2023-04-19

LGBTの話に興味が持てない

当事者が今この瞬間に側にいたらいろいろ配慮しなければときっと思う。間違いない。

が、性別の変更がどうとか銭湯の女湯がどうとかトイレがどうとか、空中戦議論を眺めていると、だから何?と思ってしまう。

当事者性のなさ、共感性の欠如は恐ろしいのだろうか。

欠けている本人にはまったくわからない。

自分の子供がもし当事者だったら同じことを言えるのか? と言われたら、子供はいないのでどうでもよい、くだらない仮定はやめろというしかない。

LGBTQになんか配慮することが文明人の証拠だ、現代人の証だ、みたいな空気になっているが、その手の当事者に何かを譲ったところでなんの利益もないので、まったくどうでもよいのだ。

それにもかかわらず、配慮しないと人非人のような扱いをされる風潮に世の中がなっているので、正直息苦しい。これは新しい形の暴力だと思う。

いままでLGBTQ当事者はそういう暴力を耐え忍んできたんだ! といわれたら、ああそうですか、というほかない。

ひたすら面倒くさい。生きにくい社会になった。

ダイバーシティということは、これまで「標準」から外れた扱いをされてきた人にとって「やさしい」社会になったほうが、全員にとって生きやす社会になる、ということだとしたら、それはそうだと思う。

例えば今自分筋ジストロフィー当事者になったら、さまざまな人の助けをいまよりもっと借りて生きていくことになると思う(生きていくのであれば)。その時、自分に手が差し伸べられるような社会であってほしいと心から思う。そう思うから、病と生きる人にとって扶助の厚い社会であってほしいと思う。そのために税金も払おうと思う。

だが性自認の話になると、どうしてもそういうふうに考えることができない。

たぶん、もう自分性自認はこれ以上変わりようがないので、関心を持ちようがないし、当事者共感もしようがないと思っているからだ。

からひたすら面倒くさいのだ。

この面倒くささを、それまで自分が「普通」だと思ってきた人間が感じること自体社会進歩成熟なのだ、とかい議論をされたら、ああそうですかとしか言いようがない。

まったく同意できない。

みんなが「やさしく」なることを強制してくる社会はべつに「やさしく」はない。

この手の社会観に欠けているのは、生きることは権力闘争にほかならないという視点だ。

「やさしく」しろ、とみんなで迫る行為には権力性がある。

生きることは畢竟、殺すか殺されるかのどちらかだとすれば、こちらを殺そうと迫ってくるものは殺さなければならない。

「やさしく」しろ、と迫ってくる人間はそうした自己暴力性に無自覚なため、苛立たしく感じられるのだ。

LGBTQの話に無関心でいることは次善の策なのだ

当事者配慮しろダイバーシティ意識しろ、「やさしい」社会を作れ、と迫ってこられたら、こちらはやることをやるまでだ。

そうはならずに、せめて関わらずに生きていくのがいい。

おそらく救いは、人間であろうとすることなのだろう。

くり返しいうが、LGBTQの当事者自分の隣りにいたら、配慮するだろう。人として付き合おうとするだろう。こちらも人だと自分のことを思っているから。

それ以上でもそれ以下でもない。

過剰にギスギスして、世の中の生きづらさを感じさせるようなLGBTQ言説が飛び交っている状況が悪い。理屈相手をやり込めようとする暇人が悪い。

くだらない空中戦はもうやめよう。

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