はてなキーワード: 判官とは
(没理由:書き終えたときには武俠小説叩きの流れが終わっていたから没にしたらしい)
ブコメやTogetterでは中国の歴史の話扱いで「だから流行るわけがない」とボロクソに叩かれていた。
たしかに今の日本で武俠小説と謳われる作品の大半は中国歴史ロマンか、そうでなければ後宮じゃない中華風ファンタジーだ。ウィキペディアにもそれっぽいことが書いてある。
でも武俠小説といえばチャイニーズトラディショナルカンフーバトルwithスーパーオーラパワー(内功を伴った武術での戦い)だろ???
じゃあ俺の好きな武俠小説の話をしよう。
武俠の何がいいって「内功」だよ。気の力。これで武芸者達は肉体の能力を飛躍的に向上させ、超人的なパワーを発揮する。
修行すればツボを突いて身体を麻痺させる「点穴」や、身体を軽くして高速移動や大ジャンプができる「軽功」が使えるようにもなる。点穴は北斗神拳の殺さない版、軽功はカンフー映画でワイヤー使って跳んでるアレね。『Thunderbolt Fantasy』のなんかキラキラした絶技も、だいたい内功によるもの。たぶん。
次に「外功」。肉体を鍛える技や武術の型、武器の使い方みたいなの全般。ご存知の少林拳も名門の技として出てくる。これに内功のブーストがかかって、繰り出される技はとんでもない威力になる。軽功と組み合わせて空中コンボもやる。
武器もいい。刀剣は言うに及ばず、敵を点穴するための「判官筆」っていうデカい金属製の筆とか出てくるし、鉄製の碁盤やソロバン、刺繍針で戦うやつらもいる。でも最強は飛刀かな。
そして武俠小説を更に魅力的にしているのが、中国語の持つ高い厨二性能。中国語はドイツ語に勝るとも劣らぬ厨二言語なんだよ。向こうは音だけど、こっちは字面がかっこいい。「降龍十八掌」「六脈神剣」とか、技が名前からして強いでしょ。二つ名にしても「追魂奪命剣」は強い。強過ぎる。
歴史は過去の時代を舞台にすれば絡んではくる。じゃあ江戸の三代将軍を知らなきゃ『甲賀忍法帖』あるいは『バジリスク』が一切楽しめないかっていうと、そうはならないだろう。知っていれば知っているなりの、知らねば知らぬなりの楽しみ方があるだけ。時代小説なんてそういうものでしょ。俺は頭韋小宝だから中国史なんて三国演義と洗衣院しか知らなかったけど楽しかったぞ。
歴史が重要って認識は、徳間書店が金庸を「中国の吉川英治」って売り出したり、田中芳樹が紹介する際に史実に絡めたがったり、作中の年代を特定したがったりしたせいもあると思う。
しかし武俠小説には「昔の中国のいつかどこか」ぐらいの曖昧な設定の作品も多い。古龍作品は時代設定が曖昧なくせに、作品同士の「あれから◯◯年後」みたいな繋がりがあるせいで、真面目に考察すると頭がガイエになるぞ。
それから義云々。それは確かに武俠にとって重要な概念ではある。
義気が重要なら武俠ではなく、日本の任侠ものでいいだろうという意見もあった。確かに講談で語られる「渡世」と武俠小説に出てくる「江湖」は、流れ者達の社会という点で似ている。俠客達の「一家」と武芸者達の「門派」は、疑似親子関係を結ぶ点で似ている。
けれど無宿人は内功ができない。だから置き換えはできない。
俺が見たいのは内家と外家の武功をもって俠を成すひとの話なんだよ。
江湖を舞台に仇を巡る殺し合いやら秘宝争奪の大冒険やらが繰り広げられ、そこにヤバい武器や武林の秘伝書がついてきて、強い漢字で厨二マインドが刺激される。これがいいんだよ!
そしてこのワクワクは武俠小説にしかないから、他のジャンルで置き換えられない!
だいたいにして、ほとんどのジャンルには他のものでは置き換えられない醍醐味があることぐらい分かるだろ!
繰り返しになるけど、今の日本で武俠小説と謳われる作品の大半は中国歴史ロマンか、後宮じゃない中華風ファンタジーだけど、俺が好きなのはもっと限定的。
日本の作品で言うと、嬉野秋彦『武侠三風剣』、虚淵玄『鬼哭街』、深見真『武林クロスロード』、藤野恵美『紫鳳伝』は俺の求める武俠小説だった。『武侠三風剣』は北宋が舞台だけど特に歴史知識が要求されることはないし、他は近未来SFと中華風ファンタジーなので、中国史は知らなくていい。でも功夫はあった。
そこを分かってくれ!
北海道江別市西野幌にある「道立増田投稿者養成センター」の歴史は古く、明治2年に開拓判官島義勇が建白した「匿名筆録掛創設ニ関スル建白」にその淵源が求められる。
その後、初代北海道庁長官岩村通俊の時代にその必要性が認められ、明治20年に「庁立増田所」が札幌の創成川沿いに設置された。
当時は札幌農学校の講師が教授役を務めた。吏務員としての素養を高めるとともに人の気をひく匿名の文章を如何に作るかについて、北海道開拓というプレッシャーの中、日々を研鑽を積んでいた。当時はインターネットは無く、増田専用の文書を回覧し、開拓使に勤める吏員が印鑑を押下することによってブックマークとしていた。有名な職員の押印はやはり注目を集めた。岩村も自らが創設した部局とあって積極的なブックマークを行ない、出身の薩摩ネタ(「何言うちょっかわかりもはん」かが決まり文句)が職員の笑いを誘った。
ブックマークを多く集めた文書は翌日以降の函館新聞(のちの函館毎日新聞)や小樽新聞に掲載された。現在と同じく、文書にはウケ狙いのもの、政治や社会に関するものがあり、それに対する道吏員のコメントは新聞読者の注目を集めた。時に道政の指針となるような匿名文章やブックマークがあり、北海道における増田は、開拓を進める上で次第に重要性を増していった。
明治44年の後の大正天皇の行幸に合わせて「庁立増田所」は発展的に解消。「庁立匿名記事錬成所」と改められ、その機能が増強された。すなわち、道庁以外の要人にも押印の権利が与えられたのである。現在の雨竜町に大農場を経営した蜂須賀茂韶(しげあき)や、清水町に広大な土地を所有した渋沢栄一ら、北海道に土地を所有したり工場を経営する政府要人のブックマークが認められるようになった。このように北海道開拓の傾向性と同じく、北海道における増田についても官の強力な資本投下により推し進められた側面が強い。
大正年間の北海道庁長官宮尾舜治もまた名物ブクマ家であった。ほとんどの記事にブックマークしたため、彼の部下が空気を読んで同じくブクマ。その結果糞増田が多くエントリされ、増田の質が多いに低下した。これは第一次大戦の好景気を経験した道民のデモクラティックな感性を大いに刺激し、増田改善運動が各地で起こった(釧路での原勝治の運動が著名)。これに対する宮尾の名言「糞増田もまた増田」は、今でも道民の記憶に遺されるものであった。
戦時中は統制政策のもと増田の文章は時の第一次東條内閣により圧力をかけられた。しかし増田家やブクマ家は当局に面従腹背、うまいことごまかした文章やブクマを行ない、ネタや時局批評を織り込んだ。こうした官製でありながら反体制的な場としても機能したことについては、言論の自由を考える上でも高い評価を得ている。
戦後の民主化により、昭和23年に「庁立匿名記事錬成所」は解体。野幌の現在地に民間資本による「北海道匿名記事養成所」が設置。講師以下執筆者、多くの職員に至るまでを公選とすることで、増田のさらなる民主化が図られた。残念ながら諸般の事情や資金面での苦慮により昭和29年に増田執筆者公選制度は頓挫。北海道は重要性を再認識し、再び道立への移管がなされた。戦後北海道では漁業や鉱業が盛んであり、そうした労働者に関する増田文が多くを占め、時代の潮流になった。時の社会党党首佐々木更三をして「北海道に労働者あり増田あり」の評言は、現在でも北海道増田左派を中心に語り草になっている。近年では現北海道長官の高橋はるみ萌えネタが多くを占め、歴史の長い北海道増田界隈にも、萌えの波が押し寄せていることは今更贅言する必要性もないだろう。また北海道十一区中川侑子代議士のスキャンダラスなネタや増田小説(えっちな)も定番になっている。「増田所」設置の明治20年から130年の歴史が経過しようとしている。北海道匿名世界をリードした増田。これからさらなる飛躍を祈ってやまない。