はてなキーワード: 流産とは
今の会社で、出産や育児ができるイメージが湧かない。全く湧かない。
管理職・女・32歳です。
数年前までは、自分の経験のためとがむしゃらに頑張っていた。頼まれた仕事は何でもYES。
でも、月日はたち、良い相手とも巡り会えて結婚。子供ができた。
すぐに流産した。
もう一度、子供が欲しい。
でも仕事も好きだし仲間も好き。
仕事を辞めたくはない。
がむしゃらに頑張れない自分なんて、会社にとっては必要ない存在になってしまう気がする。
私がNOを言うと、別の誰かがやらなくちゃいけない。もしくは、シンプルに組織のアウトプット量が落ちる。
仕組みや標準化が大事とわかってる。でもそれには期間が必要。何年後に成立するかわからない。管理職である自分の責任だということもわかってる。
人手を増やすにも十分な財源があるようには思えない。今、会社は経費削減が大きな指標になっている。
結局、女は仕事か家庭か、どっちかを取らないといけない気がしてならない。両立できる人もいるのかもしれないけど、私にそんな高い能力はない。
ごめんなさい。愚痴です。
4年前に結婚して、それからずっと子供が欲しくて、嫁さんと話し合いながら妊活をしてた。
夫婦とも超遠方に実家があるから家族の助けを当てにできるわけでもない(妻の両親は要介護で兄と一緒に暮らしている)から、育休をとって一緒に育児をしていきたいと思ったわけ。
幸いクソ田舎で2馬力公務員だったから貯金もあるし、子供の成長も見たいしね。
で、今の職場の話。
去年、ずっと希望してた担任も任されて、今2年生のクラスを見てる。
で、来年3年生の担任なんだけど、そのタイミングで育休を取ろうとしてる。
冗談めかして先輩に話をしたら、「そんなことしたらハブられるな笑」で終わり。
管理職にも話をふったことがあるけれど、みんな冗談としか受け取らない。
生徒は可愛いし大事だけれど、教員という仕事はやりがい搾取だなぁという気持ちが強い。
部活動だって土日関係なく毎日毎日練習で、帰宅は20時超えが当たり前だし。
1月の第2週に大会があるから、正月は毎年4日から練習だしね。
仕事はめちゃめちゃ頑張って、色んな場所で研究発表したり、勉強会を主催したりして、県教委や管理職にも名前が知られて評価され始めてきた。
他に使える資格や技能はないから、教員としてできる仕事を全部拾ってがむしゃらにやってきた。
でもここで離脱したら、おそらくその頑張りの全部または一部が無駄になる(おそらくだけど)
県内での異動は管理職の評価が露骨に影響するから、評価によっては望まない学校や地域への転勤を命じられるかもしれない。離島とか。
育休をとって妻と子供を見守るかわりに、自分のクラスと部活の生徒を他人に任せ、今後の人事や評価を投げ捨てるか。
生徒の保護者だったら、なんとかして担任を続けてくれって言うと思う。
途中離脱することの影響が大きすぎるこの職場で、男が育休を取ることは可能なのか。
全てまるく解決する方法ってあるのかな? それとも教員に育休は無理なのかな。
自分が女だったら育休取れてたのかな? やっぱり責められてたのかな。
つらい。
親戚の集まりに久しぶりに行ったら、すべてが子育てで占められていた。
子が起きているあいだは、全員の全意識と全発言が子に向けられ、
子が眠ると、子育ての苦労話、復職をどうするか話、子どものためのマイホームの話、夫がいかに育児に非協力的かの話、話題が尽きたら、ひたすら写真を見せあいが続く。
しばらくするとぐずりながら子が起きて…(ry
これを4時間繰り返す。
その場において子無しは私だけであった。というか、ちょっと前まではいた。
繫留流産というやつで、来週に手術をする。
時期も状況も私と似ててびっくりした。私は出血が無くて静かに心拍が止まっててエコーで流産したことを知った。
妊娠した実感がなくて流産を告げられても実感があまりなかったんだけど、帰ってきてお風呂で急に涙が出てきて泣いた。未だに悲しかったのかよくわからないけど、たまに涙が出てきて止まらない。
まだちゃんと向き合って消化できてないような気がするけど、あえて向き合わなくて時間がたって記憶が薄れていくほうがいいのかなと思っている
出来たら良いねって話してた矢先で嬉しさよりもびっくりが勝ったのが本音だけどついに親になるのか…っていう不安もあった。
産婦人科に行ったら妊娠はしてるけどまだ小さいから3週間後にと言われとりあえず妊娠してる確認だけ取れた。
10月7日〜だんだん出血が止まらなくなり流石にマズいのではと思って10月19日に診察。
成長してるし流産の兆候も無いからと言われてまた3週間後の診察に。
11月12日の診察で心拍の確認ができるかと思いきや子の形は確認できたけど心拍が無い。
流石に実感なさすぎて泣けなかった。
夫にも心拍が確認できなかった事は伝えたけど私以上に実感が無さそうだった。
もう一度念の為に11月15日にエコー確認したけどやはり心拍は確認できなくてこの時点で稽留流産確定。
私は結局一度も子の心臓の音を聞く事もなく9週弱で妊婦が終わってしまった。
そこからは稽留流産手術の手続きへ。淡々としててこれが1番辛かったかな。
血液検査と心電図測ってくれた看護師さんがとても優しくて。ありきたりだし皆んなに言ってるのかもしれないけど、また会いに来てくれるから今はいっぱい泣いても良いんだよ。って言葉で涙が止まらなかった。
11月18日に流産手術のため病院へ。エコーで成長がない事を確認。これが子を見た最後だったな。
手術着に着替えて点滴刺されてある程度したら手術台へ。
優しく声かけてくれた看護師さんと再会したのも束の間全身麻酔で寝て起きたら手術終わってて気づいたらベッドの上だった。
これで私のたった48日間の妊娠は終わった。
こんなあっけなく終わる事もあるんだなと。誰にも言うこともなく相談する事もなく。
両親に話したら喜んでくれるかなとか、友達に報告できたらなとかうっすら夢見てたけど本当に妊娠して子どもが産まれる事は奇跡なんだなって身をもって実感した。
術後はびっくりするほど普通。私の頑丈さを子にも分けてあげたかったな。
今はネットの広告記事がマタニティ関連なのがなかなかダメージ受けるけど拒否反応とかではなく。
また会える準備期間なんだと前向きに捉えて元気に過ごします。
意識の問題以前に、初婚年齢がアラサーになった時代でかつ35以上の出産は流産・死産・母体への悪影響を考えると
35でも子供が一人もいないなら無理してでも生むかもしれないけど、もうすでに二人いて(仮に不慮の事故があっても一人は残る)、危険を冒して3人目を産みに行く理由がない
世の中のあるあるなんだろうけど、結婚~妊娠~子育てで、あまりにも義父母と自分の考え方が違って辛すぎる。
ここで吐き出させてください。
私(夫)は父親が中学の頃に家を出てって、実質的にシングルマザーの家庭で育った。
別に母子の仲が悪いわけではないし、それで寂しい思いをしたことはないし、まったく気にせずに過ごしてきた。
妻もそんなに裕福ではなさそうだが、家族は仲良い様子だった。ご両親と義姉の4人家族。
入籍は、私と妻が共通で好きな某ミュージシャンの誕生日にでもしようか、という話をしてた。
覚えやすいし、結婚のきっかけとなった人だし、クリスマスとか2人の誕生日とか行事ごとの無い月でプレゼントを買ったりするのにもちょうどよいと思ったから。
が、妻から「義父母に『その日は仏滅だからやめろ』と言われた。今年の11月22日・いい夫婦の日は大安だからその日にしよう」と提案があった。
妻の誕生日は12月なので、それでは短い期間に結婚記念日と誕生日とクリスマスが連続してしまう。
なにより私は仏滅とか大安とか気にしたこともなかった、というかその存在をほぼ初めて認識した。
でも、義父母のいうことなのだから、まあ聞いたほうがいいのかな…と11月22日にすることに決めた。
結局その日は大雨、役所もとても混んでいて、あまりいい思い出にはならなかった…。
ここから少しずつ、義父母のいいなりになることに後悔としんどさを覚えるようになっていった。
妊娠して数か月、お腹のふくらみも目立ち始めてきたころ、妻が「義父母から『家族みんなで某県のお寺に親戚の七回忌に行きたいんだが、一緒に来てくれ』と言われた」と告げられた。
世の中はコロナ禍の真っ只中だ。
妻は妊娠中の大事な時期で、しかも(これは私が悪いんだろうけど)我が家には車がないので、60代の義父の運転で行くという。
義父母の家族は全員喫煙者なので、申し訳ないが非喫煙者の私にとっては車の中はとてもタバコ臭くて苦手だ。
タバコ臭のする高齢者の運転する密な車内に、妊娠中の妻を載せて往復4時間以上…、おなかの子供が心配だ。
結婚式やお葬式ならまだしも、7年前に亡くなったご親戚のために侵すリスクではないのではないか、と反対したが、妻は「義父母が、あなたを親戚みんなに紹介したがっている」と譲らない。
そういうものなのだろうか…、親戚づきあいや冠婚葬祭に無頓着な家庭に育った私には判断がつかない。
また、これも私が悪いことなのだが、冠婚葬祭に無頓着かつ幸いなことに社会人になってから身内に不幸もなかったので、喪服というものを持っていない。
会社も私服勤務なので、フォーマルな衣装は結婚式用のもの一式のみ。
革靴はウィングチップなのでどうやら葬儀にはダメらしい、シャツもネクタイも柄物なので当然着ていけない。
なので結局、会ったこともない7年前に亡くなった義理の親戚のために、数万円かけて喪服一式と革靴を新調して某県へ向かった…。
七回忌後では、マスクもろくにせずに十数人の親戚と会食をした。
「これで万一クラスター感染して妻が流産しても、世間からは『自業自得』と言われるだろうな…」と、みじめな気分になった。
子育てのことを考えて、義父母の家から車で数十分のところにした。
これならいざという時に妻は義父母のことを頼れるし、妻にも子にも良い環境だと思ったからだ。
そして時は立ち、妊娠が発覚してしばらくしたころ、義父母が引っ越したという。
私たちのマンションからさらに近くなり、バスで1本、歩いても行ける距離だ。
近くなる分にはそりゃあ嬉しい気もするけど…、なんの相談もなく、なんだか、急に距離を詰められた気がする。
そして。
我が家には猫がいるのだが、品種的に人懐っこいタイプじゃなく、こちらから撫でようとしても撫でさせてくれない、なんならひっかいてくるような猫だ。
人と猫、お互いあまり干渉せず程よい距離感、たまーにデレるのがかわいいタイプなのだが。
こちらからちょっかいを出さなければ基本的にひっかき癖は顔を出さないし、もし何かのきっかけで興奮してひっかいてこようとしても、おもちゃで遊んであげて気持ちを鎮めれば大丈夫。
上手い距離感で遊べるように躾けていた(まあ、猫に躾けは無理なので、そういう習慣付けていたというのが正しいか)、のだが…。
週一でやってくる義母はそんな思惑など関係なしで、素手で猫にちょっかいを出す。
私がいるときは「遊ぶときはおもちゃで遊ぶようにしてください」とやんわり注意するようにしてるのだが、不在の時はどうしようもない。
猫は当然興奮して、人の腕をひっかいてよいものだと認識するようになり、お行儀もどんどん悪くなっていく…。
猫は何も悪くないのに、時にはゲージに閉じ込めなくてはならなくなった。
つらい。
そんなモヤモヤが少しずつ積み重なっていきながら、ついに妻が出産を迎えた。
コロナ禍で出産に立ち会えないどころか、出産後の2週間、妻の入院中も面会はNG。
スマホのビデオ通話でしか赤ちゃんの姿に会うことはできなかった。
そして待ちに待った退院の日!
妻ははじめての出産でとても疲れていたが、私は嬉しくて仕方なかった。
家に着いて、母と息子と父と猫、3人と1匹きりのはじめての時間…、ゆっくり過ごして嚙みしめたいな。
義母は、どこで買ってきたか、ペラペラの子供用布団とシーツ・キッチンに置き場の無い大きくて安っぽい哺乳瓶ケース・すでに我が家に用意してあった哺乳瓶を洗うスポンジなどなど…、何の相談もなしにたくさんのベビー用品を我が家に持ち込んできた。
もちろん、私たちもお店やネットでたくさん候補をリストアップしていたのだが…、Amazonプライム会員なので、注文すればすぐ届くのだが…、そんな言葉を飲み込んだ。
妻が妊娠してから皿洗いは私の当番なので、モチベーションを上げるためにコツコツと自分なりにお洒落なキッチン用品を買いそろえていたのだが…、統一感のない安めのプラスチックのグッズがキッチンに並んで一気に台無しになった。
皿洗いや哺乳瓶洗いが、視界に入る100均製品のおかげで全く楽しくなくなった…。
また、私の母は衣料品の工場勤務で、ちょうどちょっと高級なセレモニードレスやおくるみを作っており、お祝いに送ってくれた。
大変ありがたかったのだが…。
我が家に何があるかなど全く気にせずものを買ってくださる義母、もちろんセレモニードレスもおくるみもある日突然、何の相談もなしに持ってくる。
デザインもよく似た、父方と母方から贈られたセレモニードレスが2着…、行事ごとでどちらを着せるか胃が痛い。
そのほかにも、裁縫が趣味である義母は、自作のベビー服やおくるみをたくさん持ってきてくれる。
ありがたいとは思うけど…、いつ買った布なのか、白かったであろう生地部分が少し黄ばんでいるように見える。
義両親の家は全員喫煙者。
不安だ…。
前述の、私たち夫婦が共通で大好きな、結婚のきっかけになったミュージシャン。
そのミュージシャンの名前から取った、2人とも気に入っていた名前があったのだが…。
画数が良くない、言葉の響きが大昔の隠語を連想させる?といった、腑に落ちない理由で難色を示された。
その名前を書く命名ボードも、自分たちなりにモダンなものを買おうと思っていたのだが、結局は退院日に義母が勝手に(おそらく100均あたりで)用意してきたもの…。
その命名ボードを見るたびにモヤモヤしてしまう事が、子供に対して本当に申し訳ない。
例えば生まれて一か月の「お宮参り」、100日後の「お食い初め」、女の子ならひな祭り、男の子なら端午の節句、そして大きくなったら七五三。
私の実家では、そういったことはあまり無頓着だったし、やったとしても親子でしか祝ったことがないのだが、義父母にとっては「祖父母や親戚も含めて行う行事」らしい。
お宮参りも義父母家の近くで行ない、写真館で祖父母込みで写真を撮り(はじめて知ったけど、子供の写真を撮るのにこんなにお金がかかるとは…)、その後はコロナ流行真っただ中でも会食。
うちの母は遠くに住んでいて高齢だが今でも工場勤務をしているので、お宮参りのためだけに往復4~5時間を日帰りだ。
お食い初めも、もちろん食器も料理も私は選ぶ権利を与えられなかった。
そんなに行事ごととか親戚づきあいとか縁起を担ぐのって大事なのかな?
自分たちの好きな日に、親子でささやかにお祝いして、スマホで写真を残せば十分なんじゃないかな?と妻に言ってみたことがある。
すると妻には「我が家はずっとそうだったし、それが一般的だよ。そういうのが嫌なんだったら、結婚前に言っておいてよ」と返された。
だってそういうものがあるということを知らずに育ってきたから…。
まるで、私と私の母親は一般的じゃない異端な家族…そういわれたようで悲しかった。
十分、幸せだったけどなぁ。
この後の端午の節句も、七五三も、私や私の母の意向は関係なく進められるのだろう。
親子水入らずで何かイベントをするということは今後なく、義父母と一緒の写真がアルバムに並ぶんだろう…。
ずっと後悔としんどさを抱えて子供を育てていかなくてはいけないこと、そして自分の子供時代が否定されてるような気がして、寂しい。
流産、死産、中絶の違いを問わず、妊娠12週以降の場合に出産費用の補助として出産育児一時金が支払われます。
申請の方法は(1)受診する産婦人科の受付で聞くか、(2)地域の女性支援窓口で聞いてください。
児童保護施設に生後すぐに入居する子は、脳や体にダメージがないので里親が見つかりやすい・健康に育ちやすいです。
親が限界まで頑張った子は、脳や体に障害が起きていて、里親の引き取り手も見つかりません。
特別養子縁組に出しましょう。特別養親縁組を斡旋する各地域の機関はリンク先ページ下部にあります。
次の授乳までに寝ようと思ってたけど、眠れなくてぐるぐるしてるから吐き出す。
そこでなぜか「二人目どうするの?」というのをめっちゃ聞かれて、「いや今産んだけど」と思いつつ、「経済面とか抜きにしてそもそも自分には第二子を産む力がなさそうだ」と思ってしまった。
第一子妊娠の一年前にも妊娠していたが、その時は6週で流産してしまった。稽留流産だった。
診断が降りた時にはもう出血が起きていて、手術日程とってもその前に自然排出される可能性が高いからということで自然排出を待つことになった。
ただ、その時世間ではRSウイルスが猛威をふるっていて、時短のママさんたちがそれに振り回されて人員が足りなかった上に、「流産したのでちょっと在宅多めにしたいです」というセンシティブな話もしたくなかったので、毎日オムツタイプのナプキンして出社していた。今思うと相当頭おかしい。
で、診断から1週間くらい経った日、コロナワクチン打つために午前休→午後出社しようとしてたら、ワクチン打って電車待ってる間に尋常じゃない腹痛があった。
「あ、もう出てこようとしてるんだ」と悟って、ワクチン副反応が出たことを理由に在宅に切り替えた。
夜になるにつれどんどん出血と痛みが増えて、19時くらいにはもうトイレから出られなくなってた。そこで痛みのピークがきて、いよいよ死ぬかもと思った時、大きな塊が三つくらい出る感覚があって、体が楽になった。
赤ちゃんが出ていったんだな、と思った。
その後も病院に通って、体には問題がないと言われたけれど、自然排出時の体の痛みと止まらない血、塊が出ていく感覚等が忘れられないし、心音が聞こえないと言われた時の指先から血の気が引く感覚も忘れられなかった。
その時、次はちゃんと産んであげたいと強く思った。
流産後半年で妊娠した。今度はちゃんと産まれてきてほしいと思ったけれど、半分期待せずに日々を過ごしていた。
そしたら、ちゃんと心音もとれて、母子手帳をもらえるところまでこぎつけられた。すごく安心した。
ただ、仕事が忙しい&引き都合とした相手が同じように妊娠したり時短になったりで、結局引継ぎ相手が見つかったのが産休一ヶ月前、そこから引き継ぎしたり机片付けたりしたので、このご時世なのに毎日出社&遅番早番ありでかなり負荷が大きかった(残業時間毎月40時間だった)
夫は私よりも激務で、家事も常にワンオペだった。重いものも一人で運ばざるを得なかった。
で、そんな無茶をしてたら30週くらいで子宮頸管がめちゃくちゃ短くなってることが判明した。
「あと5mm短くなると即入院」と言われ、その話を夫と職場にして諸々セーブさせてもらった。けど、そのセーブ具合も在宅勤務が月2回から4回になったとか、夫が家でご飯を食べない日が少しできた程度なのでそんなに効果なかった。
なので、趣味や楽しみやら散歩やらを全てあきらめて家で寝てたら即入院はなんとか避けられて、里帰りはできた。
夫のサポート力には全然期待してなかったので、産休突入→即里帰りし、実家でゆっくりしながら準備とかしよ〜ついでに心残りだったこといっぱいやろ〜(ゲームとか)と思っていた。
なお、里帰りしたのが予定日の一ヶ月以上前だったので義母には少々嫌味を言われた(夫を支えるのが妻の役目なのにこんなに早く里帰りするなんて的なやつ)
里帰り先で健診に通いつつ、両親と楽しみだね〜なんて話をしつつ、母と久しぶりに散歩して話したり、仕事漬けの中で積んでたゲームしたり、いけなかった母親学級の予約したらのびのび暮らしていた。
でもそれもすぐに終わりが来た。
35週5日目、実家帰ってきて2回目の健診で妊娠高血圧腎症と診断を受けて、「このまま予定日まで待つと母子ともに危ないです。明日から管理入院して37週入ったら即誘発分娩しましょう」って言われた。
症状が症状だったので、病院側の提案も私の希望も個室だったのだが、部屋が全然空いてなくて回復室に泊まることになった。胎児モニターしたり採血めっちゃしたり、ことあるごとに血圧測った。
そして翌日朝。朝ごはんがいつまでも出てこなくておかしいな〜と思ったら助産師さんが来た。
「赤ちゃんの心音が弱くなってて、37週とか言ってられなくなってきたので、今日この後できるだけ早いタイミングで調整して帝王切開で産むことになりました」
えっ私の意思は???ってなったけど、赤ちゃんがやばいならもう何も言えないなとなった。
それからあれよあれよと絶飲食が始まり、医師の説明を聞いて術前の点滴しながら同意書にサインし、「家族のサインもいります」と言われ「夫仕事中だと捕まらないし全然来れないんですが」と言って先生に「そんなことどうでもいい!あなたは11時に手術しないといけないんだからさっさと来させろ!」と怒鳴られ、回復室で泣きながら夫に電話した(夫はわりとすんなり来てくれた)
そうして36週1日目で出産した。
妊娠前にやりたかったこと、お産でしたかったこと、してほしかったことも全部なくなったし、「管理入院するなら個室がいい」ということすら叶えられなくて、産まれた子どもはかわいかったけれどかなり落ち込んだ。
そんな経緯があったので、退院指導とか親戚に「二人目は?」と言われるたび、「いや一回目流産で二回目は早産で緊急帝王切開なんだから、二人目なんて無理でしょ」と思っている。
二人目できたらほしいけど、「もしまた稽留流産とかになったら、乳幼児の世話しながら手術とか自然排出とか考えたくないな〜うまくいったとしても帝王切開になるの確定だし、一人目も早産だったから二人目の出産もうまくいかないっしょ」って思うくらいにはトラウマになってる。
経済面のことはもちろん心配だけど、それ以上に私の心が自分の出産を信じきれないというか、なんかもう無理だなって思っている。まともに月数満ちていつになるかなとかわくわくしながら待つことなんてできないし、楽しいマタニティライフとかもないし、自分の思う楽しいお産も無理なんだから、二回目とか正直やりたくない。夫が出産してくれないと無理。私はもうやりたくない。
なんかツイッターとかインスタでキラキラマタニティライフ!とか後悔しないお産!とかを見ると心が苦しいし、こんなこと友人にも、親にも、夫にも言えない。
この子に兄弟がいないのはかわいそうかもだけど、精神的にも身体的にも予期しない大ダメージを負った私のこともかわいそうだと思ってほしい気持ちがある。
それがあるうちは二人目なんて産めないんだろうな。
(21:03 追記)
ここまで詳しく人に話したことなかったので、今日まとめて書き出せてすっきりした上に読んでくれた人がいて優しい言葉までかけていただいて本当に嬉しいです。ありがとう。カラースター贈りたい。
そうだね。お金は人生全部で見たらトントンかそれ以上夫に出してもらうつもり。
(追記終わり)
なんか自分のことも書きたくなった。
https://anond.hatelabo.jp/20221102183713
あってるっぽい
1年で自然妊娠しなかったので近所の総合病院の産婦人科に行く。私も夫も特に異常なしということでタイミング法を試みる。数回試したところで夫からの提案で治療をお休みすることに。レスに突入。
https://anond.hatelabo.jp/20200628172554
35歳を過ぎた時に、このまま子なしの人生になるんだなーと一人で納得した。
なので38歳も終わり頃になって夫が不妊治療を提案してきた時は、意外に思ったし何を今更とも思ったし、少し億劫でもあった。でももし上手く妊娠できたら会社辞められるしとか変なこと考えつつ2人で専門病院に行った。
初診の時に夫婦生活がないことを言ったら、滅菌した使い捨てのコンテナとシリンジを渡された。コンテナに出してもらったものを自分で注入するという按配。
夫婦生活がないことについて、もっと色々言われるかと思ったけど、まずバイアグラ的な薬を勧められて、夫が断ったら、あそうですか、ではこれ (シリンジ)はどうですか、てな具合だった。
当時今ほど性の多様性うんぬん言われない時代だったけど、踏み込んでこられなかったのは有り難かった。
もし、レスだけど仲良しで子供が欲しいと思ってる夫婦がいたら、思い切って病院行ってみよう。
コンテナ2回する間に諸々の検査をして、年も年だしということで体外受精に進む。
この後ずっと薬で生理をコントロールしていた。薬の名前とかは覚えてないけど、元増田の言う通り膣座薬は情けなかったね。。
1ヶ月リセット→ 採卵①(私の場合、質の良い卵子を育てるめに1回に1、2個しか卵子が採れないやり方だった) → リセット → 採卵② → ①と②の卵子を一度に戻す → 妊娠判定 → リセット → 採卵① と続く感じでお金も時間もかかった。なお①で受精卵が2個できれば採卵②はとばす。
体外受精でも良い結果が出なかったので顕微授精に切り替え。
それでもダメだったので、子宮内膜についている小さいポリープをとってみましょう、ということで手術。
その次の回でめでたく妊娠。
その後なぜか半年ほど生理が止まる。薬でも注射でも生理を起こせなかった。この時期がいちばん辛かった。
なんとか生理が復活して、そこから2回試して試合終了。理由とかこの時の気持ちとかは後で書けたら書く。
・先生が合ってた
生活態度とかについてうるさく言ってくる先生じゃなかった。飲酒(深酒)喫煙はだめだけど、それ以外はエビデンスもないので好きに過ごしてください、て感じでクールに突き放してくるタイプの先生だった。
・職場が合ってた
もともと、有給取る時に理由を聞かれない職場で、休んでも納期までに自分の仕事を仕上げていれば何も言われなかった。採卵日とかは大体1週間〜5日前くらいには分かったので、計画的に休めた。あとは土曜日とか平日の仕事の後に通院できた。週に3日ほど延長診療の日があって、ノー残業で駆けつければ診てもらえた。混んでたので帰宅は9時頃とかになったけど。
だから生理がきてガックリ、という気持ちを味わわずに済んでいた。あれはメンタルに悪すぎる。妊娠判定は、いつも病院の尿検査と内診。自分で市販の検査薬を使ったこともない。感情が揺さぶられ過ぎると思ったので。
不妊治療を始めるにあたって決めていたこと。感情的にならないなんて無理なんだけど、メンタルやられたら出産育児どころじゃないので、出来るだけ他人事みたいに捉えるように気をつけてた。自分を責めない。夫を責めない。感情は言葉にすると具体化しちゃうので、曖昧なまま気づかないふりをする。風呂で一人になった時に泣く。人に話さない。
病院に払うお金で一杯一杯だったので、高価なサプリとか気分転換の贅沢とかはしなかった。後で書くけど漢方には手を出しちまったが。治療してるとスケジュール的に3か月先のチケット取ったりとかしにくいというのもある。
ある同僚に話したら「私の友達も40歳で結婚したけど、すぐ子供生まれたよ? 病院に行くよりも普通にリラックスして過ごしたら?」って言われた。良かれと思って言ってくれてるのは分かるので「ありがとう」と返したけど、いやいやいや、結婚して10年、普通にリラックスして過ごしてるんですけど? レスだけどそれも含め普通に過ごしてた結果がこれなんですけど? って内心思ってた。不妊は性格悪いと言われるのはこういうとこだろうか。
以降、誰にも言うもんか、と思っていたけど、必要に迫られて別の友人にも話した。漢方薬局を勧められた。出費が増えるのは痛いけど、カウンセリング(という名の話し相手)もしてくれるとこだったので、しばらく通った。紹介してくれた友人にも、「この前教えてもらったとこ行ったよ!ありがとう」って言えた。
夫は夫で、職場の誰かに話したみたいで、寺みたいなとこを紹介されてきた。ドライブがてら2人で出掛けていって、祈祷を受けてきた。
どれも正直効果があったとは思えない。個人差もあるし。医者の言う通りエビデンスがない。(漢方はあるのかも。)顕微授精して育てた受精卵を体内に戻すっていう方法が最強やろ、って思って、時間も資金もそっちに集中したかった。
良かれと思って言ってくれるアドバイスに感謝して付き合って、というのが億劫で、私はなるべく人には話さなかった。
当時、正社員で働いてて、時間外手当含めて手取り25万〜30万くらい、なんなら夫より多いくらいだった。治療費はそこから出してた。定期預金とは別に百数十万くらいのお金を非常用によけとく癖があったので、顕微授精とか、1回に40万くらいかかる時はそこから持ち出していた。あと手続きしたら行政から戻ってくるお金と、ポリープと流産で手術した時の医療保険。医療費控除のために集計したら、その年は220万くらいかかってた。
元々、痛い思いするのが辛かったんだけど、あ、なんかもう我慢したくない、と思ったから。資金的にも、そろそろ定期を解約せねば、となっていたので。もし子供を授かっても、お金がなかったら育てられない。それで、やめ時だと思った。治療のゴールは2つあって、一つは妊娠出産だし、もう一つは私の気が済んだ時だ。やるだけのことはやったし、短い間だけど妊娠もできたのでもういいか、と思ったらすごい解放感だった。2年ちょいお世話になった先生にその旨お話しして、お礼を言って終わった。
40歳になって子供がいなかったら、何か新しいことを始めたいと、結構前から思ってた。楽器でも絵でもいいな。それがひょんなことからTOEICに挑戦することにした。ひょんなことというか、初期投資がいらないから英語にした。それで不妊治療やめて余った時間とやる気を全振りしたら850点取れた。
当時、TOEIC840点で通訳案内士試験の英語の一時試験が免除になったので、2年かけて通訳案内士の資格を取った。
それからコロナまでは訪日外国人のゲストに地元を案内したりガイド仲間もできたりで充実した日を過ごした。プロのガイドとしての稼働はそんなに多くないけど 夫も昇給したので会社も辞めた。最近また訪日客が増えてきて嬉しい。色んな国の色んな年代の人と会って話すのは楽しいし勇気づけられることもある。
数週間だけとはいえ、親になるという気持ちを味わえたこと。毎朝、目が覚めて、わずかながらの身体の変化を確かめて安心する時の甘やかな幸福感。常に不安でもあったけど。あの気持ちを知ることができただけでも、やってよかったと思う。産んであげられなかった我が子には、申し訳なさもあるけど感謝でいっぱいです。
完全に蛇足だけど、産めてたら産めてたで色々大変だったろうしな。