はてなキーワード: 浄土真宗とは
片一方が学会だから色々思うのかもしれないけど、宗派が違って、そこに軋轢がうまれるのはしょうがないことなんだよ。
例えばうちは、父方が浄土真宗なので、戒名は代々三文字しかないシンプル戒名だけど、母方の親戚(真言宗)に言わせれば「それはありえない」し。
学会の他宗派への姿勢とか、勧誘方法については自分も否定的だけど、供養の仕方なんかはそれぞれの宗派で違って当たり前なんだから、そこはわけて考えたい。
深夜に変なスピリチュアルの広告読んでゲラゲラ笑った後に、ちょっと思うことがあったから思いついたから書いただけなんだ。
乱雑だし、プロット作りも推敲も何もしていない。ただずっと抱えていたものを吐き出す場が欲しかっただけなので、とりわけ目立つものもない。
これを書いている私は、いま地方大で歴史を学ぶ大学院生だ。ストレートで大学院まで上がった位の年齢だと思ってほしい。
私の専門は歴史だが、そこから興味が広がって宗教や、それに関連する文化の話も好きだ。本来専門ではないけれど、色々本を読んでみたりしている。
そこで思うことがあった。宗教・信仰は本当に人の暮らしに密接に関わっていると実感した。そして、勉強を続けたからこそ気付く事や、それまで抱えていた自分の気持ちに整理をつけることができた。
この記事はそんな私の20年ちょっとの人生で触れてきた宗教に関する思い出の覚書だ。
私の家の目の前には、カトリック教会があって、附属幼稚園が教会のすぐ隣にある。ミッション系というやつだろう。
家からすぐということもあって、私と妹はそこの幼稚園に通っていた。
朝幼稚園に来たら、シスターたちに挨拶をし、玄関のマリア像の前で十字を切る。朝礼やお昼のお弁当を食べる前には「主の祈り(天におられる私たちの父よ~のやつだ)」を唱えたし、クリスマスの時期になれば、年長クラスの子たちがキリストの聖誕劇をやるために練習をしていた。
ああそう、あとメダイもちゃんともらっていた。確か聖母子像か、聖母マリアのものだったはずだが、年に数回会うおじいちゃん(どう考えても教会の神父だ。園長って呼んでいたけど)から、新年度になるたびに名札につけてもらっていた。
そんな幼稚園でキリスト教に触れる生活を送っていた幼少期。年長クラスはクリスマスに聖誕劇をしていたけど、年中クラスや年少クラスだって讃美歌を歌ったり、合奏をしていたので、どこの幼稚園もこういう歌を覚えているものだと思っていた。
卒園式のお祝いには、聖書を分かりやすくまとめた絵本をもらった。絵本といっても結構文字が書いてあるし、ハードカバーの大型絵本だった。聖書の教えも何度か聞いていたはずだが、私がきちんと聖書の物語に触れたのはあの卒園式の日だったに違いない。
既に本の虫だった私は、それなりに漢字も読める方の子どもだった。だからその絵本も気になって、天地創造から長い時間をかけて読み通した。
当時6歳の私は、意味はあまり分かっていなかったけど、ところどころの挿絵のインパクトは強烈だった。
洪水に翻弄されるノアの方舟、モーセが海を割るシーン、キリストが茨の冠を被せられ、鞭うたれるシーン。幼い私は、もうそれはそれはびっくりしたのだ。
それから数年経って、小学校を卒業して中二病が芽生えるような年になった頃、私はイキってまた聖書に関心を持ってみた。
西洋美術が分かるやつはかっこいいし、その元ネタが分かるとなおかっこいいと思っていた。恥ずかしい話だが。
そこでもう一度聖書のストーリーを絵本(今度は妹がもらってきたやつだ。まったく同じ絵本だが)を読んでおさらいし、やっぱり意味は理解しないままミルトンの『失楽園』とかを読んでいた。
この後、ぼんやり興味を薄く抱き続けたまま、今一度大学院に入ってからちゃんと勉強をしようと思い、現在に至っている。世界史とかは大事な要素だしね。
こうしてみると私はクリスチャンのように見えるのだが、家には仏壇があるし、今の興味の原点がある幼稚園時代にはその仏壇で「まんまんちゃんあん(関西で仏壇やお墓でお参りをするときに言う幼児語)」をしていた。祖母は今でも毎朝、犬の散歩から帰ると仏壇の前でお経を上げる。
父方の祖母と同居しているのだが、祖父は私が生まれる1年ほど前に亡くなっている。祖母は幼いころの私の面倒を、共働きの両親に代わって見てくれていたから、幼稚園から帰ると「おじいちゃんにまんまんちゃんあんして、ただいま言うんやで」と言われるがまま、お鈴を叩いて手を合わせていた。今でも何か報告(たとえば大学に受かった時や、卒業認定をされた時)があるときは仏壇の前に座ることがある。
お盆やお彼岸には、お墓参りはできるだけしようと思っているし、昨年京都に行ったときは私の家の宗派の本山のお寺にもお参りした。これは本当になんとなくだったけれど、行ってよかったなとは思っている。
だから私は、今のところは仏教徒で、ごく一般的な日本人の宗教観なのだけど、困ったことに、私はとある宗教の3世にあたる血筋でもある。
名前を出すのは少しはばかられるので婉曲的な表現をするが、先述のように私の家は仏壇のある仏教徒の家だ。宗派を言えば浄土真宗。
ただ母方は宗派が違い、日蓮宗なのだ。分かりやすく言えば父方の祖母は「南無阿弥陀仏」と唱えるけれど、母方の祖母は「南無妙法蓮華経」と唱える。
この時点で察しの良い方はお分かりかもしれない。母方の祖母はいわゆる「学会員」だ。
だから、母方の祖母の家に遊びに行くと某新聞が置いてあったし、本棚を見れば某氏の著作が置いてあった。
母自身は学会員ではない(嫁いでいるし)し、母の姉夫婦もそうでないのは知っている。私自身会員ではない。
だから3世を名乗る立場ではないのだが、私は学会員としての祖母の姿を見て、ああいった宗教に対する疑問を抱くようになった。
実際あの学会について「おや?」と思ったのは、私を可愛がっていた母方の祖父が亡くなった数年後だった。
祖父が亡くなった後、葬儀や四十九日の法要に関しては違和感を感じることはなかった。後になり、伯父がかなり骨を折ったことを知ったのだが。
違和感をはっきりと感じたのは母方の伯母夫婦、大叔母、そして私たち家族と祖母が参加した七回忌の法要だ。
いわゆる法事だから、自分の認識では「お坊さんを呼んで、お経を読んでもらって、そのあと親族で食事をする」というものだった。事実父方の祖父の法事はお坊さんを呼んでいる。
まず、お坊さんを呼んでいなかったのだ。黒スーツに黒いネクタイを締めた見知らぬ男性(見た感じ祖母とそれほど歳は変わらない人だった)が居て、私の知らない親戚かと思っていた。最初は。
いつになったらお坊さんが来るのだろうと思ったら、法事が始まるから仏壇の部屋に来いと言われた。言われるがまま妹の隣に座り、数珠を持っているとその男性が仏壇の前に座って、読経を始めた。
「は?」と思った。なんでこのオッサンがお経読んでるねん。お坊さん来られへんかったん?違和感しかなかった。
どうやら件の学会ではその地区で一番偉い学会員が法要の読経をするということを知ったのは、さらにそれから2年ほど経った頃だ。
ただ法事の時に、伯父が「僕はちゃんとした日蓮宗のお寺に骨を埋めてもらうように言っている」と若干怒気をはらんだ口調で言っていた理由が、理解できた。
母方の伯母夫婦とは、その七回忌の法要以降会っていない。いや、何度か伯母とは会ったが、伯父とはそれ以来もう何年も会っていない。
昔はよく祖母の家にお盆や正月の折に触れて来てくれていたのだけど、仕事の関係で来れない、と言うのが聞いている理由だ。でも、多分彼はきっと、学会員である祖母宅周辺の人に会いたくないのだろう。少しだけ言い合いになっていたし、伯父が祖父の葬儀に口出ししたことで何かがあったのだろう。
同時に、祖母が熱心に読経を一日に何度も行う理由、祖母の家にあった新聞や書籍がなんだったか、芋づる式に分かってちょっとだけ嫌気がさした。
祖母よりも熱心だったのは大叔母(祖父の姉)で、会合(というのがあるらしいが、この辺りは詳しく知らない)にも熱心に参加していたみたいだ。
別にこの記事で批判をしたいわけじゃない。けれど、どうしても伯父の言葉がずっと心に引っかかっているのだ。
「お義父さんの事も、ちゃんとお弔いしたいのにそれが出来ないのはほんまに悔しい」という伯父の言葉が。
いま色々な宗教の事を学び、宗教が社会に与える影響の強さを知った上で、私は伯父の言葉に同意したい。
信仰は自由だ。それはこの日本で認められた権利だ。けれど、大好きだった祖父のことを、あんなジジイの安い読経で弔いたくはないのだ。
そしてああ言った新興宗教団体が、親族との軋轢を産んでいることを伯母夫婦の一件で身に染みて実感したのだ。
母方の祖母と我が家の仲はいい。祖母はいま一人暮らしだし、私も長生きしてほしいと思っている。
けど、少しだけわがままを言うなら学会と縁は切ってほしいかな、と思わなくはない。
少し愚痴っぽくなったが、最後にその新興宗教がらみの話をちょっとだけ聞いてほしい。
大学進学以降そうした新興宗教がらみのトラブルやエピソードは少なからずあると知った。友人も巻き込まれたことがあったらしい。
大学の最寄駅前には某証人の人達が冊子を配るために立っているし、家にも何回かチラシがポスティングされたり、勧誘がそもそも来たりした。迷惑だから帰れ、と総スルーをかましたが。
去年なんか、右翼のおっさんが一般人に絡んで暴行しかけた事件の証言を、某会の勧誘をしていた女性二人がしていて「情報量が多い!」と内心ツッコミを入れた現場を目撃した。
彼らも、それを信仰するのは自由だけど、私のように嫌悪するまでもないがもやを抱えた人間を周りに産んでいるのではないかな、と時折思わなくない。
スピリチュアル系のトンデモ科学に関するツイートがTwitterなどでも話題になりがちだが、そういうのを見ても「ああ、なんというか、かわいそうだな」と思ってしまう。
思ってしまうだけで、それを思いっきりネタにして笑い飛ばしているあたり、私はかなり嫌な人物だなと自戒しなくもないが。
何度も言うが、批判する意図はない。あなたがもしここまでに挙げた何かの信者であっても、私は知らない。
ただ、ひとりの学生が格好をつけて、自分は何を信仰しているのだろうな、と思い返すための文章だから、大した感想も求めていないのだ。
冥福を祈るとは、故人の死後の幸福を祈るという意味である。冥土の幸福、だから、冥福。気軽に冥福を祈ってしまっている人が多いのが、とても気になる。
キリスト教や浄土真宗など、信者への死後の幸福を約束する宗教では、故人の冥福を祈る事が、故人の生前の信仰心を疑っているように捉えることもでき、「ご冥福をお祈りいたします」が嫌味になりえるというのを知らないのか。
故人の冥福を勝手に祈らないでほしい。それは、故人の宗教観を祈る側が勝手に決めていいという傲慢な態度の現れだ。
自分が悲しい気持ちになったという意味の、「お悔やみ申し上げます」を使うべきだと思う。自分の気持ちを素直に述べるべきであり、故人の死後の世界に、第三者である人間がズカズカ踏み込んでいいものではないと思う。
この意見、細かいだの何だの、必ず反発反論食らうんだが、いかに反発しようと、文化庁の出した声明には、「冥福を祈る」が使われていないのは確か。さすがだ。「お悔やみ」と「回復を祈る」は使われているが、冥福は使われていない。
「お悔やみ申し上げます」が、よく知らない人に対しては不適切という意見をよく聞くのだが、別に、悔やむのに故人と親しい必要はないんじゃないの?としか思えん。
よく知らない人だったら、亡くなっても悔やまないの?それこそ不謹慎じゃね?
「出家して俗世を捨てて厳しい修行をしたり、たくさんある戒律や律法を守ったりすれば天国に行ける」という思想には納得感があるけど、古代や中世の日々の生活で精一杯の厳しい世界でそうした生き方ができるのは、お金持ちや高位聖職者だけというのが現実だった。
つまり難行系の教義だと、お金持ちと高位聖職者しか天国に行けないということになりがち。ということで、「○○するだけで天国に行ける」という教義の分派活動が生まれる。
キリスト教が「○○しろ、○○してはいけない」という定めがほとんどなくて、神を信じさえすれば救われるという教義なのは、当時のユダヤ教が律法重視のファリサイ派が主流派で、それへの改革運動がイエス・キリストの活動だったから。
もっとも、カトリックがあれこれ定めを勝手に付け加えたので、ルターがまた軌道修正せざるを得なかったけど。
「ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人的謙遜)
働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちにしか役立つ可能性がない。
でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたら
おまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。
はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう」
念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)
心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。
だから俺なんか結婚だってしちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ」
「おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。
目次 [非表示]
1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.3 養成機関
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
その他天台系宗派[編集]
孝道教団
叡山学院
鎌倉時代の僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派。
一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派(西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏、天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。
以後、同寺を本山として東北、関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係の宗派として存在している事が記録されている。
一向と一遍房智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏の一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。
浄土真宗本願寺八世の蓮如が北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗や時宗が支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗の民衆が蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から他宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派が混同されている。
江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺を総本山とする単一宗派「時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派は独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗からの独立を求めたが実らなかった。
明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]
大半の寺院が時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。
浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である。
「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、親鸞を宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。
したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教系宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者を破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。
こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から「一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。
江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康が三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗を信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。
一神教徒は死後の裁きを信じているし、インド人は輪廻を信じているから、悪行を避けて善行を積もうとするところがあって、
あまりガメつく金儲けばかりしてると天国に行けなくなるから貧しい人に喜捨しようという心持ちになるけど、
日本では浄土真宗によって「善行で極楽に行こうと思うな、ひたすら阿弥陀如来にすがれ」という価値観が定着してしまったので、
極楽に行くために善行を積むモチベーションが皆無になってしまっている。
どんなに悪どいことをしても心の底から「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に行けるのだから、現世ではひたすら私利私欲に邁進していればいい。
去年祖母が亡くなったこと、おじさん自身も60台ということもあり、葬儀の話になった。
酒が入った時に聞いた話で酒が入ったまま書いてるので話半分に聞いてくれ。
祖母の時は浄土真宗で料金的にはうん十万ぐらい、という話で違和感はなかったらしい。
で、おじさんの嫁さんの母親が亡くなったときは葬儀に300万かかったそうな。
曹洞宗なので派手でそれぐらいかかるとのことで、故人が死ぬ前に足りないか気にしながら貯めて、貯め終わってから亡くなったとのこと。(一般的な曹洞宗は知らない)
葬儀の開始は朝9時で時間変更には全く応じてくれず、家から移動するのは無理でホテルに泊まらざるをえなかったことが不満だったとのこと。
さらに、葬儀(あるいは百日後だかうん年後だかの儀式)をやる前に坊さんに50万現金で払えと言われて、土曜なので口座が開いてる月曜まで待ってくれと言ったら、知らん今すぐ払えと言われたらしい。
で、さらに100日後高の儀式に参加した100人ぐらいで一人当たり5000円ぐらいの食事会をホテルでやったとのこと。
儀式時に費用を持ってくる人は少数で、阿保みたいに金がかかったと言っていた。
おじさんは、我が家と同じ浄土真宗なので、嫁さんの宗派の料金に凄い違和感があったとのこと。
おじさんの嫁さんの親父さんが存命なので、同じようにやるの? という話があったらしいが、おじさんの嫁の親父さんもその宗教の事務方の偉い人だったらしいので、自分の時だけやらないとはプライドで言えないらしい。
宗教とかホテルとか田舎のズブズブっぷりが垣間見えた気がした。
更に今日初めて知ったのだが、10うん年ぐらい国鉄にも勤めてたとのこと。
夜2時まで働いて近くのうどん屋で素うどん食って寮まで自腹のタクシーで帰ってたとのこと。
風呂は22時に火を落とすので、SLとかの炭で真っ黒になった温く陰毛とか浮いた浅い風呂に水を足して入ってたらしい。
人事部にいたのだが、1人当たりの担当が300~500人で、労基署なんてもちろん無く、残量は年200時間を超えて、部の予算をこえた残業代は出なかったとのこと。
日曜も出勤だったので、40㎞離れた家に住んでた両親が洗濯のためにわざわざ出入りしていたらしい。
さすがにもう無理と1年で辞めたらしいが。
28の時、100万ぐらい出して海外研修に1週間ぐらい行かせてもらったらしい。
冷戦時なので、法橋上空を通りオランダの空港を経由して、スイス近くのドイツについたとのこと。
帰国後、海外の鉄道運営システムについてのレポートを書いたらしいが、実際にはドイツで野球やったり祭りの日に浴衣着てわっしょいわっしょいしてたとのこと。
草を食む牛のカウベル以外音もない草原で、ベンチに座る仲睦まじい老夫婦を見てこんな世界があるのかと感動したとのこと。
そこでドイツJKを発見して、腕毛も金髪なんだとか瞳がエメラルドなんだとか、ろくに見たことない外国人に感銘したとのこと。
そういうつもりはないが、穴が開いた5円玉とかで話をふくらませたとのこと。
そういうつもりはないというのはブラフだと思ってる。自分ならそういうつもりになる。(できるかどうかは別)
当時のおじさんより年上になった自分の過去最高残業時間は100時間足らず。
数年一緒にやってた上司に愛想が尽きて、NOといえるスキルを身に着けつつある自分。
IT業界のx次受けで働きつつ、年収少なくね? と思って副業を始めようとしている自分と比べるとなんと違うことか。
あと、電話料金が安くなるから住所と電話番号をウェブサイトに入力してください、って電話が4件ぐらいかかってきたらしい。
おじさんは今法律関係の仕事をやってることもあって、怪しいと思いこの電番調べてくださいって、わざわざNTTに言いに行ったらしい。
その話の住所のところで"詐欺ですよそりゃあ"と言ったら、親父が"えっ"って驚いていた。
高卒だけど数万単位抱える優良企業にクソ真面目に勤めて、おそらく自分の1.5~2倍は給料もらってるアラシックスの親父。
その親父の持ち家に同居してるけど、末の弟が家出同然出て出ていってへこむまでクソ頑固親父だった親父。