はてなキーワード: A級戦犯とは
TBSの衆院選開票特番で太田光が小選挙区で落選した甘利明にインタビューした件で、太田の態度が悪すぎると炎上しているがそれはそれとして、太田が甘利のことを「戦犯」と表現したらしい。
甘利明氏に「戦犯」「ご愁傷様でした」 太田光のぶっこみに賛否「面白い」「失礼にも程がある」: J-CAST ニュース
https://www.j-cast.com/2021/10/31423779.html
太田さんが「ご無沙汰してます。太田です」とあいさつし、甘利が「どうも。お元気ですか?」と応じると、太田さんは「元気です。甘利さんお元気そうじゃないですね。何かあったんですか?」とし、「甘利さん、これ負けるとなると、自民党的にも相当、幹事長ですから責任問題になりますよね?」と質問した。
甘利氏は「ええ、責任を感じております」と答えると、太田さんは「どの辺が一番原因だと思いますか?」と立て続けに聞く。甘利氏が「自民党全体ですか?」と確認すると、太田さんは「いや甘利さんが。甘利さん、これもう戦犯ですよね? もし負けたら」と言葉を浴びせた。
太田光 自民党・甘利幹事長に辛辣発言連発「戦犯」「資質にがっかり」「ご愁傷様でした!」― スポニチ Sponichi Annex 芸能
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/10/31/kiji/20211031s00041000609000c.html
番組は出口調査の結果で、自民党は単独過半数ラインをかろうじてキープしているものの、議席は大幅減と伝えており、太田は「どのへんが原因だと思いますか?甘利さん、戦犯ですよね、これ。負けたら」と厳しく指摘した。
自民・甘利明幹事長 幹事長辞任の意向、岸田政権に打撃:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/140021
自民党も大きく議席を減らす見通しで、自身も小選挙区で厳しい戦いとなっていることに、「力不足だった」と説明。番組で共演したお笑い芸人の太田光氏から「戦犯ですよね、もし負けたら」と問われると、「そうですかね」と応じた。
太田は、小選挙区で議席を逃した責任が甘利自身にあることや、幹事長という立場で党全体にも影響があったことを指摘しようとして「戦犯」という表現を使っている。
この用法または「誤用」はチーム同士で戦う対人戦ゲームで主に使われるものと認識していたが、テレビで(バラエティ風味とはいえ)政治をテーマにする特番にメイン格として(番組名にも名前が入っている)出演する者が使うようになったと思うと感慨深いとすら感じる。
チーム対戦ゲームでは、負ける原因を作ったプレーヤー(または責任をなすりつけたい相手)をよく「戦犯」と呼ぶ。敗因を探る過程が「犯人探し」のようであることから連想されているのではないかと思うが、本来の意味である「武力紛争に参加する当事者が勝敗に関わらず守るべきルールに違反した者」(大まかに言えば)とは全く異なる。
これが多用されるのを見ていると、日本のA級戦犯も「敗戦の原因を作った人たち」くらいの認識な人が結構な数いるんじゃないかと思ってしまう。仮に敗戦の原因にもなっていたとしても、だから戦争犯罪者になるわけではない。
(「勝者が敗者を裁くんだから実質そんなもんだろ」みたいな皮肉も想像できるが、表の意味を飛び越えてカジュアルに裏へ直結したらもう意味が違うと言うしかない)
同じようにゲームの文脈でよく見かける「誤用」には「人権」もある。
こちらはソーシャルゲームでよく使われて、「持っていてはじめて人間と扱われるもの」くらいの意味。例えば「人権キャラ」は理想のパーティ編成に欠かせないような最強格のキャラクターを指すことが多い。ゲームシステムによっては「人権アイテム」だったりもするが、いずれにせよ強い存在なのでレアリティも高いことが多く、金銭や時間をたくさん費やさなければ手に入らない。
「持っていない者は人にあらず」という含みがあり、あらゆる人間が生まれながらに持っている普遍的な権利とは全く異なる。
意味としては「持っていてやっと一人前と扱われるもの」に近い。有用な知識や技術を身につけた者という意味で「一人前」のほうが適切だと思うが、このあたりの混同はあるような気がする。
高市氏“サナエノミクス”で立候補・・・総裁選動き加速(2021年9月8日)
https://www.youtube.com/watch?v=8uB3fzmS1YI
日本人として当然ではありません。憲法20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」とあります。
参拝する方が問題です。
中国・韓国はもちろん、ネトウヨが大好きな台湾、シンガポールやロシアからも過去に強い非難があり、
また、アメリカやEU、フランスからも「余計なことすんな」と批判がありました。
このようにたくさんの国々を巻き込んだ国際問題となり、他国からの日本への風当たりが強くなります。
靖国神社にはA級戦犯が祀られており、参拝は戦争責任がある者を肯定することと捉えられてもおかしくありません。
それを日本の内閣を代表する総理大臣が行うことは、宗教行事の範疇とは言えないと考えるのが普通でしょう。
また、過去に国際問題となっている事実からも、挙げられた行事と同等のものであると考えるのはおかしいでしょう。
あくまで総理大臣としての参拝ではないというスタンスを(参拝後ではありますが)取りました。
批判はあれど憲法20条によって保証されているため、一定の線引きをしたと言えます。
これを公人として正式に参拝すればどうなるか、ぜひ想像してもらいたいです。
ドイツと違って戦争の反省がないと国際社会から嘆かれることがあることも一緒に考えていただきたい。
未だに靖国参拝で騒いでるのが残念
私も非常に残念です。恐らく違う意味でしょうけど。
A級戦犯が祀られたのは1978年からであり、合祀されていることを理由に諸外国は遺憾を表明しているわけです。
戦没者と戦犯を区別して供養できる仕組みが必要であると強く思っています。
人間であり、政治家です。そして総理大臣になったら、参拝すると表明しているわけです。
事実上、日本国民を代表する(本来は内閣の代表)人間である以上は、
他国を意識した立ち回りをしなければ日本国民の利益になりません。
総理大臣を直接投票できない法制度である以上、こういった事には声を上げていきたいです。
靖国神社の参拝反対者って何なんだろうね?
少なくとも日本の将来を考えている人でしょう。
大日本帝国バンザイ!という思想や、中韓にマイナスイメージを持つのも勝手です。
ただ、今の日本の地位を貶め、ひいては今この国に住んでいるたくさんの人々に
不利益が生じる可能性が高い本問題に対してはしっかりとした認識を持ってほしい。
恐らく(ネトウヨによると反日メディアの朝日系列である)テレビ朝日アナウンサーが質問したことによるコメントですね。
参拝して悪い理由の例を挙げると、他国の国民感情を害するからです。
例えば、日本が進めているインバウンド政策はどうなるでしょうか?
2019年の訪日外国人のほとんどは中国・韓国・台湾で、東アジアからが70%以上を占めます。
軍や国の暴走、つまりは戦犯により多くの方が望まずして戦地に赴きました。
これらを同列に扱うからよくないんじゃないですかね。
日本人なら重要閣僚クラスが贈られるもので、庶民には縁がない。
「航空自衛隊の育成ならびに日米両国の親善関係に終始献身的な労力と積極的な熱意とをもって尽力した」ということが理由だった。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55459?page=4
名目上は航空自衛隊育成がうんたらかんたらでも本当は日本を破壊したのが日本政府から見て功績なんだろ
コロナでもわざと感染を広げようとバーベキューして自分ら自身は安全と報道してるワクチンを打たないよね
https://news.yahoo.co.jp/articles/da4098c1709252edba67716f37bd274f3a161a84
※あおりでもなんでもなく、僕の感想なんで皆さんの意見聞かせてください。
当然A級戦犯もいますわね。戦争を起こしたA級戦犯が神で、そうして起こった戦争で死んだ人も神なわけですよね。
A級戦犯を神として扱うってことは、日本は戦争に対して何らの反省もしていないということじゃないんでしょうか。
実質的に戦争を起こした張本人が神であり、その人 (神) を今生きている日本人が参拝して「国のために命をささげたご英霊に祈りを!」なんて言うってのは、
太平洋戦争以外の戦没者もいるのは知っていますし、A級戦犯なんて全体のごくわずかであることもわかっています。
1. 2014年ダボス会議での質疑応答で記者に日中が戦争に至る事はあるかと問われた安倍総理は「無いとはいえない」と答え、これによって海外メディアにバカで危険なポピュリスト扱いされた。
ここで「ならない」と答えなかったのは戦争を語るのはリアリズム、戦争反対は反リアリズム的リベラリズムだとの思い込みからではないのか?
2. 2013年の末には米国が遠まわしに釘をさしていた靖国参拝をし、東アジアのみならず日米関係が戦後最悪な状態に陥った。「中韓が閣僚の靖国参拝を批判するのは戦没者慰霊をさせない為」というのはA級戦犯合祀で一気に国際問題化した責任逃れの為に80年代に靖国神社とその周囲が流布させた言説だが、これを鵜呑みにしていて、更にA級戦犯の顕彰は米国による戦後体制への挑戦だという事を忘れていたのではないか?
3. 冷戦後に国際的な軍事協力で国際秩序を維持する合意がある程度なされ、憲法改正はそこへ適合する形での軍備を目指すものとなっていて、その地均しと国際秩序への貢献として自衛隊が海外派遣されるようになった。
だが近年の自民党はこの憲法改正問題を人権の制限や国家権力の統制である事を否定するなど児戯でかき回して国際秩序と再軍備という論点は完全に蒸発してしまった。これはリアリズムに基づくのだろうか?
4. 更に南スーダンPKO日報は政局に影響を与える為に消去が暗に命じられた。PKOで問題が発生したらそれが憲法の制約によるものならばそれを指摘して憲法改正論議に繋げるのが王道だろう。これは元増田が言うところのローポリティクスの都合でハイポリティクスを毀損したことになる。
5.米朝関係が悪化して北がミサイルを撃ちまくっていた頃、韓国と歴史修正主義を巡って応酬を繰返し、その背後で防衛協力は固めるという行動をしなかった。背後で防衛協力がなされていたら「突然の米朝デタント」に裏をかかれなかったはずである。
元増田のいうハイポリティクスの常識というのが、例えば政治系Youtuberの動画とか大きい本屋のレジ付近のプレジデント社の本とか日本海地図をひっくり返すと地政学とかではないのか?と疑問に思わざるを得ない。
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。