はてなキーワード: ギョーカイとは
なるほどね。
「ギョーカイ」を振りかざして「問題提起だ!」とかやるのってスマートじゃないと思う。
たとえば近所の博物館美術館の年間パス当然もってて、しょっちゅう一緒に行ってたりしたら
たぶん空いている時にスケッチしているのとか(権利的に問題がなければ)咎めだてされないと思う。
子供の教育に意見があるのなら、自分で参加型の美術館博物館イベントを学芸員や管理者と一緒に
企画してやればみんな拍手喝采するのに。藤森先生とかたぶんおもしろがるんじゃないか。
コミットの薄い会場に一見さんでいって「スケッチ位させろや!教育上当然だろうが!本来美術館や博物館てものはなぁ・・・」ってクレーマーでしかない。
https://anond.hatelabo.jp/20211013174856
この人とギョーカイは違うみたいだけど、自分の人生と被ることがあるので書く。
職員全員が79時間までタイムシートにつけて残りは他人のPCや紙に打ち出して手書きなどで仕事をする「ヤミ残業」という狂った文化があるのだが
弊社、十年以上前に露骨なサビ残に対して労基に駆け込む順法精神に溢れる奴がいた。それで対外的なポーズもあるんで「きちんと残業時間は記録しろサビ残はダメだ!」となったのだけど、今でも部署によっては「自己啓発のための学習」などのサビ残正当化テクニックが下っ端に強要されている。
この頃から鳴っていない社給携帯を鳴っていると誤認し(若手の間ではファントム・バイブレーションと呼んでいた)いきなりビクッとなっては胸ポケットを触り確認する仕草をオンオフ問わず繰り返すようになる。
(中略)
社員寮のお湯が出なくなった!みたいな意味のわからない理由で夜中に電話してくる上司にビビり倒しすぎ、夜も携帯が気になって眠れなくなる。
PCのメール届いたよアラートに怯えたり、社給携帯がONのままでいることで休まる暇もなくて、こうなるともう相当ヤバイ。
心療内科の予約を取るが、当たった医者から「仕事?じゃあ辞めたらいいじゃない(笑)」、「みんな辛いんだよ、眠れないなんてのは気の持ちよう」、「若いのに薬に頼ってるようじゃダメだよ、出さないよ」などのありがたい言葉を頂戴し、逆に落ち込む。
医者がそれってキツいな。自分の場合は相談した上司や先輩からまさに同じことを言われた。「みんな大変なんだから」と言われても、「俺が辛いという話をしてるんだ”みんな”という他人の話はしてない!」って思ったんだけどペーペーだから言い返せなかった。今思うのは、上司や周りからどう観られるかなんて構わずに自分の辛い状況を訴えるべきだった。
結局入社20年経ってもヒラで年功序列レールにすら乗れない惨めな思いしてるんだから、”「みんな大変なんだから」そういう問題じゃないんですよ!”と強く言うべきだった。弊社結局ゴネたもん勝ちだし。
因みに今は理不尽な濡れ衣着せられて罵詈雑言浴びせられたら同じように罵詈雑言を言い返している。それ我慢して給料増えるなら我慢するけどもうレールから外れたから給料増えないし。
自分の絶叫で起床するようになる。
これ、まさに自分も経験した。あとは寝ている間に足を攣っていて起きた後で気づいたり(ふくらはぎに激痛が残っていた)、壁を思いっきり蹴っ飛ばして痛みで目が覚めたりした。
医者に限らず、人間は簡単に人を追い込めるということを理解してほしい。でもそういうのって自分が追い詰められないと分からないし覚えられないんだよな。「みんな大変なんだから」「気のもちよう」「薬に頼るな」ってのは、人間を自殺や精神病院に追い込む定番フレーズであることを私は覚えた。周囲の皆様から学ばせてもらった。
弊社、メンタルで休んだあと復帰した場合、最低一年はその時の職場にいないといけない。パワハラ上司に追い込まれた場合は詰む。この制度考えたやつは相当能天気で楽な人生歩んでいたんだなと羨ましくなる。あまりに羨ましいんで俺と人生変わってほしい(そいつが今も生きてるのかしらないけど)。
男の強弱というのは「その場のヒエラルキー」で決まるものだから。
女の場合は残念なことにいつでもどこでもだいたい容姿が基準にされてしまうが、ある意味わかりやすい。
一方、男のヒエラルキーというのはある程度共通する基準はあっても、時期や場所によって結構バラバラだ。
あるスポーツがうまい奴も別のスポーツは全然ダメということもあるし、よく言われる芸人やホストやバンドマンなんかも、自分のテリトリーを離れれば別の場ではただの雑魚だったりする。
そして女はその場その場でヒエラルキーが高い男に群がる。
小学校では足の速い児童に、高校大学では体育会系やイケメンに、サークルでは3年の幹部に、就活となればギョーカイの偉そうなおっさんに、婚活では医者や弁護士に、そして新興宗教なら教祖のジジイに。
極端な話「非モテで軟弱なインセル気質のオタクくん」でも、例えばYoutubeみたいに特定の界隈で王様扱いされていれば、やっぱりグルーピーみたいな女がついちゃうわけだ。
男が女を主に容姿で選び容姿でランク付けしてしまうように、女もまた男のヒエラルキーに乗っかり男のヒエラルキーを食っているわけだが、残念ながら女にはその自覚がない。
「弱者って何が弱者なの?」って言ったら、そりゃその場で雑魚扱いされている奴のことで、だから周りの値付けに便乗してお前も一緒になってバカにしてるとそういうわけなんだけど、
インターネットの治安の悪い界隈では、リベラルやフェミニストを自称する皆様すら、気軽にこんなことを言ってしまう
そうすれば風俗で働く女性の苦しみがお前にも理解できるだろう、というわけだ
しかしそちらについてはここでは触れない、重要なポイントは他にある
そこの理由を、そういう人らはもちろん、下手すりゃ当事者の女性すら理解していないのだ
まず女というのは、とにかくその場でヒエラルキーの高い男に群がるという習性がある
小学校では足の速い児童に、高校大学では体育会系やイケメンに、サークルでは3年の幹部に、就活となればギョーカイの偉そうなおっさんに、婚活では医者や弁護士に、そして新興宗教なら教祖のジジイに
これらは男目線では単なる節操のない行動にしか見えないが、全て一貫した動機から生じている
「その場でヒエラルキーの高い男に群がり、そいつに取り入ることで、自分も同じヒエラルキーに上がった気分になる」というわけだ
単に箱の種類とヒエラルキーの基準が違うだけで、やっていることはみんな一緒である
まず客を選べない
そしていくら高級なそれであっても、金のやりとりをすれば、基本それで終わる
女にとっては、やること自体ではなく「ヒエラルキーの低い男とやらされること」「やったのに自分のヒエラルキーが全然上がらないこと」こそがたまらない苦痛であり、そして搾取に他ならないのだ
そりゃメンタルも病むだろう
戦国時代の小姓とかならともかく、現代社会では「自分の性を使って自分のヒエラルキーを上げる」というのが、女相手であれゲイ相手であれ、そもそも単なる夢物語でしかないからだ
どこぞのアナウンサーやなンだわの人みたいな例がないわけではないが、相当のレアケースである
だからゲイ相手に体を売ったとしても、もちろんそれにはそれなりの肉体的精神的苦痛は伴うだろうが、しかし風俗嬢の本当の苦しみとは全くかけ離れている
見下している相手とやることの悔しさ、そして本来なら当然得られてしかるべきだったヒエラルキーの喪失感
どちらも男にとってはハナから無縁であり、ゆえに想像もしづらいのである
そして当の風俗嬢自身すら、それを感覚としてはわかっていても、論理として消化できていないのかもしれない
ハフポストの記事をいくら読んだって、そんなこと理解できるわけがないのだ
ところで、これらを踏まえると、江戸時代の遊郭の「位が上がれば客を選べる」とか「身請け」とかのシステム、あれはもう悪辣なほどによくできているのではないだろうか
でも、アニメが日本の文化ですみたいな扱いを受けるようになったゼロ年代ごろから
オタク以外もアニメを消費し始めて、いわゆるオタクと一般人の感想の差みたいなのがより荒れる要因になったと思う。
それでアニメオタクは、業界人の変わりになってアニメ作品や業界人を擁護することが頻発するようになった
なんだったら先鋭化して、流行ってるからってだけでアニメ見て適当に感想を言うやつらからアニメを守れ!
みたいな鼻息の粗さを感じることも増えたよね
今回のエヴァで一番がっかりしたのがアクションが糞だってことなんだけど
同様のことは多くの人が言ってて、そういうことを言う人ってアニメオタクではなくてカジュアルなひとなんだよね
だからなのかオタクがエヴァが分かってねーとか突っかかるのよw
エヴァって俺の中ではアクションがスゲーってイメージだったし、そもそも庵野は王立宇宙軍のロケット発射とかナウシカの巨神兵のシーンとか、アニメのすごさで評価された人だったけど
結局、エヴァを消費してるっていうより、庵野秀明を消費してるっていうか、ギョーカイを消費してるよね
(ガンダム好きにも似たような傾向あるよね、富野由悠季を御大とかいってるやつら)
ギョーカイってやつが好きなやつらのたまり場になってしまったんだよエヴァは
監督の人物像とか過去のあれこれを錦の旗に掲げて一般人とやらの純粋な感想に凸って攻撃する事ってなんか意味あるんですかね
たまにオタクって、作者の政治思想と作品は別だろ!とかいうけど、すげーリンクさせて作品評価してるじゃんw
今回のエヴァは作者がどうしたこうしたって話ばっかで、庵野庵野って感じでエヴァよりも庵野の話が多い
素直にアニメで魅せてくれればいいのに、動きでしょぼいもの出されたら
そりゃ一般人は「しょぼい」って思うわなw
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1372797
「渡辺直美自体は別に気持ち悪くない」「この表現自体に全く問題はない」というのは前提として言わせてもらうと、↑みたいに絶賛してる人の態度が本当に気持ち悪い
具体的に言うと、普段広告とかいろんなものにケチつけまくりのクソフェミメンバーの皆さん、お前らツッコミどころが多すぎるわ
「自発的」だの「前向き」だの「自信があるのがいい」だの言ってるけどさ、それをその辺の、ギョーカイによくいるタイプの人が同じようにやって、なんなら「私が主体的にやってます」アピールしたところで、君らぜってー認めやしないでしょ?
自分が気持ち悪いと思ったら「上から命令されたら断れないに違いない」とか邪推してでも、どうにかそいつの自由意思ごと全否定してやろうと企んじゃうわけじゃん?
気に食わなければいくらでも妄想をたくましくするところを、たまたま自分のお気に入りだったから思考停止してるだけ
hanyan0401
渡辺直美氏が一般男性から「性的対象とみなされない」「魅力的とされない」と認識しているからこそ、「男目線」を嫌悪するような向きが絶賛し、「カッコいい女性」のアイコンとして「消費」しているんでしょうね。
でしょう? 普段のこの人の政治思想はともかく、この件に関しては一番腑に落ちるコメだわ
結局「こいつは男に消費されないだろう」、もっと言うなら「デブが持ち上げられて男さんくやしいのうくやしいのうwww」みたいなミサンドリーとミソジニーを混ぜ混ぜした差別意識があるからこそ、ああやって無責任にマンセーしちゃうわけ
だいたい「男目線の排除」ってなんなん? デブ専の男なんかいくらでもいるでしょ?
仮にこういう広告がどんどんどんどん増えて、ああいう体型が男の嗜好のある程度多数派になっちゃったら、手の平返して文句言い始めるのが君らなんだよ
いやあまさか、これをクソフェミの皆さんが宣うとは思わなかった
一円も金落としてない観光地とか、自分で買う気もないようなブツとか、客であるかどうかなんて全くお構いなくケチつけまくってきた連中がさあ
んなこと言ったらてめえが大嫌いな萌え系のあれこれだって、ターゲットのキモオタに刺さりさえすればいい、他の奴は関係ないから一切口挟むな、ってことになっちゃうじゃねえか
「広告にターゲット以外の人間がケチつけるのはやめよう」となると、例えば先日炎上した阪急のアレも「沿線以外の奴らがガタガタ言うな、なんなら乗客でもお前のことじゃないから無視だ無視!」ってことになるんだが、本当にわかってモノ言ってる?
対象が自分のお気に入りの時だけ、普段の言動と全然一貫してないこと言って持ち上げちゃうの、冗談抜きで恥ずかしいとか思わないんだろうか
いやもう毎度言ってるんだけどさ
好き嫌いだけでいろんなものを持ち上げたり炎上させたりするのは、まあ百歩譲ってそいつの自由と責任でやればいいよ
でもさ、単なる個人的な感情論をいちいちもっともらしく正当化するためだけに、その場限りのダブスタをコネコネするの、マジでやめない?
カッコ悪すぎだから
うん、だから業界はラノベをエロとみなしてないから自主規制しない。表現の自由だ。
見に行かなければ済むってきちんと区分してカーテンまで引いたところに置いてたら説得力あるね。
見えるところに置かなければ済む話。
ダブスタ乙。
法律で定められてないからですべて決まると考えてるとか、ネット議論にしか世間を見いだせない世間知らず感すげぇな笑
句読点すらまともに使えない君にそんなことを言われるとはね。笑わすな。
備忘録程度に
一般に、日本社会学において査読論文は重視されます。特に、若手にとって査読論文を出すことは研究業績を重ねる上で、非常に重要であると考えられています。
ただ、以下の三点が一般的な「アカデミア」のイメージとずれているため、わかりにくいところかなと思います。
日本社会学においては雑誌の格が明確に決まっておらず、これがIFやh-indexで論文の格がある程度自動的に決定される理系(+経済学)と違うところです。
たとえば、おそらく日本社会学で一番格が高い雑誌は日本社会学会が発行する『社会学評論』でしょうが、これに掲載が決まったからと言って、マーケットにおいてダントツに評価が高くなるということは無いですし、掲載率も25%程度とそこそこ高いです。
一方、関東社会学会が発行する『年報社会学論集』や関西社会学会が発行する『フォーラム現代社会学』なども掲載率は同程度ですし、評価もされると思われます。つまり査読論文の質がジャーナルの格によって決定される、という仕組みが弱いです。これは社会学の領域の多様性+手法の多様性+後述する国際意識の弱さに起因していると思われます。
また、『思想』『現代思想』といった一部商業雑誌や、『ソシオロジ』『ソシオロゴス』といった同人誌に近い形態を取る査読雑誌が、ある程度の評価を受けているという点も特殊かな。
依頼論文が査読論文より偉いというのはまず無いと思いますが、一方で依頼論文が評価されないということもないです。一般に依頼論文は査読論文と同程度の評価を受けているかと思われます。
エライ社会学者ほど査読論文を書きたがらない、というのは事実です。というのも、彼らは自分の考えたことを本にしてまとめてしまうからですね。
ではなぜ本にしてしまうのかというと、査読を受けたがらないというのも確かにあるのですが、概ね①社会学ギョーカイは一定程度の市場があり、エライ教授がまとめた(キャッチーor教科書になる)本は出版社としても出したがる傾向が依然としてある②査読プロセスが長い(半年-2年)ため、自分の考えをとっとと出せる本のほうが魅力的③先述した社会学の領域の多様性+手法の多様性により、査読による集合知が先駆的研究の場合働きにくい場合があるという点のほうが大きいかなと思います。
特に特殊なのは①ですね。この日本社会学の市場の大きさが与えたアカデミズムへの影響は、無視できないと思います。
日本社会学がどちらかというと内向きな傾向にあることは否定出来ないと思います。比較的国際化が進んでいるのは計量分析が盛んであり、アメリカ社会学と親和性が強い家族・人口・ネットワーク社会学の一部と、伝統的に留学風潮の強い学説史・理論でしょうか。とはいえ後者はいわゆる「国際化」とはずれてますが。いずれにせよこれら以外の領域では、英仏独語で論文を書くという行為はあまり一般的ではないです。
ではなぜ内向きなのかというと、前述したように社会学が比較的まだ「売れる」学問だから、というのが大きいように思います。つまり国内マーケットの中で、研究にせよ知名度にせよ院生にせよある程度獲得できてしまうという現状が、外に目を向けない元凶かなと。
もちろん社会学という学問が、もともと世界的な共有知を探求するというよりも、個別特殊的事例や、異なる側面からの理論体系を構築する研究を好む傾向があるということも大きいでしょう。
ただ、国際化されてないからと言って国際化が評価されていないかというとそういうことはなく、IFを持つ海外査読誌に論文が載ることは、希少故に非常に意義があるものとして認められています。
上記したように、社会学においては論文の格は雑誌によって決定されず、査読論文と依頼論文の区別は曖昧であり、内向き志向である。とすれば一体研究者評価はどのようになされているのでしょうか?
この問に答えるのは容易ではないですが、平均的な回答をしておきます。
まず重要なのはこれで、博論で単著が出せるか、出したあと評価されるかは、研究者個人の評価に決定的な影響を及ぼします。
一部大学院で未だに課程博士をなかなか出したがらないのは、これも影響しています。つまり単著で出せるような博論でないと、そもそも就職が覚束ないという考えなんですね。
査読論文の格が特に決まってないとはいえ、査読論文が重要な評価対象とみなされているということは、先述したとおりです。ですので、いきおい査読論文の数は、若手研究者の就職にあたって非常に重要です。いくら良い博論を単著で刊行できたとしても、査読論文がない研究者が就職することは(比較的)難しいでしょう。
ではどのくらい必要なのかということですが、だいたい就職までに3~4本(紀要除く)書いているのが一般的なようです。
なお、海外著名ジャーナルや『社会学評論』に載っていると、当然その分評価されますが、評価が格段に良くなるということは無いように思います。これが「格がない」という言葉の事実であります。
どういうことかというと、結局いくら査読論文が重要とはいえ、それ以外の仕事というのも社会学では評価の対象となります。つまりムラのネットワークの中で、いかに仕事(ブックチャプターや非常勤講師など)を貰えるかが、結果的に研究者評価において非常に重要なファクターとなるんですね。コネで採用されるというのはほぼなくなったと思いますが、未だに特定の大学の院生が比較的就職しやすいのは、あるネットワークに所属していると、比較的研究業績を増やしやすいということもあると思います。こうした状況の中で若手研究者は業績を稼ぐために媚びへつらい、顔を売り、己が付き合っていて気持ちがいい人間であることをアピールするために、愛想笑いを浮かべながら査読論文の抜き刷りを配り歩くのです。
とはいえ、これは一般的な「社会」でも一緒ですからなんとも言えないですね。とかくこの世は世知辛い…アカデミアがコミュ障の楽園だと思っていたら、実はベンチャー企業の営業と類似のスキルが必要であることを痛感するのは、博士課程進学後になってからなのです。
ちなみに一部の大学ではこうした制度を公的に備えているところもありますが、これは先述したネットワークが発達した大学への対抗実践として見ることもできるでしょう。
なお社会学ムラ内でのふるまいのコードは、一般的な民間企業とも、いわゆる「アカデミア」の無縫さとも異なる独自の体系があるのですが、それは省略