はてなキーワード: ディベートとは
東大院卒。なぜ日本の国語の授業に古文・漢文が入っているか教えてやろう。理由は、簡単にいえばディベートや作文の穴埋めだよ。
欧米の国語の授業じゃ、ディベートや作文の授業がたくさんある。企業での報告書・企画書の書き方とか、日本じゃ入社してから習うけど、向こうだと中高の国語の授業で習う。
日本じゃ、ディベートや作文の授業の割合を低くして、そのかわりに現代文は文学鑑賞中心。そうすると国語の授業が文学鑑賞だけになっちゃうから、古文や漢文をやらせて穴埋めしているのさ。
なんでそんなことしてるかって?国民がディベートや作文がうまくなると、政府批判がうまくなって、政府に歯向かうようになるからさ。
今の受験生にはピンとこないだろうけど、今から40年ぐらい前、1960年代には、そうやって知恵をつけた学生が実際に政府に歯向かおうとしたことがあったんだよ。それで、日本の学生が日本政府に対して起こしたテロ事件が多発したんだよ。
今はスマホで議論できるだろうけど、当時は通信手段が新聞・ラジオのような一方向のものしかなかったから、一人、政府批判がうまいやつがいてそいつが一度、記事を書いたりラジオで話したりすれば、そいつの考えに一斉に皆が同調してしまう。
そういうのを防ぐために、論述とか作文の授業は、もちろん禁止はしないけど必修じゃないようにして、政府批判されないように制度を作ったんだよ。
人工知能エンジニアだが、転職面接で失敗した。その中でも特に失敗したと思う問答がこれ。
自分)もちろん、この技術は完全ではないので、精度に合わせて応用先を決めることが重要です。例えば医療などのクリティカルな応用先では、最終的に人にチェックしてもらわなければならない。なので、もう少しエラーが許容される応用先を考えていくことが重要だと思っています。
面)それ、要するに、医療とは違って、あなたがおっしゃるような応用先ならミスしても人は死なないから、我慢しろと言ってるように聞こえるんだけど、そういう話?
自分)えー、あー、うーん、でも、そういう側面はありますよ。どのような技術も完璧ではないので、技術水準に合わせて応用先を決めるのは普通の考え方だと思います。
正しい返答の仕方として、あとから思いついたのは、
「いえ、そうではありません。人がやってもミスする場合もありますし、人と人工知能で間違う部分が違うので、互いに補完しあって最終的に質の高いアウトプットを出すような応用先があるはずで、そうした応用先を見つけたいということです」
…みたいなことなのだが、どう思うか聞かせてくれ。
こういう、言い方一つみたいな事で、人生が決まってしまうのは本当につらい…前者も後者も、精度高めるように技術開発頑張らないといけないけど、間違っても大丈夫な応用先を考えないといけないね、という点は一緒なのに、相乗効果の話を付け忘れただけでどうしてこんなにマイナスに見えるのか…
結構前に、夢の中で「小学校で昼食時に教師や生徒ぐるみで自分の事をいじめてくる」という一連の事を繰り返す夢があった。
実際にはこんな事は起きてないんだけど、この夢では、自分が食べ物を食べていると、他の生徒や先生がバカにしてくる。
どうバカにしているのかはちょっと覚えてないんだけど、まあこれが卑劣で、下劣だと感じる様な物だった。
それで、今日見た夢では更にそれが長期化しているもので、クラスが変わって人が変わっても、結局いじめてくる奴とは同じクラスで、
他のクラスから来た奴も最初は態度を示していないのにだんだんいじめ側に回ってきてクラス総出で自分をいじめるという奴。
これらは経験が無いんだけど、今までの人間関係から勝手に人が当てられてるから、まあ親友だった奴もいじめ側に回ってるし、
もともと嫌いだったやつもいじめ側に回っている。夢だからちょっとたちが悪い。
それで、多分6年?になったときも同様のいじめが発生するようになった。昼食時の嫌がらせ。で、それについに自分がキレた結果、
言い合いがディベートみたいな形になるんだけど、そこで親友の顔をした奴がいじめられる論拠に「■■」を持ってくる(夢を見ている間はこれを覚えていたんだけど、書いている最中に忘れてしまった)。
そこで■■はおかしいだろ、というと周りの先生(いじめしていた側かはわからない)が、確かにおかしいと論拠にばってんを付ける。
そこからはだんだんいじめ賛成派といじめ反対派で議論が進むことになって、「図書室から本を取ってこい」だ「インターネットで調べようぜ」だ、
とまあなんか前向きな感じになって、ここでブラックアウト。
次の場面では、同窓会。同窓会に参加していた自分は、ここでもいじめの再延長らしきものにあっているのか良くわからないのだが、
1人が何かを持って立っている人に刺しに行くのを見ている自分が居る。この状況に悲しさを覚えている。
まあ、とにかくこの同窓会の場面も何度か繰り返されるんだけど、最後はドッキリ大成功という話が出てくる。
ここからまあ変な話になってくるんだけど、なぜか登場人物達にホンネテレビやってる3人がいて、彼らがドッキリ大成功って言ってた。
その瞬間、自分は今までのいじめの内容がドッキリだった事に安堵し、その場で大泣きするんだけど、そこで目が覚めて大泣きしてんの。
今まで夢とか見ても断片的でこんな目が覚めた時に大泣きしている状態になっているとは思わなくてめっちゃ動揺した。まあそれだけです。
ディベート的に非常に興味のある話なので、ぜひまとめてもらいたい
https://anond.hatelabo.jp/20171029085625
ひどいディベートの授業の体験増田があったので、ディベート経験のある自分が解説してみる。
ディベート経験は5年くらい。大学から始めて、高校生の指導やディベート甲子園の運営、全国大会出場などをしてきた。
何について討論するのかを決めなくてはいけない。
元増田にあった、「ルーズソックスに賛成か?反対か?」ではディベートにしづらい。中高生では基本的に政策ディベートというものを論題にする。
例えば、「日本は生徒のルーズソックスの着用を禁止すべきである」
という、行うことがはっきりしており、肯定と否定に分かれる事ができるテーマが望ましい。
また、現状で肯定側と否定側の意見が戦えるほど現状の価値観が偏っていない論題が望ましい。
もしルーズソックスは校則で禁止されてる場合は、この論題をすべきではない。
今までディベート甲子園で行われた論題はここにある
http://nade.jp/koshien/proposition
ゆるい論題だと、「ドラえもんは未来に帰るべきである」「日本の学校は制服を廃止すべきである」などがある。
これは大前提。1チームは2~4人。というのも、スピーチをする機会というのは試合を通して4回しかないからだ。
自分の考えとは関係なく、機械的に決めたほうがよい。また複数回行い、肯定側・否定側を両方経験することが望ましい。
ディベート甲子園では、試合当日に肯定側か否定側のどちらになるのかが決まり、複数回試合をする。
ディベートをするには、立論というものを最低限準備する必要がある。これは討論の土台となるものである。
肯定側は、論題を肯定する政策の中身と、それを行ったときに発生するメリットを説明する。
この立論がディベートの試合の中で土台となり、試合の一番最初にスピーチする。そこから討論を行っていく。
逆に立論中に述べられなかった論点は後から出してはいけない。出してしまっても審判は、その発言を無効と判定する。
なので言いたいことはできるだけ立論にいれる。中学生なら4分、高校生なら6分にまとまるよう原稿を用意する。
メリットは、「現状分析」「発生過程」「重要性」の3つから構成される。
現状分析では、主にルーズソックスが規制されていない状況で起きている問題について説明する。
できるだけ問題が大きいことを主張する。例えば、ルーズソックスを履いていることで犯罪に巻き込まれやすい、と設定する。
この問題を具体的に説明できるよう、資料を集める。例えば、高校生が犯罪巻き込まれる率、ルーズソックスを履いている高校生への印象調査、声をかけやすいと言った定性的な資料など。
発生過程では、ルーズソックスを規制したときに、この問題が解決されることを立証する。
現状では、ルーズソックス履く→下校時にそのまま遊びに行く→声を声をかけられる→トラブルになる であるが、
プランを実行すると、規制されるとルーズを履いてくると怒られるので履かない→下校時に遊びに行くが、声をかけられる率が減る→トラブル減少
というルートを立証する。
重要性では、このメリットが発生したときに、それがどれだけインパクトがあるのかを示す。
青少年のトラブルは精神に悪い影響を与え、学業を疎かにさせる。それは国全体の産業と競争力に大きく影響してくる。
できるだけ大きいほうが良いが、大きくするとそれだけ立証が甘くなるので注意。
デメリットは、「現状分析」「発生過程」「深刻性」で構成される。
現状分析では、現状で特に問題が起きていないことを述べる。現状サイコーという訳である。
週5日も校則され時間の大部分を占める学校生活でみんなルーズソックスを履いていきて、おしゃれとして、自己表現として楽しんでいる。
発生過程では、立てるデメリットが起こる過程を立証する。デメリットを「多様性の低下」としてみる。
ルーズソックスが規制される→学校に履いてこれなくなる→時間の大部分を占める学校生活で自己表現ができなくなる→画一的な人格が形成される
とか。演繹的に論理の矢印を作ったら、主張を補強する資料を集める。
「ルーズソックスは私を表現するもの」と言っている資料だったり、服装の厳しい学校の卒業生はクリエイティブな職業に就く割合が低いみたいな資料を探す。
深刻性では、デメリットが発生した場合にどれほど深刻なのかを述べる。
画一的な人格形成によって、クリエイティブな思考が苦手で国際競争力が低下するとかかな。あまりよい深刻性が思い付かないが。
ここまで準備して始めて試合ができる。
各側の発言機会は4回。スピーチ担当者以外は話してはいけない。(準備時間を除く)
①肯定側立論 4分
②否定側質疑 2分 (肯定側立論にわからないことを質問する。反論はNG)
③否定側立論 4分
④肯定側質疑 2分
⑥肯定側第一反駁 3分 (否定側立論に反論する + 否定側第一反駁の反論に再反論する)
⑦否定側第二反駁 3分 (肯定側第一反駁に再反論する +議論をまとめる)
⑧肯定側第二反駁 3分 (否定側第二反駁に再反論する + 議論をまとめる)
①発生過程を削る
②重要性(深刻性)を削る
のいづれかになる。
発生過程というのは、A→B→C→Dのようにつながっているものうち、一箇所でも切れば、例えばB→Cを完全に切ると、全く発生しなくなる。
完全に切るのは難しいので、B→Cの半分を削る、という反論の仕方になってくる。
例えば、メリットの現状分析の、ルーズソックス履く→下校時にそのまま遊びに行く→声を声をかけられる→トラブルになる、だと
1. 規制なくても全員履いてるわけじゃないよね
2. 全員が下校途中に遊びに行かないよね
3. ルーズソックス履いてるからといって声かける人の割合がわからないよね
みたいな反論になってくる
重要性への反駁だと、
みたいな反論になる
ここまでやれたとして、ジャッジができる人間がいないと教育としてのディベートに価値はない。
議論をまとめて、メリットとデメリット、どちらが大きいか判定して、勝敗をつける。
ジャッジは、すべてのミクロな議論について、どういう反論があったかと説明し、最終的にどちらが優勢で、なぜその判定をしたのかを話す。
その結果、立論におけるメリット・デメリットが何%削れたのかを定量的に示す。
先程出てきた
を元に、紙に丸を書いて、メリットとデメリットの大きさを書いて判定するやり方が取られている。
ディベートのジャッジは通常ディベート熟練者が行う。つまり有効なディベートは経験者がいないとまともに成立しない。
ディベートをやるときは、1つの論題に対して数ヶ月かけてリサーチ、立論作成、試合を繰り返し、議論を熟成させていく。
この過程で、反論のポイントの探し方、強固な論理的思考力、頭の回転速度、スピーチの聞き取り及びメモの方法を学んでいく。
ディベートで一人前になるには2年くらいかかると思っている。授業で1回やったとか、企業研修で1日とかでは決して身につかない。
中学校、高校の場合は、地域のディベート甲子園事務局に連絡を取ろう。
それか近くにディベートサークルがある大学を探そう。指導に来てもらえるかも。
大学生・社会人の場合は、サークルに入ろう。探せば色々出てくるよ。
とにかく指導者が付いて、じっくりやらないと身につかない。
http://japan-debate-association.org/contest
想像を絶するスピードと論理、資料の殴り合いが見られて、初見ではほとんど理解できないだろう。
だがこういう世界があるということを知っておくのも良いだろう。
ディベートのテクニックは演説や討論会などで活かされるけど、ディスカッションとは異なってパフォーマンスというかスポーツというイメージがある。それだから同じフィールドでたたかうという認識がないとうまくいかない。
日本人は議論ができない 議論が成立しない人の特徴18タイプ―はてな村定点観測所
http://hatebu.me/entry/discussion
読んだ。果たして議論が出来ないのは日本人だけなのか?むしろ人間は議論が出来ないのではないか、なんて思ったけどどうなんだろう。
それは置いといて、そういえば私は小中高の間に何度か、ディベートの授業を受けた事があるんだよなぁ。たぶん小学校で一回、中学で二三回、高校で一回くらいだろう。充分に数をこなしてはいないがやったのはやった。しかしながら同級生の皆がそれで議論が上手くなったという事は全然無い。
ディベート(一つのテーマについて賛否に別れて討論すること)と議論(互いの意見を述べて論じ合う事)は違うから、ディベートやったって議論は上手くならないだろって事?そういうことなの……。
まぁよくわからんけど、とにかくサイバメ氏のエントリ読んで学生時代のディベートの授業の事を思い出したっていう話ね。
で、小中高で受けたディベートの授業の中で討論が討論として成り立った事は一度も無いし、クラスの人間関係にかなりの悪影響を及ぼすという残念な結果だけが残った。私個人には得るものがあったけれども、そういう人は少数だったんじゃないかな?もう二度とこんな事はしたくない、うんざりだ!という人達が多かったんじゃないかと思う。私の見た限りでは。
中でも私的に最悪だと思ったのが、中二の時に社会科の授業で行われたもので、「ルーズソックスに賛成か?反対か?」というテーマでの討論。
討論のやり方は、まず皆で目をつぶって賛成か反対かに挙手をすることでクラスを二分し、論戦するというもの。皆必ず一回は発言する事、相手を罵倒しない事がルール。
どうなったか?
たった一人の賛成派VS反対派30人で討論をし、反対派が圧勝を主張したが教師が賛成派の勝利を宣言、賛成派一人が授業後に散々非難と罵倒を受け、しばらくの間一部のクラスメートから嫌がらせをされる事となった。
なお賛成派って、私。孤独な戦いだったなぁ。授業後はいっそ負ければよかったんじゃね?って思ったし。でもある意味私の一人負け(私の勝ちと認めたのは先生だけで他全員は私の負けだと言ったので)だったお陰で、クラスの人間関係クラッシュ度は低く、最も平穏無事に終わったかもしれない。
そのディベートの賛成派の勝因(教師曰く)は複数の意見を出した事であり、反対派の敗因(教師曰く)は全員が全員自分の意見を言わなかったからだ。
「校則で決まっているから」「校則を破るのは悪い事だから」反対派はそれしか言わなかった。(私としてはそれらが「自分の意見ではない」というのはどうなんだと思うが)
今になってみれば、双方の論がどうこういう以前に、テーマの設定もディベートのやり方もおかしいし、それより何よりディベートの授業を行えるだけの土壌が無かったのがよくないと、私は思う。
まず、「ルーズソックス」という、学校側としては明確に禁止とされており、不良の象徴として風紀指導の対象とされているものをテーマにすることが良くない。
そして、ディベートのやり方がおかしい。賛成派と反対派のバランスが悪い上に、勝敗を決するのが教師一人というのは良くないだろうと思う。5対5くらいで、審判も生徒数名にやらせ、他の生徒には感想を述べさせる、くらいでないと不公平だし教育効果も得られなくないか?(ま、そういうやり方でもやっぱり荒れるんだけどな)
でもって酷い事に、そもそも生徒達は教師や学校を信用していなかったのであろう。これは授業後に散々叩かれた際に言われた事からの推測なのだが。
「どうせ内申点下げられると思って反対派についたのに」
「依怙贔屓されていい気になるんじゃねーよ」
ディベートの授業において、生徒がどちらの立場に立とうとも、その場限りの事としてくれるとは、皆思っていなかった。
そのように生徒達は思っていたから、自分の本当の考えを言わず求められているとしておぼしき正解しか言わなかったのだ。
この例は極端に酷いにしても、ディベートなんて、根底に教師や学校、ひいては他者への信頼感がなければ成り立たないんじゃないかと私は思う。
発言した事により自分の立場が脅かされるという恐怖が少しでもあるなら、いくら訓練しようがダメだし、僅かでも訓練に問題があれば、やはり自由に発言してはいけないんだという思いは強化される。
しかしながら、適切に訓練を重ねる事によって他者への信頼を獲得できるのではないかという気も、するんだよねー。
どうしたもんだろう。
【追記】
http://b.hatena.ne.jp/entry/347188536/comment/masara092:embed]
ディベートって自身の信条の外側で意見を交わすことに意味があるのに自分の意見だけでどちら側になるか決めるって全く意味が無い感 - masara092のコメント / はてなブックマーク
ですよねー……。
ブコメ・トラバで言われている通り、ディベートの練習なら自分とは関係ないテーマでするか、逆の意見で論じるかしないと効果無いと思う。
ちなみに私はルーズソックスなんかわざわざ学校に履いて来る事無いだろ、服装の自由とかいうけどルーズだって一部の集団の中でほぼ強制されているに近いし、と思っていたにも関わらず、賛成派の方に挙手したのだった。
何故かっていうと、これもある種の点稼ぎ。
当時高校入試の小論文で、「ある問題について、対立する意見Aと意見Bのどちらかを選んで論じろ」(どちらを選択したかで加点減点はされない)っていう形式が流行っていて、学校の定期テストで出る小論の問題も入試対策として大体いつもそれだったんだ。
その形式のテストを何度か受けているうちに、自分の元の意見で論じるのがベストな結果(小論として)を出せるとは限らないと知った。自分の考えと論じ易さは関係ない。
自分の脳みその引き出しに入っているもので充分戦えるかどうか、それが大事だと思った。
ルーズソックス問題に関しては、私もやっぱり突き詰めると反対派は「校則違反だからダメ」くらいしか言える事がなく(よくよく考えれば他にもあるんだろうけど)、難しい戦いになるだろうと予想したから、賛成派にまわった、それだけの事だった。
どうもディベートが好きなタイプのオタクです。今日は愚痴です。
作品分析に概念とか哲学を見出すのってそんなに危ないことですか。そりゃそれで他人を殴ろうもんなら問題ですけど、前提を自分の好きなように解釈してなぜ石を投げられねばならないのでしょうか。
ご飯に行った友人たち(他作品のオタクなので解釈で殴り合いはない)に自分の解釈を話したらみんな揃いも揃って頭を心配されるので、あまりにも辛かったです。バーカバーカ!どうせ私は頭がおかしい人間だよ!そうだな普通は誰がかっこいいとかかわいいとか推しがしんどいとか言ってたら楽しいもんな!それで満足できなくて悪かったな!!!!!!
ディベート好きの解釈オタクなめるなよ。いつか必ずお前の推し論を聞かせていただくからな。むしろ共通趣味の作品の解釈の話ならいくらでも殴りにきていいからな。まず作品分析しろ!!!!!!!そして考えを言語化して来い!!!!!!!!!楽しみに待ってるぞ!
まず、デマってなんでしょうか?
私は、あり得る最悪のケースを述べているだけですが。
それは、あなたの「普通に考えればこうなる」という想像と同じではないでしょうか?
私が過度に不安になっているのは、障害者への言及がないにもかかわらず、BIを推進しようとしているという事実に基づいてます。
それで意見を述べるのは、何も間違っていないと思うのですが。
それと、ディベートをするのではなく、対話が必要だと思います。
自分の気に入らない考えや、自分の価値観に遭わない意見は排除!!という姿勢はいかがなものでしょうか。
また、海外の話も出ましたが、私たちが知らないだけで、新たにできた制度によって、生きていくことが苦しくなった人たちもたくさんいると思うんですよ。
ただ報道されないだけで。
もっといえば、興味がないだけで。
特に、日本は世界的に見ても浮き沈みが激しい国なので、前例にないことが起こっても不思議ではないと感じます。
それから、社会的弱者がなんとか生きていけるのは、人情もありますが、基本的には政策によるところが大きいと思います。
そのことを知らない人は多いのではないでしょうか。
だから、社会的弱者は常に恐怖にさらされていると言えるでしょう。
つまり、自分たちの安心できる居場所を掻っ攫ってしまいそうな政策には過敏とも言える反応を示しても、何らおかしくはないと思います。
今回の衆議院選挙について、選ぶに値する党が存在しないことを歯がゆく思っていても、自分が立候補することは年齢規制から無理であるし、まず金もない。所属したい政党もないですし。
議員になることがまず、ごくごく普通の人間には無理である。ということについて考えてみよう。
衆議院は4年に1回解散されて議員の総選挙が行われるものだ、と私たちは小学校の社会で習った。また衆議院は参議院と異なり、総理大臣に解散権があり、総理が解散すると言った時が選挙の時である。総理は衆議院選挙にて第1党になった党から指名された人物(つまりボス)がなる、というのが日本のシステムです。
とまあ、考えてみると私たちは総理が解散を決意するまで選挙があるかどうかなんて知るすべなどないし、
告知期間もめちゃくちゃ短く、「よっしゃ選挙するぞ!!!」と言われたところで、「よっしゃ選挙出てみようぜ!!!」となる体力(金)もない。働いているひとが仕事を休んで選挙活動をするなんてことは無理だし、あと比較的理想に燃えやすい若者も被選挙権を与えられていないが為に何もできない。
政党というのはお金と選挙のやり方ノウハウが詰まったプロフェッショナル集団だ。
そんな彼らと関係を持たないままに選挙戦を戦い抜くことは厳しいし、また選挙に通ったところで何かしら提案をしても国会という場所で仲間がいなければ提案を成立させることも難しい。
そういう風に考えていくと政党という集団で思想統制をとり、集団で公約としたものを数の力で果たしていく、というスタイルは一見効率が良いようにも思える。
こういったらなんですけど私は、日本実は政党政治下手くそで向いてないんじゃないかなって思う。
私たちにはまず議論が苦手な部分がある。ディベートの最中にその議題について否定されると人格まで否定されたような気になって敵と味方の糾弾大会みたいになったりしませんか?友敵を明確に求めたがるきらいがある。私たちですらそういう節があるのだから、国会議員の人々もきっとそういう部分がある。
けれど、社会って、世界ってそんな簡単に、友敵に分割できないじゃないですか。
本当に「解決しなくてはいけないこと」について私たちは、話をするべきだと思うのです。
正直なところ、私は森友学園のことも議員の不倫のことも、どうでも良いのです。
福島のこと、原発のこと、自衛隊について、改憲について。すぐに答えをみつけることが難しいことばかりが山済みになっているけれど、これらは先送りにしたところで、何も解決されない。
私たち日々の暮らしに追われてしまっているけれど、同時に福島には防潮堤が建設されて村の風景を分断し続けていく。平和憲法は心意気としてはもちろん良いものであるけれど、自衛隊を合憲化することに頭ごなしに反対することは、議論を進めるものではない。
妻、あるいは夫として生活を共にする相手で、一致していたほうがいい志向として、
趣味・価値観・金銭感覚、あるいは家族関係とか、よく言われると思うけど、
まず必ず政治の話が家の中で出て来ると思う。
(出てこない人は選挙にも行かないのかな?自分たちの未来あるいは子供がどうなっていてほしいとか考えないのか?)
そんな時、リラックスできる家の中で、ニュースとか見ながらぽろっと口にした言葉で
共感を得られないというどころか、対立してしまうような、或いはどちらかが我慢するような状況は
政治的主義・信条をお互い確認しておくことは、長い人生2人で過ごすということの未来像を確認することだし、
子供が何人ほしいとか言う以前の、大前提として共有しておくべきポジションだ。
もちろんお互い人間が出来てて、例えば妻は保守的で夫が理想主義、とかでも、
それぞれ議論して補い合うような、建設的なディベートを、楽しんでやれるような夫婦なら面白いと思うけど、
一般庶民として、TVを見るかネットを見るなどして、だんだんと右・左に寄っていったりしつつ
日々ニュースに触れる中で生まれる感情を「共有」できることが、夫婦関係にはとても大事なんじゃないかと思う。
極端な話、旦那がネトウヨで、リビングでも嫌韓的発言を悪びれもせず吐き、
それに奥さんは嫌悪感を抱きながらも黙って聞いてる・・・とかって状況は、
端的に不幸だし、既にもう「夫婦」ではないと思うんだよね。
金銭感覚も、まあ支障がない程度でお互い認められる範囲ならいい、
でも、こう毎日刻々と変化があり、色んな変数や色んな意見がメディア上にも存在し、
さらに自分たちの行く末に関わってくるというイデオロギー的な部分については
政治の話はかなりの部分、感情に関わってくるからね、御存知の通り。
あと同じ家族でも、親と子供で考えが違う、みたいなのは、むしろアリだと思うんだよね
親に対して独立心を持つこと、信条というものを子供が相対化出来るってのはいいこと。