はてなキーワード: ペットボトルとは
とんでもない変わり者が弊社に入社してきたらしい。何でも同じビルのファミレスから大量のガムシロップとレモンシロップを食事の度に持ち出して、それを空のペットボトルに詰めて、『即席清涼飲料水』を製造していたらしい。
で、彼女のデスクもオフィスの冷蔵庫も『即席清涼飲料水』で満杯。捨てようとしたり注意しようとしたりするとパニックを起こして泣き叫んだと聞いている。
最終的にはファミレスから出禁を喰らい、他のカフェか何かでガムシロップ持ち出しを咎められた辺りで退職したとか何とか。まあ私が入社する前の話だ。シロクマ先生の話を見て思い出したが、「◯◯ちゃんも変わり者だけど『清涼飲料水ちゃん』よりはマシだから」と微妙なフォローを貰って思い出したことをここに記す。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20210218/1613629800
「プハーッ!」
お分かりだと思うがなにかを飲んだ後の吐息のようなものの表現です。
漫画などではビールを飲んだ後に出てくることが多いように感じますが、
何飲んだ後にも「プハーッ」ってやるんだけど、なんか汚いんだよな。
ペットボトルの緑茶飲んでもプハー、食後に水かなんか飲んでてもプハー。
毎回ではないけど、なんか食べた後ですら「んはー」みたいな吐息出すし。
もう老化なんだろうな。
春雨サラダもすすって食うし。冷めたシチューもズルズル音立てて食べるし。
悲しいなぁ
長いし、読む価値は無いので、読んでからガッカリしたとしても自己責任でお願いします。
子供の頃からなんとなく漠然と、自分の人生は二十歳で終わると思っていた。
高校受験、学校見学で魅力的な学校を見つけ、どうしても入りたくて、頑張った。
憧れた高校に入学して、そのあと何をしたらいいのか分からなくなった。
高校生活は何をすればいいのかわからなくて、とりあえず「それっぽい」ことをして終わった。
憧れた高校生活は、ほとんど何もせず、ただ好きな制服を着て、かっこいい校舎を彷徨くだけだった。
それで満足していたし、それ以上はなかった。
大学は行きたくなかった。
やりたい事はほぼなくて、勉強もできないし、将来の目標も無いから、行く意味が分からなかった。
小学生の頃の昼休み、友達に「絵が上手いから漫画家になればいいじゃん」と言われた。
その時からなんとなく漠然と、自分は漫画家になるんだ、と思っていたし、漫画家になるなら専門学校の方がいいと思っていた。
あとは、当時見た3D映画がかっこよくて、そういうのを作る人になりたいと漠然と思って、そういう専門学校も考えていた。
結局、絶対大学じゃなきゃダメだという両親に説得され、漫画も3Dも学べる大学に入った。
新設の学部だったし、入試説明会や案内には、漫画やアニメ…それこそ専門学校のようなラインナップが書かれていて、親が許さず専門学校ではなくこちらにきた、という人が私以外にも大勢いた。8割はそうだったと思う。
実際、入学前に散々確認した3Dのモデリングに関する知識のある講師は、入学後には存在しなかった。
かろうじて漫画の講義はあったが、ただのオタクおじさんが自分のロリ趣味を語って聞かせるだけで、そこに学べるもの(例えば、そのロリの魅力、なぜいいのか、どういうところがファンの心を掴むポイントなのか、などを話されればまだしも、ただ「かわいい」としか話されなかった)は無かった。
これは、このままここにいても意味がない。このままじゃ無駄な時間を過ごしすぎる。
二十歳まで残り2年、アルバイトを頑張って、大学在学中に夜間の漫画専門学校に通った。
それでも学校に行ったのは、私自身がそうしないと一作も描けない人間だったからだ。
つまり、この時点で気づくべきだった。
私に漫画は向いてない。
授業は週一、1年間。必死で稼いだバイト代のほとんどを注ぎ込んだ。最大限に有効活用して作品作りに役立てようと息巻いていた。
入学特典として、時間外でも個別相談で作品を見てもらえたので、入学2ヶ月後、早速初めてのネームを見てもらった。
ストーリーも何もかもボロボロで、とても酷いネームだったと思う。
それでも、丁寧に指導してもらえて、学ぶことがたくさんあって嬉しかった。
教えてもらった事を活かすために、早速新しいものを描いて、2週間後にまた持っていった。
「あなたのネームは長いし、見るのに時間がかかるからなぁ。僕、家が郊外で遠いし、嫁が家で待ってるから」
それ以来、週一の授業も休みがちになり、半年をこえた頃には専門学校は行かなくなった。
自分でなんとかしなきゃ。
とにかく、まずは一作。
そうして、専門学校卒業前に1人で作品を完成させ、初めての持ち込みに行った。
せっかく描いたし、なるべくたくさんの意見を聞いて次に活かしたい。
5個の編集部に持ち込みに行った。
うち2箇所で、二度と漫画を描くなと言われた。
そんなバカな、誇張が過ぎると思うでしょ?一箇所はあくまでやんわり、自分の担当作家と私との違いを長々と話した上で、向いてないと思うと言われた。
もう一箇所は誇張無しでハッキリと、「二度と描くな」だった。
でも、2度目を描くことも許されないとは思わなかった。
帰り道の足取りは重かった。
初めての単身上京、知らない街。
足を止めたら消えてなくなる気がしたから。
うち一つは、みんなの憧れで厳しいと言われる場所で、なんならそここそ絶対無理だと思っていた場所だ。持ち込み予約の電話時点で扱いが悪かったし、当日も約束の時間に行って、30分待たされて、待ってる間他の人が酷評されているのが聞こえて、怖くて途中で帰ろうかと思っていた。
でも、そこの編集者が1番優しくて、また見せてほしいと言われた。
でも結局、編集部の名前が凄すぎて恐れ多いし、なにより田舎者の自分はそう簡単に持ち込みに行けないので、もう1箇所の名刺をくれた人にネームを送るようになった。
結果から話すと、うまく行かなかった。
その頃には大学も卒業の年になり、最後の思い出のつもりで卒業制作を別の編集部に投稿した。
持ち込みの時にも行った編集部だが、持ち込みの反応はかなり悪かったし、きっと今回もダメだと思っていたが、卒業旅行中の魚市場で受賞の連絡を貰った。
漠然と、自分は漫画家になる、と思っていたから、就活はしていなかった。
元々していたアルバイトをフルタイムにして、漫画を描いていた。
しかしバイトがハードすぎて漫画を描く時間はなかった。休憩時間に事務所でトーン貼りしたりしてた。
鬱になった。
正確には鬱になったのは卒業制作中、同じゼミの子と比べられるプレッシャー、作品ができない焦り、バイトの繁忙期が重なってパンクした。
ある日突然、プツンと何かが切れるような感覚があって、それ以降、目の前で話しかけられても、音声として認識できても言葉として理解できなかった。
話を聞いているのに、聞き取れない。理解できない。
当時の店長に相談して、接客から裏方作業に切り替えてなんとか過ごしていたが、色々あって結局辞めた。
元々2年で辞めるつもりだったし、漫画もバイトもうまく行かなくて、就活を考えた。2年以内ならまだ第二新卒枠がある。
それでも雇ってくれるという会社があった。絵を描ける技術を買ってくれて、新しく雇用形態も増やして、漫画の夢を追いながらうちで働けるようにサポートしてくれる、と。
すごく嬉しかったが、断った。
雇ってくれるという会社は、夜の街に近かったし、それに隣接するお店も取引先になっていた。
両親はそれが心配だったらしい。
「周りの人に、そんなとこで働いてるって言えるの?」
私は働いた事がないから分からないけど、親が言うならそうなのかも、と思ってしまって、断った。
今思えば、あの時あの会社で働いていたのが、1番幸せな分岐だったのかもしれない。
面接をしては落ち、を繰り返している間にふと、どうせ働くなら漫画に近い場所の方がいいのでは?と、アシスタント先を探すことにした。
当時はまだアナログが主流で、どこも都内で通いの募集ばかり。田舎者の自分には不可能だった。
家から自転車で行ける場所、未経験者可、自分にとっては最高の条件。
早速応募して、面接。
そこで初めて、現役の漫画家さんと話した。
作家さんの仕事場はフルデジで、ワンルームに作家さんと私用のPCと液タブが、それぞれ壁を向いて設置されていた。他は何も無い。
お互いにコミュ障で、会話はあまり弾まなかった。それでも、ネームを見てもらったり、トーンの貼り方をなんとなく教わったりした(基本的には「いい感じにして」の指示だったので、ほとんどは独学だった)。
その作家さんは漫画業界の闇に触れすぎて疲れていたので、ほとんど話し相手の役割だったが(そもそも週刊と月刊の2本連載をほぼ1人で描く狂人だった)、私にとっては貴重な話がたくさん聞けた。
あと、その話を聞いてて、「漫画家なんてなるもんじゃないのかもしれないな」、とも思った。(作家さんが毎日のように辞めたいと言っていたから。そもそも異常な執筆量を1人でこなしてたし、そりゃ辞めたくもなるわな、と今は思う。)
そこで1年半すごし、作家さんの連載の終了と共に辞めた。
その頃は、何度か原稿を送って、1番小さい賞を何度か取っていた。しかし担当さんとはうまくいかないし、原稿送っても「悪くは無いけどよくもない」しか言われず、何をどうしていいか分からない状態だった。
そしてふと、自分は今まで一度も漫画を楽しく描いた事がないことに気づいた。
展開が、目線誘導が、読者の盛り上がりが…
初めて描いた時から、そんな事を気にしてばかりで、自分自身が楽しく漫画を描いたことがなかった。
アシスタントも無くなり、名実ともに無職になり、再度就活を始めた。
相変わらず履歴書を笑われて、嘘つきな採用担当に意味不明な事を言われながら、最後に自分の好きなものを描いてみようと思った。
何を描いても、誰にも何も言われない。
好きなように、楽しく。
結果的にやっぱり「読者の目が〜」とか「起承転結が〜」とかを気にしてしまい、完全には楽しくなかったけど、それでも、今までで1番気楽に描けた。
せっかく描いたし、SNSにあげてみた。
今まで私の漫画は学校の先生と、編集部の人くらいしか見たことがないし、反応をもらえた事はない。
いいねが1万件ついた。
びっくりした。
たった一晩で想像もしない人数が見てくれた。感想のコメントもいっぱいついた。
嬉しかった。
それから、就職が決まるまでの間…と、少しずつ好きな作品を描いた。
これで漫画は最後にしようと思っていたのに、やっぱり描きたくなった。
ほとんど返事はなかったが、1箇所だけ返ってきた。
そしてそこで、いきなり連載になった。
今までもらった事ない反応が続いて、ある種のハイ状態だった事もあり、その連載もうまくやれる気がしていた。
そして実際単行本も出した。
これだけ聞くと、SNSで人気出て連載、書籍化、すごく順調っぽい。
当時の自分もそう思っていた。
でも実際は違う。
話数が増えて、人気もちょっとずつ出て、物語にちょっと複雑な内容を追加した。
とはいえ、ただエロシーンが続くだけでは読者も飽きるし面白くない。何より話が続けられない。
そして元々少年漫画が描きたかった私は、エロだけを描くのは本意では無い。
今までは「いつか人気が出れば複雑な話も描けるから」と言われて頑張っていたが、その「いつか」が来ない。
担当にはっきりと、「絵がそこそこ描ければ話なんてどうでもいいから」と言われ、自分から打ち切りを申し出た。
今でも配信サイトのコメント欄には続きを望む声が書かれていて、非常に申し訳ない。
描けなかった。
今度こそ、きちんと、話で勝負できるように。
連載の経験もあるし、単行本も出てる。今までとは違う。採用にならなくても、作品を良くする話をしてもらえるはず。
「よくこれで本が出ましたね」
持っていったネームも単行本も、今までのどの持ち込みよりも酷い評価だった。
曲がりなりにも約2年、頑張って描いていたのはなんどったのか。
当たり前といえばそうかもしれない。
過去に2社で連載をしたが、その二つ共が作品の打ち合わせはほぼ無かった。
一社に関しては一応ネームチェックがあり、エロの量だけ指示された。
もう一社に関しては、企画段階で一度だけ電話があり、メールの内容の復唱だけして終わった。以降は何を送っても「いいですね!」何も良くない。こっちが頑張って、相談しても特に取りあわれず、返事は全て「いいですね!」
一応お金をもらっていたけど、やってる事はSNSの投稿漫画と同じ。
商業作品の魅せ方のノウハウはもちろん無く、作品作りの才能がない自分には、自分だけの力で読者を惹きつける漫画を描くことはできなかった。
3度目の、「もう漫画やめよう」が来た。
悔しいけど、やっぱり自分には描けない。
その漫画は、内容にアラは感じていたが、今までで1番楽しく描けた。
その作品を持って出張編集部に行って、そこでも2社声がかかった。
描けなかった。
私の中でイメージするキャラは持ち込みの時から変わっていない。けれど、いくらネームを描き直しても、担当さんからはキャラブレ、別人になってるという指摘をされた。
だんだん自分でもそのキャラがどんな子なのかわからなくなった。
しばらく練り直して、やはり変わらなくて。
諦めて別の話を描くことにした。
そこからは真っ暗闇だった。
どんな話を描いても、中身が全部同じと言われる。
下手に考えるより、自分の好きなものを好きなように描いて、それを膨らませる。
そう言う方法で描いた方がうまくいくタイプなのは自覚していたから、そのように描いていたつもりだ。
結局実力も追いついていなかったし、描きたいものも分からなくなってダメだった。
そんな事が2年近く続いた。
別の編集部の人に、考えている途中のネームを見せたこともある。
足りないのは実力じゃなくて話の一番の見せ所だ。あとちょっとでうまくいきそうだし是非頑張って。
それは、私が初めての持ち込みの時からずっと言われている事だった。
そろそろ30になる。
二十歳で死ぬと思っていたのに、10年もロスタイムを生きてしまった。
一番仲がいいと自分では思ってたし、昨日まで仲良く遊んでたのに。
突然クラスの男子からいじめに遭い、それを一番仲が良い友達に相談していた。
男子を使ったいじめの首謀者がその子だと気づいた時は目の前が真っ白になった。
はっきりと意思表示をした。思い直してくれることに期待した。
「別にいいし」
友達を作るのが怖くなった。
どんなに仲良くなっても、弱みを握られるだけだ。
ある程度損得が考えられる生徒が多かったから、いじめにはならなかった。
3年でようやくできた友達は、卒業と同時に「私たち高校の間だけの友達じゃん」と言われた。
友達って難しいな。
親には言えなかった。
友達に言うとまたいじめられるかもしれない。親なら相談に乗ってもらえるだろう。
そのまま卒業した。
そう言われ続けて卒業した。
何人か連絡先を交換して話したりした。
仲良くなった人もいる。
ちょうどアシスタントを始めた頃で、それまでバイトの都合で服装に制限があったし、オシャレはほぼした事がなかった。
ネイルと言うにはお粗末だが、100均の安いマニキュアを買ってなんとなく色をつけて喜んでいた。
100均のマニキュアを使った事がある人なら分かると思うが、乾くのが早い代わりに、木工用ボンドみたいにペロッと剥がす事ができたりする。
オシャレに無頓着な私はそれが何となく楽しくて、塗った後しばらくたって剥がれたマニキュアをめくったりもしていた。
ある日、LINEのやりとりで仲良くなった1人に食事に誘われた。
趣味の話とかゲームとか、そう言う楽しい話をしていた、異性で初めてできた友達の感覚だった。
自分の指先が、剥がし掛けのマニキュアでボロボロなのを完全に忘れて食事に行った。
向かい合った個室のテーブルで、その爪に気づいたその人に、「ネイルやってるの?見せて」と手を握られた。
そして、ボロボロの爪を見られた。
「オシャレだね」
怖くなった。
ボロボロにハゲた公園の遊具のペンキみたいな指先を綺麗と言ったのだ。
しかも、気持ち悪い笑顔を貼り付けて、視線は全く手を見ていなかった。
男女でただの友達になれるのは大学まで、そのあと仲良くなれるのは下心のある人だけらしい。
それがたまらなく怖かった。
その後も何度か友達までの付き合いの人はいたが、例えばふとした瞬間肩を触られたり、手を握られたり。
そう言うのが怖くて続かなかった。
そのままもうすぐ30だ。
家を出る能力がないので実家暮らし、毎日両親…特に母に怯えて生きている。
「家にいるんだから家事しなさい」「他の人は外に働きに出てるんだから」
少ないながらに在宅でアシスタントはしている。
両親の中で、外に通勤していない、在宅労働は「仕事」ではないらしい。
本当は拘束時間が長い職場だが、家事があるため作家さんに頼んで短くしてもらっている。
当然、その分給料は減る。
給料が少ないから、その分早く自分の原稿で稼げるために作品作りに励む。焦る。
それでもようやく希望が見えてきて、前向きに色々挑戦できそうになってきた。
真夜中に叩き起こされ、いつ結婚するのかと叱責された。
完全に寝ていたので、はじめ何を言われているのか分からなかった。
私の雪国に対しての類義語が雪国まいたけしかない昨今いかがおすごしかしら?
雪が降ったり寒くなったりすると
雪国まいたけって言いがちなんだけど、
ここでマイケルジャクソンさんばりにポーとか言わないところがまだ理性があるところだわ。
本当に寒くって、
お友だちの家に行ったら頼みの綱のボイラーがまさかの凍結っっ!
ああ言うのって凍結した管に熱湯かけたりしたら、
爆発するらしいので、
翌日には凍ったのがディナーの前の謎と共にとけたんだけど、
なんでも10年に一度の未曾有湯のお味噌汁味ってなわけなのよ。
途中そのお友だちの家に行くときに、
雪でバスも全滅だったので、
そこはネットで調べたら一目も瞭然なんだけど、
雪で可愛そうだから、
ここまで来て思い出せないあの日本昔話を地で行くように、
私は情報バイアスなんて言わないで確実に確実にバス運休情報をゲットしている持っている情報の強みを活かして、
待ってる人が気の毒だったので教えてあげたの。
そのあとそのまんが日本昔話ばりの恩返しはなかったんだけど、
それだけが気がかりよ。
寒い中突っ立ってるのって辛いじゃない!
これが一番雪に対抗できる運動靴かも!と思ってハイテクシューズを履いてくんだけど、
まあ足もと慣れない歩きだけど、
雪中訓練みたいなかんじで
辛かったけど、
到着したら一入。
疲れているから一塩つまんで入れて、
味わいそのものはダイレクトに舌に伝わるお汁粉の味だピュアよ。
こんなことは滅多中の滅多にはないだろうけど、
楽しい思い出の1ページ的なページとして
記録に残る積雪より記憶に残る積雪としてのオリンピックイアーを今年はどうしても開催したいところ!
また夏どうなるか分からないけど、
雪中切に思ってやまない、
この思い届きますよに!って
帰りの新幹線で思ったわ。
帰りの新幹線も雪で徐行遅れが発生!なんて言ってたけど
500kmの道のりを2時間ちょっとで本当は着くTGV的なものでも
まあ時速100キロで走れば5時間で到着するからいいじゃん!って心の持ちようなのよ。
のんびりしてるわーって思いながら、
それを日本のとに比べたら、
5分遅れただけでも申し訳ございませんって、
ホテルのドラマの高嶋政伸さんばりの謝りはいらないし大袈裟だと思わない?
ちょっとやりすぎだと思うわ。
おかげで遅れると言っても
本当に迷うところよね。
この昨今車内は行きも帰りも人1両に対して私含め4~45人ってところだったから、
車内販売の人の上がりも歩合制なら本当に気の毒よね。
私が一杯水飲んだところで
ペットボトル3本としても、
その車内販売の売り子さんの歩合のさ上がりがさ20円ぐらい上がるだけじゃない。
少しでも売上に貢献できたらと思って、
少しは貢献しているはずよ。
うふふ。
苦手じゃないけどあえて言うならってことよ。
寒いのでホッツ白湯ウォーラーインほうじ茶ヒーパックを浸けておけば、
本当に寒いわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
※人によっては不快な気持ちになるかもしれません ご了承の上お読みください。
初めてその人を見た時私はその人の髪色の所為でその人の存在自体が自分の居る場所に妙に不釣り合いなように感じたことを覚えている。
動画サイトで後ろ姿しか見たことのないその人は、動画で受ける印象よりも少し若く見えた。髪の毛が短くなっているからだろうか、服の着こなしといいその人は自分に似合う物をそれなりに考えて着てるみたいだった。第一声は「意外と背が高いね」だった気がする。ちょっと立ってみて、と言われて立った私は緊張で少し震えていたと思う。何か吹いてみて、と言われて吹いたのは先輩から事前に渡されていた軽い小曲集の1つだったがそれすらもろくに吹けなかったので内心ものすごく緊張しながら吹き終えた事だけを覚えている。
好きなんだろうか、と思ったのは暑い盛りの夏が終わった時でその頃には私は部活にそれなりに馴染んできていて、それなりに楽器も吹けるようになっていた。
朝練に出るため川沿いを自転車で走っていたときに見えるまだ出たばかりのまばゆい太陽を眺めながらあの人もこの太陽を見ているのだろうか、とかそんなことをふと考えた。もっともその人はいつも練習時間に遅刻してくるのだけれど。朝早く起きているのかすら怪しい。でも、そんなところがその人の私から見た好ましいところだった。
先輩方のお別れ会、というものを空き教室でやったことがあり、そのときもその人は遅刻してきた。
お別れ会を進めようにも来ないのだから進めることが出来ない。私たちはその時間の間にペットボトルのジュースを何本か開け、持ち寄ったお菓子を紙皿にぶちまけて食べていた。行儀が悪い。
遅れてきたその人を見てようやく揃った、と全員が安堵した。その人を含め1、2年生で合唱なるものを披露したときその人は少し泣いている様に見えた。指揮を振るときにしかめったにつけない薄いフレームの眼鏡を少し持ち上げて目頭を軽く指でなぞる仕草は皆が前を向いていたときにこっそり横目で見ていた私だけが気づいていたのだと信じたい。
その泣き方は別れに何度も立ち会ってきたけれどそれにまだ慣れきっていないといった感じだった。
私はその人にも別れの歌がよく聴こえるように一層口を大きく開けて歌った。その日の歌は毎年聴いてる合唱の中で一番良かった、と言われた。それを聞いて私は、来年になったらまたおんなじ事をこの人は言うのだろうと思った。
楽器屋の壁にある演奏会のポスターが貼ってあるのを見つけた。そのポスターにはその人の名前も載っていてその演奏会に出るのだ、という事に気がついた。塾の帰り道、コンビニに寄ってチケットを買った。学生なので安く済んで良かったと思った。
年が明けて、学期始めの前日にスカイツリーのよく見える街までその演奏会を聴きに行った。中は混んでいて客の大半は知り合いの伝手で来ているらしかった。楽器を吹いて参加する事もできるらしく、学生らしき人が楽器を持参してパンフレットの裏に載った譜面を吹いていた。でも、ステージの上を目を凝らしてみてもその人の姿はそこには無かった。
演奏会が終わりホールから出て行こうとするとその人は出口の辺りに居た。一般の参加者の人にだけ配布されたバッチか何かを回収する係らしかった。あとでその人のSNSを見ると演奏会のあった日に「ありがとうございました」というメッセージと舞台裏から撮ったらしい写真が添付されていた。その人は理事で、演奏には参加していなかった。
冬が明け、春になり私には後輩が出来た。今まで2人しか居なかったので後輩が出来るのは素直に嬉しかった。三年の先輩はいないので実質私たちが一番年上だった。
新入生がその人の前で演奏する時期がまたやってきた。去年の自分を見ているようでとても初々しかった、それと同時にもうそこには戻れないさみしさを感じた。もうあの頃には戻れないのだ。泣いたって叫んだって私はもう前に進まなきゃいけなくて、あの子達はきっと自分よりももっと上手くなってそのうち私も追い越されてしまうんだろう、と思った。それが羨ましくて私は新入生の演奏を聴くように言われたが練習がしたい、といって断った。後輩に興味の無い人間だとあの人は思ったかもしれない。それでもあの人は頭の片隅でほんの少し思っただけでそのことについては1秒後には忘れているのだろう。
夏になりコンクールの時期がやってきた。コンクールにはそれなりに力を入れている学校で上位大会にもよく出場している学校だった。コンクール以外でも全国大会に参加したことのある、知る人は知る中堅の強豪校だった。
コンクールの結果はとしによってもまちまちだったが私たちの前の代までは連続で地区と県は必ず抜けていた。最も中学の時は最後の年しか県を越えた事は無かったので中学と似たようなものだと思った。オーディションは学年問わずほぼ全員強制参加だ。オーディションを真ん中くらいの微妙な順位で抜けた私にはなぜかソロが回ってきた。その前のソロコンの順位がたまたま一桁台だったからかもしれない、まぐれで良かっただけの順位を当てにされても、と思ったがなんとかその人の期待に応えよう、と思って私はそれなりに全力を尽くした、つもりだった。
結果は予選落ちで、このくらいひどい成績を取ったのは史上2回目らしい、しかもその前は15,6年ほど前のことだ。
コンクール予選の音源を聴いてみたがそこまで特に大きなミスを感じなかった。音圧で耳がおかしくなっていたのかもしれない、とおもったけれど舞台裏で聴いていた友人にはべつに地区落ちするような音楽じゃない、と言われた。スタンドで飲んだタピオカを飲みながらちょっぴり泣いた。帰りの電車でも泣いて、家に帰ってからも2階の自室へつながる階段を上る気力すら湧かなくて、気がついたら床に突っ伏して泣いていた。涙と鼻水がフローリングに滴った。
次の日の反省会でほぼほぼ全員大泣きした後、心機一転で音楽室の大掃除をした。空は真っ青で、雲は学校の前にある会社よりも遠くの方に見えた。窓越しにその人と目が合ったとき私は片膝立ちで窓の外をぼんやりと眺めていた。サボっていると思われたんじゃないかと思ってそのイメージを払拭するかのように窓を濡れ布巾の乾いた布巾で一生懸命拭き上げた。一緒に掃除していた後輩に「先輩、落ちないでくださいよー」と言われて自分が窓の縁から落っこちそうになっているのに気がついた。
窓の外側からその人の車が見えたことだけ、私ははっきりと覚えている。
これで終わりです