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2019-06-04

14世紀京都に開かれた

幕府といえば室町幕府ですが

では風呂のドア前でうずくまっている猫のことは何と呼ぶでしょうか?



答え:風呂待ちにゃんこ

2019-05-28

anond:20190528115519

国家象徴たる天皇と、なんだかんだで幕府開いて天皇から位貰っただけの奴を同じにするなよ

2019-04-22

地面に座るのをJRが認めればすべての問題解決する

とそう考えれば

座席存在理由もわかる

客同士で争わせて怒りが幕府JR)に向かないように分断統治しているのだ

2019-04-21

ヤフコメ民の憲法知識ガバガバ

ヤフコメ民曰く、神道宗教じゃなく信仰らしい。ひょっとしてギャグで言ってるのかな?

宗教という物があってそれを信仰するわけで、「宗教信仰する」これで1つ。キリスト教徒だって宗教信仰してるわけだが。

神道特別視した結果として戦前には国家神道が成立して他の宗教迫害された。

国家神道幕府無き後天皇元首とする国家を成立するために出来た言わば統治システムの一環。今更それを復活させるメリットがない。

政教分離が何故現憲法規定されてるかしっかり勉強しろ

宗教は利用されやす迫害されやすい。

政教分離ってのは信仰自由を守るためにその裏側から規定された物。

バカバカなりに少しは勉強してコメントしろカス

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

勢州桑名に過ぎたるものが二つあり 銅の鳥居に二朱女郎

勢州伊勢のことで、つまり現在三重県桑名市のこと。

「銅の鳥居」は桑名宗社の青銅製の鳥居のこと。

「二朱女郎」は二朱銀で買える安い遊女のこと。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

幕府を作りたいのですが 単行本 – 2007/9

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q135521548

まずあなたが、「内閣総理大臣」になる。

憲法改正して「内閣」を「幕府」へと呼称改正する。

公務員」を「旗本」、「自衛隊」を「旗本八万騎」とする。

これで、名実共に「幕府」を「組閣」できる。

総理知恵袋質問してた

名前がばれるとまずいかIDを非公開にしていた

歴史的資料

2019-03-05

ジョージ・ポットマン未来政治史

消費税が上がり景気は落ちた。

高景気だけで支持されていた安倍幕府支持率はついに崩壊、時は一気に幕末へ。

幕府自民党)内の改革派である一橋慶喜小泉進次郎)に期待は集まり一度は将軍首相)に就くも、結局、権益構造からは逃れられず根本的な改革は出来ない。

それに業を煮やした薩摩大阪維新)は諸外国との貿易で得た富(IR万博)を元に倒幕(政権奪取)を目指す。幕府との繋がりのあった島津斉彬橋下徹)は亡くなり(政界引退)、その意思を継ぐ西郷大久保松井吉村)だが幕府抵抗は強い。

時を同じくして、攘夷派(左派)として力をつけた長州自由党)の桂(山本太郎)も幕府から弾圧の前に苦渋を舐めていた。

薩摩長州、ともに既得権益打破では目指すところは一致していたが、それまでのわだかまり右派左派イデオロギー)で手を組めない。

そこに目をつけた坂本龍馬(誰だ?)の仲介によって、ついに薩長同盟は成立し、倒幕(政権奪取)を果たした。

新政府内での権力闘争はあるものの、廃藩置県道州制)などの改革は進み、新しい国の土台作りが始まった。

龍馬。このピースがはまればこの話は成立する。

2019-01-12

Q.なぜ増税するのか。A.日本国民はMだから

江戸時代アメリカのお使いがお手紙を渡しに来る→幕府砲弾で返事→黒船で行き大砲あいさつ→歓迎される

2019-01-11

新元号に「安」が入るべきでない理由

左翼の難癖のように思っている人も多いようなので

偏諱授与」からその問題性の解説を試みてみる。

まず「諱(いみな)」について。

諱とはざっくり言って本名のことである

織田信長で言えば「信長」が諱である

諱は「忌み名」に通ずると言われ、おいそれと呼んでいいものではない。

から織田信長には「上総介」という通称仮名)があり、

家臣や他の大名たちは「上総介様」「上総介殿」などと呼ぶわけである

ちなみに、これは実際に「上総介」という官職に任官されたわけではなく、官職風の呼び名にすぎない。

後に「右府様」「織田右府」などとも呼ばれているが、こちらは正式右大臣に任官されたから。ややこしいね

次は「避諱」について。

もともと中国に「避諱」という慣習があった。

これは偉い人の諱を使うことを避けるというもの

たとえば唐の二代目皇帝李世民の諱「世民」を避けるため、

その部下だった「李世勣」という武将が「李勣」に改名したり、

「民部」と呼ばれていた官庁が「戸部」に変更されたりしている。

一説には「観世音菩薩」が「観音菩薩」と呼ばれるのも「世民」の避諱だとか。

一方で、日本では「避諱」の習慣はあまり定着しなかった。

古代の「大伴」氏が淳和天皇の諱「大伴」を憚って「伴」氏に改姓したことや、

国家安康」で有名な方広寺鐘銘事件などは日本での「避諱」の一例と言えるが、

それよりも日本で広く行われたのは「偏諱授与」の慣習だった。

これは「そんなにも大切な諱を可愛い家臣にあげちゃうよ」というもの

たとえば松平信康長宗我部信親らの「信」や、

浅井長政黒田長政らの「長」は、

織田信長から偏諱と言われている(家臣だけでなく同盟国の嫡子かにも与えている)。

文字ある諱のうちの一文字だけを与えるので「偏諱授与」、あるいは「一字拝領」という。

ちなみに、偏諱でもらった字は、名前の上のほうに置くのが基本である

もっとわかりやすい例が伊達政宗さんところの家で、

政宗自身一族中興の祖の名前をもらったものだが、

その父親の「輝宗」は室町幕府第13代将軍・足利義輝の「輝」、

その父親の「晴宗」は室町幕府12代将軍・足利義晴の「晴」、

その父親の「稙宗」は室町幕府10代将軍・足利義稙の「稙」、

その父親の「尚宗」は室町幕府第9代将軍・足利義尚の「尚」…

と代々の将軍から偏諱をもらっており、

それだけ幕府との結びつきが強いということを示している。

さらに言うと、天皇から臣下への偏諱授与は極めて少ない。

後醍醐天皇の諱「尊治」から「尊」を授与されて足利高氏足利尊氏改名したくらいである。

さて、ようやく今回の新元号についてなのだが、

現在日本は「一世一元の制」ということで、

一人の天皇につき一つの元号しか制定されず、

その元号天皇の「諡号(死後に贈られる尊称)」になることが決まっている。

この諡号というのも、そもそも皇帝天皇を諱で呼ばないためのものだったりする。

そして、この元号を決定するのは内閣なので、

いわば天皇名前内閣首長である総理大臣が決めているに等しい。

まり新元号に「安」や「晋」の字が入った場合

偏諱授与ときわめて似通った構図になるのだ。

たか総理大臣が新しい天皇陛下に偏諱を与える」。

これは左翼よりもむしろ右翼問題視する事態だろう。

もちろん安倍晋三の諱は「晋三」なので、

名字である「安」はまだマシなのだが、

それでも安倍首相真の愛国者、真の勤王家であるなら、

自分名前が含まれるような元号は避けるのが当然だと思われる。

以上、長くなっちゃったけど、新元号に「安」が含まれることを危惧するのは、別にギャグでも難癖でもないよという話でした。

いや、まさか含めるわけがないじゃないか、本気で心配するなんて馬鹿馬鹿しいよ、という意味ではギャグだけどね。

2019-01-10

日本の国の歴史明治以降の200年未満に過ぎない

江戸時代以前は幕府辺境があるだけの世界観日本という国のくくりはない

2019-01-08

anond:20190108105231

幕末とかはもうネタ切れな気がするけどな。

主役に出来る人物はまだまだいるとしても、既に複数視点から描いてるし、極端な分け方すると攘夷側と幕府側の2つを繰り返しやってるだけやろ。

2019-01-03

「本当に諦めて刺身タンポポ乗せたほうがよいのか」について

https://note.mu/kotofurumiya/n/n31d401fce782

多分記事執筆者コメントつけてる増田レベルが高すぎて、世間一般言語能力ってもの理解してない。この場合言語能力ってのは、別に小説風の気の利いた文章を書く能力や、BlogでHit数を稼ぐ能力、あるいは豊富な語彙なんかを指し示す漠然とした「すごい能力」ではなく、自国語を用いてなんらかの論理を伝達したり受け取ったりする能力だ。

 例えば中学教科書から引用した「幕府は、1639年、ポルトガル人追放し、大名には沿岸の警備を命じた」の一文と、「1639年、ポルトガル人追放され、幕府大名から沿岸の警備を命じられた」の一文とが同じ意味かどうかを尋ねたところ、「同じ」と誤答した中学生は約43%を占め、高校生でも約28%が間違えた。

上記のようなニュースにもなってるようなレベルで。このニュースアンケートテストなどの方式なわけだから自国語の塊を音声じゃなく文章という視覚で把握できる上に、ある程度時間をかけても許される環境でもこのような数値が出てしまっている。つまり日常会話においてはもっと多くの人が、もっと劣悪な能力で生きている。

ごく普通のそこらにいる一般人において、会話における(つまり日常に用いる)言語コミュニケーションとは、感情伝達がメインだ。つまり会話の内容に関係なく、対話者がいま機嫌がいいのか悪いのか、どんな反応を欲しがっているのかを伝える/受け取るのが主な役割情報量が少ない(というか、情報量という概念がほぼない)。何らかの意味を伴うコミュニケーション、例えば待ち合わせ(時間場所が伝わらないと困る)も多くの場合テンプレート化されて含まれ情報の種類が決まっている。――この2種類程度の言語能力一般的な人間は十分に社会生活を送ることができる。

もうちょっと高級な、つまり情報量の多いコミュニケーションにおいても、その一連の塊から単語抽出して脳内補完意味類推するくらいが一般人の平均レベルだ(単語抽出レベルなので、「AがBにCされた」と「AがBにCした」は同じ意味だと理解されてしまう。ABCという登場単語が同一だからだ)。

でも、プログラミングにおいてこの言語感覚は致命的だ。機械入力者の感情を読み取って忖度してくれないし、登場単語が同じでも構文(つまり論理係り受け)で意味は全く違うものになってしまう。つまりはなんてことはなく、「プログラミング能力が低い/伸びない初学者がいる」わけではなく、それ以前の段階で「自国語さえも論理記述レベルで使えてない人間過半数」というだけなのだ

彼らの多くはそれで日常問題なく過ごせているし、「AがBにCされた」と「AがBにCした」が「違う意味を指しているその価値」が理解できない。日常の交友関係では、AとBのどちらが悪者対話者の口調や顔色で自明から助詞を的確に使う習慣そのものが、無い。

はてなコメントしてるひとは、そこの部分を甘く見すぎてるようにみえる。それはプログラミングあるいはプログラミング教育問題じゃまったくないんだよ。だからプログラミング教育をどういじったところで全く解決されない。

2018-12-30

anond:20181230200026

日本官僚大日本帝国を数十年で潰した逸材揃い。

その上に乗っている薩長藩閥珍獣図鑑

幕府役人のほうが優秀。

2018-12-29

anond:20181229075806

幕府圧政に苦しむ一般ピーポーのために我が帝国が一旗揚げるのもやぶさかではございません。

さぞやご苦労をなされたのでしょう。でもご安心召されよ。

そなたの国、この私が見事蹂躙して見せましょうぞ。

我が帝国爆撃機たちよ!かの国を焼き尽くせ!

2018-12-28

幕府設立宣言するけど

一員になりたいやつおる?

幕府ではすべての人が平等

人種信条性別社会的身分門地教育財産又は収入によつて差別されることはない

年収600万円以上の人並みの生活保証する

足りない金は日本政府請求して払わせる

幕府の一員にならないか早い者勝ち

2018-12-18

忠臣蔵」のはてぶのコメ欄車輪の再発明だらけ

「気が付けば「忠臣蔵」の人気や知名度が無くなっていた(らしい)理由考察など - Togetter」が538ものブクマつけてる。

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1298767

しかしそこで指摘されてる事が車輪の再発明勘違いだらけで、本当に忠臣蔵の人気はなくなったんだな、と実感した。

忠臣蔵元禄の昔からメジャーコンテンツだったので、すぐ思いつく事はだいたい既に通った道。


ソシャゲで四十七士を女体化するのが人気復活の最良策。

「ChuSinGura46+1 -忠臣蔵46+1」のことですね。ソシャゲじゃなくてエロゲだが。

ちなみに歌舞伎にも女大星(=女版大石蔵之介)というのがある(既に廃絶)。

・今時でやるなら、47人全員のキャラを立たせないと。そうすると、すっごい長大になるよね。

赤穂義士銘々伝のことね。吉良邸討ち入りの「本伝」ではなく47人にフィーチャーした物語の事。

私の読んだバージョン大正時代のやつは1000ページ以上あったがそれでもすべてカバーしきれていない!

古典になり切れなかったポップカルチャー、とも見える

日本古典である歌舞伎文楽講談浪曲の全てで最も人気のあるコンテンツが「古典になりきれなかった」ってのは違う。

・もともと映像作品としての面白さは忠義や敵討ちよりも、集団で警戒厳重な屋敷にどう攻め込むかって『大脱走』とか『スティング』のような集団群像劇・設定サスペンスとしての面白さにあったように感じてるんだけれど

それは「四十七人の刺客」が初めて切り開いた路線

・毎年やって、ごくまれに吉良側が勝利するようにすれば良いのでは

吉良側が勝利して別働隊が後でこっそり吉良を殺す、というのは既にある。


武士の面目がたたないので殺さないと再就職もできません!…な話なんだよな

ビートたけし主演の「忠臣蔵」(1990年)。


・『忠臣蔵』というと、なんかドリフコントが思い浮かぶんだよな、ドリフだったか確かじゃないけど。

正解は「オレたちひょうきん族」の最終回ドリフでやってたかは知らんけど。

忠臣蔵は、上への不満を巧妙に横への不満にすげ替え、反骨精神忠義へと昇華する、言論統制下のジェネリック革命もの時代の流れで忠義も抑圧も薄れたのかも知れない。

忠臣蔵幕府裁定(=吉良は無罪)への反抗でもあるので、戦時中忠臣蔵はかえって危険視されていたよ。

あと、江戸期の歌舞伎検閲されてたんで、忠義はその隠れ蓑だったりもする。

2018-12-16

anond:20181216222432

日本一揆や打ちこわしもあったし

将軍家に絶対服従国民性なんかなかったと思うが

そもそもそんなのがあったらなんで幕府が滅びてるのか疑問に思わんのかね

忠臣蔵反体制

https://togetter.com/li/1298767

忠臣蔵の人気が衰えたのを良いことだと思っている人は少なくない。

これ、300年経って幕府の思いが実現したってことともいえるw

赤穂事件が起きた当時、庶民喝采したけど幕府は「治安を乱すゆゆしき事件だ!」と怒り、それで赤穂浪士たちは切腹させられた。

四十七士がやったことは直属の上司への忠義を尽くすことであっても、幕府に対しては反逆行為だったわけね、だからこそ庶民は「今どき見上げた武士だ」と喜んだわけ。

当時の武士はすでに保身的なサラリーマン化してたのに、庶民の方こそが忠義を重んじる古くさい価値観美徳だと思ってたわけだ。

仮名手本忠臣蔵登場人物が、史実とは異なり室町時代出来事にされてるのも、幕府がこの事件美談として広めるのを嫌ったせい。

から戦時中とか四十七士が忠君の模範みたいにもてはやされたかといえば、そんなことはなく、陸海軍の偉い人たちは慰問忠臣蔵講談とかやるのを嫌ったという。

宮仕えの人間組織上層に逆らっても直属の上司のために戦うってパターン、よく考えたら、パトレイバーでも攻殻機動隊でもこれに近いことやってる。

そう考えると、忠臣蔵って今も形を変えて存続してるのかも知れない

2018-11-13

anond:20181113223837

幕府から政権かえってきてちょっとはしゃいだのは明治昭和前期としてはいなめない。それまでほそぼそ生き残ってた文系研究者だもんね。昭和後期から今上ものすごい貧乏くじの連続だったとおもう。今上民主党と同じ責任を負わされたまま交代もなし。

ひとりの人間として気の毒。

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