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はてなキーワード: 推古天皇とは

2024-10-02

そうすると、広田先生がむくりと起きた。首だけ持ち上げて、三四郎を見た。 「いつ来たの」と聞いた。三四郎もっと寝ておいでなさいと勧めた。じっさい退屈ではなかったのである先生は、 「いや起きる」と言って起きた。それから例のごとく哲学の煙を吹きはじめた。煙が沈黙あいだに、棒になって出る。 「ありがとう書物を返します」 「ああ。――読んだの」 「読んだけれどもよくわからんです。第一標題わからんです」 「ハイドリオタフヒア」 「なんのことですか」 「なんのことかぼくにもわからない。とにかくギリシア語らしいね」  三四郎はあとを尋ねる勇気が抜けてしまった。先生あくびを一つした。 「ああ眠かった。いい心持ちに寝た。おもしろい夢を見てね」  先生は女の夢だと言っている。それを話すのかと思ったら、湯に行かないかと言いだした。二人は手ぬぐいをさげて出かけた。  湯から上がって、二人が板の間にすえてある器械の上に乗って、身長を測ってみた。広田先生は五尺六寸ある。三四郎は四寸五分しかない。 「まだのびるかもしれない」と広田先生三四郎に言った。 「もうだめです。三年来このとおりです」と三四郎が答えた。 「そうかな」と先生が言った。自分をよっぽど子供のように考えているのだと三四郎は思った。家へ帰った時、先生が、用がなければ話していってもかまわないと、書斎の戸をあけて、自分がさきへはいった。三四郎はとにかく、例の用事を片づける義務があるから、続いてはいった。 「佐々木は、まだ帰らないようですな」 「きょうはおそくなるとか言って断わっていた。このあいから演芸会のことでだいぶん奔走しているようだが、世話好きなんだか、駆け回ることが好きなんだか、いっこう要領を得ない男だ」 「親切なんですよ」 「目的だけは親切なところも少しあるんだが、なにしろ、頭のできがはなはだ不親切なものから、ろくなことはしでかさない。ちょっと見ると、要領を得ている。むしろ得すぎている。けれども終局へゆくと、なんのために要領を得てきたのだか、まるでめちゃくちゃになってしまう。いくら言っても直さないからほうっておく。あれは悪戯をしに世の中へ生まれて来た男だね」  三四郎はなんとか弁護の道がありそうなものだと思ったが、現に結果の悪い実例があるんだから、しようがない。話を転じた。 「あの新聞記事を御覧でしたか」 「ええ、見た」 「新聞に出るまではちっとも御存じなかったのですか」 「いいえ」 「お驚きなすったでしょう」 「驚くって――それはまったく驚かないこともない。けれども世の中の事はみんな、あんものだと思ってるから若い人ほど正直に驚きはしない」 「御迷惑でしょう」 「迷惑でないこともない。けれどもぼくくらい世の中に住み古した年配の人間なら、あの記事を見て、すぐ事実だと思い込む人ばかりもないから、やっぱり若い人ほど正直に迷惑とは感じない。与次郎社員に知った者があるからその男に頼んで真相を書いてもらうの、あの投書の出所を捜して制裁を加えるの、自分雑誌で十分反駁をいたしますのと、善後策の了見でくだらない事をいろいろ言うが、そんな手数をするならば、はじめからよけいな事を起こさないほうが、いくらいかわかりゃしない」 「まったく先生のためを思ったからです。悪気じゃないです」 「悪気でやられてたまるものか。第一ぼくのために運動をするものがさ、ぼくの意向も聞かないで、かってな方法を講じたりかってな方針を立てたひには、最初からぼくの存在を愚弄していると同じことじゃないか存在無視されているほうが、どのくらい体面を保つにつごうがいいかしれやしない」  三四郎はしかたなしに黙っていた。 「そうして、偉大なる暗闇なんて愚にもつかないものを書いて。――新聞には君が書いたとしてあるが実際は佐々木が書いたんだってね」 「そうです」 「ゆうべ佐々木自白した。君こそ迷惑だろう。あんなばかな文章佐々木よりほかに書く者はありゃしない。ぼくも読んでみた。実質もなければ、品位もない、まるで救世軍太鼓のようなものだ。読者の悪感情を引き起こすために、書いてるとしか思われやしない。徹頭徹尾故意だけで成り立っている。常識のある者が見れば、どうしてもためにするところがあって起稿したものだと判定がつく。あれじゃぼくが門下生に書かしたと言われるはずだ。あれを読んだ時には、なるほど新聞記事もっともだと思った」  広田先生はそれで話を切った。鼻から例によって煙をはく。与次郎はこの煙の出方で、先生の気分をうかがうことができると言っている。濃くまっすぐにほとばしる時は、哲学の絶好頂に達したさいで、ゆるくくずれる時は、心気平穏、ことによるとひやかされる恐れがある。煙が、鼻の下に※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊して、髭に未練があるように見える時は、瞑想に入る。もしくは詩的感興がある。もっとも恐るべきは穴の先の渦である。渦が出ると、たいへんにしかられる。与次郎の言うことだから三四郎はむろんあてにはしない。しかしこのさいだから気をつけて煙の形状をながめていた。すると与次郎の言ったような判然たる煙はちっとも出て来ない。その代り出るものは、たいていな資格をみんなそなえている。  三四郎がいつまでたっても、恐れ入ったように控えているので、先生はまた話しはじめた。 「済んだ事は、もうやめよう。佐々木も昨夜ことごとくあやまってしまたから、きょうあたりはまた晴々して例のごとく飛んで歩いているだろう。いくら陰で不心得を責めたって、当人が平気で切符なんぞ売って歩いていてはしかたがない。それよりもっとおもしろい話をしよう」 「ええ」 「ぼくがさっき昼寝をしている時、おもしろい夢を見た。それはね、ぼくが生涯にたった一ぺん会った女に、突然夢の中で再会したという小説じみたお話だが[#「お話だが」は底本では「お話だか」]、そのほうが、新聞記事より聞いていても愉快だよ」 「ええ。どんな女ですか」 「十二、三のきれいな女だ。顔に黒子がある」  三四郎は十二、三と聞いて少し失望した。 「いつごろお会いになったのですか」 「二十年ばかりまえ」  三四郎はまた驚いた。 「よくその女ということがわかりましたね」 「夢だよ。夢だからわかるさ。そうして夢だから不思議でいい。ぼくがなんでも大きな森の中を歩いている。あの色のさめた夏の洋服を着てね、あの古い帽子かぶって。――そうその時はなんでも、むずかしい事を考えていた。すべて宇宙法則は変らないが、法則支配されるすべて宇宙のものは必ず変る。するとその法則は、物のほかに存在していなくてはならない。――さめてみるとつまらないが夢の中だからまじめにそんな事を考えて森の下を通って行くと、突然その女に会った。行き会ったのではない。向こうはじっと立っていた。見ると、昔のとおりの顔をしている。昔のとおりの服装をしている。髪も昔の髪である黒子もむろんあった。つまり二十年まえ見た時と少しも変らない十二、三の女である。ぼくがその女に、あなたは少しも変らないというと、その女はぼくにたいへん年をお取りなすったという。次にぼくが、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日がいちばん好きだから、こうしていると言う。それはいつの事かと聞くと、二十年まえ、あなたにお目にかかった時だという。それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと、自分不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しいほうへほうへとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時ぼくが女に、あなたは絵だと言うと、女がぼくに、あなたは詩だと言った」 「それからどうしました」と三四郎が聞いた。 「それから君が来たのさ」と言う。 「二十年まえに会ったというのは夢じゃない、本当の事実なんですか」 「本当の事実なんだからおもしろい」 「どこでお会いになったんですか」  先生の鼻はまた煙を吹き出した。その煙をながめて、当分黙っている。やがてこう言った。 「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。いくつかな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。ぼくは高等学校の生徒であった。大臣葬式に参列するのだと言って、おおぜい鉄砲をかついで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操教師竹橋内へ引っ張って行って、道ばたへ整列さした。我々はそこへ立ったなり、大臣の柩を送ることになった。名は送るのだけれども、じつは見物したのも同然だった。その日は寒い日でね、今でも覚えている。動かずに立っていると、靴の下で足が痛む。隣の男がぼくの鼻を見ては赤い赤いと言った。やがて行列が来た。なんでも長いものだった。寒い目の前を静かな馬車や俥が何台となく通る。そのうちに今話した小さな娘がいた。今、その時の模様を思い出そうとしても、ぼうとしてとても明瞭に浮かんで来ない。ただこの女だけは覚えている。それも年をたつにしたがってだんだん薄らいで来た、今では思い出すこともめったにない。きょう夢を見るまえまでは、まるで忘れていた、けれどもその当時は頭の中へ焼きつけられたように熱い印象を持っていた。――妙なものだ」 「それからその女にはまるで会わないんですか」 「まるで会わない」 「じゃ、どこのだれだかまったくわからないんですか」 「むろんわからない」 「尋ねてみなかったですか」 「いいや」 「先生はそれで……」と言ったが急につかえた。 「それで?」 「それで結婚をなさらないんですか」  先生は笑いだした。 「それほど浪漫的な人間じゃない。ぼくは君よりもはるかに散文的にできている」 「しかし、もしその女が来たらおもらいになったでしょう」 「そうさね」と一度考えたうえで、「もらったろうね」と言った。三四郎は気の毒なような顔をしている。すると先生がまた話し出した。 「そのために独身余儀なくされたというと、ぼくがその女のために不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生まれついて、結婚のできない不具もあるし。そのほかいろいろ結婚のしにくい事情を持っている者がある」 「そんなに結婚を妨げる事情が世の中にたくさんあるでしょうか」  先生は煙の間から、じっと三四郎を見ていた。 「ハムレット結婚したくなかったんだろう。ハムレットは一人しかいないかもしれないが、あれに似た人はたくさんいる」 「たとえばどんな人です」 「たとえば」と言って、先生は黙った。煙がしきりに出る。「たとえば、ここに一人の男がいる。父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする。その母がまた病気にかかって、いよいよ息を引き取るという、まぎわに、自分が死んだら誰某の世話になれという。子供が会ったこともない、知りもしない人を指名する。理由を聞くと、母がなんとも答えない。しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。――まあ話だが、そういう母を持った子がいるとする。すると、その子結婚信仰を置かなくなるのはむろんだろう」 「そんな人はめったにないでしょう」 「めったには無いだろうが、いることはいる」 「しか先生のは、そんなのじゃないでしょう」  先生ハハハハと笑った。 「君はたしかおっかさんがいたね」 「ええ」 「おとっさんは」 「死にました」 「ぼくの母は憲法発布の翌年に死んだ」

https://anond.hatelabo.jp/20241002005940

一二

 演芸会は比較寒い時に開かれた。年はようやく押し詰まってくる。人は二十日足らずの目のさきに春を控えた。市に生きるものは、忙しからんとしている。越年の計は貧者の頭に落ちた。演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかなるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎えた。

 それが、いくらでもいる。たいていは若い男女である。一日目に与次郎が、三四郎に向かって大成功と叫んだ。三四郎は二日目の切符を持っていた。与次郎広田先生を誘って行けと言う。切符が違うだろうと聞けば、むろん違うと言う。しかし一人でほうっておくと、けっして行く気づかいがないから、君が寄って引っ張り出すのだと理由説明して聞かせた。三四郎承知した。

 夕刻に行ってみると、先生は明るいランプの下に大きな本を広げていた。

「おいでになりませんか」と聞くと、先生は少し笑いながら、無言のまま首を横に振った。子供のような所作をする。しか三四郎には、それが学者らしく思われた。口をきかないところがゆかしく思われたのだろう。三四郎は中腰になって、ぼんやりしていた。先生は断わったのが気の毒になった。

「君行くなら、いっしょに出よう。ぼくも散歩ながら、そこまで行くから

 先生は黒い回套を着て出た。懐手らしいがわからない。空が低くたれている。星の見えない寒さである

「雨になるかもしれない」

「降ると困るでしょう」

「出入りにね。日本芝居小屋は下足があるから、天気のいい時ですらたいへんな不便だ。それで小屋の中は、空気が通わなくって、煙草が煙って、頭痛がして、――よく、みんな、あれで我慢ができるものだ」

「ですけれども、まさか戸外でやるわけにもいかいからでしょう」

「お神楽はいつでも外でやっている。寒い時でも外でやる」

 三四郎は、こりゃ議論にならないと思って、答を見合わせてしまった。

「ぼくは戸外がいい。暑くも寒くもない、きれいな空の下で、美しい空気を呼吸して、美しい芝居が見たい。透明な空気のような、純粋簡単な芝居ができそうなものだ」

先生の御覧になった夢でも、芝居にしたらそんなものができるでしょう」

「君ギリシアの芝居を知っているか

「よく知りません。たしか戸外でやったんですね」

「戸外。まっ昼間。さぞいい心持ちだったろうと思う。席は天然の石だ。堂々としている。与次郎のようなものは、そういう所へ連れて行って、少し見せてやるといい」

 また与次郎悪口が出た。その与次郎は今ごろ窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走しか斡旋して大得意なのだからおもしろい。もし先生を連れて行かなかろうものなら、先生はたして来ない。たまにはこういう所へ来て見るのが、先生のためにはどのくらいいいかからないのだのに、いくらぼくが言っても聞かない。困ったものだなあ。と嘆息するにきまっているからなおおもしろい。

 先生それからギリシア劇場構造を詳しく話してくれた。三四郎はこの時先生から、Theatron, Orch※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)stra, Sk※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)n※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字), Prosk※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)nion などという字の講釈を聞いた。なんとかいドイツ人の説によるとアテン劇場は一万七千人をいれる席があったということも聞いた。それは小さいほうであるもっとも大きいのは、五万人をいれたということも聞いた。入場券は象牙と鉛と二通りあって、いずれも賞牌みたような恰好で、表に模様が打ち出してあったり、彫刻が施してあるということも聞いた。先生はその入場券の価まで知っていた。一日だけの小芝居は十二銭で、三日続きの大芝居は三十五銭だと言った。三四郎がへえ、へえと感心しているうちに、演芸会場の前へ出た。

 さかんに電燈がついている。入場者は続々寄って来る。与次郎の言ったよりも以上の景気である

「どうです、せっかくだからはいりになりませんか」

「いやはいらない」

 先生はまた暗い方へ向いて行った。

 三四郎は、しばらく先生の後影を見送っていたが、あとから、車で乗りつける人が、下足札を受け取る手間も惜しそうに、急いではいって行くのを見て、自分も足早に入場した。前へ押されたと同じことである

 入口に四、五人用のない人が立っている。そのうちの袴を着けた男が入場券を受け取った。その男の肩の上から場内をのぞいて見ると、中は急に広くなっている。かつはなはだ明るい。三四郎は眉に手を加えないばかりにして、導かれた席に着いた。狭い所に割り込みながら、四方を見回すと、人間の持って来た色で目がちらちらする自分の目を動かすからばかりではない。無数の人間に付着した色が、広い空間で、たえずめいめいに、かつかってに、動くからである

 舞台ではもう始まっている。出てくる人物が、みんな冠をかむって、沓をはいていた。そこへ長い輿をかついで来た。それを舞台のまん中でとめた者がある。輿をおろすと、中からまた一人あらわれた。その男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬り合いを始めた。――三四郎にはなんのことかまるでわからない。もっと与次郎から梗概を聞いたことはある。けれどもいいかげんに聞いていた。見ればわかるだろうと考えて、うんなるほどと言っていた。ところが見れば毫もその意を得ない。三四郎記憶にはただ入鹿の大臣という名前が残っている。三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。それはとうてい見込みがつかない。そこで舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた。実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。推古天皇の時のようでもある。欽明天皇の御代でもさしつかえない気がする。応神天皇聖武天皇ではけっしてないと思う。三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、唐めいた装束や背景をながめていた。しかし筋はちっともわからなかった。そのうち幕になった。

 幕になる少しまえに、隣の男が、そのまた隣の男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子差向かい談話のようだ。まるで訓練がないと非難していた。そっち隣の男は登場人物の腰が据わらない。ことごとくひょろひょろしていると訴えていた。二人は登場人物本名をみんな暗んじている。三四郎は耳を傾けて二人の談話を聞いていた。二人ともりっぱな服装をしている。おおかた有名な人だろうと思った。けれどもも与次郎にこの談話を聞かせたらさだめし反対するだろうと思った。その時うしろの方でうまいうまいなかなかうまいと大きな声を出した者がある。隣の男は二人ともうしろを振り返った。それぎり話をやめてしまった。そこで幕がおりた。

 あすこ、ここに席を立つ者がある。花道から出口へかけて、人の影がすこぶる忙しい。三四郎は中腰になって、四方をぐるりと見回した。来ているはずの人はどこにも見えない。本当をいうと演芸中にもできるだけは気をつけていた。それで知れないから、幕になったらばと内々心あてにしていたのである三四郎は少し失望した。やむをえず目を正面に帰した。

 隣の連中はよほど世間が広い男たちとみえて、左右を顧みて、あすこにはだれがいる。ここにはだれがいるとしきりに知名の人の名を口にする。なかには離れながら、互いに挨拶をしたのも、一、二人ある。三四郎はおかげでこれら知名な人の細君を少し覚えた。そのなかには新婚したばかりの者もあった。これは隣の一人にも珍しかったとみえて、その男はわざわざ眼鏡をふき直して、なるほどなるほどと言って見ていた。

 すると、幕のおりた舞台の前を、向こうの端からこっちへ向けて、小走りに与次郎がかけて来た。三分の二ほどの所で留まった。少し及び腰になって、土間の中をのぞき込みながら、何か話している。三四郎はそれを見当にねらいをつけた。――舞台の端に立った与次郎から一直線に、二、三間隔てて美禰子の横顔が見えた。

 そのそばにいる男は背中三四郎に向けている。三四郎は心のうちに、この男が何かの拍子に、どうかしてこっちを向いてくれればいいと念じていた。うまいあいその男は立った。すわりくたびれたとみえて、枡の仕切りに腰をかけて、場内を見回しはじめた。その時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな目を認めることができた。野々宮さんが立つとともに、美禰子のうしろにいたよし子の姿も見えた。三四郎はこの三人のほかに、まだ連がいるかいないかを確かめようとした。けれども遠くから見ると、ただ人がぎっしり詰まっているだけで、連といえば土間全体が連とみえるまでだからしかたがない。美禰子と与次郎あいだには、時々談話が交換されつつあるらしい。野々宮さんもおりおり口を出すと思われる。

 すると突然原口さんが幕の間から出て来た。与次郎と並んでしきりに土間の中をのぞきこむ。口はむろん動かしているのだろう。野々宮さんは合い図のような首を縦に振った。その時原口さんはうしろから、平手で、与次郎背中をたたいた。与次郎くるりと引っ繰り返って、幕の裾をもぐってどこかへ消えうせた。原口さんは、舞台を降りて、人と人との間を伝わって、野々宮さんのそばまで来た。野々宮さんは、腰を立てて原口さんを通した。原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ。美禰子とよし子のいるあたりで見えなくなった。

 この連中の一挙一動演芸以上の興味をもって注意していた三四郎は、この時急に原口流の所作がうらやましくなった。ああいう便利な方法で人のそばへ寄ることができようとは毫も思いつかなかった。自分ひとつまねてみようかしらと思った。しかしまねるという自覚が、すでに実行の勇気をくじいたうえに、もうはいる席は、いくら詰めても、むずかしかろうという遠慮が手伝って、三四郎の尻は依然として、もとの席を去りえなかった。

 そのうち幕があいて、ハムレットが始まった。三四郎広田先生のうちで西洋のなんとかいう名優のふんしたハムレット写真を見たことがある。今三四郎の目の前にあらわれたハムレットは、これとほぼ同様の服装をしている。服装ばかりではない。顔まで似ている。両方とも八の字を寄せている。

 このハムレット動作がまったく軽快で、心持ちがいい。舞台の上を大いに動いて、また大いに動かせる。能掛りの入鹿とはたいへん趣を異にしている。ことに、ある時、ある場合に、舞台のまん中に立って、手を広げてみたり、空をにらんでみたりするときは、観客の眼中にほかのものはいっさい入り込む余地のないくらい強烈な刺激を与える。

 その代り台詞日本である西洋語を日本語に訳した日本である。口調には抑揚がある。節奏もある。あるところは能弁すぎると思われるくらい流暢に出る。文章もりっぱである。それでいて、気が乗らない。三四郎ハムレットがもう少し日本人じみたことを言ってくれればいいと思った。おっかさん、それじゃおとっさんにすまないじゃありませんかと言いそうなところで、急にアポロなどを引合いに出して、のん気にやってしまう。それでいて顔つきは親子とも泣きだしそうであるしか三四郎はこの矛盾をただ朧気に感じたのみである。けっしてつまらないと思いきるほどの勇気は出なかった。

 したがって、ハムレットに飽きた時は、美禰子の方を見ていた。美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレットを見ていた。

 ハムレットオフェリヤに向かって、尼寺へ行け尼寺へ行けと言うところへきた時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。広田先生は言った。――ハムレットのようなもの結婚ができるか。――なるほど本で読むとそうらしい。けれども、芝居では結婚してもよさそうである。よく思案してみると、尼寺へ行けとの言い方が悪いのだろう。その証拠には尼寺へ行けと言われたオフェリヤがちっとも気の毒にならない。

 幕がまたおりた。美禰子とよし子が席を立った。三四郎もつづいて立った。廊下まで来てみると、二人は廊下の中ほどで、男と話をしている。男は廊下からはいりのできる左側の席の戸口に半分からだを出した。男の横顔を見た時、三四郎はあとへ引き返した。席へ返らずに下足を取って表へ出た。

 本来は暗い夜である人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちているように思う。風が枝を鳴らす。三四郎は急いで下宿に帰った。

 夜半から降りだした。三四郎は床の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けという一句を柱にして、その周囲にぐるぐる※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊した。広田先生も起きているかもしれない。先生はどんな柱を抱いているだろう。与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋まっているに違いない。……

 あくる日は少し熱がする。頭が重いから寝ていた。昼飯は床の上に起き直って食った。また一寝入りすると今度は汗が出た。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎はいって来た。ゆうべも見えず、けさも講義に出ないようだからどうしたかと思って尋ねたと言う。三四郎は礼を述べた。

「なに、ゆうべは行ったんだ。行ったんだ。君が舞台の上に出てきて、美禰子さんと、遠くで話をしていたのも、ちゃんと知っている」

 三四郎は少し酔ったような心持ちである。口をききだすと、つるつると出る。与次郎は手を出して、三四郎の額をおさえた。

「だいぶ熱がある。薬を飲まなくっちゃいけない。風邪を引いたんだ」

演芸場があまり暑すぎて、明るすぎて、そうして外へ出ると、急に寒すぎて、暗すぎるからだ。あれはよくない」

「いけないたって、しかたがないじゃないか

しかたがないったって、いけない」

 三四郎言葉だんだん短くなる、与次郎がいいかげんにあしらっているうちに、すうすう寝てしまった。一時間ほどしてまた目をあけた。与次郎を見て、

「君、そこにいるのか」と言う。今度は平生の三四郎のようである。気分はどうかと聞くと、頭が重いと答えただけである

風邪だろう」

風邪だろう」

 両方で同じ事を言った。しばらくしてから三四郎与次郎に聞いた。

「君、このあいだ美禰子さんの事を知ってるかとぼくに尋ねたね」

「美禰子さんの事を? どこで?」

学校で」

学校で? いつ」

 与次郎はまだ思い出せない様子である三四郎はやむをえずその前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、

「なるほどそんな事があったかもしれない」と言っている。三四郎はずいぶん無責任だと思った。与次郎も少し気の毒になって、考え出そうとした。やがてこう言った。

「じゃ、なんじゃないか。美禰子さんが嫁に行くという話じゃないか

「きまったのか」

「きまったように聞いたが、よくわからない」

「野々宮さんの所か」

「いや、野々宮さんじゃない」

「じゃ……」と言いかけてやめた。

「君、知ってるのか」

「知らない」と言い切った。すると与次郎が少し前へ乗り出してきた。

「どうもよくわからない。不思議な事があるんだが。もう少したたないと、どうなるんだか見当がつかない」

2024-05-10

天皇ってジェンダーバランス悪すぎない?

男ばっかりじゃん!

推古天皇とか持統天皇とかしかいない

数すぎるんだよ

しかも!

明治からは男しかダメってなった!

あきらかに時代錯誤!!

どう考えても女性天皇がいるでしょ?

ジェンダーバランス的に!!!

フェミニストの人たちは天皇のことどう思ってるの?

女性天皇しろって言うべきでは?

日本の象徴が男しかなれないって、こんなの絶対おかしいよ〜〜!!!

2024-01-10

anond:20240110231531

今となっては聖徳太子冗談みたいだよな。聖徳太子て。じゃあ神武天皇とかでもいいじゃんて話だ。ほんで、5千円札推古天皇でもokだな

ただ「一万円」を「ユキチ」と言い習わしてきてるから、もう「万券は諭吉で固定」でいいじゃんと思う

2023-02-02

同性婚」を認めるべきであり、「親子婚」「きょうだい婚」「児童婚」を認めるべきでない理由は、議員ブログを読めば理解できる

以下のブログで、同性婚反対派でも納得できるように説明されている。

井戸まさえ日誌

同性婚を認めたら、次は親子婚 きょうだい容認だ!・・という方に対する答え

http://idomasae.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-db93.html

②さて、次に「婚姻」についてお答えします。

同性婚を認めれば親子婚をはじめ兄妹(姉弟)婚、引いてはロリコン幼児との婚姻容認していく方針ですか?」というご質問です。

現在日本においては、児童福祉法第34条ならびに各自治体の淫行条例により、既婚者を除く18歳未満の青少年との性交渉は「淫行」に当たる場合があり、処罰対象となることは当然ながらご存知だと思います

なので、そうしたものと同姓婚と同等に議論すること自体不適切不見識、また偏見に満ちたものと私は捉えています

親子婚、きょうだい婚についても、現在政策課題にのぼっていないことを持ち出し「同性婚を認めたら次はこれ」とすることに違和感があります

問題すり替えとも取れます

まず「児童婚」が論外である理由は、ここで説明された通り。

児童対象にした性愛現行法で認められておらず、異常なものとして処罰対象となる。

そのような、日本国の法律も認めていない明らかに異常なものと同姓婚を同等に議論すること自体不適切である

ただ、そう言ってもご納得はいただけないでしょうから

以下に私の見解記載します。

③「親子婚」「きょうだい婚」については、現在ではそうした婚姻制度採用する国は少ないものの、過去においては行なわれていた地域や、現在、少ないながらもいくつかの国ではこうした婚姻制度について立法を求める動きがあることも承知しています

日本においても、歴史をたどれば

敏達天皇推古天皇(異母妹婚)、聖徳太子の父母である用明天皇穴穂部間人皇女(異母妹婚)、また、天武天皇は兄である天智天皇の中娘を4人を妻としており(叔父姪婚)そのうちのひとりは持統天皇である等は周知の通りです。

このように時代地域によって婚姻制度のみならず制度や法は変化するものなのです。

承知のように、国民主権日本では、全ての法律国民選挙で選んだ国会議員により改正、創成、廃止することができます

現行の民法では「婚姻障害」として婚姻できない事由を定めています

① 婚姻適齢(731条)② 重婚禁止(732条)③ 再婚禁止期間(733条)④ 近親婚の禁止(734条~736条)⑤ 未成年者の婚姻についての父母の同意(737条)

です。

もし親子婚やきょうだい婚や社会必要という場合は、この「婚姻障害」の規定が定められた民法改正する必要があります

ここに書かれている通り、「親子婚」「きょうだい婚」も日本現行法では「婚姻障害」の規定があり、明確に排除されている。

それを望む国民国民議論を起こし、この政策を実現しようという議員立法府に送るもしくは議員陳情請願をし、その議論を堂々と国会でやればよいと思います

必要と思う人々は反対し、その意を組む国会議員政党投票する。いたってシンプルな話です。

どうしても「きょうだい婚」「親子婚」の合法化を諦めきれない国民議員を動かして堂々と国会でやればよい。

結局のところ、「きょうだい婚」「親子婚」を不必要と思う人々が反対派の国会議員政党投票し、それらが選挙で勝てばシンプルに「きょうだい婚」「親子婚」は否定されるだろう。

個人に対して「親子婚」や「きょうだい婚」についての婚姻障害規定改正すべきかと問われれば、それは「否」です。

今の日本で現行制度を変える必要性を認識するには至らないというのが理由です。

一方で同性婚は法的に認めるべきだと思っています

とどのつまり、このように「親子婚」「きょうだい婚」は現行法を変える必要性がないという、明らかな理由存在する。

一方で「同性婚」は現行法を変える必要性が存在する。

以上を踏まえると、「親子婚」「きょうだい婚」「児童婚」は現行法が明確に処罰対象としている、あるいは現行法を変える必要性がないのであるが、対する「同性婚」は現行法を変える必要性がある。

この理由をもって、同性婚のみを認めるべきであるということが反対派にも納得された。

多数婚については記載がないが、現行法では重婚排除しているため、やはりこれも認める必要性はないものと考えられる。

2021-07-10

日本歴代天皇 1~50代

1.神武天皇

 奈良一帯を征服して大和建国

2.綏靖天皇

 欠史八代の一人目。兄タギシミミを殺して即位

3.安寧天皇

4.懿徳天皇

5.孝昭天皇

6.孝安天皇

7.孝元天皇

8.孝元天皇

9.開化天皇

10.崇神天皇

 実在する可能性のある初めての天皇大物主神祭り、疫病を治めた。武埴安彦の乱を鎮圧し、各地に四道将軍派遣。戸口を調査課役を課した。

11.垂仁天皇

 愛妻が兄狭穂彦王の乱に連座し焼死する憂き目に遭った。伊勢神宮を建立した。彼の代に相撲埴輪誕生したとされる。

12.景行天皇

 息子の日本武尊熊襲蝦夷を平定させた。

13.成務天皇

 国郡県邑を定めた。

14.仲哀天皇

 熊襲より先に新羅を討つべしと言う神託無視したため、病没した

15.応神天皇  

 神功皇后三韓征伐中に誕生。彼の治世に大和政権は国力を伸ばし、倭の五王讃と同一視される。八幡神として祭られる。

16.仁徳天皇

 民の貧しさを嘆き3年間一切の税を廃した。好色であったため木崎嫉妬に悩まされた。倭の五王讃と同一視される。

17.履中天皇

 帝位を狙う住吉皇子暗殺されかけるも、端歯別王(後の反正天皇)にこれを殺させ即位国内情勢調査のため国史を設置した。倭の五王讃と同一視される。

18.反正天皇

 身長3mで綺麗な歯並びの美男子であったとされる。倭の五王珍と同一視される。

19.允恭天皇

 刑部を定め、死傷の混乱を避けるため盟神探湯を行った。倭の五王斉と同一視される。

20.安康天皇 

 允恭天皇皇子暗殺して即位大草香王を殺して妻を娶るが、その息子の眉輪王に殺された。倭の五王興と同一視される。

21.雄略天皇

 眉輪王と履中天皇の子を殺して即位渡来人を重用して王権を強化した。倭の五王武と同一視される。

22.清寧天皇 

 生まれつき白髪で妻子はなかった。

23.顕宗天皇

 履中天皇の孫。父を雄略天皇に殺されたため、播磨に逃れたが、清寧天皇に迎えられ即位した。

24.仁賢天皇

 履中天皇の孫。弟顕宗天皇に位を譲りその死後即位した。

25.武烈天皇

 妊婦の腹を裂く、人を木に登らせて殺す等の暴君であったとされる。

26.継体天皇(507~531

 慈悲深い君主であったが、朝鮮での日本勢力が弱体化し、磐井の乱が起るなどその治世は乱れた。

27.安閑天皇(531~535)

 即位わずか4年で崩御。その治世に犬養部が設立された。

28.宣化天皇(535~539)

 任那支援のため狭手彦を派遣した。

29.欽明天皇(539~571)

 在位中に百済から仏教が伝来し、任那が滅んだ

30.敏達天皇(572~585)

 任那復興を目指して新羅交渉国内では物部氏と組んで排仏運動を進めた。

31.用明天皇(585~587)

 初めて仏教を受け入れた天皇。その治世は物部氏蘇我氏対立が激しく、天皇崩御直後に物部氏が滅んだ。

32.崇峻天皇(587~592)

 蘇我馬子と組んで即位したが、後に対立暗殺された。

33.推古天皇(592~628) 

 日本初の女帝。甥の聖徳太子摂政に任命した。

34.舒明天皇(629~641)

 初の遣唐使派遣百済宮を建立した。

35.皇極天皇(642~645)

 女帝。在位中に乙巳の変が起きる。弟の孝德天皇日本初の譲位を行った。

36.孝德天皇(645~654)

 甥の中大兄皇子皇子として大化の改新を進めた。

37.斉明天皇(655~661)

 皇極天皇重祚阿倍比羅夫蝦夷を討たせた。百済救済のため軍を派遣し、自ら九州に赴き現地で死去した。

38.天智天皇(668~671)

 日本初の全国的戸籍庚午年籍を制定。近江令を発令した。

39.弘文天皇(671~672)

 天智天皇皇子壬申の乱に破れ自殺した。

40.天武天皇(673~686)

 甥の弘文天皇を倒して即位八色の姓を創始、律令の制定、国史編纂など律令国家の確立に尽力した。

41.持統天皇(690~697)

 女帝天武天皇の妃。夫の制作を引き継ぎ、飛鳥洗御原令を制定し、藤原京を造営した。

42.文武天皇(697~707)

 大宝律令を制定した。

43.元明天皇(707~715)

 女帝平城京遷都し、風土記古事記編纂、和同開珎を鋳造した。

44.元正天皇(715~724

 女帝三世一身の法を制定。その治世に日本書紀が完成した。

45.聖武天皇(724~749)

 奈良の大仏を建立。その治世に天平文化が栄えた。

46.孝謙天皇(749~758)

 女帝。その治世に奈良の大仏が完成し、鑑真来日した。藤原仲麻呂を重用したため、橘奈良麻呂の変が起きた。

47.淳仁天皇(758~764)

 孝謙上皇道鏡を寵愛すると、藤原仲麻呂と結託して乱を起こすが敗れ淡路島に流された。

48.称徳天皇(764~770)

 孝謙天皇重祚。在位中は道鏡の専横が激しく、宇佐八幡神託事件が起きた。

49.光仁天皇(770~781)

 道鏡追放し、和気清麻呂召還するなど綱紀粛正に努めた。

50.桓武天皇(781~806)

 平安京遷都空海最澄を登用した。勘解由使の設置、兵役廃止など農民負担軽減に努めたが、蝦夷討伐には財力を惜しまなかった。

 

2020-08-25

女系天皇が許されない理由、すっごい雑に書く、そして別にいいじゃんという話をしたい

歴史推古天皇を始め女性天皇はいた。なんで今さら愛子ちゃん天皇にしてはいけないのかという話は「女性天皇」のはなしであり、「女系天皇」の話ではない。

タイトルだけだと私は女系天皇なんてとんでもないということをいいたさそうかもしれないが、最初に行くと「女系でも良いんじゃないの?」という立場である。以下に理由を書いてみよう。

まず、男系女系の違いだが、ある人の父親だけを先祖に向かってたどっていくとその初代に行き着くかどうかである。要はお父さんだけ追いかけていたら神武天皇にたどり着いた場合、その天皇陛下は「男系」となる。

例えば、佐藤くんがいたとする。彼のお父さんがずっと佐藤さんだったらこ佐藤くんは男系佐藤くん、一方で途中でお父さんが田中さんで、お母さんが佐藤さん、だとすると、この佐藤くんは女系佐藤くん、男系田中くんだ。その後数代進んだらたまたままた佐藤くんになったとか考えてくれ。

一方で、初代にたどり着くために母親をたどる必要があったらそれは女系だ。

と言うくらい簡単な話なのだ。で、それの何が問題かということだ。

まず、他の家系男性女性天皇結婚した場合、その家系が乗っ取られるのでは、という話だが、多分明治時代くらいまではあったのかもね。知らんけど。天皇家くらいの重大な家系にもなれば、そうそう乗っ取られては困るわけだ。

例えば何だが、一人だけ娘さんがいる、その娘さんが別の家系男性結婚する、すると娘さんの持っていた家に関するものが全部奪われてしまった、もうちょっと言うと娘さんのご両親がどこかに追放されてしまった、ということが起こるかという話だ。

実際に藤原家が栄華を極めた頃は乗っ取られかけたんじゃないかとも思うんだよね。

そもそも家系を乗っ取る、ということ自体今の人にはピンとこないんじゃないか

ただ、ピンとこないからと言ってやっていいとはならない。よくわかんないからやって後はどうにかなるんじゃない?とかは無責任だ。

なので、例えば何だが、女性天皇結婚する男性所属する戸籍離脱して皇籍に入らねばならない位決めても良いんじゃないかな。

次に、皇室典範があるから無理?アホいえ、明治時代近代国家になるために天皇のあり方を改めてもんだ文書だろ?何でそれが令和になったら許されなくなるんだ?

Y遺伝子が云々言う人らはまぁもうどうでも良いよ。わけわからん。結果ありきで無理やり科学的な理屈を編み出しただけにしか見えない。

神道教義に反するかと言うと、そもそも神道教義ってあるの?無いだろ?むしろ妙に宗教じみさせた明治時代神道改革のほうがよっぽど神道違反している。

要は中世政治的環境においては男系を守ることこそが重要だった、と言うだけの話でしか無いんだよ。そうしないと自分たち不条理追放されかねない。子どもたちが暗殺、謀略、戦争にまみれようがとにかく男系大事という割りとしょうもないものしか見えない。

そもそも天皇という存在が一体なんなのかというところに立ち返るならば、それが男性だろうと女性だろうと構わないし、男系だろうと女系だろうと構わないはずだ。明治時代呪いから一旦脱却してもっと冷静に見ようぜ。

当然、誰でも良いわけじゃない。当然国の神話体系のトップになるんだから、そのへんの人でいい訳がない。そこはわきまえてるよ。

2019-06-12

日本って卑弥呼の国だろ?

いつから男だけが天皇みたいな考えがしゃしゃり出てきたんだ?おぉん!?

俺は女帝好きだぜ!東アジア最初女帝だった推古天皇いたことを何で誇らないんだ?おぉん?

どう考えてもセーブ・ザ・クイーンとか萌えるだろwww

女王陛下のために命を捧げたいwww

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

2016-08-25

いいじゃん女性天皇推古天皇っぽい顔してるし!天皇家の血って強いなー

と思ったけど

久しぶりに見たらかーちゃんにも似てるな

やっぱ親子なんだな

2014-05-19

http://anond.hatelabo.jp/20140519120113

五重塔を建てたのは聖徳太子じゃなくて大工

聖徳太子名前の通り王子

スティーブ・ジョブスiPhoneを作ったというのは

五重塔を建てたのは聖徳太子ではなく、時の天皇推古天皇?)というようなものでは?

当然だが、ジョナサン・アイブ の下にも沢山の大工はい

2013-11-27

拝啓 小野妹子

拝啓

小野妹子

わたしはあなた尊敬しています

あなたは今まで公式には誰も行ったことのない随に行き、推古天皇様の外交文章を煬帝陛下に献上なさったんですから

七条憲法聖徳太子様がお作りになったそうです。みなさん、おすごい方です。

わたしも見習わなければいけないことがたくさんあります

みなさんのいっそうのご躍進を期待してやみません。

敬具

2013-09-16

男尊女卑社会になった理由は宗教観だけではないと思う

女性の方が男性よりも賢明で利口だからだと思う。

これは歴史を見ても明らかで邪馬台国でも飛鳥時代推古天皇治世下でも分かる事だけど、

この前後に立った男の大王では争いが絶えなかった。

これを仲裁したのが女の大王だった。

実際、彼女らが統治した社会では、様々な良い法律施行されていった事からも明らかだ。

こうした賢い女性が上に立つのを良しとしないミソジニー仏教伝来と共に男尊女卑社会を明らかにしたのだと思われる。

そこには女性への劣等感嫉妬の念が垣間見られ、その後戦争状態が延々続く事になった。

今、日本戦争しないのは女性社会進出が許され顕著に増加したためだ。

男尊女卑社会が如何に愚かな事かは、未だ差別社会の続く韓国中東イスラム圏を見れば大いに同意して頂けるものと信じている。

2013-04-22

おっぱいとは

おっぱいとは推古天皇なり。

わたくし、先日おっぱいを揉みました。

しかも、ただのおっぱいではないのです。ンコココ。

文字通り「ただ」のおっぱいじゃなかった。

1h6500円のおっぱいパブ

ちくびちくちく。

わたくしこれだけでいってしまいました。

人間からないものです。弄らなくてもいくときはいってしまうんですね。

この年になって新境地を開拓できた所存です。

相手さんの弄ってるだけでいってしまいましたか

相手さんもびっくりでした。

そりゃそうですよね。いったわたくしもびっくりなんですから

みなさまもこのような体験いっぱいしてらっしゃるのですよね。

もっと若いうちにおっぱいパブに参戦するべきでした。

2009-11-24

http://anond.hatelabo.jp/20091124204221

ぱっと思いつくのだと、聖徳太子の時の天皇とか?

推古天皇だっけ? あと持統天皇とかは違う?

もちろん摂政がいて女性天皇本人が統治したわけじゃないだろうけど。

政治家先生はとりあえず女議員持ちあげるために言っただけで意味はないでしょ。

そんな皆が知らない深い知識ってレベルの話じゃないしね。

2007-05-11

http://anond.hatelabo.jp/20070511002030

隋に手紙送ったのは蘇我馬子かもよ。

そのときの中国史料では日本は男の天皇だったみたいに書いてあるのに日本書紀では女性推古天皇だったりするわけで、この辺りの時代の日本史は怪しい。

 
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