はてなキーワード: 人非人とは
結婚することになった後輩Aがいたので祝杯を挙げようということになり、部署のLINEグループで参加者を募ったらAの人徳もあって結構な人数が集まったので一人五百円でお祝いの品を贈った。
結婚相手はまだ遠方にいるということで気兼ねなく最後の独身生活を楽しんでいたし、後輩のほしかった物は後輩の同期が把握していて、後輩本人も喜んでくれた。
数ヶ月後、次にそのひとつ上の後輩Bが結婚する運びになった時もみんな同じようなテンションだったので大人数が合う店で食事会をして一人五百円でお祝いを贈った。
こうして数回の食事会と贈り物が続いたが、ある時送られてきたCのLINEグループの結婚報告の末尾に『食事会、贈答品は不要です』との文言があった。
Cが再婚だったことや部署外に出るのが内定していたということも重なり、食事会と贈答品は無しでCを祝った。
更に同時期にBに子どもが産まれることになりAの要望で一人千円をもらい少し値の張るベビーグッズを贈ったのがいけなかった。
Cは千円を徴収され(自発的に会計係に持っていってはいるが)贈答品さえも無かったことが腑に落ちずそれを同期の他部署のDに愚痴った。
Dに伝わった段階で多少CのバイアスがかかっていたにしろDから伝え聞いた人は好印象を持たなかった。
忘年会という名のやんわりとした飲み会が行なわれたようだが自分は出席できなかったのでその空気は知らない。
これが2019年冬までの話。
コロナウイルスが発生しマンボウによってリモートワークでZOOM会議で防音段ボール、飲み会など人非人の所業となった。
Cはなんとなく変な感じのまま転職してしまったがお祝いの食事会と贈り物はなくなった。
肩の荷が下りた気がした。
アフリカ諸国代表団がプーチンに深刻な苦情を伝えたとのこと。お前の戦争のせいでこちらは餓えてしまうと。
「グローバルサウスはウクライナの運命に無関心」という、左巻き&陰謀論クラスタお気に入りのアングルがいかに空虚なものだったか。
ロシアはそんなぬるい手段でもって報復したつもりになってくれるようなタマではない。
これはいよいよ権力の基盤、その正当性に不安が生じてきたということだ。自国の若者を使い捨てにしすぎた。
そこではてサいわく「戦前の帝国日本に郷愁がある人以外は何とも思わないはず」
何を得意げに述べとんねん極楽トンボが。何でもかんでもウヨサヨ鍋で煮崩しやがって。
はてブによく新人マンガがあがってくる。九分九厘「がんばって描いたじゃん」以外の感想はない。今後に期待だねという。
そこで、普段は社会的弱者を使い捨ての棍棒としか見ていない奴、犯罪被害者遺族が犯人の死刑を望めば人非人であるかのように罵る奴、そうした独善に凝り固まった能無しジジイアカウントどもが、
手もなく「感動した!」「天才だ!」とナイーブな感想を毎度並べているのを見るたびに「幼稚さはすべての悪徳の母」という思いを強くする。
皆この恐怖をどう処理して何人も子供を産んでいるんだろう…。TORCHや出生前診断でわかるものは良いけど、出産時の事故の脳性麻痺とか原因不明の知的障害とか避けようがないのに自分の人生を賭けてギャンブルするの怖すぎるよ…。
たしかに子供がいない配偶者や孫がいない親は可哀想だし、普通の子供が生まれたら子供がいない人生より彩り豊かになる気はする。
けど、そもそも子供が好きじゃないしたぶん自分の子供にも豊かで正しい愛情を注ぐことができないから子供による最大の効用が「配偶者や親が一瞬喜ぶ(かも知れない)」「人生に彩りを添える」くらいなんだよね…(ふつうの子供が生まれたからといって必ず良好な関係が築けるというわけでもないだろうし後天的な障害や突然の死もあり得るし)。それに対して賭けに負けたときのマイナスの効用がデカすぎる。
こんなゴミカス人非人の元に生まれてくる子供もかわいそうすぎるし、やっぱり生まないほうが良いんだろうな。万が一知的障害があったら病院か施設に預けて一生逃げ回るだろうし…。でも生まなかったことで後悔するのかなあ…。子供の頃から10年以上悩んでる。皆なんで平然とこんなデカすぎる賭けに出られるんだ。不思議だ。犬猫で満足すべきだろうか(犬猫に障害があっても飼い主の人生は終わらないと思うので)。というかよく考えると犬猫を飼うことで生じる生活の不自由さに躊躇して結局犬猫を飼っていないのに、子供を産もうなんて異常者の思考かも…。
少子化、この恐怖に由来するところも結構あるんじゃないかと思うけど、だからといってどうすることもできないよね…。医療の力で知的障害をどうにかしてほしい。知的障害者のケアに人生を捧げているあらゆる家族のためにお願いします…(他力本願寺)
今のところ自分は産まなくても十分幸せだっただろうなーと思う。
子供はすくすく育ち、5歳になった。
共働きで、メインの稼ぎ手は私であり、夫とは仕事家事育児のすべてを分担している。
それでもとにかく、いくら分担したところで、母親業ってやつに心が馴染まない。
「面倒くさ〜」「疲れるな〜」とか、そういう感情が先立つ。親であるデメリットを毎日感じる。とくに自分が体調不良の時は本当に勘弁してくれと思う。
自分のリソースをここまで削られることに対して、育児って狂ってんなーとしみじみ思う。
常に睡眠不足だし、外に出りゃ私たちがちゃんとした親かどうかを逐一社会がチェックしてくるし、保育園から持って帰ってきた体調不良は家全体に蔓延するし、お金はバカほどかかるし、家の中は汚されるし散らかるし、ずっと騒々しいし、何かやろうと思えば体感20秒ごとにストップが入る。自分のことをする時間は本当にゼロになる。育児の裏でなにかに集中できることなんてひとつもない。デメリットを挙げだしたらキリがない。
ときどき夫が子供を連れ出してくれる時だけ、久しぶりの趣味の感覚を取り戻そうとしてみたり、家をいつもよりきれいにしたり、読書したり、仕事に関する勉強をしたり、お菓子を焼いたり、お風呂にゆっくり入ったり、はたまた好きに出かけたりできる。
この時間が永遠に続けばいいのになぁ、子供がいない人は休みごとにこんな風に動けるのか、羨ましいなぁ…と思う。実際自分は独身・子なし夫婦時代を楽しく過ごした。
自由な日の終わりに子供が帰ってくると、あーあ…と思う。次は一体いつ自由な身になれるんだろうなと凹む。
仕事終わりに保育園に向かう時も、自転車を漕ぎながら「これからまた明日の始業までしんどいな…」と毎日思う。仕事の方が自分の計画で動けるのでストレスを感じずに済む。
ゆえに金曜日は気分が沈む。
「ああやってしまった、産むんじゃなかった。」という感覚がずっとある。もう産む前には戻れないことに対しても、最初の数年は発狂しそうだったけど、ある程度心の中で折り合いはついたと思うのに。
もう巻き戻せないんだからちゃんとやらねばと思って、できる限り子供に関わって、仕事も主体的にこなすことを心掛けながら、気を遣ってくれている夫と子供が理由で関係が悪くならないように努力しつつ、自分の体調も崩さないように気を付けて来たけど、もう本当にマジで疲れたな。
楽になりたい。
子供を持つことの良いところってなんだろう。
子供がかわいらしいこと、その子供に好かれていて駆け寄ってくること、パートナーは子供がいて幸せだと思っているらしいこと、社会的に子供がいるというステータスが「まとも」と見られる時もあること(とはいえ、子がいるという事実だけでまともと捉えるようなコミュニティに身を置くべきではないと私は考えている)、子持ちにしか縁のない場所に堂々と出入り出来ること、「子供を産めば良かった」という後悔をすることはなくなったこと、このぐらいか。
(ここに「自分が完全になった気になれた」「かけがえのない存在がいる」とかを一緒に挙げる人もいそうだが、それに関しては私は夫と結婚することですでに感じられていたので除外した。
同じように「子を産む」ことに付随する神秘めいた説明のつかない部分を体験できることに関しては、私がそれについて懐疑的なので除外した)
いや、これだけで頑張るには毎日キツすぎる。
それでもやりたいと思うならぜひやってみたらいいとおもうけど、全く他人にはお勧めできない。
特に、リミットを感じて周りにも子を産めと圧をかけられ迷いが生じている人には本当にお勧めできない。産んだら元には戻れない。
子供はいいよ、産みなよ、とか簡単に言う奴は、自分の苦しみを他人にも感じさせて分かち合える人間の母数を増やしたいのかな?とすら思う。
現状を知った上で産むかどうか選べるなら産まない。誰もこんなことしない方がいいとすら思う。
本当に何も知らなさすぎた。バカだったなと思う。
「こうなる」ことをもし全部知った状態で産む前に戻れるなら、子供が欲しいという夫を説得して、共働き子なしで一生余裕のある暮らしをしようと言ったと思う。それでも子どもが欲しいなら別れよう!と言ったと思う。別れたいわけではないけど、子供が欲しい夫に後悔が残るのはかわいそうだから。
不可逆な選択を間違えたので、もう粛々とやっていくしかないと思って、時間とお金を湯水のように消費して毎日育児している。
自分の時間が吸われ続けて、やりたかったことは出来ず、このまま老いていくんだなあ。
あ〜、人生もっと楽しみたかった。これが正解なんだとしたら狂ってる。
若く楽しい時間を犠牲にして、一つの命を「人間にする」行為をしている。楽しめる人もいると思うけど、私はそうではなかった。
もちろん2人目は産まない。
子供を産んだ自分が詳細に想像がつかないまま子供を持ったのは本当にバカだったなぁと思う。
「こんなことを言う母親で子供がかわいそう」と言われる声が自分の中から聞こえてくる。
いくら子供に関わって心を砕いて、自分の持てるリソースを殆ど全て明け渡しても、母親の内心がこんなふうなら「子供がかわいそうと言われてしまいそうだ」と考えてしまうぐらい、育児の現場には内心どう思うかすら自由がない。
後悔してますと大っぴらに言うことは出来ない。子供を傷付けたいわけでもないので、胸にしまっている。これからも現実ではそうし続けると思う。
若い子は半数以上が子供を持ちたくないらしい。賢い!そうした方がいい!と思う。
産む前には絶対戻れない。私は知らなかったから子供を持ったけど。
もう一度言いたい、産む前には絶対戻れないって。何もかも元に戻らない。
[ 追記1:養子はどう?というコメントに対するレス以外、増田はコメント返信していません ]
[ 追記2:
疲れ果ててろくに推敲もせず書いたものが人に読まれていろいろコメントまでついていて驚いた。
「子供の目に入ったらどうする」「子供がかわいくないのか」「こんなものを人の目の触れる場所に書くな」というコメントが散見されたけど、「日々なんとかやっていて、子供とちゃんと関わっている」と想像がつくであろう情報を添えてもこんな意見が返ってくることこそ、子を持ったからにはこうあるべきという強い思想があることを浮き彫りにしていると思う。
(おすすめしている人もいたけど『母親になって後悔してる』はすでに読んでいるので、ブックマークが伸び始めた時点で私のことを人非人扱いするだろう意見が出てくることは想像がついた。むしろ思ったより共感が多いなと思ったほど。)
そして「子供を持つことで、人生の選択ミスをしたと思っている」という意見が見えてきづらい理由もなんとなく分かった。
こんなことを書く人間はすでに心が疲れているので、余計なことを言って他人から責められるなら辛くても大丈夫なふりをしてやり過ごす方がまだマシだし、こうやって文章にすることで子供に対する罪悪感から自責の念を強めてしまって投稿しづらいんだろうな。
匿名のエントリでさえこんな反応が返ってくるなら、そりゃ誰も言わないし、書いて残したりしないだろう。
「昨今、『子育て疲れた』みたいな情報なんかいくらでも見かけるだろ」と言う人もいたが、少なくとも私は死ぬ方法をいくつかブックマークしておき、最悪こうすれば良いと思って日々をやり過ごすほど子を持ったことを後悔するとは思っていなかった。もともと子供が不得意というわけでもなく、苦手意識もなかった。自分の感じた絶望感が自分のしていた想像よりも深刻だった。(これはn1の話だから、逆のパターンも絶対にある。)
とはいえ、これは私の心にとっての事実であり、「表明する人が少なく、アクセスしづらい情報となっている」と思われるので、とりあえず消さずに置いておくことにした。
大した文章でもなんでもないんだけど、私は産む前に見ることが出来なかった情報だったので。
「自分の子供だけはやっぱり違う」とか、「人類がみんなやってきたことなんだから、あなたにも出来ないわけがない」とかだいたいそんなことを言われたし。もちろんそれは悪意があった言葉ではなく、その人にとっての事実だったんだとは思っているけど。
でも、私はあまりにも不可逆な選択で間違えてしまったと思っている。もう戻ることは絶対に出来ないので、毎日やり過ごしている。後悔している。疲れた。この投稿にそれ以上の意味はない。 ]
[ 追記3:
Twitterでいろいろとシェアされていることにたまたま気づいた。
こういう文章が引用した人間の持つ思想のお気持ち棒として振るわれるのは仕方ないことだが、引用した人の主張のバイアスがかかった状態で読まれて内容を勘違いされるのも本意ではないので、仕方なく補足として追記する。
あと、そもそもここまで読まれると想定して書いた文章ではないので、「自分の排泄物がやたらと批評されている」みたいな違和感があることも書いておく。
上記の文章は私にとっての事実であり、ただただ嘘のない気持ちを列挙したらこうなった。
とはいえ、いつまでも現状に文句たらたらでふてくされたまま人生を無為に過ごすつもりは全くない。
「母親になって後悔してる」と結びつけてシェアされたのが大きく伸びたせいか分からないが、私が今後一生ずっと子を持ったことを後悔し続け、後ろ向きに暮らす惨めで不幸な女だと決めつけてかかる人がいるが、それは違う。
(そもそも、同書に出てくる母親たちもそんな人ばかりではない。戻れるなら産まないというだけで、その人を幸福になれない人間と決めつけるのは早計だと思う。「母親になって後悔してる」の本の事例だと考えてシェアした人もそんなつもりは無いと思う。)
こんな生活になると想像しきれず、人生はめちゃくちゃになってしまった。戻れるなら私は産まない。今現在、後悔している。それは本当にそう。でも不幸とイコールでは無い。
私の子供はすでにそこに存在していて、それならば子供自身が思う自分の人生を送れるようにできる限り手助けしたいと思っている。
今現在、自分がこんな心境であるにしても、自分含め家族全員が幸せな人生を送れたら良いと思っている。
「誰もこんなしんどいことしない方がいい」とついつい思ってしまうとはいえ、私は反出生主義者ではない。どんな派閥も肯定する気はない。
他人にまったくおすすめできない行為ではあるし、後悔しているのも事実であるため、どうやら読む人によっては「この状態を不幸としない」ことに矛盾を感じるのかもしれない。
(※0か1かでしか考えられない人もいると思うので一応書いておくが、これは「だから子供を産んで後悔はしてるけど、やっぱり私は幸福です」と言っているわけでない。)
こんな人間はどうせ産まずともグダグダ言っているだろうという意見もまあ確かにそうだな、と思った。というか、それの何が悪いのか全く分からない。
子供を産まなかった別世界線の私が後悔したとして、子供を産めば良かったと後悔している、と表明することの何が悪いのか?
その時その時のその人にとっての真実を書いて、ネットの海に放流することはなんの罪もない。
いろんな人が好き勝手書いて、それをいろんな人が参照して、取捨選択に使えばいいと思う。
(人の言葉尻を捕えて揶揄することで主張をする人たちも、私からすればイラッとするが好きにするといいと思う。匿名ツールなんてそうやって使われるものだと思うし)
もはや自分で読むのも面倒臭いほど長文になってしまった。これ以上追記はしないので、あとは自由に解釈してもらえたらと思う。 ]
当事者が今この瞬間に側にいたらいろいろ配慮しなければときっと思う。間違いない。
が、性別の変更がどうとか銭湯の女湯がどうとかトイレがどうとか、空中戦の議論を眺めていると、だから何?と思ってしまう。
欠けている本人にはまったくわからない。
自分の子供がもし当事者だったら同じことを言えるのか? と言われたら、子供はいないのでどうでもよい、くだらない仮定はやめろというしかない。
LGBTQになんか配慮することが文明人の証拠だ、現代人の証だ、みたいな空気になっているが、その手の当事者に何かを譲ったところでなんの利益もないので、まったくどうでもよいのだ。
それにもかかわらず、配慮しないと人非人のような扱いをされる風潮に世の中がなっているので、正直息苦しい。これは新しい形の暴力だと思う。
いままでLGBTQ当事者はそういう暴力を耐え忍んできたんだ! といわれたら、ああそうですか、というほかない。
ひたすら面倒くさい。生きにくい社会になった。
ダイバーシティということは、これまで「標準」から外れた扱いをされてきた人にとって「やさしい」社会になったほうが、全員にとって生きやすい社会になる、ということだとしたら、それはそうだと思う。
例えば今自分が筋ジストロフィーの当事者になったら、さまざまな人の助けをいまよりもっと借りて生きていくことになると思う(生きていくのであれば)。その時、自分に手が差し伸べられるような社会であってほしいと心から思う。そう思うから、病と生きる人にとって扶助の厚い社会であってほしいと思う。そのために税金も払おうと思う。
だが性自認の話になると、どうしてもそういうふうに考えることができない。
たぶん、もう自分の性自認はこれ以上変わりようがないので、関心を持ちようがないし、当事者に共感もしようがないと思っているからだ。
だからひたすら面倒くさいのだ。
この面倒くささを、それまで自分が「普通」だと思ってきた人間が感じること自体が社会の進歩(成熟)なのだ、とかいう議論をされたら、ああそうですかとしか言いようがない。
まったく同意できない。
みんなが「やさしく」なることを強制してくる社会はべつに「やさしく」はない。
この手の社会観に欠けているのは、生きることは権力闘争にほかならないという視点だ。
生きることは畢竟、殺すか殺されるかのどちらかだとすれば、こちらを殺そうと迫ってくるものは殺さなければならない。
「やさしく」しろ、と迫ってくる人間はそうした自己の暴力性に無自覚なため、苛立たしく感じられるのだ。
当事者に配慮しろ、ダイバーシティを意識しろ、「やさしい」社会を作れ、と迫ってこられたら、こちらはやることをやるまでだ。
そうはならずに、せめて関わらずに生きていくのがいい。
くり返しいうが、LGBTQの当事者が自分の隣りにいたら、配慮するだろう。人として付き合おうとするだろう。こちらも人だと自分のことを思っているから。
それ以上でもそれ以下でもない。
過剰にギスギスして、世の中の生きづらさを感じさせるようなLGBTQ言説が飛び交っている状況が悪い。理屈で相手をやり込めようとする暇人が悪い。
くだらない空中戦はもうやめよう。
ギフト的な発達障害児だったら「普通の学校に通って通り一遍の教育を受けさせるより、才能に合ったところへやって伸ばしてやる」とかあるだろうけど
このA君みたいな「箸にも棒にもかからない様な発達障害児。いや寧ろ人格障害というか精神障害」って感じの子の場合
親が太いってんなら「家から出さずに生涯を終えられる様にしてやる」べきだと思うんだよねー
座敷牢じゃないけどさ
本人のQOLはそれほど損なわずに人生を全うさせられるだけの財力とかがあるんだろうからさ。やりゃあいいんだよ
あー…ほんと、こんな人非人な発言しないで済む様に、良いお薬が一日も早く誕生することを願ってるわ
ついでに認知症老人を根絶させるお薬もな
割と自由の利く仕事をしていてちょっと縁があるアメリカの地方都市にいる。
もともと日本が大好きで他国に住むなんて有り得ないと思っていたが、子供たちを無痛でほいほいと出産してから居着いている。
子供たちは現地校に通わせているが日本人とも遊ぶし、駐在の人たちにも仲良くしてもらってる。
夏の一時帰国の予定を立てるにあたって去年都市部の実家に一時帰国した時の面倒くささが蘇ってしまった。
一時受け入れをしてくれた幼稚園、小学校の持ち物にサイズ指定があるのにまず驚いた。
上履き袋は横開きの240mm*140mmでマジックテープ、縦に吊るせる紐を付ける。上履き袋を壁のフックに効率よくかける為らしい。
芋袋も布で用意する。芋ほり体験の後にサツマイモを持って帰ってくるための巾着袋を布で縫う。
お昼寝布団はセットで自転車通園でも大きな袋を毎週よっこらよっこら抱えていかないといけない。
出羽守仕草をやらせてもらうが、アメリカの学校ではそういったものはない。
上履き袋は市販品でいいし、芋袋はガロンサイズのジップロックでいいし、お昼寝セットは市販のナップマットを丸めれば肩に掛けて歩ける。
日本でベビーカーを押していても邪魔にされたり、ひどい時は信号のない横断歩道でギリギリまで車を寄せられたりクラクションを鳴らされたりする。
駅のエレベーターは譲られるどころか並んでいる前に普通の人が次々と入り込み降車から5分10分とかかってやっとホーム階に行ける。
もちろん日本製のアップリカでサイズが邪魔になっている訳ではない。
アメリカで車をベビーカーに寄せたりするのは極悪人だしクラクションなんかしたら人非人扱いだ。
ヒーロー志向が良い方向に働いてエレベーターは並んでいても子連れが譲られるし段差があれば男女関係なく誰かしら助けてくれる。
日本で重く勝手に閉まるタイプのドアを開けてさあ入ろうという時に他の人が入ることはある。
勿論アメリカで開けたドアを他の人に譲ることは多くある。しかし必ず礼を言うものだ。
日本では半分以上の人がドアを押さえる私を無視して素通りする。私はドアマンじゃねえよ。
こくりと会釈か目礼する人で、ありがとうと声に出す人は滅多にいない。
街を歩いていてもテレビを流していても、それはどうなの?というソシャゲのCMばかり。
温泉むすめや雀魂が炎上したがどうもどちらの言い分も飲み込み兼ねる。
私も長らくオタクだったので表現の自由派だったが、日本の街のどこもかしこもアキバみたいなノリなのはきつい。
あんたもコンビニの外壁に貼られるならせめて親戚の家に行く時に失礼にならない程度の露出度の服を着なさいよ。
長々と書いたがアメリカ出羽守の戯言なので叩きたければどうぞ。
色々な肌や言語の家族がいるけど子供たちは普通にバスケやニンテンドーで遊んでいる。
遭遇するかしないかわからないアジア人差別より遭遇率の高いぶつかりおじさんの方が嫌。
日本での勤労と納税の義務は果たしているが子供たちが小さい内はあまり帰りたくない。
嫌なら帰ってくるなと言われるのはわかっている。
嫌だから帰りたくないな〜と思っている話。
福沢諭吉の福翁自伝(岩波文庫)の中で、朝鮮人は卑しいなどの差別表現や、車夫、馬丁、人足、小商人といった下等社会などの差別表現(文章)は何頁に記載されていますか。よろしくお願いします。
福沢諭吉「車夫、馬丁、人足、小商人のごとき下等社会の者は別にして、いやしくも話のできる人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない」
福沢諭吉について6
1889年(明治22年)に時事新報社の社説に書いた「貧富痴愚の説」では、
「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」(全集第12巻62ページから)
神社のお札を踏みつけ、尻を拭く
[報国致死][社中][福澤諭吉]「報国致死はわが社中の精神」
一 婦人の気品を維持することいよ/\大切なりとすれば、敢て他を犯さずして自から自身を重んず可し。
滔々(とうとう)たる古今の濁水(じょくすい)社会には、芸妓もあれば妾奉公する者もあり、又は妾より成揚(なりあが)り芸妓より出世して立派に一家の夫人たる者もあり、都て是等は人間以外の醜物にして、固(もと)より淑女貴婦人の共に伍を為す可き者に非ず、賤(いや)しみても尚お余りある者なれども、其これを賤しむの意を外面に顕(あらわ)すは婦人の事に非ず。
我は清し、汝は濁る、我は高し、汝は卑しと言わぬ許りの顔色して、明らさまに之を辱しむるが如きは、唯空しく自身の品格を落すのみにして益なき振舞なれば、深く慎しむ可きことなり。
或は交際の都合に由りて余儀なく此輩と同席することもあらんには、礼儀を乱さず温顔以て之に接して侮(あなど)ることなきと同時に、
要は唯其人の内部に立入ることを為さずして度外に捨置き、事情の許す限り之を近づけざるに在るのみ。
売春防止法では買う側は罰せられないけど管理売春させてる女衒共は罰せられる
大麻取締法で吸うのは罰せられないけど所持してるのは罰せられるのと似てるんだが
大麻吸ってる奴は「でも所持はしてないからクリーン!」なんてならないように
なぜかColabo批判のどさくさに紛れて「仁藤が売春おじさんをキモイと言ったのは男性差別!ミソジニー」とか、「仁藤が売春おじさんをキモイと言ったのはオタク差別!!」とか滅茶苦茶な言い分をゴリ押しして押し通そうとする奴が多すぎてColabo批判に乗れない
酷いと「児童売春おじさんをキモイと言ったのは差別!」まである
寧ろ売春防止法スレスレやギリアウトの人間に対してキモイで済ませてる分かなりオブラートに包んだ優しい言い方してるだろ
児童売春を行うのは完全なる犯罪者だし、成人の売春もギリギリ犯罪者になってないだけだから、売春ジジイはキモイではなくゼンカモン、クソ野郎、ゴミ、カス、クズ呼ばわりが妥当
売春防止法がなかったとしても、金で「他人の内臓の中に自らの性器を擦り付け快楽を得る行為(なお、労働者にはHIVや子宮頸がんといった重篤な病に罹患するリスクがある)」を買う奴は人非人以下の存在だろ
「金払えば人殴っても無罪」って世界で金払って人ぶん殴る奴いたらクズなのと一緒
それなのに「売春おじさんをキモイと言うのは差別」をゴリ押ししようとするクズが大勢いてウンザリする
ついでに言うと「フェミナチ」という言葉でフェミニストを攻撃してる奴が多いのにも引く
そしてこういうことを書くと脊髄反射ですぐに「Colabo擁護派のフェミ」だの「共産党シンパ」だの「日本リベラル」だの色んなレッテルを貼ってくる1ビット脳のミジンコ以下の思考能力のバカがわらわら湧いてくるのにもドン引き
大手メディアやその他の人がColaboを批判しない!ダンマリ!とか言ってる暇があるなら、自分の発言を反省しろよ
誰が「売春おじさんをキモイと言うのは差別!」とか「フェミナチ」とか適当抜かしてるバカと一緒にColabo批判するんだよw
まともな人はお前の視界に入らないところで冷静に批判してるわ。その批判さえ擁護だと捉える程興奮してるバカは何見てもダンマリ!って喚くんだろうけどな
児童買春を非難したいなら動画タイトルは「児童買春を許さない」でいいわけで 「キモいおじさん」というタイトルにするのはおじさん差別や男性差別をしたい気持ちが混入してるよね ...
「かっこいいおじさん」とか「面白い高校生」とかいう単語見ても「おじさんを全員かっこいいと言いたい気持ちが混入してる!」「高校生は全員面白いと決めつけてる!」と喚くんだろうか
本気でそう思うなら読解力が低すぎる。仁藤を叩くより先に病院に行った方がいい
これもしかしたら地雷耐性より基地外耐性の性差の問題かもしれない。
まともな大人の男性であればあるほど、大声でただのワガママを叫ぶバカのことは集団の秩序を守るためにもきっちり理屈でシメるべき、となる。
一方、まともな大人の女性であればあるほど、大声でただのワガママを叫ぶバカを見たら「あんなに大声で叫んでる人を無視したりシメたりしたら人非人だと思われるのでは?」と考えてしまうんじゃないか。
大声で泣き叫ぶことが「ひどく傷ついていてケアを必要としている人」「それほど強い正当な怒りを抱いている人」という看板として機能するかしないかというか、「優しくない」「冷たい」という評判が同性間で命取りになるかどうかというか…
平気で理屈で殴り返せるタイプの女性もいるけど、そんな人ほど日頃から「少し冷たい」「理屈っぽい」「人の気持ちがわからない」などの悪評を背負っているのでシメに行っても意見が通りにくくなるし、匿名でも「平気でそんなことを言うのだから変人であろう」となって意見が通しにくい。
そういう構造的バグを突かれる形になるのでメチャクチャな理屈で喚くバカが大声を出すと女性ばかりの集団はそれに抵抗しづらくなるという耐性の弱さが傾向としてはあるんじゃないかな…