなのだ。
でも、一人暮らしに戻りたいとも別に思わない。誰かといる時間も、誰ともいない時間も、どっちも楽しめる今の生活は非常に気に入っている。
ただ、素敵な朝ご飯をふたりで食べながら、「カー!スマホアプリ見て下品にくいてー!」ともちょっと思ってしまったなって話。
変なの。夜ご飯を彼と食べられない日は「彼と食べたいな」と思うのに。変なの。
「ご自由にお持ちください」と書いて置いてあるモノを全部持ってっちゃう人のことをどう思うだろうか。
ホームセンターの端材置き場にある端材を軽トラで全部持ち去る。あり?なし?
ATMの脇に置いてある封筒を洗いざらい持ち去る。あり?なし?
スーパーのビニール袋のロールをガラガラ回してたくさん取ってく。あり?なし?
置いてあるビラの中から裏が白いものをメモ帳を作るために全部持ち去る。あり?なし?
物質的に豊かに育った人って、基本的にこういうことはしませんよね。恥ずかしいから。誰に対して?→自分に対して。
タダなんだからもらえるだけもらってしまえという行為が、〈自分から見て〉浅ましい、さもしい、卑しい、見苦しい、下品と感じて、抵抗をおぼえる。
このような、己の内なる線引きで自分の行為を律する規範を〈節度〉とか〈行儀〉と言う。
それは明文化された社会規範ではなく、環境の中で培われ、コンテキストでも変わる、相対的な規範だ。
生まれや育ち、性格といったさまざまなコンテキストをひとりひとりが持っているから、当然その規範も人によってさまざまだ。
なので、タダで持っていっていいものを「どのくらいなら持っていってもセーフか」という線引きも人によって異なる。
「全部持ってっちゃあかんの?」という人もいれば、それに対して「よしなよ、みっともないよ」という人もいる。
一方、置いたほうも置いたほうで、「普通はひとり1個しか持っていかんやろ」とか「ごっそり持ってくやつはおらんやろ」といった、〈置く人なりの線引き〉で置いている。
己の線引きでどうするかとともに、置いた人はどういう線引きでこれを置いているのか、まずは両者を引き比べるべきだろう。
両者に隔たりがあるのなら、どちらに沿うべきか考える。
己の線引きで行動するなら、それは〈利己的〉と呼ばれる。
提供する側の線引きを想像して行動するなら、それは〈空気を読む〉と呼ばれる。
そして、両者の線引きがもし異常にかけ離れていたら、それは〈非常識〉と呼ばれる。
〈常識で判断しろ〉〈ちょっと考えればわかるだろ〉というのは、他人が引いた線を想像することであり、世の中の大多数の人はどう捉えるだろうかと〈社会通念〉に思いを致すことだ。
タダで提供するなら全部持っていかれる肚を括れとか、全部持っていかれて腹を立てるなら最初から上限数はいくつまでと注意書きをしろ、と要求するのは、こうした〈社会通念と折り合いをつける努力〉の放棄にほかならない。
ある種の発達障害を持つ人にとってこうした〈暗黙の了解〉が理解できないことは承知している。
だが、ブコメを見ていると、一定の常識は持ちながらも能動的主体的に社会と折り合いをつけることに関しては拒絶する人、早い話が青い臭い反抗期のクソガキみたいなやつらがウジャウジャいて引いた。
楽天、ぐるなび、食べログ、ホットペッパービューティー、価格コム、映画.com、アットコスメ、Amazon、メルカリ、各種漫画アプリなどの、利用者がレビューを投稿できるサイトがある。
ユーザー名(ニックネーム、ハンドルネーム)は、必ずしも名詞である必要はない。
はてなーとしてリベラルな考えを啓蒙したり、政治的思想を広めたり、褒め殺しをするような名前にしている。サイトによって字数制限はあるが、それに収まるような名前を考えるのも楽しい。
どこのサイトも下品なものや公序良俗に反するものや実名はNGだが、政治的主張や社会風刺や社会問題に関するものはOKらしい。
例えば、こんなユーザー名にしている。
・NHK受信料は払いません
・ダメ、ガッカイ。
・同性婚を認めましょう
・年少扶養控除復活を望む会
ホットペッパービューティーなんかだと、利用したサロンが律儀にコメ返をくれるので、こんな返事が帰ってきたりもする。
なんで、あんな酷いセクハラ作品が子供たちに大っぴらに売られているのでしょう?
まず、男二人が主人公で、捕まるのは女性。これは明らかに女性差別です。
主人公が好色なイタリア人の男。これも子供の教育にはよくありません。
特に二人のあの鼻!!卑猥すぎます。子供が性犯罪オス原因の一つです。
それにクリボーってなんですか!!クリ○リスと棒を合体させた非常に卑猥なネーミングですよ。
パワーアップアイテムもそうです。キノコに花。これも男性器と女性器です。
しかも、大きくなるんですよ。勃起です勃起。子供には早すぎます。
あのスターってなんですか?よく男性の読むいかがわしい漫画で女性の乳首や性器を隠すのに用いられるのが星マークですが、それが逃げる、
マリオが追いかける、こういった姿は見せたくないものを無理やり剥ぎ取ろうとするレイプを連想させます。あぁ、もう言い尽くせません。
家の周りに畑があった。生計の足しになってんだか、税金対策や趣味のレベルなのか、微妙に分からんレベルの規模のやつが。
繁華街にほど近い都心部で生まれ育った連中からは田舎と言われそうな、トーキョーといえば全部大都会だと思ってるような田舎者からは全然文明のある方だろと言われそうな東京西部の郊外だ。
道路を挟んでウチのマンションの目の前にその畑の直売所があった。ガキの頃よくお遣いで行かされて、毎度オマケを持たされた。おれが通い始めた時はウコンとかよう分からんものを貰ってきて、姉におまけの豪華さでマウントを取られ大変不快な思いをした。曰く、自分が行けばトマトとかもらえるのにお前はウコンなんぞもろてきてどう食うねんと。
それでも通っていくうちにインゲンとか枝豆とか、トマトさえも貰えるようになってきた。ある日目当てのものがなくて手ぶらで帰ろうとしたところ、タダで数種の野菜を袋に詰めて持たされたのを割とよく覚えている。
そんな光景も中学になれば無くなってきた。直売所が閉じたからか、おれが自我を持ち反抗期を迎えたからかは忘れた。
今やその手の地域のヌクモリティ的なものも煩わしいなと思う。事あるごとに「昔は素直で優しかったのにねえ」と言う母にイラッとして、人間は変わるもんなんです〜〜〜変化を否定すれば成長をも拒んでしまうんです〜〜〜いつまでも自我がなくて可愛かった子供の記憶に縋りついててウザいです〜〜〜と反抗期のおれは心の中でそう思っていた。今でも全然思う。それでもやっぱり他人の親切に素直にあやかっていた時期もあったんだよなとも思う。
お遣いには行かなくなっても畑は以前在る訳で、家の周りの光景として、原風景の一つとして心に刻まれてる。好きから嫌いかはともかく。
中学高校の頃、さっさと家を出たいという気持ちが常に頭の半分以上を支配していた時によく夢を見た。家の庭のフェンスによじ登って、夢特有のフワフワとした跳躍で畑を超えて行く夢だ。
逃げた先に何があったかは覚えてない。何もなかったかもしれない。少なくとも天国ではなかった。でも逃げる事に意味があった。
夢なんて大体理不尽で不条理で謎の存在に謎に追っかけ回されるばっかりだし、脳のウンコでしかない。示唆的なものがあるとかユングの類は全部まやかしだと思ってる。それでも家の裏の畑ばっかりは固有のモチーフとして何度も何度も出てきた。ウンコでも健康状態を知るのには役に立つのかもしれない。予知夢とかは全部嘘か偶然か思い込みだと思う。
夢に限らず、100mほどの畑沿いの道を歩くのは好きだった。夜中にひっそりと家を抜け出して、音楽聴きながら畑越しに見える団地や電波塔、送電塔みたいなデカ建造物をボーッと見てるとナイトホークスでも鑑賞してるような気持ちになれた。都会のダイナーには行けないけれど、郊外には郊外なりのものがある。
住宅街には住宅街の良さがあるとか言う人いるけど、おれは人の生活の息づきとかには何の魅力も感じない。人様の生活に勝手に思いを馳せて勝手に感動するステーションバーめいた行為をおれは下品とすら思う。だから住宅街の静かな畑の特に静まり返った夜中が好きだった。公園も悪くないけど、浮浪者とかおれの同類みたいな陰気ティーンや騒いでる学生風の集団がいたりしておちおち黄昏ぶってられない。
そんな畑もおれが高校卒業する手前辺りで、なんぼかを残しつつ潰されて家の建設が始まった。噂じゃ畑の持ち主はマンションを持ってて不動産収入があるらしい。やっぱり畑は本格的な仕事ではなかったんだろうか。
大学入って暫く経ってから一人暮らしを始めて、都心へよく行くようになった。今までは交通費も覚束なくて両手で数えられる程度しか行けなかった都心に。バイト先もわざわざ遠くの都心を選んだ。人の金で行けるのだから美味しい話だ。駅から駅の間を歩いても途切れる事なく繁華街が続く光景には心踊るものがある。夜中でなくとも歩いてて楽しい。夜中だと尚更楽しい。
それでも人のいない静かな場所で過ごすのは変わらず好きだった。聖蹟のゆうひの丘までよく1時間かけて歩いて行った。カップルが多かったりしてちょっと落ち着かないけれど、高台から見下ろす夜景は畑越しに見える景色と通ずるものがあった。終電で行く冬の鵠沼海岸も夏の芋洗い状態が嘘みたいに人がいなくて趣深かった。多摩川もいい。場所さえ選べば人がいなくて、トランペット担いで行って一応ミュートつけて練習してみたりたした。「河原でトランペットを吹く青年」を自分がやっている状況に興奮を覚えた。夜釣りと称して魚がいるかも分からん場所で竿を振り回したりもした。ボウズのまま迎えた朝陽はマジで綺麗だったし、なんか何かを急かされてるような気もした。この頃にはもう家の裏の畑を飛ぶ夢は見なくなっていた。
大学で色々あって最近また実家に戻ってきた。近所の景色もマイナーチェンジはありつつ、まあたかだか数年の事なのですぐ目に馴染んだ。
畑の跡地の住宅地は、おれが出ていく前はほとんど更地だったのが割と家の形になっていた。家の骨格越しに電波塔が点滅する景色はなんだかディストピアめいた味があって、これはこれでちょっと好きだった。
施工は日々進んでいって、人気のない家の殻が出来上がって来る頃にはもう遠くの景色は遮られて見えなくなってくる。新しい住宅地の中には公園と称した小さなスペースも出来ていた。空き家に囲まれたそこで夜にタバコ吸いに行くのがなんとなくルーティンになっていた。
カーテンも張られていないガラス戸からは工事用?の照明が付けっぱなしなのか、ほんのりと照らされるもぬけの空の部屋が見える。それを見ているとガラスをブチ割って土足で座り込んでタバコでも吸ってトレインスポッティングを気取ってみたい気分になってくる。廃墟どころか新居だし、そもそもそんな度胸はないので妄想止まりだけれど。
つい最近からその住宅街にも一挙に人が棲み着き始めて、夜中に歩いていても家々から放たれる息づきからなんだか圧迫感のようなものを感じる。
件の公園も日中はすっかりガキの遊び場になっているのを目にする内、なんとなく足が遠のいた。自分だけの場所が地域の(幼い子供を持つ家庭の)共有物となってしまったような気分だ。元々おれの場所などではないのだけど。
それでも時々ベンチにストロング系のロング缶が置いてあったりして、なんとなく捨て主にエンパシーを感じたりする。
平成狸合戦ぽんぽこで描かれたような再開発へのメッセージとはまるで別種だろうし、開発といってもごくごく小規模なものだけど、おれはおれなりのイヤさを感じているのかもしれない。
おれは地域のヌクモリティがさァ!文化資本がさァ!とかそういう話がマジで嫌いだ。ネットでその手の話題が露悪的に語られがちなのもあるけれど、土地がどうあろうが各々の生き方次第だろって思うから。おれは構造主義より実存主義が好きだ。
「頬張る」という言葉はみっともなく下品に思えるが、しばしばメディアが慣例的に好んで使用する
同様に「泣き叫ぶ」「嗚咽」「慟哭」「激怒」「恫喝」「政局」「嬉しい悲鳴」など定型の気持ち悪い言い回しがしばしば使われるが
大阪の都市部は若い女の子が多いなという印象で東京や他の街よりなんだか活気がある印象を受けていた
そんな中で同年代の友達も一応できて、そこそこ人付き合いもし始めてだんだん気付き始めてしまった
それは自分に対しても、他人に対してでも割とすぐわかるくらい外に感情がそれはもう滲み出ているのだ
例えばジムに行った時、ほぼすっぴんメガネで行くと、トレーナーは半笑いでなぜか話してくる
時たま真面目な化粧をしてコンタクトをつけて行くと言語通じない外国人でもわかるんじゃないかと思うくらい態度を一変させることもある
変わらない人ももちろんいるけど
それくらい露骨
東京以外の場所にも住んだことはあるけどそれにしてもここまで複数人に同じ印象を抱いたのは初めてで正直戸惑っている
明らかに顔が歪むからなんだか下品に感じるし、言動も大阪以外では通用しないような幼稚さが垣間見えることも多い
他の土地に居着いている大阪出身の女性にそんなこと感じたことはないけど、大阪の女はちょっと異常
(下品すぎて)狂いそう……!
とある嘘松系ラノベ作家がここしばらくのあいだ鍵垢になっていたのだが、ちょっと前に出所してきた。
鍵かけた理由も炎上が原因と思われるし、これからは心を入れ替えて真面目に作家活動を頑張るのかな……と思いきや、早速のスカッと系嘘松っぽいツイートを投稿。
多数の嘘松系アカウントを見てきた者として感じるが、嘘松にはかなり強い依存性がある。特に、小説家やその志望者にとっては。
言うまでもないが、小説というのは、言葉だけを使って一つの世界を作り上げるという、とんでもない縛りプレイの産物だ。
しかもあらかじめ、「これは嘘である」ということが暗黙の了解として読者に共有されていることが、基本的なルールとなる。
(もちろん私小説や歴史小説のような、虚実を曖昧にすることで成立するタイプの小説もあるが、ここでは普通のエンタメ小説に絞って話を進める)
その上で読者の興味を引き続けなければいけないのだ。もはや無理ゲーと言ってもいいだろう。
「あり得ない」「考証が甘い」「で?」「だから?」「は?」
そんな難行に取り組んでいるというだけで、プロアマ問わず全ての小説執筆者は尊敬に値する。
だが、そういう小説の困難さに直面しているからこそ、小説書きの眼に「嘘松」は魅力的に映ってしまうらしい。
虚構でありながら「これは実話である」という体で語られる嘘松は、当然ながら人の興味を引きやすい。理不尽な被害や、そこからの逆転などの刺激的な内容なら読者も、そんなことがあったの!?と食いつかざるを得ないだろう。小説の基準で言うならチート級のつかみだ。
そして、現実には人の心をざわつかせる材料がいくらでも転がっている。サヨクとウヨク、フェミとアンフェ、表自とポリコレ、肉食とヴィーガンといった対立は、下品すぎて小説ではなかなか正面から扱うことが難しいが、嘘松なら格好の素材である。
また、嘘松では小説のテクニックをある程度は流用できる。そのためプロとして最低限の文章力、構成力を持つ作家なら、誰でも100RP級の嘘松を連発できて当たり前なのだ。
真面目にコツコツと小説を書くよりも、はるかに低いコストで「読者」を得ることができる嘘松。
一線級の超人気作家ならともかく、こういってはなんだが一山いくらのB級作家が嘘松活動にのめり込んでいくのも無理はない。
しかし、嘘活を続けていると、作家の感性は次第に嘘松にむしばまれていく。
嘘松と小説は、現実ではないという一点において共通しているし、前述のように技術として似通った面もある。だが、やはり決定的に別物なのだ。
嘘松の多くは、はっきり言ってしまえば、「嘘松(実話)としてなら面白いが小説としてはイマイチ」というレベルの内容がほとんどだ。嘘松に特化した想像力では、小説(フィクション)を支えるだけの真に力強いアイディアを生み出すことは難しい。
また、嘘松作家の書く小説はどこか薄味で、登場人物にも世界にも魂が入っていないように感じる。「実話」という強力なカードに頼って、世界を自力で構築する作業を怠ってきたのだから当たり前だろう。
そして何より、最終的には作家自身が、自分の作るフィクションに興味を保てなくなるようだ。
こんなの、ただの「作り物」じゃないか。「現実」に勝てるわけがないじゃないか、と……
そんな嘘松作家たちの哀れな姿を、俺は数えきれないほど見てきた。
ただ、嘘松特化型クリエイターであることが、必ずしも不幸であるとは限らない。
現に、別のとある嘘松系作家も今は、自分自身を主人公にした嘘松の延長線みたいな題材の商業作品で大いに人気を博しているようだ。
そういう道もなくはない。経済的な成功だけで満足できるのなら、本人が納得できているのなら、それでも別にいいんじゃないかとは思う。
それでも敢えて警告しておこう。
嘘松には決して手を出すな。
もしも本当の作家でいたいのなら。