はてなキーワード: ディベートとは
周りを見渡すと、動いている学生は少なかった。
これなら学歴はなくとも、いけるかもしれない。
そう思った。
今思えば「甘すぎる」と、自分自身をぶん殴りたいが、たとえ殴れたとしてもそう思ったという事実は残る。意味がない。
5月に入ると外資コンサル志望が動き出す。外資コンサル志望は強かった。頭の回転は速い上に、議論も上手い。
自信も、選考も瞬く間に追い抜かれる。
ベンチャー志望も優秀だった。起業やら長期インターンやら、行動力がすごい。
自分を振り返ってみるとディベート経験、バックパッカー。ありきたりだ。
自分の目指す頂上が雲に隠れてわからなくなった。自分がどこにいるのかさえも。
自分とは何か。
いわゆる自己分析だ。
これを知りたくて、今月は色んな人に会った。
小さい頃から、初めての人と会うのが苦手だった。この人にどう思われてしまうんだろうって。
でも、頑張った。いろんな社会人の方にお会いした。
優しかった。
こんな若造の可能性だってあるかもわからない「やりたいこと」を親身になって聞いていただいた。
振り返ってみると今まで自分は他人の話を聞かなかったし聞こうともしなかった。「やる」と決めたことは須らく自分の力でやりきってきた。他人のアドバイスも聞かずに。
なんでだろう。
人のアドバイスに左右されるのが嫌だったから?自分の力に自信があったから?
自分のやることに責任を持ちたかったからだ。他人のせいで失敗した、なんてことは死んでも言いたくなかった。
頼れなかった。
頼りかたを知らなかった。
今はわかる。
自分のやりたいこと、成し遂げたいことを話すと聴いてくれたり、アドバイスをくれる多くの人に支えられている。
屈辱と、涙と、汗に塗れながら一歩ずつ。
自分の力じゃ到底戦えない。
だけど戦うほかない。
ならば、立派に戦えるようになるまで前を向き続けるしかない。どんなにプライドがへし折られようとも、志までは折られない。
やってやる。
やってやるぞ。
以下、ディベートの便宜上、具体例とかを二次元に限定するけど、
俺はもちろん現実の不良っぽい方も大好きだということを覚えておいてほしい。
俺は不良っぽい子が好きだ。
ラブプラスの小早川凛子とか、まどマギの佐倉杏子とか、それ町の紺先輩とか。
もう少し幅を広げると、
デレマスの小梅とか、
わたモテのもこっちとか、
が好きだ。
「不良というよりそれ、ボーイッシュな子が好きなんじゃね?」
と思った人、それはいい線をついているんだが少しずれる。
みたいなのにはイマイチハマりきれない。
それはそれでいいもんだけどな。
そんな毎日を送る俺だが、同じような趣味を持つ人に出会ったことがない。
単体では、凛子も杏子も以下略……人気が全く無いわけではないんだが、
「不良っぽい子」がまるっと好きな人を見かけない。
これはいったい何故なんだろうか?
多分、無意識では好きなんだけど、
それを表現する言葉が上手く与えられてないがために意識に上らない、
そういう人も多いんじゃないかと思うわ。
とくくってくれれば、同志も増えるのかな。
あと、そんなに不良っぽいのが好きなんだったら男でもいいんじゃね?
と思った人がいたら、それはかなりいい線をついている。
不良っぽい「女の」子、の女のを省いたのにはそこらへんの事情がある。
ワードだけ放り込むと、
「クィアとしてのオタク」とは本当はこういうものだ、と強く主張したい。
この点は別の機会に譲ろう。
『幸色のワンルーム』についてさわりしか読んだことないし、ほうっておこうと思ってたんだけど、ドラマ化で叩きが再発というのが本当に残酷だと思ったので、書いてみる。
まず自分は小説家志望の人間で、クリエイター側に寄った意見になりがちになってしまうことは予め書いておく。
(なお自分の作風は『幸色のワンルーム』のような「危ない」ものではないため、作品へのバッシングについては正直に言うと他人事だった。ただ、だから「見捨てよう」と思ったとき、それは残酷なことではないかと考えなおした)
まず対象作品の発表またはドラマ化が悪である理由として挙げられそうなものを考えてみる。(この他にもあれば教えてほしい(⑤はほかの方に教えてもらって追記したものです))
①事件被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
②事件被害者以外の類似した事件の被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
③誘拐という犯罪を美化しており、誘拐を触発してしまう可能性がある
④誘拐という犯罪を美化しており、(家出している未成年など)被害者となりうる者の正当な警戒心を阻害する可能性がある
⑤事件に対するセカンドレイプを正当化するものと解釈されたり、助長するため
上記の可能性を検討する前に、まず罰について、確認しておきたい
確認する。
あなたがたは当該作品の発表またはドラマ化が悪であり、それを罰するために下記のような罰が適切と考えている。
上記の罰は作者の人生を破壊するに充分なものであることはきちんと認識しておいてほしい。
小説は正直に言って仕事をやりながらでも書ける。けれど漫画は創作の手間から、兼業でやっていくのはかなり難しい。人生の時間のうち多大な時間を消費し、途中で別のルートを選ぶことも困難になる。
そういった覚悟はもちろん創作者の側で用意しておくべきことだろう。けれど作品の発表中止を求めるのであれば、それがどういった影響を他者の人生に及ぼすのか――特に同様の観点で作者や作品を批判するのであれば――認識しておくべきだろうと思う。
誰かの人生を破壊するから批判はやめろと言いたいのではない。逆だ。あなたには絶対に、「これはだれかの人生を破壊してでも中止させなければならない」と確信してもらいたいし、たぶんそうあるべきだ。でなければ、ほんとうに残酷すぎる。せめて覚悟をもってください。
さきに挙げた①、②はもっともな批判だと思う。そういう可能性は実際にあるし、そうやって被害者の方が傷付くのはまったく看過できない。
意外かもしれないけど、この点について少なくとも自分はまったく擁護の術を持たない。
(一点だけ気になる点があるとすれば、多くの場合、批判者自身はこの「被害者」に該当しないこと。被害者がセカンドレイプやバッシングを受ける可能性を考えると、こうした「代弁」は非常に重要なことであるのは確か。
けれど例えば(正直に言ってかなり考えにくいと思うが)当の「被害者」に該当する人が作品のファンであったり、または発表の中止までは求めない場合、こうした処罰の代行が被害者を苦しめてしまうことにならないか、ということが気にはなる。
ただ、「代弁」をしない場合のデメリットや上のような事態の可能性の多寡を考えると、やはり代弁をやめるべき理由にはおそらくならない)
というわけで、①、②の理由から作品の発表やドラマ化の中止を求めるのは不当だ、という結論は少なくとも自分は導けない。
ただしその場合、お願いしたいのは、絶対に①、②のような可能性を真剣に考えて、真剣に徹底してください、ということです。
当たり前のことですが、①、②は誘拐に限りません。あらゆる犯罪や災害の被害者にありうることです。そしてこの基準に触れている作品は世のなかにかなりあります。
もちろん時代もあります。いまほど創作物に求められる倫理的水準が高くなかった時代の作品には残念ながらこうした危険をはらむものが存在します。
そして注意してほしいのは「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というエスケープは後述する③、④には適用できても①、②には適用できないことです。
作品が悪として描いていようが、美化していなかろうが、フラッシュバックや、被害者が傷付く可能性はなくなったりしません。
お願いですから、①、②の理由で作品を批判するなら、ほかの作品に対しても(もちろんあなたの好きな作品に対しても)徹底してください。その方法はお任せします。作品をクズだと思うのでも、ゴミだと思うのでも、発表中止を求めるのでも。作品によって対応が変わることももちろんあるでしょう。けれどお願いですからあなた自身が絶対に正しいと思えるやり方で、徹底してください。あなたが正しいと思えない基準によって、ひとつの作品が消し去られ、作者の人生が崩れてしまうのが、いち創作者として本当に耐えがたいのです。
③、④の可能性についてはいわゆる「ゲーム脳」などの「創作物が犯罪を誘発する」タイプの言説を抜け切れていないと感じる。
ここでもう一度確認しておきたいのは、あなたがやろうとしているのはだれかの人生を破壊する可能性があるということ。推測によってだれかの人生を破壊して、あとで(あるいは永遠に結論はわからないのかもしれないが)「間違ってました」では済まないということ。
③、④についてはできれば科学的あるいは統計的な根拠があった方がいいと思います。作品の擁護のためではない、だれかの人生を破壊しうることを実行するなら、その根拠となる推測が正確であることを確かめてからやるべきだと思うからです。
不正確な推測を根拠にだれかの人生を破壊するというのは、残酷なことだと思います。
そしてもちろん、③、④についても①、②と同様、真剣に考えて、真剣に徹底してほしい。
「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というのも、ただ自分の好きな作品だけ免罪させるための言い訳として使うのはやめてほしい。それは不当なことです。なにかを罰するなら、お願いですから、その正しさを信じ抜いて、貫徹してください。お願いします。
⑤についてはほかの方(anond:20180324003900)から指摘を受けたので追記した。
ただし正直なところ、単純にディベート的な命題の強弱のみを考えるなら、⑤は①、②の下位互換でしかないように思える。
作品がセカンドレイプをエンカレッジしたり助長するものであるより、作品そのものがセカンドレイプであるほうが、より悪であるということになるだろうし、より強い批判ということになるだろうから。
加えて⑤の場合は①、②よりも批判者(つまりあなた)がより際どい位置に立たされることは意識しておいてほしい。
⑤の場合、作品そのものはあくまでセカンドレイプ的言説に利用・悪用されたに過ぎず、悪いのはあくまでセカンドレイプを行う者たちであり、作者はそこに含まれない可能性があります。
その場合、あなたは作者本人は悪くないにもかかわらず、人生を破壊しうる処刑をくだすことになります。わかりやすく言えば、あなたが逆に「加害者」となり、悪側の立場に立たされる可能性もあるということです。(もちろんこうした可能性は①~④にもあります)
もちろんこれは仮定の話です。だからこそ、何度もお願いしますが、絶対に正しいと確信して作品の発表中止等を求めてください。それはあなたが悪や加害者にならないために必要な努力であるし、同時に不当に消し去られる作品やだれかの人生をなくすための手順です。
そしてもちろん、その正しさを真剣に信じて、真剣に徹底してください。お願いです。
言いたいことはだいたい以上です。長くなってしまいました。すみません。
創作者あるいは創作者志望にとって、創作は往々にして、人生をまるごと賭け金にした、自分の人生そのものの価値を左右する重要なことです。(もちろんそうでない人もいますが)
ただしそうしたある種ヒロイックな比喩でもってして、だれかを傷付けることを正当化することはもちろんできません。
けれど、そうした重みをもっている物事を、そうと知らずに軽い気持ちでゴミ箱に捨て去られるのは、正直にいって、耐えがたいです。
現在ある『幸色のワンルーム』への批判がそうした軽々しいものであるというわけではありません。ただせめて、「そうでない」ことを確認させてほしいと、思いました。
ドラマ化というのは、作者の方にとって本当に嬉しい知らせだったと思います。そうしたときにやはりまたバッシングを受ける。
ならせめて、そのバッシングだけは正しいものであってください。お願いです。本当にお願いです。正しくないバッシングによって、ドラマ化の知らせを受けた矢先に中止になるなんて残酷なことは(ありがちなことなのかもしれませんが)本当に起こってほしくないんです。
まずひとつ、私は個人的な考えとして、あらゆる創作物に対して、その客観的な価値をだれかが決められるとは思っていません。
したがって anond:20180321152456 の方の下記の記述は正当ではないし、余計だったと思っています。
まずこの方は上記の文に続いて作品の欠点を挙げられていますが、作品の欠点を列挙することが作品の「レベル」の判断になるとは自分は考えません。作品の欠点を美点が凌駕することは往々にあることだし、その美点は「自分にはわからない部分にある」のかもしれないと常に感じるからです。
またご本人が「持て囃された理由」として「「家族からの逃避と二人だけの世界への耽溺」というテーマが、思春期の少年少女や一部の人間に心地よいものだったから」を挙げられています。程度の低い理由として挙げられたのかもしれませんが、個人的な意見を申し上げれば、これは充分にすごいことですよ。
蛇足ふたつめ、
私はどこかで『幸色のワンルーム』の作者の方が女性で、若い方だと見たような気がします。(今回その情報を探してみましたが、見つかりませんでした。正確な情報ではないかもしれません)
そうした先入見が本件への自分の姿勢に影響を与えた可能性は否定できません。当然ですが、そういうことはあるべきではありません。もしそうだとしたら、反省点です。
女性が守られるべきであるとかいった考えは、フェミニズム的でないというよりその正反対だと考えるべきでしょう。もちろんそれはわかっているのですが、若い女性が漫画家としてデビューし、その後バッシングによって漫画家をやめることを余儀なくされた場合、その後の困難さが男性の場合と比してより困難であるというような「想像」が、今回の筆致に影響を与えなかった確信が持てず、そしてそれを隠すのは誠実な態度ではないと考えたため、蛇足ながら書いておきます。
・ワ〇ミや王〇をはじめとする宗教型ブラック経営を初めてノウハウ運用をしたのがオウム真理教
・拉致や暗殺や脱走者の捕獲や教祖の護衛として戦闘工作員部隊を持ってて内7割が元陸自隊員か元警察官
・警察が入れたスパイが逆洗脳されて二重スパイにされまくりでヤバかったらしい
・全盛期は南は沖縄から北は北海道まであらゆる大学にダミーサークルと勧誘員がいた
・極左がショボいパイプ爆弾程度の製造がせいぜいだった時代にRDXやANFO爆薬、C4爆薬の製造量産に成功
・当時の大企業の研究開発部門や大学の研究設備よりも先進的な設備を導入していて、好きな研究やせてくれるのでそれ目当てに信者になった若手研究者が結構いたという事実
・「激安」という言葉を日本で初めて使ったのはマハーポーシャのセールの時
・当時のパソコンオタクの大半はマハーポーシャ製のパソコンを持ってたor知ってた(当時からすれば破格に安くて性能が良かったから)
・元総合商社のエリート商社マンや会計のプロの信者たちのノウハウで軍用ヘリコプターやサリンの原材料に至るまで、巧妙に書類を芸術的な鉛筆舐め舐めして税関を通して堂々と日本に輸入したという事実
・密造したAK74の設計図が何故か当時はロシア内務省軍の一部部隊にしか配備されてなかった当時のロシア最新鋭の「M型」
・培ったノウハウをロシアに輸入すればシガチョフ事件に発展(詳細はググってね、どんだけヤバいかわかるから)
・未だにロシアの残党が戦闘力を増したまま存在しててテロ組織として監視されている
・純化手順をあと2日繰り返せばサリンの純度が99.9%くらいまで高まった軍用純正品レベルにできていたという事実、その場合の死者は1000倍に増えていたであろう海外の専門家から指摘されている
・生成手順が設備投資含めて数億は必要であろうはずの毒ガスを理系の専門家集めて半年そこらで製造に成功するという技術力
・LSDと覚せい剤のチャンポンを堂々と一回100万円の修行とか言ってパンフレットで配ってたというヤバさ
・出家信者はガチで宗教学を24時間365日レベルで勉強し、ディベートの達人たちを擁していたため、TV討論番組でハッ〇ーのサイ〇ンスと討論した時は無双状態で圧勝
・当時日本では知られてなかったクリーンルーム手法を使ってAK-74をリバースエンジニアリング、わずか10か月で実射可能の試作品の政策までこぎつけたとかいうありえない投資と開発速度と謎知識
・オウムウォッチャーが潜入したら洗脳されて信者になった例多数
「天下泰平の先進国で、かつてはあったが涵養されたりノウハウ実践で蓄積されるとひっじょーーーーにヤバい知識や技術をノウハウから実践までやって、ブラック企業系など後世の日本に大迷惑なスピンオフをしてた」のが、オウム真理教なのだ
おれのが賢いって言ってんじゃないのよ。書いてる内容に誤りがあるってことを申し上げてるのよ。
似てるようで全然違う。賢いとか馬鹿っていうのは書いた人の属性で、おれが言ってんのはあくまでも書いた内容がよくないってこと。
馬鹿っていうのは、人格攻撃というべきもので、全く建設的ではない。
おれが言ってるのは、内容の不備を指摘して改善を提案しているわけで、これは建設的。
もちろん賢い人のほうが正確な文章を書ける場合が多いとは思うけど、そんなことは個別のエントリーには無関係のことなのよ。
逆に書いた内容から書いた人間の人格を推測できないという原則に従って、おれは書いた人が愚かだとは思わないことにする。だから気持ちよく議論しましょうねっていうのがディベートの授業第一回で教わる内容なのよ。
極論が飛び交うディベートが終わらずに一生降りられない
つまり増田が言いたいのは、思う存分言論で人を殴りたいということなんだけど、それは思考を発展させるために必須の段階。とうことでは。
昔ホリエモンが再犯率が高い理由は犯罪者の身勝手な言い分を傾聴するプロセスなしに反省を強いるからだ、みたいなことを書いてた。人間はまず話を聞いてもらわないと相手の話を聞く体勢に入れない。でも無批判に話を聞いてもらうという経験はあまりに少なすぎて、たぶんほとんどの人にとって反省というのは上から押し付けられる建前に成り下がっていると思う。理論的に尊重される体験の多いはてな村に住むような人にとっては実感が沸かないかもしれないけど、理論的思考は圧倒的な自分中心思考からしか発生しえない。
あいつはブス、と言うことで自分の中に沸いた感情を自覚できる。そしてその行動はなぜ俺はあいつをブス呼ばわりしたくなったのだろうという思索の入り口となる。
逆に、あいつはブス、と表明しないといつまでたっても自省できない。
誰にも読まれないオフラインの日記に書け、という向きもあるが、それでは駄目なんだよ。フロイトやワロンが言ってるように、感情は共有されることではじめて成立する。あいつはブス、そうなんだそう思うんだ、という会話があってはじめてあいつはブスという気持ちが発生して自省への入り口に立つことができる。
は、まず幼稚な自尊感情を表明し共有されることで理論が発生するということが言いたいのでは。
そういう意味で私はいわゆる昔のインターネットのような無法地帯は必要だと思っている。もちろんそこでの言論が現実に影響を及ぼさないように注意深くコントロールする必要はあるが。
先日、どこかの掲示板にプロ野球選手の嫁をブスだと書きこんだOLが名誉毀損で訴えられてニュースになった
これはもうインターネットに気軽に書き込むことが許されなくなるってことだろうなと思った
僕はインターネットを弱音とか愚痴とか、たまには悪態をついたりする場所として依存してきた面があって
辛い時にけっこう救われてきたと思う
こんな使い方が出来たのは掲示板が小さなコミュニティだと思っていたからだが、今はそうではないらしい
また、ネットは道徳に縛られない考えを書き込むことで発想に広がりが出る場所だとも思っていた
ディベート的な議論において道徳ってほんと邪魔なんだけど、現実の日本だとそれは難しい
ネットならそれが出来たけど、もう無理だろうな
インターネットが開かれた空間になり、テレビと同じ空間になり、相互監視になり、モラルの押し付けと言葉狩りが強化された
僕らはすべての発言に責任を持たなければいけなくなったし、道徳に目配せして書き込まなければいけない
多くの人にとっては当然のことなんだろうが、インターネットの無法地帯に救われてきた身としては鬱屈とした日々に戻らなきゃいけなくなって非常につらい
ブクマで皮肉芸やってる人たちもそろそろ気をつけたほうがいいよ
「ブス」程度の発言でも気軽に訴えられるようになったのだから、これからいろんな人が訴えを起こすようになる
今のうちに言いたいことを言っておこう
王様の耳はロバの耳!
王様の耳はロバの耳!
王様の耳はロバの耳!
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1: ブスと言わせろと言っているのではなく、ブスで名誉毀損になる時代になったので
その他の発言についても締め付けが厳しくなり、客観性のない発言や、客観的でも誰かを傷つけると判断されれば
2: 怒っている人もアウトのブコメしている人がいます。ふと気が抜けて、感情的になってしまったり、非論理的な憶測をすることありますよね
普段きわどい発言をしている人もいるようですが、自覚がないようです
罵倒させろという意味ではありません。ディベートの態度ではなく、論理の展開に道徳によるブレーキが必要ないという話です
人前でディベートをするとなると、道徳的に疑われるような仮説を引っ込めなければなければなりません
ディベートだからと言っても現実ではある程度のコードがあるわけです
例えば「戦争は勝てるならするべきだ」「いかなる理由があってもするべきではない」というディベートは
(道徳と倫理は区別されていて、道徳というのは時代と場所に制限され共有されたローカルな価値観のことです)
「ネットで悪口を言うべきではない。傷つく人がいるのだから」というのも道徳です
A 「絶対にバレないLINEグループ等なら自由に言っても良い」
B 「それはバレなければ赤信号を渡ってもいいという理屈ではないか」
A 「その通りだ。事故が起きるか起きないかが問題なのだ。来もしない車を待つことに何の意味がある」
B 「ルールというものは、個別に存在するのではない。共同体の価値観に敬意を持てるかどうかが大事なので、小さな例外も認めるべきではない」
A 「ルールがあって共同体があるのではない。我々個人があって共同体があり、共同体があってルールがあるのだ。個人よりルールを崇拝するのは本末転倒だ。本題に戻ろう」
B 「本題に戻るなら、やはり悪口を言うべきではない。LINEグループの誰かが漏らして、本人に伝えるかもしれない。そうすれば本人は傷つく」
A 「それは私が書いた悪口ではなく、本人に伝えた人が傷つけたことになるのではないか」
B 「いや、悪口を書いた先に起きうることを考えなかったあなたが悪い。ネットではなく日記帳にでも書いていればいい」
A 「しかし、紙に書いたとしてもそれがどこかで漏れれば本人が傷つくことになるだろう。紙に書くのも問題ではないか。
B 「いいや、そもそも悪口を書こうと思う精神がよくない。他人だけではなく自分を貶めることになる」
A 「違う、私達はそもそも貶められ苦しんでいるのだ。どこかでもやもやとした感情を発散しなければ生きていけない人もいるだろう」
B 「発散するのは自由だが、それによって他人を傷つけるのは生贄と変わらない。他の方法を考えるべきだ」
A 「だから、バレなければいいんだって。他の方法を簡単に探せると思うな。悪口が一番効率的なのだ」
B 「いや、バレれば訴訟のおそれがあるのだから、余計に苦しくなる。もっと生産的な方法があるはずだ。スポーツとか」
B 「それはその人が悪い。そのような底意地の悪い人の気持ちまで考えてやる必要があるのか?
A 「確かに。ストレスがなく、お互いを承認しあえる美しい社会であれば、私も彼らも他人を中傷せず、誰も傷つかないかもしれない(きれいな目)」
4: 「悪口でもなんでも自由に言わせろ」と書いているのではなく、過剰にビクビクせずに書き込みが出来る「民度の低い村」だったインターネットが終わったんだなあという、そういう話です。
終わって来ていたのは認識していたけど、決定打が来たなという話ですね
いろいろ書いてやろうと思ったのに、言いたいこと大体書かれてた。
政治経済・情報等、他にも鍛錬すべき科目やスキルがある中でこれらに比べて古文漢文をあえてやる意味ってなんですかね。教養というには専門性が高すぎる知識じゃないですかね。
そりゃ古文漢文できるに越したことないけど、以下の妥協案じゃダメなんでしょうかね。
・選択科目にする
ブコメ欄の指摘をみてると、高校のカリキュラムとして古文漢文へ時間を割く前にディスカッション・ディベートの時間を設けたほうがいいように思う。
http://mubou.seesaa.net/article/455988153.html
理系東大院卒。君は正しい。自信もて。君が現役生なら、俺は君の2倍近い年齢だが、俺の経験からしても、古文漢文は受験科目に不要だ。
古文も漢文も、そりゃ勉強すれば役に立つが、それより現代文の授業、特にディベートや作文が日本は足りてなさすぎる。だから、他国の人間に議論でボロ負け。無駄なコミュニケーションが発生して時間を取られ、生産性はだだ下がり。どこの国も、相当な金かけて、国民がロジカルシンキングできるように公教育やってんだよ。日本だけやらなくて、商談に勝てるわけがないだろう。国語の授業比率増やす余裕がないなら、せめてその中では古文漢文より現代文をやるべきだ。
そもそも、古文漢文が役に立つという方向性で君に反論してくるやつは何も言えてない。だって、役に立つ度合いなら、漢文の代わりに中国語勉強した方が役に立つに決まってる。より役に立つ中国語が受験科目じゃないのだから、「役に立つから」という理由付けは破綻してるよ。