はてなキーワード: タブーとは
・村上春樹が憎い(不思議とサリンジャーは叩かない。他では大体セットで叩かれる傾向にあるのだが、増田だと村上春樹のみ)
・少女漫画は都合の良い王子様が描かれていて、女はそれを現実と混同するに違いない(オタク世界の都合良い女性キャラを信仰したことがある人が、逆も当てはまるはずだと信じた?)
・企業万歳だ、労働者は奴隷で悪くないと思ってる(国内全方位逆張り志向。ただし前者と違って釣り度が高い1)
・これこれこういうことがあったから、男は差別されてる(創作。釣り度が高い2)
・エロネタばりばり書いちゃう俺タブーを気にせずイケてるだろ系(たまに面白い奴が混ざっているので、完全に見飽きたと言い切れない)
「統合失調症がやってきた」の松本ハウスが来るというので、行ってみた時のこと。
狭い会場に二百人以上が詰めかけて、それに加えて立ち見のギャラリーもイル。
会場に掲げられた白膜には「精神科医療における松本ハウスの歴史的意義」だって。
司会をしていた精神科医いわく、100年以上にわたる、排除の歴史から統合失調症がやっと地域社会に帰りつつある。我々は、ハウス加賀谷=松本キックが、統合失調症をめぐるタブーを打ち壊す歴史的瞬間に立ち会っている!
精神疾患をお題に名披露目した松本ハウス(とくに当事者であるハウス加賀谷)は、その象徴的存在であるそうだが。。。
ハウス加賀谷は「統合失調症がやってきた」という本を昨年の8月に出版した。私はとくに興味もなかったし、そういう「商売」にのる気もなかったので、買っても読んでもいないが、彼らが言うには初発の症状は中学2年のときだとか。
夏の暑いある日のこと、教室でふと振り返ったとき、友だちが下敷きで顔を仰いでいるのを見てしまった。友だちは自分の臭さを吹き飛ばすために下敷きでパタパタやっている、彼は一瞬でそう理解した。
それ以後、「加賀谷、クッサー」という声が聞こえるようになったという。
以後、事実でもない声が聞こえてくる彼は精神科とのつきあいをはじめる。ようは、通院がはじまったということ。
それでもビートたけしが好きで漫才師になりたかった彼は、17歳のときオーディションを受け、松本キックと出会い、「松本ハウス」としてデビューした。
――――ある時、鞄いっぱいの薬を見つかり、病気を告白。その症状を聞いた相方が、それ、漫才に使えんか? ということで、すでにこの時代に、病気をネタにしていたらしい。
幻覚、幻視。病気の症状を面白おかしくしゃべる加賀谷にキックの方が突っ込みを入れて、笑いを誘う。
それって是か非かどっちだ?
病気の症状で笑いをとることに不快感を表したある統合失調症患者の女性が、その思いを自分のブログに書いたり、松本ハウスのブログにコメントを入れたところ、ファンから袋叩きにあったというエビソードもある。
確かに話としては面白いが、当事者として症状で苦しんでいる人には笑えるものではないだろうし、侮蔑と感じる場合もあるだろう。
「昔のような切れはもうないけれど、今できることを探していこうと思っている」と相方の松本キックはいう。
「薬のせいで感情が平坦化していて、昔のように言葉のキャッチボールはできないけれど、いまは、その鈍さを笑いにしてしまえばいい。僕はそんなふうに思ってます。笑いには計り知れない力がある。病気だってできることはたくさんある。みんな、統合失調症だって、こうして働けるし、社会復帰だってできるんです」
そして、「統合失調症」の当事者として本の出版とともに復活し、その体験をネタに、現在の「地位」を築き上げたのである。ネットを見渡せばわかるが、ソーシャルサイトの囲い込みも検索エンジンのSEOも広報マーケティングには抜かりがない。病気で稼ぐ、精神疾患ネタで稼ぐ。彼らにとって「統合失調症」は一種の鉱脈なのかもしれない。彼らは鉱脈を見つけた者として、その権利を決して手放さず、「精神村」にいつづけるに違いない。
『美味しんぼ』は、雁屋哲の自己表現。監視社会がとうとう漫画の内容にまで干渉して変えようと動き始めた。これでまた、日本が世界からバカにされる材料がひとつ増えた。もはや福島はタブーだね。権力の失政を、「福島安全神話」でごまかし、国民を犠牲にするわけだ。
兵頭正俊
コレ本気でわかってなくて言ってるのかなぁ、RTしてる人もどうかと思うけど。
自己表現は別に構わないの。フィクションの漫画でコレは事実ですって言って書いてるのが問題なの。
そもそも、福島のタブーみたいなのを書いてる本はいくらでもあるでしょ。ノンフィクションとしてね。
皆福島が安全だって信じてるから叩いてるわけじゃないの。まぁ、鼻血が云々とか突拍子もない表現がアレっていうのもあるんだけど。
たぶんよくある話なんでしょうけど、気持ちの整理のためここに書きます。
入社前はプロダクトの開発を行うと聞いていましたが、実際は全案件フルスクラッチ開発。
お客さんはプロダクトがあるという前提条件に立っているため、実態は納期の短い受託開発です。
開発体制は1案件(1000万~2000万ほど)1人のプログラマーで、ドキュメントもテストもほとんどありません。
ひどい案件ではそのシステムが何をしているか分からない、サーバの台数も分からない、CVSも使用されずサーバごとにコードの差分があるものさえ。
みんな自分の案件で手一杯で、隣の人が何をしているのかも知りません。
技術側で仕事量の調整はできず、トップダウンで案件が個人あてに振ってきます。
社内の雰囲気は刑務所のようで、退職した社員の言葉を借りるなら北朝鮮みたいな会社だそうです。
エンジニアは社内で育てればいいという社長の方針で未経験の子を採用しますが、2年以内に4人中4人が退職、そのうち2人は精神科行きです。
経験1,2年のプログラマに要件定義から開発までプロジェクトのすべてを任せてつぶしてしまうパターンです。
エンジニアは入社しても平均すると2年程度で辞めていきます、退職の発表は当日です。
なぜか事前に社員に知らせることがタブーのようになっています。
そんなわけで社内には大量の技術的負債まみれのプロジェクトが蔓延して、保守運用が開発と技術研究の時間を食いつぶしています。
ツケはエンジニア個人に集中して退職、技術的な蓄積が溜まらない、トラブルが減らない、人が辞めるの悪循環です。
上長にこのままでは売り上げ3億程度から伸ばせない、複数人でプロジェクトを行うようにして個人の過負荷を減らし人を定着させるべきだと相談しましたが、
自分は今ある案件を裁くので手いっぱいで何の権限もないと言われました。
その上長も一時期精神科にかかるほど心身を壊して、現在も社で一番多くの業務をこなしているので何も言えませんでした。
社長にも同じ内容を相談しましたが、組織の問題としては受け取ってもらえず個人の問題として切り捨てら取り合ってもらえませんでした。
数年前からこんな光景が続いて、まったく前に進んでいないんです。
どうやったら前に進めるんだろう。
なんかネットが切断されたり書き込みが制限されたり、挙句は書き込みボタンが白くなって押せなくなったりとわけがわからず、追加で書きこめねーからこっちに書いとくか
一応論拠
初対面なのに馴れ馴れしく話しかけてくるのは、向こうは自分の事をよく知っている上、また距離が近いようにも思っているから
体育館を出るとき、わざわざ誰も行かないような梯子登った先にある窓から見下ろしていたのは、高所から見下ろし、その事を気付かれるような位置におり、また気付かれても無反応で見つめ続けていたのは、心理的には逆に見下されているように感じているか、あるいは本来ならば見下されるような立場にあったから
家に訪ねてきて母親と深刻そうな話をしており、その話しぶりに怨念が感じられたのは、事情を既に知っている母親と、父親の事について話していたから
なんとなくタブーのような気がして両親にはその女の事を聞けていないのは、内心ではもうなんとなく気付いているからで、これまで話に一切登場しなかった父親にさえ女の事を聞けないのがその証拠
首輪だけ残して犬がいなくなるったのは、恐らくは女は母親に冷たくあしらわれ、父親にも同様に対応されたか接触できない事情があり、しかし何らかの形で一家に損害を与えようと考えた結果だから。あくまでも外からしかアクセスできない立ち位置にいるが、こういう事もできるんだぞというアピールでもある
(ただ外飼いの飼い犬が赤の他人に首輪を外されて連れ去られるかという疑問は残るので、息子に馴れ馴れしく接触してきたように、犬にも前々から餌をやって手懐けていた可能性もある)
水死体で発見されたのは、母親かもしかしたら父親の対応が引き金となって自殺したから
夢に出てくる女の顔はのっぺらぼうで、どんな顔かも忘れてしまったのは、もう既に新聞に出ていた顔写真がどことなく自分と似ている事に気付いているからだが、不幸な真実に気付いても不幸になるだけなので、あっさりと女の顔も忘れてしまうし、女の顔を否定するようなそんな夢も見る。しかし罪悪感と後悔があるので同じ夢を繰り返し見る
今日ニュース見てて、いろいろ面倒な話は置いておいて日本に皇室があって良かったなあ、 的なことを思った。理由もなくそんなこと思ったりするのは子供の頃の自分ならムキー! てなった感じの話なんだけど、とにかく素直にそう思ったんだから仕方ない(笑) 自己分析もやればできるけどしないでおこう。 倉本圭造 https://twitter.com/keizokuramoto/status/459326054490853376
倉本圭造の言論には
たとえばこんなふうに
「今日ニュース見てて、いろいろ面倒な話は置いておいて日本に倉本圭造殺せと主張する人たちがいて良かったなあ、的なことを思った。理由もなくそんなこと思ったりするのは子供の頃の自分ならムキー!てなった感じの話なんだけど、とにかく素直にそう思ったんだから仕方ない(笑)自己分析もやればできるけどしないでおこう。」
防衛線張りまくるあたりも小物感を醸し出している
倉本圭造がツイートで書くのをためらった「良かったな」と思ったこととは
もちろん皇室ではない
それによって形成された戦後民主主義だ それを「皇室」と呼んで
戦後民主主義に対して、子どもの頃の倉本圭造はムキーと反発していて
素直にあって良かった 日本国憲法あって良かった
素直に思えているけれど それについては
やればできるはずの自己分析を 倉本圭造は、したくない(嘲笑)
倉本圭造のメンタリティは 大日本愛国ナントカ的な昭和陸軍的なものから
一言で言うなら「倉本圭造の団塊の世代化」「倉本圭造の永六輔化」だ(爆笑)
これだけは言える
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140421-00000029-fsi-bus_all
(「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」に賛同するのは常に男性の方が多いってのは敢えて書かない辺りがいかにも産経だがまあそれは置いといて)
Yahooのコメント欄を気紛れで読んでみたらこんなのを見つけた。
子育てと家事だけに集中できて、最高に幸せな時間だったのは事実。
しかし子供の手が離れたので学費稼ぎのためにイヤイヤながらパートに出始めましたよ。
そりゃあ、最初の頃は辛かったけど、だんだんと脳が活性化してきたのが自分でもわかるんですね。
専業主婦もさすがに10年続けるとたるんできて、ちょいとぼんやりしてきてですね、実のところ世捨て人のような、もういつ死んでもいいわ、私なんて用のない人間と思い始めていたのです。
今はそんなこと考えもしないですね。
子育ての期間だけ専業主婦で、いずれは正社員としての社会復帰もできるのが理想なんだけど、今の社会はどちらかしか選べないような風潮なのが何とも残念です。
「もういつ死んでもいいわ、私なんて用のない人間」と考えている状態が「最高に幸せ」な訳がなく、むしろ病的な状態ですらあるのに
その状態から脱した今でさえも「最高に幸せな時間だったのは事実」と言ってしまうその心理。
その後の書き方からして、この人は「その時間は実際は幸せではなく、むしろ病んでいた」という事を自覚出来ているんだろうと思う。
そう言わなければならない抑圧でも感じているのか(だとしたらそれは誰に対して?子供?夫?それとも漠然とした「世間」?)
或いは「専業主婦とは最高に幸せなものだ」と言う宗教じみた洗脳にはまっている状態が未だ解けていないのか。
この人が特異なのではなく、こういう人は珍しくない。
この人のような(元)専業主婦だけではなく、専業主婦ではない女や男でも同じような矛盾した認識を持つ人は多い。
身近な専業主婦(例えば母親だったり妻だったり友人だったり)がいかにも不幸そうだったり病んでいるのを目の当たりにした経験があるのに
「専業主婦」と聞くと漠然と「幸せなはず」と考える人達。はてなでもよく見かける。
本屋さんに嫌韓本が沢山並んでるのを見て、奇妙なことに気づく。
それは次のことである。
・Dual Identity 通名制度
これらについてまともに批判している本がほとんどないのだ。
必ず在日の存在とその役割についても説明しなくてはいけないのにさ。
著者の皆さんが、わざとらしく 在日韓国人 だけを
避けて避けて1ミリも批判しないように
仕事の事情で、キラキラしてるめちゃくちゃかわいい女子大生と数回出かける(みんな違う子です)ことがありました。
私はシケてるアラサー(女)です。
スマホについてびっくりなことが多かったので、女子大生と付き合いたい殿方は参考にしてください。
なんでもないバス停とか、空き時間があればツーショットの写真を携帯で撮り、ツイッター、FB、ブログにアップ!え、許可もらってません~~涙 無修正の私のシワがきついよ~~涙 あたり前すぎて、変だとかは思わないそうです。彼氏とでもそうみたいです。かっこいい自分の角度の研究と、右手でも左手でも上手にインカムを使いこなせるようになるとスマートでモテるかもしれません。
ブーって振動が常にバッグから聞こえます。携帯充電器は欠かせません。私が学生の時MSNチャットが流行りましたが、あれが四六時中となるとウッとなりますね。既読スルーは基本的にタブーなので、都合の悪そうなメッセージは読まないで後で返信するそうです。既読が付かないときは要注意と思った方がいいですね
■何かあった時は、ツイッターにほのめかす
彼氏彼女で相合フォローして、不満があったりするときはほのめかす→解決が円満の秘訣だとのことです 喧嘩はあまりしないようです
毒吐き用とか、大学の友達用とか、地元の友達用とか、彼氏用とかいろいろあるらしいです。ニーズに合わせて使い分けるようです。基本的には「皆に嫌われず、でもちょっとイケてる自分を演出」しているように見えました。
ツイッター・ラインのほうがいいみたいです。mixiは論外とのこと。
ラインの電話って気が付きにくいので苦手なのですが、基本的に親に携帯代を払ってもらってる彼女たちは無駄遣いはできない模様。
まあごく一部で、一般論として語るにはソースが少なすぎるとは思いますが。みんな神経細やかで、基本的にいい子でした。常に周りからどう見られているか客観視しているような印象がありました。大人だな~と思うけど、そんなに周りの目を気にして疲れないのかしら、とおばさんは思います。
率直に言えば、結構面白かった。ひき込まれて一気に読んでしまった。
私はドイツについてほとんど無知で、現代ドイツでは「ヒトラー」「ナチス」がタブー視されている、くらいしか知らない。なので、本書のユーモアについても半分も解せていないかもしれないが、それでも結構面白かった。
この本(日本語訳版)は、オビやら前書きや後書きで「ヒトラーを称賛するものではない」と強調されている。現代ドイツでは、「過去の悲劇を繰り返さないために」という文脈でしか、ヒトラーを語ることはできないようだ。だが本文では、徹底してヒトラーの一人称視点で物語が展開していくので、そのような言い訳がましい言文が殊更強調されるというものでもなく、エンターテインメントとしてすっきりあっさり読めてしまう。
本書をどのように捉えるかは、ことに日本では様々な意見があると思う。コメディとして読むもよし、教訓を受けるもよし、批判するもよし。
私はとりあえず態度を保留することにした。ただ、現代に現れたヒトラーがドイツ社会に賛否ありながらも受け容れられていく様子と、本書が賛否両論ありつつドイツでベストセラーとなっていく過程がある種の相似形となっているように感じた。これは、敗戦後にタブーとなったヒトラーを、目を背け続けるのではなく、新しく捉えなおすことのできる時代が、ようやく訪れた、いわば戦後ドイツ社会の一つの転機とも呼べるのではないだろうか。
そして翻ってこの日本はどうだろうか、と否応なしに考えさせられたりもする。
ただ、上下巻8時間くらいで読み切ってしまったので、3400円は少々高いよなぁとも思う。ドイツ語版も英語版も1冊なのにさ。
私は物心付いたときから家には母親しかおらず、兄弟もいませんでした。一人っ子です。
家は木造で、ふたつの家が繋がった長屋のような家で、トイレはくみ取り式。いわゆるボットン便所。
いつの時代かとおもわれるかしれませんが、それほど古い話ではなく、水洗トイレが当たり前の時代でした。
家庭における経済的困窮は、母子家庭であれば母子手当。父子家庭であれば父子手当があり、
最低限の生活が送れるようになっています。私の家庭も受給していました。
しかし私がおもう大きな問題として、今回知ってもらいたいことは、
『片親などの家庭環境は、人間が産まれながらにして置かれる、小さな社会を奪うことになる』
ということです。
一般的にいう社会とは、お金を稼ぐための会社であったり、勉強をするための学校であるとおもわれます。
しかし私がおもう社会というもののひとつに、家庭が含まれているとおもいます。
本来であれば両親が二人いて、もしかしたら祖父母もいるかもしれません。兄弟だっているかもしれません。
その家庭・家族の中で周囲の人との付き合いかたを学び、豊か人間性を形成していく場所。
二人きりの家庭で過ごした私の幼少時代は、母親が本当に恐ろしく、守ってくれる人や、擁護してくれる人はいませんでした。
たまに祖父の家に連れてもらったとき、祖父に告げ口なんかしようものなら、家に帰ったあとお仕置きが待っていました。
ある種タブー的なことかもしれませんが、片親で育った人はどこかおかしいとおもわれてる節があるとおもいませんか?
私は直接聞いたことはありませんが、陰口は言われてるかもしれません。
敗れても、敗れても、敗れても、絶対に首を下げなかった。
緑のメンコ。不屈の塊。
その馬の名は…キングヘイロー。
その美しき黒い流線形。
嫉妬すら追いつかない。憧れすら届かない。
その馬の名は…アグネスタキオン。
93年、天皇賞(春)。
極限まで削ぎ落した躰に鬼が宿る。
その馬の名は…ライスシャワー。
96年、オークス。
5頭がもつれた世紀の大激戦の末に生まれた、女王・ダイナカール。
その娘が、再びレースを支配する。
オークス、親子制覇。
その馬の名は…エアグルーヴ。
93年、日本ダービー。
熱狂の2分25秒。
85年、安田記念。
それは革命だった。
マイル戦のために進化を遂げたその脚が、名馬の条件を塗り替えた。
その馬の名は…ニホンピロウイナー。
99年、宝塚記念。
標的はただ一頭、同期のダービー馬だった。
今行くか。
いや、まだか。
その馬の名は…グラスワンダー。
94年、スプリンターズステークス。
最後に勝つ者が勝者だ。
その馬の名は…サクラバクシンオー。
83年、菊花賞。
その馬はタブーを犯した。
その馬の名は…ミスターシービー。
88年、天皇賞(秋)。
「芦毛の馬は走らない」。
この2頭が現れるまで、人はそう言っていた。
宿敵が強さをくれる。
風か光か、その馬の名は…タマモクロス。
88年、マイルチャンピオンシップ
走ることに安心なんて求めるな。
見るものすべての心をかき乱す、その末脚を人は愛した。
その馬の名は…サッカーボーイ。
89年、ジャパンカップ。
躍り出ろ。
お前を知らない者たちの隙を突いて躍り出ろ。
ワールドレコード2分22秒2という事件。
その馬の名は…ホーリックス。
77年、有馬記念
戯れにもみえた。死闘にもみえた。
その「勝者」の名は…テンポイント。
科学は「あるべき」論を欲しない。それが求めるのはただ「である」の集大成であって、科学が科学者に「あるべき」姿を望んだことなぞ金輪際ない。「あるべき」姿を求める行為は常に人と社会の関わりの間でのみ起こりうる現象であり、すなわちそれを求めるのは科学でなくて社会なのであるからして、まるで科学そのものの原理として、「あるべき」姿のごとき、ともすれば宗教のタブー・律法のようなものが存在するかのような議論は、極めて非科学的と断ずる他ない。
ノバルティス社の臨床試験データ偽装は何が問題だったのか。言うまでもなく、効果の不確かな薬品をそうでないと偽って売り出そうとした商業的な詐欺の片棒をかついだことであり、すなわち社会的行為としての罪であって、決して科学として「あるべき」姿を犯したからでも、タブーを破って神の怒りを買ったからでもない。科学はいついかなるときもその「あるべき」姿を自ら求めることはなく、従って「あるべき」ように見える科学のあり方に反したことそのものが罪になることなどあり得ない。
論文の剽窃もまた、何故か当たり前の様に科学そのもののルールに反した行為のように語られているが、実際のところそれの何が問題であるのかと言うと、単に労働市場の競争原理にもとる行為であるからに他ならない。誰が誰を剽窃し功績を偽ろうと、それは科学の「である」ことの積み重ねそのものには何の直接的な影響もないし、それを利用するものにとって、正しい知識が誰から得られたものであるのかを気にする意味はない。ただ、金銭や名誉という社会的なインセンティブが人間としての科学者に間接的な影響をもたらすのみである。
不思議な現象は、科学哲学の立場からこれらの「あるべき」論を押しつける風潮のあることである。しかし、科学哲学は科学がどう「である」かを論じるものであって、科学がどうで「あるべき」かを論じるものではない。哲学に出来るのは、それが「科学と呼べるのかどうか」を「哲学の外」(主に科学の現場)から持って来た観察を元にすりあわせることだけであって、「哲学の中」で決まった「あるべき」論を元に「これは科学」「これは科学でない」と勝手に現場の事象を振り分ける様になってしまっては、宗教原理をもとにありとあらゆる森羅万象を解釈する妄信と何ら変わらなくなってしまう。
科学論文の不正、捏造が批判されるべきでないなどとは言わない。言うはずがない。しかし、このように本当のところ何が問題であるのかは社会的行為として誰が誰に罪を負うのかを個別の事例として見なければはっきりとは言いがたいものであって、それが「科学」であるが故に「いかなる瑕疵も許されない」、「たった一つの不正が信頼を揺るがす」などとヒステリックに騒ぐのは、ナイーブと言うか原理主義的と言うか、非常に危うい日本人の知的状況を浮き彫りにするだけのものに見える。科学をもって「信頼を損ねる」などと、信じるか信じないかの問題にしようとしてしまう勢力を前にして、「科学も所詮現代の宗教」とシニカルに眺めていれば良い状況とは、自分にはとても思えない。