はてなキーワード: 敵愾心とは
https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/06/21/190301
タイトルからはわかりにくいが、本論はアニメ『さらざんまい』の感想。
"ここのところ、はてなの匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性と男性の関係についての、男性の書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。"という書き出しからゲンナリさせられるが(一生、インターネットを見るだけで終わるお前の人生)、
「主人公の少年3人がその繋がりを支えに未来に進む」という結末の解釈はごく妥当なものに思える。
本論をざっくりまとめると「男同士が女同士のように関係を築きにくく、そのため現状、男性間では人間関係が支えになりにくい。『さらざんまい』はそれを問題提起した」というものだ。
これはセジウィックの有名な「ホモフォビアを起点としたホモソーシャル」の議論を参考にしたものだろう。そのホモソーシャルの対極は、これまた有名なアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」だ。これは女同士だと友情と恋愛の境界は曖昧であり、このことを利用して男に頼らない女同士の絆、連帯を育もうというものだ。
主人公3人、一稀、燕太、悠は最終回までで簡単に言って三角関係になるのだが、最終回では悠の危機に3人の繋がりが強調されて、最終的には「友情サイコー!」という感じで3人で未来に進むことを決断するので、その読みは大きく外れてはいない。まあ要するに3カプですね、3カプ。
だが本論が合っているのはここまでだ。
なぜなら、第7話にも、第6話に大きな危機があり、それを克服したことで3人による友情を築いたような展開があるからだ。そして、それは三角関係によって崩壊してしまう…
『「男」に「男」は救えるか?』の記事はこのことを自覚的にか無自覚的にか、省いている。この記事の評者は曲学阿世の徒だ。
第7話と最終回(第11話)のあいだにどうした変化が起きたのかと言えば、主人公たち3人が自立した存在になったことだ。このことは「忘れないで。欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」という台詞で何度も作中で強調されている。
というか、作中で「つながり」という言葉は半分くらい「欲望をつなぐ」という文章で用いられているのに、『「男」に「男」は救えるか?』の記事は、やはり自覚的にか無自覚的にか、このことを省いて、「つながり」が作中で人間関係の繋がりを指しているかのように誤導している(もちろん、そういう用法で使われていることもままある。が、もっとも肝心な最終回では「欲望をつなぐ」という文章でしか用いられていない)。
この記事の評者にとって、あらゆる問題は同性間の人間関係によってしか救われてはならないらしい。だからこの評者は曲学阿世の徒だと言ったのだ。
さて、前述の「レズビアン連続体」、女同士の絆、連帯、いわゆるシスターフッドは20世紀に被抑圧者である女性たちが戦うために必要なものだった。では、仮に現在にブラザーフッドなるものが実現した場合、それはいかなるものになるのか。現状、多くの男たちがそうした関係を小馬鹿にしている。それは評者の言うとおりだ。
ただ、私はそうした評者の言う「弱者男性」たちがネット上で連帯し、女性叩きや中韓叩きに走ったときに、ブラザーフッドなるものを揚言していた女性が急に前言を翻す気がしてならないのだ。
女性叩きや中韓叩きに走るという仮定を不自然に思われるかもしれないが、もともとフェミニズム運動の公準は「私的なものは政治的なもの」であり、個人的な敵愾心を敷衍しないシスターフッド、ブラザーフッド存在しないし、仮に存在しても、意味がない。
また、評者は今、「生きづらさ」を描く作品が商業的に大きな成功を収めており、また、それはすべて女性を対象にしたものだと言う。
現在、世界的に女性の消費に占める割合は64%だ。人口の男女比が同じとして、女性の消費性向は男性より20%以上も高い。実際には男性の平均所得の方が高いから、差はより大きいものとなるだろう。そして、この差はあらゆる社会的な女性差別と相関している。
仮に「生きづらさ」を描く作品が商業的に成功して、それが女性に限定されたものなら、それは社会的な女性差別と連関したものに他ならない。
これは差別の原因だろうか、結果だろうか。
男性にもそうした「生きづらさ」があると言う評者の意見に従えば、性差別が特別に女性に「生きづらさ」をもたらしているため、結果的にそういう作品が女性を対象としてのみ存在していると言うことはできないだろう。つまるところ、そうした「生きづらさ」に過敏に反応し、感情論を振りかざし、問題の解決ではなく共感を求める姿勢こそが、現在の女性差別の一因になっているということになる。無論、これは男性にも「生きづらさ」があるにも関わらず、なぜか男性向けではそうした作品が存在しないし、女性である自分からしてみれば、そうした作品が存在すべきだ、という評者の意見に従えばの話だ。言うまでもなく、私はそのような意見に従うことはできない。
そもそも、『違国日記』が「生きづらさ」を描いたものだと言うなら、それはあまりに粗雑に過ぎ、作品を読んでいるといえるか疑問に思う。
『違国日記』は登場人物が登場人物がそれぞれ分節化されており、それは感情的な連帯とは一線を画している。
また、本作でおそらく評者が「生きづらさ」を抱えていると言いたいのは槙生だろうが、槙生は独力で生計を立てており、そのために朝に影響を与えることとなる(これが会社員、もしくは無職なら朝にとっては何の影響ももたらさない。ただ無職なら悪影響だけはもたらすかもしれないが)。そうしたエコノミーを営むことは、情緒的な「生きづらさ」とは対極のことだろう。エコノミーという語はもともと節倹、家計を指していた。無論、感情や資本主義を全否定するのはただの犬儒主義だが……それでも私は、「生きづらさ」を云々し、消費活動とSNSの利用に人生を費やしている人々には、「一生、『凪のお暇』を読んで、夜10時台のドラマを観て、SNSにお気持ちを投稿してろ」と言いたくなってしまうのだ。
一生、インターネットで男女問題を論じているだけで終わるお前の人生。
そもそも評者は幾原邦彦監督がこれまでシスターフッド的な関係を描くだけで、ブラザーフッド的な関係をとり落としてきたため、その姿勢を反省したという論を展開したいようだが……
幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』で、主人公のウテナとシスターフッド的な関係をもっているのは親友の若葉だ。若葉の劇中での扱いは……観たひとなら知ってるよね?
何にせよ、そうした感情的な連帯は、副次的な支えになりこそすれ、そのものが救済になることはない。少なくとも『さらざんまい』ではそうだ。
例えばねとらぼの社員である青柳美帆子はこんなツイートをしている。
「男性が男性の弱さに寄り添えないというのはいろいろな本で言語化されていて、「ケアの役割を女性に任せていた(なので訓練されていない)」「ホモフォビアが壁になる」「弱さの吐露=男性性の剥奪になるのでまず弱さを言えない」というのがあり、つまりその人個人というより社会が悪いのです。しかし男性が(限定された部分ではあるけど)弱さを吐露できるし、男性同士で連帯できる空間があるんですけど、それが運動部コミュニティなんですよね。「男らしさ」が担保されている空間であれば弱音を吐けるし連帯できる、けど限定的なので、まあやっぱり社会が悪い。そんな2019年のエンタメの中で登場人物全員に欠陥がありコミュニケーションがうまく成立してるとはいえないけど「漏洩」という強制的な弱音共有装置により男性たちがつながっていく作品が出てきてるのはすごいことだなと思っていて、今晩最終回の「さらざんまい」というアニメなんですけど…はい…」
「さらざんまい」という現象がそうした個人間の差異を強制的にとり去る装置であることは間違いないだろう。しかし、それはあくまでそういうメタ的なシステムであって、物語を進めるための小道具であり、劇中における日常的な物事ではない。
仮に感情的な連帯を結ぶことが救済なら、やがてそのことが自己目的化するだろう。ああ、でもいますよね。一生、人間関係だけやって終わりそうな人間。
一つには「インターネットで感情的なことを言うと気持ちいい」からだ。
このことはSNSに関する無数の社会実験が明らかにしている。代表的なものだと、フェイクニュースの方が真正なニュースより圧倒的に拡散の速度がはやいということの、幾つかの統計。
前述のセジウィックは有名な『クローゼットの認識論』で作品にセンチメンタリティの属性を付与することの危険を「解釈的暴力」と言っている。同人界隈のこじらせた腐女子みたいな言葉だが、まともな文芸批評の用語だ。
もう一つには……これがBL作品であるということ。竹村和子は『愛について』でユニセックス、セックスレスが標準となった社会では、ゲイネスが記号化して商品として流通しやすくなるということを分析している。『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者や、上述の青柳美帆子氏が「男性同士の連帯!」ということを言うときは、まるで目をキラキラさせてショーウィンドウの中のラッパを眺める少年のようだ。そこにはユニセックス、セックスレスが標準となった社会で、ゲイネスを商品として心地よく楽しみたいという欲望が潜んでいる。従順で飼いならされた消費者の姿。消費活動とSNSの利用に人生を費やす人々の姿……
『さらざんまい』は女性を顧客層として想定し、そのマーケティング戦略はまず成功したと言ってもいいだろう。そのことは喜ばしい。
しかし、まさにそのためのBL作品の外観のために、作品の解釈が「感情的で気持ちいい」ものに歪曲されて、そうした有害無益な「解釈」が、SNSで論理性を欠き「共感」だけで拡散されているとすれば、それは悲しむべきものではないかと思うのだ。理性と真実ではなく、共感と幻想のインターネット。図らずもそれは、『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者の揚言する「つながり」を体現している。
以下、こういう子は論外という例
・パパ活したり水商売に従事したりナンパされたりすることに大して抵抗がない子←この時点で日本人の10代〜20代独身女性の9割が消える
・ワンナイトラブしたり妻子持ちと不倫したりすることに大して抵抗がない子(「あたしなんて汚らわしいことしてるんだろ…お父さん、お母さんごめんなさいああああ」的な葛藤がない人)←この時点で日本人の10代〜20代独身女性の9割が消える
・愛よりも金のほうが大事で尊いと本気の本気で確信してる人←この時点で日本人の10代〜20代独身女性の9割が消える
・彼氏や旦那がいたとしても自分のことを異性として意識している男と二人きりで飲みに行く←この時点で日本人の10代〜20代独身女性の9割が消える
・旦那が病気や事故などで働けなくなったり、出世が絶望的になったりしても「私が彼を支えよう」という心境に全くならない←この時点で日本人の10代〜20代独身女性の9割が消える
・勤め先や旦那のスペックや子供でマウンティングをする性分である←この時点で日本人の10代〜20代独身女性の9割が消える
・大して好きでもないアーティストや有名人のイベントやライブなんかに参加しても周りの熱狂などの雰囲気に流されて号泣しちゃったりする←この時点で日本人の10代〜20代独身女性の9割が消える
・特定個人ではなく「世間の男性」という抽象的な存在に対してナチュラルに、心の奥で憎しみや敵愾心を抱いている←この時点で日本人の10代〜20代独身女性の9割が消える
・オタクや店員やタクシー運転手や職場にいる気弱な先輩や上司などに対する態度が鬼みたいにキツい←この時点で日本人の10代〜20代独身女性の9割が消える
これらの条件を全てクリアしてる独身女性って10代〜20代だと日本にほとんど存在しないんじゃないか?
「年収一億じゃなきゃやだ」、「IT社長じゃないとやだ」とか本気で言ってるバカ女なんか目じゃないくらい我ながら無理言ってると思う。
海賊版サイトの蔓延を受けて、ダウンロード違法化の対象拡大が検討されている。
今回検討されている対象拡大は、画像、文章も含めた全ての著作物が対象になっているため、
表現の自由を侵害する恐れが強いことから、反対の声が巻き起こっている。
朝日新聞が社説にも載せるなど、積極的に取り上げているのは、社説に
海賊版対策の名の下、憲法の人権規定や丁寧な議論を軽視する政権の体質が、サイト遮断に続いてダウンロード規制でもあらわになったといえよう。
とあるように、安倍政権批判に結び付けたいからだろうが、大きな疑問がある。
何故、ダウンロード違法化の対象拡大について、土壇場になって紛糾し、軌道修正が図られたのか?
安倍政権が海賊版サイトの接続遮断を実施したいなら、検討会で反対意見が続出しても、強引にゴリ押しするはずだ。
じゃあ、どうしてなのか?
それは、安倍政権が自ら手を汚してまで、表現規制はしたくないからだろう。
(なお、ここでいう「表現規制」とは、漫画やアニメ等に関する規制の事を指す)
児ポ法改正案の審議が行われ、民主党の枝野現立憲民主党代表や、社民党の保坂現世田谷区長が、
結局、衆議院解散により廃案になったが、それは「俺たちの麻生」神話に動揺が走った瞬間であった。
下野した当初こそ、表現規制をする動きを見せたが、政権奪還後は児ポ法改正案から、
漫画等の規制を検討する条項を削除するなど、表現規制に対して慎重な動きを見せている。
青少年健全育成基本法案も、出版を軽減税率の対象にするための有害図書指定も、握り潰されていった。
そして、ネット世論を操作するには、表現規制「しない」ことが重要なのだと気付いたのだろう。
麻生政権の児ポ法改正案審議の直後に、民主党に政権を奪われたため、
自ら手を汚して表現規制すれば「悪夢の民主党政権の再来になる」というぐらいの、過大な恐怖心を抱いているのかもしれない。
明らかに大げさに思えるが、トラウマというのは、それほど強力なものなのだ。
だからこそ、彼が現職の議員の時から、官邸は頻繁に取り込みを図ってきた。
「取り込みたい」というのは言い方を変えれば、「敵に回したくない」ということだ。
山田太郎が表現規制で成果を挙げてきたのは、そういった思惑を相互利用してきたことが背景にある。
しかし、そう言うと、安倍政権に批判的な人から、あくまでも「安倍政権は規制推進派だ!!」と言いたがる人は少なくない。
ただ、それはお前らの願望にすぎない。
それに、「安倍政権は表現規制をしたがらない」と「安倍政権は表現規制をしたがっている」は
「自ら手を汚してまで」だからな。
逆に言えば、自らの手が汚れない表現規制はやるということだ。
具体的に言えば、「忖度」させたり「左翼」にやらせたりするというわけだ。
事実、安倍政権が表現規制しないでいるおかげで、規制反対派の怒りの矛先は、
Twitterで頻繁に発言するフェミに向いてるじゃねえか!?
左派の市民団体の方が右派の団体よりも活発に行動していたことからも、そんな印象があった。
それも、自民党政権が表現規制の動きを見せることにより、それをかき消していった経緯がある。
ただし、安倍政権が表現規制の動きを見せなければ、怒りの矛先は「左翼」に向き、
ネット上で、安倍政権に対するポリティックエネミーに対する敵愾心が煽られ、
かつて自民党政権を嫌悪してきた人たちも、安倍政権支持に転向していった。
そして、そうした空気の変化による「規制推進派=サヨク」というイメージの固定化した空気に耐え切れず、
それがますます「規制推進派=サヨク」というイメージを強化していく。
いずれにせよ、ここまでは俺の推測に過ぎない。
長いこと、友人相手にするような会話をせず、物事について感じること、考えることがあっても、自分の脳内だけで言葉を組み立てて終わりとしてるせいか、文章も呼吸というか演出というか、そうした工夫が薄れてきて、生硬な文章になってしまう。
また、人生経験で染み付いた、他人に対しての薄っすらとした敵愾心が拭いきれず、つい人を遠ざけるような堅い文章になる。
もっとサービス精神なり、「人を楽しませるのが自分の楽しみ」という心持ちに近づけるべきだろうけども、
「お前らが俺に何をくれたというのか」
「なんでこの俺が、お前らに何かしてやらないといかんのだ」
ここが解消されないと、文章も柔らかくならないし、人を集める、人が集まるということにもならないんだろうね。
こういうの読んで嘘認定でシャットアウトしたり、「被害者もクズのはず。俺はそんな酷いやつに遭遇したことがない」で突き放したりするのは、もういい加減なんの意味もないし悪人を蔓延らせるだけだからやめたほうがいいと思う。
そういうふうに、ドクズだけど人間社会で全く警戒も迫害もされずに普通の大人として生きている層が少なくない数実在することを認めた上で、
実態がドクズで普通の人として扱われてる連中にありがちな特徴を明らかにしたり顕在化させたりして、防衛ノウハウを積み上げていくことをもうさすがにしたほうがいい。
公正世界仮説に逃げ込まずに。
「差別だ差別だ怒るんだろうけどそりゃ育ち疑われちゃうって…」って感じの人たちばかりだった。
今まで関わり合った片親男5人中5人全員が。
皆、目に入った通行人や電車の乗客を結構な大きな声でずーっとバカにしてキャッキャ笑い者にする習性を持ってた。
これには驚いた。
「俺は母子家庭だ」ってアピールして周りに気遣わせていい思いするテクをちゃっかり身につけてた。
あと、いかにも優しそうな奴に対して最初っから敵愾心抱いてた。「泥水すすったこともねえ奴」とか言ったりして。
無害そうな奴からフレンドリーに接してこられたら露骨に機嫌悪くして
「あの野郎、話しかけてきやがってボコボコにしてやろうかと思ったわ!!!!」
とか陰で怒りを爆発させてた。
どうも、気さくに接されるだけでプライドが傷つくみたいで。
そんで、周囲の人間は女・敵・味方の三種類にしか分けられない感覚持ってた。
往々にして皆ちょっと男特有のメンヘラ入ってて、お前そんなもん怒られて当然だろってことで説教食らったときは反省するどころか
「あの野郎許せねえわ…マジ殺してえわ」
警察沙汰になるだろってくらい実際に暴れる奴はなぜかいなかった。
これ片親育ちの「女性」だとどうなるんだろ。
どいつもこいつも似通ったようなヤバい特徴あるんだろうか。
毎回コミケの時期になるとTwitterに現れるのが徹夜組に対して異様な敵愾心を見せる人たちなんですが、わたくしあれが理解できません。
なぜかというと、徹夜組よりもサークルチケット入場組のほうが確実に早く本を買えるからです。
よって真にヘイトをぶつけられるべきはサーチケ入場組であって、徹夜組ではないと思います。
いや徹夜組が許されるわけではありませんが、ぶつけられるヘイトの量はサーチケ入場組>徹夜組であるべきです。
1. 徹夜組対策でスタッフが多大な労力を割かれてるという理論。
それはそうかも知れませんが、同時に準備会はサーチケ入場+フライング行列を認めるという対応をとることによって館内整理の手間を削減しています。
というのは、20年くらいまでは、サーチケ入場者の列形成って認められてなかったんです。スタッフは入場者が列を作らないように散らしていました。
ところがいつからか、散らすことをしなくなったばかりか、サークル入場時間と同時の列形成は事実上認められています。
列作成時にスタッフが誘導・列圧縮を行っており、そればかりかシャッターから外に出るときには「このサークル行きたい人はこっち」と分割列作成誘導までしてくれます。
これは事故防止という観点からやむを得ない処置なのかもしれませんが、これは徹夜対策に人員を割くのと同じ理論であり、事実上の黙認です。
2. サークル参加した経験があり、かつ自分たちのサークル(3人まで)の誰かをファンネルに飛ばした経験のある人に、徹夜組をディスる資格はありません。
ファンネル飛ばすのは結構ですが、だったら徹夜組にも文句言わないでください。というかなんで徹夜組をディスる必要がありますか?
あなたがたは徹夜組よりよほど勝ち組ですし、負け組のことを考える必要などないはずです。
3. 一般参加者でかつルール内で定められた時間以降に来場しているという方には、徹夜組をディスる資格があります。
ただし、徹夜組よりサーチケ組のほうがよほど甘い汁を吸っていますので、サーチケ組をディスったほうが生産的です。
以上がわたくしの見解なんですが、わたくしスタッフやったことがないんで、スタッフの方で「それはちげーよおめー」というのがあったら教えてください。
前々から成功している人や才能に溢れている人を見ると、ガスに火をつけたようにブワッと嫉妬心が燃え上がる。
嫉妬だけじゃなくて敵愾心だったり羨望だったり、とにかく悪感情であることは間違いない。
でも「この人も頑張ってるんだよな」とか「いい作品作るなぁ」とかそういう普通の感情に上書きされてすぐに鎮火する。
「何も作ろうとしない自分が悪い」「才能を持たない自分が悪い」という、まぁ当然なところに落ち着くわけだが、この感情の振れ幅に非常に精神力を持っていかれる。
大体こうなった後は絵やら小説やら何かを作ってみようと思うし、行動もする。
で結局1日も持たずに挫折する。
挫折した事にまた自己嫌悪し行き場のない破壊衝動を抱えて脳内で何かを壊す想像をして落ち着く。
翌々日くらいにはスッキリする。
こういうのって皆経験してるんだろうか。