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[B! ラジオ] 新パーソナリティはパンサー向井慧!2022年春、TBSラジオ新番組がスタート
こんな遅い時間に発表って何だろうねぇ
向井慧がパーソナリティーを務めている『#むかいの喋り方』(愛知の地方局・CBCラジオ:火曜日22時~24時30分)で先に発表したためです。
パンサー・向井慧が大抜擢へ! 伊集院光「らじおと」3月終了で“新番組MC”最有力に(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース
などの記事を受けて、これに何も触れずに進めるのは不自然ということもあったのかと思いますが、TBSラジオと相談の上、22時台に『#むかいの喋り方』で公表し、23時にプレスリリースを出すという流れができていたようです。
月木の木が隔週って更に縮めてるんだな。予算なのか別の話なのか。
木曜日に『有吉の壁』を収録していることから、隔週木曜日を休むのは『有吉の壁』に出るためです。
多分釈迦に説法ですが、「#むかいの喋り方」「#向井チャリ」をつけてツイートしているidなどを見ると、TBSラジオのヘビーリスナー兼向井慧のラジオのファンもわんさかいる(自分もその一人)ので、過小評価している人は、三村アンチをこじらせて袈裟まで憎い状態になっている方が多いのかな、と思います。
もちろん、TBSラジオのヘビーリスナーだけど向井慧のラジオを聴いていないという人は、前述の2つのタグを付けることはないので、「TBSラジオのヘビーリスナー兼向井慧のラジオのファン」が全体のどの程度かは分かりませんが。
「復讐するは我にあり」ってことだよ。自分の傷を過小評価されたことに対して殴るなら「殴り返されることはない(相手が理解したなら)」かもしれんが、
野球でいうなら、他人の傷を過小評価するのは一回の表、それ対して殴るのは一回の裏だ
それに殴り返してくるなら、鉄バットフルスイングで返してやることになる
二回の表が始まらない限り二回の裏はない
一回表がない限り一回の裏はない
(この勢力は何万兵士がいるから…とか、そんなこと頭の中でシミュレーションすることに意味ある?
自分はそんな不確実で十分でないデータを検証することにひとかけらも意味があるとは思えない。)
そういうのではなくて、もう少し歴史というもの、戦国だけでなくて日本史だけでなくて
世界史なんかも眺めつつ、だいたい歴史ってこういう流れになるよな、
さらに日本の中世を加味して考えると…とかって視点で考えれないかな。
まあ、なんやかんや言い合いしたところで結論なんて出ないからする気は全く無い。
ただ自分は日本の中世を終わらせたのが秀吉の天下統一事業であると考えているのだけど
増田の場合には信長の登場の時点で中世が完全に終わっていると捉えているんだと思う。
それが正しければ、秀吉の事業を過小評価しているのはむしろ増田の方では?
https://anond.hatelabo.jp/20211212125107
おそらくはありえない。
簡単に言わないでほしい。
あのとき中国大返しと言う大胆な機動を見せた秀吉以外の誰があれほど鮮やかに明智を滅ぼせるのか。
一番近い摂津にいた信孝?
変の報せだけで逃亡兵が相次ぐぐらい求心力のない男だ。
秀吉が中国から帰ってこないなら兵力は自前の5,000程度しかない。
信孝軍団からはより多くの逃亡兵が出るし反対に明智の勢力は膨らむ。
信雄?
信孝より更に遠いところに居て兵力も更に少なく合戦の腕も似たり寄ったり。
はっきり言ってこんな奴等では光秀の動きを制限することも出来ない。
光秀は勝家が戻ってくるまでの3週間近くを京での政治的運動や宣伝に使えることになる。
明智側勢力が大いに動揺したし、明智の与力や姻族まで様子見を決め込んでしまった。
そういうファクターが一切なくなるということは
・遺された信孝信雄は弔い合戦を挑むことも出来ない
と言う状況が現れるわけで、
これを見たら筒井順慶だって洞ヶ峠から這い出てきて明智に従う。
そもそも光秀に与えられてる畿内軍団は信長に冷酷に追放された佐久間の与力で
信長を討って主替えすることにいまさら抵抗感なんかない。利害が合えばついてくる。
それぐらい勢いが出たら細川すらやっぱり明智側に来るかもしれない。
これまで織田家の軍団に圧迫されて存亡の危機に立ってた各地の大勢力は
事情わかってる毛利に追いすがられながら撤退なんかそうそうできない。
毛利の追撃で散り散りにされたらどこで再起すればいい?姫路城まで戻れてもそこは安全か?
信孝を討って光秀助けに京までのぼってくる。
そこまで織田の情勢が悪いとわかれば
例えば滝川なんか史実では北条と一当たりして敗れたあと真田に諏訪まで送られてるけど
「もう織田の再起の目は薄いな」と思われてたら同じ待遇になると思う?
昌幸「滝川を首にして光秀に送ってご褒美に上野を安堵してもらお」ってなるでしょ。
もともと主家を滅ぼした織田に好感情持ってるやつなんか甲斐信濃にはいないんだから。
史実ですら河尻とか逃げ帰る事すら出来ずに殺されてる。
光秀の主殺しに公的な認可が下る。
鞆まで逃れてた将軍様が戻って来て「大義である」って言い出すかもしれないし
もともと朝廷と繋がりが強い光秀だから帝の内意があった説すらある。
「よくやりました」「各地の大名に号令を出して織田残党を討ちなさい」なんて宣下が来る。
英雄秀吉は中国から出られないまま肝心の時に決断しなかったことを悔いながら殺されていくし
柴田は雪の中で滝川は信濃の山中で状況が分からないまま討ち死にして
ただ高齢でデカい子供もいない光秀はどうやっても次世代に残す基盤は作れない。
衰え次第天下は再度荒れる。
毛利かな。
大政治家が出現することはなかっただろうから織田家が存続する形になる。
そうなったとしても結局は信長の統率力を失った家臣団によって
(どうやるんだかわからないが)信孝が光秀を討って信長の葬儀をやれば
信孝という当主がいるのにそれを蔑ろにするほど抜きん出られる家臣がそんな必ず現れるの?
なんか全体に言えるのは
秀吉の中国大返しをめちゃくちゃ過小評価してるってことなんだよね。
あれは素晴らしく冴えた勝負手であって、
あれ以外のルートで光秀があんな早く打ち滅ぼされるなんてことはあり得ないし
その光秀成敗がなければ有力家臣に過ぎなかった秀吉があそこまで強引なイニシアチブ取れることもあり得ないんだよね。
ただそんなことを時間をかけて長々と展開してる間に
織田豊臣や徳川の支配とは比べられないってことをわかってないよね。
秀吉の四国九州関東東北の成敗がどんなだったのかもわかってないんじゃないの。
フワフワしたイメージでモノ言わないでほしいんですよね。
織田勢力と地方勢力の生産力や兵力をちょっと数字で比べてみたらいいと思います。
秀吉であれ信孝であれ信雄であれ、あれを相続されちゃ勝ち目なんかないから。
私は、客観的に見て、それなりに成功した人間だと思う。大学進学者が少ない田舎から出てきて、経営に携わる仕事でそれなりの評価を得ている。妻と子供3人を養う程度の給与も得ている。親族の支援もあって、一定の資産も築けている。
でも、私は幸せを感じていない。理性的に考えると、自分は恵まれているなとは思う。しかし、心が躍るような幸せを感じることはない。より社会的に経済的に恵まれた人と自分を比べては、自分はまだまだ不十分であり、更なる努力が必要だと感じるのである。
今までは勉強することが幸せに繋がると盲信して努力を続けていたが、それにも疲れてきた。努力をすることに楽しみを覚えるということに変わりはないが、何を目指すべきかを見失った。何かになれると信じていた魔法の期間が終了したのである。
幸せを感じるためにはどうしたら良いのだろう。朧げに、下記のアクションが必要な気がしている。
1.マインドセット/環境については、まずは認知することが重要と考えている。認知さえできれば、すぐに解決することは難しいと思われるが、時間を掛けて試行錯誤していけるだろう。何年も粘り強く行動を変える努力を続けていくしかないのである。
早速、認知するというステップであるが、これに関しては思い当たることが多々ある。
A-1. 人から怒られない/責められないように生きている
A-1~A-3は紐づいていると思っていて、自分が犠牲になることで万事解決と考えているのである。また、自らの時間の価値を過小評価しているのである。このマインドセットに関しては、『精神論ではない仕事を速くこなす技術』という記事が役に立ちそうだ。まず重要なのが、物事に対して投下する時間を区切ること。強制的に、A-1の不安を要因としたA-2/A-3を防ぐのである。よって、私は下記の目標を定めた。
今までは、月に50時間~90時間をしていた。これを30時間に押さえるのは、当然簡単ではないだろう。当然、全てを得ようとしても無理な話で、多くを切り捨てないといけないと思う。脱線するが、何かに変化を加えようとするときに重要視すべきは、まずは質より量だと思う。恒常性の壁を超えるには量が必要なのだ。よって、今回は月30時間という思い切った目標を定めたい。
そして、もう1つ大きな目標を定めたい。
正直、私は、どの程度の完璧さを人から求められているのか、感覚的にわからなくなっていると思う。敢えてその水準感を他人から教えてもらうことで、バランスを取り戻したいのである。非常に勇気のいることだが、他人からこの水準を教えてもらうためには、その水準を一旦下回る必要がある。できる人には何の困難も伴わないだろうが、私にとっては大きなチャレンジである。
見た感じ炭水化物系のおかずはいけそうなので、ジャガイモとかサツマイモとかコーンとかでいくといいと思う。マカロニもいけるかな? マカロニサラダはお酢使って酸っぱかったりするので、ただのマヨ和えがいいと思う。そこにコーン入れてもいいし、隙あらばニンジンの千切りも混ぜ込んで。タマネギは入れていいけど、「辛いの苦手」って言ってる相手にはマジで全力で火を通してからにしてください。平気な人の「辛くないよ」は過小評価が過ぎる。ほんとに。カレーが辛いから嫌いな人がいるとか想像もできないの、唐辛子で脳細胞もやられてるの???ってなる。「じゃあ甘口カレー用意すればいいんだろ」じゃなくて、そもそも辛くないハヤシライスとかにして欲しい。話がズレたけど、辛いの苦手な人は野菜の辛いのも苦手なので配慮をお願いします。
とりあえず炭水化物をおかずに炭水化物を食うのは日本人大好きだから……糖尿病ほいほい……。栄養素的には野菜じゃないけど食卓的には野菜なので、この辺の食材でレシピ検索すると山ほど出ると思う。
あとは砂糖と醤油で煮る系の煮物全部。カボチャもここかな? 煮物っていえば野菜やイモだけど肉や魚でもいける。煮魚ウマ。
あとほうれん草の白和えは甘いと思ってくれたらいいなぁ。出汁やコンソメでの味付けは辛さとか苦さとか突出してないし、からなずしも砂糖が必要な訳でもないし、糖尿病そんなに気にせず作れるので、食べてくれるのであればおすすめ。
今回に関して言えばほぼオタクくんが勝てる。
これまでの勝負とは決定的に違うのは、
VTuberっていう文化の受け皿が、フェミ界隈の想定してる以上に広いので
なんだけど、これに唯一の落とし穴があって。
彼もフェミよりはマシという程度であんまVTuberっていう文化に対して理解してない。
彼を突かれるのだけが唯一の負け筋。
VTuber界隈は味方にすれば数も力も集まるが、
逆に質の高いフェミニスト系VTuberなんてもんが出てきたらそっちも支持するだけなのだ。
そういう、好きなやつが言えば何でも正しいと信じ込む
アイドルオタク的な性質を強く持つ界隈だということを理解してない。
まさしく偶像崇拝してる集団なので、好き勝手に神様を武器にされることも嫌う。
スマブラにキングダムハーツのソラが参戦したってんで、キンハーはスクエニのゲームだし、それ以上に膨大なディズニー関連の権利をOKもらった任天堂凄い、任天堂しかできねーぜみたいな言い回しが溢れてるけど、スクエニもっと評価されるべきでは?
そりゃ任天堂も頑張ったと思うけど本当に凄いのはスクエニ(とディズニー内で協力的だった人達)では?
こういう書き方すると、どっちも凄いから優劣つけるなみてーな道徳の教科書っぽい説教する人が出てくるだろうけど、ネット世論が評価の仕方に露骨に優劣つけてるからそれは不当だろって言いてえんだよ、最初からスクエニも任天堂と同じくらい誉められてりゃ文句ねーよ、Twitter見たら任天堂を絶賛するツイートとスクエニもそもそも凄いよねみたいなフォローっぽいツイートで盛り上がり方が全然違うじゃん。
お祭りゲーにゲスト参加じゃなくて、キングダムハーツというストーリーがっつりゲームの根幹にディズニーキャラたちを据えてさ。
そんで大ヒットして関連作もばかすか作れるくらいになってる。
権利の交渉ルートだって任天堂にとってもディズニーにとっても、スクエニが開拓した道があるわけじゃん。
任天堂に文句があるわけじゃねーけど、スクエニが過小評価されてる気がするんだよな。
あと任天堂を何らかの希望のシンボル(日本企業の希望? ゲーム業界の希望? オタクの希望? みたいな)みたいに扱いたがるネットオタクたちの風潮も謎。
RRD 家庭連合で家庭に不満のあるババアを取り込んだように、表現連合で表現に不満のあるオタクを取り込もうという統一協会の戦略が見える。あいつらは進んで不幸になりたがるから、なんとかしてやりたいんだけどなあ。
grdgs 反フェミ・自民支持者は、自民党内に統一教会シンパが多いのは勝共連合つながりで今も付き合い当然と肯定的に見るのが多く、統一教会に肩入れしているといえる。保守は利益のためなら反社とも平気で手を組む。
quick_past オタクの中でこじらせてる連中は昔からいたよ。2chの差別関係に近そうなカテゴリの板では、初期からそういうのが湧いてた。同時期のぁとか自アン、なみかれではそういうのはあまり見なかった
zyzy ブコメでさえこれに反発して発狂モードに入っているいつものオタ勢の文章が割と取り込まれててヤバい感じなので、ガチっぽいなぁ。「どっちもどっちぃ」ってそれすでに取り込まれた人の「典型的な応答」でうわぁって
cinefuk #反ポリコレ の旗印のもと「ヒトラーはいい事もした!南京虐殺は捏造!731部隊も捏造!」とやっている人たちに #国際勝共連合 のドグマは心地よく染み込んでいく / 統一を過小評価する投稿は、責任を負う覚悟あるのか?
いつものゆかいな仲間たちが「やりたいこと」が見えてくるだろw
昔だったら嬉々としてオタク叩きに馳せ参じたろうに
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
ワクチン接種先進国であるイスラエルやシンガポールでも新型コロナウイルスの感染が拡大している。
そういう記事のブコメでは「重症者増えてないし」という感じで、withコロナ的な空気を感じる。
日本もワクチン接種を前提に行動制限の緩和に舵を切ろうとしている。
でも、この新型コロナウイルス相手にwithコロナって結構怖くない?
インフルエンザが無くなる勢いの感染対策をしてもなお感染が拡大してしまうウイルスだから、緩和すればするほど感染が拡大し感染リスクが高まるのは間違いない。
でも、もともと感染しても大したこと無いウイルスであればともかく、突然重症化したり、変な後遺症が出たりするやばいウイルスだぜ?
ワクチン接種してるとはいえ、そういうウイルスにこれから何回も感染するのって嫌じゃない?
しかも、簡単に変異してしまうウイルスだから、そうやって感染がひろまっていくうちにヤバい変異を起こすかもしれない。
今のデルタ株だって、感染力や病原性が従来株と比べて格段にパワーアップしてるわけでしょ?
パンデミックが始まってからまだ2年ぐらいしか経ってないのに、もうそういう変異が起きてるんだよ?
どんどん緩和してどんどん感染して、さらにヤバい変異株が出てくるのはマジで困る。
そういうリスクを過小評価してwithコロナ、ワクチン打ってれば平気の精神で感染の許容に世界が突き進んでいって、本当に大丈夫なのかな?